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万葉集その三百九十九(聖林寺から多武峰へ)

( 桜井から聖林寺への道の途中で )
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( 聖林寺山門 )
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( 国宝 十一面観音立像 奈良県カレンダーより)
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( 聖林寺下から多武峰を臨む)
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( 多武峰の紅葉 )
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( 多武峰 明日香石舞台への道  画面をクリックすると拡大できます)
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( 明日香への山道 かって藤原鎌足が通った?道)
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( 冬野川 )
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近鉄桜井駅から談山神社へ向かって歩くこと約2,7㎞。
賑やかな町を通り抜け、緩やかな坂道を上ってゆくと、やがて山里に囲まれた
小さなお寺、真言宗聖林寺が静かな佇まいを見せてくれます。

天平仏の傑作「十一面観音立像」(国宝) がおわします御寺で、白洲正子に
「この世にこんな美しいものがあるのかと 私はただ茫然とみとれていた」と言わしめ
(十一面観音巡礼:新潮社) 、和辻哲郎も
「そこには神々しい威厳と人間のものならぬ美しさを感ずる」 (古寺巡礼:岩波文庫)と
絶賛され、ミロのヴィ-ナスにも比肩される御仏です。

もと大神神社 (おおみわじんじゃ:桜井市三輪) に付属する大御輪寺(だいごりんじ)の
本尊であったものが明治の廃仏毀釈の時、フエノロサ、岡倉天心が、先代の住職と
相談の上、聖林寺に移されたそうですが、このような立派な仏像が危うく失われる
恐れがあったとは何とも信じがたいことです。

「 芋植ゑし 十坪ばかりや 聖林寺 」 荏原京子

高台から見下ろす眺望も素晴らしい。
大和平野が緑の絨毯のように広がり、はるかかなたに生駒山が臨まれます。

美しい御仏と景色を思う存分堪能している折から、観光バスで修学旅行の高校生が
大挙して押し寄せてきました。
静寂そのものだった境内はたちまち賑やかなな話し声。
早々に退散し、バスで多武峰へ向かいます。
道沿いの川に沿ってゆっくりと坂道を上ること約20分。

「 多武峰は まず朱塔より 霧の晴 」 上田裕計

多武峰は御破裂山(ごはれつざん618m) の中ほど南斜面一帯の地を言い、
山腹に藤原鎌足を祀る談山神社があり、紅葉の名所としても知られています。
御破裂山という奇妙な名前は天災地変がありそうな時、山が轟音を響き渡らせて
激しく揺れ動き、神社に祀られている鎌足の木像が破裂したという言い伝えに
よるものだそうです。

多武峰が初めて文献に出るのは「日本書紀」の斉明天皇2年(656)で、
「田身嶺(多武峰)の頂上に、周りを取り巻く垣を築き、二本の槻(つき)の木のほとりに
観(たかどの=高殿)を立てて、名づけて両槻宮(ふたつきのみや)、また天つ宮とも言った」とあります。
槻(つき)は神木とされ、山上に建てられた楼閣形式の離宮「観」(たかどの)は
道教の寺院ですが、どのような目的で建てられたか定かではありません。
「取り巻く垣」という記述から「山城」であったとも。

「 ふさ手折り 多武(たむ)の山霧 繁みかも
    細川の瀬に 波の騒(さわ)ける 」 
            巻9-1704 柿本人麻呂歌集


( 多武の山の霧が深くなったようだ。
 ここ細川の瀬に波が激しく立ち騒いでいるよ )

弓削皇子(天武天皇の子)宅の宴席で詠まれたものと推定され、
細川は現在の冬野川、山裾で飛鳥川と合流しています。

「ふさ手折り」は、幾重にも折り重なった山が湾曲して枝が撓んだように
見える様をいいますが、ここでは「多武の山」の枕詞です。

急な傾斜を一気に流れてくる細川の幅は狭く、流れも速い。
あたりを響かせる轟音。
聴覚から立ちこめる山霧を目に浮かべ、多武峰の秋の深まりを感じた一首です。

「 ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手を
     高屋(たかや)の上に たなびくまでに 」 
                 巻9-1706 舎人皇子(弓削皇子)


( 夜の霧が一面に立ちこめている。
 衣の袖をたくし上げるというではないが、屋敷の高殿の上まですっぽりと
 覆い尽くしてたなびくほどに )

前歌と同様宴席での歌で作者の邸宅は多武峰の細川べりにあったようです。
当時、人の嘆きは霧となって現れると信じられていました。
伊藤博氏は
『 夜はとりわけ共寝に焦がれる時。
衣は共寝を連想させる工夫に違いない。
その嘆きの霧が高殿全体を包みこむほどに立ちこめている。』(万葉集釋注)とされ、

霧が立ちこめる秋の深まりと女性と共寝できない嘆きを結びつけた
余興の歌のようです。

  「 山霧は 民の嘆きか 多武峰 」 筆者

多武峰の裏側から飛鳥、石舞台に通じる山道があります。
約6㎞位でしょうか、かっては藤原鎌足が南淵請安のもとに通った道です。
冬野川が流れ、ところどころに咲いている野草が美しい。
ゆっくり歩くこと1時間半、石舞台に到着すると、芒と盛りを過ぎた萩が
迎えてくれました。

   「穴惑ひ 日のぬくもりの 石舞台 」   三代川 次郎 

「穴惑い」:秋の季語 蛇は秋の彼岸に穴に入り、長い冬眠を始めるといわれるが
          彼岸を過ぎても穴に入らない蛇を穴まどいという
ご参考 :
 
司馬遼太郎著 「街道をゆく:奈良近江散歩 朝日文庫より(要約)」


『 ― 多武峰は観か神社か、寺か。 
というあいまいさは千数百年つづく。
多武峰の祭神が、「談峰権現(だんぶごんげん)」という名になるのは、
ようやく平安期になってからで、926年である。
権現とは「仏が権(かり:仮)」に日本の神として現れるという意味で、
十世紀の日本に成立した神仏習合のいわば結晶というべき思想だった。

このため多武峰は天台宗(叡山)の末として、仏僧によって護持された。
多武峰の僧のことをとくに「社僧」とよぶことが多い。
ただしいまは存在しない。
明治の太政官政権の勇み足の最大のものは廃仏毀釈であった。
慶応4年(1868) 旧暦3月17日、全国の社僧に対し、復飾(還俗にもどること)を
命じた。
多武峰の社僧も明治2年還俗させられ、「神仏判然令」によって仏教色を除かれ
談山神社(だんさんじんじゃ)という殺風景な名になった。

俗人になった僧たちは、半ば官命によって妻帯させられ、苗字を称し、
その寺院を屋敷にして住んだ。
そのうち代表的な「家」の一つだった六条氏などは三等郵便局を営んだ。
( その六条氏の孫、篤氏が画家でありながら三等郵便局長を守らなければ
 ならなかった。)

太政官政権がやったあざやかのことの1つは、あっというまに全国組織の
郵便(逓信)制度をつくったことである。
旧幕時代の庄屋や在郷の名家の当主に准官吏の礼遇をあたえ、屋敷にいたまま
業務をさせるというただそれだけのこと、一夜にして全国の通信網ができた。』

                                      以上
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by uqrx74fd | 2012-11-24 11:12 | 万葉の旅

万葉集その三百九十八(芒:ススキ)

( 箱根三国峠から )
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( 仙石原 ススキ草原)
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( 飛鳥石舞台付近で)
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( 奈良二月堂への裏道から )
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( 飛鳥高松塚への道 )
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( 皇居東御苑で)
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( 同上 )
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( ススキに寄生するナンバンギセル 春日大社神苑万葉植物園で)
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ススキは尾花、カヤともよばれ、全国各地至るところの山野に自生する
イネ科の植物です。
「薄」と書くことが多いようですが、この字は草が群生することを意味し
特定の植物を指すものではないので「芒」書くのが正しいとされています。
また、「尾花」は穂が獣の尾に似ている、「カヤ」は屋根などに葺くことから
その名があるそうです。

ススキの茎葉は屋根葺きの材料にされたほか、燃料、壁代、炭俵、草履、縄
箒、スダレ、箸、串、牛馬の飼料など多岐にわたり利用されましたが、
時の流れと共に用途が少なくなり、今では生花や飼料くらいでしょうか。

色彩に乏しく地味なススキの花穂。
しかしながら、山野に群生して風に揺れ動く風情は古くから好まれ、
万葉集ではススキ16首、尾花19首、かや11首も登場しているのです。

「 人皆は 萩を秋と言ふ よし我れは
    尾花が末(すえ)を 秋とは言はむ 」 
                      巻10-2100 作者未詳


( 世の人々は 萩の花こそ秋を代表するものだという。
  なになに、我々は尾花の穂先こそ秋の風情だと言おうではないか )

秋の草花は萩が一番人気。
それでは、こちらはススキの花見と洒落ようではないか。
月光のもと、秋風に揺れるススキを愛でながら杯を傾けるのも風流だ。

「 わが背子は 仮蘆(かりいほ)作らす 草(かや)なくは
    小松が下の 草(かや)を刈らさね 」 
                  巻1-11 中皇命(なかつすめらみこと)


( わが君が仮蘆をお作りになります。
  もし佳い草(かや)がないのなら、小松の下の草をお刈りなさい )

斉明天皇 紀伊温泉行幸の折の歌
草(かや)はススキをさし、
「 帝がお休みになる小屋は仮とはいえども聖なる小松の下に生えているものを用いよ」と
周りの人に教えたようです。
作者は巫女のような役割を果たしていたのでしょう。

「 秋の野の 尾花が末(うれ)の 生ひ靡き
     心は妹に 寄りにけるかも 」 
                巻10-2242 柿本人麻呂歌集


( 秋の野の尾花の穂先が伸びて風に靡くように 私の心はすっかりあの子に
靡き寄ってしまったよ。)

穂が風に吹かれて傾いているさまと、自らの恋心を重ねた一首。
「心は妹に寄りにけるかも」は人麻呂の常套句で、川に靡く美しい藻(玉藻)にも
使われています。

「 婦負(めひ)の野の すすき押しなべ 降る雪に
    宿借る今日(けふ)し 悲しく思ほゆ 」 
                     巻17-4016 高市黒人


( 婦負の野の芒を押し靡けて降り積もる雪。
この雪の中で一夜の宿を借りる今日は ひとしお悲しく思われる )

婦負(めひ)の野は富山市婦負郡(ねいぐん)一帯の野。
雪の重みに耐えかねてススキが押しつぶされそうになっている。
それは辛い旅をしている自らの気持ちのよう。
深々と降る雪の中、荒野で宿を求め歩く情景は悲壮感さえ漂います。

なお、注記に、「この歌は 三国 真人 五百国(みくに まひと いほくに) という
人物が作者から聞いた」とあり、書き止めておいたものを編者(家持か?) に
手渡したものと推定されます。

「 秋の野 おしなべたる をかしさは 芒にこそあれ。
  穂先 蘇枋(すほう)に いと濃きが、朝霧に濡れて うち靡きたるは、
  さばかりのものやはある。」    枕草子 54段


( 秋の野 ひっくるめての面白さは なんといってもススキにあります。
 穂先が蘇枋色で大そう濃いのが 朝霧に濡れて美しく靡いている趣は
 それ以上のものが他にありましょうか。)

ススキの美を発見した最初の文とされていますが、後に続く文は
「 冬、ススキの頭が白くなり、だらしがなくなっているのも知らないで、
昔の盛りを思い出し顔に靡いて、ゆれて立っているのは人間にひどく似ている」と
自らの老いを嘆くような語り口になっているのも面白い。
なお、蘇芳色はくすんだ赤色。

「 をりとりて はらりとおもき すすきかな 」  飯田蛇笏

以下は長谷川櫂氏の解説です。

『 折ると はらりと手にもたれかかってくるあの感じは、芒以外にない。
しかも穂が出たばかりのしっとり濡れているかのような芒である。
初め「折りとりて - - 芒かな 」だったのを後にすべて平仮名に改めて
句はみずみずしい芒そのものに生まれ変わった。
萩は芭蕉の萩、芒は蛇笏の芒に極まる。』
                      (  花の歳時記 ちくま新書より )

初秋、芒の花穂が出る頃、稀に高さ約15㎝位、煙管状の薄紫色の植物が寄生している
ことがあります。
ナンバンギセル(南蛮煙管)です。
群生する芒の根元でひっそりと咲くので、うっかりすると見落としそうですが
万葉人は実によく観察しており、うつむき加減の花を「思い草」と名付けました。

「 道の辺(へ)の 尾花が下の 思ひ草
    今さらさらに 何をか思はむ 」 
                  巻10-2270 作者未詳(既出)


( 道のほとりに茂る尾花の下で物思いにふけっているように咲く思ひ草。
  その草のように俺様はもう今さら思い迷ったりなどするものか )

ススキの葉の風にそよぐ音、サラサラが「今さらさらに」の語を引き出すように
詠われ、リズム感がある一首。
「別れた女をきっぱり諦める」「何が何でもあの女と一緒になる」どちらにも
解釈できそうな歌です。

「 名月や すたすたありく 芋畑 」 正岡子規
                                ありく: 歩く
仲秋の名月。
縁先に卓を置き、秋草を挿し、それに団子、芋、豆など秋の実りを供える。
この秋草の代表がススキ。
穂が満月にかかる風情はまさに一幅の絵。

月見は本来、農作物の収穫の儀式であり、ススキは単なる風流の景ではなく
「 収穫物を災いから守り、翌年の豊作を祈願する魔除けの役割を果たしていた」とされ、
( 湯浅浩史 植物ごよみ 朝日選書) 万葉人が神聖なものとみなしていたことに
相通じる心です。

「 山は暮れて 野は黄昏の芒かな 」 蕪村

逆光に浮かび上がるススキの穂。
暮れなずむ山村の景が彷彿とするような名句。
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by uqrx74fd | 2012-11-17 08:03 | 植物

万葉集その三百九十七(秋萩)

(咲く萩 散る萩  向島百花園)
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( 紫の萩   同上 )
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( 白萩   同上 )
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( ニシキハギ  家の近くで )
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( 蝶も萩がお好き  向島百花園 )
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( 萩、エノコログサ、露草  同上 )
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( 萩のトンネル  同上 )
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( 萩の実  皇居東御苑 )
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「 秋風は涼しくなりぬ 馬並(な)めて
       いざ野に行かな 萩の花見に 」 
                    巻10-2103 作者未詳(既出)


万葉集で最も多く登場する植物は萩の142首、貴族の間で人気があった梅の
119首を大きく凌いでいます。
決して華やかとは言えない萩が何故このように好まれたのでしょうか。
1つには、当時、平城京郊外の春日野や高円の野に今では想像も出来ないような
萩の大群生地があり野性の鹿と共に身近な存在であったことが考えられます。
さらに萩の生命力の強さ、日本女性を思わせる楚々とした美しさ、高貴な色とされた
紫の花、生活に密着した有用な植物など様々な理由がありそうです。

まずは、歌を辿りながらその一端に触れてみましょう。

「 わが背子(せこ)が かざしの萩に 置く露を
   さやかに見よと 月は照るらし 」 
               巻10-2225  作者未詳


( あなたさまが挿頭(かざし)にしておられる萩に置く露。
 その露の輝きをはっきり見なさいと、お月様はこんなにも明るく照っているのですね)

皓々と輝く月の光を一身に浴びている二人。
夫の頭に挿した萩の上の露は宝石のようにきらきらと輝き二人を祝福しているようです。
澄みきった空気の中、秋の夜が静かに、静かに ゆっくりと過ぎてゆきます。 

萩という字はわが国で作られた国字で古くは「生芽」(はえぎ)と書き、
転じて「はぎ」になったと言われています。
「生え芽」即ち、根元から絶えず新しい芽が出、折れたり切れたりしても
枝の間から芽吹く強い生命力。
古代の人は花や木の枝がもつ旺盛な生命力にあやかろうと手折って頭や衣服に挿し、
長寿、繁栄を祈ったのです。

「 秋田刈る 仮蘆(かりいほ)の宿り にほふまで
    咲ける秋萩 見れど飽かぬかも 」
                       巻10-2100 作者未詳


( 秋の田を刈るための仮寝の小屋。
  その仮小屋まで照り映えるばかりに咲き誇っている秋萩は
  見ても見ても飽きることがないなぁ )

当時の下級官吏は田植えや刈り入れのための休暇を公認されており、
作者も収穫のために家から遠く離れた田所にきているようです。
野原一面に咲く萩。
女郎花、撫子、薄、などと共にさぞや見事な景観だったことでしょう。

萩が詠われている142首の中で「秋萩」とされているのは81首。
秋に対する思い入れが格別に強かった万葉人よ。

「 萩の花 咲きの ををりを 見よとかも
        月夜(つくよ)の清き 恋まさらくに 」
                      10-2228 作者未詳


( 萩の花のたわわに咲き乱れるさまを見なさいと 今宵の月はこんなに清らかに
 照っているのであろうか。
 萩の花への恋心がつのるばかりなのに )

「ををり」は「生ひ覆おれる」の意。

枝も撓むばかりに咲いている萩は重みに耐えかねて身をかがめている。
地面にしどけなく散り敷いている花に射す月の光。
作者はロマンティックな雰囲気の中、恋人の姿を想い描いているのでしょうか。

しなやかに伸びる枝に強靭さをもち、紅紫の花の奥に濃艶な色気を秘めている。
楚々とした風情と品格。
大和撫子とは違った大人の日本女性を感じさせる萩です。

「 恋しくは 形見にせよと わが背子が
   植えし秋萩 花咲きにけり 」 
                       巻10-2119 作者未詳


( 「恋しくなったら私を偲ぶよすがにしなさい」とあの方が植えて下さった萩。
  その花が今美しく咲いています。
  あの方のお帰りは何時になるのでしょうか )

都へ役人として出向いたのか、防人として出征したのか定かではありませんが、
「寂しくなったらこの萩を俺と思って眺めてくれ。花が咲く頃には帰りたいものだ」
と言いながら妻を残して単身旅立った夫の帰りを今か今かと心待ちにしている妻です。

この歌から、萩は家の庭に植栽されていたことがわかりますが、単に観賞用だけ
ではなく、葉は乾燥させて茶葉に、実は食用、根は婦人薬(めまい、のぼせ)、
樹皮は縄、小枝は垣根、屋根葺き、箒、筆(手に持つ部分)、さらに馬牛などの
家畜の飼料など、多岐にわたって利用されていました。

「 萩、いと色ふかう、枝たをやかに咲きたるが、朝露にぬれて なよなよと
  ひろごりふしたる、さ牡鹿のわきて立ち馴らすらんも、心ことなり」
                                (清少納言 枕草子 第五十五段 )


( 萩は大変色濃く枝がしなやかに咲いたのが、朝露に濡れてなよなよと広がって
  倒れているのが面白い。
  牡鹿がとりわけ萩と馴れ親しんでいるのも格別の趣があります )

萩が咲き始めると牡鹿が妻を求めて鳴き出し、露は萩の開花を促し、
晩秋のそれは落花を早めるものと考えられていました。
萩、鹿、露、の取り合わせは趣があるものとして後々まで詠われています。

 しら露も こぼさぬ萩の うねり哉(かな) 」 芭蕉

以下は長谷川 櫂氏の解説です。

『 萩の枝が大きな株から湧き上がるように八方へ広がる。
  その萩の一つ一つに玉のような露がのっている。
  折々かすかな風が立ち、萩の枝は露の玉をこぼさぬほどにゆるやかに揺れる。
  風に吹かれて今にも飛び散りそうな白露をこぼすまいとして揺れ動いて
  いるかのようである。

萩の枝のうねりを詠んで句は萩の枝のようにしなやかにうねっている。
芭蕉の言葉そのものがしなやかにうねる萩と化しているのだ。
400年前に詠まれ、いまだ誰ひとり超えたことがない萩の句である。 』
                       (花の歳時記 ちくま新書より)

「 良夜かな 琴の音揃ふ 百花園 」 佳藤木まさ女

    江戸時代に開園された向島百花園。
    今年も、萩のトンネルが壮観でした。
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by uqrx74fd | 2012-11-10 08:11 | 植物

万葉集その三百九十六(藤袴)

( 藤袴 春日大社神苑 万葉植物園で)
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( 藤袴、彼岸花 露草  同上 )
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( 藤袴 同上)
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( 古代の袴 日本歴史図録 柏書房より )
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( 濃紫の藤袴  yahoo画像検索より)
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「 藤袴 何色と言ひ難かりし 」 粟津松彩子

藤袴はキク科の多年草で、秋の訪れとともに薄い藤色の花を咲かせます。
小さな筒状の花の形が昔の袴と似ている、あるいは「佩(は)く」すなわち身につける
という意からその名があるとされていますが、花を眺めても今一つピンときません。

「藤袴」が我国の文献に最初に登場するのは日本書紀(允恭天皇の項)で、古くは
蘭(らん、らに、アララギ)とよばれていました。
蘭といえば現在はシュンランのような蘭科の植物を思い浮かべますが、そうではなく
原産地中国で藤袴の事を蘭とよんでおり、わが国でもそのまま使っていたようです。

乾燥するとラベンダーのような芳香を発するので、衣類に焚き込めたり
匂袋に入れたりしたほか、髪洗い、さらに煎じて利尿、黄疸、通経などに
用いられていた有用の植物です。

万葉集では山上憶良が秋の七草の中に詠みこんだ一首しかありませんが、
平安時代になると多く詠われるようになります。

「 秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)
      かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 」 
                    巻8の1537  山上憶良(既出)

 「 萩の花 尾花 葛花(くずはな) なでしこの花
     おみなえし また 藤袴(ふじばかま) 朝顔の花 」 
                 巻8の1538 旋頭歌 山上憶良(既出)
                    
                    (旋頭歌:五七七 五七七を基本とする)

 二首で一組になっており、朝顔は現在の桔梗とされています。
『「指折り(およびをり)」は子供に呼びかける俗称で、
 「また」は指を折り数えていて5本の指になったところで
別の手に変えて数える動作 』(伊藤博)とされています。

730年の秋、筑紫の国守であった作者は地方を巡行中、野に遊ぶ子供を見かけ
百花繚乱の花の名を教えたくなったのでしょうか。

 「 秋の野に咲いている花 その花をいいか、こうやって指を折って数えてみると
   七種の花 そら七種の花があるんだぞ 」    巻8の1537
 「 一つ萩の花 二つ尾花 三つに葛の花 四つなでしこの花 うんさよう
   五つにおみなえし。ほら それにまだあるぞ 六つ藤袴 七つ朝顔の花
   うんさよう、これが秋の7種の花なのさ 」     巻8の153
                   訳文(伊藤博:万葉集釋注)

首皇子(おびとのみこ=のちの聖武天皇)の東宮を務めたこともある憶良は当時71歳。 
秋晴れの野で相好をくずしながら子供たちに教えている様子が目に浮かぶような
心温まる歌です。

選ばれた七草のうち藤袴以外はすべて我国原産の植物ですが、遣唐使として中国で
何年か過ごした作者は、かの地で見かけた花に親近感を覚え、七種の一つに
加えたのかもしれません。
ともあれ地味で目立たない藤袴はこの歌のお蔭で1300年を経過した今でも決して
忘れ去られることがない植物になりました。

「 香は古く 花は新し 藤袴」   素檗

平安時代になると「香り」が教養人の素養とされたため文芸に多く登場し、
源氏物語にも藤袴を「蘭(らに)」とよんでいたことが示されています。(藤袴の巻) 
その後、我々が現在、蘭とよんでいる花が愛でられるようになると、ランは「蘭花」、
藤袴は「蘭草」と区別されるようになりますが、歌の世界では藤袴が定着してゆきます。

「 なに人か 来てぬぎかけし藤袴
    来る秋ごとに 野辺を にほはす 」  古今和歌集 藤原敏行


( いったいどんな人がやってきて脱いでかけておいたのだろう。
  藤袴は来る秋ごとに野辺によい香りを発しているよ。)

袴に香を焚き込めていた女性が芳しい香りを残して通り過ぎて行った。
それは、一面に咲く藤袴が香りを漂わせているようだ。
「匂い」を詠った珍しい一首です。
なお、平安時代の女性の野袴は「張袴」といい、モンペのような形だったそうです。

「 秋風に ほころびぬらし藤袴
      つづりさせてふ きりぎりす鳴く 」 
                古今和歌集 在原棟梁(むねやな)


( 秋風に吹かれて藤袴がほころびたらしい。
 「ツズリサセ ツズリサセ」 
 蟋蟀が「袴のほころびをなおしなさい」と鳴いているよ )

平安時代、蟋蟀をキリギリスと呼び、キリギリスをコオロギと呼んでいました。
この歌は秋の七草である藤袴と衣類の袴、さらに、コオロギの鳴き声と
つづり刺せ(繕う)を掛けています。

古代、関東以西のどの地でも野性の状態で見られた藤袴。
今や絶滅の危機に瀕し植物園に行かなければお目にかかることが出来ない
幻の花になりつつあります。
丈夫で育てやすい植物なのに不思議なことです。
目立たないので雑草として刈り採られてしまっているのかもしれません。

「 藤袴 吾亦紅(われもこう)など 名にめでて 」  高濱虚子
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by uqrx74fd | 2012-11-03 17:33 | 植物