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万葉集その四百三十四(ねむの木)

( ねむの花  高千穂神社 佐倉市 )
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( 同  国営昭和記念公園 )
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( 同上 )
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( 生駒山山麓  奈良県 )
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( 青森ねぶた  ねぶたの里 )
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( 同上 )
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( 立佞武多 青森五所川原 )
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「 ねむは ながれよ
         まめの葉は とまれ 」


この言葉は七夕の日に出雲地方で行われている「ネム流し」という行事の中で
大きな声で唱える「おまじない」なのだそうです。

小泉八雲はその著「天の川幻想」(集英社)で

『 「ネムの葉と豆の葉」を川に流しながら 
  「ねむ」は「ねむの葉」と「眠り」即ち「怠惰」、
  「まめ」は「豆の葉」と「まめに動く」すなわち「勤勉」を意味し、
  「怠け心を洗い流し、明日からは元気一杯頑張ろう」と気持ちを新たにする
  決意の表明 』
と述べていますが、現在各地で行われている「燈籠流し」や「ねぶた祭り」なども
穢れをネムや紙に託して海や川に流す禊(みそぎ)が次第に変化したものと
考えられています。

「ねむの木」は「眠りの木」とも云われ、対生する葉が夕方になると閉じて
下を向くことからその名があり、古くは「ねぶ」とよばれていました。

葉が眠りにつくや 「桃色の絹糸を束ねて切りそろえたような可憐な姿 (坪井栄)」
とも評されている優雅な花が開きはじめ翌日の昼も咲き続けています。
群生する花の下に佇むと桃のような快い香りが微かに漂い、
木陰で昼寝したくなるような安らぎを感じさせてくれる木なのです。

中國ではこの木を「男女の営みの歓び合(かわ)す」意の「合歓木」と書き、
万葉集の原文表記もそれに従っています。

「 我妹子(わぎもこ)を 聞き都賀野辺(つがのへ)の しなひ合歓木(ねぶ)
       我(あ)は 忍びえず 間(ま)なくし思へば 」 
                                  11-2752 作者未詳


( あの子のことを 噂でもいいから いつまでもずっと聞き続けたいものだ。
 継ぐという名を持つ「都賀(つが)」の野辺に咲く合歓。
 その葉は夜になるとお互いに抱き合い、しなっているようではありませんか。
この様子を見ていると、もうこれ以上忍んでこらえることは出来そうにもありません。
あの子が好きで好きで たまらないのです。 )

都賀野(つがの)は 所在未詳ながら、栃木県西部、滋賀県野洲市、大阪市天満川北 
など諸説があります。
方言が入り混じり分かりにくい歌ですが、「聞き継ぐ」と地名の「都賀」(つが)を掛け、
「しなひ合歓木(ねぶ)」に共寝の女性のしなやかな姿態を想像させています。

「 我妹子(わぎもこ)が 形見の合歓は 花のみに
       咲きて けだしく 実にならじかも 」 
                  巻8の1463 大伴家持 (既出)


( あなたが下さった合歓は花だけ咲いて多分実を結ばないのでは
  ありますまいか。
 あなたのお気持ちもこの花のように実がなく、口先だけで
 本気ではないのでしょうよ )

この歌は作者が10歳も年上の人妻 紀郎女(きのいらつめ)から戯れ半分に

「 昼に咲き、夜は恋をしながら寝るという合歓の花が咲きました。
 私だけで見るのも勿体ない。
 一緒に見ませんか 」
 と暗に共寝を誘われた家持が

「 合歓は花が咲いても 実が生らないといいます。
  あなたのお誘いも口先ばかりで、本心はその気がないのではありませんか」
と返事したものです。

家持の歌に反して合歓はマメ科の落葉高木なので秋にはエンドウ豆風の
立派な果実を付けます。

「 たもとほる(徘徊る) 夕川のべの 合歓の花
        その葉は今は ねむれるらしも 」     古泉千樫


夢見るように咲く合歓の花。
その葉の変わった性質から文芸作品に大いにもてはやされそうな感じがいたしますが、
不思議なことに万葉集以降ほとんど登場しません。

そして、近代になると恋の歌は姿を消し自然のままの美しい眠りの木として
採りあげられるようになります。
中でも、美智子皇后が作詞された「ねむの木の子守歌」はCDが発売されて以来
またたく間に多くの人たちに歌われ、現在も佐藤しのぶさんをはじめ数多くの歌手の
動画配信がなされています。

「 総毛だち 花合歓 紅を ぼかし居り 」 川端茅舎

ご参考

「 ねむの木の子守歌 」

ねんねの ねむの木 眠りの木
そっとゆすった その枝に
遠い昔の 夜(よ)の調べ
ねんねの ねむの木 子守歌

薄紅(うすくれない)の 花の咲く
ねむの木蔭(こかげ)で ふと聞いた
小さなささやき ねむの声
ねんね ねんねと 歌ってた

故里(ふるさと)の夜(よ)の ねむの木は
今日も歌って いるでしょか
あの日の夜(よる)の ささやきを
ねむの木 ねんねの木 子守歌

(美智子皇后陛下作詞 山本正美 作曲)

            
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by uqrx74fd | 2013-07-27 08:26 | 植物

万葉集その四百三十三( 商い 返品あり)

( 全国から納められた調(物品税)を保管する倉庫 奈良文化財研究所 撮影許可済)
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( 入谷朝顔市 )
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( 同上 夕顔 )
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( 粋な男 よっー団十郎 )
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( 浅草 ほおずき市 )
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( 同上 )
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( 美人揃い 飛ぶように売れた?)
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( ほおずき市も国際的になりました )
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万葉の時代、物資の交換の場として市が設けられていました。
中でも平城京中心部に置かれた官営の東西の市は掘割などの水運をともなう
大規模なもので、毎日正午に開き日没前に太鼓をたたいて閉じたと云われています。

店それぞれが商品名を記した標札を出し、品質を三等に分類して価格を付け、
10日ごとに帳簿を整理して市を司る役人に提出する。
粗悪品を売った時は財産を没収、市を囲んでいる築地塀を無断で乗り越えて
侵入すると罰せられるなど、極めて厳重な管理がなされていました。

官営の市を運営したのは、全国各地から税として納められる物産や現物支給の
役人の給与を金銭や必要な物資に交換するためです。
東市は51店舗、西市は33店舗あり、取扱い品は各地から運ばれた衣食住に
関連するもののほか武器なども扱っていました。

一方、海石榴市、軽の市、阿倍の市(駿河)など市井のものは自由な雰囲気で、
時には歌垣なども行われており、男女の出会いの場となっていました。
市へは盗品や偽物を持ち込む怪しからぬ輩もいたらしく、騙された人が
悔しがる歌も残されています。

「 西の市に ただ一人出(い)でて 目並べず 
        買ひてし絹の 商(あき)じこりかも 」 
                        巻7-1264 作者未詳 (既出)


 ( 西の市にただ一人出かけ、自分の目だけで判断して買ってきた絹は
  とんでもない品だったよ。
  あぁ、安物買いの銭失いだ。)

  (目並べず) 自分だけの判断で他のものと比較もせず  
  (商じこり) 商いの仕損じ

  物々交換の市で不良品をつかまされ口惜しがっている男の「ぼやき」ですが、
 「 他人の意見も聞かずに有頂天で我が物にした女がとんだ食わせ物だった」
  と 嘆いている、あるいは
 「仲人口にだまされて見掛け倒しの配偶者を得たことを悔いる気持ちの比喩歌」との
 解釈もなされています。
 ここでは深読みしないで、偽物をつかまされて悔しがる歌としておきます。

「 商返(あきかへ)し めすとの御法(みのり) あらばこそ
    我(あ)が下衣(したごろも)  返し給はめ 」
                           巻16-3809 作者未詳


( 「 商契約の破棄を施行する」などという法令でもあるのでしたら
   私が差し上げた心入れの下衣、その衣をお返しいただいても
   よろしゅうございましょう。 
   さもなくば 受け取る訳にはまいりません。)

この歌には次のような説明文があります。

「 右についてはこんな伝えがある。
  かって帝の寵愛を受けた女性がいた。
  ただし、素性も名前もよく分からない。
  帝は寵愛が薄れた後、昔その女性が差し上げた心入れの品物を
  返してこられた。
  そこで、その女性は恨めしく思い、ちよっとした戯れにこの歌を作って
  帝に献上したという 」

 帝の名前は不明ですが無粋なことをしてしっぺ返しを食ったようです。
 それにしても男と女の関係の歌に「商返し(あきかえし)」という難しい
 法律用語が出てくるのには驚きです。
 余程利発な女性だったのでしょう。

「商契約の破棄を施行する」は伊藤博氏の訳文ですが、女性の戯れににんまりとされ、
 こちらも負けじと大げさな訳を付されたのでしょうか。

 なお、「商返し」については

「 古代に行われた一種の徳政と見るべきもの。
  社会経済を整えるため、あるいは一種の商業政策上から
  売買した品物をある時期の間ならば、各持ち主に取戻し、
  契約を取り消すことを得しめた 」(万葉集辞典 大正8年刊)

 とあり、徳政論は折口信夫氏が最初に説かれたようですが、この歌は単なる
 返品と解釈した方が面白いように思います。
 
「 朝顔の 模様の法被(はっぴ)  市の者」  高濱年尾

 7月6,7,8日 東京入谷の鬼子母神で開かれる朝顔市
 色とりどりの朝顔が売られ、浴衣姿の人々で賑わいます。

「 ただ歩きをりて 鬼灯市たのし 」  西方石竹

こちらは、ほぼ同じ日に浅草寺の縁日に立つ酸漿(鬼灯)市(ほおずきいち)
この日にお参りすると1日で4万6千日分のご利益があるといいます。

どちらもお江戸の伝統の市。
万葉時代から続く市は形を変え、いまだに健在です。

「 高低に 吊りて鬼灯 市の鉢 」 小原牧水
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by uqrx74fd | 2013-07-20 07:46 | 生活

万葉集その四百三十二( 長屋王 2)

( 住宅街の真ん中にある 長屋王の墓  )
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( 同上 )
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( 吉備内新王の墓 住宅の横の石段を上ったところにある)
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( 同上 )
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( 貴族の邸宅復元模型  長屋王邸は数倍も大きかった 奈良文化財研究所 撮影許可済)
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( 宮廷の台所 同上 画面をクリックすると拡大出来ます )
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「 岩が根の こごしき山を 越えかねて
    音(ね)には泣くとも  色に出(いで)めやも 」 
                巻3-301 長屋王(ながやのおほきみ)  (既出)


( 岩のごつごつした山、そんな険しい山を越える辛さに、つい声を出して
 悲鳴をあげることはあっても、あの子を思っていることなど人前でそぶりに
 出したりはすまいよ )

かっと照りつける日差しの下での辛い岩登り。
それでも他人には弱音を吐きたくないものです。
古代の山越えは道なき道を行くようなもの。
高貴な貴族にとっては殊更苦しい旅であったことでしょう。
恋に悩んでいる歌のようですが、政治的に苦しい立場に追い込まれていた作者は
自らの苦難に強く立ち向かおうと決心しているようにも思われます。

長屋王は皇親政治、すなわち皇族が中心になって政治を司るという考えが強い人物でした。
当時、政治の実務を担っていた藤原一族は天皇家との血縁関係によって実権を完全に
掌握せんものと不比等の娘,宮子を文武天皇の夫人として後宮に入れます。

そして、首(おびと)皇子(後の聖武天皇)が誕生。

ところが文武天皇が25歳という若さで世を去り、後継の首皇子は僅か7歳。
已む無く文武の母が元明天皇、続いて姉が元正天皇となって中継ぎの役目を
果たすことになりました。

首皇子の成長を待つこと17年 
724年、念願かなって聖武天皇即位、時に24歳。

不比等は宮子に続き娘の光明子を聖武の后にすることに成功し
藤原家の立場を盤石にしてゆきます。
そして、目論見通り、聖武、光明子の間に基(もとい)王を授かりましたが、
世の中はままならないものです。
期待の星、基皇子がわずか1歳で死没してしまったのです。

しかも、同じ年、藤原家の血筋ではない県犬養広刀自(あがた いぬかい ひろとじ)が
聖武天皇の第2皇子安積親王出産。

聖武と光明子との間で次の子供が授かっても年齢からみて安積親王が天皇になる
可能性が高い。
しかも光明子は臣民の娘です。
ついに、藤原氏は最後の手段として光明子を皇后にすることを画策しました。

然しながら長屋王は「皇族を皇后に」という強い信念の持ち主。
藤原氏の野望の前に立ちはだかることは目に見ています。

そこで起きたのが長屋王の変です。

基(もとい)王の死は長屋王の呪詛によるとの讒言が飛びかいはじめ、さらに
下級官人である漆部造君足(ぬりべ やっこ きみたり)と中臣宮処東人
(なかとみの みやこの あずまひと)が
「王は左道(呪術)をもって国家を傾けようとしている」と密告してきたのです。

729年2月、この密告を深く吟味することなく、天皇によってさしむけられた
藤原宇合の率いる兵に長屋王邸は包囲され、翌日、舎人親王などの数人の首脳陣が糾問。
翌々日、長屋王をはじめ、妃の吉備内親王、子の膳出王(かしはでのおほきみ)ほか4名
すべて自死し果てました。

この事件は藤原氏の策謀によって仕組まれた冤罪だったという事が後々判明します。

「 大君の 命(みこと)畏み 大殯(おほあらき)の 
    時にはあらねど  雲隠(くもがく)ります 」
                        巻3-441 倉橋部女王


( 天皇の仰せを畏れ承って 殯宮などまだお祭り申す時ではないのに、
 我が王は雲の彼方にお隠れになっています)

作者は王の娘かそれに近い女性と思われ、「時にあらねど」に亡くなるべき時ではないのに、
自尽を強いられたことに対する悲憤が強く籠っています。

大殯(おほあらき)は本葬の前に亡くなった人を安置する場所です。

「 世間(よのなか)は 空しきものと あらむとぞ
     この照る月は 満ち欠けしける 」  
                      巻3-442 作者未詳


( この世の中はかくも空しいものと教えるように、
  この月は満ち欠けしているのだなぁ)

父長屋王の後を追った長男 膳夫王(かしわでのおほきみ)の死を悼んで親しい人が
詠ったものと思われます。
口に出して語ることが出来ない不条理な死を、月の満ち欠けに託し、精一杯
抗議しているようです。

長屋王の変の半年後、光明子は皇后になり、藤原氏は野望を成し遂げましたが
歴史は皮肉なものです。
8年後の737年、都で流行した天然痘のため藤原4兄弟が全員病死し、
藤原政権はあっけなく崩壊。
政治の実権は橘諸兄に移りました。
再び皇親派の台頭です。

文化の華開いた天平という時代はその名にもかかわらず激動の時代でした。
天災がうち続き、民情不安定の中、大仏建立を推し進め、九州では藤原広嗣の乱。
聖武天皇は都を転々と遷えて流浪を続けるという不可解な行動をするのです。
一体何に怯えたのでしょうか?

非業の死を遂げた長屋王は奈良、生駒山麓 平群の里に葬られ、松籟の渡る下で、
吉備内親王と隣り合って眠っておられます。
そして、1250余年後、歴史的な発見により再び脚光を浴びることになったのです。

  「 山茱萸(やまぐみ)の 花また花や 平群谷 」 竹村秀一

エピローグ

1986年9月、平城京東南の斜め向かい、左京三条二坊の発掘調査が始まりました。
広さ3万2千㎡。約3年がかりという大規模なものです。
3年後の1988年8月の終わり、調査が最終局面を迎えた頃のことです。
隣接する私有地でデパートの建設工事が進められており、ブルド-ザ-が
砂塵を巻き上げながら縦横無尽に走りまわっていた時、研究所へ戻ろうとしていた
ある調査員がふと傍らに目を向けると、重機で掘り返された土におびただしい木片が
混じっているではありませんか。

慌てて工事を中断させて調査した結果、何と! 4万点に達する木簡が発掘されたのです。
世にいう長屋王木簡で、平城京で個人名が特定された最初の住居跡です。

千載一遇の僥倖、そのまま粉々に打ち砕かれてコンクリートの下に埋まっていたら
この貴重な記録は永久に見つけることができなかったことでしょう。
調査員の何物も見落とすまいと言う日頃の心がけの賜物です。

木簡は不要になったら削り取って再利用されるので、鉋屑のような薄い木片も
重なって埋もれており、そこに書かれた膨大なデータを解読するには相当な年月が
必要とされるでしょうが、早々に判明したことは発掘現場が約2万坪近くある
長屋王の邸宅跡であり、私有地として37か国におよぶ領地をもち、飛鳥近辺から
毎日新鮮な野菜や穀物が運び込まれていたほか、邸内で馬、犬、鶴を飼い、
氷を貯蔵する「氷室」や鋳物の工房を持ち、牛乳、蘇(チーズ)を食べていたという
皇室並みの豪華な生活をしていたことでした。

更に驚くべき発見は「長屋王親王宮 鮑大贄(あわびおおにえ)十編」という
献上品の木簡です。
大宝律令によると、親王という呼称は天皇の兄弟と皇子のみに限られ、
皇族は「王」と称することになっていました。

親王の資格がないのになぜそのように書かれているのか?
1つはその出自の高貴さ故に親王に近い処遇を受けており、王の身辺の人々が
親王扱いして内々に称していたものが、本人がその気になって公然と称するようになった。
あるいは元正天皇が曾孫である長屋王の皇子達を可愛がり、皇孫に格上げしたことに
より長屋王が自然に親王扱いとされたとも推定されています。

それにしても、腐りやすい木の屑に書かれた文字が1300年経過した後でも
解明できるとは! 
まことに奇跡に近い出来事でありました。

 
ご参考 : 官人の年収推定 (現在値換算) 

 正1位 3億7455万円   藤原不比等 橘諸兄
  2位 1億2484万円   藤原仲麻呂 長屋王
  3位 7,490万円     大伴旅人
  従5位 1,540万円    大伴家持 山上憶良
  従6位 616万円     柿本人麻呂

  少初位 (最下位)  230万円 

大宝令で30階に分かれる。 
位に相当する官職が付き、給与のほか田畑、布、農機具などが与えられ、
政治的特権が多かった。
                      ( 山田良三 万葉歌の歴史を歩く 新泉社より)
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by uqrx74fd | 2013-07-13 09:45 | 生活

万葉集その四百三十一(長屋王)

( 平城宮跡朱雀門 壁の後方の白い円形の建物(イトーヨーカド-)あたりが長屋王邸宅跡とみられる)
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( 長屋王木簡について  イトーヨーカドー裏  画面をクリックすると拡大出来ます )
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( 邸宅跡の形ばかりの祭壇  同上 )
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( 長屋王邸宅復元図  奈良国立文化財研究所 )
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長屋王は天武天皇の皇子、高市(たけち) を父とし、天智天皇の皇女、御名部皇女
(みなべのひめみこ) を母として生まれました。

父方、母方の祖父が天皇と云う血筋抜群の家系の上、父、高市皇子は壬申の乱で
大海人皇子(後の天武天皇)の総司令官として活躍し、持統天皇の信頼も厚く
太政大臣まで登りつめた人物、さらに、正妃は文武天皇の妹、吉備内親王という
華麗なる一族です。

26歳で宮内卿として政治の世界にデビユーし、大納言、右大臣に累進、
724年、聖武天皇即位の日に左大臣に就任し位人臣を極める一方、仏教に深く帰依し、
唐招提寺を開いた鑑真が渡日を決意したのは長屋王が仏法を崇敬し1000枚の袈裟を作って
唐の僧に寄進したことを聞いたのがきっかけだったとも伝えられています。
 (唐大和尚東征伝)

また佐保楼と名付けられた邸宅にサロンともいうべき場を提供して多くの文人を招き
しばしば詩宴を催して当代文藝の発展にも尽くした文人政治家でもありました。

万葉集での長屋王の歌は5首。懐風藻には3首の漢詩が残されています。

「 我が背子が 古家(ふるへ)の里の 明日香には
   千鳥鳴くなり 妻待ちかねて 」 巻3-268 長屋王


( あなたの古家が残るここ明日香の里で千鳥がしきりに鳴いています。
 妻を待ちわびて- )

694年都が明日香から藤原京に遷りました。
作者はかって旧都で住み慣れた家があった場所に立ち、千鳥の声を聞きつつ
新都に去った人を想っています。
去った人は女性か、友人か定かではありませんが、妻呼ぶ千鳥の哀しげな声が
そのまま作者の感慨なのでしょう。

「 宇治間山 朝風寒し 旅にして
    衣貸すべき 妹もあらなくに 」       巻1-75 長屋王


( 宇治間山 この山の朝風は寒い。
 旅先にあって衣を貸してくれそうな女もいないのに )

701年2月、文武天皇吉野行幸の折の歌。
宇治間山は明日香から稲渕、栢森を経て吉野へ行く道の途中にある千股(ちまた)の山と
推定されています。
早朝の山道。
寒さに震えながら都に残してきた妃の暖かい肌のぬくもりを思い出したのでしょうか。

724年、左大臣に任命された長屋王のもとへ元正太政天皇と聖武天皇が
お祝いを兼ねて行幸されることになりました。
臣下の邸宅をわざわざ訪れるという破格のお沙汰です。

恐懼感激した王は趣向を凝らした家を新築して迎え、太政天皇はその労をねぎらって
長屋家の繁栄を寿ぐ歌を与えます。

「 はだすすき 尾花 逆葺(さかふ)き 黒木もち
     造れる室(むろ)は 万代(よろづよ)までに 」
               巻8-1637  元正太政天皇


( はだすすきや尾花を逆さまに葺いて 黒木を用いて造った新室
 この新室はいつまでも栄えることであろう )

はだすすき: 皮に包まれてまだ穂が出ていない薄
尾花逆葺き: 屋根を葺くには草の根を下に向けるのが習い。
ここは尾花の穂を下に向けて葺いた
黒木:    樹皮が付いたままの木 

赤塗の柱の宮殿を見慣れた雲上人にとって、野趣あふれる邸宅は
風流なはからいとみえたことでしょう。
まさに王にとって生涯最良の日。人生の絶頂期でした。

それから5年後、聖武天皇が向けた軍によって自刃に追い込まれるとは!
一体誰が想像しえたでしょうか。

                           ( 以下 次回に続く )
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by uqrx74fd | 2013-07-06 19:53 | 生活