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万葉集その五百 (遣唐使と鑑真)

( 遣唐使船 山の辺の道出発点 海柘榴市(つばいち)の川のほとりで 奈良、桜井市)
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( 遣唐使の航路  同上 画面をクリックすると拡大出来ます )
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( 万葉の遣唐使船  高木隆著  教育出版センター刊 )
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( 復元された遣唐使船  ウイキペディアより )
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( 唐招提寺  奈良市 )
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( 鑑真和上像  唐招提寺 )
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( 御影堂(みえいどう)の襖絵 山雲涛声 東山魁夷画伯  唐招提寺 )
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( 同上  揚州薫風 黄山暁雲 )
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( 東大寺戒壇堂 )
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( 遣唐使船切手 )
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遣唐使は630年、舒明天皇の時代に始まり894年菅原道真の建議によって
廃止されるまで264年間の間に16回派遣されています。(回数については諸説あり)
推古天皇600年に始まった遣隋使を引き継ぐもので、当初は船2艘、乗員240~320人の
編成とされましたが奈良時代に入ると船4艘、最大600人近くの規模に膨れ上がり
費用も莫大なものになったようです。

また、長安への道は遠く、海路から陸路へと続く中で暴風雨や疫病による死者も頻出し
生還率50%以下という多大な犠牲を伴う命懸けの旅でもありました。
それでも派遣を続けたのは高度の文明や先進技術並びに仏教の経典、文物等の収集が
我国の発展に大きく寄与すると期待されたからです。

派遣された人材は将来国を背負う優秀な者たちが選ばれ、多くの学問や技術を
身に付けて帰国した人達は建国の礎となって多大な貢献をしました。
また、もたらされた制度や文化を盲目的に採り入れるのではなく、国情に応じて
取捨選択し、我国独特の文化、精神に適合できるものを作り上げる工夫もなされています。

留学生の中では僧旻(そうみん)、高向玄理(たかむこのげんり)、山上憶良、吉備真備、
南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、玄昉(げんぼう)、さらに遣唐使人と共に
来日した鑑真などは教科書でも採りあげられ良く知られていますが、歴史に残らない
多くの留学生の活躍も大なるものがあったことは言うまでもありません。

万葉集でも遣唐使に関する歌が多く残されていますが、ここでは752年に
第10次遣唐大使として派遣された藤原清河の波乱万丈の生涯を辿ってみたいと思います。
主人公、清河は藤原房前の第4子で光明皇太后の甥、孝謙天皇の従兄という血筋、
将来を嘱目されていた俊英です。
まずは、遣唐使出発に先立ち旅の無事を祈って皇太后が主催された神祭りの時の歌です。

「 大船(おほぶね)に 真楫(まかじ) しじ貫き この我子(あこ)を
      唐国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち 」 
                              巻19-4240  光明皇太后

( 大船の舷(ふなばた)の 右にも左にも櫂をたくさん取りつけてやり
 いとしいこの子たちを唐国へ遣わします。
 どうか守らせたまへ、神たちよ )

皇后自身の手で「立派な楫をたくさん取り付けますから我が子を守らせ給え」、と
清河への深い愛情が籠る力強い歌です。
当時の旅の困難さを考えるとその願いも切実なものであったことでしょう。

「大船に真楫(まかじ)しじ貫き」とは官船での航海の出で立ちをいう慣用句で
「大船の舷(ふなばた)に櫂をたくさん取りつけて」の意

それに対して清河は次のような歌を返します。

「 春日野に 斎(いつ)く みもろの 梅の花
     さきて あり待て 帰り来るまで 」 
                           巻19-4241 藤原清河

( 春日野にお祭りしている みもろの梅の花よ
 このまま咲き栄えてずっと守っていて下さい。
 私が帰ってくるその時まで )

「斎(いつ)く」: 神を祀るために盛り土をして祭壇を置くこと。
「みもろ」は: 木を植えて神を招きおろす場所で藤原氏の守護神、春日大社の前身。

皇后、藤原一族の繁栄を祈ったもので梅の花は皇后を暗示しており、
「さきて(咲きて)」 は 「 栄えて」の意を掛けています。

さらに、孝謙天皇は大使が出航するにあたって無事任務を果たして帰還することを願い
歌と酒肴を携えた使者を難波に遣わされました。

「そらみつ 大和の国は 
 水の上は 地(つち) 行くごとく
 船の上は 床(とこ)に 居るごと
 大神の 斎(いは)へる国ぞ

 船の舳(へ)並べ 平けく 早渡り来て
 返り言(ごと)  奏(まを)さむ日に 
 相飲まむ酒(き)ぞ  この豊神酒(とよみき)は 」 
                          巻19-4264 孝謙天皇(既出)

(  神威あまねく 大和の国
   水の上は 地上を行く如く
   船の上は 床にいる如く
   大神が慎み守りたまう国である

  そなたたちの 四つの船 
  その船は 舳先を並べ つつがなく早く唐国に渡り
  すぐ帰ってきて 復命を奏上するように祈る。
  この霊妙な美酒は
  その日に また共に飲むための酒であるぞ )

「そらみつ」は大和の国の枕詞。
「 神が見下ろした神威あまねく聖なる大和」の意で日本書紀の 
「 ニギハヤノミコが天の磐船に乗って空から大和を見納め、
「虚空見日本国」(そらみつやまとのくに) 」と云われたことによるそうです。

この歌は宣命形式となっています。
宣命とは天皇の命令を漢字で和文形式に書かれたものを言い、
使者、高麗福信(こまの ふくしん)に口頭で読みあげさせ次の反歌が添えられています。

反歌

「 四つの船 早帰り来(こ)と  白香(しらか)付く
    我が裳の裾に 斎ひて待たむ 」      
                         巻19-4265 同上

( 四つの船よ すぐ帰って来いと 白香付くこの我が裳の裾に
  祈りをこめて無事の帰りをお待ちしているぞ )

白香は祭祀用の純白な幣帛(へいはく)の一種。
女性の裳の裾には呪力があるとされていました。
切に無事を祈る気持ちと共に、大なる期待をこめた歌です。

このように多くの人に祝福されて無事唐に到着した清河は容姿端麗、礼儀正しく
その優雅な振る舞いは唐の玄宗にいたく愛されたそうです。
2年間の滞在を経て任務を終え、753年、先任の阿倍仲麻呂と共に帰路につきますが
運命の神は清河に過酷な試練を与えられ人生が反転します。
航海の途中暴風雨に遭い、何と! 安南(ベトナム)まで流されてしまったのです。
必死の思いでようやく陸地に辿りついたものの乗員はすべて原住民に殺害され、
無事逃げおおせたのは清河一人のみ。
艱難の末2年掛かりで再び長安に辿りつきます。

一時は死亡したとの情報を受けていた大和朝廷の首脳は痛く心痛し、759年に
迎えの船を送りますが、折悪く安禄山の乱に遭い唐の国内が戦火で混乱していたため
またもや帰国はかないません。
遂に唐土で骨を埋める決心した清河は玄宗に仕え、現地の女性と結婚して
喜娘(きじょう)という娘をもうけ、73歳で生涯を終えました。

まさに波乱万丈の人生でしたが、その後、娘は父の故郷に帰ることを熱望し、
15歳の時、遣唐使と共に帰国するも、これまた暴風雨で難破、命からがら天草へ
流れ着いたとのことです。
そして、無事念願の都に到着したようですが、その後の生涯は不明。
恐らく藤原一族に引き取られたものと思われます。

「 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
   三笠の山に いでし月かも 」   阿倍仲麻呂 古今和歌集

( 大空はるかに振り仰いで見ると月が皓々と照っている。
  その昔、春日の三笠の山に出た月と同じ月が )

「天の原」 広大な天空 
「ふりさけみれば」 はるかに みはるかすと

717年吉備真備、玄昉と共に入唐した仲麻呂も玄宗皇帝に仕えたのち
藤原清河と同時に帰国しますが途中で暴風雨に遭い難破、已む無く長安に戻り
在唐54年でかの地に没するという清河と同じ運命を辿りました。

遥か離れた唐で見る月。
「私が奈良を出発した時に春日の三笠山で振り仰いだ月もこのように美しかった」
と切なる望郷の想いに駆られた1首です。

 「 鑑真の 寺に来ている 夏つばめ 」   西畠 匙(さじ)

6世紀の初めに伝来した仏教は、奈良時代、国家鎮護のための学問として
大なる発展を遂げましたが、2世紀を経た後も僧尼を正式に認定する受戒者が
存在せず、その確保が急務とされていました。
受戒とは師3名と7人の証明師からなる「3師7証」とよばれる試験と資格認定の儀式で、
古代東アジアでは受戒の手続きを経た人しか正式な僧と認められなかったのです。
そのため日本で僧と認定されていても唐では正式な僧と認められず、学識を
得ようとしても色々な不都合が生じていました。

加えて我国では8世紀初めに公地公民制が崩れ、重税に耐えられない農民が安易に
出家したため僧尼が急増します。
納税や兵役を免除されていたため仏門は駆け込み寺となってしまったのです。

仏教者としての基本的な生活作法を身に付けていない僧尼の増大は
堕落した目にあまる行為を頻出させ大きな社会問題となります。

そのような背景から733年、国は僧の人員を制限する必要に迫られ、
興福寺の栄叡(ようえい)と大安寺の普照を唐に派遣し受戒師を招聘することにしました。
両僧は唐で戒を受けたのち中国各地に律師を求めて歩き、入唐以来実に9年後の742年
遂に揚州、大明寺で高僧、鑑真に出会います。

二人の僧の懇請と熱意に渡航を決意した鑑真。
然しながら唐国は貴重な人材の流失を惜しみ許可しません。
それでも鑑真の布教の決意は固く遂に密航。
何度も航海を試みるも難破に見舞われ遂に63歳で失明。
にもかかわらず、強固な意志は揺るがず藤原清河が帰京する4隻のうちの1つに乗船し
遂に754年奈良の都に辿りつくことが出来ました。
初出航以来、実に12年目、6度の試みの末の筆舌に尽くしがたい苦難の道でありました。

鑑真和上は受戒に十分な14人の僧、3人の尼に加えて様々な技能を持つ者
24名を一緒に引き連れてきました。
寺院建築、仏師、室内装飾品、画師などもいなければ寺は成り立たないのです。

入京後、東大寺に住み、聖武太上天皇,光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け
初めて大仏殿の西に常設の戒壇院を作り、日本の受戒制度を確立したのち
新田部親王(にいたべのみこ)の旧宅を賜って寺とし、唐招提寺と名付けて
戒律の道場としました。
日本という国は、国家宗教制度の根幹にかかわる僧侶資格に欠かせない受戒と云う
制度を鑑真という一人の僧にすべてを委ね、和上もそれに応えて制度を確立すると共に
豪華絢爛たる仏教文化の華を咲かせてくれました。

今日、鑑真和上の像の前に立つと、穏やかな顔の内に何物にもゆるがない鋼鉄のような
強い意思が込められているように感じられます。
唐国内に留まりさえしておれば名僧として遇され、国家と人々の手厚い敬慕の中で
何の不安もなく一生涯を終えることが出来たのにもかかわらず、
「空しく過ぐるなし」の言葉通り、あえて死以上の悲惨な運命を選んだ和上。
その高邁な使命感と高潔な人格にただただ頭を垂れるばかりです。

  「 若葉して 御目の雫 ぬぐはばや 」 芭蕉

                              ( 雫(しづく) は涙の意)
唐招提寺を訪れた芭蕉が 「盲(し)ひさせ給う鑑真和尚の尊像を拝して」
辛苦の歴史に思いをいたし奉げた句。
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by uqrx74fd | 2014-10-31 06:34 | 生活

万葉集その四百九十九 (白露)

( 白露  学友N.Fさん提供 )
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( 露草  山の辺の道  奈良 )
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( 同上 )
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( 薔薇の新葉に置く露 )
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( 千畳敷カールで  中央アルプス )
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(  同上 )
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( 同上 )
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(テルリコフスカ著 しずくのぼうけん :一粒の雫が旅に出て、雲や雨になり
 川となって流れ、つららになって春を待つお話です )
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「あさ つゆをみると むねが ふるえる 」    ( 八木重吉 詩稿 ことば)

深まりゆく秋の早朝、野原の草花の上に置かれた露は太陽の光を受けて
小粒のダイヤモンドを撒き散らしたようにキラキラと輝きます。
思わず「ワァー」と歓声を上げたくなるような美しさ。
花の露ともよばれる雫は、植物や昆虫など生きとし生けるものに用意された
自然の飲み物であり、彼らが美しい色に変化するのは虹色に光る玉を飲んで
育ったからなのでしょうか。

古代の人々はこのような美しい玉水を白露とよび、木の葉を染めて
紅葉させるものと考えていました。

「 秋されば 置く白露に わが門(かど)の
      浅茅が末葉(うらば) 色づきにけり 」 
                         巻10-2186 作者未詳

( 秋がやってまいりましたね。
  我が家の茅(ちがや)の葉先も置く露のために美しく色づいてきましたよ )

 
「我が門(かど)」は男女が逢い別れるところをさし(伊藤博)ここでは宴席のようです。
庭先で行く秋の紅葉を楽しんでいる男女、虫の音も涼やかに響いていたことでしょう。
浅茅は丈の低い茅(ちがや)、末葉は葉の先。 

「 妹が袖  巻来(まきき)の山の 朝露に
     にほふ黄葉(もみち)の 散らまく惜しも 」
                            巻10-2187 作者未詳

( いとしい子の袖を巻くという巻来(まきき)の山の 朝露に色づいた黄葉が散るのが
 今から惜しまれることです )


前の歌の男女の出会いの場「門」から「妹が袖を巻く」(共寝する)を連想させる
「巻来(まきき)の山」という枕詞を用いています。(所在未詳)

今は盛りの黄葉が散るのを惜しんだ歌ですが、女性との一夜が早く終わってしまうのが
惜しいという気持ちが籠っているのかも知れません。

「 さを鹿の 朝立つ野辺(のへ)の 秋萩に
     玉と見るまで 置ける白露 」 
                       巻8-1598 大伴家持

( 雄鹿が朝佇んでいる野辺の秋萩
 その上に玉と見まごうばかりに置いている白露よ。)


牡鹿は萩が咲く頃妻を求めて鳴くので「萩は鹿の花妻」といわれます。
鹿が妻問したあとの後朝(きぬぎぬ)の別れ。
白露は別れの涙でしょうか。

霧の帳(とばり)がかかる明け方の野原。
咲き乱れる萩に置く露。
悲しげにミユーンと鳴く鹿。
優美かつ哀韻響く一首です。

「 玉に貫(ぬ)き 消たず賜(たば)らむ 秋萩の
    末(うれ)わくらばに 置ける白露 」
                             巻8-1618 湯原王

( 秋萩の枝先にとりわけ際立って見事に宿っている白露。
それを白玉として糸に貫き、消さないままで戴きたいものです)

 
ある乙女に贈った歌。
もとより出来ないことを所望した戯れですが、優雅な求愛ともとれる一首です。
「末(うれ)」 : 枝先
「わくらば」は「別くらば」で「他と区別できるほど際立って美しい」

万葉集に見える露は115首余。
豊かにして繊細な日本人の感受性は月の雫(露の異名)、朝露、暁露(あかときつゆ)、
露霜(つゆじも)、露の身、露の命などの美しい言葉を生み出し、今もなお秋を代表する
季語として詠われ続けているのです。

 「 露の玉 つまんでみたる わらは哉 」 一茶 (おらが春)

                     「わらは」 童子
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by uqrx74fd | 2014-10-23 17:54 | 自然

万葉集その四百九十八 (瓜:うり)

( 金俵マクワ   国立歴史民俗博物館 くらしの植物苑  佐倉市 )
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( 成歓マクワ   同上 )
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( 藤原京近くで   奈良市)
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( 白はぐら瓜    くらしの植物苑  佐倉市 )
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( 北海甘アジウリ   同上 )
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(  マクワウリの花   同上)
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(  栗   馬来田にて  千葉県 )
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(  万葉歌碑    同上 )    「 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに
     まされる宝 子に及(し)かめやも 」
                            巻5-803 山上憶良
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メロンの一種とされているウリはアフリカ、ギニアのニジェール川流域を原産地とし、
古代エジプト、中央アジアを経てギリシャ、ローマに伝わりました。
中世以降、ヨーロッパ各地に普及し、改良を重ねてマスクメロンとよばれる
高級果実になり今日に至っております。
一方、古代インドに伝わったウリはマクワウリに分化して紀元前に中国に入り、
我国にも弥生時代に伝来していたことが各地の遺跡から出土した炭化種子で
確認されています。

菓子類が少ない古代、甘くて美味しいマクワウリはさぞ子供たちの好物だったこと
でしょうが、正倉院文書によると極めて高価な贅沢品。
米四合が五文であったのに対し1個三文、庶民には高根の花であったようです。
また奈良漬けに使われるシロウリも粕漬けとして貴族の食膳に供されていたことが
長屋王の木簡の記録に見えます。

万葉集での瓜は1首のみ。
特権階級や金持ち以外にはお目に掛かることが少なかったため、詠われることが
なかったのでしょうか。

「 瓜食めば 子ども思ほゆ 
  栗食めば まして偲(しの)はゆ 
  いずくより 来りしものぞ
  まなかひに もとな かかりて 
  安寐(やすい)し 寝(な)さぬ 」 
                          巻5-802 山上憶良 (既出)

( 瓜を食べると子どものことが思われる。
 栗を食べるとそれにも増して偲ばれる。
 こんなに可愛い子どもというものは一体どういう宿縁でどこから
 我が子として生まれてきたものであろうか。 
 やたらに眼前にちらついて安眠させてくれないことだ )

「子ども」 子供たち 
「思ほゆ」 自然と思い出されてくる
「偲はゆ」 眼前に今見えないものを思い出すこと
「まなかひ」:眼の交(かひ) 眼前
「もとな」(元無);わけもなくやたらに

大宰府に単身赴任していた憶良。
遠く都に置いてきた我が子を思う親心がひしひしと伝わってくる長歌です。

栗は瓜よりさらに高く四合で八文、同量の米五文に対し1、6倍。
「栗食めば まして偲はゆ」に「近くに居れば食べさせてあげるのに」という
気持ちが強く籠ります。

この歌の前に次のような序があり、意訳すると、

『 釈尊が御口ずから説かれるには
 「 等しく衆生を思うことは、我が子羅睺羅(らごら)を思うのと同じだ」と。
 然しまた、もう一方で説かれるには
 「 愛執(あいしゅう)は 子に勝るものはない」と。
 この上ない大聖人でさえも、なおかつ、このように子への愛着に
 とらわれる心をお持ちである。
 ましてや、俗世の凡人たるもの、誰が我が子を愛さないでいられようか 』

仏教では物事に執着することは例え自分の子でさえも道にもとるとされていました。
敬虔な仏教徒である作者はその教えは十分に承知しながらも釈迦如来のような
大聖人でさえ、子への愛にとらわれる心をお持ちだった。
まして自分のような凡愚は、子どもが可愛くて可愛いくてどうしょうもないと
訴えております。
伊藤博氏は
『「愛執(あいしゅう)は 子に勝るものはない」という言葉は仏典に釈迦の言葉として
見られないといわれており、憶良が勝手に作り出したものと考えられる。
そこまでして心の拠りどころを求めるほど我が子にとらわれることへの罪を
意識していたわけである』 と述べておられます。 (万葉集釋注3)

が、人間的情愛の深かった憶良。
厚く帰依する仏教の教えに反してでも愛し続ける我が子への真情。
瓜や栗という身近な食べものを通して詠い上げたこの名歌は万人の心を打ち、
次の反歌とともに時代を越えて詠い続けられることでありましょう。

「 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに
    まされる宝 子に及(し)かめやも 」
                            巻5-803 山上憶良

( 銀も金も玉など 何のことがあろうか。
  子に及ぶ宝などあるはずがない。
  あるはずがないのだ  )

                              ご参考:万葉集遊楽その184(栗:くり)
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by uqrx74fd | 2014-10-16 17:32 | 植物

万葉集その四百九十七(野辺の秋萩)

( 白毫寺への道の途中で   萩とざくろ   奈良市)
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(  ヤマハギ   飛鳥で )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 白萩   白毫寺で)
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( 同上 )
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(  宗林寺で    東京、谷中)
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( 白毫寺    奈良 )
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( 国営飛鳥歴史公園  石舞台地区 )
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いつの頃からでしょうか。
こんなにも萩に魅せられるようになったのは。
秋風と共に訪れる開花の便りを聞くや否や、近隣、遠出をものともせず
もう何もかも放り出して
「 秋風は涼しくなりぬ 馬並(な)めて
    いざ野に行かな 萩の花見に 」  巻10-2103 作者未詳(既出)

の馬ならぬ「列車にて いざ行かむ」の心境。
気もそぞろに新幹線に飛び乗り、まずは古都、奈良を目指します。
飛鳥、平城宮跡、藤原京跡、白毫寺。
そこには野性味豊かな萩と薄の群生地があり万葉人の面影が身近に感じられるのです。

「 秋の野に 咲ける秋萩 秋風に
   靡(なび)ける上に 秋の露置けり 」 巻8-1597 大伴家持


( 秋の野に咲いている秋萩、その萩が秋風に靡いているその上に
   秋の露が置いているよ )

咲き乱れた萩は風に靡き、枝もたわわにしなう。
優雅さをたたえた花や葉に乗る白玉はキラキラと光り今にもこぼれ落ちそう。
白露は萩の開花を促し、晩秋のそれは落花を早めるものと思っていた古(いにしへ)の人。
四つの秋を重ね、待望の季節到来を目いっぱいに表現する作者です。

「春されば 霞隠りて 見えずありし
    秋萩咲きぬ 折りてかざさむ 」 
                  10-2105 作者未詳


( 春には霞に隠れて見えなかった萩。
 秋になった今、見事に咲きはじめた。
 さぁ、手折ってかざしにしょう )

野原一面に霞が垂れこめて萩の若芽を覆っていた春から、紫の花をつけた枝が
大波のように靡く秋到来。
今までの時の経過を回顧し、待ちに待っていた開花の歓びを詠う。
「萩」は古くは「生芽」(はえぎ)といい、転じて「はぎ」になったそうです。
「生え芽」即ち、根元から絶えず新しい芽が出、折れたり切れたりしても次々と芽吹く。
古代の人はその旺盛な生命力にあやかろうと手折って頭や衣服に挿し、
長寿、繁栄を祈りました。
「萩」という字は平安時代に創られた国字、草冠に秋はいかにも日本らしい。

「 娘子(をとめ)らに 行(ゆ)き逢ひの早稲(わせ)を 刈る時に
    なりにけらしも 萩の花咲く 」 
                               巻10-2117  作者未詳

( 夏と秋が行き逢う季節は稲刈りする美しい乙女たちと出会う時。
  萩の花も美しく咲いているよ
 さぁさぁ、出かけましょう、萩と乙女との出逢いを求めて )

「行き逢い」に「乙女らに行き逢う」と「夏秋季節の行き会い」を掛けています。
歓び溢れ、わくわくしている作者。
首尾よく美しい乙女に出会えたでしょうか。

「 春日野の 萩は散りなば 朝東風(あさごち)の
     風にたぐひて ここに散り来(こ)ね 」
                         巻10-2125 作者未詳

( 春日野に 咲きにおう萩よ もし散るのなら 朝東風の風に乗って
 ここに散っておくれ )

東風(こち)は東の方から吹いてくる風。
「たぐひて」は「類(たぐい)て」で「仲間になって」、ここでは風に乗っての意。
作者は春日野の西、平城京で詠ったのでしょうか。

当時、平城京郊外の春日野や高円の野は、今では想像も出来ないような
萩の大群生地があり、野性の鹿も棲んでいた身近な行楽地でした。
宴なども盛んに行われていたことでしょう。

萩が散り敷く紫の絨毯。
そのかたわらで飲めや歌えやの楽しい酒宴。
いつの間にか現れた鹿が萩をかき分けながら遠ざかってゆく。
そのような雅やかな光景が目に浮かぶようです。

「 草深み こおろぎ多(さは)に 鳴くやどの
    萩見に君は  いつか来まさむ 」 
                  巻10- 2271 作者未詳(既出)

( 我家の庭は草深いので 蟋蟀(こおろぎ)がいたるところで鳴き、萩も満開ですよ。
 あなた様は一体いつおいでになるのですか!
 お会いしたいわ。 来て!早く!  )

「誰かこんな歌くれないかなぁ」と思わせるような優雅なお誘いです。

  「 萩に伏し 薄にみだれ 故里は 」  夏目漱石

しなやかに伸びる強靭な枝。
紅紫の花の奥に秘めた濃艶な色気。
楚々とした風情と品格。
着物姿の日本女性を感じさせる萩。
風に靡く薄とともに今年も日本の秋を美しく彩ってくれています。
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by uqrx74fd | 2014-10-10 07:15 | 植物

万葉集その四百九十六 (秋の明日香路)

( 国営飛鳥歴史公園 萩の群生 )
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( 同上 すすきの穂も美しく靡く )
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( 明日香川 )
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( 明日香 稲渕の棚田 )
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( 同上 彼岸花 )
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( 同上 案山子 鯉のぼり)
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( 同上  月が出た 出た )
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( 同上  村の子供たち )
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( 同上 巨大な金太郎)
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( 同上  村の鍛冶屋 )
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(  同上  竹トンボ )
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今日は9月23日、秋分の日。
近鉄吉野線飛鳥駅に降り立つと何処からともなく金木犀の香りが漂ってきました。
秋晴れのもと、心地よいハイキング。
まずは国営飛鳥歴史公園をめざします。
多武峰の山々を背景にした石舞台。
周囲に群生する萩と薄が見頃なのです。
明日香川の流れの音も耳に心地よく響いて参ります。

「 明日香川 行(ゆ)き廻(み)る岡の 秋萩は
    今日(けふ)降る雨に 散りか過ぎなむ 」
               巻8-1557 丹比真人国人(たぢひの まひと くにひと)

( 明日香川が巡り流れている丘の秋萩は、今日降るこの雨で
  散り果ててしまうのではなかろうか。
  まだまだ楽しみたいのに惜しいことです )

この歌には註があり「(甘樫の丘の麓) 豊浦寺を訪れ、尼僧の私房で宴した時の歌」
とあります。
明日香から平城京に遷都してから幾年月。
作者は、かって住み慣れていた地を久しぶりに訪れ、昔馴染みの尼達の歓待を
受けたようです。
この辺りは広々とした野原。
萩の群生が見事だったことでしょう。
花見を満喫しながら、やがて散る萩を惜しんだものですが、尼達との楽しい宴が
終わりに近づき、別れの時が来るのが寂しいという気持ちが籠ります。

「 めづらしき 君が家なる 花すすき
    穂に出づる秋の 過ぐらく惜しも 」
                       巻8-1601 石川広成

( 懐かしいあなたのお家の花すすきが一斉に穂を出している秋
 この秋が過ぎて行くのが何とも惜しまれてなりません )

「花すすき」は薄の穂を花に譬えたもので万葉集唯一の表現です。
作者は大伴家持の同僚。
「めづらしき」は「めったにお目にかかることがない」の意です。

月光のもと薄が一面に靡く。
行く秋を惜しみながら一献、また一献。

「 秋の田の 穂向きに寄れる 片寄りに
   我れは物思ふ つれなきものを 」 
                       巻10-2247 作者未詳

( 秋の田の稲穂が一方に靡き垂れているその片寄りさながらに
 私はただひたむきに物思いに耽っております。
 あなたはまるでつれないのに )

間もなく収穫を迎える稲の穂はいかにも重たげに垂れています。
恋に悩み、うなだれている乙女。
片想い? あるいは訪れがない恋人に可愛くすねているのか。

「 曼珠沙華 落暉(らっき)も蘂(しべ)を ひろげけり 」 中村草田男

「曼珠沙華」は梵語でマンジュサカといい天上の花を意味しています。
 落暉すなわち夕日を花に見立てた雄大な一句

つぎは明日香の奥、稲渕の棚田を目指します。
石舞台からゆっくり歩いて約20分。
お目当ては彼岸花とたわわに実った稲穂。
赤、黄、緑が彩る夢の世界で様々な案山子が迎えてくれるのです。

「 道の辺(へ)の 壱師(いちし)の花の いちしろく
      人皆(ひとみな)知りぬ 我(あ)が 恋妻は 」
             巻11-2480 柿本人麻呂歌集(既出)

( 道のほとりに咲く彼岸花
その花が目立つように我が恋妻のことを とうとう世間様に知られてしまった。
ずっと心のうちにしまっておいたのに )

「いちしろく」の原文は「灼然」で「著しくはっきり」 。

作者は燃えるような恋心を抑えかねて女性のもとに度々通ったのか、あるいは
人前で手を振るようなしぐさをしたのでしょうか。
当時の恋のルールは「夜、女性のもとに通い、明け方、人がまだ寝ている間に帰る」、
そして「人に知られないよう密やかに」というのが習いでした。
何故ならば、人の口に自分達の名前が上ると、その言葉に霊力が付いて
魂が他人に移ってしまい、お互いの恋は破綻すると信じられていたのです。

そのような歌を口ずさみながら、やがて棚田の下へ。
今年の案山子祭りのテーマは「童謡、唱歌、わらべ歌、ものがたり」。
子供達やお年寄りのグループが丹精を込めて作った傑作が心打ち、幼い頃の
楽しかった思い出が蘇ります。

明日香川が流れる脇道から朝風峠の頂上まで延々と続く彼岸花の赤。
今年も豊作ですよと語りかける稲穂。
様々な表情をした魅力的な案山子たち。
明日香の秋を十二分に堪能した一日でした。

「 明日香村 大字飛鳥 稲架日和 」 堀井より子 

       注: 「明日香」は地名、自治体名に用いられ
          「飛鳥」は時代、地域他に使われている
        この句の「明日香村大字飛鳥」は現存する地名















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by uqrx74fd | 2014-10-03 07:54 | 万葉の旅