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万葉集その五百三十 ( 大津皇子 1)

( 大津皇子像  薬師寺蔵 )
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(  皇室系図 天武天皇系 )
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( 大津皇子が眠る 二上山  当麻寺付近から 奈良県 )
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( 同上  天香久山付近から )
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( 同上  檜原神社から )
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 ( 山のしづく  高橋秀年   奈良万葉文化会館蔵  )
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( 万葉の春  上村松篁   松柏美術館蔵 )
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斉明天皇の時代、661年頃のことです。
大海人皇子は兄、中大兄皇子の二人の娘を妃として迎えます。
娘の名は姉の大田皇女、妹、鸕野讃良皇女(うのの ささら ひめみこ)のちの持統天皇です。

大海人は二人の妃を寵愛し、大田皇女は大伯皇女(おおくのひめみこ:大来皇女とも) と大津皇子、
鸕野讃良皇女は草壁皇子を出産しました。

中大兄は後の天智、大海人は天武天皇。
大津と草壁は共に祖父と父が天皇という抜群の血統を誇る従兄弟です。

大田皇女は大伯、大津姉弟が幼い頃に早世しましたが(667年)、二人とも祖父や父に
可愛がられ、長じて姉は伊勢神宮の斎王に、弟、大津は文武両道に秀で、
器が大きく人望ある貴公子に成長したと伝えられています。

一方、鸕野讃良皇女は天武天皇即位と同時に皇后の地位に付きましたが、
草壁皇子は体が弱く、能力も普通であったようです。

当時、天皇の後継者は天皇皇后の子が皇太子になるとは決められておらず、
天皇の意思で決定されるので、大津、草壁共に有力な後継者と目されていました。
天武としても頭が痛いことだったでしょう。
皇后は何としても実子の草壁を皇太子に指名させるべく執念を燃やします。

そんな時に、女性をめぐるある事件が起きました。
大津皇子が禁断の女性に魅かれ「逢い引きしたい」と文を渡したのです。

  「 あしひきの 山のしづくに 妹待つと
         我れ立ち濡れぬ 山のしづくに 」  
                          巻2-107 大津皇子

( 山であなたを待ちながらずっと佇んでいて、とうとう雫にしっぽりと濡れて
      しまいましたよ )

文を出した相手が待てど暮らせど現れなかったので恨みごとの歌を送ったのです。
通い婚の時代、女性が男のもとを訪れるなど考えられません。
しかも相手は手を出してはならない女性、采女か人妻らしい?

ところが意外や、相手から艶なる返歌が届きました。

「 我(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの
       山のしづくに ならましものを 」     
                           巻2-108 石川郎女

( 長い間私をお待ちになって雫に濡れてしまわれたとのこと。
  私はその雫になりたかったですわ )

この返事を受け取った皇子は欣喜雀躍。
そして、猛烈な求婚の末、とうとう結ばれました。

ところが、この秘め事を朝廷の占い師、津守連通(つもりのむらじとほる)という
男が暴露し噂が飛びかいました。
剛毅な大津は動ぜず次のような歌を詠います。

「 大船の 津守の占(うら)に 告(の)らむとは
     まさしに知りて  我がふたり寝し 」 
                              巻2-109 大津皇子

( 大船の停泊する津、その津の名をもつ津守め。
 そやつの占いによって暴かれるなど大したことはない。
 こちらはもっと確かな占いで公になることを承知の上で
 あの女性と寝たのだ )

なんとも大胆不敵な宣言です。
さて、秘密の女性、石川郎女とは一体どのような女性なのか?
次の歌で明らかになります。

「 大名児(おほなご) 彼方野辺 ( をちかた のへ)に 刈る草(かや)の
    束の間(あいだ)も 我れ忘れめや 」  
                                       巻2-110 草壁皇子


( 大名児よ 彼方の野辺で刈る萱(かや)の その一束(ひとつか)。
 その束の間も私はお前を忘れかねているんだよ )

大名児(おほなご)とは石川郎女の字(あざな)であると注にあります。
何と! 大津皇子はライバル草壁皇子が熱愛している女性を寝取ったのです。
草壁の恋歌は純情、一本気な若者を連想させますが、これでは女性は靡きますまい。
さぁ、大変、お坊ちゃまは母親の皇后に泣きついたのでしょうか?

伊藤博氏は
「石川郎女は草壁の妃の一人だったのではないか 」
と推定されていますが、もしそうなら朝廷中大騒ぎになったことで
ありましょう。

    「 龍の玉 大津皇子に 供へたる 」   辻 恵美子
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by uqrx74fd | 2015-05-30 15:12 | 生活

万葉集その五百二十九 (山吹いろいろ)

( 山吹と桜の競演   新宿御苑 )
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(  見事な山吹    同上 )
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( 柳、桜、山吹   同上 )
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(  北鎌倉 明月院 )
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( 東京大学小石川植物園 )
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( 白山吹  市川万葉植物園 )
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( 八重山吹   東大小石川植物園 )
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(  薬師寺花会式のポスター )
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(  同上 山吹、梅、椿、牡丹の造花   )
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754年の4月中旬、山野に山吹が咲き乱れている頃のことです。
置始長谷(おきそめの はつせ) という人物が、明日香の別宅に滞在していた
大伴家持を訪ねました。

長谷もこの近くに住んでおり、久しぶりの顔合わせ。
手土産に自宅の山吹を手折って壺に入れて持参したところ、家持大いに喜び、
「 これは これは 何よりのお心づかい 。
  かたじけのうございます 」
と一枝を取り出し頭に挿して見せました。

古代、山吹は神聖なものとされ、魔除け厄除けに効ありと信じられていたので
心からの感謝の意を示したのでしょう。

長谷は思わずにっこりと笑い、詠います。

「 山吹は 撫でつつ生(お)ほさむ ありつつも
     君来ましつつ かざしたりけり 」 
                    巻20-4302 置始連長谷(おきそめの むらじ はつせ)

( この山吹の花は これからも慈しんで育てましょう。
 このように変わらずに咲いているからこそ あなたがここにおいでになって
 髪飾りにして下さったのですから )

「つつ」を3回も重ね、決して上手とは言えない武骨な歌ですが、
精一杯の気持ちをこめて絞り出すように詠った?1首です。

「 撫でつつ生(お)ほさむ 」 大切に育てる
 「 ありつつも 」    そのままの状態で
「 君 来ましつつ 」   あなた様(家持)が例年おいで下さって

作者は伝未詳の人物ですが、皇后の前で維摩経を唱えたとの記録があります。

返す家持。

「 わが背子が やどの山吹 咲きてあらば
    やまず通はむ いや年のはに 」
                         巻20-4303 大伴家持


( あなたのお庭の山吹 その花がいつもこんなに美しく咲いているのなら
 これから先も しょっちゅう お訪ねいたしましよう。
 来る年も来る年も )

「わが背子」 置始長谷(おきそめのはせ)を親しみこめていったもの
「咲きてあらば」 咲いている限りずっと
「年のはに」 「年毎に」(としのはに) で毎年々々

万葉集で詠まれた山吹は17首ありますが、そのうち家持作が7首。
よほどこの花が好きだったのでしょう。

歌の挨拶が終わり、欅の大木の下で酒を酌み交わし旧交を温める二人。
一献また一献。
爽やかな風が通り過ぎてゆく五月晴の一日です。

山吹好きと言えば、左大臣 橘諸兄。
天平の頃 諸兄は山城の国(京都),井手の里、玉川のほとりに山荘を営み、
遣水した庭園を中心に山吹を植え、さらに川の両岸も花で埋め尽くし、
黄金の世界、極楽浄土を出現させました。
それを耳にした聖武天皇がわざわざ行幸され(740年)、天下に喧伝されて以来、
「井手の玉川」は山吹の名所として詩歌に数えきれないほど詠われるようになります。

「 駒とめて なほ水かはむ 山吹の
    花の露そふ  井手の玉川 」    
                         藤原俊成 (新古今和歌集)

( 馬を止めて水を飲ませよう。
 そして私はその間、心行くまで山吹を眺めよう。
 花に置く露が流れ落ちているこの井手の玉川で。)

露は玉川の玉と縁語、あたかも山吹が泣きぬれた女性であるかのような
艶なる趣を醸し出しており、美女と逢瀬を楽しんだのかもしれません。

流石に俊成、洗練された詠み口ですが、万葉集に本歌があります。

「 さ檜(ひ)の隈(くま) 檜(ひ)の隈川に 馬とどめ、
    馬に水飼(か)へ 我(わ)れ外(よそ)に見む 」 
                            巻12-3097 作者未詳


( さ檜隈を流れる檜隈川の岸に馬を止めて、馬に水を飲ませて下さい。
 その間にも私は脇からあなた様の姿をこっそりと見ましょう)

素朴な田舎の女性が詠んだ歌のようですが、男に憧れる乙女の純真な気持ちが
感じられ、うっとりとした表情が目に浮かぶ1首です。

「さ檜の隈 檜の隈川」は奈良県明日香村檜前(ひのくま)を流れる川

「 恋の山吹 情けの菖蒲(あやめ)
      秋の枯草 しをれ草 」  (山家鳥虫歌) 



  恋の山、情けのあや、秋の飽き、失恋のしおれ などを掛けて
  女心を詠ったもの

今年は山吹の開花が早かったせいか、桜との共演が随処でみられ
桃色と黄色の取り合わせは女性の艶やかな踊りを見るようでした。
特に新宿御苑の「 桜、柳、山吹をこきまぜた」風景は見事。
まさに万葉の世界にひたっているような気分でありました。



お知らせ :
次回の投稿は5月31日(日曜日)になります。

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by uqrx74fd | 2015-05-21 21:09 | 植物

万葉集その五百二十八 (湖上の藤見 )

( 藤波  春日大社境内  奈良 )
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( 万葉植物園  奈良 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 山辺の道  奈良 )
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( 亀戸天神  東京都 )
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( サツマサツコウフジ   東大小石川植物園 )
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(  十二町潟  氷見市  yahoo画像検索 )
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748年 初夏の爽やかな気候の頃、左大臣橘諸兄の使者 田辺福麻呂が都から遥々、
越中国司の大伴家持を訪ねてきました。
用向きは不明ですが、万葉集の編纂に助力を惜しまなかった元明上皇の健康が
思わしくないので都の様子を報告することと、橘氏直轄の支配地の視察を兼ねての
ことと思われます。

橘諸兄を後ろ盾と頼む家持にとって歌心がある福麻呂は旧知の仲。
来訪を大いに喜び、至りつくせりのおもてなしで遠来の客をねぎらいました。

連日の宴会が続いたのち「そろそろ都へ戻らねば」という福麻呂を引きとめ
「明日は布勢の海に繰り出し、船上から藤をご覧にいれましょう 」と
粋な計らいを演出しする家持。
布勢の海は国府から北へ8㎞、富山湾から奥に入った内陸湖です。

「 いかにある 布勢の浦ぞも ここだくに
   君が見せむと 我れを留(とど)むる 」 
                    巻18-4036 田辺福麻呂( たなべ さきまろ)

( どんなところなのでしょう。布勢の海というのは。
  これほど熱心に あなたが私に見せようと お引き留めになるとは )

最初は「たかが田舎の鄙びた湖、大したことはあるまい 」と
高をくくっていたかもしれない作者。
それでも興味津々です。

翌朝、晴天に恵まれ遊女も伴っての賑やかな船遊び。
大型の屋形船だったのでしょうか?
家持は得意げに案内します。

「 乎布(をふ)の崎 漕ぎた廻(もとほ)り ひねもすに
     見とも飽くべき 浦にあらなくに 」
                          巻18-4037  大伴家持

( 乎布(をふ)の崎 その崎を漕ぎ巡って 日がな一日見ても 
  見飽きるというような浦ではないのですぞ。そこは。)

乎布の崎は布勢の浦の1地点、当時景勝の場として知られていたのでしょう。
やがて水辺に山なりの見事な房を垂らしている巨大な藤の木が見えてきました。

「 藤波の 咲きゆく見れば ほととぎす
     鳴くべき時に 近づきにけり 」 
                         巻18-4042 田辺福麻呂

( 藤の花房が次々と咲いているのを見ると、季節はいよいよホトトギスが
  鳴く時にいよいよ近づいたのですね )

見事な藤を褒めるとともに、家持がホトトギスを特に好んでいることを
知っていた福麻呂の返し歌。

藤の長い房が風に吹かれてゆらゆら揺れている。
万葉人の美しい造語「藤波」です。

「神さぶる 垂姫の崎 漕ぎ廻(めぐ)り
      見れども飽かず いかに我れせむ 」
                           巻18-4046 田辺福麻呂

( 何とも神々しいまでの垂姫の崎 この崎を漕ぎ廻って 
見ても見ても見飽きることがありません。
あぁ、素晴らしい!
私はどうしたらよいのか。 感激のあまり言葉もありません。)

垂姫も布勢の浦の1地点。
現在の氷見市大浦、堀田付近とされています。
御世辞ではなく心の底から感嘆している様子が窺われ、雅な宴を設けてくれた
家持への感謝の気持ちも籠ります。

同席していた遊行女婦(うかれめ)も座を取り持ちます。


「 垂姫の 浦を漕ぎつつ 今日の日は
    楽しく遊べ 言ひ継ぎにせむ 」
            巻18-4047  土師(はにし)

( 今日は大いに楽しく遊びましょう。
私も色々お話し、歌わせて戴き、後々までこのことを伝えてまいりましょう。)

遊行婦女は単なる遊女ではなく、高い教養の持主。
天皇や貴族の席に侍っていた才色兼備の人もおり、万葉集に多くの歌が残されています。

歌えや飲めや。
大いに盛り上がる宴席。
賑やかな笛や太鼓、琴の音も湖上に響きます。

すっかり満足した福麻呂。
都に戻り布勢の海の美しさ、至りつくせりの楽しい歓待の模様を
周囲の人々に何度も語り聞かせたことでしょう。

家持がこよなく愛したその景観は今から300年前に埋め立てられ、
十二町潟(じゅうにちょうがた)とよばれる水面をわずかに残すのみ。
万葉集に歌が残されていなかったら、往時の風光明媚な布勢の海は完全に
忘れ去られていたことでしょう。

   「 稲雀 十二町潟 越えて来し 」  岩切貞子
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by uqrx74fd | 2015-05-14 17:05 | 生活

万葉集その五百二十七 (長谷路 )

( 日本一美しいといわれる登廊  開門一番乗り   長谷寺)
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( 牡丹満開  後方 長谷寺本堂 )
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(  豪華絢爛の桜景色  同上 )
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( 紅葉の五重塔  本堂から )
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(  こもりくの泊瀬秋景色 )
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( 本坊玄関のおもてなし )
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( 朝の修業を終えた僧の後片づけ )
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( 桜、木蓮、サンシュ   登廊から )
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( 長谷路の民家 )
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( 昔ながらの酒屋に地酒が並ぶ )
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( つきたてのヨモギ餅 )
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何時の頃からでしょうか。
昔「隠国(こもりく))の泊瀬」とよばれた この地にかくまで魅せられたのは。
今では年に6回も訪れるほどの惚れ込みようです。
55年前、亡き母と共に歩いた思い出の道。
今年も辿りにやって参りました。

近鉄大阪線長谷寺駅を下車。
長い石段を下り、初瀬川を渡って右折すると往古の名残を残す参道。
昔の花街の賑わいは見るべくもありませんが、道の両側に並ぶ割烹旅館、
薬草、野菜、葛、お茶、三輪素麺、蓬餅などを商う店。
そして、清流の涼しげな音や家の前に飾られた季節の花々が私たちを
温かく迎えてくれます。

1㎞ばかり歩くとやがて長谷寺の入り口。
上を見上げると周囲を木々で埋め尽くされた初瀬山の中腹に堂々たる伽藍が聳え立つ。
春の桜、木蓮、新緑の頃の牡丹、躑躅、秋紅葉。
冬の枯木もまた趣があり、雪でも降れば言う事なし。

遠い昔、岩の上に建立された観音様に憧れた人々は、都から三日、四日の徒歩の旅を
ものともせず、あえぎあえぎながら上った険しい坂道は今や399段の登廊(のぼりろう)。
それでも上まで辿りつくのは一苦労ですから、古の人たちの難儀さは想像を絶する
ものがあります。

「 つのさはふ 磐余(いはれ)も過ぎず 泊瀬山(はつせやま)
    いつかも越えむ 夜は更けにつつ 」   
                                 巻3-282 春日老(おゆ)

( 磐余もまだ通り過ぎていない。
 この分では泊瀬山、あの山はいつ越えることが出来ようか。
 もう夜も更けてしまったのに )

磐余は現在のJR桜井駅近く、東方の泊瀬まで約7㎞。
「つのさはふ」「蔦(つの)さ這ふ」で蔦が岩を這うことから磐余(いわれ)に掛かる
枕詞とされています。
当時、近くに海石榴市(つばいち)という賑やかなところがあり、多くの人は
そこで宿をとっていたようですが、この作者は野宿するつもりなのでしょうか。

それでも恋人がいれば話は別。
険しい山道や岩がごつごつした悪路も何のその。

「 こもりくの 泊瀬小国(はつせをぐに) 妻しあれば
    石は踏めども なほし来にけり 」
                             巻13-3311  作者未詳

( 隠れ処の泊瀬小国には妻がいるので 石踏む険しい道であるけれど
 私は何とかやってきましたよ )

山深い泊瀬は独立した小国とみなされていたのでしょうか。
この近くの朝倉に雄略天皇の宮があったとも伝えられています。

そして、ようやく愛する人が住む家の門前に到着。

「 泊瀬川 夕渡り来て 我妹子(わぎもこ)が
    家のかな門(と)に 近づきにけり 」 
                          巻9-1775 柿本人麻呂歌集

( 泊瀬川を夕方に渡ってきて、ようやく愛しい人の家に近づいてきた )

「かな門」は「金門」で鉄や金具を打ちつけた「堅牢な門」 

心を弾ませて門をたたく。
あなたぁ!と抱き合う二人。
あとは想像にお任せいたしましょう。

この歌の恋人を長谷寺に置き換えると今の私の心境にぴったり。
新幹線を乗り継ぎようやく目的の地に着いたのです。
        
 「 恋猫の つきくる初瀬詣かな 」 堀文子

登廊中腹辺りの月輪院で一休み。
裏山を借景にした庭園で戴く抹茶が疲れを癒してくれます。
桜、牡丹、紅葉をかたどった落雁、牡丹絵柄茶碗の心憎いおもてなし。

再び石段を登りはじめます。
左右にその数7千株といわれる色とりどりの牡丹が満開。
この豪華絢爛にして雄大な牡丹園はもと薬草園だったらしく、移植されたのは
元禄時代からだそうです。

「 香に酔へり 牡丹三千の花の中 」  水原秋櫻子

やがて、木造としては我国最大、高さ10mもある十一面観音が鎮座まします本堂に到着。
右手に錫杖、左手に華瓶(けびょう)を持ち、現生利益(りやく)と極楽浄土の先導を
されるといわれる有難い御本尊です。

本堂前の懸崖の大舞台から眺める景色は雄大そのもの。
たたなづく青垣が連なる山々。
点在する堂塔伽藍。
自然と一体となった美しい調和が素晴らしい。

本堂から坂道を上り五重の塔へ向かいます。
この辺りは楓が多く、秋の紅葉が特に映える場所です。
塔から奥の道は墓地、観光客はここで一服してから帰り道へ。
下りの石段の両側にも躑躅や卯の花が咲き乱れ、牡丹園も続いています。

やがて本坊。
前庭にも牡丹が一杯。
振り返ると、あっと驚く雄大なパノラマ。
山を背景にして五重の塔、本堂が左右に立ち並ぶ。
特に桜、紅葉の頃は絶景です。

この風景を心置きなく楽しむために朝の開門と同時に入場。
人一人いない広大な花の寺を独り占めしたような気分になれます。
有難い観音様、心安らかにしてくれる堂塔伽藍、そして美しい花々。
初夏の長谷路を満喫したあと、門前で搗きたての「ヨモギ餅」を頬張りながら
飛鳥へ向かいました。

「草餅の 色の濃ゆきは 鄙(ひな)めきて 」 高濱年尾
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by uqrx74fd | 2015-05-07 21:35 | 万葉の旅

万葉集その五百二十六 (藤原広嗣の恋桜)

( 藤原広嗣を祀る鏡神社  奈良市 新薬師寺の隣 )
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(  同上 )
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( この花の 一節(ひとよ)のうちに 百種(ももくさ)の
    言(こと)ぞ 隠(こも)れる おろほかにすな  藤原広嗣 )
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(  一枝の桜に恋歌を付けて捧げた  長谷寺 奈良 )
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( 大美和の杜  奈良山辺の道   )
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( 同上  後方 三輪山 )
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( 同上 )
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( 氷室神社  奈良 )
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( 新宿御苑  東京 )
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聖武天皇の時代、藤原不比等は娘、光明子を皇后に擁立することに成功して絶大な
権力を握りました。
朝廷の人事は思いのまま、息子の武智麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかひ)、麻呂の 
四兄弟をそれぞれ要職につけ、まさに我が世の春。

宇合(うまかひ)の長男、広嗣も今や皇后の甥、大和守として将来を嘱望され、
前途洋々たる人生を送るはずでした。

ところが人生有為転変、不比等亡きあと都で天然痘が流行し、何と!
藤原四兄弟全員が罹病し次々と死亡するという大厄災が勃発したのです。

この事件を受け、反藤原派の右大臣、橘諸兄が実権を握り、さらに唐から帰国した
吉備真備、僧 玄昉(げんぼう)が重きをなすようになると、藤原一族は衰退、
広嗣は太宰少弐として九州に転任させられます。

国防上重要な拠点とはいえ、花の都から遠く離れた鄙の地。
栄光を目の前にしていた広嗣の内心は忸怩たるものであったことでしょう。

万葉集に「藤原朝臣広嗣、桜花を娘子(をとめ)に贈る歌」と題され、
心憎からず思っていた娘に満開の桜の一枝を手折り、歌を添えて渡したという
粋な求愛の一幕があります。

「 この花の 一節(ひとよ)のうちに 百種(ももくさ)の
    言(こと)ぞ隠(こも)れる おろほかにすな 」
                               巻8-1456 藤原広嗣

( この桜の一枝の中には、わしの言いたいことが一杯詰まっている。
 だから、おろそかに取り扱ってはならんぞ )

作者の性格の一端が垣間見える万葉唯一の歌です。

「花の一枝をおろそかにしてはならんぞ」というのは
「 お前さんを想う気持ちがぎっしりと詰まっている。
  俺様の好意を無碍にしてはならんぞ 」と
風流を気取りながら、高飛車に出ています。

今まで熱心に口説いてきたが、相手はのらりくらり。
一向に靡かない。
とうとう痺れを切らして
「これでだめなら これまでか」と覚悟を決め遂に強権発動の様相。

それに対して相手の女性はやんわりと次のように返します。

「 この花の 一節(ひとよ)のうちは 百種(ももくさ)の
    言(こと)持ちかねて 折らえけらずや 」
                             巻8-1457 娘子(をとめ)

( そうおっしゃっても あまりにも沢山の言葉がこの花の一枝に込められているので
 支えきれなくなって、このように簡単に折れてしまったではありませんか。)

「 百種の言葉といっても私には信じられません。
私が花を受け取る前に折れてしまった(心変わりした)ではありませんか」
とからかっています。

お互い親しいもの同士。
言葉遊びを交えながらの恋歌の応酬ですが、娘は内心
「 うれしい! もう折れてもいいわ 」
と思っているのかもしれません。

素性不明ながら美貌と聡明さを連想させる女性です。

広嗣の歌から生まれつき権力者の家庭のもとで育った気位の高さ、
我がままなお坊ちゃん的な性格が見て取れますが、果たせるかな
九州に転任させられたことを左遷と感じ不満を募らせました。

格下と思っていた吉備真備、玄昉が重用されていることも気に入らない。
それが高じて
「 天地による厄災の元凶は二人に起因する。吉備真備、玄昉を排除せよ」
という激烈な上奏文を朝廷に送ります。

これは為政者、聖武天皇と橘諸兄に対する誹謗とも受け取れ、驚いた天皇は
広嗣を召喚する詔勅を出しましたが従いません。
それどころか、大宰府で1万余人の兵を集め反乱を起こしたのです。
世にいう「藤原広嗣の乱」です。(740年)

朝廷は大野東人(おおの あずまひと)を大将軍とする追討軍を派遣し、
2か月後に鎮圧、
広嗣は肥前松浦郡で捕えられ唐津で処刑。
あっけない幕切れとなります。

それから5年後の745年、玄昉が失脚し、筑紫観世音寺の別当に左遷され翌年没。
続いて750年吉備真備が肥前国司に左遷。

幼き頃より文武の才に秀で、管弦歌舞、天文陰陽に精(くわ)しく偉才とされた広嗣。
左遷されたとしても耐えて時期を待つということが出来たならば、謀反人という
汚名を着せられず栄光の道を歩むことが出来たかもしれません。
何しろ玄昉、吉備真備は10年を経ず失脚し、伯父、藤原武智麻呂の次男仲麻呂が
目覚ましい台頭を果たしたのですから。

司馬遼太郎は短編「朱盗」で次のように書いています。

『 「 大野東人が? 」 
  広嗣は、複雑な表情をした。
  東人といえば神亀元年、父藤原宇合(うまかい)に従って、東方の蝦夷を討って
  大功をたてた軍人なのである。
  その旧部下が、広嗣討伐の司令官になって西下するという。
  奇妙なことだが、広嗣はこのときになってはじめて戦意をもった。
  もたざるをえなかった。
  大宰府に全九州の軍団を集結せしめていた段階までは、広嗣の気持ちの中に
  多分に遊びがあったのだ。
  官符を乱発して兵を集め、蝟集(いしゅう)してくる頭かずをながめて自分の実力を
  たのしむのは、楽しい権力遊びだった。
  それに中央に対して甘えてもいた。
  まさか中央は、藤家(とうけ)の長男が軍兵(ぐんぴょう)を集めているとしても、
  反乱を起こすとまでは考えていまい。
  不穏の消息が聞こえれば、駄々をこねているとみて、奈良の官廷はなんらかの
  慰撫(いぶ)の手をうってくるだろう。
  そのときに自分の政治的要求を出せばよい。
  と考えていたのが、あてがはずれたのである.』
                                  (新潮文庫 果心居士の幻術 所収)

広嗣は自分の父親や伯父たちが,政敵「長屋王」を無実にもかかわらず謀反の噂を
立てさせ抹殺した事実を忘れていたのでしょうか?
藤原嫌いの橘諸兄にとって政敵を潰す千載一遇のチャンスだったのです。

肥前の国に左遷された真備は広嗣の祟りを恐れ、神功皇后を祀っていた
松浦鎮守府鏡神社に二の宮に造営し霊を鎮めようとしました。
また、広嗣の居宅があったとされる奈良の新薬師寺の西隣にも鏡神社が勧請されています。

新薬師寺を訪れる人は多いですが、隣接する鏡神社で広嗣を祀っていることを知る人は
少なく人影もほとんど見当りません。
神社の脇に1枚の板が立てかけられており、広嗣の恋歌が書かれていましたが、
なんとなく侘びしい風情でした。

「 桜散り 広嗣いずこ 鎮まりたまへ 」  筆者













 
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by uqrx74fd | 2015-05-01 00:00 | 生活