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万葉集その五百十三 「茜(あかね)さす」

( 茜色  色の手帳 小学館より ) 
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( あかねの根  高温で煮て染料にする  yahoo画像検索 )
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( あかねさす富士の裾野 )
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( あかね雲 )
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( アルピコ交通 上高地線のカラフルな列車 )
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( 天平祭の華やかな衣装 奈良平城京跡 ポスター )
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( アキアカネ     yahoo画像検索 )
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( あかねの花  遠くから見ると蕎麦の花のよう   yahoo画像検索 )
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( 同上 )
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「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
      野守は見ずや 君が袖振る 」 
                           巻1-20  額田王(既出)

「あかね」は山野に自生する蔓(つる)性の多年草で、根を高温で煮て赤色の染料に
することからその名があり、植物名であると同時に色名として使われています。
「さす」は「光や日が射す」などの自然現象をいい、万葉人はこの二つの言葉を合わせて
鮮やかな赤色をふまえた情緒感あふれる素晴らしい表現を造り出しました。

上記の額田王の歌はあまねく知られていますが、万葉集では13首も「あかねさす」が
登場しており、古代の歌人にとって馴染み深い成句だったことが窺われます。

ただ、植物そのものを詠った例は1首もなく、すべて昼や日、さらに色彩の類似から
紫や紅に掛かる枕詞として用いられているのは、染色された茜色の鮮やかさに比べて
初秋に咲く白い小花が地味で目立たないせいだったからでしょうか。

「 あかねさす 日の暮れゆけば すべをなみ
    千(ち)たび嘆きて 恋ひつつぞ居る 」
                           巻12-2901 作者未詳

( 日が暮れてゆくと何ともやるせなくて 私は幾度も幾度も溜息をつきながら
      あの方を恋慕っているのです。)

「すべをなみ」は術無(すべなし) の意。

男の訪れを今か今かと待つ女。   
たまらず外に出て通りを見渡すが人影は見えず。
あたりが次第に暗くなってゆく中で肩を落として待つ女のやるせなさ。

「 あかねさす 昼は物思(ものも)ひ ぬばたまの 
        夜はすがらに 音(ね)のみし 泣かゆ 」
                      巻15-3732 中臣宅守(なかとみのやかもり )

( 明るい昼は昼で物思いにふけり、
 暗い夜は夜通し声を上げて泣けてくるばかり )

738年前後、朝廷の官人である作者は新婚早々勅勘の身となり越前に配流されます。
罪の理由は女官との禁断の恋、重婚、政治的策略説などあり、はっきりしません。
恋の相手は狭野芽上娘子(さの ちがみのおとめ)。
二人がやり取りした恋歌は宅守40首、娘子は23首という膨大なものです。
約1年8か月ばかりを経て赦され、昇進して都に栄転したところを見ると、
はやり政治的事件に巻き込まれた失脚かと思われます。

「 あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの
      夜(よ)わたる月の 隠らく惜しも 」
                          巻2-169 柿本人麻呂

( 天つ日は照り輝いているけれども 夜空を渡る月の隠れて見えぬことの悲しさよ。)

「ぬばたま」は檜扇の古名で実が黒いことから夜に掛かる枕詞。

昼の太陽、夜の月を対比させ、「あかねさす」「ぬばたま」を添えることにより
白黒、明暗、色彩感あふれる世界を生み出し、奥深い情緒を感じさせています。

この歌は689年、天武、持統天皇の皇子、草壁皇子の1回忌の席で詠われたもので
月は草壁、日は持統を暗示し、歌の前段に次のような趣旨の長歌があります。

『 天地開闢の神話によると先帝天武天皇は神の子として明日香に降臨され、
神のままに瑞穂の国の統治を行ったが、あとを草壁に任せて天界に帰られた。
それゆえに人々はその皇子の統治に期待を寄せていたのに、
残念ながら真弓の丘などに籠ってしまった。
皇子に仕えていた人々はただ途方に暮れているばかりである。』

ライバル大津皇子を冥界に退けてまで草壁天皇即位にすべてをかけた持統女帝の
落胆はいかばかりであったことでしょうか。

万葉人に愛された茜色。

我国のアカネは根が細く必要量を得るのに手間がかかる上、鮮やかな緋色にするために
高温に保った器で根を煮出し触媒剤(灰)を使い、厄介な副成分であるタンニンを取り除き
さらに紫草や紅花と交染するという複雑かつ高度な技術を要したといわれています。

織られた衣服は極めて貴重なものゆえ、その着用は親王、諸王の皇族に限られ、
それ以下の身分のものは禁色、庶民には全く縁のない色でした。
それにしても古代の染色技術の確かさには驚嘆いたします。

今日茜染めと称されているものは容易に色素を抽出できるインド原産の
セイヨウアカネや中国で薬用に栽培されている茜を用いているようです。
ちなみに「ローズマダー」とよばれる絵具はセイヨウアカネノ成分である
アリザニンが合成されたもの。
独特の芳香がある天然ものは希少,高価でお目にかかったことがありません。

       「 染色の 山の麓や 茜掘り 」 素丸 
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by uqrx74fd | 2015-01-30 06:40 | 植物

万葉集その五百十二 (有馬)

( 有馬温泉中心部 )
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( 岩風呂遺構 )
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( 日本第一神霊泉の石碑 )
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( 幕湯 貸切の湯 )
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( 長く逗留する人は温泉の2階を借りて自炊、時々湯女を呼んで宴会 )
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( 有馬筆 )
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( 有馬温泉を訪れた著名人 )
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( 菅  笠の材料 )
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( 菅笠 通販カタログより )
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日本書記、「摂津国風土記」(逸文)によると有馬温泉は蘇我馬子の時代に発見され、
舒明天皇が2回、(631年、638年)、孝徳天皇が1回(647年) 行幸されたと
伝えられています。  
滞在期間は3~4ヵ月に及び、山奥の小さな村に仮宮を造営するなど大掛かりなもので、
現地の人々は突然現れた大勢の高位高官、女官のきらびやかな姿にさぞ仰天したこと
でしょう。     ( 注:逸文とは一部のみ残存する記録)

また、万葉集の左注にも大伴坂上郎女の実母、石川命婦(いしかわのみょうぶ)が
「餌薬(じやく)の事によりて有馬の湯に往(ゆ)き」と記されており(巻3-461)、
古くから格好の癒しの場として多くの都人に親しまれていたことが窺われます。

ただ、温泉を詠ったものは一首もなく有馬山の情景と有馬菅に掛けた恋歌しか
登場しないのは不思議なことです。
「いで湯」は歌の題材として馴染まなかったのでしょうか。

「 しなが鳥 猪名野(いなの)を来れば 有馬山
       夕霧立ちぬ 宿りはなくて 」
                         巻7-1140 作者未詳

( 猪名の野を はるばるやって来ると 有馬山に夕霧がたちこめてきた。
      宿をとるところもないのに )

しなが鳥は「かいつぶり(にほ鳥とも)」といわれ、雄雌相伴うので
「率(い)る」と同音の猪(い)に掛かる枕詞とされています。

猪名野(いなの)は伊丹市 猪名野川流域一帯の野で
有馬山は現在の六甲山か(伊藤博)

古代、この地で狩猟や牛馬の放牧などが行われていたようです。
広々とした原野を心地よく歩いているうちに次第に夕暮れになり、
しかも霧が立ってきた。
周りに民家も見当たらず、やれやれ野宿かと心細くなる作者。
六甲山の吹きおろしは凍えるような寒さであったことでしょう。


「 大君の 御笠(みかさ)に 縫へる有馬菅(ありますげ)
   ありつつ見れど 事なき我妹(わぎも) 」  
                            巻11-2757 作者未詳

( 「大君の御笠に」と縫っている有馬の菅。
  その名ではないが、ありつつ - ずっと見続けているあの子は
  わが伴侶として申し分ないなぁ。)


有馬菅は笠の原料で摂津(兵庫県東南部と大阪府北部)の名産。
この歌では素晴らしい女性に譬えられています。

「大君」は天皇、いささか大げさな表現ですが、帝に献上するほど立派な品と同様、
自分が選んだ女性は素晴らしいと言いたかったお惚気です。

「 人皆(ひとみな)の 笠に縫ふといふ 有馬菅
      ありて後にも 逢はむとぞ思ふ 」
                         巻12-3064 作者未詳

( 世間の人が皆、笠に作るという有馬菅
  その名のようにずっと在(あり)長らえて のちのちでもよいから
  きっと逢おうと思っているよ )

「ありま」「ありて」と「あ」を重ねた軽快なリズム。
貴賤を問わず、雨除け、日よけに利用される笠は必需品。
初句から有馬菅までは「在(あり)て」を引き出すための序詞です。

それにしても「後々でもよいから逢おうと思う」とはどういう気持ちか?
遠くへ旅立つ男が、
「お前は人が皆欲しがる有馬菅の笠のような魅力的な女。
 俺は何とか無事に生き長らえて戻るから待っていろよ。
 きっと再び逢おうな 」

と口説いているのでしょうか。

「 湯の匂ひ まとふ有馬の 門飾り 」  川野喜代子

今日の有馬温泉は外人客も多く大変な賑わいです。
門構えが立派な宿は敷居が高いような気もしますが、日帰り入浴歓迎のところも多く
観光客が次から次へと中に入っていきました。

古代からから多くの人々に愛された名湯。
来場者名を記した看板に天皇をはじめ和泉式部、藤原道長、在原業平、西行、
藤原定家、太閤秀吉、北政所、千利休、近松門左衛門、福沢諭吉、伊藤博文、竹久夢二、
谷崎潤一郎、吉川英治、孫文、グレースケリーモナコ王妃など著名人がずらりと並びます。

特産品の竹細工や有馬筆も興趣をそそり、坂の上の小奇麗なレストランの
三田肉ビーフシチューも美味しそうです。

古い伝統と近代的なものが混然と一体となった有馬温泉。
これからも関西の奥座敷として繁栄してゆくことでしょう。

「 山眠り 六甲颪(ろっこうおろし) ほしいまま 」 中野智子
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by uqrx74fd | 2015-01-23 06:43 | 万葉の旅

万葉集その五百十一 (橘いろいろ)

( 橘の実  春日大社神苑 万葉植物園 )
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(  橘の花   同上 )
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( 柚子の花   橘とほとんど変わらない  自庭で)
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(  京都御所 右近の橘 )
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(  文化勲章 筑波大学朝永記念館蔵 )
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橘は近畿地方以西の暖かい海岸線に近い山地に生育するミカン科の常緑高木で、
古くは蜜柑類の総称とされていました。
6月頃、5弁の白い花を咲かせ、秋には黄色の美しい実を付けますが、古代の橘は
我国固有のニホンタチバナと推定され、酸味が強くて食べられなかったので、
もっぱら観賞用として植栽されていたようです。

清々しい香りを漂わせる白い花、黄金色の実、常緑の葉。
万葉人はこの植物に永遠の生命が宿ると信じ69首もの歌を詠んでいます。

「 橘は 実さへ花さへ その葉さへ
      枝(え)に霜降れど いや常葉(とこは)の木 」
                   巻6-1009 聖武天皇(元正上皇とも)

( 橘の木は実も花もめでたく、そしてその葉さえ冬、枝に霜が降っても常緑。
  ますます栄える目出度い木であるぞ。 )

『 「さへ」を三つ重ねて、逆接の「霜降れど」で盛り上げ,体言止めで結んだ
調べの高い歌で、王者の風格がある。(伊藤博) 』一首。

736年 葛城王、佐為王たちが臣籍に降下し、「橘 宿禰」の姓を賜ったときの歌で、
常緑樹で霊木とされた橘の木をたたえることで、橘氏の繁栄を予祝したものです。
葛城王は後の橘諸兄。
光明皇后の異父兄で天皇の信頼厚く、左大臣,正一位と位人臣を極めます。

「 橘の とをの橘 八つ代にも
     我れは忘れじ この橘を 」 巻18-4058 元正上皇

 「とを」は実の重みで枝が撓むさま

( 橘の中でも特に枝も撓むばかりに実をつけたこの橘
  私はいつの世までも忘れはしませんよ。
  この見事な橘を )

元正上皇が左大臣橘諸兄の邸宅を訪れ、宴を催したときの挨拶歌。
橘の木に寄せて橘氏を讃えています。

臣下の屋敷を訪問する格別の思し召し。
当時、諸兄は朝廷最高の権力を持ち、大伴一族の後ろ盾ともなっていました。

「 我が宿の 花橘の いつしかも
      玉に貫くべく その実なりなむ 」
                      巻8-1478  大伴家持

( 我が家の庭の橘の花は、いつになったら
  玉として糸に通せるほどの大きさの実になるのだろうか )

万葉人の美しい造語「花橘」。
白い花を愛でながら黄金色の実を待ちわびる。
玉飾りは愛する人に贈るのでしょうか。

家持は殊の外橘を好んだらしく25首もの歌を残しています。

「 橘は 花にも実にも 見つれども
    いや時じくに なほし見が欲し 」
                      巻18-4112 大伴家持

  「時じくに」 絶えず

( 橘は花が咲いた時も、美しい実がなった時も見ているが
 見れば見るほど素晴らしい。
 もう、時を定めず、毎日でも見ていたいものだ )

ここまでくれば橘狂としか言いようがありません。

家持が橘を特に讃えたのは、左大臣、橘諸兄を持ち上げる意図があったのかも
しれません。
藤原氏に対抗するには諸兄の支えが絶対不可欠の政情。
事実、諸兄が引退すると大伴家はたちまち衰退してゆきます。

なお、家持が「時じく」と詠ったのは記紀の次の逸話を下敷きにしたものです。

『 その昔、垂仁天皇が田道間守(たじ まもり)という人物を常世の国(外国)に遣わし
  不老長寿の霊薬「非時の香菓(ときじく の かくのみ)」即ち
「 季節に関係なくいつも瑞々しさを保っている香り高い木の実」を求めさせた。
  間守は10年間探し求めて、その実のなる木(橘)を手に入れ帰国したが
  天皇は既に崩御された後であった。
  間守はその木の一部を皇后に献上すると共に、残りは天皇の御陵の
  ほとりに植え、嘆き悲しんで亡くなった』 と。

以来、橘は永遠の繁栄を人の世にもたらすものとして珍重され
「常世草」(とこよくさ)ともよばれました。
また「神が立つ花」すなわち神霊が現れる花(中西進 花の万葉秀歌)との
説もあります。

橘と云えば文化勲章。

その図案は当初、桜花に配する曲玉の意匠が予定されていましたが、昭和天皇から
「 桜は昔から武を表す意味に用いられているから、文の方面は橘を用いたらどうか 」

という意味のお言葉があり、橘になったそうです。
    ( 井原頼明氏 東京朝日新聞宮内庁記者 昭和13年当時)

また氏は以下のような文章も残しておられます。(一部現代仮名使いに変更)

『 橘は古来わが国では尊重され愛好せられ、桓武天皇が平安京に遷都遊ばされてからは
  紫宸殿の南庭に用いられて右近橘と称せられ、左近櫻と共に併称せられて今日に及び
  万葉集にも数多く詠ぜられているところである。
  垂仁天皇が常世の国に橘を求められたことよりして、橘は永劫悠久の意味を
  有しているものであり、その悠久性、永遠性は文化の永久性を表現するのに
  最も適するものとの聖慮と拝察される 』 (増補皇室事典 富山房)

かくして記紀の伝説「時じくの橘」は万葉集から古今、新古今和歌集、さらに
源氏物語、枕草子などにも採りあげられて平安御所の象徴となり、櫻と共に
国花ともいえるような存在になったのです。


「 唄は ちやっきりぶし
  男は 次郎長
  花は たちばな
  夏は たちばな
  茶の かをり
  ちやっきり ちゃっきり
  ちゃっきりよ
  きやァるが啼くから 雨づらよ 」 

          ( ちやっきり節 1番 
           北原白秋 作曲 町田嘉章作詞 )

(  梅に橘  春日大社神苑 万葉植物園 )
 
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by uqrx74fd | 2015-01-13 17:54 | 植物

万葉集その五百十 (我が心は燃ゆる富士)

( 朝焼け富士  山中湖近くの丘から )
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(  富士山断面図 )
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( 曽我梅林から )
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( 吾妻山公園から )
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( 三島から )
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( 山中湖から )
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( 稲村ヶ埼から )
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( 葛飾北斎 凱風快晴:がいふうかいせい )
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富士山は最近10万年で急速に大きくなった若い活火山で、現在、私たちが目にする
山の外観は約1万年前から噴火活動を開始して形成された新富士火山とよばれるものです。
その下に70万年前から活動していた
「小御岳(こみたけ)」と
 「愛鷹山(あしたかやま)」の一部、
10万年前から1万年前に噴火した
「古富士火山」があり、
現在小御岳の頭部が富士山北斜面5合目あたりに露頭していて古代の名残を
偲ばせてくれています。(掲載断面図ご参照)

それぞれの山々が活発に活動していた時代、山頂の火口からテフラと
よばれる砕屑物(さいせつぶつ)を大量に噴出させ、長い年月を掛けて最初に出来た
山から順番に包み込み、最後に大きな3つの山を1つに合体させて、
世界でも稀な美しい円錐形の姿に創り上げたとは、正に奇跡としか言いようがありません。
天が我が民に与えてくれたた最大の贈り物とでもいえましょうか。

( 注:テフラ
   山頂の火口から噴出する岩滓(がんさい)、溶岩、灰、泥、軽石、火山弾
   などの砕屑物。)

記録上での噴火の初見は781年の続日本紀ですが、それ以前に万葉集で

「 燃ゆる火を 雪もち消ち  降る雪を 火もち消ちつつ 」
                         (巻3-319 高橋虫麻呂歌集長歌の一部) 
と盛んに噴火する様子が詠われています。

都からの旅の途中、富士山を初めて見た人はその美しさ、崇高さ、噴火のすさまじさに
感銘を受けますが、駿河や伊豆に住む人々にとっての富士は、肥沃な裾野で田畑を耕し、
薪や新鮮な水を供給してくれる大切な生活の場でした。
時には木の下でデートを重ね、樹海の迷路を恋の迷いに譬えて心の内を語り、
噴火する山を眺めながら恋人に対する燃える想いを重ねて詠っています。

「 我妹子(わぎもこ)に 逢ふよしをなみ 駿河なる
   富士の高嶺の 燃えつつかあらむ 」 
                       巻11-2695 作者未詳

( いとしいあの子に逢う手だてがない。
 あの駿河の国の富士の高嶺のように私の胸は 
 いつまでも燃え続けているだけになるのだろうか )

自身の想いを噴火に譬え、熱く想い続けるだけで恋が叶うことが
ないのだろうかと嘆く男。
逢うことが出来ないのは相手の親から反対されているのか、片思いなのか。

「 妹が名も 我が名も立たば 惜しみこそ
   富士の高嶺の 燃えつつわたれ 」
                     巻11-2697 作者未詳

( そなたの名も 私の名も噂に立つと関係が壊れてしまうのが口惜しいから 
 あの富士の高嶺のように 思いを燃やすばかりで過ごしているのだよ )

「 このごろちっとも訪ねてくれないのね、薄情な方。」
と女に文句を言われて

「 噂になると恋が成就しないと云われているじゃないか。
  内心では富士山の噴火のように燃えているんだ 」と

他意あって逢わないのではないと言い訳している男。

いささか大げさな芝居がかった告白で嘘くさいですね。

平安時代になると富士の煙は「ならぬ恋の代名詞」として詠われます。
次の歌は色好みと噂される男が宮廷の女官に贈ったものです。

「 我のみや 燃えてかへらぬ 世とともに
               思ひもならぬ  富士の嶺のごと 」   平貞文 

( 私だけであろうか、そなたへの恋の炎を燃やし続けるのは。
      富士山のように燃えるものがなくなっても、燻(くすぶ)り続ける私の恋 )

受け取った女の返歌

「 富士の嶺(ね)の ならぬ思ひに 燃えば燃え
    神だに消(け)たぬ  むなし煙(けぶり)を 」 
                                     古今和歌集 紀乳母

( 富士山は火種をかかえて燃えていますが、その成就しない恋の想いに
      燃えるなら、いつまでも勝手に燃えていなさい。
      神様でさえ消すことが出来ない空しい煙ですもの。)

桓武天皇の玄孫、女にかけては在原業平と並び称され「在中、平中」と
よばれていた男。
自信満々で口説いたがこっぴどくはねつけられ青菜に塩だったことでしょう。
何しろ相手は陽成天皇の乳母です。

   「ならぬ思ひに 燃えば燃え」     炎にならず煙ばかりを上げる富士山。
                          その煙のように燻(くすぶ)った思い。
                          「思ひ」の「ひ」に「火」を懸ける

   「神だに 消たぬ」            神でも消すことが出来ないむなしい煙

富士山の噴火の最後は1707年の「宝永大噴火」。
大地震を伴い江戸市中まで大量の火山灰を降下させた大爆発だったそうな。

「 風になびく 富士のけぶりの 空に消え
    ゆくへもしらぬ わが思ひかな 」 

                   西行  新古今和歌集 

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by uqrx74fd | 2015-01-09 06:40 | 心象

万葉集その五百九 (新しき年)

( あけましておめでとうございます  干支文字切手とお年玉袋)
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( 朝焼け富士     精進湖 )
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( 富士山   十国峠 )
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( 鶴   丹頂鶴のタンゴ  学友M.Iさん提供 )
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( 鶴   日比谷公園 )
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( 凍て鶴  同上 )
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( 亀   亀と鴨のダンス  三溪園 )
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( 松  旧芝離宮庭園 )
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( 竹  京都嵯峨野 )
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( 梅  蘇我梅林 )
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2015年の干支は未、動物は羊があてられています。
「未」は木がまだ伸びきらない部分を描いた象形文字で、未完成、未知、
未定、未熟、未来などと使われ、やがて大きく成長する可能性を秘めたもの。

羊という字は「祥」という文字の古体とされ(諸橋轍次)、吉祥、瑞祥などのほか、
翔、義、美、羨、善など良い意味を持つものに使われているのは古代、羊が
神聖、目出度いものとされ性格もよいことによるそうです。

十二干支辞典によると未年生まれの人は、

「 穏健正直、慈善心に富み、信仰心が厚く、苦労性で涙もろく気弱、用心深い。
  50歳前後は苦労するが、晩年は安楽な余生が送れる。
  天性知恵深く、人のためになる相 」

とあります。

さてさて、今年は未来を拓(ひら)きながらも穏やかな1年になるのでしょうか。

「 新(あらた)しき 年の初めに 豊(とよ)の年
    しるすとならし 雪の降れるは 」 
                   巻17-3925 葛井連諸会(ふじゐの むらじ もろあひ)

( 新しい年の初めに このように雪が降り積もるとは、
  何と幸先がよいことでありましょうか。
  今年の国の繁栄と豊穣を示す瑞兆ですね )

746年正月、大雪が降り、時の左大臣橘諸兄が諸王諸臣を参集して元正太政天皇御所の
雪掻きに馳せ参じたところ、上皇大いに喜ばれて酒席を設けられ、各々に歌を詠むよう
仰せられた時の一首です。
古代、大雪は豊作の瑞祥とされていました。

「しるすとならし」の「しるす」は「兆」で、はっきりとしめす 
「ならし」は、「なるらし」  ~であるらしい


「 わが君は 千代に八千代に さざれ石の
    いわほとなりて 苔の生すまで」 
                      よみ人しらず 古今和歌集 

( あなたさまは 千代に八千代に 長寿を保ちご繁栄されますよう。
 小さな砂利が悠久の年を経て巌となり苔が生えるようになるほどに )

「君が代」の原歌。
「わが君」は自分が敬愛する人をいい、主君、父母、親族、配偶者、友人など
誰でもよく、賀の祝宴において祝われる人をいいます。
万人の長寿と繁栄を祈り寿ぐ歌、それが我国の国歌です。

「 新(あらた)しき 年の初めに 思ふどち
   い群(む)れて居れば 嬉しくもあるか 」 
                       巻19-4284  道祖王(ふなどの おほきみ)  (既出) 


    「思ふどち」 : 親しいもの同士
    「い群れておれば」 : 集う 
                  「群」という字の原義は
                  「大勢が一緒になって共同して物事を成し遂げる」の意で
                  「君」と「羊」から成っています。

( 新しい年の初めにこうやって打ち解けたもの同士が集うのは
  何よりも嬉しいことですね ) 

 さぁさぁ、今年も楽しくやりましょう。
 本年もどうぞよろしくお願いします。

   「 日の春を さすがに鶴の 歩みかな 」    榎本其角

   『 「日の春」は元旦の朝日をさす季語
      元旦の朝日を浴びて高々と鶴が歩む 
     「さすがに」の一語に鶴の美しさへの感嘆をこめる。』
                               (大岡信 名句 歌ごよみ 角川文庫より)
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by uqrx74fd | 2015-01-01 14:25 | 生活