<   2013年 12月 ( 4 )   > この月の画像一覧

万葉集その四百五十六(馬と駒)

( ヒダカケンタッキーフアーム: 北海道で  学友m.i さん提供)
b0162728_733109.jpg

( 静内当歳馬  学友 m.i さん提供)
b0162728_7332676.jpg

( 木曽馬 上野動物園 )
b0162728_7334131.jpg

( 野間馬  同上 )
b0162728_7335527.jpg

( 深大寺の赤駒 )
b0162728_73493.jpg

( 同上説明文 画面をクリックすると拡大出来ます )
b0162728_734268.jpg

( 和風小物店 神田ちょん子で ご主人のご厚意で撮影させて戴きました)
b0162728_7344187.jpg

( 同上 神田まつや模型:非売品 )
b0162728_734549.jpg

( 今年も「まつや」さんで年越し蕎麦を戴き、来る年を迎えます。 スケッチは筆者 )
b0162728_7351299.jpg

「 板橋へ 荷馬のつづく 師走哉 」 正岡子規

我国の馬の歴史は古く、洪積世時代に固有の野生種が存在していましたが、
氷河期の厳しい環境の中を生き延びることが出来ず絶滅したそうです。
その後、縄文中期に大陸から家畜化された蒙古馬がもたらされ、古墳時代後半から
急速に増えたと推定されています。

人力に頼るしかなかった時代、その馬力はたちまち人々の生活に欠くことが出来ない
存在となり、運搬、乗用、軍用、駅馬、狩猟、競馬など多岐にわたって用いられ、
とりわけ為政者にとっては所有する馬の数が領土を支配する力と富の源泉となりました。

「駒」は元々「子馬」を意味していましたが、転じて馬に対する親愛の情を込めた
言葉となり、万葉集では馬と併用され88首も詠われています。
また、毛色によって、赤駒、青馬(黒毛を帯びた白)、白馬、栗毛、葦毛(白黒)と
細かく分けられ、さらに想像上の龍馬や馬の鳴き声、足音なども登場し、
歌の中を賑やかに駆け回っています。


「 君に恋ひ 寐寝(いね)ぬ 朝明(あさけ)に 誰(た)が乗れる
   馬の足(あ)の音(おと)ぞ  我れに聞かする 」 
                            巻11-2654 作者未詳


( 君恋しさに眠れもしなかったこの夜明けに、一体誰が乗っている馬の足音なのか。
 この私に聞こえよがしに通りすぎてゆくのは )

作者は男の訪れを待ち続けて、ついに空しく夜明けを迎えたようです。
そんな女の耳に一夜を過ごした後、騎乗して帰って行く男の馬の足音が聞こえてきました。

「もぉ-う、こんなに寂しい思いをしているのに、これみよがしに大きな音を立てて」

誰とも知れない女への羨望と嫉妬。
通ってくれない私の男が恨めしい。

当時の人は蹄の音を「とどとも」(巻11-2653) と捉えており、「轟くごとく大きい」
と感じていたようです。
静かな夜明けですから、ことさら高く鳴り響いたのでしょう。
なお、「パカパカ」「カッカッ」と云うのは後世の擬声語だそうです。
                            ( 近藤信義著 音感万葉集 はなわ新書)

「 初雪の 見事や 馬の鼻はしら  利牛 」

当時の馬の値段は現在の金額にして「高いもので42~43万円、安いものでも25~26万」と
推定されており、( 山田良三 万葉歌の歴史を歩く 新泉社)
さらに、馬一頭を飼うのに精米840㎏を要したそうです。
従って馬に乗ることが出来るのは貴族、官人、豪農に限られ、庶民にとっては高嶺の花でした。

「 妹が髪 上げ竹葉野(たかはの)の 放ち駒
        荒びにけらし 逢はなく思へば 」 
                           巻11-2652  作者未詳


( 幼かったあの子は、もう髪を上げて束ねる年頃になったのだなぁ。
竹葉野で放し飼いにしている馬のように気性が荒々しくなってしまった。
この頃逢ってくれないことを思うと、どうやら俺から気持ちが離れてしまったらしいよ。)

竹葉野は地名。牧場として知られていた野と思われますが所在は不明です。
当時、「髪を上げて束ねる」ことを「たく」といったので歌の「妹が髪 上げ」は
竹葉野(たかはの)の「たか」を起こす序になっています。

「放ち駒」は放牧馬。
馬が荒々しくなっているので「荒れ」を起こす2重の序となっている技巧の歌です。

なお,序とは序詞のことで和歌などで、ある語句を導き出すために前置きとして
述べる言葉。
枕詞と同じ働きをしますが枕詞は4~5音1句,序詞は2~4句にわたることがあり、
上記の歌もその一例です。

作者が云わんとするところは「荒びにけらし 逢わなく思へば」で
好きな女性が年頃になり、髪をたくしあげている姿を思い浮かべながら
「 放牧した馬が奔放になり捕えることが難しいように
彼女も年頃になり、自分の想いが通じなくなった」と嘆いているのです。

「 赤駒を 山野に はかし 取りかにて
    多摩の横山 徒歩(かし)ゆか 遣(や)らむ 」 巻20-4417
 
      豊島の郡 上丁 椋??部荒虫(くらはしべのあらむし)の妻  宇遅部黒女(うぢべのくろめ
)

(  山野に放し飼いにしている我家の赤駒 その馬を肝心な時に捕えることができない。
   あぁ、最愛の人が遠くへ行くのに険しい多摩の丘を歩いて行かせることになるのか )

防人として出征する男の妻の歌です。
赤駒は栗毛(赤黄色)の馬で、 「はかし」は「放ち」の訛 
「取りかにて」は「捕まえることが出来かねて」
「徒歩ゆか」の「ゆ」は手段を表す言葉で「徒歩で」。

「多摩の横山」は相模までの途中にある丘稜地帯。
武蔵の防人はこの丘稜を越えて府中から相模、そして難波へと向かいました。

「 愛する男が防人として赴任するのに、肝心な時に馬はどこへ行ったのか。
あぁ、長い旅を歩かせることになるのか。
苦労するだろう、疲れるだろうなぁ。」

と夫を思いやり、無事に帰って来ることを切に祈っています。

1997年、深大寺山門横の甘味処の女主人がこの歌に因んで愛する人と家族の無事を祈る
お守りとして作った「藁の赤駒」が大人気となりテレビドラマにも登場しました。
( 松本清張「波の塔」 水上しげる「ゲゲゲの女房」)
手作りの愛らしい民芸品で、1951年に作られ始めたものの作り手がいなくなり、
途絶えていたものを復活させたとのことです。

「 咲いた桜に なぜ駒つなぐ
  駒が勇めば 花が散る 」 (俗謡)


 こちらの桜は女性、駒は男性 風流な歌です。

   ご参考 万葉集遊楽 130 「天高く馬肥ゆる」
          同. 200 「龍馬」
          同. 239 「馬の涙」
          同. 307 「つぎね ヒトリシズカ」
[PR]

by uqrx74fd | 2013-12-27 07:35 | 動物

万葉集その四百五十五 (鏡王女)

( 舒明天皇陵 右の道の奥に鏡女王の墓がある 奈良県桜井市忍坂)
b0162728_913865.jpg

( 道脇を流れる清流 )
b0162728_9132391.jpg

( 鏡女王の墓 )
    注: 鏡王女の氏名表記は鏡女王、鏡姫王もありますが
        本文では王女に統一、写真説明は表示のまま女王としました。
b0162728_9134526.jpg

( 同説明板:画面の上をクリックし、右下に表示される虫眼鏡(+印)をクリッックすると拡大出来ます)
b0162728_9135830.jpg

( 談山神社 鏡女王の夫藤原鎌足を祀る  奈良県桜井市 )
b0162728_9141924.jpg

( 同上 )
b0162728_914377.jpg

( 同 )
b0162728_9145738.jpg

( 恋神社  鏡女王を祀る 談山神社内 )
b0162728_9151724.jpg

鏡王女(かがみの おほきみ) は舒明天皇陵の隣近くに葬られていることにより
天皇の皇女もしくは皇孫とする説、あるいは鏡王(伝未詳)の娘で
額田王の姉とする説があります。
もし、皇女であれば中大兄皇子(のち天智天皇)の異母妹にあたりますが、
残念ながら詳しい記録がなく確たることは不明です。

容姿端麗の才媛であったらしく、額田王と共に皇極女帝の宮廷に出仕して
中大兄皇子にみそめられ、後に藤原鎌足の正妻になって不比等を産むという
数奇な運命を辿りました。
また、鎌足の許に降嫁するとき既に身籠っており、それが不比等だともいわれ、
奈良の興福寺(当初は山階寺:やましなでら)の開基は鎌足が病気のとき
王女が発願された、など藤原氏栄華の礎になった女性です。

万葉集中、王女の歌は5首(うち1首は重複しているので実質4首)。
いずれも名歌とされているものばかりで、次の歌のやり取りは
万葉最古の相聞(恋歌)とされています。

「 妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる
    大島の嶺(ね)に 家もあらましを 」
                     巻2-91 中大兄皇子(後の天智天皇)


( せめてあなたの家だけでも毎日見ることができたらなぁ。
 大和のあの大島の嶺に我家でもあればいいのに )

中大兄皇子が難波の都にいた頃、大和に住む鏡王女に送った歌です。
大島の嶺は大和生駒郡三郷町の高安山とされ、ここから王女の家が見下ろせたらしく、
いつもお前さんの家を眺めたいものだと若者らしい率直な詠いぶりです。
この歌を受け取った王女は次のような歌を返します。

「 秋山の 木(こ)の下隠(がく)り 行く水の
     我こそまさめ 思ほすよりは 」  巻2-92 鏡王女


 ( 秋山の木の葉の蔭をひっそりと隠れるように流れる水。
  その水かさが増しても表だってそれと分からないでしょうが、
  そんなふうにあなたより私の方がずっと深くお慕いしていますのよ )

落葉に埋もれた隠水(こもりみず)に控えめな恋慕の情を暗示し、
「行く水」の「まさめ」に「水が増す」と「慕う思いが増す」の意が
込められている細やかな女心。
さらに、「思ほすよりは」と止めることで優雅にして無限の含み持たせています。

なお、結句は「み思(おもひ)よりは」という訓み方もあり、こちらの方が
上品な響きを感じさせるようです。

「清く、つつましく、ひそやかな気持ちの人にはまことにふさわしい」名歌。
                     ( 犬養孝 万葉の旅上 平凡社) 

「 君待つと 我(あ)が恋ひ居れば 我がやどの
     簾(すだれ)動かし 秋の風吹く 」   巻8-1606 額田王


( 愛しい方のおいでを恋い焦がれてお待ちしておりますと
 戸口の簾(すだれ)をさやさやと動かして秋風が吹いてまいりました。
 もしや,と思ったのに- -。 )

この歌が詠まれた頃、天智天皇の心は既に鏡王女から大海人皇子(のち天武天皇)と別れて
後宮に入っていた額田王に移っていたようです。

訪れる人(天智)を今か今かと待ち続け、足音が聞こえないかとじっと耳をすませている。
緊張が張りつめている中、一陣の風がさっと吹き抜け、すだれが揺れ動く微かな音が。
もしや、と胸をはずませたものの、待ち人来たらず。
あとは静寂あるのみ。
恋人を待つ微妙な女心のふるえるような揺らぎを見事に歌い上げている万葉屈指の歌です。

「 風をだに 恋ふるは羨(とも)し 風をだに
   来むとし 待たば 何か嘆かむ 」 
                      巻8-1607  鏡王女


( あぁ、秋の風 その風の音にさえ恋心がゆさぶられるとは羨ましいこと。
 風にさえ胸をときめかせて、もしやおいでかと 待つことが出来るなら
 何を嘆くことがありましょう。)

どうにもならない侘びしい気持ち。
天皇と疎遠になり、鎌足も逝ってしまった。
「風をだに」と「し」を二度重ねてリズムよく心に響く歌です。

なお、この8-1606,1607の2首は巻4-488、489に同様の歌が置かれていますが、
名歌ゆえ古歌として再登場させたのではないかと推定(伊藤博)され、また別々の歌を
編者が意図的に結びつけたとも。

「 忍坂(おつさか)の 陵(みささぎ)どころ 芋の露」  大星たかし

近鉄桜井駅から大宇陀行のバスで約10分、忍坂(おつさか)で下車し
東の小高い丘のほうに向かって歩くと舒明天皇陵があります。
万葉集巻1-2 「大和には群山(むらやま)あれど とりよろふ天の香久山- -」と
国見の歌を明るく、大らかに詠われた天皇です。
その御陵の前を流れる小川の脇に犬養孝氏揮毫の歌碑が木陰の下に建っていました。

暗くて字がよく見えませんが説明板によると原文で

「 秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曽益目 御念従者 」と書かれている由。
( 秋山の 木の下隠り 行く水の 我こそまさめ 思ほすよりは)

清らかなせせらぎと松籟の音が重なり合って心地よく耳に響き、この歌を
奏でているようです。

畑の畦道をさらに約5分ばかり上ると急に視界が広がり、杉に囲まれた
鏡王女の墓がひっそりと佇んでいます。
舒明天皇の陵が宮内庁の管轄、こちらは多武峰の談山神社保存会の所有。
王女が藤原氏に降嫁されたことによるものと思われますが、
その談山神社境内にも「恋神社」、縁結びの神として祀られています。
藤原鎌足との夫婦仲がよく、氏母としても大切にされたのでしょう。

歌のようにつつましく、清らかな生涯を終えた女性だったようです。
  
「 あがりきて 忍坂の凧  峰を ちかみ 」 山口誓子             
                               ちかみ: 近く
[PR]

by uqrx74fd | 2013-12-20 09:16 | 生活

万葉集その四百五十四 (秋山我れは)

( 長谷寺の春  奈良)
b0162728_17593696.jpg

( 談山神社の秋  同上 )
b0162728_180281.jpg

( 東大寺二月堂参道付近 同上 )
b0162728_1802657.jpg

( 室生寺付近から  同上 )
b0162728_1804311.jpg

( 浮見堂 後方、春日山 同上 )
b0162728_181233.jpg

( 吉城園 同上 )
b0162728_1812270.jpg

( 山辺の道  同上 )
b0162728_1814168.jpg

( 室生寺  同上 )
b0162728_1815994.jpg

668年、近江大津に都が遷された1年後のことです。
中大兄皇子(なかの おおえの おうじ)が即位され、天智天皇が登場しました。
長年住み慣れた飛鳥から遠く離れた近江に都を遷したのは白村江(はくすきのえ)海戦で
唐に大敗し、外敵の侵攻に備えて国内の守りを固める必要があった為とされていますが、
官民の悪評甚だしく、放火が絶えないなど不安定な世情でした。

都造りが一段落した669年頃、そのような人心を一新するためか、天皇は
大掛かりな詩宴を催されます。
天皇列席の下、元老藤原鎌足以下高位高官がずらりと居並び、美しく着飾った
後宮の女性がきらびやかに侍る中での文雅の宴です。

これまで、国見、祝祭、歌垣、恋愛、挽歌など生活に密着して詠われた詩歌が、
自然を詠い、その優劣を争うという初めての試みで、後世盛んに行われた
歌合せの原型をなし、現在も続く曲水の宴や御歌会にもつながる我国文学史上
画期的な催しとされています。

命題は「春山の万花の艶(にほひ)と秋山の千葉(せんよう)の彩(いろ)」
つまり「春山と秋山どちらが趣深いか」を漢詩で競作させたのです。

当時の近江朝は大陸の影響を強く受けており、貴族の子弟のために官立の学校を
創設して詩文を学ばせ「懐風藻」を編むなどを漢詩全盛の時代でした。

習いたての拙い漢詩を披露し、侃々諤々の応酬がありましたがなかなか決着がつきません。
それぞれの披露が終わった頃、天皇は鎌足を通じて額田王に
「どちらに趣があるか判定せよ」と下命されました。

突然の指名にも動じることなく、恭しく承った額田王は漢詩ではなく
和歌(長歌)で応え、朗々とした声で詠いはじめます。

「 冬こもり 春さり来れば 
  鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ
  咲かずありし 花も咲けども
  山を茂(し)み 入りても取らず
  草深み 取りても見ず

  秋山の 木の葉を見ては
  黄葉(もみち)をば  取りてぞ偲(しの)ふ
  青きをば  置きてぞ嘆く  そこし恨めし

  秋山我(わ)れは 」
         
                   巻1-16 額田王


以下一行づつ訓み解いてまいりましょう。

「 冬こもり 春さり来れば 」  ( 冬の枯木が青々と茂る春になると)

     「冬こもり」は春の枕詞。 
      原文「「冬木成」とあり「冬の枯木が青々と茂る」の意です。

      「春さり来れば」 「さり」は「秋さらば」などと同じで
      「~になると」という時間の進行をあらわします。
      向こうからだんだん近づいてきて自分の前を通り過ぎ、
      そして遠ざかるという感じを「去る」と言ったのです。

「 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 」 (これまで鳴かなかった鳥も来て鳴く )
「 咲かずありし 花も咲けども 」 (冬の間咲かなかった花も咲き出す、が、しかし、、、)

   ここで 「咲けども」という否定を予兆する言葉が入り春組は緊張します。

「 山を茂(し)み 入りても取らず 」 

      ( 山が茂っているので 分け入って美しい花を採ることも出来ない)

「 草深み 取りても見ず 」  (草が深いので花を手に取って見ることもない)

ここまでが春の長短を述べて一段落

「 冬の枯木が青々と茂る春が来ると これまで鳴かなかった鳥が来て鳴き
  咲かなかった花も咲く」と春の素晴らしさをあげて春組の人たちを喜ばせ
「 山が茂っているので分け入って入ることも出来ないし、
  ましてや花を摘みたいのにそれも出来ない 」

と短所をあげ 「やっぱり秋か」と春の支持者をがっかりさせる。
そして秋組が期待する中

「 秋山の 木の葉を見ては 」  ( 秋の山の 木の葉を見ては )
「 黄葉(もみち)をば  取りてぞ偲(しの)ふ 」 ( 色づいた葉を手に取って愛でる)

    「偲ふ」は 思いを馳せるの意に使われることが多い。
     ここでは「賞美する」と褒めています。

そして秋組を喜ばせた途端

「 青きをば  置きてぞ嘆く 」   ( 青い葉はそのまま捨て置いて嘆く)

   「嘆く」は「あぁ残念 黄葉したらどんなに美しいことか」
   と溜息をつくの意。

「そこし恨めし」   (その点が残念です)

   と「え-何で」と秋組をがっかりさせ
   「一体どちらなの?」と
   春秋組共いぶかしく思い、周りがざわめいている中、

一呼吸おいて

 「 秋山 我れは 」 ( でも春か秋かどちらを選ぶかと云われれば 私は秋!)

と唐突に判定したのです。

一同声もなく呆然。 伊藤博氏は

『 春秋それぞれ支持する聞き手に心を配り、双方を巧みにあやつりながら
  最後は論理的根拠を何一つ持ち込むことなしに突如「秋」に軍配を上げた。
  この歌は一座の喝采をあび、春側も秋側も恨みっこなしの和気と哄笑が
  座をおおつたことであろう。
  心残りも罪もない爽やかなお開きというべき 』 

と述べておられます。(万葉集釋注)
それにしても一体何故秋だったのでしょうか?
様々な意見があり、以下は要約です。

伊藤博、   天皇の心を読んだ判定と推定
        御言もち(天皇の立場になって詠う) 歌人に課せられた機能

中西進   「恨めし」は単に残念と云うだけではなく
        「恨めしいと思わせるほどに秋のたまらない魅力がある」という
         気持ちを含む。
 
土橋寛    宴が行われたのが秋だったから。
        一同あっけにとられたあと「ああ、そうか」と合点した。
        これは遊びの論理。

犬養孝    花を手に取りえない無念さを訴えるところ女性心理の機微を
        詠いあげている。
        「 春、秋 ともに良いし、また、具合が悪いところもある」と
        ゆきとどいた女性らしい情感の細やかさと豊かさの波動が
        表出されている。
        「どうしたらよいかしら」と迷う心の揺らぎを乗り越えた心情を
        「秋山我れは」に込めた。

青木生子   「女らしい心のゆらぎ」は男の心を引きつけるたくまれた媚態表現、
         「我れは」という個の表現は女歌の最初の確立。

直木孝次郎   どちらも一応の満足をさせ会を無事に終わらせるプロの歌人のわざ。
           額田王が人間として老熟し、ものみなの成熟する秋の美しさを
          しみじみ感じるようになったのではあるまいか。
          収穫の秋、みのりの秋によせる日本の伝統的な思いが
          あったのではないか。

当時の天皇の重要な行事の一つに豊作を祈願するという国事行為がありました。
春の国見で炊煙の多いことを祈り、満開の桜に豊かな実りを予祝する。
自ら田植えを行い、秋には神に収穫を感謝し新嘗祭を行うなど、民の生活と
密接に結びついていたのです。
「春山と秋山の優劣を競う」という文雅の宴にも、そのような思いが
込められていたのでしょうか。
とすれば天皇の意を汲んで収穫の秋に軍配をあげた額田王の心情も理解できる
ような気がいたします。

額田王は若き頃、中大兄皇子の弟、大海人皇子と結ばれて一女をもうけたのち
天智天皇の後宮に入り、既に齢(よわい)40前後。
当時としては老境にさしかかった頃です。
自分自身の偽りなき気持ちとしても華やかな春よりも、しっとりと落ち着いた
秋のほうが好ましかったのかもしれません。

「 花びらの 山を動かす さくらかな 」 抱一

「 千山の紅葉 一すぢの 流れかな 」 正岡子規


   「うーん」 春、秋、甲乙つけがたいですねぇ。
[PR]

by uqrx74fd | 2013-12-13 18:01 | 生活

万葉集その四百五十三 (秋田刈る)

( 明日香稲渕の棚田 )
b0162728_7414951.jpg

( 同上 )
b0162728_7421468.jpg

( 多武峰から明日香への途中:冬野)
b0162728_7423496.jpg

( 聖林寺付近で 後方 多武峰)
b0162728_7425086.jpg

( 畝傍山の麓で )
b0162728_743756.jpg

( 薬師寺の裏で )
b0162728_7432758.jpg

( 二月堂参道の途中で 後方の建物は我国最古の公衆浴場 東大寺大湯屋 )
b0162728_7434593.jpg

( 収穫を終えて感謝のお供え 明日香稲渕 )
b0162728_744412.jpg

「 よの中は 稲かるころか 草の庵(いほ) 」 芭蕉

新米を頂戴して「おやおや、世間はもう稲刈りに忙しい時期なのだ」と
世事に疎い草庵生活のほろ苦さを感じている風雅三昧の作者。

万葉集で稲、田,穂など稲作に因む歌は58首あり、新田開墾、田植え、雨乞い、
鳥獣害駆除、刈り取り、稲搗き、新嘗神事など、様々な作業や行事について
詠われています。
これらの歌から当時の人々の生活状況を窺い知ることが出来ますが、農民たちは
収穫した米のほとんどを税として納め、自ら口にすることができるのは
稗,粟などの雑穀や木の実でした。
また、自領を賜っている下級官人たちの生活も決して楽なものではなく
農繁期になると田暇(でんか)と称する有給休暇を取得して農事に従っていたのです。

「 秋田刈る 仮蘆(かりいほ)もいまだ 壊(こほ)たねば
    雁が音寒し 霜も置きぬがに 」
                  巻8-1556 忌部首黒麻呂(いむべ おびと くろまろ)


( 秋の田を刈り取るために作った仮小屋もまだ取り払っていないのに
 雁の鳴く声が聞こえる。
 まるで霜を置かんばかりのような寒々とした響きだなぁ。 )

当時「稲刈り」という言葉は見えず、「秋田刈る」「秋の田刈る」と言い習わしていました。
作者は自宅から遠く離れたとことに田があったので、寝泊りをする仮屋を建てて
農作業をしていたものと思われます。
ようやく、刈り入れも終わり、さて小屋を取り壊そうかという時に、
雁の鳴き声が聞こえ、急に肌寒さを感じたのでしょうか。
季節の移り変わりの速さに驚きながらも収穫を終えた安堵が感じられる一首です。

「 住吉(すみのえ)の 小田を刈らす子 奴(やっこ)かもなき
   奴あれど 妹がみために 私田(わたくしだ)刈る 」
                       巻7-1275 作者未詳 (旋頭歌)


( 住吉の小田で稲を刈っておいでの若い衆 お宅には奴はいないのかな。
  何の何の。 奴はいるんだが、いとしい女子の御為と俺様が刈っているのさ。)

奴とは使用人のこと。

私田は私有を認められている田で朝廷から貸し与えられているものは
公田とよばれていました。

妻問婚であった当時、夫は農繁期に妻の実家の刈り入れを手伝っていたものと
思われます。
通りがかった顔見知りの男が、
「 お前の彼女の家は使用人がいないからお前が奴替わりか?」と
からかったところ、夫は 
「 いないこともないが、可愛い彼女の為なら えんやこらなんだ 」と
ユーモアまじりに答えたもの。
 
この歌は旋頭歌とよばれ、577,577を基調としており、
上の句が「通りがかった男のからかい」、下の句が「夫の返事」です。

次の歌は、
「 ある女性が已むを得ない事情で尼になり娘の養育をある男に託した。
  養父は娘を慈しみ育て、苦労した甲斐あって美しい女性に成長した。
  ところが、あろうことか、その育ての親が娘に惚れてしまった」
というのです。

そこで実母の尼に次のような歌を送ります。

或る者が尼に贈った歌

「 衣手に 水渋(みしぶ)付くまで 植ゑし田を
   引板(ひきた)我が延(は)へ 守れる苦し 」
                           巻8- 1634 作者未詳


( 衣の袖に水垢がつくほどまでして苦労し植え育てた田なのに
 今度は、鳴子の縄を張り渡して見張りする羽目になったとは辛いことです )

水渋付く : 水田に含まれる肥料などの成分によって野良着が変色すること。
引板    : 田を荒らす鳥獣を追い払う鳴子のこと。
         板に木を添えたものに綱をつけ、引っ張ると音が出るようにした装置
         

「田」を娘に譬えて、虫が付かないか心配だと云いながら、その実、自分の
手元から離すのが辛いというのが男の本音。

さて、困った尼は大伴家持に相談します。

「 佐保川の 水堰(せき)上げて 植ゑし田を 
    刈れる初飯(はついひ)は ひとりなるべし 」 
                  巻8-1635 (上句 尼 下句 大伴家持の合作 )


『 佐保川を堰き止めて水を引き、苦労に苦労を重ねて育てた田よ (尼作)
  その田の稲を刈って炊(かし)いだ新米を食べるのは、
  田の主一人だけのはずですよ (家持作) 』

家持は養父に娘を嫁がせることに同意を示したのです。

まさか、養い親が娘に懸想とは!
実母の尼も想像だにしなかったことでしょう。
俗世を離れている我が身ゆえ、家持に判断を任せてそれに従がおうと思ったのか。
余りの申し入れに返答に窮している尼のさまが想像され笑いを誘う一首です。

それにしてもユーモア精神旺盛な万葉人。
上句、下句別人で詠む万葉集でもこの稀な歌は、後の連歌の源流をなすものと
されていますが、まさか創作ではありますまいねぇ。

 「 明日香村 大字飛鳥 稲架(はさ)日和 」 堀井より子

           「稲架」は「稲掛け」のこと
[PR]

by uqrx74fd | 2013-12-06 07:44 | 生活