<   2015年 02月 ( 4 )   > この月の画像一覧

万葉集その五百十七 (人麻呂歌塚)

( 和邇下神社 奈良県櫟本市(いちのもとし) )
b0162728_6383026.jpg

( 同上本殿 )
b0162728_6381248.jpg

( 和邇下神社境内 この道の奥に柿本寺跡(しほんじあと)がある )
b0162728_6375462.jpg

( 柿本寺跡 )
b0162728_6373761.jpg

( 同上説明板  画面をクリックすると拡大出来ます)
b0162728_6372157.jpg

( 人麻呂歌塚 )
b0162728_637674.jpg

( 人麻呂像 )
b0162728_6364722.jpg

( 巻向山 中央  山の辺の道で )
b0162728_6362865.jpg

数ある万葉歌人の中でもひときわ聳え立つ柿本人麻呂。
後に、歌の聖(ひじり)とよばれて人丸神社の祭神や柿本寺の本尊となり今や歌の世界に
無縁の人にも あまねく知られている存在です。
にもかかわらず、出自、生没は全く不明。
歴史上の記録はほとんど残らず、詠まれた数々の歌を通してのみ彼の生涯を
推察するしか術がありません。
多く専門家は言うに及ばず、歌人の斎藤茂吉も生涯をかけて「柿本人麻呂」(全5巻)と
いう大著を著わして人麻呂の終焉の地を鴨山(島根県)と断定し得た喜びを

「 人麻呂が ついのいのちを をわりたる
         鴨山をしも ここか定めむ 」      斉藤茂吉


と詠いましたが、それすら定説を得ておらず、研究文献は膨大なものになっています。

なぜこれほどの偉人の記録が残らなかったのか?
当時の定めで官人の足跡を正式な記録に残すのは身分が5位下以上となっており、
人麻呂の身分は低く、6位以下の下級官人であったためと推定されています。

官人にとって立身出世するには政治的手腕、官僚的事務的能力、家柄、上司の贔屓が
必要で歌はあくまで教養の一部。
歌のみに生きた人麻呂にとって出世は無縁の世界だったのでしょう。
彼の朝廷での主な役割は天皇、皇族に従事して歌を奉ることでしたが、それすら
宮廷歌人という身分が確立されていたわけではなく、地方勤務もしていたことも
歌から窺えます。

何処にいようと、ひたすら新しい境地を求め続けていた人麻呂。
歌人としての類い稀なる才能は持統天皇の時代に開花し、我国和歌史上最大の足跡を
残す不滅の存在となったのです。
残した歌は長歌19首、短歌75首。
それ以外に柿本人麻呂歌集に370首見られ、そのうち人麻呂作と指摘されているものも
多くあります。
天皇の近くにあって多くの賛歌、亡き人を偲ぶ挽歌などを声高らかに詠い上げた
人麻呂は個人の世界でも、独特の美しい世界を創造しており正に夢見る詩人とでも
言えましょうか。

「玉衣(たまきぬ)の さゐさゐしづみ 家の妹に
   物言はず来にて 思ひかねつも 」 
                          巻4-503 柿本人麻呂

( 玉衣のさわめきではないが 門出のざわめきが鎮まってみると
  家に残したあの子に何も言わないできたようだ。
  どうも、心残りでたまらない )

(さゐさゐ しづみ)  潮騒の騒の重複、旅立ちの物せわしいざわめきが鎮まって
(思ひかねつも)    思う心を抑えようにも抑えきれない

玉衣は衣の美称。
絹の衣がサラサラと音を立てている。
女性が着物を脱いだり着たりする姿を連想させる後朝の別れの場面です。
妻と一夜心ゆくまで過ごした後、慌ただしい出立。
長旅になるのでしょうか?
途中まで来て、「あぁ、優しい声の一つもかけてやらなんだ」と悔やむ作者。
濃厚な愛の営みを感じさせる一首です。


「 淡路の 野島の崎の 浜風に
     妹が結びし 紐吹き返す 」
                      巻 3-251 柿本人麻呂

( 淡路の野島の崎の浜風、
 その風が愛しい子が結んでくれた着物の紐をいたずらに吹きかえらせている )

別れの時に妻が安全を祈り、「私を偲ぶよすがに」と着物に結んでくれた紐。
風と紐のもつれの彼方に愛しい妻を幻視し、いつまでも立ち尽くしている。
公用で主人の伴をしながら瀬戸内海を旅している作者。
近くに妻がいない寂しさが籠っている一首です。

「 子らが手を 巻向山は常にあれど
    過ぎにし人に 行きまかめやも 」 
                       巻7-1268 柿本人麻呂歌集

( いとしい子の手を巻くという巻向山は昔と変わらずに聳えているけれども
 この世をあとにした人を訪れても、その手を枕にすることはもうできない。)

人麻呂の妻は巻向山麓に住んでいたようです。
山というぬくもりを感じさせる自然を用い、先立たれた侘びしさを
一層引き立てています。
窪田空穂は「 過ぎにし人に 行きまかめやも 」は人麻呂独自の表現で
他の人には真似出来ないものとされ、伊藤博氏は人麻呂作とみて誤まらないであろうと
確信されています。
亡き人を通して普遍的な人生の無常観を述べた歌です。

「 巻向の 山辺響(とよ)みて 行く水の
   水沫(みなわ)のごとし 世の人我れは 」 
                    巻7-1269 柿本人麻呂歌集

( 巻向の山辺を鳴り響かせて流れゆく川。
  その川面の水泡のようなものだ。 
  うつせみの世の中の人であるわれらは。)

前歌の山に対して「水」によせて人の世の無常観を述べた歌。
「世の人我れは」原文で「世人吾等者」となっており複数の人に
呼びかけたものと思われます。
この歌も人麻呂作と推定され、
「前の歌と共に深い無常の裏に常住への願いを秘めたもの」(伊藤博)で、
単なる妻を亡くした嘆きというよりは、人麻呂の深い人生の無常観を示したものと
いえましょうか。

  「 人麻呂の 墓は何処と 歌塚へ 」 筆者

JR奈良駅から桜井線で3つ目の駅、櫟本(いちのもと)で下車し約15分位歩くと、
和邇下神社 (わにしたじんじゃ) という式内社があります。
平安時代初期に編まれた延喜式人名帳(年中行事や制度を記載)に載せられ、
古代この地方一帯を支配していた和邇氏の始祖、天押帯巳子命
(あめの おしたらひこの みこと) を祀っている由緒ある社です。

柿本人麻呂は和邇氏から分岐した支族、柿本氏の出身と推定されていますが、
それを裏付けるかのように、神社の境内に氏寺とされた柿本寺(しほんじ)の跡が残り、
さらに人麻呂の墓?と伝えられる石碑が建てられています。

平安末期の歌人藤原清輔が墓標を立て、江戸時代の享保年間に再興し、
宝暦12年(1762年)、後西天皇の皇女、宝鏡尼の筆になる「歌塚」の文字を記した
大きな碑石です。
ここを訪れた鴨長明は
「 人麻呂の墓と言ひて尋ぬるに知れる人もなし」(無名抄)と述べていますが、
鎌倉前期には既に伝承の場所となっており、ここが人麻呂の墓かどうか、
神のみが知るようです。
石碑の横は児童公園になっており、幼い子が母親と砂遊びをしていました。

訪れる人もなし。
静寂な雰囲気の中で人麻呂の像が「ここだ、ここだよ」と私に示しているように
感じ、色々な文献を調べてみましたが残念ながら断定されたものは一冊もなく、
やはり伝承地とするほかありません。

   「 人麻呂の歌 
     しみじみ読めるとき
     汗となり
     春の日は 
     背(せな)をながるる 」
                   ( 若山牧水  みなかみ )

[PR]

by uqrx74fd | 2015-02-27 06:39 | 生活

万葉集その五百十六 (墨坂)

(墨坂伝称地 奈良県宇陀市)
b0162728_6394944.jpg

( 伊勢本街道跡 同上 )
b0162728_6392873.jpg

( 墨坂神社参道神橋 同上 )
b0162728_639870.jpg

( 墨坂神社 同上 )
b0162728_6384982.jpg

( 石上神宮  奈良県天理市 )
b0162728_638271.jpg

( 同上 )
b0162728_638996.jpg

( 境内で放し飼いされているオナガドリ  同上)
b0162728_6375189.jpg

( 人麻呂歌碑 同上
 おとめらが 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣(みづがき)の 久しき時ゆ 思ひき我は)
b0162728_6373326.jpg

( 柿本人麻呂  阿騎野人麻呂公園  奈良県宇陀市 )
b0162728_6371448.jpg

近鉄大阪線榛原駅から西北約1㎞のところに西峠という坂道があります。
昔、墨坂とよばれ、神武天皇東征の折、八十梟帥(やそたける)という賊が
炭火を焚いて侵入を阻んだのでその名があり、大和中央部と伊勢を結ぶ要衝の地でした。
往時は坂の上に道祖神、墨坂神社が祀られていたそうですが、室町時代に
宇陀川べりに遷座して現在に至っています

 
「 君が家に わが住坂の 家道(いへじ)をも
     我は忘れじ 命死なずは 」
                   巻4-504 柿本人麻呂の妻

( あなた様を忘れないのは勿論のこと、私があなたのお家に住みたいとまで
 思う その家につながる住坂の道さえ 決して忘れることはありません。
 私の命のある限りずっと )

人麻呂の妻はこの辺りに住んでいたのでしょうか?
万葉で唯一の墨坂、歌では住坂となっています。

「住む」には「男女が一つ家に暮す」と「男が女の家に通い続ける」の意がありますが、
当時は男が女の家に通うのが習い。
それでも一つ家に一緒に住みたい、毎日毎日貴方の顔が見たいという気持ちがこもる歌です。

「 家に住む、住坂」と言葉遊びの感じがあり、宴席で人麻呂が妻の立場になって
 詠ったのかもしれない(伊藤博)ともいわれています。

多くの旅人が行き来していたこの地は、今や道端に「墨坂伝称地」と刻まれた
石標がぽつんと立っているだけで周囲は住宅が密集していて当時の面影は全くありません。
わずかに、伊勢街道を思わせる案内標石がその雰囲気を残しているのみです。

「 未通女(をとめ)らが 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣(みづがき)の
     久しき時ゆ 思ひき我れは 」    
                             巻4-501 柿本人麻呂 (既出)


( 乙女が袖を振る その布留山の瑞垣が大昔からあるように
 私は、ずっとずっと前からあの人のことを想っていたのだ )

「未通女(おとめ)らが袖」までが「布留」を導き、「瑞垣の」までが「久しき」を
導く2重の序となっています。
要は「久しき時ゆ 思ひき我は」(長い間、私はあの人を想っていた)が主題の歌です。

本来民謡で使われていた手法を創作の世界に持ち込んだのは人麻呂だそうですが、
若き頃恋人に贈ったものでしょうか。
「未通女(おとめ)」は処女を暗示しており、神に仕える巫女かもしれません。
「瑞垣」は、神域を示す常緑樹の垣根
とすれば、決して手を触れてはならない女性に長い間秘かな恋心を抱いていたと
いうことになります。
技巧を凝らしたロマンティックな名歌です。

「袖布留山」は「袖」を「振る」の縁で「布留」を起こす序。
「布留山」は天理市 石上神宮の山。

近鉄榛原駅から南東、約600mのところに墨坂神社があります。
古くは伊勢街道、墨坂、天神の森に鎮座されていたものが室町時代に遷られた
そうですが、その歴史は古く、崇神天皇の380年に疫病が大流行したとき
夢の中での神のお告げにより、大和の東の入口である墨坂に赤、西の大阪の神に
墨色の盾鉾を祀ったところ病が平癒したことに由来するそうです。
また天武天皇の673年、大伯皇女が奉幣したという記録も残ります。

神社の前に宇陀川が流れ、正面の赤い橋が参道になっているのも珍しく、
背後の向井山の緑と赤を基調とした社の調和が美しい。

本殿で参拝を終え、かぎろひの丘へ。
若々しい人麻呂の像がある万葉ゆかりの地です。

   「花散らす 風の一日(ひとひ)や 宇陀郡(うだごほり)」 福永京子

[PR]

by uqrx74fd | 2015-02-20 06:40 | 万葉の旅

万葉集その五百十五 (宇治川)

( 宇治川 )
b0162728_1781654.jpg

( 琵琶湖から流れ込む川水 )
b0162728_1775912.jpg

( 宇治橋 )
b0162728_1774052.jpg

( 壬申の乱 奈良万葉文化館 )
b0162728_1772392.jpg

( 放し飼い?の鵜 )
b0162728_177954.jpg

( 鵜飼  大人気の女性鵜匠  yahoo画像検索より )
b0162728_1763717.jpg

( 網代 )
b0162728_1762461.jpg

( 宇治平等院鳳凰堂 )
b0162728_176834.jpg

 ( 池に映える鳳凰堂 )
b0162728_1755238.jpg

宇治川は琵琶湖を源流とし、山間を南西に大きく迂回しながら木津川、桂川と
合流して淀川に注ぐ大河です。
古代この流域一帯は大和.近江間を結ぶ交通と物流の要衝であり、
壬申の乱の折には戦略的重要地点として争奪の戦いの舞台にもなりました。
646年、奈良元興寺の僧、道登(どうとう)によって我国最初の本格的な大橋が
架けられたと伝えられていますが、架橋するまでの移動手段は小舟によるしかなく、
熟練の船頭でも激流には手を焼いていたようです。

次の5首の歌は宇治を訪れた官人たちが川岸で酒宴を催したときのものですが、
橋がまだ架けられていなかったか、あるいは災害で流失と架橋を繰り返していた
時期であったのかは不明ですが、川渡りの様子が詠われています。

「 宇治川は 淀瀬(よどせ)なからし 網代人(あじろひと)
    舟呼ばふ声 をちこち聞こゆ 」   
                        巻7-1135 作者未詳

( ここ宇治川には歩いて渡れるような緩やかな川瀬などないらしい。
 網代人が岸に向かって舟を呼び合う声があちこちから聞こえるよ。)

伊藤博氏は宇治川の夜景とされ、

『 川の中に網代を設けて魚を捕る人の岸辺に向かって舟を呼ぶ声が
  闇夜を貫くのを聞きながら宇治川の激流を想像している
  人と川の緊張関係が影絵のようになっている点が印象的である。
  一種の宇治川賛歌といってよい。』と解説されています。 (万葉集釋注) 

網代は宇治川の代表的な景物で、秋から冬にかけて河中に上流に向かって
V字型に杭を打ち並べ、竹などで編んだ簀(す)を張り、流れと共に下ってくる
琵琶湖の小鮎を捕る仕掛けです。
琵琶湖の鮎は一般に海まで下らず、成魚でも普通の鮎の半分くらいの大きさ。
その稚魚を氷魚とよび捕えて食膳に供します。

「 宇治川に 生(お)ふる菅藻(すがも)を 川早み
    採(と)らず来にけり つとにせましを 」 
                              巻7-1136 作者未詳

( 宇治川の流れが速いので川に根生えている菅藻を採らないできてしまった。
      家への土産にすればよかったのに )

「川早やみ」 川の流れが速いので
「つと」 「包む」と同源の言葉で「土産」のこと。

菅藻とはいかなる藻か不明ですが、川に靡く藻は女性に譬えられるので、
酒宴の席に「あの美女を連れてくればよかったのに」
という意が含まれているようです。

「 宇治人の 譬(たと)えの網代 我ならば
   今は寄らまし 木屑(こつみ)来ずとも 」 
                            巻7-1137 作者未詳

( 宇治人の譬えとして誰もが持ち出す網代、私だったらとっくに
 その網代に引っかかっておりましょう。
 あなたさまの魅力を解しない木っ端女など来ないでも )

 
宴席に歌舞音曲、作歌を生業とする遊行女郎(うかれめ)が同席していたと思われます。
前の歌を受けて
「あなたが逃がした女性ほど美しくはないが私なら喜んで寄り添っていましょうに」
と冗談を言いながら座を盛り上げています。

「宇治人の 譬えの網代」とは「宇治人といえば誰もが網代を連想し、
網を張って美女をひっかける男の代名詞」の意
「木屑(こつみ)」は難解ですが「そこら辺にどこにでもいるつまらぬ木っ端女」と解します。

「 宇治川を 舟渡せをと 呼ばへども
   聞こえずあらし  楫(かじ)の音もせず 」 
                         巻7-1138 作者未詳

( 「この宇治川を舟で渡してくれ」としきりに呼んでみるが
  一向に聞こえないらしい。
  櫓の音さえしてこないよ。 )

酒食と楽しい会話を堪能し、いよいよお開きになってきた。
「さぁ、舟を呼んで帰ろうかと」思えども見当たらず。
声が届かないほど川音が大きく、また川幅が大きいと嘆息する作者。
本気で嘆いているのではなく、宇治川の大きさを褒めている土地褒めです。

「 ちはや人 宇治川波を 清みかも
    旅行く人の 立ちかてにする 」
                          巻7-1139 作者未詳

( 宇治川の川波があまりにも清らかであるからか、旅行く人がみな
 ここを立ち去りかねている )

 宴席の詠いおさめです。

「ちはや人」は宇治に掛かる枕詞で「千早振る」(畏怖すべき霊力に満ち荒々しい)という
神に掛かる枕詞の変形。

「立ちかてにする」 立ち難い

万葉集に見える宇治は18首。
そのうち宇治川,宇治の渡りが16首、万葉人にとって周りの景色より
川の方が印象深かったのでしょう。

今日の宇治はJR京都駅から奈良方面に向かう快速で20分足らず。
海外の観光客も多く、ごった返すような賑わいです。

宇治川は平等院参道入り口近くを流れており、昔の面影を残していますが、
ダムで水量を調整しているため水量も少なく、逆巻く奔流は見えません。

放し飼いにしているのでしょうか、川の真中で鵜が気持ちよさそうに羽を広げています。
川のほとりの中州に鵜小屋があり、二人の女性の手並み鮮やかな鵜飼が
観光客を湧かせているようです。

宇治といえば藤原頼道建立の平等院。(1053年)
左右の翼廊と尾廊を備えた美しい建物と中央大棟の両端を彩る金色の鳳凰。
堂内には定朝作と云われる阿弥陀仏と飛天。
いずれも素晴らしく見惚れるばかりです。
折から修学旅行の学生の大集団。
急に賑やかになった境内を後にし、近くのお茶屋で美味しい宇治茶を戴いた後、
奈良へ向かいました。

            「 宇治川の 浮鵜に こぼる 梅の花 」  筆者
[PR]

by uqrx74fd | 2015-02-12 17:08 | 自然

万葉集その五百十四 (初梅)

( 早くも満開の梅  皇居東御苑 )
b0162728_17522172.jpg

( メジロ  同上 )
b0162728_17515524.jpg

( 同上 )
b0162728_1751386.jpg

( 白梅の開花は数輪  同上 )
b0162728_17512093.jpg

( 紅梅は七分咲き  同上 )
b0162728_1751668.jpg

( 立ち姿が美しい松  同上 )
b0162728_17504464.jpg

( 橘の実  同上 )
b0162728_17502013.jpg

( 蝋梅も満開  同上 )
b0162728_17495821.jpg

立春を過ぎると気持ちが華やぎ「梅はまだかいな」とそわそわいたします。
冬枯れの中に春の兆しを探り、花に出会えなくても「それはそれでよろしい」と
心得るのが探梅の心馳せだそうですが、「せめて一輪なりとも」と期待するのが凡夫の悲しさ。

寒風吹きすさぶ中、皇居東御苑に出かけました。
数日前に雪が降り、日射しの当たらない石垣の下には斑模様の白い塊が残っています。
緑鮮やかな松、黄金色の実をたわわに付けた橘の他は寂寥とした冬景色。
裸の桜並木はいかにも寒そうです。
近づいて枝の先をよく見ると小さな蕾がほんの少しだけ頭を出し「何時出ようかな」と思案気のよう。

「さぁて 梅は 」と見渡すと白梅が一輪また一輪、紅梅は七分咲。
先ずは満足しながら「もう十日も経てば見頃かな」思いながらゆっくりと
坂道を下って行きました。
すると、何と! 満開の梅が枝を大きく広げているではありませんか。
しかも艶やかなピンク色です。

「 霜雪も いまだ過ぎねば 思はぬに
       春日の里に 梅の花見つ 」 
                            巻8-1434 大伴宿禰三林(既出)

( 霜も雪もまだ消えやらぬのに 思いもかけず春日の里で 梅の花を見たことよ )

「春日の里に」を「御苑の庭に」と置き換えると我が心境にぴったり。
さらに幸運にもメジロが花を啄んでいるのです。
飛び交う度に枝花が揺れますが、散ることもなく静かに晴れやかに咲き続けています。

「 わがやどの 梅の下枝(しづえ)に 遊びつつ
    うぐひす鳴くも  散らまく惜しみ 」
                      巻5-842 高氏海人(かうじ あま)

( この我らが庭の梅の下枝を飛びかいながら鶯が鳴き立てている。
  花の散るのをいとおしんで )

メジロは鳴きませんでしたが、美しい羽色を存分に見せてくれました。
海外からの客さんも大喜び。
次から次へと記念撮影です。

「 梅の花 咲けるがなかに ふふめるは
     恋か隠れる 雪を待つとか 」 
                 巻19-4283 茨田 王(まむたの おほきみ)


( 梅の花 この花が咲いている中に まだ蕾のままのものがあるのは
  訪れて来る人を待つ思いをこめてのことでしょうか
  それとも、雪を待ってのことなのでしょうか )

古代、歌の世界では白梅と雪、鶯との取り合わせが好まれました。
散る花びらを雪のようだと詠い、美しい鳴き声にうっとりと聴き惚れ
春の訪れを寿いだのです。

梅の一角から離れるとまだ冬の世界ですが、大手門の近くに黄色い花。
近づくと馥郁とした香りが漂ってきました。
先駆けの花、蝋梅です。

これからは三寒四温の日々。
本格的な春の訪れも近いことでしょう。

     「 探梅や 枝の先なる 梅の花 」    高野素十
[PR]

by uqrx74fd | 2015-02-05 17:52 | 植物