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万葉集その四百二十一(万葉花紀行)

(森野旧薬園   裏山に薬園がある 奈良県宇陀市)
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( 同上 カタクリと蕨 )
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( 又兵衛桜と桃  奈良県 宇陀市)
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( 同上の桃 )
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( 大美和の杜  山辺の道 )
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( 同上  後方は三輪山 )
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( 同上  満開の桜 )
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 ( 山辺の道の桃 )
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「 鶏ねむる 村の東西南北に 
   ぼあーん ぼあーんと 桃の花見ゆ 」 小中英之


『 桃の花の ま昼の長閑さをうたっている。
  鶏まで眠りこけている暖かい日ざしの昼、視野は一面にかすんで、
  東西南北どっちを向いても桃の花だ。
  こんな村の桃の花は、人間より大きな存在感をもって佇んでいる。
  「ぼあーん ぼあーん」と大らかに,放恣に、生命の木の力をみせて佇(た)っている。
  桃の木だけが意思をもっているような風景だ。」 
                      ( 馬場あき子 花のうた紀行より 新書館 )

4月8日の花祭りも終わろうとする頃、関東地方は葉桜になると同時に牡丹、石楠花、
躑躅、藤があれよあれよという間に一斉に満開。
木々は鮮やかな新緑に覆われ、はや初夏の趣です。
季節の移ろいのあまりの速さに驚き戸惑い、桜や桃が無性に恋しくなりました。

「  そうだ! 奈良へ行こう。 
   又兵衛桜の後ろに遅咲きの桃があった!
   山辺の道にもまだ咲いているかもしれないぞ! 」

思い立ったらもう止まりません。
早速、新幹線に飛び乗り、近鉄大阪線の榛原(はいばら)駅へ直行し、
ここからバスで終点の大宇陀へと向かいます。
この辺りは昔、阿騎野(あきの)とよばれ、柿本人麻呂が
「東の野に かぎろひの立つみへて」と詠った万葉ゆかりの地です。

走り出したバスの窓から外を眺めると川沿いの道の長い桜並木が見ごろ。
「これは幸先がいいなぁ」と浮き浮きした気分で花見を楽しみながら
道の駅大宇陀に到着。
榛原駅から約20分です。

ここから徒歩で約500m先の史跡「森野旧薬園」へ向かいます。
今から450年前に「吉野葛」を製造するかたわら薬園を営み、
江戸時代、徳川吉宗の庇護をうけて幕府に漢方薬や吉野葛を献上した老舗です。
国内で唯一現存している薬園で、昭和天皇も御幸された由。

吉野葛を販売している店舗で入園の許可を戴き裏山へ。(入園料300円)
登りはじめるやいなや山道の崖にカタクリが群生しているのが目に飛び込んできました。
やや小ぶりですが薄紫色の上品な佇まいです。
曇り空なので開いている花が少なく、下を向いて眠っているよう。
時期が少し遅いので半分ぐらいは花期が終わっていましたが十分に見ごたえがあり、
目録を見ると「すり傷、できもの、滋養」に効ありと書かれていました。

頂上から周囲見渡すと、広大な山に約250種類の薬草が所狭しと植えられており、
その管理は並大抵なものではなかろうと想像され、450年の長きにわたり先祖代々
連綿と引き継いでこられたご苦労に頭が下がる思いでした。

人一人いない園内をゆっくり拝見させて戴いた後、又兵衛桜に向かいます。
戦国の武将 後藤又兵衛が戦いに敗れて落ちのび、子孫も移り住んでいたという
ゆかりの地の桜です。
歩くこと約2㎞、巨大な桜と桃の木が見えてきました。

「 向つ峰(を)に 立てる桃の木 ならめやと
        人ぞささやく 汝(な)が心ゆめ 」
                            巻7-1356 作者未詳


( 向かいの高みに立っている桃の木 。
 あんな木に実などなるものかと人がひそひそ噂している。
 お前さん、決して尻ごみなどするなよ。 )

「二人の恋が成就するはずなんてありえない」と、世間が噂しているが
「決して迷うんじゃないよ」と励ましている男。
桃は女性のたとえです。

又兵衛桜は残念ながら花期が過ぎていましたが、遠くから見ると淡いピンク色をしていて、
残り香を漂わせている後家のようです。
満開の赤い桃は後方の山々の緑を背景にして鮮やかに映えています。
周囲をゆっくり巡り歩くと爽やかな風が渡ってゆきました。

「花散らす 風の一日や 宇陀郡(うだごおり) 」  福永京子

花見を十分堪能した後、山辺の道へ向かいます。
榛原駅に戻り、桜井経由で三輪駅下車。
大神神社から狭井神社に向かう途中の「大美和の杜」がお目当てです。
目立たない場所なので、ほとんどの人が気付かないで通り過ぎていきますが、
丘の上から大和三山が展望出来る絶好のビユーポイントなのです。

ゆっくり登りはじめると、何と! 枝垂桜が満開ではありませんか。
桜、桜、桜、道の周りを埋め尽くし、頂上も桜。
他の場所はほとんど葉桜になっているというのに、なんという幸運!

「 あしひきの 山桜花 日並べて
   かく咲きたらば いたく恋ひめやも 」
                     巻8-1425 山部赤人


( 山桜の花、この花が幾日もずっとこのように 咲き続けているのなら
  こうもひどく心を引かれることなどあろうか。
 すぐ散るからこそ、こんなに悩ましいのですよ )

丘から臨む景色は素晴らしい。
大和三山のほか卑弥呼の墓かと云われる箸墓。
そして背後に金剛、葛城,二上山。
振りかえると桜越しに三輪山が。

人が誰もいないのが不思議です。
山の辺の道の案内書にも書かれていないので、地元の人しか知らない場所なのでしょうか。

立ち去りがたい気持ちで杜を後にして檜原神社へ。
「確か神社の前に桃の木があったぞ」と思い出しながら歩くこと約2㎞。
謡曲「三輪」の舞台になった玄賓庵(げんぴんあん)を過ぎると檜の林が続いており、
通り抜けると神社に到着です。

  「 桃咲くと 檜原の鳥居 幣白き 」 堀文子

1年前親しい友人たちと白い幣でお互いに御祓いをしたことを思い出しながら
参拝をすませ、鳥居の前の道を真っ直ぐに下ります。

山の辺の道を左折したことになり、コースから外れますが近くに桃畑と
井寺池があり、ここからも大和三山が臨めるのです。
井寺池まで約5分たらず。
桃が今盛りなりと咲き匂ひ、振り返ると三輪山が池に映り込んでいました。

そのまま下りると箸墓の前に出ますが、坂道を上って戻るのが大変なので途中から
引き返し、山辺の道散策を続けます。

景行天皇陵の近くで農家の人が桃の手入れをしていました。
広々とした田園風景が広がり、のどかな風景です。
崇神天皇陵のこんもりとした繁みの中の満開の桜も池に映えて美しい。

さらに長岳寺へと歩き続け、ところどころに咲く桃を楽しみながら
千古という店でゴール。
友人たちと乾杯をした蕎麦屋さんです。

阿騎野を含めると約12㎞の花紀行。
カタクリ、レンゲ、タンポポ、蕨、桜、桃。
行く春の名残を心ゆくまで惜しんだ爽やかな1日でした。

  「 野に出れば 人みなやさし 桃の花 」  高野素
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by uqrx74fd | 2013-04-27 07:22 | 万葉の旅

万葉集その四百二十 (カタクリの花)

( カタクリの花 弘前城公園 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 青梅にて)
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( 同上 )
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( 森野旧薬園 奈良県 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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「 をさなくて わがふるさとの 山に見し
   片栗咲けり みちのくの山に 」 三ヶ島霞子


 雪解けと共に北国のカタクリの花便りが届いてまいりました。

 ユリ科多年草のカタクリの古名は「堅香子(かたかご)」です。
 「堅」は「片」の意で、種から成長する過程で、まず片葉が生じ、
 数年以上(7年とも)を要してようやく両方の葉がそろうことによります。

 また「香子(かご)」は「鹿の子」、すなわち、鹿の斑点のような葉をもつことに由来し、
 当初「カタハカノコ」とよばれていたものが「カタカゴ」に変化したといわれています。

 さらに花の形がユリに似ているところから「片子百合」(カタコユリ)になり、
 真中の「コユ」が「ク」につまって「カタクリ」になったそうです。(諸説あり)

 カタクリの花の美しさを最初に詠ったのは大伴家持。
 万葉集でたった1首しか残されていませんが、カタクリを語る時に
 必ず引用されている集中屈指の名歌です。

「 もののふの 八十娘子(やそおとめ)らが 汲み乱(まが)ふ
             寺井の上の 堅香子の花 」   
                           巻19-4143(既出) 大伴家持


   ( 泉のほとりへ美しい乙女たちが三々五々、水桶を携えて集まってきます。
     そのかたわらにカタクリの花が咲き乱れて-- 何と美しいことよ )

  長い冬からようやく待望の春を迎え、その喜びに溢れんばかりです。
  こんこんと湧く清泉、入り乱れる乙女、群生する美しい花。
  乙女たちの笑い声や水の音まで聞こえてくるような気がいたします。

 「もののふ」は元々「朝廷に仕えた上代の官人」が原義でしたが、
  古代の朝廷には職掌ごとに多くの氏族が奉仕していたので、
  それらの総称として「もののふ(物部)」という言葉が用いられました。
 ( 武士,武辺のイメージとなるのは平安時代からです)
 さらに氏族が多かったことから八十(やそ=数が多い意)に掛かる枕詞と
 なったとされています。

 初々しい乙女の枕詞にそぐわない気がしますが、調べが良く、すらすらと
 言葉に出して歌える一首です。

「 妹がくむ てらゐの上の かたかしの
         花咲くほどに 春ぞなりぬる 」   藤原家良


 この歌は大伴家持の歌を本歌取りしたものですが、平安時代「堅香子(かたかご)」は
 「堅樫(かたかし)と訓まれていました。

 万葉仮名はすべて漢字で書かれていたので王朝人は正確な訓み方がわからず
 「何やら堅い木」に咲く花と勘違いしていたようです。

 鎌倉時代になり、万葉集の注釈書を刊行した仙覚が「カタカゴ」という訓み方を唱え、
 これが現在の「カタクリ」であるとし、以来ゆるぎない定説となっています。

「 春雨の ふりつぐ中に みづみづしく
       一日閉じたる かたくりの花 」    土屋文明 


 カタクリの花は夜明けとともに開き、夕暮れになると閉じますが、
 雨や曇りの日には開かないお天気次第の気難し屋でもあります。

「 かたくりの若芽摘まむと はだら雪
       片岡野辺に けふ児等ぞ見ゆ 」   若山牧水


カタクリの若芽葉はおひたし、味噌、胡麻、胡桃、豆腐和え、三杯酢、
さらに鱗茎(球根)は天麩羅にして食べると美味。

鱗茎(りんけい)は片栗粉にし、薬用として風邪、下痢、湿疹、切傷にも効ありとされ
古くから重用されてきました。
ただし、現在では原料不足と手数が掛かるため、ジヤガイモからとったものを
片栗粉と称して売られています。


「 日中(にっちゅう)を 風通りつつ時折に
      むらさきそよぐ 堅香子の花 」    宮 柊二


 紅紫色の清楚な花は気品があり、清純な乙女を連想させます。
 恥じらうように下向きに咲く姿も初々しく「春の妖精」の名にふさわしい。

 カタクリはまた、「眠り姫」ともよばれています。
 「花の命は短くて」の言葉通り、1か月余で花も葉も跡形もなく消え去り、
 次の春まで地下で眠ってしまうのです。

1年の大部分を地下で過ごすのは、夏は樹木の葉の影になって日ざしが届かず、
冬は積雪に耐えられないためで、冬が終わり落葉樹の葉の茂るまでの間に地表に顔を出し
太陽の日ざしを一杯浴びて鱗茎に養分を蓄え、繁殖のための種を作ります。

   「片栗の 一つの花の 花盛り」   高野素十

群生を離れてひそやかに咲くカタクリの花。
たったの一輪でも春の訪れを声高に告げているようです。
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by uqrx74fd | 2013-04-20 07:04 | 植物

万葉集その四百十九(天の香久山)

( 笑う香久山 )
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( 万葉歌碑 
   「 大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山
   登り立ち 国見をすれば 国原は けぶり立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ
   うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづ しま) 大和の国は 」  巻1-2 舒明天皇
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( 香久山登り口 )
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( 中腹から 畝傍山 後方は葛城山 )
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(  山頂の社 )
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( 井上稔 香久山 想像上の埴安の池が描かれている 奈良万葉文化館刊図録より)
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( 天の岩戸神社 )
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 ( 同  内部に掛けられている絵 )
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「 大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 」
                      巻1-2の一部(既出) 舒明天皇 

( 大和には多くの山々があるが、 その中でも木々が豊かに生い茂り、
  美しく装っている香具山
  神話の時代に天から舞い降りたと伝えられている香具山- )

と万葉集で詠われている香久山は多武峰の山つづきの端山で、その先端が
平野に突き出たような形になっています。
正面から見ると山というより、なだらかに広がる丘のようです。
古代、このような地形のところが神事の場にふさわしいと考えられ、人々は山上に
神祭りの場を設けて、祈り、卜占を行い、山の土で祭器を作っていました。

「伊予国風土記」逸文に
「香久山は天上より天降(くだ)った時二つに分かれて一つは大和に落ち、
もう一つは伊予に落ちて天山になった」という神話が伝えられていますが、
万葉集で「天の」という枕詞が冠されているのは香久山のみです。
古代の人々がいかにこの山を特別な存在として崇めていたか窺われますが、
山の麓に神話で名高い「天の岩戸神社」があることにも関係しているのかもしれません。

「香久山に 筍掘りの一輪車」  飯隈球子

近鉄耳成駅から東の方角に向かって歩くこと約2㎞。
奈良文化財研究所を通り過ぎたところから香久山がひょっこりと姿を現わします。

大きな竹林の枝が風に吹かれて靡いている脇のなだらかな道を上って行くと、
登頂口の前に「大和は群山あれど」の大きな歌碑が立っていました。

山は木々に囲まれて視界が狭く、わずかに畝傍山が臨める程度です。
標高152m。ゆっくり上って約20分。
あっという間に頂上に。

山頂には小さな社が二つ、国土を治める神、国常立(くにとこたち)神社と、
雨や水を司る龍神、高靇(たかおかみ)神社が祀られています。
次の歌は、都が藤原宮から平城宮に遷された(710年)のち、この地を訪れた人が
香久山の麓の池で舟遊びを楽しんだことを懐かしんで詠ったものです。

まずは訳文から。

「 天から降ってきたといわれている香具山
   この山に 春がやってくると 
 桜の花が 木陰いっぱいに咲き乱れていました。

 松を渡る風に  麓の池の波が立ち
 その岸辺には あじ鴨(巴鴨ともいう)の群れが騒ぎ、
 沖の方で 鴨がつがいを求めあっていたこともあります。

 しかしながら、かって宮仕えの人々が御殿から退出して
 いつも楽しそうに船を漕いでいた姿はなく、櫂も棹も見当たりません。
 思い出のよすがとして船を漕いでみようと思ったのに。 」
                                巻3-260 作者未詳

訓み下し文

「 天降(あも)りつく 神の香具山 
  うち靡く 春さり来れば
  桜花  木(こ)の暗茂(くれしげ)に

  松風に 池波立ち
  辺(へ)つ辺には  あじ 群(むら)騒き
  沖辺には 鴨妻呼ばひ

  ももしきの 大宮人の 退(まか)り出て
  漕ぎける船は  楫棹(かじさを)も
  なくてさぶしも  漕がむと思へど 」 
                        巻3-260  作者未詳


往時の華やかな様子が彷彿とされる歌ですが、木陰を作っていた桜の木々は 
ほとんど姿を消し、松籟を響かせていた松の木も1970年頃、松くい虫の被害を受けて全滅。
今は常緑広葉樹が生い茂り、視界を阻んでいます。
大宮人が舟遊びを楽しんだ池は、埴安(はにやす)池と推定されていますが、
付近に池らしい池は見当らず、僅かに道の途中で見かけた「天香久山埴安池伝称地道」という
石柱に名をとどめるのみです。

「 古の 事は知らぬを 我れ見ても
       久しくなりぬ 天の香具山 」   巻7-1096  作者未詳


( 過ぎ去った遠い昔のことはわからないけれども、私が見はじめてからでも
  もう随分長い間変わることなく、神々しくあられることよ。
  この天の香具山は )

下山は反対側の道から北麓の「天香久山神社」に向かいます。
折しも、登ってくる小学生の集団に出会いました。
歴史の勉強でしょうか、引率の先生が熱心に説明しはじめ、耳を傾けると

『 天香久山神社の祭神は占いの神「櫛真知命(くしまちのみこと)」です。
 天の岩戸伝説の岩戸に閉じこもってしまった天照大神を外にお出しするため、
 神々は香久山の牡鹿の骨を、この山の桜木「波波迦(ははか)」で焼いて占いました。
 その占いの結果に従って榊に祭具を取りつけて祀ったところ大神の蘇生を
 見ることになったのです』というような趣旨のことを子供向けに分かりやすく
 話していました。

「波波迦(ははか)」という桜は「カバザクラ、コンゴウザクラ、ニハザクラ、
ウハミズザクラ」などとも云われていますが、注連縄を巻いた櫻木の横に

「 ひさかたの 天(あめ)の香具山 この夕べ
       霞たなびく 春立つらしも 」 
                    巻10の1812 柿本人麻呂歌集より(既出)

の歌碑が建てられていました。

神社を出て天の岩戸神社に向かいます。
周りは田畑が広がり、はるかに見える金剛、葛城の山並み。
美しい板壁の民家が立ち並ぶ道に出ると、その突き当りが「天岩戸神社」です。

どこにでもありそうな簡素な社ですが、なんとなく歴史の重みを感じさせます。
礼拝を済ませて建物の中を覗かせて戴くと、最近奉納されたのか神話の裸踊りの
絵が賑々しく掛かっていました。

崇高な雰囲気を想像していただけに、いささか拍子抜けしたような気持ちで退出し、
近鉄畝傍御陵前へ向かいます。
約2㎞の道のりですが、藤原宮跡の広大な敷地の中に咲くレンゲやタンポポを
楽しみながら、前方に畝傍山、右手に耳成、そして後方に香久山と
大和三山を堪能した散歩道でした。

   「 三山の 天心にして 春の雷(いかづち) 」 沢木欣一

注: 万葉集では「香具山」と表記されていますが一般には「香久山」と記されることが
   多いので、本稿では歌は香具山、説明文は香久山としています。
               ( 国土地理院では天香久山 )
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by uqrx74fd | 2013-04-14 17:25 | 万葉の旅

万葉集その四百十八 (五條)

( 古い街並みが残る新町 )
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( 同上 )
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( 栄山寺八角堂 国宝 )
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( 同  井上稔展図録  県立万葉文化館編より)
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( 荒木神社 )
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( 境内の万葉歌碑 )
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( 翡翠色の吉野川 奇岩が多い場所 )
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(  天誅組の乱の舞台となった桜井寺 )
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奈良県五條市は県の西南部にあり、北は金剛山、南は吉野山地に挟まれた盆地で、
その中央部を吉野川の清流が東西を貫き、古代から紀伊、伊勢、大和、熊野を結ぶ
街道の要衝であるとともに重要な水路要地とされてきました。

市街の中心部から約1㎞のところ、吉野川沿いにある栄山寺は藤原不比等の子
武智麻呂により719年創建され、八角円堂は武智麻呂の子仲麻呂が父母追悼のため
建立したもので現在国宝に指定されている美しい天平建築です。

さらに、917年に完成した鐘楼(国宝)の梵鐘(ぼんしょう)は宇治の平等院、高雄神護寺と
並んで天下の三名鐘とされ、表面にある銘文の撰者は菅原道真、書は小野道風という
当代一流の手によるものです。

「八方に 八角堂の 雪しづく 」谷知 由季子

本陣と云う呼び名も残されている江戸時代の町並みが美しい。
幕末、天領であったこの地で尊王攘夷派の志士が最初に討幕の烽火をあげたので
(天誅組の乱)、明治維新発祥の地ともいわれ、現在の市役所が襲われた代官所跡。
天誅組は近くの桜井寺を本拠にしたと伝えられています。

古代この地方一帯は、宇智、阿多、大荒木とよばれており、
宇智は狩猟地、阿多は鮎漁、荒木は神社ゆかりの地であったようです。

「 阿太人(あだひと)の 梁(やな)打ち渡す 瀬を早み
     心は思へど 直(ただ)に 逢はぬかも 」
                     巻11-2699  作者未詳


( 阿太人が鮎を捕るために川瀬に梁を掛け渡していますが、
  流れは早く、とても渡れません。
 私の恋もこの急流のように逢瀬を妨げられているので、
 心の中で熱愛していても、本人にじかに逢って気持ちを打ち明けることが
 出来ないのです。)

「瀬を速み」は「川の流れが早いので」の意。
周囲の監視、束縛が厳しくてなかなか逢えないことを嘆いた歌です。
阿太人(阿多とも書く)は古くから吉野川沿いで鮎業を営んでいたらしく、
祖先の話が記紀に残されています。

「 神武天皇が高天原から遣わされたヤタガラスの案内で吉野の川上に到りついたところ、
 川で荃(うえ)を仕掛けて魚を獲る人がいた。
 名前を聞くと 「私は国つ神でニヘモツノコです」といいました。
 天皇いわく「これは阿太の鵜飼の祖(おや)じゃ」 (古事記 神武天皇の段)

注: 筌(うえ)=竹で編んだ筒状の漁撈道具で川に沈めて魚を獲る
   ニヘモツノコ:「 (贄(にえ:ここでは鮎) 持つ 」の意で、
   朝廷に鮎を献上していた

阿多人とよばれた人は昔、鹿児島県にも存在し、阿多隼人、大隅隼人とよばれていました。
朝廷に仕え、畿内に多数移住していましたが、都から遠く離れたこの地方にも
住み着いていたのかも知れません。

南阿田、東阿田、西阿田の地名が残る吉野川流域の地には「阿陀比売神社」
(あだひめじんじゃ) がひっそりとした佇まいで鎮座まします。
崇神天皇時代の創建で祭神は「コノハナノサクヤヒメの命」、安産の神様だそうです。

JR五条駅から東へ約1㎞ばかり行くとこんもりとした森が見えてきます。
古代、浮田の杜と詠われた荒木神社です。
近年台風で倒壊した鳥居は立て直されてまだ新しく、朱色が緑の中で映えています。

本殿に続く参道の両脇の木々に地元の人が詠んだ句や歌の札が吊り下げられているのも
珍しく、
「 浮田の森に 鎮まります 万葉の影色 」   増田武治 
の句が目に飛び込んできました。

石階段を上り鬱蒼とした森の奥の拝殿に向かって2拍一礼。

「 かくしてや なほや守らむ 大荒木の
    浮田の杜(もり)の 標(しめ)にあらなくに 」 
                巻11-2839(既出) 作者未詳


( こうして、いつまでも、あの子をずっと見守っていかなければならないのか。
 おれは何も大荒木の杜の注連縄ではないのに )

神社の標(神域)を譬えにして女に手を触れることが出来ない男の嘆き。
いくら待ち続けても女の母親から結婚の許しがもらえないようですが、
詠いぶりが明るいので、宴席で歌われた民謡かもしれません。

「 かくしてや なほや老いなむ み雪降る
 大荒木野の 小竹(しの)に あらなくに 」
                     巻7-1349 作者未詳


( こうしてまぁ、私もだんだん年取ってゆくのだろうか。
 雪の降り積もる大荒木野の篠竹ではないつもりなのに )

いい男に巡り合うことなく年老いてゆく女の嘆きを詠ったもの。
ここでの篠は誰にも刈り取られることなく空しく枯れてゆくものの譬えとして
用いられています。

「 自分はそこそこの女と自負しているのに良縁に巡り合えない。
  瑞々しく美しかった顔や肌は小皺が目に付くようになつてきた。
  あぁ、このまま老いさらばえてゆくのか。」

日を重ねるごとに期待が諦めの心境に変わって行く。
しみじみとした哀感が漂う一首です。

「 ながれては 川瀬の波の 音にのみ
    あたの うかひの 跡はのこれり 」 本居宣長 菅笠日記


本居宣長が当地を訪れた時、鮎漁を生業とする人々は既にいなくなっていたようです。

栄山寺の脇、吉野川のほとりに撫石庵(ぶせきあん)という老舗の料理屋があり、
旅の終わりに立ち寄りました。
往時を偲びながら食べた鮎の美味しかったこと。
いよいよ鮎の季節到来です。

「 我が妹の ふた親眠る 桜井寺
       共に参りて  ありし日偲ぶ 」   筆者

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by uqrx74fd | 2013-04-06 16:22 | 万葉の旅