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万葉集その四百十二(孝謙女帝)

[ 孝謙天皇(重祚後称徳天皇)勅願の西大寺山門 ]
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[ 同上 本堂 ]
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[ 同上 鐘楼 右側に万葉歌碑 ]>  
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[ 孝謙天皇の歌碑 ]
 「 この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に 我が見し草は もみちたりけり 」
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[  サワヒヨドリ  藤袴と区別がつきません  yahoo画像検索より ]
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[ NHK放映大仏開眼のDVDカバー 正面 吉備真備 左 孝謙天皇 下 阿倍仲麻呂 ]
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[  西大寺大茶盛式  奈良県観光協会hpより ]
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その昔、我国に破天荒な天皇がおられました。
何と! 道鏡という僧侶に天皇位を譲渡しようとしたのです。
その人の名は孝謙天皇 (重祚後 称徳天皇)。
幸いにも吉備出身の硬骨漢 (女帝に言わせると逆臣) 和気清麻呂の機転により、
事なきを得ましたが、万が一にも女帝の思惑が成功していたら天皇制は崩壊したで
あろうと思われる国の根幹にかかわる大事件でした。

若き頃、阿倍内親王とよばれた女帝は聖武天皇と光明皇后の第二皇女として生まれ、
同母弟 基(もとい)親王が早世したため738年、21歳で史上唯一の女性皇太子に立てられます。
容姿も端麗であったらしく、743年、久爾京(くにきょう)内裏で百官を前に
五節の舞を披露したそうです。

吉備真備という当代一流の知識人の教育を受け、749年、父帝の譲位により即位。
政治の実権は光明皇太后と藤原仲麻呂が掌握していましたが、新帝に格別の不満もなく
日々の政務をこなされていました。

次の歌は、750年、遣唐使が難波を出航するにあたり、入唐使 藤原清河らに
酒肴を賜われ、無事任務を果たして帰還することを願って詠われたもので、
宣命形式になっています。

「そらみつ 大和の国は 
 水の上は 地(つち) 行くごとく
 船の上は 床(とこ)に 居るごと
 大神の 斎(いは)へる国ぞ

 船の舳(へ)並べ 平けく 早渡り来て
 返り言(ごと)  奏(まを)さむ日に 
 相飲まむ酒(き)ぞ  この豊神酒(とよみき)は 」 
                         巻19-4264 孝謙天皇

(  神威あまねく 大和の国
   水の上は 地上を行く如く
   船の上は 床にいる如く
   大神が慎み守りたまう国である

 そなたたちの 四つの船 
 その船は 舳先を並べ つつがなく早く唐国に渡り
 すぐ帰ってきて 復命を奏上するように祈る。
 この霊妙な美酒は
 その日に また共に飲むための酒であるぞ )

「そらみつ」は大和の国の枕詞。
「 神が見下ろした神威あまねく聖なる大和」の意で日本書紀の 
「ニギハヤノミコが天の磐船に乗って空から大和を見納め、
「虚空見日本国」(そらみつやまとのくに)」と云われたことによるそうです。

 宣命とは天皇の命令を漢字で和文形式に書かれたものを言いますが
使者、高麗福信という人物を遣わして口頭で読みあげさせ、さらに反歌が添えられています。

反歌

「 四つの船 早帰り来(こ)と  白香(しらか)付く
    我が裳の裾に 斎ひて待たむ 」  巻19-4265 同上


( 四つの船よ すぐ帰って来いと 白香付くこの我が裳の裾に
  祈りをこめて無事の帰りをお待ちしているぞ )

白香は祭祀用の純白な幣帛の一種。
女性の裳の裾には呪力があるとされていました。
切に無事を祈る心がこもった歌です。

「 この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に
    我が見し草は もみちたりけり 」  巻19-4268 孝謙天皇


( この里は年中ひっきりなしに霜が置くのであろうか。
  夏の野で私がさっき見た草は もうこのように色づいていることよ )

政治上の権限を一手に掌握し辣腕をふるっていた藤原仲麻呂は光明子皇太后の甥にあたり、
平城京近くの田村の里に屋敷を構えていました。
この歌は、ある夏の終わりの日、皇太后と共に仲麻呂の邸宅に行幸された女帝が
紅葉した沢蘭(サワアララギ)を見て仲麻呂家を寿いだものです。
サワアララギはキク科フジバカマ属の多年草で現在名はサワヒヨドリとされています。

「 この渓(たに)の 秋づく早く 瀬の光り
    さはひよどりの 花は仄(ほの)かに 」 岡本高樹


それから9年後の758年、女帝は病床にあった皇太后に仕えるためという理由で
皇太子 大炊王(おおいおう)に譲位されます。
淳仁天皇の誕生です。

一方、恵美押勝という姓名を与えられた藤原仲麻呂は権力が増大するにつれて
独断専行が多くなり、孝謙上皇をないがしろにすること甚だしく、両者の関係に
隙間風が吹き出しました。

そのような情勢の中、760年、光明皇太后が崩御。
仲麻呂は最大の後ろ盾を失い上皇との力のバランスが逆転します。

ここからが運命の大きな分かれ目。

761年、平城宮改修のため都を一時 近江の保良宮に移した時、上皇が急に病に伏せり、
医療の心得がある僧、道鏡に看護を任せたところ、その献身の治療により回復させる
という出来事がありました。

以来、上皇は道鏡を寵愛し、吉備真備と共に政治の中枢を委ねるようになりますが、
面白くない仲麻呂は淳仁天皇と図って道鏡を上皇から引き離そうとします。

若くして即位したゆえに生涯独身を通すことを余儀なくされた女帝は、44歳にして
生まれて初めて恋という魔物にとりつかれてしまったようです。
道鏡と二人きりで過ごすことが多くなるにつれ、よからぬ噂が広がってきました。
淳仁天皇の度重なる諫言にも聞く耳を持たず、逆に仲麻呂を疎んじて遠ざける始末です。

764年、藤原仲麻呂はついに反旗を翻します。
大乱勃発、あわや国を二分するかと思われたこの勝負は機先を制した上皇側が圧勝、
仲麻呂は近江国で敗死というあっけない結末を迎えました。
日頃の備えが出来ていたのでしょうか。
いざとなれば危機管理が出来るのは流石というべきか。

仲麻呂亡き後、独裁権を握った上皇は道鏡を大臣禅師、さらに太政大臣禅師、
ついには法王に引き上げ、自らは淳仁天皇を廃して重祚(ちょうそ)、称徳天皇となります。

以降、称徳、道鏡による政権運営が6年間続き、女帝は次第に道鏡に譲位することを
考えだしたのです。
法王は天皇と同格。
こうなると道鏡も野心が擡(もた)げたことでしょう。

769年、女帝の心を慮った大宰府の主神(かんづかさ) 中臣 習宣阿曽麻呂
(なかとみ すげのあそまろ)が「道鏡皇位につくべし」という宇佐八幡宮の御神託が
あったことを報じました。
主神(かんづかさ)とは管内の諸祭祀を司る長官のことです。

天皇はこれを確かめるため和気清麻呂を宇佐八幡宮に送りましたが,正当な皇位継承を
祈念する清麻呂はこの託宣は「虚偽であると」復命。
激怒した天皇は和気清麻呂の名前を別部穢麻呂 (わけべ きたなまろ)に改めさせ
大隅に配流しました。
世にいう宇佐神宮神託事件です。

然しながら清麻呂を排除しても道鏡への譲位は朝廷内の反対が多く、断念せざるを
えませんでした。

失意の日々を送られた称徳天皇は1年後の770年に崩御。
道鏡は 下野薬師寺別当(下野国:栃木県)を命ぜられ、再び中央に戻ることなく、
没後、庶人として葬られました。

生涯独身にして孤独であった女帝。
道鏡が人生唯一の拠りどころだったのでしょうか。

政争に明け暮れた結果、天武系の皇統が絶え、登場したのが天智系の光仁天皇、
志貴皇子の皇子です。
称徳天皇の嫉視を警戒し、酒乱の振りをして生き延び62歳という高齢での即位でした。

「 大茶盛 蝶ちらちらの 西大寺 」 阿波野青畝

直径40㎝、重さ7㎏もある大きな茶碗に、長さ35㎝の茶筅でお茶を立てて、
参会者に振る舞われる大茶盛式で有名な西大寺は、東大寺に対する西の大寺として
称徳天皇が建立を勅願されたといわれています。

境内の鐘楼脇に孝謙天皇時代に詠われた

「 この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に
     我が見し草は もみちたりけり 」
 
の歌碑が静かな佇まいの中に立ち、昔を偲ぶよすがとなっています。
このあたりに仲麻呂の屋敷があったのでしょうか。
仲麻呂が孝謙女帝の最初の愛人であったという説もありますが真偽のほどは不明です。

「 西大寺 西日に松も 輝けり 」 竹村秀一

                           ( 西大寺へは近鉄西大寺駅から徒歩5分)
エピローグ

坂口安吾は「道鏡」という短編小説で女帝と道鏡との出会いを以下のように記しています。
最後の一行。果たしてそれが本当であったかどうかは何人も知る由もありません。

「 上皇の保良宮の滞在は病気の臥床の滞在だった。
  道鏡のみが枕頭にあり、日夜を離れず、修法し、薬をねり、看病した。
  そして上皇は全快した。
  彼女の心はみたされたから。
  長い決意がみたされていたから。
  上皇はわづかばかりの旅寝の日数のうちに、世の移り変わりの激しさに驚くのだ。
  それは冬雲の走る空の姿でもなく、時雨にぬれた山や野の姿でもなかった。
  それは人の心であった。
  そして、それが自分の心であるのに気付いて、上皇は驚くのだ。
  上皇は冬空を見、冬の冷たい野山を見た。
  その気高さと澄んだ気配にみちたりていた。
  すでに彼女は道鏡に身も心も与えつくしていた。」 

                                            以上
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by uqrx74fd | 2013-02-23 15:25 | 生活

万葉集その四百十一(菅原の里)

( 菅原神社 奈良市菅原町)
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( 喜光寺  同上 )
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( 同上  万葉歌碑 )
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( 垂仁天皇陵 )
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( 近鉄尼ヶ辻への道の途中で 後方若草山 )
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( 垂仁天皇陵付近で  柿を啄むメジロ )
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( 菅原の里の面影を残す垂仁天皇陵近辺 )
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( 帯解寺 )
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菅原の里は昔、埴輪などの土器を朝廷に貢納していた土師氏(はじし)という氏族の
本拠地で後に菅原の姓を賜ったのでその名があり菅原道真の出生地とされています。
今は新興の住宅やマンションが立ち並び、近鉄西大寺駅の周辺、奈良市菅原町という
町名にその名残をとどめているのみですが、少し先の垂仁天皇陵辺りまで歩くと、
田畑が広がり当時の面影を偲ぶことが出来ます。

平城京に近かった昔は西側の山々を背にした長閑(のどか)な田園地帯で、
鬱蒼とした木々に囲まれた貴族の邸宅もあったことでしょう。

万葉集に菅原の地名が出てくるのは1首しかありませんが、
後々まで歌い継がれた恋の歌です。

「 大き海の 水底深く 思ひつつ
     裳(も) 引き平(なら)しし 菅原の里 」
           巻20-4491 石川郎女 (いしかはの いらつめ)


( 大きな海の水底 その深い底のように、私の心の奥深くに想いをこめ、
  裳を引きながら、行ったり戻ったりして、あの方のお出でを 
 今か今かとお待ちしていた菅原の里。
 それも、今は遠い昔の思い出になってしまったことです ) 

作者は藤原宿奈麻呂(すくなまろ)の妻であった女性で、

「 かって、夫の来訪を待ちかねて裳裾を引きながら、何度も菅原の里を
  行ったり来たりして心を弾ませていたのに。
  今は彼の愛も薄れ、とうとう離別させられてしまった。
  あぁ、あのひたすら情熱を燃やしていた頃が懐かしい 」

と往時を回想しながら、楽しかった思い出に浸っています。

お相手の男、宿奈麻呂は藤原宇合の第二子、不比等の孫で、25歳の時、藤原広嗣の乱に
座して伊豆に流され、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の折には朝廷側に立ち、兵を率いて
追討する(49歳)という波乱の人生を送り、死後、太政大臣を追贈されるという
「終わりよし」の人生を送った人物でした。

755年2月初旬、三形王(みかたのおほきみ)という官人の邸宅で
立春を前にした宴会が催されました。
春を寿ぐ歌が3首続いた後、宴に参加していた大伴家持が

「 古い歌にこんなのがありますよ。
  この歌の女性が夫をしきりに待ちかねたように、私も鶯が我が宿に来て鳴くのを
  切望している次第です」と披露したようです。

家持は「 他人より自分の家の庭にまず最初に来て鳴け!」 という趣旨の歌を
詠むほど鶯の初音に強い執着を持っていました。
石川郎女の歌は「大海の水底」という奇抜な表現と赤い裳裾を靡かせている
艶やかな天平美人を想像させ、青と赤の色の対比も鮮やかなことから多くの人に好まれて
歌い継がれていたのでしょう。

「西大寺 西日に松も 輝けり 」 竹村秀一

近鉄西大寺駅から住宅街を通り抜けて歩くこと約1.5㎞。
鎮守の杜もない町のまん中にぽつんと菅原神社が鎮座まします。
入口の「菅公御生誕の地」と彫られた大きな石碑がひときわ目を引き、
碑も社も建て替えられたばかりなのか、清々しい雰囲気が漂っています。

道真に因んで植えられた梅の蕾のふくらみを愛でながら、ふと、前川佐美雄氏の話を
思い出しました。

『 昔はどこの農村も家々に鶏を飼っていたが、この菅原の村だけは飼わなかった。
鶏は「とき」をつくる。 夜明けに鳴く。
鶏が早く鳴くと道真はそれだけ早く家を出なければならない。
筑紫に配流される道真に同情して嘆き悲しんだ。
鶏を飼わなかったのはこのゆえだが、これをこの村の人から聞いたとき
私は感動した。』
                      ( 大和まほろばの記 角川選書より要約 )

「 西の京 塔のかたちに 霜のこる 」 山田春生

参拝を終えて、西の京の方角に向かって歩くと程なく喜光寺の前に出ました。
もと、菅原寺とよばれていた行基ゆかりのお寺です。
元明、元正、聖武、三帝の勅願寺で、大仏建立に尽力をしながらこの寺に住んで
いた行基はその完成を待たずに亡くなりました。

かっては東大寺と比べられ、隆盛を誇る大寺でしたが、度重なる火災や災害で消失し、
今は室町時代建立といわれる本堂にその面影をとどめているのみです。
菅原の里という縁からでしょうか、寺の隅に石川郎女の歌碑が建てられています。

「 薬師寺の 塔見えて来し 枯蓮田」     伊川玉子

行基の遺徳を偲びつつ喜光寺を後にしてしばらく歩くと、田園が広がり、
遠くに若草山、右手に薬師寺の塔、左手には垂仁天皇陵が迫ってきました。
のどかな風景です。

垂仁天皇には次のような逸話があります。

「 その昔、不老不死の薬「時じくの木の実」を田通間守(たじまもり)求めさせ、
常世の国(外国)に遣わした。
間守は10年間探し求めて、その実のなる木 (橘ともいわれる)を手に入れ
帰国したが天皇は既に崩御された後であった。
間守はその木の一部を皇后に献上すると共に、残りは天皇の御陵のほとりに植え、
嘆き悲しんで亡くなった。 」

池に囲まれた巨大な御陵の周りは田畑が続き、メジロが柿の実を啄んでいます。
近鉄尼ヶ辻駅に向かう途中、垂仁天皇に因んで「橘を植えよう」という看板が立ち、
畑に小さい木が十数本。
まだ植えられたばかりのようです。
さらに歩くと、皇室に腹帯を奉納したと云われる安産の神様「帯解寺」の前に出ました。

駅まであと1分足らず。
好天気に恵まれ、歴史の里を感じさせてくれた気持ちの良い一日でした。

「垂仁陵へ 野焼の煙 及びけり 」  三好かほる
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by uqrx74fd | 2013-02-16 17:26 | 万葉の旅

万葉集その四百十(早春の火祭り)

( 春日大社大とんど祭り  奈良飛火野にて 正面は春日山 )
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(  同上 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 若草山焼き )
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(  同上 )
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( 同上  朱雀門からの撮影 )  yahoo画像検索より
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( 同上  薬師寺裏 大池からの撮影 ) yahoo画像検索より
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「飛火野の 鹿を追ひつつ とんど組む 」 飯隈球子

2013年1月26日 奈良で2つの火祭りが開催されました。
例年10万人が集まるという「春日大社大とんど祭」と「若草山焼き」です。

「とんど祭」は春日野、今は飛火野とよばれている春日神社の境内の一角に
大きな火炉(5m×2m 高さ2m) を設置して、正月に春日大社へ納められた古いお守りや
お札(ふだ)、注連縄などを炊き上げ、感謝と共に年神様を送り、あわせて新年の
息災を祈る神事です。

雲1つない快晴の午後14時。
正面の春日山に向かって祝詞をあげた神主さんが自ら火入れすると、折からの風に
あおられ、たちまち勢いよく燃え上がりました。
巫女さんが打ち振る鈴の音が高く広く玲瓏と空を渡ってゆきます。

お焚き行事の起源は平安時代 宮中で三毬杖(さぎちょう)とよばれる3本の青竹を立てて
正月飾りを燃やした行事に始まるといわれていますが、その後全国各地に広まり、
どんど、とんど、左義長(さぎちょう)、サンクロウヤキ(長野)、オニビ(九州)など
数えきれないほど色々な名前でよばれており、中には神奈川県大磯町で
重要無形民俗文化財に指定されているものもあります。

時折風が強く吹き、火の粉が音を立てて舞い上がります。
炎の揺らぎを見ながら、次第に古き時代この地で野焼きが行われていたことに
想いを馳せてゆきました。

「 おもしろき 野をば な焼きそ 古草に
    新草(にひくさ)交じり 生(お)ひば 生ふるがに 」
                        巻14-3452 作者未詳(既出)


( 楽しい思い出が一杯つまっているこの野原をそんなに急いで焼かないでおくれ。
  それに新芽もまだ出かかったばかりで可哀想ではないか。
  若草になるまで伸びるだけ伸ばしてやろうよ )

「な○○そ」は禁止をあらわす言葉で「な焼きそ」は「焼くな」と強い調子で
 叫んでいる様子が窺われます。

「おもしろき」は「見ていて楽しい」の意で作者は古草を見ながら、
かって若草のもとでの逢引きを思い出しているのでしょうか。

「生ふるがに」は「生ふるがね」が訛ったもので、
「新草が生い茂りたいと思っているのなら、その通りにしてやってほしい」という意です。
野焼き作業をしている人に向かって呼びかけた形ですが、草木に対する愛情と、
思い出の場所を焼いてくれるなという淡い恋心が籠る歌です。

「 春日野は 今日はな焼きそ 若草の
      つまもこもれり 我もこもれり 」 
                    古今和歌集 よみ人しらず


( 春日野は今日だけは特別に焼かないで!
 愛しい人も、おれも草の中に隠れているのだから )

野原で愛しみ睦み合う二人、ほのぼのとした情景が彷彿されます。
昔は枯草が格好のベッドだったのでしょう。
   
「 山焼きや ほのかに立てる 一つ鹿 」 白雄

午後6時少し前、春日山の間から月がゆっくりと昇ってきました。
満月の光が皓皓とあたりを照らしています。

底冷えがする暗闇の中、突然轟音と共に花火が次々と打ち上げられてゆきます。
若草山焼き開始の合図です。

山の一角から一条の炎が横に走ってゆきます。
種火は「春日神社大とんど祭」の聖火を吉野の金峰山寺の山伏が列をなして
運んだものです。

二条、三条、次々と点火されてゆきます。
たちまち山は炎に包まれ、壮大な火の祭がはじまりました。

通説によると、この行事は1760年,東大寺と興福寺の境界争いを奈良奉行が調停して
若草山を5万日の預かりにしたことが起源と云われています。
山を焼くことで境界を無くし、手打ちしたのでしょうか。
観光としての山焼きは1900年(明治33年)からだそうです。

太古から冬に野を焼き山を焼くことは大切な農作業の一つでした。
人々は枯れた雑草や雑木を焼き払って害虫を駆除し、残された草木灰を天然の肥料として
蕎麦、粟、稗、大豆などを育てていたのです。
今では焼き払われた山の黒い土の下から蕨やぜんまい、そして土筆などが
春の訪れを告げていることでしょう。

「 明日からは 若菜摘まむと 片岡の
    朝(あした)の原は 今日ぞ焼くめる 」
               柿本人麿(かきのもとのひとまろ)  拾遺集


( 明日からは 若菜を摘もうとして 片岡の朝の原は
  今日は野焼きしているようだ )

この歌は万葉集には見えません。
柿本人麻呂の名も人麻となっていますが、果たして本人のものか確かめる術は
ないようです。
色々な歌が変形して愛唱歌のようになったのかもしれません。

「 火が鬩(せめ)ぐ 鶯御陵の お山焼き 」    河合佳代子

若草山は昔、鶯山とよばれていたそうです。
雅な名前ですが、鶯が多く棲息していたのか、山頂の前方後円墳は「鶯塚」、
春日奥山には「鶯の滝」があります。

「 山焼きの 炎の先を 鹿走る 」 泊月

山焼きはいよいよ佳境。
月も中空にさしかかっています。
炎は30分から1時間かけて全山を覆い尽くしますが、大きな線状にしか見えません。
というのは点火が順次行われるので時間が経過するとともに前の部分が
焼き尽くされて黒く燻った状態になるのです。

写真集などで見られる全山炎に包まれる情景は全プロセスを記録した
技術上の集大成で、若草山が一番美しく映えるのは薬師寺の裏にある大池、
平城宮跡の朱雀門前。
プロの写真家が好んで撮影するアングルです。

炎の勢いが次第に衰えてきました。
人々も三々五々散り始め、急に肌寒さを感じます。
奈良新公会堂前の広場に立ち尽くすこと3時間。

さてさて、私も熱燗を求めて町に下りてゆきましょう。

「古き世の 火色ぞ動く 野焼きかな」  飯田蛇笏
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by uqrx74fd | 2013-02-09 08:14 | 生活

万葉集その四百九(巨椋池)

( 宇治川 )
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( 宇治橋 )
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( 桂川 )
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( 木津川 )  yahoo画像検索より
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( 淀川 )   yahoo画像検索より
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( ありし日の巨椋池 ) yahoo画像検索より
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( 蓮 飛鳥にて )
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( 同上 )
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 巨椋池(おぐらいけ)は京都府南部、現在の伏見、宇治地域にまたがる場所に
存在していた湖とも言うべき巨大な池で、宇治川、桂川、木津川がこの入江に流れ込み、
西方の淀川に溢れ出る、いわば遊水池の機能をはたしていました。

古くから湖岸周辺には船着き場(津)が設けられ、淀川から瀬戸内海さらには中国大陸に
通じる水上交通の要衝であり、飛鳥、平城京への木材運搬の中継地点としての役割にも
大なるものがあったようです。
近江など、近郷各地から伐り出された木材を川に落として運び、一旦ここに集荷してから、
順次、木津川へ流し途中から陸路で都へ運搬したのです。
都づくりの最中は水路、陸路ともに殷賑を極めたことでしょう。

然しながら、1594年、豊臣秀吉の伏見城築城に伴い、築堤工事を受け持った
前田利家が宇治川を伏見に迂回させたことにより巨椋池は一変しました。
池への流水が絶え、周囲16㎞水域面積8平方km(約(800ha)の孤立した
淡水の湖沼になったのです。

『 京都の南方、わずか二里のところにある伏見の指月(しげつ)は、
  伏見山の最南端が巨椋池にのぞむ丘陵である。
  このあたりには、平安のむかしに藤原俊綱の山荘がいとなまれたりしたほどで、
  景観もすばらしい。
  眼下にひろがる巨椋池は,池というよりも湖といったほうがよい。
  その大きさは、信州の諏訪湖ほどもあった。
  かの万葉集にも
  「巨椋の入江とよむなり 射目人(いめひと)の伏見が田居に雁わたるらし」 とある。』
                  ( 池波正太郎 真田太平記巻5 新潮文庫より) 

「 巨椋(おほくら)の 入江響(とよ)むなり 射目人(いめひと)の
    伏見が田居に 雁わたるらし 」  
                          巻9-1699 柿本人麻呂歌集


( 巨椋の入江が ざわざわと鳴り響いている。
  射目人(狩人)が身を伏せているいう伏見。
  その田んぼの方へ雁が移動してゆくらしいなぁ )

射目(いめ)とは猟師が鳥獣を射るために柴などを折って身を隠す道具をいいます。
言葉遊びも取り入れた歌で、
「 弓を射る猟師が身を伏せて待ち構えている伏見の田んぼ。
その田んぼに向かって、狙われているのも知らない雁の群れが
わざわざ飛んで行くわい」 と「伏す」「伏見」と音を掛け
「 そんな危ない所へ飛んで行くこともあるまいのに 」と興じています。

歌の題詞に「宇治川にして」とあるので、作者は宇治川の岸辺、巨椋池の注ぎ口の
近くにいて、水面に響く雁の羽音を耳にし、群れが飛び立つさまを推測した
一首ですが巨椋池、伏見2つの地名を配して自然の大きな景色を詠みこんだ秀歌です。

「 秋風に 山吹の瀬に 鳴るなへに
     天雲(あまくも)翔(かけ)る 雁に逢へるかも 」 
                           巻9-1700 柿本人麻呂歌集


( 秋風が強く吹くとともに、山吹の瀬の川音が高くなった。
  折しも はるか天雲の彼方を飛び翔ける雁の群れに出会ったよ )

作者は巨椋池から移動して、宇治橋のやや下流あたり(?)「山吹の瀬」とよばれる
ところで先ほど羽音を聞いた雁に出会ったのです。

「 他界のざわめきの果てに天空はるかに消え去ろうとする雁の姿をとらえ
  雄大かつ繊細な印象を与える歌」(伊藤博)です。

雁が飛び去ってゆく彼方に作者の故郷があるのでしょうか。
しみじみとした旅愁も感じられます。

なお、この歌を「秋風の 山吹きて 瀬の 鳴るなへに」と訓む説もあります。
この場合は「秋風が 山から吹いてきて 川の瀬が鳴ると」という意味になりますが
地名と見る説が多いようです。

巨椋池は蓮の名所であったらしく、大正15年、和辻哲郎は谷川徹三に誘われて
早朝、淀川から蓮船を仕立てて見学に出掛け、想像以上の雄大さに大いなる感銘を受け
「そこに仏教が説く極楽浄土の世界を見た」という趣旨の短い随筆を書いています。

以下は一部抜粋です。

『 巨椋池のまん中で咲きそろっている蓮の花をながめたときには、
 私は心の底から驚いた。
 蓮の花というものがこれほどまでに不思議な美しさを持っていようとは、
 実際予期していなかったのである。 - -

 舟の周囲、船頭の棹(さお)の届く範囲だけでも何百あるかわからない。
 しかるにその花は、十間先も、一町先も、五町先も、同じように咲き続いている。
 その時の印象でいうと、蓮の花は無限に遠くまで続いていた。
 どの方角を向いてもそうであった。
 地上には、葉の上へぬき出た蓮の花のほかに、何も見えなかった。
 これは全く予想外の光景であった。

 私たちは蓮の花の近接した個々の姿から、大量の集団的な姿や、
 遠景としての姿をまで、一挙にして与えられたのである。
 しかも蓮の花以外の形象をことごとく取り除いて、純粋にただ蓮の花のみの世界として
 見せられたのである。
 これは、それまでの経験からだけではとうてい想像のできない光景であった。
 私は全く驚嘆の情に捕えられてしまった。』 
                             (和辻哲郎随筆集 岩波文庫より)

「 蓮の葉押しわけて 出て咲いた 花の朝だ 」   尾崎放哉

その美しい極楽浄土、歴史ある巨大な池は、昭和8年(1933)、国民への
食糧供給充実という目的で干拓事業が開始され、8年後の昭和16年(1941)に
農地化されて完全に消滅しました。

現在は渡り鳥の飛来地となり、近くの葦の群生地をねぐらとする燕が
毎年数万匹もみられるそうです。

 「 初燕 はや水を恋ひ 水を打ち 」 大久保橙青
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by uqrx74fd | 2013-02-02 17:44 | 万葉の旅