<   2013年 08月 ( 5 )   > この月の画像一覧

万葉集その四百三十九 (生駒山)

( 平城宮跡 大極殿  後方 生駒山)
b0162728_7375496.jpg

( 生駒山)
b0162728_738872.jpg

( 東大寺二月堂から  前方 生駒山 )
b0162728_7382386.jpg

( 同上 )
b0162728_7383956.jpg

( 落日の生駒山 )
b0162728_7385179.jpg


平城京跡に立ち西の方角を望むと行く手を遮るような山並みが見えます。
奈良県と大阪府の境に聳え立つ生駒山です。
標高642m、それほど高い山ではありませんが山頂から平城京、大阪湾が
一望のもとに収めることが出来るので大化の改新後、外敵の侵入を防ぐため、
烽火台がおかれ、東の春日山と共に宮都鎮護の山とされていました。

難波が瀬戸内海、朝鮮半島、中国大陸への重要な港として整備されるにつれ、
遣唐使、遣新羅使、防人など人の往来が多くなり、加えて物資の運搬も頻繁になります。

当時、都から河内、難波へ行くには生駒山をまっすぐ越えていく「生駒越え」と
山を迂回する「龍田越え」がありました。
「生駒越え」は最短距離ながら険阻な岩道の上、大阪側の平野部に湿地帯が多く、
人々は急ぎの用事がないかぎり斑鳩、龍田本宮を経て高さ200mあまりの丘陵地帯を
通る平坦な「龍田越え」を選んでいたようです。

ところが恋に燃えると、どんなに険しい岩道であろうが沼地であろうがなんのその。
とにかく一刻も早く恋人の姿を見たいと、生駒越えの夜道を駆け抜ける若者たちが
いたのです。

「 夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山
   越えてぞ我が来る 妹が目を欲(ほ)り 」 
                  巻15-3589(既出)   秦 間満(はだの はしまろ) 


( 夕方になると蜩(ひぐらし)が来て鳴くものさびしい生駒山。
 私は、あの子に一目逢いたくて その山を越え、大和に向かっています。)

「妹が目を欲り」に愛する人に逢いたいという切実な想いが込められているようです。

736年6月、大和朝廷は総勢80人からなる新羅使節団を派遣することになり
難波に集結します。
646年に始まり779年まで27次派遣された使節の23番目です。
上記の歌は難波に集まった下級官人が出航する風待ちの間休暇を与えられ、
僅かなひと時を惜しんで妻に逢いに行った時の歌です。

岩がごつごつしている急峻な山を夜道朝駆けで往復するのですから
余程体力に自信がなければ出来ません。

新羅への道は玄界灘の荒れた海を小さな船で渡る危険な旅。
確実な生還を期し難かっただけに今生の別れと悲壮感が漂う心境だったことでしょう。

当時、山越の道はいくつかあったようですが、今や開発で寸断され、
どの道を辿ったか定かではありません。
ただ、鞍部に「暗峠」(くらがりとうげ:標高455m)と呼ばれる石畳の道が残されて
おり、往時の面影を偲ばせてくれています。

「 君があたり 見つつも居(を)らむ 生駒山
    雲なたなびき 雨は降るとも 」
                   巻12-3032 作者未詳


( あの方の家のあたりを見やりながらお待ちしていましょう。
 あの生駒山に雲よ、どうか棚引かないで下さい。
 たとえ雨は降っても )

大和に住む女性。
恋人は生駒山を越えた難波あたりに住んでいるのでしょうか。
生駒山を恋人に見立て、訪れてくれるのは何時かと待ち望む切ない女心です。

「 難波津(なにはと)を 漕ぎ出て見れば 神さぶる
    生駒高嶺に 雲ぞたなびく 」
                巻20-4380 大田部三成(おほたべのみなり)


( 難波津を漕ぎだして振りかえってみると 
 神々しい生駒の高嶺に雲が棚引いている)

下野(栃木)の防人歌。 
難波を出航し沖合から見た生駒山。

当時の大阪湾は今よりずっと内陸に入り込んでいました。
船上から仰ぎ見る生駒山は故郷そのもの。
「山の神様、どうか私を守って下さい」と、切実な祈りが籠る1首です。

今日の生駒山頂は航空灯台、天文台、テレビ塔が林立し、ケーブルカー、
ドライブウエイが整備された遊園地となり昔日の面影は全くありません。
山頂からの展望も公共建物の鉄柵で立ち入ることが出来ず、登山の途中、
中腹からの眺望で当時の様子を瞼に思い浮かべるしか術がありませんが、
岩が多く残る山道は万葉人の苦労を偲ばせ、季節の花々や棚田が目を
楽しませてくれます。

  「 二重虹 生駒の嶺を 跨ぎけり 」 久保田嘉代

[PR]

by uqrx74fd | 2013-08-31 07:39 | 万葉の旅

万葉集その四百三十八 (家持の百合と撫子)

( エゾカワラナデシコ  北海道礼文島にて)
b0162728_7174732.jpg

( カワラナデシコ  皇居東御苑にて )
b0162728_7175952.jpg

( 同上 )
b0162728_7181169.jpg

( 山百合  神代植物公園にて )
b0162728_7182473.jpg

( 同上 妙音寺:三浦市にて )
b0162728_7184164.jpg

( カノコユリ 小石川植物園にて )
b0162728_7185578.jpg

( ウバユリ:姥百合  神代植物公園にて )
b0162728_719681.jpg

( オニユリ 小石川植物園にて )
b0162728_7191758.jpg

746年、大伴家持は越中国の長官(国司)に任じられました。
栄転とはいえ華やかな都から雪深い国への異動。
任期は5年の長きにわたります。

突然の命令で取る物も取りあえず単身赴任した家持は、持ち前の真面目さで、
日々の任務を無難にこなす傍ら歌作にも力を注ぎ、早や3年。

とはいえ、味気ない夜の一人寝は辛くてたまりません。
現地妻を求めたいと思っても部下の恋狂いを厳しく叱責した手前、
控えなくてはならない立場です。

「あぁ、あと2年も我慢しなければならないのか」と溜息をつきながら
都に残してきた妻、坂上大嬢(さかのうえ おほをとめ) への恋しさが
募っていたある夏の日、無聊を慰めるつもりで野原から自宅の庭に移植した百合と
丹精しながら育てた撫子が見事な花を咲かせました。

愛妻の面影を連想させるような可憐な撫子。
百合の香りが馥郁と漂う中、鬱憤を晴らすかのように家持は詠いだします。

まずは長歌訳文からです。

意訳文
 
「 私は帝の命により、都から遠く離れた役所に赴任してきました。
   雪の降る越の国(富山)、おまけに5年という長い任期です。
   妻の柔らかい手枕もなく、着物のままの ごろ寝の毎日。
 
   これでは気が晴れないと、慰めに撫子の種を庭に蒔いて育て
   夏の野の百合を移し植えました。
   そして咲いた花を 見るたびに
   撫子のような美しい花妻に
   百合(ゆり)― 後々に逢おうと心で呟く
  
                 ※「ゆり」という言葉には「後々に」の意がある

   そのような慰めがないのなら
   このような都を遠く離れた ど田舎に
   1日たりとも 住めるものか 」    巻18-4113 大伴家持

訓み下し文

「 大君の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と 
  任(ま)きたまふ 官(つかさ)の まにま 
  み雪降る 越に下り来(き) 
  あらたまの 年の五年(いつとせ) 
  敷袴(しきたへ)の 手枕(たまくら)まかず
  紐解かず まろ寝をすれば 
 
  いぶせみと 心なぐさに 
  なでしこを やどに蒔き生(お)ほし
  夏の野の さ百合 引き植ゑて 
  咲く花を 出(い)で見るごとに 
  なでしこが その花妻に 
  さ百合花 ゆりも逢はむと 
  慰むる 心しなくは 天離(あまざか)る 鄙(ひな)に
  一日(ひとひ)も  あるべくもあれや 」  
                              巻18-4113 大伴家持


語句解釈

「大君」 天皇  
「遠の朝廷(みかど)」 地方国庁を朝廷の配下にあるものとしての表現
「任(ま)きたまふ」  任命する

「あらたまの」   年の枕詞 改まるに関係ある言葉 
「敷袴(しきたへ) 」  布団  手枕の枕詞 
「紐解かず」    着るものも脱がないで
「まろ寝をすれば」  ごろ寝をすれば
「いぶせみと」   心が晴れず、うっとうしい
「心なぐさに」   心のなぐさめに

「なでしこ」    カワラナデシコ 家持が特に好んだ花
「やどに蒔き生ほし」 庭に蒔いて育て

「なでしこが その花妻」 「花妻」は父、大伴旅人の造語。
                 妻、坂上大嬢を想いみたもの
「ゆりも逢はむと」  「ゆり」は「後に」という意味がある

「 偽りの なき香を放ち 山の百合 」 飯田龍太

愚痴は言うまいと思いつつ遂に本音が出てしまいました。
それは単なる妻恋しさだけではなく中央政界の動きから取り残された
苛立たしい気持ちもあったものと思われます。
心頼みにしていた聖武天皇が譲位、孝謙女帝の時代になり、藤原仲麻呂が
権力を掌握して大伴家の勢力は衰えるばかりだったのです。

その秋、都へ業務報告に上がった家持は妻を伴って帰任。
一人寝の不満はめでたく解消し生涯の傑作といわれる秀歌を次々と詠み、
不滅の足跡を残すことになります。

「 撫子や そのかしこきに 美しき 」 惟然(いぜん 江戸時代)
[PR]

by uqrx74fd | 2013-08-24 07:20 | 心象

万葉集その四百三十七 (クソカズラ)

( クソカズラ 小石川植物園 2013、7、21撮影)
b0162728_1814784.jpg

( 同上 )
b0162728_18141864.jpg

( あちらこちらに絡みつくクソカズラ蔓 花は小さい  同上 )
b0162728_18143166.jpg

( ジャケツイバラ    yahoo画像検索より )
b0162728_18144541.jpg

「 名を へくそかずらとぞいふ 花盛り 」   高濱虚子

屎蘰(くそかずら)。
万葉人は何というひどい名をつけたのでしょう。
これはイヌノフグリと共に醜名(しこな)の双璧ではありますまいか。
現在では、さらに頭に「へ」が付いて「ヘクソカズラ」とよばれる始末です。

アカネカ科、蔓性多年草のこの植物は山野にごく普通に自生し、
木や竹に絡みながら伸びますが、茎や葉を揉むと悪臭がするのでその名があり、
英名も「skunk vine 」(スカンクの蔓)。

ところがその茎や根に含まれるアルブチンに抗菌、紫外線吸収作用があり、
化粧水に配合されているというのですから面白い。
昔はあかぎれや霜焼け(しもやけ)の治療に用いていたという有用の植物なのです。

田植えの頃、赤紫色の可愛らしい小花をつけるとことから「早乙女花」、あるいは
火のついた艾(もぐさ)のように見えるので「灸(やいと)花」という別名もあるのに、
可愛そうに、そのようによばれるのは稀のようです。 

万葉集ではただ1首。
宴席で物の名前を詠みこむというお遊びの中で登場します。

「 菎莢(ざふけふ)に 延(は)ひ おほとれる 屎葛(くそかづら)
     絶ゆることなく 宮仕へせむ 」
           巻16-3855 高宮王(たかみやの おほきみ)既出


「 延ひ おほとれる」 は長く絡みながら延びてゆくさま。

菎莢(ざうけふ)は「かわらふじ」とも訓まれ、マメ科の「ジャケツイバラ」。
(マメ科落葉高木「さいかち」説もあり)、
幹や枝に棘(とげ)があり、花は鮮やかな黄色。
5弁の花びらは丸みを帯び、蕊(しべ)が長く、真中から外へ飛び出しています。

この歌は、菎莢(ぞうけふ)を朝廷、「屎葛」(クソカズラ)を自分に喩え、

「 カワラフジの木にいたずらに這いまつわるクソカズラ。
  その蔓さながらに不肖私めは何時何時までも宮仕えしたいもの。
どんなことがあっても役所を辞めないでしがみ付いていましょう。 」と
現在でも使えそうなセリフで詠っています。

いささか自嘲気味の作者。
能力ゆえか、あるいは出自が重んじられ、世襲制や派閥が強かった朝廷にあって
出世を諦めたのでしょうか。

華やかな花の蔭に鋭い棘を持つジャケツイバラを権謀術数渦巻く朝廷に例えたのは、
作者の精一杯の皮肉といえなくもありません。

「 万葉の世に歌はれし へくそかずら
       わが生垣に からみつつ咲く 」    増井多恵子


久しぶりに小石川植物園を訪れました。
不思議なことに田植えの頃に咲く早乙女花、ヘクソカズラが真っ盛り。
生命力が強い植物故、秋まで咲続けるのでしょうか。
近くに寄っても嫌な匂いはしません。
さわったり、傷つけたりしない限り臭わないということは、繁殖のための
自衛とも云える性(さが)なのでしょうか。

小さくて可憐な花。
やはり、「早乙女花」とよんであげたいものです。

   「 秋されば へくそかずらの花にさへ
         うすくれなゐの いろさしにけり 」 尾山篤二郎

[PR]

by uqrx74fd | 2013-08-16 18:15 | 植物

万葉集その四百三十六 ( はまゆふ 人麻呂恋歌 )

( はまゆふ:浜木綿  横須賀市天神島 )
b0162728_9173863.jpg

( 同上 )
b0162728_9175033.jpg

( 同上)
b0162728_918382.jpg

( 同上 )
b0162728_9182098.jpg

( ハマボウ  同上 )
b0162728_9183436.jpg

 ( 天神島 説明文 )
b0162728_9184926.jpg

(  同上 )
b0162728_919219.jpg

690年、持統天皇が紀伊に行幸された時のことです。
紀伊国 牟婁郡(むろぐん)熊野、現在の和歌山県と三重県にまたがる地域の
見晴らしのいい場所にさしかかったところ、あっと息をのむような
美しい風景が出現しました。

どこまでも果てしなく広がる海と空。
長く続く海岸線に群生している浜木綿(はまゆふ)。
青、群青、緑、白が入り混じり、この世のものとも思えない世界です。
都から外へ出たことがなかった人たちは、初めて見る海と幻想的な花に大はしゃぎ。

周囲の雰囲気を察した天皇は、「しばし休息しようぞ」と仰せになり、
一行は足を止め、宴を催すことになりました。
潮騒の心地よい音が空をわたり、浜木綿の甘い香りを潮風が運んでくれています。
賑やかな酒盛りが始まり、民謡を歌い、踊り出す人々。

宴もたけなわの頃、天皇は「人麻呂よ、歌を」と所望され、
承った人麻呂はしばし瞑想。
そして、おもむろに朗々とした声で男と女がその場で会話しているように
詠いだしました。

「 み熊野の 浦の浜木綿 百重(ももへ)なす
   心は思(も)へど 直(ただ)に 逢はぬかも ) 
                        巻4の496 柿本人麻呂 (既出)


( 黒潮の洋々たる海辺、浜木綿の葉が幾重にも重なり合い、その中に咲く
  白い花は実に美しい。
 このような素晴らしい光景なのに、貴女にじかに会えないので、
 私の心は一向に晴れやかになりません。
 まるで浜木綿のあの大きな葉が重なり合っているような重苦しい気持ちです。
 貴女に対する熱い想いはあの海のように広くて大きいのですが- -)

愛する人を都に残してきたのでしょうか。
何度も、何度も繰り返しあの人のことを想うが、直(じか)に逢えないもどかしさ。
人麻呂は太くて逞しい浜木綿の葉と茎を自身に、清楚で美しい花に恋人の姿を
重ねたのかもしれません。
灼熱の下に咲く花のような熱烈な一首に女性は負けじと返します。

「 百重(ももへ)にも 来及(きし)かぬか とも 思へかも
        君が使ひの 見れど飽かず あらむ 」 
                                   巻4-499  同 


( あなたの文を携えたお使いがお見えになり、幾度でも来て戴きたいと
 思うせいでしょうか。
 お使いの方にお会いしていると、あなたのことを思い出し、
 見ても見ても見飽きません
 でも、あなた様はじかにお見えにならないのですね  )

前の歌の百重を受け、何度でもお便り戴きたいが、やはり本人に逢いたいと願う女。

「 いにしへに ありけむ人も 我(あ)がごとか
         妹に恋ひつつ  寐寝(いね)かてずけむ 」 
                           巻4-497 同 (男)


( 古い昔、この世にいた人も 私のように妻恋しさに 夜も寝られない辛さを
  味わったのでしょうか )

「今のみに わざにはあらず いにしへの
     人ぞまさりて  音(ね)にさへ泣きし 」  
                          巻4-498 同(女の返し)


( 恋に悩んだのは今の世の人だけではありません。
 それどころか古の人は 恋の苦しさに堪えかねて 声を出して泣いて
 いたのですよ )

貴方様の辛さなど物の数でありませんよ。
男を待つ女の辛さはもっと苦しいもの。
私の辛さを察して頂戴と詠う女。

人麻呂は当時、朝廷に仕える美しい女性に恋をしていたようです。
創作とはいえ自身の想いを力強く詠みこんだ情熱的な恋歌で、
南国のむせ返るような雰囲気にふさわしく、宴席は拍手喝采だったことでしょう。

「 紀路は遥けし 三熊野や
  白木綿 咲ける 海岸に
  落つると見ゆる 夕日かな 」  伊良子 清白


横須賀市佐島に天神島という小島があります。
JR逗子駅から路線バスで約1時間位のところです。
1㎞足らずの島の中に我国北限とされる浜木綿の自生地があり早速訪ねてみました。
紀伊半島のような大群生地ではありませんが、海辺に咲く美しい花と
逞しいくも太い葉と茎は人麻呂の恋歌を思い起こさせるには十分な雰囲気でした。

彼岸花科、常緑多年草の浜木綿は万年青(オモト)と葉の形状が似ていることから
浜万年青(ハマオモト)ともよばれます。

花が咲いた後の種はコルク質で水に浮き、海流に乗ってアフリカ大陸から
インド洋を経てオーストラリア、太平洋の島々からハワイ、そして
小笠原諸島から日本の暖地に辿りついたそうです。

浜木綿は、島崎藤村の「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ」と
同じ海路をたどった壮大なロマンの持ち主だったのです。

   「 浜木綿の ただ咲くばかり 無人島 」   平林春子
[PR]

by uqrx74fd | 2013-08-10 09:18 | 心象

万葉集その四百三十五 (天の川)

七夕祭り(平塚)
b0162728_7261112.jpg

( 同上)
b0162728_7262725.jpg

( 同上)
b0162728_7264359.jpg

( 同上)
b0162728_7265832.jpg

(同上)
b0162728_7271336.jpg

(同上)
b0162728_7273170.jpg

(同上)
b0162728_7275021.jpg

( 天の川  yahoo画像検索より)
b0162728_728881.jpg

天文学者 海部宣男氏によると
『 天の川は、1609年にガリレオ・ガリレイが手作りの望遠鏡で無数の微かな
光の星の集まりだと確認するまで、不思議な天の流れであり、
古代シュメール人には天のユーフラテスであり、エジプトでは天のナイル、
インドでは天のガンジス、中国では天河、あるいは長江最大の支流である漢水が
天の川と同じ方向に流れていると考えられたので,天漢、銀漢ともよばれた。
いずれも、とうとうたる大河のイメージである。

ところが万葉の時代に、中国わたりの七夕の宴をとおして日本でも
天の川が親しまれるようになると、天の大河は日本の風土に合わせて清流になった。 』 
と述べておられます。      ( 星めぐり歳時記 じゃこめてい出版 ) 

では、万葉人は天の川はどのような川だと想像していたのでしょうか?
130余首ある七夕歌の中から川を詠ったものを選び、当時の人々の心情を
辿ってみたいと思います。

「 たぶてにも 投げ越しつべき 天の川(がわ)
    隔てれば かも あまた すべなき 」    巻8-1522 山上憶良


( 小石を放り投げても向うに届きそうな川幅が狭い天の川。
 そんな川なのに、こいつが二人の仲を隔てているばかりに、
 どうしょうもない苦しみを味わわなければならないのか。)

この歌は729年、大伴旅人宅での七夕の宴の折に詠まれたもので、作者は
牽牛の立場で詠っています。
「たぶて」は 礫(つぶて)に同じ、「にも」は動作を表す言葉です。
石を投げても届きそうな狭い川なのに簡単に越せるようで越せないと
嘆いており、自身の人生と重ねているようです。

深読みすれば、憶良は川の向こうを彼岸と見立てて、
生老病死と向かい合いながら生きてゆかなければならない現世の苦しみを
言いたかったのかもしれません。
生と死は表裏一体。
でも、そう簡単には彼岸へは行けない。
とすれば、やはり辛くても生きなければ、という気持ちを牽牛に託したのでしょうか。
あの有名な貧窮問答歌が詠まれたのはそれから3年後のことでした。

「 天の川 川の音清し 彦星の
     秋漕ぐ舟の 波のさわきか 」 
                       巻10-2047 作者未詳


( 天の川の川音が清々しく聞こえてきました。
 あれは彦星が この秋の宵に川を漕ぎ渡る舟がかき立てる
 波のざわめきであろうか。)

「さわき」は「動く」の意。
織姫は牽牛が漕ぐ舟の楫音が次第に近づいてくるのを、耳を澄ませながら聞いています。
「 段々音が大きくなってきた。
  間もなくお着きのようだ」
と心をはずませ、迎え支度にとりかかります。

「 天の川 川門(かわと)八十(やそ)あり いずくにか
    君が み舟を 我(あ)が待ち居らむ 」
                       巻10-2082 作者未詳

( 天の川には渡し場がたくさんある。
  私はどこであの方をお待ちすればよいのでしょうか )

天の川には船着き場がたくさんあったようです。
「牽牛様は一体どこへ舟をつけるのでしょう。
そして、私はどこへ迎えに行ったらよいのでしょうか。
ひよっとしたら、逢えないかもしれない。」

と不安が心をよぎります。

「 天の川 霧立ちわたり 彦星の
         楫(かじ)の音聞こゆ  夜の更けゆけば 」 
                        巻10-2044 作者未詳

( 夜もだんだん更けてきました。
 ようやく彦星が舟を漕ぐ楫の音が聞こえてきました。
 まもなくお着きになることでしょう )

随分遅くなりましたが、何とかお着きになりました。
「あぁ嬉しい!」 と いそいそ寝床の用意をする織姫。

「 天の川 棚橋渡せ 織女(たなばた)の
    い渡らさむに 棚橋渡せ 」 
                       巻10-2081 作者未詳

( 天の川に棚橋でも渡しておくれ。
 別れを惜しむ織姫様が お渡りになれるように棚橋でも渡しておくれ )

織姫が天の川を渡ることを詠んだ唯一の歌。

一夜の逢瀬を楽しんだ後、また一年、再会を待たなければならない。
今去ってゆく牽牛の後を追っていけるように急ぎ棚橋を渡せと詠った
心優しい万葉人。
棚橋とは一枚板を棚のように掛け渡した仮設の橋です。

「 天の川 かたむきかけて おほぞらの
     西の果てより 秋はきにけり 」   太田水穂


万葉人にとっての天の川は滔々たる大河ではなく、小石を投げれば届き、
岩があったり、水草が生えていたり。
浅瀬をさらさらと流れる清らかな水は、時には逆巻くように激しく奔流する。
所々に渡し場があり、いつでも向う岸に行くことが出来る。
漢詩にあるカササギの橋はなく、織姫が乗る馬車も登場しません。

霧は櫂の雫となり、別れの涙にもなる。
彦星と織姫はあたかも我が妻や恋人のように詠われ、逢瀬を楽しんだ後の
後朝(きぬぎぬ)も現実そのもの。

そうです。
万葉人にとって天の川は身近なところを流れる小川。
牽牛、織姫は自分達自身なのです。

だからこそ、年に一度の逢瀬というロマンに満ちた伝説は瞬く間に
大勢の人たちに知られ、一つのテーマとしては異例な数の歌が
詠まれたのでしょう。

昭和時代に多くの人達の紅涙をしぼった「君の名は」という映画も
年に一度の逢瀬を約束したストーリィでした。
作者は七夕伝説からヒントを得たのでしょうか。

今年の立秋は8月7日。 
東北各地は仙台七夕、青森ねぶたをはじめ秋祭りの季節を迎えます。
澄み切った秋の夜空の天の川は、さぞ美しいことでしょう。

「 天の川 白き真下の 山あひに 
    我が故郷は 眠りてありけり 」  佐佐木信綱

[PR]

by uqrx74fd | 2013-08-03 07:27 | 生活