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万葉集その五百四(巨勢路)

( 万葉時代に詠われた「やぶ椿」  学友 N.F さん提供 )
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( 巨勢寺跡 奈良県御所市 )
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(  同上 説明文  画面をクリックすると拡大できます )
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( 阿吽寺:あうんじ )
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( 同境内の歌碑 
  巨勢山のつらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を )
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( つらつら椿  森野薬草園 奈良県桜井市 )
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(  同上 )
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( 巨勢路の街並み )
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( このあたり一帯の山々を巨勢山というらしい   近鉄吉野口駅から )
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( 万葉列車も走る巨勢路 )
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巨勢は古代、葛城氏の支族である巨勢氏が支配していた地域だったのでその名があり、
現在は近鉄吉野口駅付近の御所市古瀬あたりとされています。
飛鳥の都から吉野、紀伊に向かう人々は必ずこの地に至り、東南に進めば吉野、
西南に向かえば紀伊さらに瀬戸内海や朝鮮への海路にも通じる要衝の地でした。

緑の山間を清流がさらさらと音を立てて流れ、椿の名所でもある美しい巨勢は
旅行く人にとって格好の休息地であり、吉野離宮や紀伊の牟婁(むろ)温泉に度々御幸された
持統天皇もここで足を止めて遊宴を催しておられたようです。

「 巨勢山の つらつら椿 つらつらに
       見つつ偲(しの)はな 巨勢の春野を 」 
                    巻1-54 坂門人足(さかとの ひとたり ) (既出)

 ( 巨勢山のつらつら椿 この椿をつらつらと偲ぼうではありませんか。
   椿の花満開の春野のありさまを。)

701年、文武天皇と持統太上天皇が揃って紀伊国に行幸された折の
宴席での歌と思われます。
時期は椿にはまだ早い10月の終わり頃、作者はおどけたような口ぶりで
一同に声をかけます。

「  皆さん、目を閉じて!
   そうすれば丘一面に咲き誇っている椿の花が目の前に浮かぶことでしょう。
  さぁ、さぁ  」 

「つらつら椿」の「つらつら」は色々な解釈があり、椿の並木、花や葉が連なっている様、
 あるいは葉がてらてらと光る様子ともいわれていますが、
「ツラツラツバキ、ツラツラニ」と「つ」が続く軽快なリズムは旅行く人の浮き浮きした気持ちを
良く表しています。
後に続く「つらつらに」は「つくづくと」というほどの意です。

「 直(ただ)に行(ゆ)かず こゆ巨勢道(こぜぢ)から 岩瀬踏み
   求めぞ我が来し 恋ひてすべなみ 」 
                               巻13-3320 作者未詳

( 「平らな近道をまっすぐに行かずに こちらからお越し」という巨勢道を通って
  岩のごつごつした川瀬を踏みながら、あなたを探し求めて私はやってきました。
  恋しくて恋しくて どうしょうもなくて。)

この歌は前に長歌があり
 『 紀伊の国の浜へ鮑玉(あわびだま:真珠) を採りに行った男を、
  いつ帰るかと待ちわびている女が夕占(ゆうけ)に問い、
 「 あと7日、早ければ2日ほどで帰って来ると」いうお告げを得たので
  待ちきれなくなった女が途中まで迎えに来た 』
とあります。

夕占(ゆふけ)とは、言霊の活躍する夕方、辻に立って行き交う人々の
言葉の端々から吉凶を占うことです。

「こゆ巨勢道」は「巨勢道」(こせぢ)に「来(こ)せじ」の意を含めた言葉遊びです。
近道があるのに 「こちらへ来い(来ゆ)、そしたら愛しい人に逢える」
という言葉に魅かれて、わざわざ険しい岩根を踏みながら迎えに来たというのです。


「 わが背子を こち巨勢山と 人は言へど
    君も来まさず 山の名にあらし 」
                           巻7-1097 作者未詳

( 「 わが背の君を こちらに来させると云う名の巨勢山 」
  人はそう言うけれど、私の想う人は一向にお出でにならない。
  この山の名は単なる山の名前だけ。
  おまじないなど利くものですか。)

巨勢の地名に興味を覚えて作った歌 
「こち巨勢山」は「こちらに来させる」の意の「来せ」(こせ)と同音の巨勢を
起こしています。
「あらし」は「あるらし」の意で名ばかりで実を伴わないことを嘆く女。

右吉野、左紀伊の標識が立つ分かれ道。
巨勢路はその地理的位置と相まって男女の逢い別れの歌に使われたのでしょう。

「 花御堂 巨勢野の花を 摘み集め」  右城暮石

近鉄吉野口から西へ1㎞ばかりのところに巨勢氏の菩提寺と伝えられる巨勢寺跡が
ありますが、今は小さなお堂と礎石だけが残るのみです。
また、近くに「阿吽寺(あうんじ) 山号 玉椿山(ぎょくちんざん)」という
巨勢寺の子院の境内に犬養孝氏揮毫の歌碑

「 巨勢山の つらつら椿 つらつらに
       見つつ偲(しの)はな 巨勢の春野を 」 
             巻1-54 坂門人足(さかとの ひとたり ) 

があり、賑やかだった古を偲ぶ縁(よすが)となっています。

    「巨勢山の つらつら椿 実となれる」  石井桐蔭
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by uqrx74fd | 2014-11-28 06:38 | 万葉の旅

万葉集その五百三 (晩年の額田王)

( 明日香の春の額田王  安田靭彦画伯  ) 
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(  額田王  平山郁夫画伯 )
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( 額田王   上村松篁画伯 )
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( 粟原寺跡:おうばらでらあと 額田王終焉の地か?   奈良県桜井市 )
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( 同上  画面をクリックすると拡大出来ます ) 
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( 同上  いにしへに 恋ふる鳥かも 弓弦葉の 御井の上より鳴き渡りゆく 弓削皇子
       いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 我が思へるごと 額田王) 
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(  同上 )
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( 額田王の念持仏か?  石位寺 奈良県桜井市  朝日新聞2013,10,10 )
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万葉女流歌人の中で圧倒的な人気を誇る額田王(ぬかだのおほきみ)。
1300年を経た今も多くの人を引きつける魅力の秘密は何なのでしょうか。

彼女の生涯について文献に残る記録は極めて少なく、日本書記の
 「 額田王の出自は鏡王という人物の娘であり姫王とよばれる身分であった。 
その経歴は、初めて天武に娶られて十市皇女を生んだ。」という記述と
額田王作とされる歌12首のみです。( 長歌3首 短歌10首うち1首重複)

父親の「鏡王」とはいかなる人物か? 母親は? 生没年は? 容姿は? 
すべて謎。
残された歌や添え書きから読み取ることができるのは

1、天智、天武天皇に寵愛されるほど魅力のある女性であった。
2、詠まれた歌はスケールが大きく、色彩感、表現の彩りが豊かであり、
  一種の神秘性が感じられる。
3、斉明、天智、天武に近侍し、天皇の御心を歌にして伝える、御言持ちの役割を
  果たしていた。
4、天武と娘まで生(な)したのに、のち天智の後宮に入った。
5、壬申の乱後、天智の子、大友皇子(戦死)の后となっていた娘十市皇女と共に
  天武天皇の下で静かに余生を過ごし歌の世界からも離れていた。
6、娘十市皇女に先立たれたが、孫、葛野王は健やかに成長した。
7、63~64歳の時に最後となる歌2首を詠い、その後生涯を終えた?

などでしょうか。

678年、余生を静かに過ごしていた額田王のもとに歌が届けられました。
贈り人は持統天皇吉野御幸にお供していた弓削皇子(ゆげのみこ)です。
( 天武天皇第6皇子、当時24歳 )

「 いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉(ゆづるは)の
     御井(みい)の上より 鳴き渡りゆく」 
                  巻2-111 弓削皇子 (既出)

  ( 古(いにしへ)を恋い慕う鳥でしょうか。
        目の前の鳥が弓絃葉茂る泉の上を今、あなたさまの方に向かって
        鳴き渡っていきましたよ )

調べ美しく格調高い名歌です。
「御井」は 聖なる泉

弓削は天武と大江皇女との間に生まれた皇子。
持統天皇が自分の血筋(天武―草壁皇子―文武)に執着し、他の諸皇子に厳しくあたる
治世下にあって、人一倍不安と哀愁を感じて生きなければならない運命でした。

彼は天武在世中、天皇が額田王と共に吉野を訪れ、しばしば遊宴を催した当時を
懐かしみ、また歌に弓絃葉を詠みこむことにより時代の移り変わり、新旧交代する
自然のあり方に感慨を示したものと思われます。
従ってこの歌の「いにしえ」とは皇子の父である天武天皇と若き額田王との
恋愛関係を指しています。

ちなみに「ゆずりは」は古代「弓絃葉(ゆづるは)」とよばれたトウダイグサ科の常緑高木で、
春に出た新葉が成長すると前の葉がいっせいに落ち、新旧交代の特色が際立つので
「代を譲る」意で「譲葉(ゆずりは)」の名があります。

額田王は孫のように甘える弓削皇子に対して温かく、いとおしむような歌を返します。

「 いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす
     けだしや鳴きし 我(あ)が思(も)へるごと」  
                     巻2-112 額田王 (既出)

  ( 皇子がお聞きになった鳥の声は恐らくホトトギスだと思います。
    丁度昔をしのんでいた私、同じ気持ちでホトトギスも鳴いたのでしょう )

ホトトギスには昔をしのんで鳴くという中国の故事があり、弓削皇子の気持ちを
理解したことを伝えるとともに、第三者に誤解されないよう、十分に配慮が
なされている返歌です。
弓削皇子が現世を悲観し天武帝華やかなりし頃を懐かんでいると持統天皇の
耳に入ったらと為にならないと用心に用心を重ねたのでしょう。

弓削は歌に添えて苔生した松の枝を切り取って贈っていたので
王はさらに一首、お礼の歌を詠みました。

「 み吉野の 玉松が枝は はしきかも
   君が御言(みこと)を  持ちて通(かよ)はく 」 
                           巻2-113 額田王

 ( み吉野の玉松の枝は まぁなんといとしいこと。
      あなたのお言葉を持って通ってくるとは )

「玉松」は松の美称、「はしきかも」は「愛しきかも」で いとおしい。

玉松が枝を弓削の皇子にみたて、孫のように愛おしんだ気持ちを表しています。
しばらく歌の世界から遠ざかっていたにもかかわらず、その力量は衰えず
流石と感心させられる二首の歌です。

そして、残念ながらこの歌を以て額田王は万葉から姿を消すことになります。
まことに余韻を持った退場。
まだまだ詠って欲しかったのに!

伊藤博氏は
「 額田王は時に悲しみにくれることがあっても、晩年、悠然と心静かに
  日を送っていたのではなかろうか。
  それは,かっての時代、一世を代表する女流歌人であったことからの
  自信と満足に由来するのであろう」と述べておられます。 (万葉集釋注)

彼女は一体いつ、どこで生涯を終えたのでしょうか?

JR、近鉄桜井駅から「かぎろひの丘」で有名な大宇陀の方に向かい、舒明天皇陵、
鏡王女の墓を通り過ぎて約10㎞。
小高い丘の上に粟原寺跡(おうばらでらあと)があります。
神武天皇東征神話の地とも伝えられている由緒あるところです。

この寺には、
「中臣大島(なかとみのおおしま)という人物が草壁皇子(天武、持統の皇子)追悼のために建立を発願し、それを実行したのは比売額田(ひめ ぬかた)」
という記録が残ります。
それ故、この場所こそ額田王が晩年を過ごし、生涯を終えたと唱える人もおり、
弓削皇子と取り交わした歌の碑が立てられています。
また近くの石位寺(住職不在、仏像を保存する建物のみ)の仏像が額田王の
念持仏であったとも。

いずれも真偽のほどは定かではありませんが、人ひとりいない廃墟跡に立つと
往年の額田王の姿が目に浮かぶようです。

どのような顔をしていたのか?
眼を閉じると安田靭彦の「飛鳥の春」上村松篁、平山郁夫の「額田王」が
次々と目に浮かび、遠くから聞こえてくる会話は井上靖の「額田女王」の場面。
これらの方々が後世に与えた影響は大なるものがありますが、
一人で想像の翼を膨らませ、自分なりのイメージを頭に描くことも楽しいものです。

   「 天武天皇の一年六月 壬申の乱があった
        もちろん ぼくにはその朝の深さを知るすべはない
        だが近江の山野を進むあの兵馬の幻影を見なければ
        ぼくはきみに逢うことはなかっただろう
        その時
        きみは 髪にムラサキの花をさして立っていた  - - 」
                                  ( 秋谷豊 額田王より )

       「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
                   野守は見ずや 君が袖振る 」 
                              巻1-20  額田王

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by uqrx74fd | 2014-11-21 07:18 | 生活

万葉集その五百二 「熟田津(にぎたづ)の船乗り」

( 額田女王  井上靖  新潮文庫  挿絵 上村松篁 )
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( 古代の船  国立歴史民俗博物館の暖簾 )
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(  同上 )
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 熟田津 堀江湾 後方 興居島(こごしま)  愛媛県松山市
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( 道後温泉    同上 )
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  額田王  熟田津  小山 硬(かたし)  奈良県立万葉文化館蔵 
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 祈り  石川 義(ただし)  同上 
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(  月と海  yahoo画像検索 )
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661年正月6日のことです。
長年親交があった百済が唐、新羅の連合軍に首都を占領され我国に援軍を求めてきました。
大和朝廷はその要請に応じ、68歳の斉明女帝を総帥とする士官、兵士,水主を含む
乗員総数27000人といわれる空前の規模の軍隊とそれを運ぶ400隻の船を
難波津から出航させます。

まさに国を挙げての戦い。
中大兄皇子をはじめ実弟大海人皇子、さらに後宮の女性も引き連れての旅は
さながら朝廷が移動した感があります。

筑紫に向かう途中の1月14日、一行は伊予の熟田津(現在の道後温泉あたり)に
到着し約2カ月余り滞在しました。
老齢の女帝の疲れを癒し、大海人皇子の妃、大田皇女が船上で大伯皇女を
出産したことによる療養、さらに不足していた兵士、水主を募集し船団を整えるなどに
時間を費やしたようです。

温泉でゆっくり英気を養っている間に万端の準備が整い、いよいよ出軍。
全軍勢揃いの中、額田王が天皇の意を汲んで詠います。

「 熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば
    潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 」   1-8 額田王 

( 熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいた通り
 月も出、潮の流れも丁度良い具合になった。
 さぁ、今こそ漕ぎ出そうぞ )

月光のもと、波風に黒髪を靡かせながら朗々と詠いあげる額田王。
威厳と力強さ、そして気品あふれる万葉屈指の名歌です。

数々の賛辞が呈されていますが、代表的なものを列挙してみます。
まずは直木孝次郎氏の簡易にして的確な評からです。

『 港の奥深く、帆に風をはらませて粛然と控えている多くの軍船。
「熟田津に船乗りせむと」と情景の描写にはじまり、
「月待てば」と星のきらめく空を仰ぐ。 
そこで一転して「潮もかなひぬ」と視線を足元の海に移し、
最後は斉明をはじめ乗り組みの人々に向かって「いまは漕ぎいでな」と詠いおさめる。
起、承、転、結の骨法にかなった見事な構成である。
空から海への転換がすばらしく、歌の格と幅を大きくしている 』
                            (額田王:吉川弘文館より)

伊藤博氏 (万葉集釋注 集英社文庫)

『 船出の刹那を待ち続け、ついにその時を得た宮廷集団の心のはずみの上に
  発せられたこの歌には、息をのんで勢揃いをする宮廷集団を一声のもとに
  動かす王者の貫録がみなぎっている。
  人々は、これを天皇の声と聞いたであろう 』

下田 忠 氏  (瀬戸内の万葉,桜楓社)

『 結句の「今は漕ぎ出でな」の「な」という強い勧誘の意が、全軍に向かって
 呼びかけるような大きな語気をもち、待ちに待って遂に出航の時を迎えた時に
 発した強い声調に、堂々たる風格が感じられる。
 東方には満月、月光にきらめく満潮の海原には黒々とした大船団。
 その出航の様は言語に絶する壮観だったであろう.』

変わったところでは折口信夫氏の説

『 船乗りと言うのは、何も実際の出航ではありません。
  船御遊(ふなぎょいう)というといってよいでしょうが、
 宮廷の聖なる行事の一つで船を水に浮かべて行われる神事なのです。- -
 女帝陛下には聖なる淡水、海水を求めての行幸がたびたび行われていたのです。』
                 
( この説については土屋文明、山本健吉、池田弥三郎、多田一臣が賛意を示しているが
  現在では受け入れられていない )

さて、このように高い評価を得ている歌ですが、思わぬところで論争が起きます。
潮の干潮は1日に2度あり、潮流の方向も2度変わる。
それなのに何故昼間の満潮と潮流の西への流れのときに出航しないのか?
という議論です。

梅原 猛氏は次のように述べています。

『 漁夫といえども夜の海は避ける。漁夫は朝、海へ行き、夜、海から帰る。
  船の旅も同じである。
  海の旅はもちろん昼、夜は港に泊まって船は休むのである。
  遠洋航路以外の旅は最近までそうであり、ディーゼル機関を備えた今でさえそうである。
  まして昔、光のない暗い夜に、何を好んで航海に出るのか 』
                                  ( さまよえる歌集 集英社 )

『 昔の航海に夜船は絶対不可能 』  ( 金子元臣 万葉集評釈)

『 古代の船は船底が扁平だったので、潮が引くとそのまま千潟の上に固定される。
 出発は月が出て潮が満ちて来るまで、つまり、船が浮上するまで不可能だった。』
                                  ( 日本古典文学全集 万葉集 小学館)
その他

『古代の人間の活動するのは昼間、夜は神の世界で魑魅魍魎が活動するので
恐れられていた。従って夜の航海は不可能 』 などの意見があります。

それに対して直木孝次郎は下記のように述べておられます。(夜の船出,塙書房要約)

『 「S・H・ブチャー著 ギリシヤ文明の特質」にギリシャの多島海(エーゲ海)では
  海の微風は毎朝10時におこり、日没におよんで凪ぎ、午後11時頃に陸から微風がおこる
  「オディッセイア」のなかには、この陸風を利用した夜の船出の話がある
  と記されていた。
  エーゲ海で陸風海風が交替して吹くなら瀬戸内海でもそうかもしれないと思って、
  それからは夜吹く風の方向を注意するようになり、どうやら夜は陸風が海の方向に
  吹くらしいことに気が付いた。

  夜の船出のすべてが多島海の夜の陸風によるのではないが、帆を使用するように
  なってから船人にとって大事なのは風で、風向きさえよければ夜を恐れず船出する。
  わが瀬戸内海の船人が、夜の陸風を利用しなかったとは思われない。
  清らかな陸風を帆いっぱい受けた船が、つぎつぎにしずしずと港を乗り出してゆく
  光景を、わたしは思い描くのである。 』

更に益田勝美氏は詳細な科学データーで直木論文の裏付けします。

 『 直木さんが注目した海陸風というのは、昼間は海から陸へ向けて風(海風)が吹き
   夜はそれと逆に陸から海へ風(陸風)という特殊地形の局地風のことです。
   日本気候環境図表によると冬季、日中に三津浜で帆を上げて出航し西進しようと
   しても季節風というべき西北西か西風が吹いていて、まともでは船は吹き戻されてしまうでしょう。

   出港地三津浜とその前面の興居島(ごごしま)の間には、この陸風という特別な風があり
   夜になると海に向けて吹きます。
   この海域の潮流、気象を知悉していた古代の海人部にとっては、いまさらという
   ほかない知識だったかもしれません。
   但し、この風は季節風なので正月から3月までの時期を限定して直木説を支持したい。
   さらに、興居島の線に出ると、そこまでの追い風航法から、この季節の
   西北風か西風を用いて横風帆走法に転じて進むのがよいでしょう。』
                                 (「記紀歌謡」ちくま学芸文庫)

多くの議論がなされた夜の船出。
現在では直木、益田説が主流となりました。
それにしてもこの歌1首のために分量にして数冊にも及ぶ研究がなされていることに
ただただ驚くばかりです。

     「 道後の湯 浸りて偲ぶ 額田王 」 筆者

ご参考1.

「 熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば --」 の歌に下記のような
  注記があります。

『 山上憶良の「類聚歌林」によると、
  舒明天皇の9年12月、天皇と皇后(斉明)は伊予の温泉の離宮に行幸されたことがある。
  天皇崩御後、天皇に即位された斉明は時を経て新羅遠征の為海路西へ出発、
  伊予の熟田津の石湯(いわゆ)の離宮に停泊した。
  女帝は往時夫、舒明天皇と共に見た風物がまだ残っているのをご覧になり
  たちまち懐旧の思いにうたれ、御歌を詠んで哀傷(かなしみ)を新たにされた。
  つまり、この歌は斉明天皇の御製である。
  額田王の歌は別に4首ある。』

  然しながらこの歌はどう読んでも哀傷(かなしみ)を詠ったものとはいえません。
  山上憶良が指摘している天皇が詠まれた歌は別にあり消失したのではないか? 
  と考えられており、作者が斉明天皇であるという説は現在少数派となっています。

ご参考2. 

熟田津とはどこか

 松山市三津湊、松山北部の和気の浜、堀江など諸説あります。
 昔は海が今日よりずっと内陸まで続いていたと考えられており、
 道後に近い堀江説が有力です。

                            以上















                            
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by uqrx74fd | 2014-11-14 07:10 | 生活

万葉集その五百一 (山 色づきぬ)

( 春日野にて  前方の山は御蓋山  後方春日山  奈良 )
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( 奈良公園 )
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( 奈良公園の鹿 )
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( 遊ぶ子供たち )
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( 手向山八幡宮  奈良 )
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( 同上 )
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( 大仏池 )
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(  長谷寺  奈良 )
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( 杉玉  揮毫は前東大寺管長 上野道善師 (筆者学友)
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「 拝啓 林間に酒を温めて、紅葉を焚く時候と相成りました。
  銘酒あり、一献献上、御来駕あれ 」

このような粋なお誘いを受けて断るわけにはまいりません。
何はともあれ古都奈良へ馳せ参じて全員集合。
澄み切った青空の下、万葉の故地、春日野、初瀬、三輪、龍田を巡ります。

まずは春日野から仰ぎ見る春日、高円、御蓋の山々。
今年も美しく色づきはじめていました。

 
「 雁がねの 寒く鳴きしゆ 春日なる
    三笠の山は 色づきにけり 」   
                  巻10-2212 作者未詳

(雁が寒々と鳴いてからというもの 春日、三笠の山は美しく色づいてきましたね。)

「 山粧ふ (やま よそおふ) 」という言葉があります。
11世紀の中國北宋の画家、郭煕(かくき)の造語とされ、山笑う、山滴る、山眠ると共に
四季の山の表情を生き生きと表現したものとしてよく使われていますが、「粧ふ」は
豪華絢爛、錦の山を想像させます。

対する万葉人の「色づく」は、「ほんのり」と薄化粧。
紅葉は一気に赤や黄色になるのではなく、山の上から下へと向かって時雨に
濡れそぼちながら徐々に徐々にと彩りをそえてまいります。
古代の人はこのようなさまを草木の葉が「もみだされるように」変色すると感じ
「黄変」と書き「もみつ」と云っていました。
「もみつ」という動詞が名詞の「もみち」、さらに転訛して「もみぢ」になったのです。


「 こもりくの 泊瀬(はつせ)の山は 色づきぬ
    しぐれの雨は 降りにけらしも 」    
                            巻8-1593 大伴坂上郎女

( こもりくの初瀬の山は見事に色づいてきました。
時雨が早くもあの山々に降ったのでしょうね。)
作者は耳成山東北の地、大伴家の私領、竹田庄に行っていたようです。
古代、早秋の時雨は紅葉の色づきを早め、晩秋のそれは落葉を促すものと
考えられていました。
泊瀬の紅葉は昼夜寒暖の差が大きく色鮮やか、とりわけ長谷寺の堂宇の間から臨む
色とりどりの美しさはこの世のものとは思えません。

大和朝倉、長谷寺あたりはその昔「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)」とよばれていました。
「はつせ(またはハセ)」は初瀬、泊瀬、長谷とも書きますがいずれも正しいとされ、
初(ハツ)は「初め」、泊は「終わり」、「長谷」は「狭くて長い谷」
そして「こもりく(隠国)」は「山々に囲まれた国」の意です。

すなわち「こもりくのはつせ」は「山々に囲まれた長い谷」にある霊験あらたかなる
観音様を拝して心機一転の「新しい人生を初め」、生涯の果ては「人生の泊(とま)りどころ」
つまり墓所が営まれた聖なる地なのです。

「 味酒(うまさけ) 三輪の社(やしろ)の山照らす
     秋の黄葉(もみち)の 散らまく惜しも 」
                              巻8-1517 長屋王

( 三輪の社の山を照り輝かしている秋のもみじ、その黄葉の散ってしまうのが
 惜しまれてならぬなぁ )

三輪の社は山そのものがご神体とされている三輪山
「味酒(うまさけ)三輪」は味(うま)い酒を盛ったみわ(御わ:土製の容器)の意で
神に供えることから三輪山に掛かる枕詞として使われています。

米の収穫が終わり酒の仕込みの時期になると、神様に感謝を捧げると共に、
裏山で採った杉の葉先を玉にして全国の酒屋に配ります。
店先に飾られた青々とした杉玉は「新酒できましたよ」のお知らせ。
時の経過とともに褐色に変色するのは酒の成熟度を示すのだそうです。

「 雁がねの 来鳴きし なへに 韓衣(からころも)
     龍田の山は  もみちそめたり 」  
                               巻10-2194 作者未詳

( 雁が渡ってきて鳴くやいなや、韓衣を裁(た)つと云う名の龍田の山が
  色づきはじめました)

韓衣(からころも)は大陸風の衣装、ここでは衣を裁つ(龍)の意で龍田に掛かる枕詞。
龍田の山は現在その名が存在しませんが、生駒山の最南端信貴山に連なる
西の山とされています。
古代 難波と大和を結ぶ官道がここを通っており、平安時代になると麓を流れる
龍田川が紅葉の名所とされましたが、万葉集では川の紅葉は詠われていません。

「 かくしつつ 遊び飲みこそ 草木すら
    春は生(お)ひつつ 秋は散りゆく 」 
                             巻6-995 大伴坂上娘女(既出)

( さぁ 皆さん 今夜は思う存分飲んで楽しく過ごして下さい。
  草や木でさえ春には生まれ秋に散ってゆくのです。
  我々も短い人生を大いに楽しみましょう )

再び春日野に戻って飲めや歌えの大酒盛り。
ここは山の麓の隠れ宿。
三笠の山に月が出た。

一献、また一献 。
美酒(うまさけ)、旨肴、云う事なし。
何よりのご馳走は、友との尽きせぬ語り合い。

楽しきかな、愉快かな。
隣の女性も仲間入り。
なんと! 遥々スエ-デンから見えた実業家、
英語達者が通訳し、
イングリッド・バーグマンに似ていると大騒ぎ。

かくして またたく間に秋の夜が更けてゆきました。

「 酒の燗(かん) せきに客くる 紅葉茶屋 」 穂北燦々

           せきに : (酒はまだかぁと) せかしに 
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by uqrx74fd | 2014-11-07 05:37 | 自然