<   2012年 12月 ( 5 )   > この月の画像一覧

万葉集その四百四(宇智の大野)

 ( 宇智の大野  五条市 )
b0162728_8245258.jpg

(  大亦観風  阿騎野御猟の絵  奈良万葉文化館絵葉書 ) 
b0162728_8261137.jpg

 ( 万葉歌碑  荒坂峠 五条市 )
b0162728_8261126.jpg

万葉集に登場する「宇智の大野」はJR和歌山線 北宇智駅近辺の
南西一帯の山野とされています。(奈良県五條市)
金剛山の裾野にあり、近くに吉野川が流れる田園地帯で昔は恰好の狩猟地と
されていたようです。

遠い古のある日、まだ夜が明けきらない朝のことです。
舒明天皇が大勢の家来を引き連れて狩りに出かけられました。

御見送りされた皇女、間人皇女 (はしひとの ひめみこ:天智天皇の妹) は、
「 豊かな収穫を祈る歌を献じるように 」と 傍らに控えている側近の
間人連老 (はしひとの むらじ おゆ) に命じられます。
(命じたのは舒明皇后との説もある)

老(おゆ)は傳役 (ふやく)、すわわち皇女の育て親とも言うべき存在の人物で、
皇女が間人姓になっているのは、幼い頃彼の家に預けられたことを物語っています。

ややあって、老が朗々と詠い上げたのは長歌と短歌です。

以下、長歌の「訓み下し文」と「訳文」を左右対称に表記します。 ( 内が訳文  

「 やすみしし 我が大君の        (あまねく天下をお治めになっている我が天皇が

 朝(あした)には 取り撫でたまひ       ( 朝は朝で手に取って お撫でになり
 夕(ゆふへ)には い寄り立たしし       ( 夕べには夕べとて 身近に引きよせて

 み執(と)らしの 梓の弓の           ( 愛でられている梓の弓

 中弭(なかはず)の 音すなり         (その弓の弦を響かせている音が聞こえてきます

 朝狩に 今立たすらし             (朝の今しも 狩りにお立ちになるようです
 夕狩に 今立たすらし             (夕べにも お立ちになるようです

 み執(と)らしの 梓の弓の          ( あのご愛用の 梓の弓の
 中弭(なかはず)の 音すなり 」       (中弭(なかはず) の音が聞こえてまいります

      巻1-3 中皇命(なかつすめらみこと) の 間人連老(はしひとのむらじおゆ)


中皇命(なかつ すめらみこと) とは、神々と天皇の間に立って祭祀を司る
役割を果たす人物で、ここでは皇女のことです。

梓弓は霊力を持つものとされ「中弭(なかはず)」は弓の真中の握りの部分をいいます。

狩りのはじまりに勢揃いして、弓の弦を響かせ、地の霊に豊かな収穫を願う情景を
頭に思い浮かべながら詠ったものですが、内容簡潔にして調べが心地よく、
口ずさむと、あたかも弦鳴りの玄妙な音が聞こえてくるようです。

作者は幼い頃から気心が通じている皇女の気持ちを十二分に弁え、その立場に
成り代わって献じたもので、父を想う娘の気持ちが溢れており、いわば
老、皇女合作ともいえる一首です。

「 たまきはる  宇智の大野に 馬並(な)めて
    朝踏ますらむ その草深野 」  
                           巻1-4  同上


( たまきはる 宇智の荒野で この朝、わが大君は 馬を勢揃いして 
  今しも踏みたてておられるのだ。 あぁ、その草深き野よ ) (伊藤博訳)  

「馬並(な)めて」「朝踏む」「草深野」の造語が素晴らしい。
躍動感があり、名詞止め「草深野」は背丈ほどもある草が生い茂る草原を
想像させ、「その」という語が力強く響きます。

以下は「米田勝氏著 万葉を行く」からの要約です。

『 作者は狩りの場を想像で詠っているが臨場感がある。

天皇が従者と共に馬を並べ、いっせいに狩り立つ。
朝露のきらめく野原から飛び立つ鳥々のさえずり。
逃げまどう獣たち。
その間をぬって馬のたてがみをなびかせながら乱れ追う人々。
天皇の荒い息づかいまで聞こえてきそうだ。 』  (奈良新聞社刊)

「たまきはる」は「うち」「命」に掛かる枕詞で、「たま」は「魂」すなわち、
生命力、霊力を意味し「きはる」は磨り減る、尽きるの意です。

古代の人達は「たましひ」というものは丸い形をしていて、体の胸のあたりにあり、
人間の生命は年の初めから次第に磨り減ってその年の終わりに尽き、
冬至の頃の鎮魂(タマフリ)によって生命が再生し、新しい年を迎えると
考えていたようです。

古代人にとっての狩猟は単なる遊戯ではなく、地霊と交感して衰えた肉体に
新たな生命力を付与しようとする儀式であり、梓弓はそのための呪具、歌は
呪歌だったのです。

然しながら、そのような堅苦しいことはさておいて、狩の歌として
鑑賞しても素晴らしい。

爽やかでリズミカルな響き。
馬に乗り、颯爽と朝の高原を駆け抜けているような心地がします。

斎藤茂吉は
「 長歌といいこの反歌といい、万葉集中最高峰の一つとして敬うべく
尊むべきものと思うのである」 (万葉秀歌 岩波新書 ) と
最大限の賛辞を贈っているのも肯けることです。

万葉集にみえる「間人連老(はしひとのむらじおゆ)」の作品はこの長短歌しかありません。
が、名歌恐るべし。
作者はこの二首の歌によって不滅の名を残すことになりました。

「 たまきはる  宇智の大野に馬並(な)めて
        朝踏ますらむ その草深野 」 


JR五條駅と北宇智駅の中間に荒坂峠という小高い丘があり、その頂に歌碑が
建てられています。
振り返って見下ろすと、山々に囲まれた高原で躍動する狩りの様子が
彷彿としてくるようです。
[PR]

by uqrx74fd | 2012-12-29 08:28 | 生活

万葉集その四百三(華麗なる送別の辞)

長谷寺の紅葉(奈良)
b0162728_1657787.jpg

正歴寺の紅葉(奈良)
b0162728_16572351.jpg

葛城山のつつじ(奈良)
b0162728_1657526.jpg

根津神社のつつじ(東京)
b0162728_16581656.jpg

高千穂神社の八重桜とつつじ (千葉県佐倉市)
b0162728_165904.jpg

根津神社のつつじ(東京)
b0162728_16593887.jpg

千鳥が淵の桜 (東京)
b0162728_1701498.jpg

同上
b0162728_1703930.jpg


春秋は人事異動の季節、宮仕えは昔も今も悲哀こもごもの時を迎えます。
732年 朝廷は藤原宇合(うまかい)を西海道節度使に任命しました。
西海節度使とは対馬、壱岐を含む九州全域の軍事一切を監督する指揮官のことです。
8月に発令されて準備を整え、10月にいよいよ出発。
現在の暦だと11月ころでしょうか。
親しい人たちは、難波からの船便に向かう宇合を国境の龍田の麓まで送り
送別の宴席を設けます。
酒宴たけなわのころあいを見はかって長年の部下であり個人的にも親密な関係であった
高橋虫麻呂が心を込めて送別の辞を詠いだしました。
先ずは訳文からです。

長歌訳文

「白雲の立つという その龍田の山が、
 冷たい露や霜で赤く色づく時に
 この山を越えて 遠い旅にお出かけになるあなた様は、

 幾重にも重なる山々を踏み分けて進み
 敵を見張る筑紫に至り着き
 山の果て野の果てまでも くまなく検分せよと
 部下どもをあちこちに遣わし
 山彦のこだまするかぎり
 ヒキガエルの這い廻るかぎり
 国のありさまをご覧になって
 冬木が芽吹く春になったら
 空飛ぶ鳥のように 早くお帰り下さい。

 あなた様が帰っていらっしゃったならば 
 ここ龍田路の岡辺の道に 
 赤いつつじが咲き映える時、 桜の花が咲きにほふ その時に
 私はお迎えに参りましょう。」
              巻6-971 高橋虫麻呂
反歌訳文
「 貴方は 相手が千万の大軍であろうとも とやかく言わずに 
  討ち取ってこられる立派な男、武士(もののふ)だと思っております。」 巻6-972 同上

 訓み下し文


「 白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に 
  うち越えて 旅ゆく君は 

  五百重山(いほへやま) い行きさくみ 
  敵(あた)まもる  筑紫に至り 
  山のそき  野のそき見よと 
  伴の部(へ)を  班(あか)ち遣(つか)はし  
  山彦の 答へむ極み 
  たにぐくの  さ渡る極み
  国形(くにかた)を 見したまひて 
  冬こもり 春さりゆかば 
  飛ぶ鳥の  早く来まさね 

  龍田路の 岡辺(をかへ)の道の 
  丹つつじの にほはむ時の  桜花 咲きなむ時に
  山たづの 迎へ参(ま)ゐ出む 君が来まさば 」

        巻6-971 高橋虫麻呂 (一部既出)

「 千万(ちよろず)の 軍(いくさ)なりとも 言(こと)挙げせず
    取りて来ぬべき 士(をのこ)とぞ思ふ 」

       巻6-972 高橋虫麻呂


語句解釈(6-971)

「龍田山」 :奈良県生駒郡 生駒連峰の一群
「い行きさくみ」 :「い」は接頭語 「さくむ」は踏み分け押し開く
「山のそき、野のそき」 :「そき」 遠く離れた果ての意
「伴の部」 : 付き従う部下
「斑(あか)ち遣はし」 :分かち、配属させ
「たにぐく」 : ひきがえる 広範囲に這い回るので「渡る」の枕詞とされた。

「山たづ 」: にわとこの古名 枝や葉が対生して付き、手を広げて
         出迎えているように見えるので迎えの枕詞とされた。
同(6-972)
 「軍(いくさ)」 : 兵士 軍勢 ここでは敵
 「言挙げ」 :言葉に出して事々しく言い立てること

作者の高橋虫麻呂は36首の歌を残しましたが、確実に虫麻呂作と確認できるのは
この2首のみです。
残り34首はこの長短歌の特徴を様々な角度から分析した結果、
「虫麻呂作にほぼ間違いない」というのが大方の共通認識となっています。

長歌は3部構成になっており、行間を1行空けたところが1区切りです。
まず第一幕

「 時は紅葉まっただ中の秋。
  場所は白雲が沸々とわき昇る龍田山の峠。
  黄、紅、緑、白。 極彩色を背景にして宇合の登場。
  虫麻呂は旅ゆくあなた様はと詠いかけます 」

 そして第2幕
   「遥か九州までの旅路で多くの山々を踏み分け、外敵を防御している
    筑紫に入り、山の果て、野の果てをよく調べよと部下を指示し
    自分も見て回り、首尾よく任務を果たされたら飛ぶように
    お帰り下さい。」
  と宇合のこれからの行動を細かく想像して書き連ねています。

第3幕
  「 いよいよご帰還。
  それは桜や躑躅(つつじ)が満開の頃。
  緑豊かな龍田の丘に、立ちのぼる白雲。
  私は心を弾ませながらあなた様をお迎えいたしましょう。」

 色彩感豊かに詠いあげ、現在と未来を詠う虫麻呂独特の美の世界です。
 このままでは作者のロマンティズムが強すぎ、宇合にとって送別の歌としては物足りない。
 そこで締めくくりの短歌です。

「 どれほど多くの敵がいようともあなた様はまことの武士(もののふ)。
  不平を言ったり愚痴をこぼしたり(言挙げ)しないで、
  敵を討ち取ってきて来てください。
  武運長久をお祈りしています。」 と詠ったのです。

宇合は716年に遣唐副使、726年には東国の按察使に任じられており、
今回は九州への赴任。
「これではまるで一生 旅人のように辺境の仕事に従事するのか」と
気落ちしたような漢詩を作っています。

「 往歳(わうさい) 東山(とうさん)の役
  今年 西海の行
  行人(かうじん) 一生の裏(うち)
  幾度か 辺兵(へんぺい)に倦(う)む 」   藤原宇合 懐風藻


( 前に東山道の役に任じられ
 今は西海道の節度使として赴く
 流浪の身 おれは一生のうちで
 幾度辺土の士となればすむのか 」
        ( 懐風藻 江口孝夫訳 講談社学術文庫より)

虫麻呂はこの漢詩を踏まえて愚痴など言わないで志を高く持ち、しっかり
任務を果たしてきて下さいと勇気づけたのです。

藤原不比等の子、宇合は光明皇后(聖武天皇の后)と異母兄妹の関係にあり、
直ちに中央のエリート顕官になってもおかしくない身分ですが、
将来国を背負って立つ有為な人材として若いうちに色々な経験と苦労を
積ませるという配慮がなされたものと思われます。

無事任務を果たした宇合は栄達を重ね、参議式部卿に登りつめました。

 「紅葉山 抜け来し色に 竜田川 」   菅原くに子
[PR]

by uqrx74fd | 2012-12-22 17:03 | 生活

万葉集その四百二(葛いろいろ)

( 葛の葉と冬枯れの実  皇居東御苑にて )
b0162728_1612445.jpg

( 巨大な葛の根  吉野山にて)
b0162728_16124782.jpg

(  同上 )
b0162728_1613321.jpg

( 吉野葛販売店  吉野山にて )
b0162728_16132783.jpg

( 森野旧薬園製の本葛  江戸時代からの薬草園 )
b0162728_1614838.jpg


葛はマメ科クズ属の大形蔓性の多年草で、元々「くずかづら」とよばれていました。
全国至るところに見られる植物ですが、奈良県吉野山の近くに国栖(くず)という
村があり、昔、村人たちが葛の根から澱粉を採り、葛粉にして諸国に売り歩いたので
その地名が植物名になったといわれています。
吉野人にとっては、 「葛と娘はわしらが自慢、とって見せたい雪の肌」なのです。

「 ひかへめな 色に惹かれて 葛の花 」  稲畑汀子

葛は夏から初秋にかけて赤紫色の蝶形花を穂のように密生させて咲かせます。
野性的な力強さを感じさせ、近づくと微かにブドウのような匂いが - 。
花が終わるとサヤエンドウの様な花菓をつけるのも面白い。

「 花葛の 匂ふと聞けば 匂ふかな 」 川上朴史


万葉集で葛の「花」が登場するのは、山上憶良が詠んだ秋の七草の1首のみ。
残りの17首は、這う葛、葛葉、真葛原などと詠われています。

旺盛な生命力の持ち主の葛。
葉は大きく、それを支える地下茎は何十メートルにも広がります。
時には厄介者となる存在ですが、古代の人々はその特性を上手く生かす知恵を
持っていました。
乾燥させた花を煎じて二日酔いや酒毒を消し、茎は布の素材、根は葛粉や
薬湯にするなど、生活に密着した植物として用いたのです。

「 雁がねの 寒く鳴きしゆ 水茎の
   岡の葛葉は 色づきにけり 」
                巻10-2208 作者未詳


( 雁が寒々と鳴いてから 岡に茂る葛葉はすっかり色づいてきたよ )

雁の訪れとともに色鮮やかな黄葉。
深まりゆく秋をしみじみと感じさせる一首です。
「水茎の」は岡の枕詞で、掛かり方は不詳。

「 をみなへし 佐紀沢の辺(へ)の 真葛原
     いつかも繰りて 我が衣(きぬ)に着む 」 
                        巻7-1346 作者未詳


( 佐紀沢の辺りの葛が生い茂る野原、あの野の葛は何時になったら糸に繰って
 私の着物として着ることが出来るのだろうか )

「をみなへし」は秋の七草の一つですが、ここでは佐紀沢の枕詞。
佐紀沢は奈良市佐紀町の沼沢地、平城京跡の近くです。

古代の人は葛の蔓(茎)を水で煮て繊維を取り出し、様々な衣類を織っていました。
ここでは、葛を幼い少女に譬え、「自分の衣として着る」すなわち
「あの子といつになったら夫婦になれるのかなぁ」と詠っています。

「 赤駒の い行(ゆ)きはばかる 真葛原
    何の伝(つ)て言(こと) 直(ただ)にし よけむ 」
                       巻12-3069  作者未詳


(  元気な赤駒でも行き悩む真葛原ではないが、まぁなんとじれったいこと。
  言伝てなんて。
  じかに会うのが一番なのに )

一面の葛野原。
地面を這う大きな葉と蔓が馬の行く先を阻みます。
この歌は恋人が何らかの事情で来ることが出来なくなり誰かに伝言を頼んだ
ものと思われますが、女性のイライラした気持ちを
「赤駒の い行(ゆ)きはばかる 真葛原」とは面白い表現をしたものです。

「 みづ茎の 岡の葛葉を 吹きかへし
    面(おも)知る子らが  見えぬころかも 」
                      巻12-3068 作者未詳


( 岡の葛の葉を風が吹き返して、裏葉の白さが目に付くように
 はっきりと顔を見知っているあの子が、一向に姿を見せない今日このころだ )

葛の葉は大きい上、裏が白いので風に靡くと波が立っているように見えます。
この歌の「吹きかへし」に「裏葉の白さ」さらに「よく目立つ」の意を含ませおり、
新しいセンスを感じさせる一首です。

「 葛の 風に吹き返へされて 裏の いと白く見ゆる をかし 」 枕草子 54段

平安時代になると葛は「裏見草」ともよばれました。
さらに、「恨み」を掛けて恋の辛さを詠うようになります。

「 秋風は すごく吹けども 葛の葉の
    うらみがほには 見えじとぞ思ふ 」 
                  和泉式部 新古今和歌集


( たとえ秋風が冷たく吹いても、葛の葉は裏を見られまいと思っておりましょう。
 私も夫の仕打ちがつらくても、恨んでいるよう見られまいと心掛けているのです。)

橘道貞の妻となり、一女をもうけながらも破綻し別居。
夫に忘れ去られた気持ちを秋風=夫 葛の葉=作者に譬えた一首です
 尤も、その後、恋の悩みなど さっさと忘れて華麗な恋愛遍歴が始まりますが- -。

「 葛の葉の 恨み顔なる 細雨(こさめ)哉 」 蕪村

明治時代になってもなお続く「恨みの葉」です。

「 葛掘りの わりなく枯らす 桜かな」  自笑 

葛粉は葛の塊根を秋から春にかけて発芽前に掘り取り、泥を洗って適宜の長さに切り、
叩き潰して臼で引いたものを布袋に入れ、水でもみ出し、沈殿させて採取したものを
さらに漂泊乾燥して作られます。
巨大な根を掘り出すだけでも大変な重労働なのに、葛根に含まれる葛粉の割合は僅か
1~2%しかありません。
そのため値段も高価。一般に葛粉と称されているものの成分は馬鈴薯などの澱粉が
ほとんどです。
 ( 奈良では本葛100%のものが50~100g単位の袋入りが売られている)

葛餅、葛切り、葛饅頭、葛あんかけ。
また風邪の時に飲んだ葛湯の味も懐かしい。
有名な葛根湯(漢方薬)もいまだに健在です。

「葛の花 
   踏みしだかれて
   色あたらし
   この山道に行きし人あり」    釈迢空

[PR]

by uqrx74fd | 2012-12-15 16:15 | 植物

万葉集その四百一(馬来田:まくた)

( JR久留里線 後方の山 万葉で詠われた馬来田の嶺(ね)ろ )
b0162728_14493167.jpg

( 馬来田駅 右側に万葉歌碑がある )
b0162728_14495397.jpg

( コスモス街道 )
b0162728_14501615.jpg

(  ツリブネソウの群生 )
b0162728_14504166.jpg

( ハンの木湿原地 )
b0162728_1451762.jpg

( ミニチュア水車 馬来田小学生作 )
b0162728_14513280.jpg

( 道の駅 )
b0162728_1452289.jpg

( 野点 )
b0162728_14522454.jpg

馬来田(まくた)は昔、「うまくた」「うまぐた」とよばれ、現在は千葉県木更津市に
編入されている万葉の故地です。

古代豪族、国造(くにのみやっこ)馬来田氏がこの辺り一帯を支配していたので
その名があるといわれていますが、大伴旅人の先祖に大伴連(むらじ)馬来田という
人物がいて、関連性は不明ながら「ひよっとしたら この地は大伴氏の所領だった?」と
想像するのも楽しいことです。

JR木更津から久留里線で6駅の30分。
ローカル線らしい素朴な駅舎の改札口を出ると、付近案内板にならんで
この地ゆかりの万葉歌碑が置かれています。
町おこしの一環でしょうが、「駅前に」とは全国的にも珍しい。

「 馬来田(うまぐた)の 嶺(ね)ろに隠り居(い) かくだにも
    国の遠かば 汝(な)が目欲(めほ)りせむ 」
                    巻14-3383 作者未詳(東歌)


( 私は今、馬来田の山々に隠された遠い国にいるが、さらに旅を続けて故郷から
  隔たってしまったら、益々お前を見たくなって仕方がなくなるだろうなぁ )

昔、この地は上質の麻の産地として知られ、朝廷にも貢納していました。
作者は都へ品物を納めに出向いたのか、あるいは使役、防人としてこの地を
離れたのか定かではありませんが、もし防人だとすれば大宰府まで1000㎞。
生還を期すことが確実とは言えない長い長い旅です。
懐かしい故郷を何度も振り返りながら妻子の面影を目に浮かべ、万感の思いで
詠ったことでしょう。

近年、馬来田はハイキングコースとして整備され、春は桜や菜の花、
秋はコスモスが美しく、さらに広大な湿原地帯に多くの野花が群生しています。

駅から住宅街を15分位歩いて右折すると田園地帯にさしかかり「馬来田の嶺(ね)ろ」と
詠われた山並みが見えてきました。
高い山ではありませんが峰々が切れ目なく続き他国との境界をなしているようです。
このあたりは、里芋、枝豆などが植えられ、栗の木や竹林も多く、
春には筍が多く採れることでしょう。

「 馬来田(うまぐた)の 嶺(ね)の笹葉の霜露の
    濡れて我(わ)来なば 汝(な)は恋ふばぞも 」 
                  巻14-3382 作者未詳(東歌)


( 馬来田のお山の笹葉に置く冷たい露に濡れそぼちながら私が行ってしまったなら
 お前さんは一人せつなく恋い焦がれることだろうな )

「来(き)なば」は「来れば」とする説もありますが「行ってしまったら」の意と
解釈する学者が多くなっています。
分かりにくい表現ですが「行く先を起点にして言った方言(伊藤博)」だそうです。

前の歌同様、都へ向かう旅人が詠ったものか、あるいは民謡だったかもしれません。

心地よい秋風に吹かれて細い野道を行くと、彼岸花、ススキが咲き乱れ、
セイタカアワダチ草の群生が周りを黄色に彩っています。
やがて「ハンの木」の湿原地へ。
この地の奥に「いっせんぼく」とよばれる湧水があり、昔、千か所で水が
「ぼくぼく」と音を立てて湧き出していたのでその名があるそうですが、
今はわずか1か所にその面影をとどめているのみです。

尾瀬のような板敷の道が約500m近く続き、ツリフネソウの群生が圧巻。
春には水芭蕉や芹も生育しており、脇を流れる小さな清流は美しく、水底の
水藻がゆらゆらと揺れて緑の髪のようです。
馬来田小学校生徒作と書かれたミニチュアの水車が心地よい音を立てながら
クルクルと廻っていました。

「 旅衣 八重着重ねて 寐寝(いの)れども
     なほ肌寒し 妹にしあらねば 」巻20-4351 

       望陀(まぐた)の郡(こほり)の上丁 玉作部国忍(たまつくりべのくにおし)


( 旅衣、そいつを幾重にも重ね着て寝るのだけれども、やはり肌寒くて仕方がない。
  お前の肌ではないのでなぁ )

望陀(まぐた)は今の馬来田 上丁は一般兵士
防人に徴集された村人の歌です。
当時は野宿が原則、大阪の難波まで食糧持参の自給自足生活です。
途中で熊や狼などに襲われたり、食糧が尽きて行き倒れになった人もあり、
命懸けの旅でした。
寒さに凍えながら布にくるまって休む兵士。
思い出すのは故郷に残してきた妻の肌の暖かさ。

「 透きとほる 日ざしの中の 秋ざくら 」 木村享史
                              秋櫻=コスモス


湿原地を一回りしたのち、少し引き返すと武田川沿いに約500mのコスモス街道。
道の両脇に色とりどりの花々が咲き乱れ、風にゆらゆらと揺れています。

今日は町を挙げてのお祭りです。
屋台もたくさん出ており、老若男女が子供連れで大勢集まっていました。
コスモスを背景にした優雅な野点もみられ、のどかな風景です。

地元の人が作った枝豆を買い、コスモスの種をお土産に沢山戴いて、
楽しいハイキングもあと1㎞で終わりとなります。
歩くこと約15㎞。
平坦な道が多く左程の疲れはありませんでしたが、雨上がりの湿原地で
ぬかるみに足をとられて難儀しました。

大和から遠く離れ、奈良とは無縁と思われたのどかな片田舎。
都へ向かう旅人が詠い、編者がその歌を採用したお蔭で、万葉集との深い縁を
認識させられた1日でありました。

「 万葉の 馬来田の里の 秋桜(あきざくら)
               しなひて立てり 風に吹かれて  」 筆者

[PR]

by uqrx74fd | 2012-12-08 14:54 | 万葉の旅

万葉集その四百(藤原鎌足)

( 談山神社 世界唯一の木造十三重塔)
b0162728_213279.jpg

( 談山神社本殿 )
b0162728_21323423.jpg

( 同、本殿内部から )
b0162728_21325263.jpg

( 談山神社全景 多武峰観光ホテルから )
b0162728_2133175.jpg

( 蘇我入鹿を討つ 後方左 皇極天皇 多武峰縁起絵巻より 談山神社発行パンフレットより)

( 万葉列車 JR和歌山線 五条駅で )
b0162728_21344154.jpg


天智天皇の懐刀、藤原鎌足は もと中臣鎌足(幼名:鎌子)といい、614年大和国飛鳥
大原の神職の家に生まれました。

長じて、学問を好み聡明で正義感が強い鎌足は天皇をないがしろにして国政を我が物と
する蘇我氏の専制に憤りを覚え、それを正さんものと盟主を探し求め、
中大兄皇子(のちの天智天皇)こそ語るに足る人物であると見極めます。

皇子とはまだ面識がなかった鎌足。
何とか近づきになりたいと機会をうかがっていたところ、法興寺(のち飛鳥寺)で
蹴鞠(けまり)の会があり皇子も出席されると聞き早速見物に出かけました。

そこで天運としか言いようがない出来事が起きます。
皇子が鞠を蹴ったところ、皮鞋(みくつ)が脱げ落ち、たまたま近くにいた
鎌足が拾い上げて皇子に捧げ渡したのです。

まさに運命の出会い。
初対面ながら互いに心に響くものがあったのでしょう。
以来共に南淵請安のもとで儒教を学び、国家の改革を語り合います。
そして、645年藤花の盛りの頃、多武峰(とうのみね)社 (現.談山神社)本殿裏山で
蘇我氏打倒の極秘の談合がなされ、ついに飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討って
中央統一国家の建設の偉業、大化の改新に乗り出したのです。

鎌足は終生天皇が最も信頼する股肱の臣であり続けましたが、権謀術数の限りを
尽くした人物とは思えないようなおどけた歌を二首残しています。

まずは夫婦の掛け合いです。

「 玉櫛笥(たまくしげ) 覆ひを易(やす)み 明けていなば
             君が名はあれど 我が名し惜しも 」
                      巻2-93 鏡王女


( 「二人の仲を人に知られないようするなんてわけない」と貴方さまは夜が明けてから
  堂々とお帰りになりますが、あなたはともかくとして、私の浮名が立つのは
  まことに口惜しゅうございます。)

通い婚の時代、男は夕暮れに女のもとを訪れ明け方に帰るのが習いでした。
この歌は一夜を共にして夜明けになってもまだ帰ろうとしない鎌足に
「 長くいてくれるのは嬉しいが、おおっぴらにされるのは世間体が悪い」と
わざと自分を重んじた言い方をして、相手がどのような歌を返してくれるのか、
からかっているのです。

玉櫛笥は化粧道具箱のことですが、箱に蓋(ふた)と入れ物(身)があるので
「覆う」や「みもろの山」の「み」に掛かる枕詞として使われています。

鏡王女の出自については、舒明天皇の皇女もしくは皇孫とする説と額田王の姉で
あろうとする説があり正確なことは不明。
皇極女帝の宮廷に出仕して中大兄皇子に見そめられましたが、後に藤原鎌足の正妻と
なった女性で、降嫁するとき既に身籠っており、それが不比等であったとの説もあります。

「 玉櫛笥 みもろの山の さな葛(かずら)
          さ寝ずは つひに 有りかつましじ 」
                       巻2-94 藤原鎌足


( あなたはそうおっしゃるけれど、みもろの山のさな葛ではないが
  さ寝ず (つまり共寝しないで) よろしいのですか。
  もし、私がそんなことをしたら、あなたはとても我慢できないでしょう。 )

「さな葛」は常緑つる性モクレン科の植物ですが、ここでは「さ寝」を起こす序。
相手の使った枕詞「玉櫛笥」をそのまま返した言葉の遊びです。

「さ寝ず」の「さ」は接頭語で「共寝」の意。 
「ありかつまじし」は「あり」:生きる 「かつ」:出来 「まじし」:ないだろう
つまり 「生きていくことができないだろう」。

「 俺が帰ってしまったら、困るのはお前さんだよ。」 と 
 とぼけて歌い返した微笑ましい一幕です。


「 我れもはや 安見児(やすみこ) 得たり 皆人(みなひと)の
     得難(えかて)にすといふ 安見児得たり 」    
                     巻2-95 藤原鎌足


( おれはまぁ 安見児を得たぞ! どうだぁ!
  お前さんたちが手に入れられないと言っているこの安見児を
  おれはとうとう我が物にしたぞ! )

臣下との結婚を禁じられていた采女を妻となしえた喜びを天真爛漫に詠った作者。
天皇は大化の改新以来、参謀となって活躍した功臣に特例として結婚を認めたようです。
宴席の傍らに当の采女を侍らせて得意満面の鎌足ですが、すでに54~55歳。
56歳で亡くなっていますから当時としては老齢に達していたと思われます。

何故このような時期に天皇は鎌足に采女を与えたのでしょうか?
これには天智天皇の後継者問題が絡んでいるのかもしれません。
当時の皇太子は弟の大海人皇子、自他ともに認める次期天皇候補です。
然しながら天皇は我が子の大友皇子を後継にと願っていました。
ところが大友皇子の母親は伊賀の采女だったのです。

天皇の母ともなれば身分が軽い女性では血筋を重んじる貴族や地方の豪族に
受け入れられそうにありません。
やむなく天皇は鎌足と打ち合わせ、采女に対する卑賤観を取り除く政治的演出を
行ったのではないかと推定する説もあります。
その願いも空しく、天皇死後壬申の乱が勃発し貴族豪族は雪崩をうって大海人皇子の
味方となり、敗れた大友皇子は自害に追い込まれました。

669年、重病に陥った鎌足のもとへ天皇自ら病床を見舞われ、大織冠内大臣の極位と
藤原の姓名を授けて生前の功に報います。

鎌足は死後、摂津国阿威山(あいやま)に葬られましたが、唐から帰朝した
長男定慧(じょうえ)が不比等と相談の上、墓を故郷である大和国多武峰に移し、
十三重塔を建立してその霊を弔いました。
それから23年後の701年には神殿が建てられ、鎌足の神像を奉安して
談山神社の創祀となされたのです。

談山とは天智天皇と共に大化の改新を談(かた)った山の意で、出会いとなった、
蹴鞠の競技も今なお続けられています。
藤原氏はその後繁栄の一途を辿り、1086年白河上皇の院政が始まるまで
代々摂政関白として450年間もの間政治の実権を握り続けました。
徳川幕府でさえ265年。
藤原鎌足はそれを遥かに上回る未曽有の権力継承の創始者でした。

以下は 司馬遼太郎著 街道をゆく 近江奈良散歩 朝日文庫からです。

『 鎌足を祀る多武峰の創始は、七世紀後半である。
 唐に留学していた鎌足の子、定慧(じょうえ)が、木造の十三重の塔を造営した。
 いま存在している塔は1532年の再建だが、朱塗、檜皮葺の色調といい、
 十三重のつりあいの美しさといい、破調がほしくなるほどの典雅さである。
 本殿についても同様のことがいえる。
 藤原氏は華麗を好み、その氏神をまつる奈良の春日大社の社殿も、桃色に息づく
 少女のようなはなやぎをもっている。
 この多武峰は、春日造りである上に桃山様式が加わっていっそう華麗になった。』

    「 越天楽 奏で始まる 蹴鞠祭 」  平野照子
[PR]

by uqrx74fd | 2012-12-01 21:35 | 生活