<   2016年 09月 ( 5 )   > この月の画像一覧

万葉集その六百 (藤原京)

( 藤原京復元CG 奈良産業大学、橿原市   以下の資料すべて撮影許可を戴いています)
b0162728_2050242.jpg

( 藤原京と平城京の規模比較  奈良文化財研究所)
b0162728_205028.jpg

( 天の香久山  大極殿跡から )
b0162728_20494290.jpg

( 畝傍山 )
b0162728_20492427.jpg

( 耳成山 )
b0162728_20491169.jpg

( 藤原京造営のための道づくり  山を切り拓く  奈良文化財研究所 画面をクリックすると拡大)
b0162728_2048466.jpg

( 資材運搬  同上 )
b0162728_20482677.jpg

( 瓦工場   同上 )
b0162728_2048914.jpg

( 屋根工事  同上 )
b0162728_20475271.jpg

( 大工  同上 )
b0162728_20473038.jpg

( 貴族邸の復元模型   同上 )
b0162728_2047055.jpg

(  台所  同上 )
b0162728_20464243.jpg

( 租税として集められた物品  同上 )
b0162728_20462894.jpg

( 藤原宮復元模型   奈良万葉文化館 )
b0162728_2046719.jpg

694年持統天皇は都を飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)から藤原京に遷しました。
東西、南北共に約5.3㎞四方、少なくとも25万平方㎞に及ぶ我国最初の本格的な
都城で平城京、平安京を凌ぐ堂々たる規模です。

着手は天武天皇時代、676年になされましたが、天皇崩御の為中断し、
持統天皇即位後の690年に再開されたのです。
4年後ようやく遷都したとはいえ建物は一部しか出来上がっておらず、
完成したのは704年。
着工から実に28年も経過していました。

日本書記の記録では藤原宮は見えますが、藤原京の記載はなく
新益京(あらましのみやこ)となっています。
完成するまで飛鳥浄御原宮と併用されたので「新たに増した」の意で
命名されたものと思われ、「藤原京」は明治時代になってから付けられた
学術用語です。

※ この稿では、すべて「藤原宮、藤原京」で統一します。
      「宮」は天皇の居住執務地 (内裏、大極殿、朝堂院、宮司の建物)
      「京」は都 (官人、民の居住地、商業地、公共空間)

新都は東、香具山、西、畝傍山、北は耳成山の大和三山、さらに南の吉野山を
守護神とする山々に囲まれた盆地で清水がこんこんと湧く場所に宮殿が建てられたと
詠われています。(巻1-52 長歌)

朱雀大路を中心に碁盤目のように整然と区画された道路。
宮は1㎞四方、周囲に瓦葺の大垣がめぐらされ、大極殿(天皇の政務、重要な儀式場)、
朝堂院(官人の執務場所)はすべて瓦が葺かれました。
更に、官立の寺院として大官大寺(後の大安寺)、薬師寺が建てられ、
持統、文武、元明天皇3代にわたる古代最大の都として機能することになります。

使用された太柱、数万本、瓦10万枚以上、巨大な花崗岩礎石2千個以上。
運搬のための道路、運河、瓦工場、数万人の労働者の宿泊場所、食堂。
都つくりのためには膨大な労力、資材、技術、金銭を必要とし、
過酷な労働、租税は想像を絶するものであったことでしょう。

万葉集では造営のための木材運搬の様子が語られていますが、
民の苦しみは詠われず、ただ喜び勇んで奉仕するさまが描かれています。

まずは訳文から。(  )は枕詞

「 -(石:いわ走る) 豊かな近江の地の 
 (衣手の) 田上山の立派な檜丸太
 その丸太を (もののふの八十の)宇治川に 
 (玉藻のように) 軽々と浮かべ流しているものだから 
 それを引き取ろうと せわしく働く大君の御民も 
 家のことを忘れ、わが身のことも すつかり忘れて 
 鴨のように軽々と水に浮きながら
 われらが造る大君の宮廷(みかど)- 」  巻1-50 (一部)

訓み下し文

「 石(いは)走る 近江の国の
  衣手の 田上山(たなかみやま)の
  真木さく 檜(ひ)の つまでを
  もののふの 八十(やそ)宇治川に
  玉藻なす 浮かべ流せれ
  そを取ると 騒く御民(みたみ)も 
  家忘れ 身もたな知らず
  鴨じもの 水に浮き居て 
  我が作る 日の御門(みかど)-  」 巻1-50 (一部)

   
一行づつ訓み解いてまいります。

「 石(いは)走る 近江の国の」

   石(いは)走る:「近江」の枕詞  石走る溢水(あふみ)の意
          「走る」は水平の移動にも、上下の跳躍にもいう

          「水が溢れるほど豊かな近江の国の」

「 衣手の 田上山(たなかみやま)の」

       「衣手の」: 田上山の枕詞 衣手(袖)の手(た)の意
       「田上山」は 大津市南部 檜の名産地

「真木さく 檜(ひ)のつまでを」

      「真木さく」: 檜の枕詞 「さく」栄くの意で
              檜の中でも特にすぐれた
      「つまで」:  角材(つま)の料(て) 丸太の意

「もののふの八十(やそ) 宇治川に」 

      「もののふの八十」: 「宇治をおこす序」
                 「もののふ」は宮廷に仕える文武百官、
                 氏が多いので「宇治に」かかる

「玉藻なす 浮かべ流せれ」

      「玉藻なす」: 軽々とした藻のように 「玉」は美称
      「浮かべ流せれ 」: 丸太を浮かべて流せば

「そを取ると 騒く御民(みたみ)も 」

      「 広大な貯木池(巨椋池:おおくらいけ)で待ち受けて
        宇治川を下ってきた丸太を木津川の方に導く作業を
        大忙しで騒ぎ働く民たちは 」の意 
       「そを」: 丸太

「家忘れ 身もたな知らず」

        故郷に残してきた家人も、自分自身のことも忘れて
        「たな」は「すっかり」



「 鴨じもの 水に浮き居て 」

        「鴨もじの」:まるで鴨のように 

「我が作る 日の御門(みかど)-」

     我らが造る大君の宮殿 -

枕詞を多用して祝詞のようになっており、持統天皇、宮造営状況視察の折の歌
と思われます。
題詞に「藤原の宮の役民の作る歌」とありますが、実際には
官人が民になり代わって天皇の威光を賛美したもののようです。

檜の良材を滋賀県の田上山に求め、瀬田川、宇治川に流して貯木場である
巨椋池に集めて筏を組んで木津川に流し、陸揚げしてから荷車で佐保川まで運ぶ。
その後、再び川に流し、初瀬川を経て飛鳥まで運んだ。

役民たちがまるで鴨のように軽々と水に浮き、重い丸太を玉藻のように
扱っている、それは神ながらのお上の御威光であると賛美していますが、
この頃の役民には報酬がなく、労力で税を賄う人頭税です。
(大宝時代になると僅かな賃金が支払われた)

歌とは裏腹に、過酷な労働に耐えきれず逃亡し、餓死した人達も
少なからずいたようです。

こうした国を挙げての大事業がなされ、都が完成するとともに
飛鳥浄御原令に続く大宝律令(701)による法整備、官僚組織の構築、冠位位階制度、
戸籍編纂による税収の確保、国号(日本)、天皇号、元号の制定、史記の編纂
(後の古事記、日本書記となる)、耕作すべき田を分かち与える班田収授法、
和同開珎発行による貨幣制度、遣唐使の再開。
など次々と画期的な政を推し進め、天皇中心の集権国家を築きあげました。

官僚制度の名称である宮内庁、主計局は今もその名を残し、大蔵省も
近年にいたるまで使われ続けられました。
大宝律令はその後、養老律令に修正され、形式的には国法として
江戸時代末期まで存続したのです。

「このくにの かたち」を創り上げた天武、持統天皇。
国家の100年の大計のために、あらゆる犠牲も厭わない決断力と、実行力。
そしてゆるぎない信念。
政治家とは何ぞやと再認識させられる藤原京造営です。

持統、文武、元明三代16年続いた都は710年に平城京に遷ります。
短命に終わったのは、国際社会との接触により不便となった地理的要因、
組織が肥大化し手狭になった、下水道の処理に失敗したともいわれ、
焼失説もあります。(発掘の結果、焼失の跡は認められていない)

都が奈良へ移る際に、建物は解体されて再利用、跡地は完全に埋め立てられ
田畑に転用されました。
藤原京の概要が明るみになったのは、今から僅か80年前、昭和9年(1934)に
日本古文化研究所による発掘が開始されてからで、当時は文献もほとんどなく、
藤原宮の所在地すら不明でした。

現在の地(橿原市高殿町)であると言明したのは江戸時代の賀茂真淵。
その後多くの議論を経て、発掘が進むにつれてようやく実態が解明されつつあり、
現在も発掘が続けられています。

我国のかたちをつくった原点、藤原京への認識が薄いのも、地中に埋もれていた
都であり公式の記録もほとんどなく、発掘の検証結果を待つしかなかったためです。
そうした中で万葉集が大きな力を発揮し、単なる歌集ではなく、
古代の歴史、文化を解明する重要な資料であり記録であることを
物語っています。
発掘された大極殿の土壇から、東を臨むと、天の香具山が眼前に迫り、

「 春過ぎて 夏きたるらし 白栲(しろたへ)の
     衣干したり 天の香具山 」   
                     巻 1-28(既出) 持統天皇


と声高らかに詠われた女帝の姿が目に浮かぶようです

     「 揚げひばり 藤原宮址 真つ平ら 」  福永京子


              万葉集600(藤原京) 完


             次回の更新は10月7日の予定です。
[PR]

by uqrx74fd | 2016-09-29 20:52 | 生活

万葉集その五百九十九 (実りの秋)

( 今年も豊作  飛鳥 )
b0162728_19425349.jpg

( 橘寺 稲と彼岸花   飛鳥 )
b0162728_19422617.jpg

( 棚田  飛鳥 )
b0162728_1942426.jpg

(  粟:あわ  市川万葉植物園  )
b0162728_19414576.jpg

( 桃  山梨 )
b0162728_19412628.jpg

( 栗  飛鳥 )
b0162728_19405439.jpg

( 梨   千葉 )
b0162728_19403169.jpg

( 松茸 新島々駅の前で農家が格安で売っていた あるところにはあるもの 長野 )
b0162728_19401536.jpg

( リンゴ   山梨 )
b0162728_19395452.jpg

( 巨峰   山梨 )
b0162728_19393783.jpg

歳時記語源辞典によると、「秋(アキ)」という言葉の語源は

1、作物の仕上がり、成熟の意の「アガリ」が「アガイ」「アキ」に
  転訛した。(橋本文三郎著 文芸社)

2、熟して赤らむの約「黄熟り(アカリ)」が「アキ」に転じたもの(大言海)

3、江戸時代の学者、新井白石の「作物が豊かに稔って飽きる義」、
  つまり「飽きるほど十分満足する稔り」の意、

など諸説あります。

このような豊かな実り秋に万葉人はどのような歌を詠ったのでしょうか?
代表的なものとして「稲」「桃」「栗」「粟(あわ)」「松茸」を採りあげてみましょう。

まずは稲、二人のやり取りです。

 「 我が蒔ける 早稲田(わさだ)の穂立 作りたる
     かづらぞ見つつ 偲はせ 我が背 」 
                巻8-1624 大伴坂上大嬢(おほいらつめ)

( 私が蒔いた早稲田の穂立、立ち揃ったこの稲穂でこしらえた蘰(かづら)です。
      どうかこれをご覧になりながら私だと思って偲んでください。)

「 我妹子(わぎもこ)が 業(なり)と作れる 秋の田の
    早稲穂のかづら 見れど飽かぬかも 」 
                          巻8-1625 大伴家持

    ( あなたが仕事をして獲り入れた秋の田、その早稲穂でこしらえた蘰は
      いくら見ても見飽きることがありません 。)

  蘰(かづら) : 稲の穂を編んで作った髪や衣類に挿す飾り。

739年の秋、家持の婚約者、大嬢は竹田庄に住んでいる母、坂上郎女のもとで
農事を手伝っていました。
竹田庄は飛鳥近く、大伴家の領地です。

収穫が終わり一段落した頃、久しぶりに家持が訪ねてきましたが、
公用で多忙の為、すぐ都へ戻らなければなりません。
大嬢はそのようなことも予想してあらかじめ作っておいた蘰(かずら)を 
「私だと思って偲んで下さいね」と渡したのです。

時に家持22歳、 大嬢17歳。 
花嫁修業中の大嬢、初々しさと気負いが感じられる1首ですが、
貴族でも自分の領地の農作業を自ら行っていたことがこの歌から窺われます。

「 はしきやし 我家(わぎへ)の毛桃 本茂く(もとしげく)
    花のみ咲きて ならずあらめや 」 
                           巻7-1358  作者未詳

( かわいい我家の毛桃 この桃の木に花がいっぱい咲くだけで
  実がならないのであろうか。
  まさかそんなことはあるまいでしょうね。)

「桃」にわが娘、「元茂く咲く」に縁談が多いこと 
「実になる」に結婚を譬えて年頃の娘をもつ心配性の母親。

縁談は次から次へとあるが、一向にまとまらない。
こんなに可愛い娘なのにどうしてなのだろう。

「はしきやし」は「いとしい」
「毛桃」 桃の実に細かい毛が生えていることによる。
      古代の桃は小粒で酸味が強かったらしい。

なお、桃は初夏から出回りますが秋の季語になっています。

「 松反り(まつがへり) しひてあれやは 三栗の
    中上り(なかのぼり)来(こ)ぬ 麻呂といふ奴 」 
                      巻9-1782 柿本人麻呂歌集

  ( 鷹の松返りというではないが、ぼけてしまったのかしら。
    機嫌伺いに中上りもしない 麻呂という奴は )

「松反り」は「しひて」の枕詞、
        鷹が戻るべき手許に戻らず、高い木に返るの意。
        掛かり方は未詳。

「しいて あれやは」 頭が呆けた 身体に障害がある

「三栗」は中の枕詞 栗のいがの中に三つの栗、その真ん中の意で掛かる。

「中上り」(なかのぼり) 地方官が任期中に諸報告のため都に上ること。

「麻呂」 夫の名 男の一般的な名前

地方官の麻呂と云う男が帰省した時、都で留守をしている妻に、
「 任地に手紙も寄こさないで、まるで音沙汰なし。
  怪しからん。
  お前は俺を思う気がうせてしまったのか。」
と怒鳴ったところ

「 あんたこそ呆けたのではないか。 
  もっと頻繁に帰ることが出来るのに
  こんなに長く放っておいて。
  よく人のことが言えたものだ。」

とやり返したもの。
人麻呂が宴席で一人芝居した座興とも思われます。

万葉集での栗は3首。すべて枕詞として使われていますが、
毬栗(いがぐり)の中の実が3つ、その真ん中の実とは面白い。

「  足柄の 箱根の山に 粟(あは)蒔きて
     実とは なれるを 粟無くもあやし 」
                    巻14-3364 作者未詳(既出)

  ( 足柄の箱根の山に粟を蒔いてめでたく実がなった。
     なのに俺があの子に逢えないとは、おかしいではないか )

「粟無く」に「逢わなく」を掛けている。

一生懸命あの子に想いを掛けているのに見向きもしてもらえない。
片想いの辛さを嘆く男ですが、からっとしていて笑いを誘う1首。
粟の種蒔きは春、初秋に収穫。
古代の重要な穀物です。

「 高松の この峰も狭(せ)に 笠立てて
    満ち盛りたる 秋の香のよさ 」 
                  巻10-2233 作者不詳(既出)

   ( 高円山の峰も狭しとばかりに、まぁ見事に茸の傘が立ったことよ。
     眺めもさることながらこの香りの良さ。
     早く食べたいものだなぁ。)

高松は奈良の高円山(たかまどやま)。
全山に松が林立し足の踏み場のない程にびっしりと生い並ぶ松茸が、
今が盛りとかぐわしい芳香を放っている様子を詠ったもので、
今日では想像も出来ない光景です。

茸の歴史は古く縄文時代後期(4000年前)まで遡りますが、
ふんだんに採れた松茸は今や希少品。
昭和初期に6000トンを超えていた国産品の生産量は現在わずか37トン。
庶民にとって高嶺の花になってしまいました。

このような惨状になったのは、松茸の育成に欠かせない赤松の減少。
赤松は痩せた土地を好み、里に暮す人々が、燃料や肥料にする草木を集めることで
最適の条件を保ってきました。
然しながら、昭和30年代後半から農村に電気、ガス、化学肥料が普及し、
里人が山に入らなくなったため土地が肥沃になり、その結果広葉樹が繁殖し
松林を荒廃させたのです。

因みに現在の松茸生産量は中国775トン、アメリカ214、カナダ173、が御三家。
国産は長野県29トン、岩手県4、岡山県 1,8。
万葉で詠われた奈良はわずか0,3トンです。

    「 茸狩や 頭を挙れば 峰の月 」 蕪村

昭和28年頃、奈良市近郷の山では松茸がまだ沢山生えていました。
家族揃っての松茸狩り。
いくらでも採れました。
持参した七輪で火を起こして食べた「すき焼き」の美味かったこと。
あぁ、香り高い松茸が懐かしい!
今や1本1万円以上とはねぇ。

    「 松茸を 焼く七輪の 横に燗 」 梅田蘇芳


             万葉集599 (実りの秋)  完


             次回の更新は9月30日の予定です。
[PR]

by uqrx74fd | 2016-09-22 19:43 | 生活

万葉集その五百九十八 (萩の遊び)

( 白毫寺の入り口から山門へ  奈良 )
b0162728_2092866.jpg

( 同 山門から境内へ  両側の萩が道をふさぐほどに )
b0162728_209652.jpg

( 同 石段を上りきったところから )
b0162728_2084473.jpg

( 同 境内の桔梗も美しい)
b0162728_2082065.jpg

(  元興寺の群萩  奈良 )
b0162728_2075950.jpg

(  石舞台公園  飛鳥 奈良 )
b0162728_2074267.jpg

( 絞り模様の萩  神代植物公園  東京 )
b0162728_20716100.jpg

( 山萩  潮来  茨城県 )
b0162728_207411.jpg

(  宋林寺  谷中 東京 )
b0162728_2065220.jpg

( 咲く萩、散る萩  向島百花園  東京 )
b0162728_2063942.jpg

「遊ぶ」とは元々祭祀にかかわる行為とされ、鎮魂、招魂の儀礼で歌舞を
奉納することをいうそうです。
巫女が神の依代であるヒゲノカズラ、ツルマサキ、ササなどを髪飾りにして、
鈴を鳴らしながら厳かに舞う。
今でも神社の儀式でよく見られる神事です。

万葉集での「遊び」は40例。
天皇の行為、国見、狩猟、野遊びに対して用いられ、さらに貴族の旅や
宴における詩歌、管弦を楽しむ雅やかな行為にも及んでいます。
「遊び」は時の経過と共に祭祀とは別の意味になっていったのです。

「 漢人(からひと)も 筏(いかだ)浮かべて 遊ぶといふ
           今日(けふ)ぞ我が背子  花かづらせな 」 
                           巻19-4153 大伴家持

( 唐の国の人も、筏を浮かべて遊ぶという今日のこの日。
 さぁ、皆さん、花蘰(はなかずら)をかざして、楽しく遊ぼうでは
 ありませんか )

中國では陰暦3月最初の巳の日を上巳(じょうし)と称し、
格別な吉日としていました。
後に、3月3日に固定されて曲水の宴が行われていたものが
我国でも行われるようになったことを示す歌です。

ここでの花は桃と思われますが、「花蘰」(花で編んだ髪飾り)にして
頭に挿そうと詠っています。
植物の生命力にあやかりながら、わが身を飾ろうというわけです。


「 白露を 取らば消(け)ぬべし いざ子ども
           露に競(きほ)ひて 萩の遊びせむ 」 
                                巻10-2173 作者未詳



( 萩に置く白露、あれを手に取ったら消えてしまうだろう。
  さぁ、みんな、あの露と張り合って萩見の遊びを楽しもう )

当時、露は萩の開花を促すものとされていました。
露が「早く咲け」と催促すると、萩は恥じらって「いやよ いやよ」という。
そのような様子を万葉人は「競う」と表現したのです。

この歌は宴席でのもので、白露を萩の恋人かのようにとらえ、
「我々も露に負けないで萩を愛でよう」とおどけながら詠っています。

「いざ子ども」は親しみを込めた言葉で「おのおのがたよ」と
いったところでしょうか。

「 天雲に 雁ぞ鳴くなる 高円(たかまと)の
           萩の下葉(したば)は もみちあへむかも 」 
                           巻20-4296 中臣清麻呂

( 天雲の彼方にもう雁がきて鳴いている。
  ここ高円の萩の下葉も間もなく紅葉してしまうであろうなぁ。)

753年、秋もそろそろ終わりにさしかかる頃。
2~3人の官人がおのおの酒壺をさげて高円山の麓の高台に登り、
酒盛りをした時の1首です。

当時、雁が渡来すると、萩の落花が始まると考えられていました。
晩秋の時雨に打たれて黄葉が進む。
萩の下葉も間もなくもみぢし、やがて落ちてしまうだろう。
花を眺めつつ一献一献と美酒を味わい、行く秋を惜しむ作者です。

なお、高円は奈良朝官人の遊楽地で、頂上近くに聖武天皇の離宮や
志貴皇子(天智天皇の子)の春日宮がありました。

ある秋の晴れた日、皇子邸の跡地とされている萩の寺、白毫寺へ。
山門をくぐると、長い石段が続き、両側に枝もたわわに群萩が
咲き乱れて道をふさいでいる。
普段は幅2mある石段が、人がようやく通れる位にまで狭まり、
登るたびに紫、萩が頬をなでてくれます。
頂上まで約70段ばかり。
高台の境内に到着すると視界が大きく広がり、奈良盆地が一望。
彼方に生駒、金剛葛城山。
庭に萩や桔梗が咲き乱れ、名木、五色椿も健在。
境内の奥、高円山が見渡せるあたりに、笠金村が志貴皇子を偲んで詠った歌碑が
ひっそりと建っていました。

 「 高円の 野辺(のへ)の秋萩 いたずらに
            咲きか散るらむ 見る人なしに 」  
                        巻2-231 笠金村歌集(既出)

( 高円の野辺の秋萩。
  今は見る人もおらず、甲斐なく咲いては散っていることであろうか。 ) 
 
「咲きか散るらむ」は「咲き散るらむか」の意で、満開となって散る

    「 萩散るや 石段粗き 白毫寺」   筆者



             万葉集598 (萩の遊び ) 完

            次回の更新は9月25日(日)の予定です
[PR]

by uqrx74fd | 2016-09-15 20:11 | 生活

万葉集その五百九十七 ( 松籟、爽籟、秋の風 )

( 松わたる風の響き 松籟  皇居東御苑 )
b0162728_20164242.jpg

( 緑鮮やかな松の絵のスカーフ  エルメス製 )
b0162728_20162054.jpg

( ススキの葉擦れの音  爽籟:そうらい  飛鳥 奈良 )
b0162728_2016033.jpg

( 稲穂そよがせる秋風  飛鳥 奈良 )
b0162728_20154339.jpg

( 緑の杉玉は新酒到来の合図  揮毫は東大寺長老 上野道善師 )
b0162728_20152623.jpg

( 酒樽  春日大社 )
b0162728_20151155.jpg

(  京都御所の簾:すだれ )
b0162728_20145394.jpg

( 秋の彩り    三越本店ショーウインドウ )
b0162728_20143772.jpg

( 秋の実り    歌舞伎座地下で )
b0162728_20142279.jpg

『 日本人は古くから常緑の松を称えて「色変えぬ松」(秋の季語)なる言葉を残した。
  また、その松を渡る微細な風の音を「松籟(しょうらい)」とよんで
  大事にしてきた。
  四季折々にその音色を楽しんできたが、ことに秋の松籟は爽やかな風の響きが
  楽しめるところから「爽籟(そうらい)」という秋の季語を生み出した。
  この「籟」なる文字、穴の三つある笛のことで、その笛を吹くことを
  吹籟(すいらい)といった。
  風の吹き通る音を、その吹籟の笛の調べになぞらえた日本人好みの言葉である。』
                                 ( 榎本好宏著 風のなまえ 白水社 より )

風の音に繊細な美意識を見出した万葉人は二人。
市原王と額田王です。
特に市原王は松の梢をわたる風の響きを詠っており、松籟の先駆けと云えましょう。

「 一つ松 幾代か経(へ)ぬる 吹く風の
    音の清きは 年深みかも 」  
                        巻6-1042 市原王(既出) 

( 一本松よ おまえは幾代もの長い歳月を経てきたのだろうなぁ。
  風が爽やかに吹き、こんなにも清らかな音を響かせているのは
  お前が逞しく生き抜いてきたことを寿いでいるようだねぇ)

744年1月、貴族の子弟たちが聖武天皇皇子、安積王の宮近く、
活道岡(いくじがおか;京都) とよばれる丘の上に立つ松の大樹の下で
酒宴を開きました。
冬晴れの暖かい好日。
紺碧の空の下、松の梢に風が渡り莢かな音が響く。
作者は新年を賀し、
「老松にあやかり各々がた末永く長寿であれ」と祈っています。

悠久の時の流れの中での心地よいひととき。
気品と透明感があふれ「王朝時代の松風の美感を先取りした(山本健吉)」、
万葉集唯一、松渡る風の歌です。
なお作者は天智天皇の5代目にあたり、歌の名手、志貴皇子の曾孫。

「 君待つと 我が恋おれば わが屋戸(やど)の
          簾(すだれ)動かし 秋の風吹く 」 
                           巻4-488  額田王(既出)

 額田王が大津宮で天智天皇を想って詠んだ歌。

「 天皇を恋しく思って、その訪れを今か今かと待っている。
  静かに座りながらどんな音も聞き漏らすまいと、じっと耳を澄ます。
  折から一陣の風。
  簾がサラサラと音をたて、風がスゥーと吹き渡っていく。
  一瞬、はっとするが、待ち人来たらず。
  あとは、ただ静寂あるのみ。」

愛人を待つ微妙な女心のゆらぎを風に託した繊細な表現。
流石、額田王、秋の風、爽籟を詠った万葉屈指の名歌です。

大海人皇子(後の天武天皇)との間で一女(十市皇女)をなしたにもかかわらず、
天智天皇の後宮に入った作者は二人の天皇から愛された稀有の女性。
よほどの美貌と知性を兼ね備えた魅力ある佳人だったのでしょう。

「 秋風の ふけども青し 栗のいが 」 芭蕉

残暑まだ厳しい夏の終わり。
早朝に起きて庭に出る。
ひんやりとした涼風が頬をなでて通り過ぎてゆく。
おぉ! 秋が来たぞ! と実感する一瞬です。

「 秋風の 吹きにし日より いつしかと
               我(あ)が待ち恋ひし 君ぞ来ませる 」
                           巻8-1523  山上憶良

( 秋風が吹きはじめた日から いついついらっしゃるかと
 恋焦がれていたあなた。
 とうとう今、お出でになったのですね )

七夕の日、待ちに待った牽牛を迎えた喜びを織姫の立場で詠っています。
旧暦の8月、現在の9月7日頃。
大宰府長官、大伴旅人邸での宴席の余興。
この歌を自身の恋人を迎えた喜びとしても、そのまま通用します。

「 昨日こそ 早苗とりしか いつのまに
    稲葉そよぎて 秋風の吹く 」 
                     よみ人しらず 古今和歌集 

(  ついつい昨日早苗をとって田植えをしたばかりと思っていたのに
  いったい、いつのまにこのように秋風が吹いて
  稲の葉がそよぐようになったのだろう )

時の移り変わりの速さに驚きつつ、秋到来を喜ぶ。
稲の穂のゆらぎに秋を見出した1首。

「 あはれ いかに 草葉の露の こぼるらむ
            秋風立ちぬ  宮城野の原 」    西行

( あぁ、秋風が立ちはじめた。
  あの懐かしい宮城野の原の草葉の露はどれだけこぼれ落ちているだろうか。)

秋風が吹いたと感じると共に、かって訪れた宮城野を
思い出しながらその様を懐かしく瞼に思い浮かべています。
宮城野は萩が群生する広大な野原、仙台東方一帯。

「 秋かぜや 日本(やまと)の国の 稲の穂の
               酒のあじはひ 日にまさり来れ 」   若山牧水

秋は新酒の季節。
酒好きな作者は田園に満ち満ちた稲の香りを
しみじみと味わっているのでしょう。
「 あぁ、日本人に生れてよかった 」 という思いが
「やまとの国の」にこもっているようです。

澄み切った清々しい秋の風は「色なき風」。
芭蕉は
   「石山の 石より白し 秋の風 

と詠みました。
次の句は秋風と鶴の白を重ねたもので、
鶴はタンチョウでしょうか。

 「 吹き起こる 秋風鶴を あゆましむ 」 石田波郷


            万葉集597 (松籟、爽籟、秋の風 ) 完


            次回の更新は 9月16日 の予定です。
[PR]

by uqrx74fd | 2016-09-08 20:18 | 自然

万葉集その五百九十六( 姫押:をみなへし)

( 秋空に咲き誇るオミナエシ  市川万葉植物園 )
b0162728_1726197.jpg

( 万葉人はこの花を美女も圧倒する美しさと称えた  山辺の道 奈良 )
b0162728_17254275.jpg

(  オミナエシとオニユリ  同上 )
b0162728_1725308.jpg

(  オミナエシとススキ   同上 )
b0162728_17251230.jpg

(  オミナエシと蝶   同上 )
b0162728_17245727.jpg

(   同上  )
b0162728_17244353.jpg

「女郎花」という字がまだ使われていなかった万葉時代、
「姫押」「姫部志」「美人部志」「佳人部為」「娘子部四」などという字を当て、
すべて「をみなへし」と訓みなしていました。
いずれも美しい女性を思い起こさせ、万葉人のこの花にかける憧れや想いが
伝わってくるものばかりです。

「姫押」は「美人(姫)」を「圧倒する(押))ばかりに美しい花の意で、
この字を「をみな(姫)へし(押)」の語源とする説もあります。

「 をみなへし(姫押) 佐紀沢の辺(へ)の 真葛原(まくずはら)
     いつかも繰(く)りて  我が衣(きぬ)に着む 」
                           巻7-1346 作者未詳

( おみなえしが咲き、葛が生い茂る野原。
 あの葛は何時になったら糸に繰って私の着物として
 着ることができるのであろうか。 )

古代、葛の根は食用、茎は衣料に用いられていました。
作者は葛を少女に譬え、その少女の早い成長を待って結婚したいと
願っています。

「繰りて我が衣に着る」は妻にしたいの意で、余程美しい少女だったのでしょう。
佐紀沢は現在の奈良市佐紀町、平城京に近いところです。

「 をみなへし 秋萩しのぎ さを鹿の
     露別け鳴かむ 高円(たかまと)の野ぞ 」
                    巻20-4297  大伴家持(既出)

( ここ高円の野は一面のおみなえしや秋萩。
     そのような中を、雄鹿が白露をいっぱい置いた花々を踏み分け、
     やがて鳴きたてることであろう )

753年作者は2~3人の官人と連れだって高円山麓の小高い丘に登り
酒宴を催しました。
野辺一面におみなえしと萩が咲き乱れ、秋真っ盛り。
そのような中を雄鹿が萩の白露を散らしながら悠然と通ってゆきました。
なんと優雅な光景でしょうか。
眼を閉じるとそのさまが思い浮かんでまいります。

高円山麓は聖武天皇の離宮や志貴皇子(天智天皇の子)の宮があった
ところで、萩の寺で知られる白毫寺周辺。

「秋萩しのぎ」 「しのぐ」は押し伏せる
「露別け」 おみなえしや萩に置く露を胸で押しのけての意

「 高円の 宮の裾(すそ)みの 野づかさに
    今咲けるらむ をみなへしはも 」 
                         巻20-4316  大伴家持

( 高円の宮の裾野のあちらこちらの高みで、今ごろ盛んに咲いているだろうな。
 おみなえしの花は )

作者は難波で防人を九州へ送りだす仕事に携わっており、多忙を極めていました。
高円での楽しかった酒宴を懐かしみ、その光景を思い浮かべながら、
今は亡き聖武天皇を追悼していたものと思われます。

「野づかさ」 小高いところ

「おみなえし」は全国いたるところに原生するオミナエシ科の多年草で
秋の七草の一つとされていますが、気の早いものは夏の盛りから黄色い小花を
密集させて咲かせます。
そのさまは「蒸した粟飯(あわめし)」(今のものでいえばブロッコリ-) のようです。

古代の女性は粟(あわ)を主食にしていたため粟飯を「をんなめし」とよんでおり、
その「をんなめし」が花の名前に転訛したとの説もあります。
つまり「をんな」→「をみな」「めし」→「へし」。

      「 面影の 幾日変らで 女郎花 」 几董(きとう:江戸中期)

「女郎花」という字が見えるのは平安時代からで万葉の「姫」「美人」「佳人」
「娘子」などを一括したものと考えられています。
「女郎」は元々「いらつめ」と訓み、主として「上流階級の女性」の名前として
使われ、次第に「若い女」あるいは「広く女性をいう」言葉になりました。
「遊女(傾城:けいせい)」をさすようになったのは後々のことです。

          「女郎花には こまやかな 黄を賜ひ 」 田畑美穂女



            万葉集596(姫押:をみなへし ) 完



            次回の更新は9月9日の予定です。
[PR]

by uqrx74fd | 2016-09-01 17:27 | 植物