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万葉集その五百六十九 (梅愛づる人)

( 満開の梅  奈良万葉植物園 )
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( 馥郁とした香りが漂う  東大寺戒壇院の梅 )
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( 山辺の道  奈良 )
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( 同上 )
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(  月ヶ瀬   奈良 )
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(  同上 )
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( 皇居東御苑の白梅 )
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(  同上 珍しい形の紅梅の木 )
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(  曽我梅林の枝垂れ梅  小田原市 )
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(  富士山が見えるかどうかは運しだい 曽我梅林 同上 )
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「 もっそりと 毘盧遮那仏(びるしゃなぼとけ)の 古りゐます
         寺よぎり 梅の香につつまれぬ 」      大滝貞一
                              毘盧遮那仏 : 東大寺大仏
如月(きさらぎ)が終わり、まもなく弥生。
東大寺戒壇院の裏手に咲く白梅が馥郁とした香りを漂よわせ、
道行く人々を楽しませてくれる時期になりました。

「 おぉい! 古の都へ梅見に行こう 」
と声をかけると集まったのは仲間4人衆。
何しろ60年近い付き合い、気心が知れた友ばかりです。
あっという間に話がまとまり、たちまち奈良へ。

晴天に恵まれ、最高のお花見日和。
鑑真和尚が開基された東大寺戒壇院の四天王像(国宝)を拝観し、
大仏池に通じる裏側に廻ると今が盛りと咲き誇る白梅。

「 おぉ!今年も逢えたな 」と 声をかける。

「 春さらば 逢はむと思(も)ひし 梅の花
          今日の遊びに 相見つるかも 」
                    巻5-835 高氏義通(かうじのよしみち)

( 春になったら是非出会いたいと思っていた梅の花。
 念願かなって今日この宴で皆でめぐりあうことができたなぁ )

さぁ、さぁ花の下で酒盛りだ。
当節、梅の下での酒盛りはあまり見かけないが、まぁいいか。

「 梅の花 今盛りなり 思ふどち
    かざしにしてな 今盛りなり 」 
                    巻5-820 葛井大夫(ふじい まへつきみ)
( 梅の花は今が真っ盛り。 
    さぁ、気心知れた皆の髪飾りにしょう。
    梅の花は今が真っ盛りだ )

昔の人は梅や桜の枝を頭や着物に挿してその生命力にあやかろうとしました。
勿論、現在は枝折厳禁。
一献また一献と盃を酌み交わしながら、花や香を愛づる紳士ばかりです。

突然一陣の風、花びらが空に舞い、ひらひらと流れ落ちてきました。
「 そうだ、大伴旅人がこんな歌を詠っているぞ」と披露する。

「 梅の花 夢に語らく みやびたる
     花と我(あ)れ思(も)う 酒に浮かべこそ 」
                           巻5-852 大伴旅人(既出)
( 梅の花が夢でこう語った。
    「 私は風雅な花だと自負しております。
      どうか酒の上に浮かべて下さい 」 と)

念願通り、花を盃に浮かべてあげました。
「 そういえば履中天皇(438年)の盃に桜の花びらが舞い落ちたという
  風雅な話もあったなぁ」
とふと思いだす。

宴はいよいよ佳境。

「 梅の花 折りてかざせる 諸人は
     今日の間は 楽しくあるべし 」 
                  巻5-832  荒氏稲布(くわうじの いなしき)


( 梅の花をかざしにしている各々方 
  今日は尽きない楽しみの一日を過ごしましょう )

時間が経つのも忘れ、数々の思い出を語り合う。
喧嘩したこともあったっけ。
それにしても皆年取ったなぁ。
それぞれ苦労もあっただろうに、微塵も感じさせない武士(もののふ)たち。

 「 年のはに 春の来たらば かくしこそ
         梅をかざして 楽しく飲まめ 」 
                   巻5-833 野氏宿奈麻呂( やじの すくなまろ)

( これからも 春が巡ってくるたびに このようにして梅をかざしながら
  楽しく飲もうではないか )

「そのためには、みんな体を鍛えて元気でいなきゃ」と口々に。

ふと気が付くと肌寒い。
まもなく黄昏、人影もまばらになってきた。
突然、東大寺の大鐘が鳴り響く。
余韻を残した美しい調べに聴き惚れながら、
「やっぱり奈良はいいな」と呟く。

名残惜しいがそろそろお開きにいたしましょう。
ではまた、来年までさようなら。

  「 としひとつ 又もかさねつ 梅の花 」 鬼貫

( 本稿の歌はすべて730年大宰府長官大伴旅人主催の梅花の宴32首の
  中から選び、現代風に並べ替えたものです。)
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by uqrx74fd | 2016-02-26 06:31 | 生活

万葉集その五百六十八 (梅いろいろ)

( 吉野梅郷  青梅市  ウイルス発生のため2014年すべて伐採された)
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(  同上  )
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(  同上 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 曽我梅林  小田原市)
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 浜離宮庭園 )
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二月も中旬を過ぎると各地から梅の便りが次々と届いて参ります。
早いものは1月の終わりごろから咲きはじめ、4月上旬まで咲き継ぐ。
中には早咲きの品種なのか、それともポカポカ陽気に誘われたのか、
周りが蕾のままなのに1本だけ満開になっている気が早い梅も見かけます。

この時期になるといつも思い出すのは吉野梅郷(青梅市)。
こんもりとした丘の上に色鮮やかな花を咲かせ、私たちを長らく
楽しませてくれていましたが、2014年、プラムボックスというウイルスに
罹病し、120品種1500本がすべて伐採されました。

まだまだ美しい花を咲かせることができるのに1本残らず切り倒す。
その無念さ、懸命に育ててこられた方々の心情察するに余りあります。
あの華やかな風景を再び目にすることが出来ないことは痛恨の極みであり、
他の梅林にこのようなウイルスが波及しないことを祈るばかりです。

さて今回は万葉集から近代まで、色々な梅の歌を辿ってみたいと思います。
まずは、万葉の庭に咲きだした梅から。

「 春されば まづ咲くやどの 梅の花
     ひとり見つつや 春日暮らさむ 」      巻5-818 山上憶良

( 春が来ると真っ先に咲く庭の梅の花。
 この花をただ一人見ながら、長い春の一日を思う存分過ごすことに
 なりましょうかな )

730年、九州大宰府で催された大伴旅人長官による梅花の宴。
32名の人々が集まり、一人一首づつ詠う我国最初のやまと言葉による歌会で、
文藝史上画期的な試みとされている催しですが、憶良先生は
ただ一人で梅を眺めようかと詠っています。
だが、心優しい作者、主催者を無視するようなことは考えられません。
歌の奥には「あまりにも見事な梅なので、一人で鑑賞するには勿体ない」
という心がこもり主催者に対する賛美を贈っているように思われます。

万葉人は梅を愛し、120首近くの歌を残していますが、香りを詠ったものは
次の1首しか残されていません。
梅が香はまだ歌の題とするには早かったのか、誰も思いつかなかったのか。

「 梅の花 香をかぐはしみ  遠けれど
       心もしのに 君をしぞ思ふ 」 
                      巻20-4500 市原王(既出) 

( あなた様のお庭の梅の香が芳(かぐわ)しく、遠く離れたところまで漂って参ります。
 その香り同様に高いあなた様の人徳。
 私はいつも心からお慕い申しております。)

758年平城京近くの中臣清麻呂宅で催された宴席での歌。
主人は大伴家持とも親しく16歳年上の57歳、式部省の次官です。

歌の作者、市原王は天智天皇の玄孫(やしゃご)で独創的なセンスの持主。
香りがもてはやされた平安時代の先駆をなす一首で、清麻呂の誕生日を寿ぎ、
その人徳を慕う気持を梅の香に託し、且つ女性の立場からの恋歌仕立てに
したものです。

梅が香は平安時代になると多く詠われるようになりますが、表現は洗練され
内容も複雑になってまいります。

「 色よりも 香こそあはれと 思ほゆれ
    誰(た)が袖ふれし 宿の梅ぞも 」  
                           よみ人しらず 古今和歌集

( お庭の梅は色もさることながら 香りが特に素晴らしいと思われます。
 いったいどんな素晴らしい方が袖をふれて香りを残されたのでしょうか )

女性の家を訪ねると馥郁と梅の香りが漂っている。
もしや自分以外の男が訪ねてきたのかしらと様子を窺う作者。
なかなか手が込んでいますね。

「 わがやどの 梅の初花 昼は雪
      夜は月かと 見えまがふかな 」  
                            よみ人しらず 後撰和歌集

終日梅見を楽しむ作者。
初花を雪か月かといとおしむ。
白梅を雪に見立てるのは万葉時代に多用されている手法です。

「 春の夜は 軒端(のきば)の梅を もる月の
     光も薫る 心地こそすれ 」 
                           藤原俊成 千載和歌集

軒端から月の光が洩れている。
その光さえも梅が薫るようだと詠う作者。
さすが垢抜けした美しい幻想の世界です。

軒端: 日や雨などを防ぐため窓、縁側、出入口などの上に設けた小屋根の端
    
近代になると生活に密着した歌も多く登場します。

「 湯の宿に 一人残りて 昼過ぎの
      静かなる庭の 梅を愛すも 」    伊藤左千夫

温泉に浸かりながら庭の梅を眺める。
燗酒がかたわらに。
いいですなぁ。

「ほのぼのと 明けゆく庭に 天雲(あまぐも)ぞ
    流れきたれる しら梅散るも 」      石川啄木

啄木さんも万葉集も勉強されていたと思われる一首。
次の歌の本歌取りではなかろうか。

「 わが園に 梅の花散る ひさかたの
    天(あめ)より雪の 流れくるかも 」 
                    巻5の822  大伴旅人(既出)

( あれっ 梅の花びらが空から降ってくる。
  まるで雪が流れてくるようだね )
 
ひらひらと舞い落ちてくる花びらが風にあおられて吹き上がり、
やがて地面を白く覆い尽くしてゆきます。
花が「流れる」という斬新な表現は万葉時代既に使われていたのです。

ざっと万葉時代から近代まで駆け抜けましたが、歌の表現、技巧は違っても
梅を愛する人の心は同じでした。

清楚で凛とした気品を持ち、百花に先駆けて咲く梅は当初、食用、薬用として
中國からもたらされた実用第一の植物でした。
万葉集で「うめ」の漢字表記は「烏梅」が多く、梅の実が烏(カラス)のごとく
真っ黒に燻した「うばい」という漢方薬や紅染の触媒剤であったことが
示されています。

花の鑑賞は後に文人たちの間で起こり、漢詩から始まりましたが、
大宰府の梅花の宴で「やまと言葉」による歌会で詠われて以来、
我国独自の境地に変化し、今日に至っております。

「 むめがかに のつと日の出る 山路かな 」 芭蕉

    むめがかに: 梅が香に

( 夜明けの山路は清冷の気に満ち、余寒が頬に冷たい。
 どこからか梅の香が漂ってきたとき、
 彼方の雲を分け のっと朝日が射し出た。 ) 「 芭蕉全句  小学館より」
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by uqrx74fd | 2016-02-19 06:48 | 植物

万葉集その五百六十七 (光明皇后)

( 法華寺山門  奈良 )
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( 同  本堂 )
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( 厄除けの茅の輪  同 )
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( から風呂  同 )
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( 本尊 十一面観音像:国宝  同 )
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( 光明皇后  小泉淳作画 )
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(  同上    林屋拓蓊:はやしや たくおう 画
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(  同上絵本  梶田幸恵 作、絵)
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(  光明皇后陵  佐保山の麓、聖武天皇の隣 )
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( 光明天皇が人々の為に作ったと伝えられる守り犬  昭和45年年賀切手 )
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光明皇后は701年 藤原不比等と橘三千代の間に生まれ、安宿媛(あすかべひめ)と
名付けられました。
聡明にして美しく、光り輝くごとしで、長じて光明子(こうみょうし)とよばれ
16歳にして後の聖武天皇の皇太子妃となり,阿倍皇女(後の孝謙天皇)を出産されます。

724年、聖武天皇即位。
5年後の729年光明子は妃から皇后に。
立后が遅れたのは、当時、皇后は天皇亡き後女帝になる可能性があり、出自は
皇族出身に限るという不文律があったため長屋王などが強く反対し難航したためです。

天皇の熱意と藤原家の強力な後押しで皇后に冊立された光明子は、内外の政治混乱、
大飢饉、大地震、悪病の流行、大仏建立等で疲労困憊する夫を献身的に支えます。

仏教に篤く帰依した皇后は、東大寺、国分寺の設立を天皇に進言し、
自らも興福寺五重塔や西金堂を建立したり、貧しい人を救済する施設「悲田院」、
医療施設「施薬院」を設置されました。
また、能書家としても知られ、王羲之の「楽毅論」を臨書(手本に忠実に写すこと)
されたものが、正倉院に収められており、その書は

『 筆力 勁健(けいけん:強くすこやか)、久しく鑑賞しても倦くことのない
  美しさがあり、皇后の高い教養と温かい仏心と崇高な人格が偲ばれる。
  まさに正倉院の書蹟の中の随一と称されるべき』

との最高級の評価がなされています。(中田勇次郎 元京都市立美術大学学長)

さらに、聖武天皇崩御後四十九日に遺品などを東大寺大仏に寄進しその宝物を
収めるための正倉院を創設するなど、その功績は大なるものがあります。

万葉集での皇后の歌は3首。
慈愛に満ちたお人柄を偲ばせるものばかりです。

「 我が背子と ふたり見ませば いくばくか
     この降る雪の 嬉しくあらまし 」  
                         巻8-1658 光明皇后

( この降り積もる雪の見事なこと。
 わが背の君と一緒に見ることができましたら、
 どんなに嬉しく思われることでしょう )

夫、聖武天皇が東国巡幸の旅にでた折に贈った歌。
一人の女性として詠い、可憐。 皇后40歳。

「 朝霧の たなびく田居(たゐ)に 鳴く雁を
     留(とど)め得むかも  我がやどの萩 」
                          巻19-4224 光明皇后


( 朝霧のたなびく田んぼにきて鳴く雁。
  我が宿の萩はその雁を引きとめておくことができるであろうか )

聖武天皇吉野行幸の折、吉野に美しく咲く萩と雁が音を聴き、
平城京の自邸に思いをいたした宴席での歌と思われます。

当時、雁と萩との取り合わせは秋の花鳥の代表的なものと考えられていました。
さらに、「雁に男性、萩に女性を連想するのはこの時期の共通の詩情」(窪田空穂)
だそうで、この説をもとに深読みするならば
「 私皇后(萩)は彷徨する天皇(雁)を留めることができようか」とも解釈できます。
 聖武天皇は740年九州で藤原広嗣の乱が起きた時、都を次々と遷都し
5年間地方を彷徨した時期がありました。

「 大船(おほぶね)に 真楫(まかじ) しじ貫き この我子(あこ)を
      唐国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち 」 
                          巻19-4240  光明皇太后(既出)

( 大船の舷(ふなばた)の 右にも左にも櫂をたくさん取りつけてやり
 いとしいこの子たちを唐国へ遣わします。
 どうか守らせたまへ、神たちよ )

孝謙天皇の時世、第10次遣唐大使として派遣された藤原清河の旅の無事を
祈願した神祭りの歌。
清河は藤原房前の第4子で光明皇太后の甥、孝謙天皇の従兄という血筋、
将来を嘱目されていた俊英です。
皇太后自身の手で「立派な楫をたくさん取り付けますから我が子を守らせ給え」、と
清河への深い愛情が籠ります。
威厳と力強さが感じられ、当時の旅の困難さを考えるとその願いも切実なもので
あったことでしょう。

「大船に真楫(まかじ)しじ貫き」とは官船での航海の出で立ちをいう慣用句で
「大船の舷(ふなばた)に櫂をたくさん取りつけて」の意

「 いにしへの 古き堤は 年深み
    池の渚に 水草(みくさ)生ひにけり 」  巻3-378 山部赤人


( ずっとずっと以前からのこの古い堤は 年の深みを加えて
  池の渚に水草がびっしり生い茂っていることよ  )

皇后の父、藤原不比等がかって住んでいた屋敷の庭園で故人を偲んで詠ったもの。 
法事の折のものかも知れません。
いにしへ、古き、年深みと時の経過と共に神々しくなっていくさまを詠い
鎮魂の意を奉げています。

「 ふぢはらの おほききさきを うつくしみ
    あひみるごとく あかきくちびる 」   会津八一


佐保路の終わり、平城京跡近くに法華寺という尼寺があります。
( 法花寺とも記し 山号は「法華滅罪寺」)
もと藤原不比等の邸宅であったものを没後、皇后宮、さらに諸国の
総国分尼寺として女人信仰の中心となった古刹で、本尊は十一面観音立像(国宝)、
皇后をモデルとしたものとも伝えられている美しいみ仏で赤い唇が印象的です。

和辻哲郎は古寺巡礼で次のように述べています。

『 この観音は何となく秘密めいた雰囲気に包まれているように感ぜられた。
 胸に盛り上がった女らしい乳房。
 胴体の豊満な肉づけ。
 その柔らかさ、しなやかさ。
 さらにまた奇妙に長い右腕の円(まる)さ。
 腕の先の腕輪をはめたあたりから天衣をつまんだふくよかな指に
 移っていく間の特殊なふくらみ。
 それらは実に鮮やかに、また鋭く刻み出されているのであるが、
 しかしその美しさは、天平の観音のいずれにも見られないような
 一種隠微(いんび)な蠱惑力(こわくりょく)を印象するのである 』 (岩波文庫より)
  
境内はいつも箒の目が清々しく、凛とした風格が漂い、東門の奥には
千人の入浴を発願し、千人目の病人の願いにより患部の膿を
吸い取ったところ、病人は阿閦如来(あしゅくにょらい)の化身で、
光を放って昇天したと伝えられる「から風呂」が残されています。

我国社会福祉の原点と云うべき建物。
当時としては珍しい蒸し風呂で近年まで焚かれているそうです。

最後に、荒木靖生著 万葉歌の世界 (海鳥社)からです。

『 数年前、奈良の佐保路を散策していたとき、法華寺の白い築地塀の外側に
  さらに からたちの生垣が百メートル近く続いていたのが印象的であった。
  
  皇后の母「県犬飼 橘三千代」の姓の一字「橘」は後に賜姓されたものである。
 「からたち」すなわち「唐橘」の「橘」が何かしらそんなことに
  かかわりのあるものとして、後世の人たちが「からたち」の生垣を
  作ったのだろうと考えながら、おりからの小雨に濡れる白い花に
  目を落としていた。 』

        「 法華寺に 守り犬買う 小正月 」 河合佳代子

            守り犬: 精進潔斎した門主と尼僧のみで作る土製彩色された子犬。
            小正月: 旧暦の正月15日あるいは正月14日~16日





















               
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by uqrx74fd | 2016-02-11 14:12 | 生活

万葉集その五百六十六 (玉藻と海苔)

( 養殖海苔発祥地大森には問屋が多く残る)
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( 大森海苔 名産御膳乾海苔所と記されている )
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( 海苔の保存箱  お茶屋が海苔屋を兼業しているのは保存技術を生かせるから
              : 大森海苔のふるさと館 )
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( 海苔干し  大森海苔のふるさと館 )
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( 海苔船からの採取 第2次大戦後   同上)
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( 荒波で散乱した海苔を玉網ですくい取る作業 (ふっきり拾い) 同上
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( ヒビ建て  ナラやクマギの枝に海苔の胞子を付け養殖する 高下駄を履き
         太い棒を突き立て海底に穴を開けてヒビを突き立てる   同上)
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( 海苔の養殖風景  震災前の相馬双葉 )
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( 生きている海苔 大森海苔のふるさと館 水槽 )
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( ホンダワラの見本  市川万葉植物園 )
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( 羅臼昆布 )
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( 若布  鎌倉材木座 )
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( 東京湾での海苔つくり風景:江戸時代  柴田是真 諏訪神社に奉納 大森海苔のふるさと館)
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玉藻とは美しく、立派な藻の意で海藻の総称とされています。
ミネラルの宝庫、コンブ、ワカメ、アラメ、ミル、ヒジキ
風味がよいアマノリ、アオノリ、アサオ、
寒天に加工できるテングサ、フノリなど。
採集しやすく、栄養に富み、乾燥すれば持ち運びが容易な海藻は
昔も今も貴重な食材です。

延喜式によると藻の料理は醤(ヒシオ)、酢、飴、酒などの調味料を使い、
ナス、マメ、ナギ、ショウガ、ノビル、などと煮て和え物にしたり、
酢の物、吸い物など現在と変わらない食べ方をしていたようです。

万葉集では74首の藻の歌が見られ(内玉藻 57首)、身近で生活に必要不可欠な
食材であったことが窺われますが、藻そのものを詠ったものは少なく大半が恋の歌。
次の歌は藻刈を詠った数少ない例外で、百人一首で有名な「これやこの」という
言葉が既に出てまいります。

「 これやこの 名に負ふ鳴門の 渦潮に
   玉藻刈るとふ 海人娘子(あまおとめ)ども 」
                           巻15-3638  田辺秋庭


( これがまぁ、名にし負う鳴門の渦巻き。
そんな激しい渦巻きに掉さして玉藻を刈るという,海人娘子たちなのか )

新羅に派遣された使人が鳴門にさしかかった時に目にした光景。
名だたる鳴門の渦潮をものともせず、小舟を巧みに操って玉藻を刈る
娘たちに驚嘆し、褒めたたえています。
当時「藻刈舟」に乗り、竿に鎌を括り付けて海に靡く海藻を
刈り取っていましたが、女性が鳴門の渦潮逆巻く危険な場所にまで
出かけていたとは信じられないことです。
このような光景を目の当たりにした作者が驚嘆したのも無理もありません。

( ご参考:百人一首 

  「 これやこの 行くも帰るも 別れては
           知るも知らぬも 逢坂の関 」  蝉丸 )

「 風高く 辺(へ)には吹けども 妹がため
         袖さへ濡れて 刈れる玉藻ぞ 」 
                            巻4-782 紀郎女(きのいらつめ)


( 風が高く吹き渡り岸辺に激しい波がよせていました。
 でも、これは、あなたのためにと思って袖まで濡らして
 刈り取った藻ですよ。)

こちらは磯の岩礁に貼りついた海藻を鎌で刈り採ったもの。
詞書に藻に何かを包んで友に渡したとあり、親しい女友達に贈り物をしたときに
添えた歌のようです。
乾いた海藻に海産物でも包んだのでしょうか。
藻でプレゼントを包んだというのも奇抜な趣向が面白く、受け取った女性は
さぞ驚き喜んだことでしょう。
当時の女性の髪は長く、緑なす黒髪にはヨードを大量に含む海藻を食することが
何よりも効果的でした。

「 荒磯(ありそ)越す 波は畏(かしこ)し しかすがに
      海の玉藻は 憎くはあらずて 」
                           巻7-1397 作者未詳

( 荒磯を越す波は恐ろしい。
 でも、波に寄せられる玉藻は決して憎くはないんだよ )

こちらは恋の歌、美しい女に惚れた男が女を玉藻に譬え、
どんなに苦難があろうとも荒波を乗り越えて結ばれたいと願っています。
当時、娘の結婚については母親の発言力が強かったので、
何らかの事情で猛烈に反対されていたのかも知れません。

「 花のごと 流るる海苔を すくひ網 」  高濱虚子

海苔は太古の時代から食されていたと推定されていますが、文献での記述は
奈良時代に編纂された「常陸国風土記」の
「ヤマトタケルが常陸国乗浜で海苔を干しているのを見た」
「出雲国風土記」の
「紫菜(のり)は楯縫郡(たてぬひのこほり:島根県出雲)がもっとも優れている」
などに見られ、さらに公式文書としては、701年に公布された大宝律令に
税(調)の対象として紫菜(のり)の貢納を定めた記述などがあります。

当時は生海苔か、素干しだったので日持ちがせず、極めて高級品として
扱われていました。
因みに「のり」の語源は、生海苔のぬるぬるした感触をさす「滑(ぬら)」が
転訛したものとか。

鎌倉時代、源頼朝が伊豆名産の海苔を4回にわたって朝廷に献上し、
以来、岩海苔は贈答用に使われ、室町時代は僧坊料理や喫茶の茶うけとしても
食されました。

「 海苔の香や 障子にうつる 僧二人 」 
                      梅室 (ばいしつ:江戸末期の俳人)

今日の一般的な「板海苔」の誕生は江戸時代からで、「ヒビ」といわれる
生簀の柵で養殖がはじまり、生海苔を細かく刻んで水に溶かし、
紙漉の要領よろしくスノコで薄く延ばして作る製法が確立すると
生産が飛躍的に向上し、巻きずしなど江戸っ子には欠かせないものになりました。

昭和24年、イギリスの海藻学者ドリユー女史が海苔の糸状体を発見。
これにより海苔のライフサイクルが解明され、不確定な天然採苗に変わり
人工採苗が実用化され大量生産が可能となりました。

2月6日は海苔の日。
この日は、大宝律令が施行された大宝2年1月1日を西暦に換算すると
702年2月6日になるとのことで、昭和41年、海からの贈り物、
海苔に対する感謝の気持ちを込めて全海苔漁連が定めたそうです。

  「 海苔あぶる 手もとも袖も 美しき 」 滝井孝作
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by uqrx74fd | 2016-02-05 06:30 | 植物