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万葉集その四百八十二 (茅:チガヤ)

( 茅:チガヤ  奈良万葉植物園 )
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(  綿状になった穂  高千穂神社  佐倉市 )
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(  群生する茅  佐倉市の野原で )
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( 浅茅が原  この辺りは昔、茅が群生していたらしい 奈良公園浮見堂の上 )
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( 大神神社  茅の輪 奈良 )
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(  同上 神官を先頭に茅の輪をくぐる  大神神社  月刊なららより )
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( 日本橋のど真ん中に登場した茅の輪  和菓子屋 日本橋屋長兵衛 )
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( 銘菓 つばらつばら 鶴屋吉信 )
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「 妙高の ふもとの茅萱(ちがや) なびくなり
      頂きにして 雲うごくごと 」 与謝野晶子


茅(ちがや)はイネ科の多年草で全国各地の日当たりの良い原野に群生します。
地下茎を横に細長く這わせながら葉や花穂を出しますが、極めて生命力が強いので
古くから悪霊を追い払う霊力があると信じられてきました。
草丈は約80㎝、萱(かや)や菅より短いので浅茅(あさぢ)ともよばれます。(浅は短いの意)

開花前の若い花穂を「ツバナ」といい昔は食用にされていましたが、
甘味があるので近年まで子供のおしゃぶり代わりにもなっていたようです。
花後、綿に包まれたのような穂になりますが、一斉に風に靡く様は
芒とは一味違った風情を醸し出し「雲動くごと」という表現がぴったりです。
また、秋には葉や茎が鮮紅色に紅葉するなど変化自在。
根茎は利尿、止血などに用いられるなど、古代の人達にとって身近な植物であり、
万葉集に27首も登場します。
多くは「浅茅」と詠われ(23首)、残る4首は「つばな、ちばな」です。

「 浅茅原 つばらつばらに 物思(ものも)へば
     古りにし里し 思ほゆるかも 」 巻3-333 大伴旅人


( 心ゆくまま物思いに耽っていると、昔住んでいた明日香、あの浅茅が
一面に広がっていた我が故郷が懐かしく思われることよ )

都から遠く離れた九州大宰府に長官として赴任している旅人。
生まれ育った香具山に近い故郷を懐かしく思い出しながら、
「もう二度と奈良の都に戻れないのではなかろうか」
といささか感傷的になっています。

浅茅原は『あさぢ「はら」』、『つ「ばら」』と「はら」の同音を
繰り返す枕詞として用いられていますが、作者の脳裏には白い穂が一面に
靡いている光景が浮かんでいるのでしょう。

「つばらつばら」は「つまびらかに」の意ですがここでは「心ゆくままに」
「しみじみと」と解した方がよいと思われます。
「古りにし里」は新都「奈良」に対する古き里、すなわち「明日香」。

余談ではありますが京都の老舗「鶴屋吉信」の銘菓「つばらつばら」は
この歌の心を汲んで作られたものだそうです。

「 戯奴(わけ)がため 我が手もすまに 春の野に
     抜ける茅花(つばな)ぞ 食(め)して肥えませ 」
               巻8-1460 紀郎女(きのいらつめ)


( そなたのために私が手を休めずに春の野で抜き取った茅花(つばな)ですよ。
 これをたんと召し上がってお太りなさい )

作者は大伴家持の先輩官人、安貴王の妻で、かなり歳上の女性。
お互いに心を許しあった歌友という関係だったらしく、
ここでの戯奴(わけ)は下僕といったところ。
わざと家持を卑しめ
「 主人の私がわざわざお前のために採ってきた茅花です。
これを食べて太りなさい」
と詠ったもの。
この歌から察するに家持は瘦せ男だったか?

「手もすまに」は「手を休めないで せっせと」

「 我が君に 戯奴(わけ)は恋ふらし 賜(たば)りたる
    茅花(つばな)を 食(は)めど いや瘦せに瘦す 」
                             巻8-1462 大伴家持


( 私はご主人さまに恋焦がれているようでございます。
 頂戴した茅花をいくら食べても益々痩せるばかり)

私が一向に太らないのは貴女に恋煩いしているせい。
と面白おかしく切り返す家持。
楽しそうな雰囲気が彷彿される二人の会話です。

「 君に似る 草と見しより 我が標めし
     野山の浅茅 人な刈りそね 」    巻7-1347 作者未詳

 ( あの方に似る草と知った時から私が標縄を張った野山の浅茅です。
   だからどなたも刈らないで下さい )

村の若い女が若者に好意を抱いた。
「あの人は私が目に付けたのだから手を出さないで」と他の女に訴えたもの。
浅茅を男に例え、標縄は「あの人は自分のものよ」と目印を付けましたという意。
共同の草刈りでの労働歌とも思われます。

「 しら雲や 茅の輪くぐりし 人の上 」  乙二

大祓(おほはらえ)という神事があります。
古くは701年大宝律令によって定められ、6月と12月の晦日(みそか)に行われる
正式な宮中の行事です。
現在は6月は夏越(なごし)の祓、12月は年越の祓とよばれ、半年に1度罪や穢れ厄災を
茅で作った大きな輪をくぐり抜けることによって祓うという行事です。
各地の神社で行われていますが、地方によっては紙や藁(わら)で作った人形を
厄災を背負ってくれる身代わりとして川に流したりしているところもあるようです。

茅の輪を潜る時は

「 水無月(みなづき)の 夏越し(なこし)の祓(はらへ)する人は
    千歳の命 延ぶというなり 」  (出処は 紀貫之 古今和歌六帳とされる)


という古歌を唱えながら左回り、右回り、左回りと8の字を書くように茅の輪を
3度くぐりぬけるのが作法とされています。

この神事は神話上の人物である蘇民将来(そみんしょうらい)がスサオノミコトから
「もし疫病が流行したら茅の輪を腰につけよ」といわれ、その通りにしたら
疫病から免れることが出来たという故事に由来すると伝えられておりますが、
茅の霊力恐るべしです。

「 禰宜(ねぎ)くぐり ゆきし茅の輪へ 人なだれ 」 太田文萌
 
                  禰宜:神官
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by uqrx74fd | 2014-06-27 04:40 | 植物

万葉集その四百八十一(紫陽花いろいろ)

( 長谷寺 奈良 )
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( 白山神社  東京)
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 妙音寺 三浦市 )
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( 滝谷花菖蒲園  奈良 )
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( 明月院  北鎌倉 )
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( 同上 )
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(  アジサイと同じユキノシタ科の イワガラミ  東慶寺 北鎌倉 )
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( 同上 )
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「 思いきり 愛されたくて 駆けてゆく六月
     サンダル あじさいの花 」  俵 万智


梅雨の晴れ間の空の下、サンダルが解放感を一気に広げている秀歌です。

我国原産のアジサイはユキノシタ科の落葉低木で海岸近くに自生する
ガクアジサイが原種といわれています。
花は中心に小さく円く密集していて、花びらのように見えるのは咢(がく)。
普通四枚のものが多いので四片(よひら)あるいは四片花(よひらばな)ともよばれ、
茎は大きくなると固くなって木釘、楊枝に、花は解熱剤、葉は瘧(おこり)、
痙攣(けいれん)の特効薬に使われている有用の植物です。

「 あぢさえの 下葉にすだく蛍をば 
          よひらの数の 添ふかとぞみる 」
                        藤原定家 拾遺愚草


(  紫陽花の下葉に集まっている蛍は 
   四片(よひら)に咲く花に見まごうばかり )

「すだく」は集まるの意。
夕闇の中でほのかな光を点滅させる蛍、その光に浮かぶ紫陽花の咢は一瞬
蛍とみまがうよう。
と幻想的な場面を詠った作者。
「さすが定家、視覚的でしゃれている」とは栗田勇氏の評です。 ( 花のある暮らし 岩波新書)

「あじさい」の語源は
 「あじ」は集(あづ)で「ものが集まる」、「さ」は真(さ)で真実
 「い」は藍、 
「真に深い藍色の花」の意とされています。

漢字に「紫陽花」が当てられていますがこれは誤称。
というのは、昔、中国の白楽天が白と藍が混じった名前の分からない珍しい花を
「紫陽花」と名付けましたが、我国原産のアジサイとは別種の植物であったにも
かかわらず、平安時代の歌人、源順(みなもとの したごう)が勘違いして表記したもの。
訂正されないまま何と!1000年も誤りが続いており、もはや正すのは無理でしょう。
なお、日本からもたらされたアジサイは中国で八仙花とよばれているそうです。

「 茜さす 昼はこちたし あじさゐの
      花のよひらに 逢ひみてしがな 」 
                       穂積皇子 古今和歌六帳


( 昼はうっとうしく見える紫陽花も宵になると四片(よひら)の花びらが
  艶やかになります。
  そのような宵にあなたとお逢いしたいものです )

暮れゆく夕べの中でほのかに浮かぶ紫陽花。
幽玄な中にも艶やかさを感じさせる恋歌。
「宵」と「よひら」が掛けられています。

「こちたし」は「言葉痛し」、人の噂がかしましく、うっとうしい が原義。
ここでは「ぱっとしない」というほどの意味です。

穂積皇子は天武天皇皇子、妻は大伴旅人の妹大伴坂上郎女。
万葉ゆかりの作者なのにこの歌が万葉集に収録されていないとは
不思議なことです。

万葉集での紫陽花はたった2首。
目出度い花と色が変わるので心変わりする花です。

「 あぢさいの 八重咲くごとく 八つ代(よ)にを 
      いませ 我が背子(せこ) 見つつ偲(しの)はむ 」 
                              巻20―4448 橘諸兄(既出)


( あじさいがこの上もなく見事に美しく咲いているこの佳き日。
  あなた様にはこれからも末永くお元気でご繁栄されますように
  お祈りしています。
  これからもあじさいを見る度にあなた様を想っておりますよ )

この歌は丹比国人真人 (たじひのくにひとのまひと) という官人の慶事を
祝う宴席で作者がおどけて女性の立場で詠ったもの。
「八重咲く」は花が密集している様子をいいます。

一方、目出度い象徴の「あじさい」は花の色が良く変わる事から「七色の花」
「七変草(しちへんぐさ)」と呼ばれ「ころころと変わる信用できない人」の
例えにも詠われました。

「 言(こと)とはぬ 木すらあぢさい 諸弟(もろと)らが
     練(ね)りの むらとに あざむかえけり 」 
                             巻4―773 大伴家持


  ( 言葉を話さない木ですら アジサイのように色の変わる花がある。
  ましてや、使者の諸弟(もろと)めの口が達者なこと。
  ころころ変わる練達の言葉に、うまうま乗せられてしまったわい )

「諸弟」:使者を勤めた人の人名 
「練りの むらと(群詞)」:「練りに練った言葉の数々」

この歌は大伴家持が婚約者の坂上大嬢におどけて贈ったもので
今で言えば「うまうまと仲人口に乗せられてしまったよ」といったところで
しょうか。

正岡子規はこの歌の影響を受けたのか次のように詠んでいます。

「 紫陽花や きのふの誠 けふの嘘 」 正岡子規

紫陽花は文芸にふさわしくないと思われたのか、140種近くの植物を描写した枕草子、
110種ほどの植物をちりばめた源氏物語に登場していません。
変化する色は花という感覚に馴染まなかったのでしょうか。

「 さみだれの きのふ一日晴れしかば
         今朝は色よき あじさいの花 」 
                        三ヶ島葭子(よしこ)


万葉集で縁起と忌みとに見たてられたアジサイ。
花の変化を七変化と表現され、化け花、幽霊花の名も残ります。
一方、縁起の良いものとして門守りや金がたまるものとしても尊ばれたのです。
というのは、アジサイは湿気のあるところを好み、水気を吸うので
じめじめした環境を防ぎ、病を遠ざける厄除け。
さらに、アジサイの「アジ」は集まるの古語「集(あ)ず」、サイは「財」とよみなして
「金が集まる」という語呂合わせをしたのです。

  「 紫陽花の 毬(まり)まだ青し 降りつづく 」 松下古城 


幕末に来日したシーボルトは1823年「日本植物誌」を編み、各種のアジサイを
欧州に送りました。
その後、盛んに改良されて豪華な西洋アジサイになり、我国に里帰りし、
今日に至っています。

余談ながら
シーボルトはアジサイ学名(種小名)に、自らが愛した長崎、丸山廓の遊女、
其扇(そのおおぎ)、本名 楠本滝(タキ)の名を採り、「オタクサ」(お滝さんの意)と
命名しました。
牧野富太郎博士は
「シーボルトはアジサイの和名を私に変更して我が閨(ねや)で目じりを下げた
女郎のお滝の名をこれに用いて大いに花の神聖をけがした」
と大変なご立腹です。(植物研究雑誌)

ともあれシーボルトの日本医学に与えた影響は極めて大きく
長崎のシーボルト宅跡は史跡に指定され、また異人との悲恋を秘めたこの花を
いとおしむ多くの人達の希望により、昭和43年(1968)、長崎市の花となりました。

またシーボルトと滝との間に生まれた娘は「いね」と名付けられ長じて
美しく聡明な女性に成長し我国最初の女医になったのです。

うっとうしい梅雨の季節に明るく咲くアジサイ。
すぐれた園芸改良の結果、近代の感性とマッチし、いまや全国いたるところで
多くの人々を楽しませてくれています。

  「 雨に剪(き)る 紫陽花の葉の 真青かな 」 飯田蛇笏
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by uqrx74fd | 2014-06-20 00:14 | 植物

万葉集その四百八十(年魚:あゆ)

( 鮎釣る人  木津川 奈良)
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( 堰を飛び越える鮎  言葉の季節 小学館より 撮影 水野克比古氏 )
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( 今夜の食卓に  5月初旬 まだ小さいなぁ )
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( 鮎の塩焼き    菊乃屋(鳥取)
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( 琵琶湖の小鮎の佃煮 )
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( 銘菓 吉野川  鶴屋徳満(奈良の老舗)
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( 鮎の宿  平野屋 京都奥嵯峨 )
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( 鮎の宿  つたや 同 )
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( 平野屋の大提灯  あゆよろし )
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「 岩間ゆく 清き河瀬に 遊びけむ
    鮎にしあれや 見るも涼しき 」   伊藤左千夫


6月は鮎解禁月。
秋に川で生まれた鮎は一冬海で過ごし、桜の季節と共に群れをなして清流を遡上します。
所々の段差をものともせず飛び越えること1m。
石に付いた珪藻を食べながら成長し独特の香りをもつので香魚ともよばれ
旬は土用の2週間前後。
晩秋に産卵してその短い一生を終えるので年魚とも書かれます。

古代の人たちは鮎が好物だったのか、竿で釣り、梁を仕掛け、鵜飼も行い、
朝廷では直属の鵜飼部を置き、天皇に新鮮なものも供していたようです。
文献にはありませんが塩焼き、刺身、鮎鮨、腸の塩漬け-「うるか」なども
食されていたかも知れません。
木簡の記録によると税として各地から納入されたものは、天日干し、塩漬け、佃煮
酢漬、粕漬などの長期保存が出来る加工品。
塩漬けなどは煮戻すと食べやすい固さと味になる工夫がなされていたようです。

万葉集に見える鮎は16首。
そのうち大伴旅人と思われる物語風の連作が9首、鵜飼を好んだ家持が4首と
大半が大伴親子作。よほど鮎が好きだったのでしょう。
以下は家持の鵜飼の様子を詠ったものです。
先ずは訳文から。

訳文
「 年が改まって春がやってくると  
  花々があたり一面に咲き匂う
  百花繚乱の山裾一帯を響かせて
  落ち激(たぎ)って流れる 辟田川(さきたがは)
  その川の瀬に 鮎がすいすい走って飛び跳ねている

  島つ鳥の鵜、その鵜飼の者どもを引き連れて篝火(かがりび)を焚き
  流れにもまれて上ってゆくと 
  愛しい人が私を偲ぶよすがにと
  紅色に念入りに染め上げて送ってくれた着物の裾も
  どっぷりと濡れてしまった 」  
                                   巻19-4156 大伴家持

訓み下し文

あらたまの 年行きかはり 
春されば  花のみにほふ 
あしひきの 山下響(とよ)み 
落ち激(たぎ)ち  流る辟田(さきた)の 
川の瀬に  鮎子さ走る  

島つ鳥  鵜飼伴なへ 
篝(かがり)さし  なづさひ行(ゆ)けば  
我妹子(わぎもこ)が   形見がてらと 
紅の  八しほに染めて 
おこせたる  衣の裾(すそ)も 
通りて濡れぬ 」 
                 巻19-4156 大伴家持


一行づつ訓み下してまいりましょう。 (右は語句解釈)

あらたまの 年行きかはり 

        「あらたまの」 年の枕詞
        「年行きかはり」 年が過ぎ改まって

春されば  花のみにほふ 

      「春されば」 春になると 
       「花のみにほふ」 花が一斉に咲いて目立つさまを「のみ」と表現

 あしひきの 山下響(とよ)み 

       「あしひきの」山の枕詞 
        山裾一帯を響かせて 

落ち激(たぎ)ち  流る辟田(さきた)の   

         急流が流れる辟田川
         「辟田川」 高岡市伏木あたりの川か

川の瀬に  鮎子さ走る
 
           「鮎子」 若鮎
           「さ走る」上下に跳ねたり水平にすいすい泳いでいるさま
            万葉人の素晴らしい造語。
           「さ」は接頭語 語の前につけて意味を付け加えたり文法上の変化をもたらす
                 (例)さ迷う、ご親切

島つ鳥  鵜飼伴なへ 

          「島つ鳥」 鵜飼の枕詞  鵜飼人を伴って

篝(かがり)さし  なづさひ行(ゆ)けば  

       「篝さし」 当時の鵜飼は夜、かがり火を頼りに歩行して行う
       「なづさひ行けば」 流れにもまれ抗しながら行く

我妹子(わぎもこ)が   形見がてらと 

              「 形見がてらと」  偲ぶよすがにと

紅の  八しほに染めて 

          「八入(やしほ)に染めて」 紅で何度も何度も染めて

おこせたる  衣の裾(すそ)も 
 
         「おこせたる」  送ってよこした
 
通りて濡れぬ  

       「通りて」 水が通って
                             巻19-4156 大伴家持

反歌

「 年のはに  鮎し走らば  辟田川(さきたがは)
   鵜(う)八つ潜(かづ)けて  川瀬尋ねむ 」 
                         巻19-4158 大伴家持(既出)


( 鮎が飛び跳ねる季節になったら 毎年来て、この辟田川に鵜を幾羽も潜らせて
 鮎を追いつつ川の瀬を辿って行こう )

「年のは」毎年
「八つ」数が多いこと

家持はスポーツとして鵜飼を楽しんだようです。
鮎が棲んでいそうな流れの速い川に入り徒歩で進む。
背中に松明、腰に魚籠(びく)。
片手で鵜をさばきながら流れに逆らって歩き、しかも徹夜ともなれば
相当な運動量になったことでしょう。
もっとも、本職の鵜使いに手伝わせたようですが。

家持も旅人も鮎を食べることには関心がなかったのか、食に関する歌が
見えないのが残念です。

「 魚の塩焼きといえば何といっても鮎だろう。
  ただし、焼き立てをすぐさま頬張らないとどうにもならぬ」

とは池波正太郎氏の弁。 (味と映画の歳時記)

カリカリと焼き上がった鮎を緑鮮やかな蓼酢を付けて戴く。
夏最高の御馳走です。
さぁ、とれたての鮎を求めて奥嵯峨や吉野へでも参りましょうか。

  「 飛ぶ鮎の 底に雲ゆく 流れかな 」 上島鬼貫
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by uqrx74fd | 2014-06-13 06:37 | 動物

万葉集その四百七十九(卯の花)

(ウツギ=卯の花  小石川植物園)
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( 同上 )
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( 同上 )
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( シロバナヤエウツギ  同上 )
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( ヒメウツギ  長谷寺 奈良 )
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( 同上 )
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( 梅花ウツギ  飛鳥寺 奈良 )
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( 同上 )
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桜の季節が過ぎ青葉が目にしむ頃になると、山野のあちらこちらで清楚な白い小花を
密集させた卯の花が咲きだします。
初夏を告げ、ホトトギスが垣根に飛び来て、しのび音をもらす花として歌われ、
北は北海道から南は九州に自生し今は空木(ウツギ)とよばれている落葉低木です。
折口信夫氏は
「 この花はその年の稲の豊凶を占う花で、山野に長く咲く年は豊作
長雨続きで花が少ないか、あるいは早く散るときは凶作と信じられた」(花と民俗)
と云われていますが、卯の花の蕾が米に似ているからなのでしょうか。

空木(うつぎ)とは木の中が空洞であるためその名があるといわれていますが、
材質が固いので古くから木釘や杖、槌などに加工されました。
特に杖は卯杖とよばれ、田植え前の豊作を祈る神事で農事を妨げる土地の精霊を
追い払うために地面を打つのに用いられる神具としての役目を担っていました。

またホトトギスも田植えの時期を知らせる鳥としてその初音が重んじられ、
万葉集で卯の花が24首登場するうち18首がホトトギスとともに詠われています。

「 ほととぎす 鳴く声聞くや 卯の花の
   咲き散る丘に 葛引く娘子(をとめ) 」 
                    巻10-1942 作者未詳


( 卯の花が咲き散っている丘で
 葛を引いている娘さん、
 この辺りでホトトギスの声を聞きませんでしたか?)

 
ホトトギスの声を求めて卯の花が咲いている丘を散策していた作者が
葛の根を引っ張り上げながら働いている娘に
「 ホトトギスの声を聴いたかい」と尋ねています。

娘は葛の根から繊維を取りだし布を織ったり、葛粉を採る作業に従事していたと
思われますが、葛の根は土の奥深くまで潜っているので引っ張り上げるのは
かなりの重労働です。
どのように答えたのかは分かりませんがホトトギス、卯の花、葛掘り、乙女の
取り合わせは初夏の爽やかな季節を感じさせてくれます。

「 朝霧の 八重山越えて ほととぎす
   卯の花辺(はなへ)から 鳴きて越え来ぬ 」 
                        巻10-1945 作者未詳


( 朝霧が立ちこめる幾重にも重なる山々を越え、
  卯の花が咲いている辺りも飛び越えて
  ホトトギスガ鳴き立てながら、おらが里にやって来たよ。)

  
待ちに待ったホトトギスの初音を聴いた歓び。
万葉人は余程この鳥が好きだったのでしょう。
懐旧の情をかきたて、恋の仲立ち役を務め、鶯の托卵を引き受けるなど
大忙しのホトトギス。
万葉集では155首もの歌が詠われています。

「 春されば 卯の花ぐたし 我が越えし
     妹が垣間(かきま)は 荒れにけるかも 」
                        巻10-1899 作者未詳



( 春になると卯の花の生垣を傷めながら潜り抜けてあの子の許に通ったものだが
  今見ると雑草が生い茂り、すっかり荒れ果ててしまっていることよ )

卯の花の垣根の間を潜り抜けて、ひそかに通った女の家。
今は荒れ放題になり様変わりしてしまった。
男は長旅でこの地を離れていたのか、あるいは、初恋の地に立ち、
遠い昔を偲んでいるのでしょうか。

卯の花の生垣が文献に見える最古の歌です。

「 卯の花を 腐す長雨(ながめ)の 水始(みずはな)に
    寄る木屑(こつみ)なす  寄らむ子もがも」 
                      巻19-4217   大伴家持(既出)


( 卯の花を痛める長雨で水かさが多くなった川、その流れの先に木の屑が
  いっぱい集まっていますよ。
  このような木屑のように私のところに美しい女性が集まってくれたらいいのになぁ)

水始(みずはな): 水量の増した流れの先端のこと

この歌から後々「卯の花腐(くだ)し」という夏の季語が生まれました。
陰暦の4月頃の長雨のことで

「 山に咲く 卯の花腐つ 雨ならん」  高木晴子

などと詠まれています。

卯の花の 匂う垣根に   
ほととぎす 早も来鳴きて
忍音もらす  夏は来ぬ      

五月(さつき)やみ 蛍とびかひ
くいな鳴き  卯の花咲きて
早苗うえわたす 夏は来ぬ 
                  「 夏は来ぬ より 佐々木信綱作詞 小山作之助作曲」


この歌の1番は江戸時代の歌人、加納諸平(かのう もろひら)の

「 山里は 卯の花垣の ひまをあらみ 
            忍び音洩らす ほととぎすかな 」

の歌を下敷きとして作られたといわれています。
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by uqrx74fd | 2014-06-06 07:29 | 植物

万葉集その四百七十八(能登の国の歌2)

( 能登の海 )

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(義経船隠しの入江  松本清張 ゼロの焦点の舞台にもなったヤセの断崖に続いている)
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( 巌門 )
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(同上 海側から )
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( 機貝岩 )
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(  見附島、軍艦島とも )
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( 輪島 白米千枚田 )
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( 同上 )
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古代の能登半島は大和から山背(山城)、琵琶湖上水路を経て朝鮮半島に至る
交通の要衝地であり新羅からの渡来人もかなり移り住んでいたようです。

748年、越中国司大伴家持は支配地の実情調査の為、高岡の国庁を出発し
約300㎞に及ぶ巡行の旅に出掛けました。
約1か月をかけ各地の状況を把握しながら民謡など地元に伝わる歌を多く収録し、
また自らの歌も残したことから能登は都から遠く離れた鄙の地であったにもかかわらず、
当時の庶民の生活ぶりが1260余年経た後も知ることが出来ます。

万葉集は単なる歌集ではなく文化生活誌的な側面もあったのです。

「 能登の海に 釣りする海人の 漁(いざ)り火の
    光にい行く 月待ちがてり 」
                       巻12- 3169 作者未詳


( 能登の海で 夜釣りしている海人の漁火
 その光をたよりに 私は旅をして行きます 
 月の光が射してくるのを待ちながら ) 

「い行く」の「い」は強意の接頭語
「月待ちがてり」の「がてり」は 「~をしながら」

しみじみとした旅愁を感じる一首です。
漁火を目にしながら、夜道を辿る男はどこに向かっているのでしょうか。
当時の能登は中国、朝鮮、渤海国との貿易や文化の窓口で筑紫とならぶ先進国。
人の往来も多かったことでしょう。

夜釣りする海人は烏賊漁か。

「 ハ-ァ 沖で揺れてるよ
  あぁ あの漁火は
  好きなあなたの 好きなあなたの
  イカ釣る 小舟ェーヨ 」

と「漁火恋歌」を歌った小柳ルミ子さん。

いやいやこれは余談です。

次の歌は以下のような註が付されています。

「 右の歌にこんな伝えがある。 
あるとき愚かな人がいた。
持っていた斧が海に落ちてしまったが、鉄が沈んだら 
どう見ても浮かぶはずがないのに分からずにいた。
そこでまわりの者が慰みにこの歌をつくって口ずさんであてこすりに
諭したという。 」

「 はしたて 熊来(くまき)のやらに 
  新羅斧(しらきをの) 落し入れ
  わし 
  かけて かけて 
  な泣(な)かしそね 
  浮き出づるやと見む 
  わし 」 
                        巻16-3878 能登の国の歌

( 訳文)

( はしたて 熊来の海底(やら)に 新羅斧 
  そんな大事な斧を落としてしまって
  わっしょい 。 
  気にかけすぎて、
  泣きべそ かかっしゃるな。
  浮き出てくるかもしれんぞ。 
  見ていてやろう。
  わっしょい。)

 「はしたて」「熊来」(くまき)の枕詞。
 「熊来」は能登湾西岸の石川県鹿島郡中島町あたり。
       「はしたて」は邪神の侵入を遮るため樹枝を立ててしつらえた呪力あるもの(ひもろぎ)。
        それを道の隅(くま)、土地の境界に立てたので「熊来」に掛かるという。

「やら」  アイヌ語「ヤチ」(沼沢)に関係あるという説もあるがここでは「海の底」
「 落とし入れ 」  深くに落としこんだ
「わし」は 「わっし」と発し、「わっしょい」のような囃言葉
「かけて かけて」  心にかけて懸けて
「な泣かしそね」   「な」「そ」「~しなさるな」の禁止用語 「泣きなさるな」

 斧を海に落として浮き上がってくるのをじっと待っている男。
 周りが囃すのを真に受けてますます水面を見続けていたとは、
 なんとも滑稽な歌です。

伊藤博氏は 
「 実際には皆が必死になって探した結果ついに求め得た歓びを背景としている
のではないか?」と述べておられますが(万葉集釋注)
宴会の時に歌われた民謡だったかもしれません。

新羅斧は舶来のかけがえのない斧、
斧を落とした男は船材を伐る仕事に従事していたものと思われます。
一介の木こりが新羅風の斧を持っている。
これは家宝に等しい貴重なものだったことでしょう。


「 鳥総(とぶさ)立て 船木伐(か)るといふ 能登の島山
      今日見れば 木立茂しも   幾代 神(かむ)びぞ 」
                           巻17-4026 (旋頭歌)  大伴家持

( 鳥総を立てて神に捧げ、船木を伐り出すという能登の島山。
  今日見ると木々が茂りに繁っています。
  幾代も経たその神々しさよ。 )

「鳥総」とは枝葉がついたままの梢の部分をいいます。
人々は木を伐採した後、「鳥総」の切っ先を切り株に突きたてて
木の再生を神に祈りました。
この歌から能登は造船が盛んだったことが窺われます。

山で伐採した丸木をその場で刳りぬき、刳り船として川に流し
海辺で舷側などをつける作業をしていたようです。

なお「鳥総立て」は 「ことばの鳥総を立てる」 即ち
「言葉の再生を願う」
などのような形で現在でも使われております。

「 ほがらかに 唄ひ奥能登 遅田植 」   中山純子


ご参照

 万葉集遊楽324 「しただみのレシピ」 (カテゴリ- 動物)
  同    478 「能登の酒屋」    ( 同   生活)
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by uqrx74fd | 2014-06-01 05:49 | 生活