<   2014年 05月 ( 4 )   > この月の画像一覧

万葉集その四百七十七(能登の国の歌:酒屋)

( 越中五箇山菅沼集落 )
b0162728_7101148.jpg

( 同上、食事処 )
b0162728_795145.jpg

( 輪島 白米千枚田 )
b0162728_793289.jpg

( 輪島朝市 )
b0162728_79718.jpg

( 同上 )
b0162728_783256.jpg

( よしが浦温泉 下の建物はランプの宿 )
b0162728_781595.jpg

( 能登の酒 )
b0162728_775212.jpg

( 同上 )
b0162728_773910.jpg

「 粕湯酒(かすゆざけ) わづかに体あたためて
       まだ六十(むつとせ)に ならぬ憶良か 」   土屋文明

古代の庶民の酒といえば粕湯酒、即ち酒の粕を湯で薄めたものでした。
山上憶良の貧窮問答歌(巻5-892) にも冬の寒い日、「粕湯酒うちすすろひて」
体を温めていたことが詠われていますが、アルコール分は近年の清酒粕(平均8%)から
推定すると湯で割って1%位でしょうか。
とても酒とは言えない代物ですが、貴族や官人、金持ちが愛飲していた濁り酒や
清酒(すみ酒)は高価で庶民には高根の花。
とりわけ清酒は濁り酒を絹布で何度も漉したものですから、さしづめ現在の
超高級大吟醸といったところか。
濁り酒や酒粕は金さえあれば容易に手に入れることが出来たようですが、
都から遠く離れた能登の片田舎にも酒屋があったようです。
どのような酒を売っていたのか不明ですが、次の歌は酒を盗もうとして
とっ捕まり,怒鳴られているドジな男を周りの者が囃したてているというものです。

(長歌訓み下し文)

「 はしたて  熊木酒屋に      
  真罵(まぬ)らる 奴(やっこ)    
  わし                
  誘(さす)ひ立て           
  率(ゐ)て来(き)なましを      
  真罵(まぬ)らる 奴(やっこ)   
  わし 」             
                   巻16-3879 能登の国の歌

(訳文)

    ( はしたて 熊来の酒蔵で 
      どやされている どじな奴(やつ)
     わっしょい
     引っ張り出して
     連れてきてやりたいんだけどなぁ。
     もたもたして、まだ怒鳴られている間抜けな奴 ) 
     わっしょい 
                              巻16-3879 能登の国の歌
(一行ごとの訓み下しと語句解釈)

「 はしたて 」 
  「はし立て」の「はし」は榊や杉、檜など霊力があるとされた木の枝のことで、
  土地の境界に立てると邪神の侵入を遮ると信じられていた一種のお呪(まじな)いです。
  当時土地の境界を「隈(くま)」といったので「熊木(くまき)」に掛かる枕詞と
  されています。

「 熊木酒屋に 」

  「熊来」は能登湾西岸の石川県鹿島郡中島町あたり
  「酒屋」は酒蔵 ここでは酒造りをしている店

「 真罵(まぬ)らる 奴(やっこ) 」

    「まぬらる」 罵(ののし)ると関係がある言葉といわれ「怒鳴り倒されている」
    「奴」   どじな奴(やつ)

「 わし 」         囃言葉   (わっしょい)


「誘(さす)ひ立て」       こちらへ来るように誘い 
   
「率(ゐ)て来(き)なましを」 
   
   「率(ゐ)て」は連れてくる
   連れてきてやりたいんだけどなぁ。

「真罵(まぬ)らる 奴(やっこ) 」  

   もたもたして、まだ怒鳴られている間抜けな奴よ

「 わし 」         わっしょい 

何人かの若者がふざけて酒を盗みに入り、店番に見つかった。
一人だけ逃げ遅れて捕まったが、店番は女だったか。
女に捕まるようではますますドジ。
と仲間で囃しています。

「 実際は仲間の若者たちが平謝りに謝って連れ出したあとの騒ぎの中での歌で
  あるかもしれない。
  昔はこの種の行為には寛大であったらしい。」( 伊藤博 万葉集釋注) 」

万葉唯一の酒屋という言葉。
当時、能登半島一帯は朝鮮と密接な関係があったので大陸の進んだ酒造技術も
伝わっていたと思われ、村人も折りにつけ酒を飲むことがあったのでしょう。

この歌は囃言葉の合いの手が二度も入り、陽気なお祭り騒ぎ。
能登に伝わる民謡だったのかもしれません。

「 いさざ網 積みて船出る 熊木川 」 南恵子

               「いざさ」はシロウオ、踊り喰いが有名
[PR]

by uqrx74fd | 2014-05-23 07:10 | 生活

万葉集その四百七十六(桃、藤、ホトトギス)

( 満開の桜の下で咲く桃の花 山の辺の道 奈良 )
b0162728_6582240.jpg

( 同上 )
b0162728_658460.jpg

( 藤  春日大社境内 奈良 )
b0162728_6574955.jpg

( 藤  春日大社神苑 万葉植物園 )
b0162728_6572659.jpg

( 巨大なイチイガシに絡む臥龍の藤  同上 )
b0162728_657618.jpg

( ホトトギス 俳句の鳥虫図鑑 成美堂出版より)
b0162728_6564718.jpg

( 平城京天平祭のポスターより )
b0162728_6563111.jpg

( 楽しそうな乙女たち  同上 )
b0162728_6561394.jpg

749年前後の風薫る5月の半ばころ。
越中在住の大伴家持はホトトギスと藤の花を題にした長短歌を作りました。
数ある万葉歌人の中でも家持ほどホトトギスを好み、その初音を待ち望んだ人は
他に見当たりません。
何しろ万葉集で詠まれたホトトギス155首のうち66首が家持の作なのです。

以下は桃、青柳、乙女、ホトトギス、月、藤の花がちりばめられ、さながら
協奏曲のような調べが奏でられており、家持の陶酔ぶりが窺われる長歌です。

まずは意訳文から

(長歌意訳)


「 桃の花のように華やかに映えている顔
  青柳の葉のような細い眉
  その眉が曲がるほどに笑いこぼれている乙女の
  楽しそうな表情を鏡に写している朝の姿の
  なんと美しいことよ

  乙女の手に取っている真澄の鏡の蓋(ふた)ではないが
  その「ふた」という名をもつ二上山の
  木が生い茂る暗き谷あたりを 
  ホトトギスが朝になると
  鳴き声を響かせながら飛び渡ってゆく

  夕方、月が出る頃になると
  光かすかな野辺で 遥かかなたで鳴くホトトギスが
  藤の花に触れて、はろはろと散らす

  そんな藤の花を好もしく思って
  手元に引きよせて手折り
  我が衣の袖に入れた
  着物が染まるなら染まってもかまわないと思って 」 
                                   19-4192 大伴家持

訓み下し文

(ホトトギスあわせて藤の花を詠む)

「 桃の花 紅色に 
にほひたる 面輪(おもわ)のうちに 
青柳の 細き眉根を 
笑み曲がり 朝影見つつ 
娘子(をとめ)らが  手に取り持てる 

まそ鏡  二上山に 
木(こ)の暗(くれ)の  茂き谷辺(たにへ)を 
呼び響(とよ)め  朝飛び渡り 

夕月夜 かそけき野辺に 
はろはろに 鳴くほととぎす
立ち潜(く)くと 羽触(はぶ)れに散らす 

藤波の   花なつかしみ 
引き攀(よ)じて  袖に扱入(こき)れつ 
染(し)まば 染(し)むとも 」
                        巻19-4192 大伴家持


(1行づつの訳文と語句解釈)

桃の花 紅(くれなひ)色に 

        ( 桃の花のような 紅色に)

にほひたる 面輪(おもわ)のうちに 

        ( 美しく映えている 顔の中で )

             面輪は顔の輪郭の意で顔つき

青柳の 細き眉根を 

        ( 青柳の葉のような細い眉 )

         女性の細くてしなやかな眉を柳に例えたもの。柳眉

笑み曲がり 朝影見つつ 

      ( その眉が曲がるほどに 笑いこぼれている朝の容姿を見ながら )

娘子(をとめ)らが  手に取り持てる 

      ( 乙女たちが 手に取っている )

まそ鏡  二上山に 

      (鏡の蓋(ふた)ではないが その「ふた」の名を持つ二上山に)

      まそ鏡 鏡箱の蓋の意   
      二上山 高岡市北方の山

木(こ)の暗(くれ)の  茂き谷辺(たにへ)を 

      ( 暗くなるほど茂った木の下の谷辺を )

呼び響(とよ)め  朝飛び渡り 

      (  鳴き声を響かせながら 朝 飛び渡り )

夕月夜 かそけき野辺に
 
          ( 夕月のかすかな 野辺に )

          かそけき:光のかすかなさま、家持の造語

はろはろに 鳴くほととぎす

        ( 遥かなたから鳴く ホトトギス )

         はろはろに:遥か彼方からかすかに

立ち潜(く)くと 羽触(はぶ)れに散らす 

       ( そのホトトギスが翔けくぐって 羽に触れて散らす)

          立ち潜くく 枝の狭い間をくぐること
          羽触れ 羽が触れること

藤波の   花なつかしみ 

       ( 藤の花をいとおしく思って )

         花なつかしみ : 花が散るのが惜しくて心惹かれるの意

引き攀(よ)じて  袖に扱入(こき)れつ

       (引きよせて袖に むしり入れた) 

         扱(こき)入れ:手でむしりとる

染(し)まば 染(し)むとも 

        (着物が染まるなら それでもいいと思って)

          とも:放任の意
                巻19-4192 大伴家持

反歌

「 ほととぎす 鳴く羽触(はぶ)れにも 散りにけり
    盛り過ぐらし 藤波の花 」     巻19-4193 大伴家持

( ホトトギスが鳴きながら飛び、藤の花に羽が触れるだけでも
  ほろほろと散ってしまうよ。
  花の盛りが過ぎてゆくらしいなぁ )

この長歌の特異なところは冒頭の「桃の花」から「まそ鏡」まで
二上山を起こす「序詞」となっていることです。
序詞とは「ある語句を導き出すための前置きとして述べる言葉で、
枕詞と同じ働きをしますが、4音5音からなる枕詞と異なり2句ないし4句にわたるのが通常です。
この歌では11句という長い序詞、さらに
冒頭の「桃の花」は家持の秀歌

「 春の苑 紅にほふ 桃の花
    下照る道に 出でたつ娘子(おとめ)」  巻19-4139 大伴家持


を意識したものと思われ、そこには妻大伴坂上大嬢の面影を重ねているようです。
妻とともにホトトギスの初音を聴き、藤の花を眺めている情景を思い浮かべている。
伊藤博氏はこの歌はすべて幻想をもとにして詠われたものとされていますが、
実景として取り扱っても差支えがないようにも感じられます。

ただ、序の内容があまりにも長くも美しいため、本題がかすんでしまった感があり
専門家の評価が分かれるところです。

それにしても家持のホトトギスに対する執着は尋常ではありません。
一体何に魅力を感じたのでしょうか?
詠われた66首の内容を見ると
「初音」「鳴声ない恨み節」「名のる鳥」「網で獲り飼育する」
「蝶の幼虫を産み付ける橘を庭に植えそれを食べるホトトギスを誘う」
「卯の花、藤、菖蒲、栴檀、萩との取り合わせる」「夏到来」
などありとあらゆる場面で詠われています。

万葉人によって詠われたホトトギスはその後、古今集、新古今集の時代にも
受け継がれ、春の花、夏のホトトギス、秋の月、冬の雪という四季を代表する
詠題となり、およそ歌を口にする人にとって一通りホトトギスの事を知っておかないと
歌人の資格がないと云われるほど重要な季語になりました。
家持の影響恐るべしです。

  「 ほととぎす あすはあの山 こえて行こう」 種田山頭火














  
[PR]

by uqrx74fd | 2014-05-16 06:58 | 動物

万葉集その四百七十五(荒れたる都)

(平城京第二次大極殿跡)
b0162728_7424293.jpg

( 同 礎石 )
b0162728_7422754.jpg

( 大極殿鴟尾 )
b0162728_742973.jpg

( 大極殿から朱雀門をのぞむ )
b0162728_7414723.jpg

( 大極殿前で整列する宮人 )
b0162728_7412033.jpg

(  朱雀門説明板   )
b0162728_741384.jpg

( 復元された宮内省 )
b0162728_7403754.jpg

( 同 説明板 画面をクリックすると拡大できます )
b0162728_7401673.jpg

( 大極殿壁画  )
b0162728_7395468.jpg

740年、恭仁京遷都の詔が出された翌年、早々と平城京の大極殿解体移設、
東西の市移転、五位以上の貴族全員に対する移住命令と慌ただしく動き、
平城京は瞬く間に荒廃してしまいました。
古代、都や寺社が移転する際には、資材の有効活用と費用節約のため
建物を解体、再使用していたので、その跡地は草茫々、荒れ放題となったのです。

旧都には東大寺、興福寺、元興寺、春日大社などの大寺社。
住人は僧侶、神官、農民、そして官人たちの女子供、老人。
居住施設が整わないので官人たちは単身赴任だったようです。
恭仁京は奈良と京都の境目にあり、徒歩で日帰りが可能な距離でしたが、
宮仕えの悲しさ、そう簡単に帰宅する訳にもいかなかったことでしょう。

「 紅(くれなひ)に 深く染みにし 心かも
   奈良の都に 年の経ぬべき 」
                       巻6-1044 作者未詳


( 紅に色深く染まるように深く馴染んだ気持ちのままで、私はこれから先
 この奈良の都で歳月を過ごせるのであろうか )

都振りの朱色の建物。
颯爽とした貴公子や官人の佇(たたず)まい。 
華やかな衣装をまとった女官たち。
喧噪たる市の賑わい。
職人たちの槌打つ音。
どれもこれもみな消えてしまった。
深く染みこんだ昔の面影を抱いたまま、これから先を生きてゆかなくてはならないのか。

残された老人のしみじみとした感慨です。

「世間(よのなか)は 常なきものと 今ぞ知る 
  奈良の都の 移ろふ見れば 」  巻6-1045 作者未詳

( 世の中は何と無常なものかということを、今こそ思い知った。
 この奈良の都が日ごとにさびれてゆくのを見ると。)

仏教的無常観が生まれていたことを窺うことが出来る一首です。
新都建設のために徴用された労働者は5500人とも言われ、庶民に新たな負担を
強いることにもなりました。
日常の生活でさえ苦しいのに働き手を取られ一体どうすればよいのだろう。
人々の怨嗟の声も強かったようです。

「 岩つなの またをちかへり あをによし
     奈良の都を またも見むかも 」
                    巻6-1046 作者未詳

( また若返って 大いに栄えたあの奈良の都を再びこの目で見ることが
  出来るのであろうか。
  いやいやそんなことはありえないことだ )

「岩つな」は蔓性の植物で蔓が這い上がりまた元のところに戻ってくる習性があるので
「またをちかへり」の枕詞となっています。 

「 人間若返ることなど出来っこない。
  都を元に戻すことも同じこと。
  あり得ない、あり得ない。」
と諦めの気持ちが強くこもります。

ところが、現実にはあり得たのです。
無計画に事を急いだため資金と人員が不足し、1年経過した後も大極殿はおろか
宮垣すら完成させることが出来ず、ついに744年、恭仁京の造営を中止。
翌745年再び奈良の都に戻ることになりました。

740年に伊勢、美濃など彷徨の旅にはじまり、恭仁、紫香楽、難波とさまよい続けた5年間。
天皇の自律神経失調のため、あるいは父、天武の壬申の乱の足跡を辿り、
新しい生命力を得ようとした、など色々な憶測がなされていますが、
その行動は未だに謎とされています。

そして752年、人力と財物の限りを尽くした大仏開眼。
壮大な文化の華が開き、悲願を果たした聖武天皇は孝謙女帝に譲位(756年)。
僧、道鏡が実権を握った政治は乱れに乱れました。
それでも28年間、平城京は存続しましたが、遂に桓武天皇の時代の784年に長岡京、
続いて794年平安京遷都となり再び奈良に都が戻ることがありませんでした。
それから1220年を経た現在、平城京の復元工事が続けられておりますが、
大極殿、朱雀門、宮内省のみ完成。
都全体を復元するには途方もない年月と資金が必要なようです。

   「 揚雲雀(あげひばり) 折しも平城宮址かな 」 勝又一透
[PR]

by uqrx74fd | 2014-05-09 07:43 | 生活

万葉集その四百七十四(恭仁京 :くにきょう)

( 恭仁京大極殿跡  京都府 )
b0162728_833953.jpg

( 大極殿周辺 )
b0162728_8325129.jpg

( 山城国国分寺跡 )
b0162728_8323834.jpg

( 同 想像図 )
b0162728_8321793.jpg

( 木津川 : 泉川)
b0162728_832422.jpg

( 恭仁大橋の脇に立つ大伴家持万葉歌碑 )
b0162728_8315095.jpg

( 釣り人 木津川 )
b0162728_8312987.jpg

( 大極殿の隣 恭仁小学校 万葉時代朝廷の建物があったと思われる )
b0162728_8311354.jpg

( 説明文   画面をクリックすると拡大出来ます )
b0162728_8305350.jpg

740年、聖武天皇は突然、都を平城京から山背(やましろ)に遷す詔を出されました。
恭仁京(くにきょう)。
当時、瓶原(みかのはら)離宮が営まれていたところで、山々に囲まれた盆地の中心部に
木津川が流れている風光明媚かつ物資輸送に至便の要衝地です。

(現、京都府木津川市加茂町、JR関西本線加茂駅から約2㎞)

時は天平の爛熟期から退廃期に移り、朝廷の中枢を占めていた藤原4兄弟が
天然痘で全員死亡、農民の逃亡は後を絶たず、九州大宰府で藤原広嗣が
反乱を起こすなど、社会、政治とも極めて不安定な情勢でした。

天皇は橘諸兄を右大臣に登用し、さらに20年ぶりに帰国した遣唐使、
玄昉(げんぼう)と吉備真備を重用するなど、局面の打開をはかり、
遷都も橘諸兄の進言によるものであったといわれています。

この地域を勢力圏とする諸兄は藤原氏の影響が強く残る平城京から天皇を
離したかったのかもしれません。

都造りに先立ち、朝廷は馬の管理全般を取り仕切る軍人司令官を派遣し
諸工事を指揮させ、さらに近辺の防備など行わせました。
この長官、歌の素養があったらしく、早速土地を讃える歌を奉納します。

まずは「長歌」の訳文からです。

「 山城の恭仁の都は 
  春ともなると 花が枝もたわわに咲き誇り
  秋には黄葉が まばゆく照り映えている
  恭仁の都を帯のように囲んでいる泉川
  その川の上流に 打橋を渡し
  下の淀みには 浮橋を渡しました。
  この新しい都に ずっと通い続けましょう
  万代の後いつまでも 」 
     
             巻17-3907  境部 宿祢 老麻呂(さかひべの すくね おゆまろ)

(訓み下し文                       右 語句解釈)

『 山背(やましろ)の 久爾(くに)の都は
   春されば  花咲きををり  
                            春されば:春になると
                            花咲きををり: 「ををり」はたわみ曲がる
  秋されば 黄葉(もみちば) にほひ
  帯(お)ばせる 泉の川の  
                            帯ばせる:新都をとりまく川を帯に見立てたもの
  上(かみ)つ瀬に  打橋渡し
  淀瀬には  浮橋渡し
  あり通(がよ)ひ 仕へまつらむ
                          あり通ひ:「あり」は存続の意でずっと通い続けて
  万代(よろづよ)までに  』 

                  巻17-3907  境部 宿祢 老麻呂(さかひべの すくね おゆまろ)

「反歌」

「 楯(たた)並(な)めて 泉の川の 水脈(みを)絶えず
    仕へまつらむ 大宮ところ 」  
                           巻17- 3908 同上


( 滔々と流れ続く泉川の 流れが絶えないように
  いついつまでも絶えることなく この大宮所にお仕えしたいと
  思っていいます )

「楯並めて」は「楯を並べて射(イ)る」の意から「泉」のイに掛けた枕詞で、
 如何にも軍人らしい武骨な用語。

泉川は現在の木津川。
打橋、浮橋はいずれも板や小舟、筏を渡した簡易の橋で造営中の様子を物語っています。

翌741年、平城京の大極殿や歩廊を解体し移設の準備。
東西の市も移し、恭仁京を「大養徳 恭仁大宮 (おおやまと くにのおおみや)」と命名し、
5位以上の貴族全員移住を命じられました。
急な命令とあって取り急ぎ単身赴任をした大伴家持が着任してみると、槌の音も高く
造営の真っ最中、準備不足の慌ただしい工事は遅々として進んでいなかったのです。

「 今造る 久爾の都は 山川の
    さやけき見れば うべ知らすらし 」 
                           巻6-1037 大伴家持 (既出)


( 今新たに造営している恭仁の都は 山も川も清々しい。
 ここに都を定めたのは なるほど尤もなことと 思われる )

「うべ」は事態を肯定する副詞 なるほどもっとも
「知らすらし」 天皇の行為、心情を推し量ったもの

家持は頼みとする橘諸兄が政治の実権を握り、前途に愁眉を開いていたらしく、
この歌にも明るさが見えます。

ところが、1年経過した後の正月、天皇の朝賀の時でさえ大極殿おろか
宮の垣すら成らず、帷幄(いあく=幕)をめぐらした中で行われる有様。
資金、人員不足が甚だしく、遷都さえ危ぶまれる事態です。

にもかかわらず、742年、天皇はさらに甲賀郡紫香楽(しがらき:滋賀県信楽町)に
離宮を造営し、大仏建立を宣言する支離滅裂な詔を出す始末。

そして、とうとう恭仁京の造営を中止して難波を皇都と定めます。(744年)
わずか4年余の短命の都。
天皇自身は紫香楽の宮に移り、大仏建立の指揮を執るつもりでしたが、
放火による火災や地震が頻発し、ついに745年、朝廷の百官や四大寺
(薬師寺、大安寺、元興寺、興福寺)に、いずれを都とすべきかを計り、
全員が平城京と答え、奈良の都に戻ることになったのです。

この平城京復都は光明皇后を後ろ楯にした藤原仲麻呂の画策ともいわれ、
再び藤原氏の復権がはじまります。

「 三香の原 久爾の都は 荒れにけり
     大宮人の うつろひぬれば 」 
                   巻6-1060 田辺福麻呂歌集


 ( 三香の原の恭仁の都は 大宮人が 次々と移り去ってしまったので
  すっかり荒れ果ててしまったことだ )

恭仁京の大極殿は国分寺の金堂に編入され、882年に炎上。
その後、興福寺の末寺として再興されましたが、現在は塔跡に昔の面影を
とどめているのみです。
膨大な財と人力を傾け、多くの人々に塗炭の苦しみを味あわせた恭仁京遷都とは
一体何だったのでしょうか。

  「 石碑立つ 恭仁京跡や 揚雲雀」  筆者

JR加茂駅からゆっくり歩いて30分。
恭仁大橋の上に立つと、美しい山々の裾を木津川が滔々と流れています。
欄干から下を眺めると底が見えるほどに澄んだ水。
昔は川幅が今の倍以上あったことでしょう。
遠くで水遊びをする子供達、鮎釣りを楽しんでいる人。

さらに歩くこと30分。
恭仁京、国分寺の跡は礎石が残るのみです。
隣接する木造の小学校、この辺りも都の建物が立ち並んでいたことが彷彿されます。

人一人いない広場に立つと、せせらぎの涼しげな音が聞こえてきました。
家持もこの場所で美しい山並みを眺めていたのでしょうか・

  「 恭仁京の 跡とて草の 芳(かぐは)しき 」 上山紫牛
[PR]

by uqrx74fd | 2014-05-02 08:34 | 生活