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万葉集その四百九十一 (夢のわだ)

( 吉野 宮滝 川が流れこんでいるあたりが 「夢のわだ」とよばれるところ 奈良県)
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( 吉野山から宮滝への道で  苔むした巨岩がゴロゴロ転がっている )
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( 同上  この流れが象「きさ」の小川の源流か )
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( 天武天皇ゆかりの桜木神社 )
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( 桜木神社の脇を流れる 象「きさ」の小川 )
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( 宮滝の巨岩 )
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( 吉野川で泳ぐ子供達  後方左は三船山 )
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( 激流の中で泳ぎよく溺れないものだ )
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「わだ」とは湾曲している水辺が淀んでいるところをいう地形語とされています。
何処でも見受けられる情景ですが、万葉集で夢にまで見るほど美しいと詠われた
「わだ」は奈良県吉野、宮滝の吉野川本流に「象(きさ)の小川」が流れ込む深淵近辺を
いうそうです。
現在は水量が少なくなっていますが、昔は神仙境を思わせるような景観であったらしく、
我国最古の漢詩集「懐風藻」で次のような一節があります。

「 吉野の宮殿は 山深く静かなところである
  すぐれた風景にかこまれ ひっそりと奥深い
  雲は三船の山を取りまき
  霞は八石(やさか)の洲を離れて行く
  葉は黄葉して夏を送り去り
  桂花は白く咲いて秋を迎え入れる
  今、夢のわだのほとりに立つと
  流れは千年の昔の響きをつたえてくる 」  懐風藻 吉田宜(よろし)     
                               (現代語訳 江口孝夫 講談社学術文庫)

「八石の洲」  吉野川の川原の石が多いさまを表現したもの
「桂花(けいか)」 銀木犀か

この辺りは吉野離宮が営まれていたところで、持統天皇は殊の外この地を好み
称制も含めると10年の在位期間中に31回も行幸され、退位してから更に1回という
入れ込みようです。 (称制とは全権をもつが帝位にはつかないこと)
若き頃、天武天皇と共に過ごした思い出の地であり、壬申の乱を勝利に導く拠点とも
なっただけに特別な聖地とされていたのでしょうか。

大宰府の帥、大伴旅人もこの地を熱愛した一人で、都から遠く離れた鄙の地にあって、
望郷の念やみがたく次のように詠っています。

「 わが命も 常にあらぬか 昔見し
    象(きさ)の小川を 行きて見むため 」  巻3-332 大伴旅人

( あぁ、いついつまでも命を長らえたいものだ。
 昔見た象の小川へもう一度行って、あの清らかな流れを見るために )

人生50年の時代にあって旅人は当時65歳。
既に高齢の身、何としても生まれ育った明日香や、吉野を再び見たいと
執念を燃やしています。

象の小川は吉野山系の青根ヶ峰や水分神社の山あいに水源をもち、喜佐谷の
杉木立の中を流れる渓流。
宮滝で吉野川に流れこみます。

「 我が行きは 久にはあらじ 夢(いめ)のわだ
      瀬にはならずて 淵にしありこそ 」  
                           巻3-335 大伴旅人


 ( 私の筑紫在住はそんなに長くなかろう。
   あの吉野の夢のわだよ、浅瀬にならないで深い淵のままであっていてくれよ )

深いエメラルド色の水は人を引き込むような魅力があります。
激流ほとばしる吉野川を詠った例が多い中で淵に静の美を見出した旅人。

「我が行きは」とは「私が都から大宰府に行くのは」の意で意識はあくまでも
都人なのです。
「久にはあらじ」は「そう長くないだろう」
その言葉通り大宰府に赴任してから3年後の730年、念願の都への栄転が叶いました。

にもかかわらず長旅と心労が重なったのか、帰京後病に臥し翌年67歳で逝去。
再び故郷の飛鳥や吉野を訪れることが出来ませんでした。

「夢のわだ」はまさしく夢に終わったのです。

「 夢(いめ)のわだ 言(こと)にしありけり うつつにも
   見て来(け)るものを 思ひし思へば )   
                         巻7-1132 作者未詳

( 長い間、見たい見たいと思っていた夢のわだ。
  とうとう夢ではなく現実のものとなった。
  今、確かに見てきたのだから 思いがかなったのだ)

「言にしありけり」 (夢のわだは今や) 夢という言葉だけのものになった
「うつつにも」 現実に
「見て来るものを」 見てここにいるのだから
「思ひし思へば 」 「思う」を強調したもの。思ったあげくに

「遂に来たぞ! もはや夢でなくなったのだ」と喜ぶ吉野を訪れた官人。
川のほとりで酒盛りをしているのでしょうか。
憧れの景色を堪能した満足感が漂う1首です。

象の小川の上流を見たくなり、吉野山を訪れました。
金峯山寺から西行庵へと向かう途中に宮滝に通じる道があります。
一般のハイキングコースとは違い、あまり人が通らないようですが、
地元の人に聞くと下りの一本道なので迷うことはないとのこと。

「思い切って挑戦するかと」、細い脇道に入ります。
やがて杉木立が続く奥に鬱蒼とした森。
たちまち原始林に迷い込んだような雰囲気です。
周りは人影もなく、いささか心細い。

苔むした巨岩が至るところ転がり、せせらぎが涼しげに流れ下っています。
どこまでも続く下り道ですが急坂は少なく、川音が心地よく響きます。
森林浴に浸りながら鳥の声に耳をすますと爽やかな風が谷を渡ってゆきました。

「この流れが象の小川に通じているのかもしれない」と思いながら歩くこと約2時間。
ようやく広い街道に出る道に辿りつきました。
どうやら喜佐谷を下ってきたようです。

そのまま真っすぐ歩き続けるとやがて桜木神社。
天智天皇の時代、身の危険を感じて近江京から吉野に隠棲した大海人皇子(後の天武)が
近江側が放った刺客に襲われ、この神社の桜の木に隠れて難を逃れたと
伝えられている社です。
脇を流れる川はまさしく「象の小川」。
そのまま流れ下って吉野川と合流するところが「夢のわだ」でありました。

   「 喜佐谷の 日暮れを急ぐ 花筏 」  倉持嘉博
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by uqrx74fd | 2014-08-28 14:10 | 万葉の旅

万葉集その四百九十 (住吉)

(住吉神社正面鳥居)
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( 同上 第三、第四本宮(右)
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( 同上 第二本宮 )
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( 同上本宮 折しも結婚式の真っ最中 )
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( 同上 反橋 昔はこの辺りまで海が入りこんでいた )
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( 万葉歌碑 )
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( 万葉当時の地形図  画面をクリックすると拡大できます )
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( 神輿船 )
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住吉は古くは「すみのえ」とよばれ、現在の大阪市住吉区一帯とされています。
今や住宅、コンビナート、コンテナ港が立ち並び、見る影もありませんが、
昔は海が内陸の住吉神社あたりまで入りこみ、海岸線に沿って白砂青松がうち続く
景勝の地であったようです。
また鯨が見られたのか「鯨魚(いさな)取り」という枕詞が使われている歌があり、
浜では蜆(しじみ)、高台では染料となる黄土が豊富であったことも伝えられています。

近くに難波宮、住吉大社があり、また遣唐使、遣隋使、防人の出発点として
栄えた難波津(港)を控えて歓楽街も多かったと思われ、都の官人たちはこの地を
訪れることを心待ちにしていたことでしょう。

住吉と言えばまず住吉大社。
海を支配する神様で、底筒男命(そこつつの をの みこと)、中筒男命、
表筒男命(うわつつの おの みこと)の三海神と神功皇后が祀られています。
「筒」とは星のこと。
夜の航海は星を頼りにしていたことにより、守り神と崇めたことによる名前で、
神功皇后の合祀は三韓征討の折、住吉の神様が加護し給うた伝説に由来するものと
されています。

「 住吉(すみのえ)に 斎(いつ)く祝(はふり)が 神言(かむごと)と
      行(ゆ)くとも 来(く)とも  船は早けむ 」
                      巻19-4243 多治比 真人 土作(たぢひの まひと はにし) 


( 住吉の社で神祭りしている神主のお告げによると、貴殿の船は
 行きも帰りも何の支障もなくすいすいと進むとのことでございます。 )

751年、遣唐使派遣にあたり藤原仲麻呂邸で送別の宴が催された折の歌で、
作者が航海の安全を祈願したところ、恙なく旅を終える旨の御神託が出たというのです。
遣唐使、遣隋使はまず住吉大社で航海の安全を祈願し、現在の反橋辺りから出航するのが
当時の習いでした。

「 白波の 千重(ちへ)に来寄する 住吉(すみのえ)の
   岸の黄土(はにふ)に にほひて行かな 」
                     巻6-932 車持千年(くるまもちのちとせ)


( 素晴らしい景色で去りがたいなぁ。
 せめて、白波が幾重にも寄せる住吉の岸の黄土に衣を染めて
 この地の記念といたしましょう。)

725年、聖武天皇難波行幸の折、お供した作者が住吉を去るに当たって詠ったもの。
昔、この地で衣を染めるための黄土を大量に採掘していたことが窺われます。

「岸」は原文で「崖」という字が当てられているものがあり「岸の黄土」は
「崖の台地から採れる黄土」という意味のようですが、その黄土に
わざわざ「にほひて行く」(染めて行く)とはどういうことでしょうか?

実は、当時の住吉は唐津、博多と共に文化のレベルが高い港町で遊女も大勢いました。
男たちは競って麗人に会いたがっていたのです。
「住吉の黄土」を「美しい女性」と解すれば、都の官人たちが大いに羽を
伸ばしたがったのも肯けようというものです。

なお、「住吉の黄土」は砂と粘土との中間の細かさを有する土、即ち「シルト」で
微細に砕いた粉末を浸し染めにした絹は絢爛たる黄金色になるそうです。
( 金子 晋著 古代の色 学生社) 

「 暇(いとま)あらば 拾ひに行かむ 住吉の
   岸に寄るといふ  恋忘れ貝 」   
                           巻7-1147 作者未詳


( 暇があったら拾いに行きたいものだ。
 住吉の岸に打ち寄せられるという恋忘れの貝を)

作者は、ならぬ恋をしてしまったのでしょうか?
恋忘れ貝とは片貝と思われます。
すなわち閉じることが出来ない片想いです。

「住吉の 粉浜(こはま)のしじみ 開けもみず
    隠(こも)りてのみや 恋ひわたりなむ 」  
                                 巻6-997 作者未詳(既出)


( 住吉の粉浜のシジミは蓋を閉じたままじっと籠ってばかりいます。
私も自分の想いを誰にも打ち明けないまま胸に秘めてあの方をこれからも
ずっと想い続けることになるのでしょうか。 )

粉浜:大阪市帝塚山の西 

この歌は734年聖武天皇が難波宮に行幸された時、休みのひとときに御供の人が
詠ったものです。
当時の難波宮近くは粉のような美しい砂をもつ浜辺で、そこで採れるシジミの旨さは
都まで広く知れ渡っていました。
住吉の景勝の美しさ、名産のシジミを褒めると共に自身の恋の苦しみを重ね合わせたものですが、
恋と蜆を取り合わせた歌は珍しく万葉集にはこの一首しか見られません。                             

「 悔(くや)しくも 満ちぬる潮(しほ)か 住吉(すみのえ)の
     岸の浦みゆ 行かましものを 」 
                          巻7-1144 作者未詳


( あぁ残念 潮が満ちてしまった。
 この住吉の岸辺を浦伝いに歩いて行きたかったのに )

美しい砂浜を歩きたかったのに、いつの間にか満潮になってしまった。
あぁ、残念! 

現在は埋め立てられ満潮どころか海も見えません。
時代の流れとはいえ地名だけで40首も詠われた住吉。
住吉大社の反橋とその近辺に昔の面影をかすかに残すのみです。

「 住吉の 男声なる 田植歌」  小柳津民子

    住吉の神様は歌の神、田植えの神としても知られる 
     御田植神事は6月14日。
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by uqrx74fd | 2014-08-21 22:28 | 生活

万葉集その四百八十九 (檜扇:ひおうぎ)

( 檜扇の花   学友Y.Tさん提供 )
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( 檜扇の実 万葉人は「ぬばたま」とよんだ  奈良万葉植物園)
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(  同上  黒真珠のように美しい )
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( 扇を広げたような葉 )
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「檜扇(ひおうぎ)」はアヤメ科の多年草で根元から扇状に広がる剣形の葉が
衣冠の時に用いる儀礼用の檜の扇に似ているところからその名があります。
7~8月頃、暗紅色の斑点がある黄赤色の美しい花を咲かせますが、
夕方に萎む儚い一日花です。

晩秋になると莢(さや)が弾けて光沢ある黒色の実が飛び出しますが、
万葉人はこの黒真珠のような玉を「ぬばたま」とよびました。
「烏玉」「黒玉」と原文表記されているものがあるので「ぬば」は「黒」を
意味するものと思われます。

詠われた歌は何と79首。
余程魅力を感じたのでしょうが、不思議なことに植物そのものを詠ったものは
1首もなく、すべて夜、闇、今宵、夕べ、夢、黒髪、黒馬など黒いものに掛かる
枕詞として用いられているのです。

「 居明(ゐあ)かして 君をば待たむ ぬばたまの
   我が黒髪に 霜は降るとも 」     
                    巻2-89 古歌集(磐姫皇后とも)

( ここでじっと夜をあかしてあの方をお待ちいたしておりましょう。
  この黒髪に霜が降りてこようとも )

仁徳天皇の浮気に激怒して宮を飛び出し、知り合い邸宅に移ったものの、
「もしかしたら迎えに来るかもしれない」と微かな期待を胸に秘めながら
厳寒の夜、外で佇む、いじらしいばかりの女の姿。
あぁ、戻りたい。
でも私のプライドが許さない。
葛藤する女心。
ここでの「ぬばたま」は黒髪に掛かる枕詞です。

「 佐保川の 小石踏み渡り ぬばたまの
    黒馬(くろま)来る夜は 年にもあらぬか 」
                           巻4-525 大伴坂上郎女


( 私の瞼にあなたが黒馬に乗って佐保川の小石を渡っていらっしゃる姿が
 目に浮かびます。
 そんな素敵な夜が1年中ずっと続いてくれたらよいのに )

「年にもあらぬか」の「あらぬか」は願望をあらわし、同じ状態がそのまま
年中続いて欲しいという意。

作者が若き頃、藤原麻呂に贈った歌で、口先ばかりで一向に訪れがない
相手に対する可愛い抗議のジェスチャ。
早くも万葉屈指の恋の手練れの才能の片りんが窺える1首です。

次の2首は歌のボクシングです。

その昔、巨勢豊人(こせの とよひと)という小男と、斐太大黒(ひだの おおぐろ)
という大男がいました。
二人とも地が黒いのか日焼けしたのか、顔が真っ黒です。
そこで土器造りを生業としている 宿禰水通(すくね みみち)という男が
二人を飛騨産の馬にみたててからかいました。

「 ぬばたまの 斐太(ひだ)の大黒 みるごとに
     巨勢(こせ)の小黒し 思ほゆるかも 」 
                 巻16-3844(土師 宿禰水通:はにしの すくね みみち)

( 真っ黒な大黒よ お前をみるたびに 巨勢の小黒を思い出すよ。
 まるで愛し合う黒馬同志みたいだなぁ )

「思ほゆるかも」に相愛のニュウアンスがこもった痛烈な風刺。

そう云われては黙って居られない。
小男の巨勢豊人(こせの とよひと)がやり返す。

「 駒造る 土師(はじ)の 志婢麻呂(しびまろ)白くあれば
     うべ欲しくあらむ その黒き色を 」 
                           巻16-3845 巨勢豊人(とよひと)

( なにを云っているんだ。
  お前は年中家の中に閉じこもって粘土の馬ばかり作っているから
  痩せて色が真っ白のへなへな。
  どうだ、俺達の黒々とした男性美が羨ましいんだろう。)

色黒の両人は自分たちが飛騨産の黒馬に見立てられたので

「 おれ達は生きた精悍な黒馬だけどお前はしがない粘土の駒(馬)造り、
  栄養失調のように色も真っ白ではないか」 とお返しをしたわけです。 

なお、歌の「志婢麻呂」(しびまろ)は、宿禰水道(すくねみみち)の通り名(字)です。

「 よわよわと 咲き始めたる 射千(ひおうぎ)の
    いろかなしきは ただ一日のみ 」       斎藤茂吉 

                                                                                        

朝咲き夕べには萎む1日花の檜扇は「射千(やかん)」とも書きます。
漢方に由来する名で、乾燥させた根茎を喉や咳の薬として用いています。
万葉集に表記されている漢字の中に「夜千玉」「野千玉」(共にぬばたまと訓む)があり
薬草としても身近な存在であったようです。

 「 ぬば玉の 閨(ねや)かいまみぬ 嫁が君」    芝 不器男

   
新婚初夜。
 新婦は床入り前の寝化粧の真っ最中。
  鏡台に向かって仕度に余念なし。

 手持ち無沙汰の新郎。
 ちらちらと覗き見しながら落ち着かない。

 隣の部屋の明かりは ほんのり薄暗く、夜具が白く浮かんでいる。
 女の後姿と隣の部屋を交互に見ながら、まだかまだかと待っている男。
 いきり立つ我が息子! 
 待て待て、もうすぐの辛抱だぁ。 











 
   
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by uqrx74fd | 2014-08-14 17:21 | 植物

万葉集その四百八十八 (憶良の天の川)

( 仙台七夕祭り )
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( 同上 )
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( 着物のような絵柄 上品にして繊細 )
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( 同上 )
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( 音楽の上達を願って )
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( 芸術的な飾り付け )
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( 護国神社の七夕祭り  青葉城址公園内 )
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( 渦巻銀河  宇宙博  幕張メッセ )
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(  天の川  同上 )
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「七夕」はなぜ「たなばた」と読むのでしょうか?
  折口信夫氏は
『 太古の昔、季節が夏から秋に変わる頃になると、
一人の少女が選ばれて人里離れた水辺に作り架けられた「棚(たな)」の中で
「機(はた)」を織りながら神を迎えるという風習があった。
この「棚」と「機」が「たなばた」の語源である 』 と説いています。

 この風習と奈良時代に渡来した中国の裁縫の上達を願う「乞功奠(きつこうでん)」とが
 結び付き、さらに牽牛、織女の恋の物語が結合して壮大な「天の川伝説」が生まれた
 そうです。

 日本書紀の記述に 「692年7月7日、持統天皇が公卿を集めて宴を催した」、
 「734年7月、聖武天皇が相撲をご覧になったあと文人に命じて
  七夕(しちせき)の詩を詠ませ、禄を賜った」とあり、当初は宮中の行事であったことが窺われます。

万葉集には132首もの七夕歌が残されていますが、型破りなのは山上憶良。
天の川を天地創造の時から説き起こし、締めくくりは
「年に1度とは言わず毎晩寝たいものだ」と、まるで自分事のように詠っています。

まずは訳文から

「 天と地とが別れた遠い昔から  彦星は織女と
  天の川で 離れ離れになって 向かい立ち
 想う心の中は いつも安らかでなく
 嘆く心のうちも 苦しくてならないのに 
  広々と漂う青波に隔てられて 姿は見えはしない
  はるかに棚引く白雲に仲を遮られて 嘆く涙は涸れてしまった

  あぁ、こんなにして溜息ばかりついておられようか
  こんなにして 恋焦がれてばかりおられようか
  赤く塗った舟でもあればなぁ
  玉をちりばめた櫂でもあったらなぁ

  朝凪に水を掻いて渡り
  夕方の満ち潮に乗って漕ぎ渡り
  天の川原に あの子の領巾を敷き
  玉のような腕をさし交わして
  幾夜も幾夜も寝たいものだ

  七夕の秋ではなくても 」    
                        巻8-1520 山上憶良

(訓み下し文)

「 彦星は織女(たなばたつめ)と 天地の別れし時ゆ
  いなむしろ 川に向き立ち 
  思ふそら  安けくなくに  
  嘆くそら  安けくなくに  
  青波に 望みは絶えぬ
  白雲に 涙は尽きぬ

  かくのみや 息づき居(を)らむ
  かくのみや 恋ひつつあらむ

  さ丹塗りの  小舟もがも
  玉巻の  真櫂(まかい)もがも

  朝凪に い掻きわたり
  夕潮に い漕ぎわたり

  ひさかたの 天の川原に
  天飛ぶや 領巾(ひれ)片敷き

  真玉手(またまで)の 玉手さし交へ
  あまた夜も 寐(い)も寝てしかも

  秋にあらずとも  」      
                      巻8-1520  山上憶良


( 反歌 )

「 風雲は 二つの岸に 通へども
      我が遠妻の 言ぞ通はぬ 」   巻8-1521 同


( 風や雲は天の川の両岸に自由自在に行き来するけれども
  遠くにいる我妻からは 何の便りもない )

長歌を1行づつ訓みくだいてまいりましょう。 (内は訳文)

 彦星は織女(たなばたつめ)と 天地の別れし時ゆ 

       ( 彦星は織女と 天地が別れた時から )

        彦星=牽牛

  いなむしろ 川に向き立ち 

       ( 天の川をへだてて向き合って )

「いなむしろ」は川の枕詞であるが掛かり方は未詳

思ふそら  安けくなくに  

      ( 心中 安らかでないのに )

          「思ふそら」の「そら」は空と同根で心の内
          「安けくなくに」 安らかでないのに

嘆くそら  安けくなくに

      ( 嘆くこころのうちも 苦しくてならないのに ) 
 
青波に 望みは絶えぬ

    ( 天の川の青波に隔てられて 眺望は絶えた)

    「望」は希望ではなく眺望、

  白雲に 涙は尽きぬ

   ( 白雲に遮られて 涙も涸れてしまった )

ここまでが第3者の立場、以下から牽牛の立場で詠う。

  かくのみや 息づき居(を)らむ

   ( このまま 溜息ばかりついておられようか )

    「かくのみや」    このようにして 
    「息づき」      溜息をついて

  かくのみや 恋ひつつあらむ

   ( このようにして 恋焦がれてばかりおれようか )

  さ丹塗りの  小舟もがも

   ( 朱く塗った 舟でもないものか )

     「さ丹塗の舟」    美しく立派な舟
     「もがも」       ~が欲しいものだ

  玉巻の  真櫂(まかい)もがも

          ( 珠玉をちりばめた 左右の立派な櫂も欲しい )

 朝凪に い掻きわたり


         (朝凪に 水をかき渡り )

  夕潮に い漕ぎわたり

     ( 夕の満ち潮に乗って 漕ぎ渡り )

  ひさかたの 天の川原に

         ( 天の川原に)

         「ひさかた」は天の枕詞
 
 天飛ぶや 領巾(ひれ)片敷き

   ( 空を飛ぶという 領巾(ひれ)を敷いて )

    「領巾」   頸から肩にかける装身用の布

真玉手(またまで)の 玉手さし交へ

     ( 玉のような美しい腕を 枕にして )

 あまた夜も 寐(い)も寝てしかも

     ( 一夜といわず 幾夜も幾夜も 共寝したいものだ )

 秋にあらずとも        

( 七夕の秋でなくても )     巻8-1520  山上憶良

        
729年7月7日 大宰府長官大伴旅人邸での宴で披露されたもの。
作者は当時70歳、老いてもまだまだ意気盛ん。
お若いことです。

裁縫の上達を願って行われた中国の行事「乞功奠(きつこうでん)」では
織女星を望む庭に五色の糸や針を供えていましたが、我国では
拡大解釈されて様々な願い事を星に祈る行事になりました。
さらに、江戸時代、庶民の間で手習いが広まると色とりどりの短冊に願い事を書いて
笹竹に飾るようになり、現在に至っております。
七夕祭は7月7日に行う地方も多いようですが、本来は陰暦7月7日(8月上旬)
秋の行事です。

今年の立秋は8月7日。
この時期になると夜空が澄みはじめ、星も清(さや)かに見えることでしょう。

「 七夕や 秋を定(さだむ)る 夜の初(はじめ) 」 芭蕉
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by uqrx74fd | 2014-08-08 06:49 | 生活

万葉集その四百八十七 (雷丘:いかずちのおか)

( 雷丘 巨大な鳥が両翼を拡げているよう  奈良飛鳥)
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( ここは雷という地名です  同上 )
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( 雷の丘の裏側は農家 )
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( 民家がびっしりの橫裏側  後方左上が雷丘 )
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( 左から 雷丘、畝傍山、後方は二上山 )
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( 甘樫の丘 )
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( 雷丘東方遺跡復元模型 左の杜は雷丘 飛鳥資料館 )
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(  風神雷神図  俵谷宗達  国立博物館蔵 )
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飛鳥、甘樫の丘から北に向かって約1㎞ばかり歩くと、巨大な鳥が両翼を広げている
ような形をした緑の塊が見えてきます。
標高わずか10m余、丘ともいえないほどに小さいのにその名はいかめしくも「雷丘」。

大昔、天皇の命令で落ちてきた雷を捕えた、あるいは雷のような目をした大蛇が
棲んでいたことなどによる命名と伝えられていますが、実はこの丘、小粒ながら、
なかなか由緒ある存在なのです。

古代、天皇の重要な仕事の一つに国見という儀式がありました。
国見とは天皇が聖なる高い場所に登り立ち、周りを俯瞰しながら国の繁栄と豊作を
予祝する重要な行事です。
当時、雷丘は頂上から飛鳥全体を見渡すことが出来たらしく、持統天皇の時代
ここで国見が行われていたことが万葉集で詠われています。
雷神は雨を司る神、その名をもつこの丘は五穀豊穣を祈る特別な場所だったのです。

「 天皇(すめらみこと)、雷の岳(をか)に 幸(いでま)す時に
      柿本人麻呂が作る歌1首 」( 天皇は持統の他、天武または文武説もあり)

「 大君は 神にしませば 天雲の
    雷の上に 廬(いほ)らせるかも 」 
                          巻3-235 柿本人麻呂

( 天皇は神様でいらっしゃるから、天雲を支配する雷の上に仮宮を
 お作りになっておられることよ )

廬(いおり)は身を清めたり休息するための仮屋のことです。
雷の丘に立たれる天皇を誇張し
「 雷神をも支配する偉大な大君は絶対的な存在である」と讃えています。

伊藤博氏は
『「天雲の」の枕詞がよく効いている。
天界の雲の上に鳴り響く雷、その雷の丘というつながりは、ただちに雷神信仰に
裏打ちされた雷の丘の気高さ、神々しさ、重々しさを力強く表し、したがって
山を支配して立つ天皇の絶対性が深まる 』と解説されています。(万葉集釋注)

人麻呂のお蔭で一見何の変哲もない丘は一躍不滅のものになりました。
もし、この歌が残されていなかったら周囲がすべて宅地や田畑に転用されている
状況からみて消滅する運命を辿ったことでしょう。

なお、雷丘は余りにも小さいので、所在について「甘樫の丘」ほか諸説ありますが
この稿では通説に従っています。

そもそも天皇が神であると詠われるのは壬申の乱以降です。
兄、天智天皇の子 大友皇子を倒して天武天皇に即位した大海人皇子は
見方によっては反逆、その正統性を疑問視されてもおかしくありません。

そこで、天武天皇は「古事記」「日本書紀」の編纂を開始して天孫降臨と
「 我が子孫が日本の国の王となるべきものである」という天照大神のお告げ、
いわゆる「天壌無窮の神勅」を創作し皇位継承の正当性の裏付けとします。
「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」とは「永遠に変わらぬ」の意です。

そして、天皇を神と最初に詠った

「 大君は 神にしませば 赤駒の
     腹ばう田居を 都と成しつ 」 
                  巻19-4260(既出) 大伴御行(家持の祖先)

( わが大君は神であり、超人的なお方であるぞ! 
  強靭とされている赤馬でさえも動くのに難儀していた泥沼の湿原地を
  都に造り変えられた。)

など、
「 今上天皇は皇祖天照大神から直接国の支配を任され、さらに地方の国神をも
  従える存在であると」
と、行事や儀式の中で繰り返し詠わせ、天皇に絶対の服従を誓わせたのです。

かくして親政による中央集権を確立させた天武天皇は不安定な政情を
確固たるものに築きあげてゆきました。
現人神はいわば乱世古代国家統一の手段として創造された産物だったのです。

「 村の名を 雷といひ 耕せる 」   吉田千恵子

今日の雷周辺は田畑広がる中、農家や民家が立ち並び、傍らを飛鳥川が流れる
長閑な村です。
丘に登る階段や手すりがありますが、誰も利用しないのか草茫々。
折角だからと一応頂上までへと道なき道を上りましたが、長い蔓や雑草、木々に遮られて
周囲全体を俯瞰することが出来ません。
ただ、木の間から飛鳥の向こうまで見通すことができ、国見に適した高台であることは
実感できました。

突然大きな熊蜂がブウーンと羽音を響かせながら飛来。
足下からマムシが出てくるのではないかと心細くなり早々に退散することに。
雑草に覆われた道を下りながら
「1300年前、持統女帝もこの場所にお立ちになったのだ」と、
遥か古代に思いを馳せたことでした。

  「 鳴神や 雷(いかずち)丘を ゆるがせり 」  筆者


   ご参考 
       万葉集遊楽その150  「現人神の登場」
           同     212   「住吉の神様は現人神」
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by uqrx74fd | 2014-08-01 06:41 | 万葉の旅