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万葉集その五百三十四 (ゆり祭り)

( カサブランカ  国営昭和記念公園   東京都 )
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( ウバユリ :姥百合  神代植物公園  同上  )
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(  オニユリ 東大小石川植物園  同上)
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(  ヤマユリ  源氏山公園  鎌倉 )
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(  カノコユリ 東大小石川植物園  東京都 )
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(  三枝祭:さいぐさのまつり  奈良市内を練り歩く   ポスターから  )
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( 率川神社:いさかわじんじゃ  奈良市  )
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(  ササユリ  大神神社ササユリ園  奈良県 )
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(  同上     )
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(  三枝祭の説明文   同上   画面をクリックすると拡大できます  )
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毎年6月17日、奈良の率川神社(いさかわじんじゃ)で古式豊かな
三枝祭(さいぐさのまつり:通称、ゆり祭り)が行われます。
七世紀の大宝神祇令に国家の祭祀として規定され、罇(そん)、缶(かん)とよばれる酒樽を
ササユリで飾ってお供えし、四人の巫女が舞を奉納する由緒ある神事です。

御祭神は神武天皇の皇后 「 媛  蹈鞴  五十鈴 姫命」
(ひめ たたら  いすず ひめのみこと) 。

五十鈴姫は結婚前、三輪山の西の麓、ササユリが咲く狭井川(さいがわ)のほとりに
住んでおられ、古事記に

「 その川を佐韋川(さいかわ)という故は、その川の辺に山ユリ草 多(さわ)にあり。
  故(か)れ、その山ゆり草の名をとり、佐韋川と号(なづ)けき。
  山ゆり草の本(もと)の名は「さゐ」と云ひき 」
とあります。

東征を果たされた神武天皇は百合の花咲く川のほとりで美しい娘に巡り合い
一目惚れして一夜を共にされたのです。

星が輝く夏の夜、乙女と愛を語り、共寝をする。
清流の涼しげな音、川風と共に百合の香りが部屋に満ちみちる。
むせ返るような官能。

ロマンティックなお話ですねぇ。

三枝祭に用いられる百合の花は三輪山の麓から運ばれ、その数3,000本~5000本。
大神神社、狭井神社の花鎮め祭り(薬祭り 4月18日)と共に、民の無病息災、
疫病退散を祈り,五十鈴姫命の霊を慰めます。
 
卒川神社の歴史も古く、推古天皇の593年、三輪山周辺の豪族、大神氏奉斎で
創建されたと伝えられており、現在は大神神社と縁故が深い摂社の一つ。
三輪山から遠く離れた春日山の麓に社が設けられたのは、広く国民の
無病息災を願われたのでしょうか。
その昔、開花天皇の時代、この地で率川宮が営まれたという記録も残ります。

万葉集で率川が詠われているのは次の二首、百合の歌は見えません。

 「 はねかづら 今する妹を うら若み
     いざ 率川(いざかは)の 音のさやけさ 」
                  巻7-1112 作者未詳 


( はねかずらを 今付けたばかりの子の初々しいこと
  さぁ おいでと誘ってみたい。
  その、いざと云う名の率川の川音の何と清々しいことよ )

「はねかづら」は羽毛で作った髪飾りで女性が成人式につけたもの。

卒川は春日山に発し猿沢池の南を西流して佐保川に注ぐ川ですが、
今はほとんど暗渠になっており、猿沢池脇の小川にその面影を残すのみです。

「 この小川 霧ぞ結べる たぎちたる
    走井(はしりい)の上(へ)に 言挙(ことあ)げせねども 」
                                  巻7-1113 作者未詳

 ( この小川に 白い霧が一面に立ちこめている。
  たぎり落ちる走井のほとりで 言挙げしたわけでもないのだが )

古代、自分の思っていることを口に出して発声すると、霧がかかり
思いが成就しないと信じられていました。
本来、邪神を鎮めるための呪的発声儀礼でしたが、自己主張の見苦しさを
示す忌むべき行為ともされていたのです。

この歌は「 言挙げしていないのに霧が立ち上った。
あの子を誘ってみたいと心に思っただけで
神様に御見通しされたか 」と嘆いています。

走井は勢いよく噴出する泉の意ですが、ここでは勢いよく流れる川の水を
堰き止めて囲った水汲み場です。

万葉集で詠われたユリは11首。
そのうち「さ百合」が8首、「草深百合」が2首、「姫百合」が1首。
「さ百合」の「さ」は神聖なものをあらわす言葉です。

「 筑波嶺の さ百合(さゆる)の花の 夜床(ゆとこ)にも
      愛(かな)しけ) 妹そ  昼も愛しけ 」  
                     巻20の4369 大舎人部千人(おおとねりべのちふみ) 既出

(  筑波嶺に咲く美しいさ百合。
  我が妻は花のように美しく素晴らしい。
  夜、共寝している時は可愛いし、昼は昼でいとおしい。
  今ごろどうしているのだろう。
  あぁ、逢って抱きしめたい! )

防人として出発した男が旅先で新妻を思慕する歌です。
旅立ちの前に共寝した妻。
初夜だったのでしょうか。
「あぁ、いとおしい、可愛い」と昼も夜も思い出す。
寝室に飾られていた百合の花。

関東常陸筑波では百合を訛って(ユル)と発音していました。
朴訥な詠いぶりの中に、ほとばしるような純情が溢れ出ている一首。

「さ百合」は神武天皇以来、夜の寝床を飾る花だったのでしょうか。

「 うつむいて 何を思案の 百合の花 」 正岡子規
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by uqrx74fd | 2015-06-25 18:20 | 生活

万葉集その五百三十三 (杜若:燕子花?)

( 長岳寺  奈良県天理市 山の辺の道 )
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(  同上  カキツバタの映りこみが美しい )
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(  同上 )
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(  同上 )
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(  カキツバタ  同上 )
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( 野アヤメ  畑に咲いていた   山の辺の道 )
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(  ハナショウブ  堀切菖蒲園  東京都 )
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(  アヤメ、ハナショウブ カキツバタの見分け方 )
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( 燕子花=オオヒエンソウ カキツバタではない  牧野植物随筆 講談社学術文庫 )
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(  杜若=アオノクマタケラン  これもカキツバタではない  同上 )
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広辞苑を引くと「かきつばた」は「杜若・燕子花」と表示されます。
歳時記も同様。
さらに「どこか飛燕をおもわせるところから燕子花とも書く」との丁寧な解説も。

ところが、これらはすべて間違いとされているのです。

牧野富太郎博士によると

『 燕子花はキツネノボタン科の飛燕草属のオオヒエンソウである。
 この生木はあまり日本にはきていないようだが、中国では普通に生えている。
 図を比較してみるとホントにこんなに違ったものを誤っているとはアホラシ-。

 杜若とする旧説はもっと非である。
 古今の俳人などは依然としてそうしているけれども、これはよろしく認識を改める
 べきである。
 なんとなれば元来、杜若なるものはショウガ科のアオノクマタケランのことで
 あるからだ。』 
             ( 牧野植物随筆 講談社学術文庫より 要約)

と力説されています。

学者も誤りを認識しており、

「 カキツバタは杜若、燕子花の字があたえられ、かきつはた、かきつはな
  かきつ、かきつばた、などとよませている。
  これらの漢名は誤用されているが,一度つけられた名前は訂正することは
  困難であり、現在でも通用している 」
                        (万葉植物事典 山田卓三、中島新太郎)

と指摘。
にもかかわらず、そのまま使われ続けているとは不思議なことです。

さて、万葉集では「かきつはた」と清音で訓まれ、その語源は「掻きつけ花」が
転訛したものといわれています。
「掻きつける」とは「摺りつける」という意味で、花汁を布にこすり付けて色を移し、
「摺り染め」にすることをいいます。

「カキツケハナ」→「カキツハナ」→「カキツハタ」と変わり、現在の「カキツバタ」と
なったわけで、語尾の「ハタ」は「ハナ」の変異形です。

「 かきつはた 衣(きぬ)に摺(す)り付け ますらをの
         着襲ひ(きそひ) 猟(かり)する 月は来にけり 」 
                                巻17-3921 大伴家持(既出)


( 今年もカキツバタの花が咲き始めましたが。相変わらず綺麗な色ですねぇ。
  この花を着物に摺り付けて染め、ますらを達が薬狩りする時期がきましたよ。
  それぞれどのような衣装でやってくるのかを待ちどうしいことです )

「着襲(そ)ひ 狩りする」とは「重ね着して飾り 薬狩に行く」の意。

当時、毎年5月5日(旧暦)に薬草や鹿の若角から鹿茸(ろくじょう:強壮剤)を採る
薬狩といわれる宮中行事が催されていました。

天皇臨席のもと、粋な出で立ちの高位高官、華やかに着飾った女官たち。
カキツバタで摺り染めにされた紫の衣装も美しく映えていたことでしょう。
ピクニックをかねた遊宴、大宮びとたちが心待ちしていた行事です。
 
 「 常ならぬ 人国山の 秋津野の
       かきつはたをし 夢に見しかも 」 
                                巻7-1345 作者未詳


(  人国山の秋津野に咲くカキツバタ。
   その美しい花を 私は昨夜夢に見ました )

「常ならぬ」は「人国山」の枕詞 無常な人の世の意
「人国山の秋津野」  和歌山県田辺市秋津町あたり 

この歌は「草によせる」とあり「人国山」という地名に
「他人の国の山に咲くカキツバタ」すなわち「世にも美しい人妻」という意味が
含まれているようです。

人妻に一目惚れした男。
とうとう夢にまでみて悶々としているのです。
カクツバタは古代から美女の形容だったのですね。

「かきつはたを し」の 「し」は強意の助詞

「 かきつはた 丹(に)つらふ君を いささめに
     思ひ出(い)でつつ 嘆きつるかも 」 
                           巻11-2521 作者未詳


( かきつばたのように顔立ちの立派なあなた。
 そんなあなたを ふと思い出しては溜息ばかりついています )

「丹つらふ」は通常美しい女性の肌の形容に用いられますが
「君」とあるので、血色のよい美男子の意。
「いささめに」は 「ふと」

男を知ったばかりの女なのでしょうか。
純情な乙女を想像させる一首ですが、伊藤博氏は
「まだ慣れない共寝に対する陶酔を背景にしている」と述べておられます。

「 よりそひて 静かなるかな かきつばた 」 高濱虚子

今年も長岳寺へ行ってきました。
824年弘法大師創建と伝えられている高野山真言宗のみ寺です。

山の辺の道、桜井から天理までテクテク歩き16㎞の中間点にあり、
巨大なつつじとカキツバタが迎えてくれます。

山門から重要文化財の鐘楼門までは背の丈2mもあるツツジの並木道。
風格ある本堂には1151年作の我国最古の玉眼の本尊、阿弥陀如来三尊像。
その堂々たる量感と美しい表現は後の運慶、快慶に大きな影響を与えたと
言われている傑作です。
前庭の池の周りのカキツバタ、つつじが今は盛りと咲き競い、
堂宇とともに映り込む風景が素晴らしい。

そよ風が清々しく吹き渡り、ゆったりとした時の流れに身をまかせる
この至福の時。

木蔭に座して、遥か古の世界に思いを巡らせること暫し。
あまりの気持ち良さに瞼が重くなりウトウトと。

「 お暑いですね。 冷たいお茶でも如何ですか 」
と涼やかな女性の声で我に返る。
庭を掃除しておられたご住職の奥様でした。

お休み処でよく冷えた三輪素麺を戴き、生き返った心持。
「またおいで下さい」の声に送られ
身も心も軽ろやかに花紀行を続けてゆきました。

天理まで残り8㎞です。

「 水の面に 音なき風や 杜若 」   下村 福

            注;杜若は原文のまま
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by uqrx74fd | 2015-06-18 15:50 | 植物

万葉集その五百三十二 (豆の花咲く)

( えんどう豆の花  奈良 山辺の道 )
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(  同上 )
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(  同上 )
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(  ツルマメの花  yahoo画像検索 )
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( ヤブマメの花    同上 )
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(  大豆の花     同上 )
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( 貴族の食事  枝豆、チーズ 鮎、 鯛の和え物、鮑の雲丹和え、 瓜の粕漬け等なかなかのグルメ)
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( ノイバラ  奈良万葉植物園 )
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(  万葉という名の薔薇   京成薔薇園  千葉県  )
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「 さまざまな 色にほひたる 豆の花 」  筆者

薫風爽やかな ある日のことです。
「 国のまほろば たたなづく青垣」の山の辺の道を歩いていると、
蔓性の美しい花が咲き乱れていました。
スイトピーのような形をした色とりどりの豌豆(エンドウ)です。

近寄ってみると、莢(さや)も一杯。

思わず、あぁ、勿体ないなぁ!と呟く。

 「えんどうの 凛々たるを 朝な摘む 」  山口青邨 

と詠まれているように、この時期のみずみずしい緑色の莢は毎朝、早朝に摘んで
食するのが一番美味い。

さっと茹でてそのまま食べると甘く、
おすましの具、卵和えでもよし。

でも、このままグリンピースになるまで熟成させ豆ごはんするのもいいか。

 こんな楽しい想像をしながら万葉の世界に思いを馳せます。

 「 道の辺(へ)の 茨(うまら)の末(うれ)に 延(は)ほ豆の
         からまる君を 別(はか)れか 行かむ 」
                     巻20の4352 丈部 鳥(はせつかべのとり) (既出)

(  道端のうまらの枝先に からまりつく豆の蔓(つる)。
  その蔓のように別れを悲しんですがりつくわが妻よ。
  あぁ! いとしいお前を残して旅立たなければならないのか。)

作者は上総の国(千葉南部一帯)の人、防人として出発する時に詠われたもの。

「延(は)ほ豆」は方言で「延ふ豆」
「うまら」は「ノイバラ」とされ野生のツルバラ

もう二度と逢えないかも知れない別離。
すがりつくような必死の目ざなし。
素朴な詠いぶりながら愛し合う二人の深い悲しみがひしひしと伝わってくる
一首です。

マメは野性のヤブマメかツルマメと思われ、大豆の原生種とする説も。
 
なお、万葉集での「君」は男性や主君をさすのが習いとされているので、
「 主君の幼い若君が近習である作者を慕って離れない」とする説(伊藤博)も
ありますが、ここでは愛する女性の方がしっくりくるような気がします。

万葉集唯一の「豆」と「ノイバラ:野薔薇」です。

「  酒よろし さやえんどうの 味もよし 」    上村占魚

夏の酒のつまみには枝豆、冷奴も欠かせません。
風呂上りに冷えたビール。
採れたてをさっと塩ゆでした枝豆。
生姜と削りかつおをたっぷりのせた冷奴。
極楽、極楽。

以下は 「池波正太郎 わが家の夕めし 冷奴 」からです。

『 豆腐の製法が日本に伝わったのは、奈良時代のことだという。
  この栄養に富んだ食物の由来は、だから、まことに古い。
  いうまでもなく、豆腐は大豆をすりつぶし、これを煮立ててつくるものだ。
  ― 「冷奴」の「奴」の由来は、江戸時代の槍持ち奴などが着ていた
  制服の紋所から生まれたものである。
  およそ1寸角に切った豆腐の形が似ているからだ。

  冷奴は庶民の食べ物で、私どもには絹ごしの上等な豆腐では似合わぬ。
  木綿でこしたのを奴に切り、生醤油へ少々酒をまぜた付醤油で、
青紫蘇(あおじそ)と晒葱(さらしねぎ)の薬味で食べる。 』 (講談社文庫より)

                   筆者注:「晒し葱」
                     葱を千切りにし水に晒して余分な辛み、粘り,臭みを抜いたもの

    「 晩酌の くせのつきたる 冷奴 」 松山聲子
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by uqrx74fd | 2015-06-11 18:07 | 植物

万葉集その五百三十一 (大津皇子 2)

( 大津皇子が眠る二上山  当麻寺から  奈良県 )
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( 磐余の池跡  現在は農地  藤原宮から徒歩15分 橿原市 )
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( 同上説明文  画面をクリックすると拡大できます )
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( 吉備の池  磐余の池から約600m 
          二上山が見えるので磐余の池に仮託されている  桜井市)
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( 大津皇子  水谷桑丘作 )
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( 大伯皇女   篠崎美保子作  )
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( 落日の二上山  甘樫の丘から撮影された案内プレート  山の辺の道 檜原神社近くで)
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(  同上  yahoo画像検索 )
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天智天皇崩御後の672年、壬申の乱が勃発しました。
天智天皇の実子大友皇子と天皇の弟大海人皇子、甥叔父の戦いです。
短期間で圧倒的な勝利をおさめた大海人皇子は近江から飛鳥浄御原に都を遷して即位(673年)。
天武天皇が誕生し、鸕野讃良皇女(うののささらひめみこ)が皇后に。

皇后は実子草壁を次期天皇にすべく強力に支えますが、皇子は生来体が弱い上
凡庸であったらしく周囲の大津皇子待望論が絶えません。
大津皇子は皇后の姉大田皇女と天武の間に生まれた子で持統の甥。
有能かつ剛毅な性格ゆえ、再び兄弟相争う第2の壬申の乱が起きるのでは
ないかという危惧もあります。
祖父天智天皇と母、大田皇女という大きな後ろ盾を失った大津が頼るべき人は
父、天武天皇のみ。
「万一の時は」という不安が頭をもたげたことでしょう。

679年天皇、皇后は草壁、大津、高市、河嶋(天智の皇子)、忍壁、芝基(天智の皇子)
を吉野離宮に引き連れ、兄弟仲良く助け合うよう仰せになり、草壁が全皇子を代表して
その旨に従うことを誓約しました。
そして、681年、皇后の強力な説得が功を奏し、天武天皇は遂に草壁を皇太子に
立てたのです。

朝廷内の主導は皇后と皇太子に移りましたが、制度を唐風に改めるなど
急激な改革を進めたため宮廷内に不満や批判が湧き起ります。
そこで天武は大津皇子21歳のとき政治に参画させ、軌道修正を図りましたが、
このことが大津皇子の悲劇を引き起こす遠因になります。
何しろ天武天皇の後楯があっての大津。
万一の時は皇后、皇太子の巻き返し必至という危険がはらむ人事です。

686年、天武崩御。
何を思ったのか、大津皇子は天皇が没して15日目の忌中の最中、秘かに
伊勢神宮斎王として神に仕えている姉大伯皇女(おおくのひめみこ) に会いに
行ったのです。
当時国家の守護神である伊勢神宮に勝手に参ることは厳禁されており、
これだけでも叛乱罪に問われても仕方がない重大な行動です。
死を覚悟の上で、最愛の姉に今生の別れを告げに行ったのでしょうか。
久しぶりの再会。
感無量で語りあかした姉弟は涙ながらに別れを告げます。

「 わが背子を 大和へ遣(や)ると さ夜更けて
    暁露(あかときつゆ)に 我が立ち濡れし 」
                       巻2-105 大伯皇女(おおくのひめみこ)


( わが弟を大和へ送り帰さなければならないと 夜も更け朝方まで
  立ちつくし暁の露にしとどに濡れてしまった。)

送り帰せば恐らく死が待っている。
しかし今のわが身は天皇の代理で斎王を務める立場。
神と天皇を裏切ることは出来ない。
肉親の愛を押し殺して苦悩にあえぐ大伯皇女。

それから約1週間あまりのち、大津が親友と頼んでいた川島皇子が朝廷に
「大津に反逆の畏れあり」と密告したのです。
朝廷側がそのように仕向けたのかもしれません。

密告を受けた持統は、「待ってました」とばかりに逮捕、何と!
その翌日に住み慣れた磐余の池の近くで処刑を命じます。
天武崩御後わずか24日後のことでした。

弱冠24歳でこの世を去らなければならなかった皇子。
文武両道に秀で、容姿すぐれ、慕われる人柄。
完全無欠と言ってもよいほどの人間であるが故に招いた悲劇です。

「 百(もも)伝ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を
    今日のみ見てや 雲隠りなむ 」
                           巻3-416 大津皇子


( あぁ この磐余の池に鳴く鴨の声を聞くのも今日かぎり。
  私は雲のかなたに去っていくのか )

「百伝ふ」は磐余の枕詞。

鴨は鴛鳥に代表されるように仲が良い象徴、
最愛の妃、山辺皇女を暗喩しているのかもしれません。
大津が処刑された時、妃は裸足で駆け寄り殉死したと伝えられています。

「 金烏(きんう) 西舎(せいしゃ)に 臨(て)らひ
  鼓声(こせい) 短命を催(うなが)す
  泉路(せんろ) 賓主(ひんしゅ)なし
  此の夕(ゆふべ) 家を離(さか)りて向かう 」  大津皇子


( 太陽は西に傾き家々を照らし
  短命を急がすように 夕刻を告げる太鼓の音が聞こえる
  黄泉の道には客も主人もなくただ一人
  夕べに家を離れて 死出の旅に出るのか )

歌、漢詩共すぐれた才能の持ち主であったことが窺われる悲痛きわまる絶唱です。

姉、大伯皇女は弟が反逆罪で処刑されたため斎王を解かれ都に戻りました。

「 見まく欲(ほ)り 我がする君も あらなくに
                  何しか来けむ 馬疲るるに 」 
                            巻2-164  大伯皇女


( 私が逢いたいと願う弟もいないのに、どうして大和などに帰ってきたのだろう。
 いたずらに馬が疲れるだけだったのに )

絶望感に打たれる皇女。
切々たる悲しみとやり場がない怒りが ひしひしと伝わって参ります。

「 うつそみの 人にある我(あ)れや 明日よりは
     二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)と我れ見む 」
                                   巻2-165 大伯皇女


( 現世の人であるこの私、
  私は明日からは二上山を弟としてずっと見続けよう)

687年 磐余の宮に営まれていた大津の殯宮(ひんぐう:もがりのみや)は
二上山山頂に移されて葬られました。
金剛、葛城山系に連なる山です。
朝廷が祟り(たたり)を恐れ、丁重に葬ったと想像されますが、後ろめたい
気持ちがあったのでしょうか。

それから15年後、二上山を見守り続けていた大伯皇女が他界(701年)。
享年41歳。生涯独身を通し、弟に生き、弟に殉じた一生でした。

伊藤博氏は心こもる言葉を二人に捧げています。(万葉集釋注1)

『 大津皇子はこの時まで姉大伯の中で生きていた。
  そして大伯が死んでも、六首の歌によって、大津は勿論大伯も永遠に
  生き続けることになった。
  六首に歌が存在する限り、二人は死ぬことがない。
  言語の力、文学の底力におののかずにはいられない 。
  人は、秋10月下旬か11月初旬、明日香東方の岡寺と大原をつなぐ山懐に
  佇んで、二上山の落日を見るがよい。
  そして、当面二首の歌を静かに吟(くちづさ)むがよい。
  涙が頬をとどめなく伝わる時、二上山は沈む夕日にくっきり押し出されながら
  大津と大伯の霊魂をのせたまま、ぐんぐんと近づいてくるに違いない 」

持統が執念を燃やして皇太子に押し上げた草壁は3年後の689年に没。
弱冠28歳の若さでした。

絶大な権力を誇った持統女帝。
唯一ままならなかったのは最愛の息子の命でした。

    「 茜空 裾まで染まる 二上山 」  筆者


ご参考 

  大伯皇女の歌は6首 すべて大津のために詠ったものです

「 わが背子を 大和へ遣(や)ると さ夜更けて
        暁露(あかときつゆ)に 我が立ち濡れし 」  2-105 

「ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を 
               いかにか君が ひとり越ゆらむ」  2-106

「神風の 伊勢の国にも あらましを
    何しか来けむ  君もあらなくに 」  2-163 
 
「 見まく欲(ほ)り 我がする君も あらなくに
                      何しか来けむ 馬疲るるに 」  2-164 
 
「 うつそみの 人にある我(あ)れや 明日よりは
     二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)と我れ見む 」 2-165 

「 磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど
        見すべき君が 在りと言はなくに 」    2-166
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by uqrx74fd | 2015-06-04 17:19 | 生活