<   2017年 07月 ( 3 )   > この月の画像一覧

万葉集その六百四十二 (祭と市)

( 飛騨高山祭 )
b0162728_1753416.jpg

(  同上 )
b0162728_1751931.jpg

( 同上 子供たちも楽しげ )
b0162728_175133.jpg

( ねぶた祭  青森 )
b0162728_1744559.jpg

(  立佞武多 津軽 )
b0162728_1742849.jpg

(  古代庶民の祭 歌垣 奈良万葉文化館 )
b0162728_1741170.jpg

( 古代の市  陶器、焼き物  同上 )
b0162728_173532.jpg

( 野菜売り   同上 )
b0162728_1733551.jpg

( 朝顔市  東京 入谷 )
b0162728_1731729.jpg

( ほおずき市  東京 浅草 )
b0162728_1725880.jpg

万葉集その六百四十二 (祭と市)

夏から秋にかけて全国各地は祭や市の季節到来です。
賀茂、祇園、ねぶた、立佞武多、飛騨高山、花笠、仙台七夕、郡上おどり、風の盆、
朝顔市、ほおずき市、風鈴市、草市等々、数え上げればきりがありません。

夏祭がこの時期に多いのは災害や疫病が多く発生し、それを祓おうとする
ところから起きたとされていますが、神輿や山車、祭り太鼓といった賑やかで
勇壮なものが多く、想像するだけでも浮き立つような気分になってまいります。

「祭る」は「祀る」「奉る」とも書かれるように神を崇め安置して
儀式を行うことをいいますが、中西進氏はその語源について非常に
ユニークな見解をされているので一部引用させて戴きます。

『  神は人間にとって怖く恐ろしい存在ですが、それゆえにその畏怖すべき
   力を借りたい場合もあります。
   その時に出てきてもらわなければならない。
   一所懸命に笛を吹いたり、囃したりして、さぁ来てください、
   さぁ来てくださいといって、神を待つ。
   つまり「まつる」とはそういうふうに神を待つ「まつ」に「る」が付いた言葉で、
   「まつり」とは「まつる」の名詞形です。
      (中略)
   神様は、それぞれに支配のおよぶ範囲が決まっていて、その圏内を
   ほうぼう旅して回ります。
   祭礼の時、社を出た神輿が仮に鎮座する場所を御旅所(おたびしょ)といいますが、
   これは神様が立ち寄るところであると同時に、そのテリトリーを示すものでも
   あります。
   神様は「おまつり」されることで、そこへ降りて人々に恩恵を与えるのです。 』

           (  「 日本語のふしぎ 」 小学館所収 )

なるほど、なるほど、お祭りとは神様が来ていただけるように、踊りや
神楽で囃しながらお迎えする、天の岩戸の天照大神以来の伝統であったのだ。

古代の人達にとって神とは太陽や月、海山や川、風や雷など
命の糧や安全にかかわる自然神や各地の地霊神でした。
人々は身近なところにある山々や海川の近くに社を作って祀り、
旅する人は自国と他国の境界を異境と感じ、その地の社や道祖神に
幣を手向けて道中の安全を祈ったのです。
幣とは白い布や紙を榊などの神木の枝に付けたもので、今でも
その名残をとどめています。

 「 国々の 社の神に幣(ぬさ)奉(まつ)り 
                 あがこひすなむ 妹が愛(かな)しさ 」

       巻20-4391  結城郡 忍海部五百麻呂( おしぬみべのいほまろ)

( あちらこちらの社の神様に幣を祀って無事を
  祈ってくれているだろうあの子。
  おれに恋焦がれて、なんともいじらしいことよ。)

作者は結城国(茨城)出身の防人。
故郷を離れ集合地の難波に向かう途中で詠ったものです。

徒歩、野宿の長い長い旅。
山々を越えながら思い出すのは可愛い妻。
泣く泣く別れたあの日の朝。
「今ごろは、あちらこちらの社で旅の安全を祈ってくれているだろう。」と、
故郷の方角を振り返り、振り返りしながら歩いてゆく若者です。

万葉時代の祭は、新年の宴、若菜摘、曲水の宴、花見、端午の節句、
薬狩り、七夕、初穂の祭り(新嘗祭)、紅葉狩など宮廷行事に多く見られ、
次の歌は新嘗祭の寿ぎ歌です。

「 天地と 久しきまでに 万代(よろづよ)に
    仕へ奉らむ 黒酒(くろき)白酒(しろき)を 」 
                巻19-4275  文室智努真人( ふみやの ちのの まひと)

( 天地と共に遠い遠い先々まで、万代にわたってお仕えいたしましょう。
      このめでたい黒酒や白酒を奉げて。)


752年11月25日 孝謙女帝のもとで新穀を神に供える儀式、新嘗祭が
催されたのちの宴でのもの。
新米で作られた酒は、クサギという木の灰を加えたものが黒酒、
加えないものを白酒といい(延喜式)、新嘗の酒を捧げ、治世の長久を賀した一首です。

  「 雑踏の 中に草市 立つらしき 」  高濱虚子

          草市: 盆の時期に供え物の蓮の葉などの植物や食物、用具を売る市

市の歴史は古く西暦280年頃に立った軽の市(奈良県橿原市)が
我が国最古のものとされています。
当時の市は露天であったので、木陰を確保するために色々な樹木を植え、
海石榴市(つばいち:椿)、桑市(桑)、餌香市(えがいち:橘)、軽市(槻:けやき)
などと呼ばれました。

平城京の時代になると物資の交換の場として東西の官営市が設けられましたが、
掘割などの水運をともなう大規模なもので、東市は51店舗、西市は33店舗あり、
取扱い品は各地から運ばれた衣食住に関連するもののほか武器なども扱っていたとか。

朝廷が官営の市を運営したのは、全国各地から税として納められる物産や
現物支給の役人の給与を金銭や必要な物資に交換するためです。

一方、海石榴市、軽の市、阿倍の市(駿河)など市井のものは自由な雰囲気で、
時には歌垣なども行われており、男女の出会いの場となっていました。

「 紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 
    八十(やそ)の衢(ちまた)に  逢える子や誰(た)れ 」
                                巻12-3101 作者未詳
( 紫染めには椿の灰を加えるものです。
      海石榴市の分かれ道で出会ったお嬢さん! 
      あなたは何処のどなたですか?
      お名前を教えてくれませんか?)

            八十の衢:諸方へ四通八達に道が分かれる要衢の辻

  紫染めの触媒に椿の灰汁(あく)を使います。
 この歌では紫を女性、椿の灰を男性の意を含めて、“混わる”すなわち結婚の
 誘いかけをしています。
 当時は女性の親だけが知っている「本名」と「通り名」があり本名を男に告げることは
 求婚の承諾につながりました。
 さて女性はどのように返事をしたのでしょうか?

「 たらちねの 母が呼ぶ名を申(まお)さめど
     道行く人を 誰(た)れと知りてか 」 
                        巻12-3102 作者未詳

    ( 母が呼ぶ名前を申さないわけではありませんが、でもどこのどなたか分らない
      行きずりの方にそう簡単にお教えすることなど出来るものでしょうか?)

海石榴市は歌垣が行われるところとしても有名で、性の解放も行われていました。
男にとってラブハントは当然の事と声をかけたところ
女性は「教えないわけではないが」と思わせぶりに気を引いておいて、
やんわりと断ったのです。

なかなかしっかりした女性ですなぁ。

 「 西の市に ただ一人出(い)でて 目並べず 
        買ひてし絹の 商(あき)じこりかも 」 
                      巻7-1264 作者未詳 

 ( 西の市にただ一人出かけ、自分の目だけで判断して買ってきた絹は
  とんでもない品だったよ。
  あぁ安物買いの銭失いだ。)

官営市は厳格な管理がなされていましたが、それでも盗品や偽物を持ち込む
怪しからぬ輩もいたらしく、騙されて悔しがっている男です。


  (目並べず) 自分だけの判断で他のものと比較もせず  
  (商じこり) 商いの仕損じ

 「 朝顔の 模様の法被(はっぴ)  市の者」  高濱年尾

朝顔は奈良時代に中国から渡来して、「牽牛花(けんぎゅうか)」とよばれ、
七夕伝説の彦星に擬されていました。
それに因んだのは東京入谷の鬼子母神で開かれる朝顔まつり。(7月6,7,8日)
早朝5時から色とりどりの朝顔が売られ、浴衣姿の人々で賑わいます。

「 みくじ手に 鬼灯市(ほおずきいち)を 覗きけり 」    阿久津 渓音子

こちらは、ほぼ同じ日に浅草寺の縁日に立つ酸漿(鬼灯)市(ほおずきいち)
この日にお参りすると1日で4万6千日分のご利益があるといいます。

どちらもお江戸の伝統の市。
万葉時代から続く市は形を変え、いまだに健在です。

「 鬼灯市 夕風のたつ ところかな 」 岸田 稚魚

        暑かった一日にも夕風が吹きわたってきた。
        店先に吊るされた風鈴の涼しげな響きの心地よさ。



          万葉集641(祭と市)完

          次回の更新は 7月28日(金)の予定です。
[PR]

by uqrx74fd | 2017-07-20 17:07 | 生活

万葉集その六百四十一 (紅花の季節)

( 紅花  長福寿寺   千葉 )
b0162728_19441732.jpg

(  同上 )
b0162728_1944543.jpg

(  長福寿寺の紅花畑  この地方の紅花が最上に移されたとの説がある )
b0162728_1943533.jpg

( 乾燥させた紅花   国立歴史民俗博物館  佐倉市 )
b0162728_19433734.jpg

(  紅餅   同上 )
b0162728_19432233.jpg

( 最上から京へ   紅花船   同上 )
b0162728_1943768.jpg

( 紅花染めの実演  長福寿寺 )
b0162728_19425214.jpg

( 古代の紅花染振袖  少し黄色ががっている  
              中江克己著 色の名前で読み解く日本史 青春出版社 )
b0162728_19423886.jpg


万葉集その六百四十一 (紅花の季節)

古代赤色植物染料の主役は我国原産の茜と紅花。
中でも紅の鮮やかな色は人々の憧れの的でした。
中近東、エジプトを経て3世紀頃中国、呉から我国に渡来した紅花は
当初「呉の藍」(「藍」は染料の総称)、すなわち「呉から来た染料」とよばれました。

その「呉の藍」(くれのあい)が縮まって「くれない」となり、「紅」の字が
当てられたのですが、不思議なことに大宝衣服令で「紅」を
「ひ」(緋:黄色かかった赤色)と訓ませています。

というのは、紅花には赤と黄の色素が含まれており、当時の技術では
鮮やかな赤色だけをうまく分離させて抽出することが不可能で、
黄味をおびた赤色にしか染めることが出来なかったのです。

古代王朝人にとって燃えるような赤は紫とともに夢の色。
なんとか鮮やかな濃紅を作りだしたいと試行錯誤を繰り返し、
ついに黄色の色素は水に流れ、赤は水溶性がないことを突き止めます。

紅花は7月ごろに鮮黄色の花が咲き、やがて赤みを増していきますが、
赤くなる前に摘み、花びらを水で洗って黄色素を流出させ、
残った花びらを絞って染液を取り出す。

それでも、まだまだ満足できる赤が生まれません。

失敗を繰り返しながら根気よく情熱を傾けて取り組む。
その結果、奈良時代の終わりから平安時代にかけ、遂に理想としていた
鮮紅色に染め上げる方法を見つけ出しました。

まず、染めた衣の色を定着させるため、黄色素に染まらない麻布を染める。
薄赤に染まった麻布取り出し灰汁につけ紅色素を溶かす。
そこに梅酢をくわえ、絹布を浸して赤色に染める。
これを何度も繰り返すと鮮やかな紅色になったのです。
灰汁や梅酢の成分や配合は各職人の秘伝。
同じように染めても、色が微妙に違うのは致し方ありません。

「 紅の 深染めの衣(きぬ) 下に着て
     上に取り着(き)ば 言(こと)なさむかも 」 
                        巻7-1313 作者未詳

( 濃い紅色で染めた着物、それを肌着にしていたあとで
 改めてよそ行きとして上に着たりしたら、世間様は噂を立てるだろうかな。)

深染めの衣は美しい女を比喩しています。
「下に着る」は女との内々の関係、「上に着る」は正式な妻として迎えることを
指しているようです。

噂を気にしなければならないのは、なにか障りがある関係なのでしょうか。
例えば遊女、人妻、釣り合わない身分など。

濃紅の衣を染めるには、絹2反に対して紅花12㎏必要とされ
途方もない高価な贅沢品。
宮廷の女房の公服などに使うと、大変な浪費になるので朝廷は禁色にしますが、
貴族や大金持は内々に着物を作り、女性に与えていたのでしょう。

濃紅の衣は何度も染めるので「八汐の衣」ともいいます。

八しほ: 「八」 回数が多いの意。
     「しほ」 衣を染料に浸す回数をしめす言葉

「 言ふ言(こと)の 恐(かしこ)き国ぞ 紅(くれなゐ)の
    色にな出(い)でそ  思ひ死ぬとも 」 
                      巻4-638  大伴坂上郎女

( 他人の噂が怖い国がらです。
 だから、あなた、想う気持ちを顔に出してはいけませんよ 。
 たとえ焦がれ死にするようなことがあっても 。)

相手は誰か不明ですが、この歌の後に6首も続いているので
甥の大伴家持に恋歌の手ほどきをしているのかもしれません。

「紅の色に出で」: 鮮やかの色のように他人に知られるの意。
「な―そ」で禁止の言葉となる。(色にな出でそ)
当時,人の噂になったらその恋は成就しなくなると信じられていました。

「 紅に 染めてし衣(ころも) 雨降りて
     にほひは すとも うつろはめやも 」 
                    巻16-3877 作者未詳

( 紅にしっぽり染め上げた衣だもの 雨に降られて、一層美しく
  映えるようなことがあっても、色褪せるなどありましょうや。)

大分県南部の海人郡で詠われたと註にあり。
「紅に染めてし衣」は深い契りを交わした仲。
「雨降るは二人の仲を裂こうとする人がいる」譬え。

親か周りのものが反対しているのかもしれませんが、
なかなか艶っぽい歌です。

「 紅摘みに 露の干ぬ間と いふ時間 」 田畑美穂女

紅花を摘む作業は刺(とげ)がチクチクと皮膚を刺すので、早朝、朝露で刺が
柔らかくなっている間に行い、茎の先端に咲く花を摘み取ることから
「末摘花」ともよばれています。

紅花から染料や口紅を作るのは大変な作業が必要とされました。
花を摘み、水洗いをして黄色い色素を洗い流し、
発酵させて餅のように搗いた後、筵に並べてせんべい状にしてから乾燥させ
紅餅といわれるものをつくる。
出来上がった紅餅は、紅花商人を経て都の紅屋売られ、それぞれの秘伝の技術や
灰汁などを加えてようやく染料や口紅になったのです。

紅花の栽培地は山形県の月山の麓や最上川のほとりがよく知られていますが、
昔は伊勢、武蔵、上総、下総など二十四か国が税として納めており、
出羽最上が産地として台頭するのは江戸時代からです。

その種は長南(千葉県)からもたらされたとも伝えられていますが、
栽培の最適地は、花が成長する春から夏にかけて朝霧が立ち、
直接日光が当たる時間が短い場所。
この条件に合うのなら全国どこでも栽培できたようです。

以下は 水上勉著 「紅花物語」からです。

『  花は紅花というて、最上川や仙台にでける花と、伊賀にでける花とがある。
   どちらも似たようなもんやけど、それぞれ土地の性質が花に出て、
   とれる紅はちがうんや。

  その点、わいのつかう紅には、最上の紅がいちばんよいが、伊賀にも
  よいのはある、、、、。

  花は毎年四月、八十八夜にタネをまいて、、、、丹精した畠でつくるんやけんど、
  紅花はぜいたくな苗で、土みしりしよる。
  去年の畠では でけんのや。

  ナスやキュウリとちがうて、めんどうなもんでな。
  四月にまいたタネが苗になると すこしずつ つまびいて、
  畔に二列に、とびとびにして大きくしてゆくわけや。
  花は七月に咲きよる。
  これがなんとケシの花みたいで、まっ黄色い。

  ところが、これを摘んで、団子にしてゆくうちに、だんだん紅うなってきよる。
  不思議な花や。 』
                                   ( 主婦の友社より)

   「 奈良へ通ふ 商人住めり 紅の花 」 正岡子規

          奈良の月ヶ瀬は梅の名所。
          梅酢は紅作りの重要な原料です。




           万葉集641 (紅花の季節) 完


          次回の更新は7月21日の予定です。
[PR]

by uqrx74fd | 2017-07-13 19:45 | 植物

万葉集その六百四十 ( 七夕・相撲・ナデシコ)

( 護国神社の七夕  仙台 )
b0162728_1725672.jpg

( 優雅な仙台七夕 )
b0162728_17244815.jpg

( 同上 )
b0162728_17243177.jpg

( 平塚七夕 )
b0162728_17241634.jpg

(  同上 )
b0162728_17235782.jpg

( 笹に願いを  同上 )
b0162728_17234029.jpg

( 相撲  国立歴史民俗博物館  佐倉市 )
b0162728_17232454.jpg

( 大相撲凧  海外向け観光案内所  東京京橋)
b0162728_1723782.jpg

( カワラナデシコ  古くは七夕の花とされ生花の源流となった )
b0162728_17224577.jpg

( 庄司信州作  撫子  万葉の茶花 講談社より )
b0162728_17223058.jpg

万葉集その六百四十 (七夕・相撲・なでしこ)

今回は何やら三題噺めいたお題ですが、それぞれ密接な関係があり、
すべて日本文化の源流をなしているというお話です。

まずは「七夕」。
何故この漢字を「たなばた」と訓むのでしょうか?

遥か遠い古の時代、我国では夏秋の行き会いの時期に遠来のまれびとである神を
迎えるために水辺に棚を掛けて乙女が機織りする風習があり、
精進潔斎して待ち受ける聖女を「棚(たな)機(ばた)女(つめ)」(たなばたつめ)と
よんでいました。

一方、中国では7月7日の夜、織姫星が天の川を渡って牽牛星に逢うという
空想豊かな恋物語があり、遣唐使(山上憶良?)が帰国後伝えたところ、
このロマンティクな伝説は、たちまち人々の心をとらえ、かつ魅了しました。

物語のヒロインは片や織姫、こなたは「たなばたつめ」。
二人共、織物にかかわる女性とはなんという偶然の一致。
そこで、万葉人は中国で「七夕」と表記されていた漢字に
「たなばた」という訓みを当てたのです。

次は相撲。
734年、聖武天皇の時代、7月7日に相撲を奉納し、その夕方、文人に
七夕の歌を詠ませる行事が定着していました。
相撲と七夕の節会を同じ日に行ない、五穀豊穣、国土繁栄を祈ったのです。

天覧相撲の起源は4世紀前半(推定)、垂仁天皇ご臨席の下で
野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が力と技を競ったのが
始まりとされ(日本書紀)、以降、宮中で行われた相撲節会(すまいせちえ)は
源平争乱で廃絶になる1174年まで続けられました。
( ただし824年、平城天皇が7月7日に崩御されたため以後7月下旬に変更)
今日の天覧相撲もこのような長い歴史を踏まえたものでありましょう。

万葉集には「相撲をとる歌」はありませんが相撲使の役人が諸国から
力士を選別して都に上る途中18歳の若い従者大伴熊凝(くまごり)が急病で
亡くなり、それを悼んで本人になり代わって詠った歌が伝えられています。
長い説明文の序と6首の歌があり、相撲史を知る上での貴重な記録です。

「 出(い)でて行(ゆ)きし 日を数へつつ 今日(けふ)今日と
     我(あ)を 待たすらむ 父母らはも 」  
                                巻5-890 山上憶良

( 私が出発した日を、もう何日経ったかと数えながら今日こそはと私の帰りを
  待っておられるであろう父母よ-- あぁ・・・)

最後に生花。
我国の7月7日の七夕節会の記録は持統天皇の691年が最も古いとされており
公卿以下に宴を賜り、朝服を下される宮廷儀礼でした。

平安時代になると「花合わせ」といわれる「ナデシコ(撫子)」の花の
優劣を競い合う行事も七夕の日に行われるようになり、
櫻井満氏によると
『 この「ナデシコ合わせ」が後に「秋の七草合わせになり」五節会に
結びついてハレの花になり、生花への道に進むことになった。』のだそうです。
                    ( 節会の古典要約 雄山閣) 
        筆者注: 五節会 
                 1月1日(正月)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、
                 7月7日(七夕)、9月9日(重陽)

何故ナデシコなのか定かではありませんが。その可憐で美しく凛とした姿が
織姫を想像させ「七夕の花」として特別視されたのでしょうか。
日本が誇るべき生花文化の源流は七夕節会にありと考えられているのです。

「 天の川 相向き立ちて 我(あ)が恋ひし 
     君来ますなり 紐解き設(ま)けな 」 
                           巻8-1518 山上憶良

( 天の川、この川に向かい立って 私が恋焦がれているあの方がこちらの方へ
 いよいよお出でになるらしい。
 さぁさぁ、私も衣の紐を解いてお待ちいたしましょう。)

724年、作者が東宮(のちの聖武天皇)に命じられ詠った12首のうちの一.
教育掛(侍講)として唐の文化の説明も交えながら織姫の立場で詠ったものと
思われます。

憶良の歌は天空の世界の物語ではなく、人間界の現実のものとして詠っており
後の人々に多大な影響を与えました。
人々は自身が牽牛、織姫の立場になって思いのたけを詠う。
七夕はいわば愛を告白する日、共寝する日だったのです。
だからこそ135首もの多くの歌が詠われたのでしょう。

「 天の川 楫(かじ)の音聞こゆ 彦星と
    織女(たなばたつめ)と 今夜(こよひ)逢ふらしも 」
                            巻10-2029  柿本人麻呂歌集

( 天の川に櫓を漕ぐ音が聞こえる。
 彦星と織姫が 今宵いよいよ逢って共寝するのであるらしい )

人麻呂歌集には38首の七夕歌があり、憶良にはじまった現世表現様式を
確立させた感があります。
作者が銀河を眺めながら織姫、牽牛の逢瀬を想像し、
「俺もそろそろ行かなくては」と呟いているのかもしれません。

「 一年(ひととせ)に 七日(なぬか)の夜のみ 逢ふ人の
    恋も過ぎねば 夜は更けゆくも 」
                         巻10-2031  柿本人麻呂歌集

( 1年のうちこの7日の1夜だけ逢う人の、恋の苦しさもまだ晴れないうちに
 夜はいたずらに更けてゆく )

ようやく二人は逢うことが出来たが、時はあっという間に過ぎて行く。
1年に1度の逢瀬は、この上もない幸せ。
だが、のちに長い長い苦しみが待っている。
あぁ、時は止まらないのか。

「 明日よりは 我が玉床を うち掃(はら)ひ
    君と寐寝(いね)ずて ひとりかも寝む 」
                      巻10-2050 作者未詳

( 私たちの寝床を払い清めたとしても、明日からあなたと共寝することができずに 
ただ、ひとり寂しく寝ることになるのだろうか。)

七夕、相撲、撫子。
日本文化の源流には山上憶良がすべてかかわっています。
秋の七草の歌を初めて詠んだのも憶良でした。

 「 秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)
      かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 」 
                          巻8-1537 山上憶良

 「 萩の花 尾花葛花(くずはな) なでしこの花
     おみなえし また 藤袴(ふじばかま) 朝顔の花 」 
                             巻8-1538  山上憶良

ナデシコが七夕の花とされたのは、この歌とかかわりがあった
からなのでしょうか。

   「 木曽山に 流れ入りけり 天の川 」 一茶

貴族の行事であった「七夕節会」は、さらに中国古来の行事である、
「乞巧奠(きこうでん)」(女子が機織り等の手芸巧みになる事を祈る行事)と
結び付けられ、機織、裁縫、手芸、歌道、書道の上達を祈る行事として
定着してゆきました。
そして、次第に拡大解釈されて様々な願い事を星に祈る行事に変わってゆき、
江戸時代、庶民の間にも手習いが広まると、色とりどりの短冊に願い事を書いて
笹竹に飾るようになり現在に至っています。

七夕行事は夏の7月7日に行う地方も多いですが、本来は陰暦7月7日。
初秋の行事です。
太陽暦の7月7日より約1ヵ月後のこの時期になると、夜空が澄みはじめ
星もさやかに見えるのです。

           「 荒海や 佐渡に橫たふ 天の川 」  芭蕉




万葉集640 (七夕・相撲・ナデシコ) 完


次回の更新は 7月14日(金)の予定です。
[PR]

by uqrx74fd | 2017-07-06 17:26 | 生活