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万葉集その六百六十一 (楽しみは)

( 大伴旅人の最大の楽しみは酒   奈良万葉列車 )
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( 梅の下で宴会   奈良万葉植物園レリーフ )
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( 屋内での宴       同上 )
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( 打毬、双六、 蹴鞠    奈良万葉文化館)
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( 貴族の歌会     同上   画面をクリックすると拡大できます )
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(  琴         同上)
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(  伎楽面で踊る   同上 )
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   万葉集その六百六十一 (楽しみは)
  
「 たのしみは 意(こころ)に かなふ  山水の
      あたりしずかに 見てありく時 」      橘 曙覧


江戸時代の歌人、橘 曙覧 (たちばな あけみ)は「独楽吟」という歌集を編み、
「たのしみは」で始まる52首の歌を残しました。
いずれも身近でささやかなことに生きる楽しみを感じているものばかりで、
上記の歌もそのうちの1首です。
曙覧は名誉栄達を望まず、生涯日々の小さな楽しみを重ねることにより、
心の平穏と大きな幸せを得たといえましょう。

万葉人が「楽しみ」を詠ったものは15首.
勿論、他に恋など楽しいことは多くあったでしょうが、本稿は「楽しみ」という
言葉を使われたものに限定してピックアップしてみました。

「 生ける者(ひと) 遂にも死ぬる ものにあれば
     この世にある間(ま)は 楽しくあらな 」 
                         巻3-349 大伴旅人

( 生ある者はいずれ死ぬもの。
せめてこの世にいる間は、楽しく過ごしたいものだ )

では何をもって楽しみとするか?
この歌は酒賛歌の中の1首で、酒好きな作者の人生の最大の楽しみは酒、
できることなら酒壺にでもなりたいと詠うほど徹底していました。
そして
「 この世にし 楽しくあらば 来む世には
        虫に鳥にも 我(わ)れはなりなむ 」 
                         巻3-348  大伴旅人

(  この世で酒を飲んで楽しく暮らせるなら、
来世は虫にでも鳥にでもなってしまってもかまわないよ。)

と詠うのです。


「 矢釣山(やつりやま) 木立も見えず 降りまがひ
     雪の騒(さわ)ける 朝(あした)楽しも 」 
                            巻3-262 柿本人麻呂

( 矢釣山の木立も見えないほどに粉々と降り乱れて
      雪のさわさわと降り積もるこの朝。
      何と楽しいことでしょうか。)

天武天皇の子、新田部皇子の何かの祝いの席で詠ったもの。
雪が降り積もると豊作、国が豊かになり幸先が良いものとされていました。
矢釣山は奈良県明日香村八釣の東北にある山。


「 かくしつつ あらくをよみぞ たまきはる
      短き命を 長く欲(ほ)りする 」  
                        巻6-975 安倍広庭 

( こうして過ごすのが楽しいからこそ 人は短い命であるのに
 長かれと皆が願うのですね )

「あらくをよみぞ」: 「ありよしぞ」(有り好しぞ)の変形で 「楽しいからこそ」
「たまきはる」:    命の枕詞 たま(命)の極限までの意 

作者は中納言(大納言の補佐役) 
親しい人たちの宴席でのもの。  
歌の通り、当時としては長命74歳まで人生を楽しんだようです。

毎日毎日が楽しければ長生きしたくなりますね。

「たのしみは 心をおかぬ友どちと
            笑ひかたりて 腹をよるとき 」           橘 曙覧


       万葉集661 (楽しみは) 完


   次回の更新は11月10日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-11-30 10:58 | 生活

万葉集その六百六十 ( 蓼:たで)

( ヤナギタデ 蓼の種類は多いが食用となるのは本種のみ  奈良万葉植物園 )
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 ヤナギタデの花      同上
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( イヌタデ 別名アカノマンマ  大隈庭園 東京 )
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( 同上 山の辺の道  奈良 )
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( サクラタデの花    同上 )
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( 鮎の塩焼にタデ酢は欠かせない)
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万葉集その六百六十 (蓼:たで)

  「 草の戸を 知れや穂蓼に 唐辛子 」   芭蕉

   ( おもてなしの料理の薬味にタデとトウガラシを用意してお待ちして
     おりますので、ぜひお越しください。)

タデは日本全土の野山や水辺に自生するタデ科の1年生草木で、
秋に枝先ごとに紅や白色の花の穂を出します。
イヌタデ、オオベニタデ、サクラタデなど多くの種類がありますが(50~60種)、
食用となるのはヤナギタデ(ホンタデ、マタデともいう)のみ。
葉はピリッとした辛みがあり、すり潰して二杯酢を加えた蓼酢は
鮎の塩焼きに不可欠の薬味です。

芽生えの頃の双葉はさっと茹でてお浸しにしたり、蓼飯にすると美味く、
各地の寺院で精進料理として出されていますが、昔はごく普通の農山村の
常食の一つでした。

「 わが宿の 穂蓼古幹 (ほたで ふるから)  摘み生(おほ)し
     実になるまでに 君をし待たむ 」 
                       巻11-2759 作者未詳

( 我家の庭の穂蓼の古い茎、その実を摘んで蒔いて育てる。
      そしてまた実が結ぶようになるまで、私はずっとあなたを待ち続けます。
      だから、きっと私と一緒になってね 。)

男は旅に出るのでしょうか。
結婚出来るまでいつまでも待ち続けると願う純情な乙女です。

穂蓼古幹(ほたでふるから)は穂の出た蓼(たで)の古い茎で、
庭で栽培されていたヤナギタデと思われ、新葉を摘んで食用に、
実は香味料、根は漢方薬として利用されていたようです。

「 童(わらは)ども 草はな刈りそ 八穂蓼(やほたで)を
        穂積が朝臣(あそ)が 腋草(わきくさ)を刈れ 」
                     巻16-3842 平群朝臣が嗤(わら)ふ歌

( おい、みんな、草なんか刈らんでもよろし。
  刈るなら八穂蓼の穂を積むという穂積のおっさんの臭い腋草を刈れよ。)

童ども:皆さんという意の呼びかけ
な刈りそ:な-そで禁止をあらわす。「刈るなよ」
八穂蓼: 摘んだ後も次から次へと生える蓼。

宴席で
「 あいつは穂積という名の通り、沢山の穂を出した蓼のように、
わき毛が多いから草など刈らないで、わき毛を刈れよ」
と戯れたもの。
しかも「腋草」の「草」(くさ)に「臭い」を掛けているので強烈。

万葉集の巻16にはこのような面白い歌が多く収録されています。

 「 見るままに 駒もすさめず つむ人も
                  なきふるさとの  蓼に花咲く 」
                             藤原信実 新撰六帖

 すさめず: 好まない 喰おうともしない

それでも「蓼食う虫も好き好き」です。

故事ことわざ辞典( 三省堂)によると
『 人の好みはさまざまで理解しがたいような多様性を持っているものであること。
よりによって辛い蓼の葉を好んで食べる虫がいることから、
他人の悪趣味についていうことが多い。』

使用例として

『 「 驚いたわ。 お玉さんが、雷を好きだなんて」
  「 だって、あなた、蛇を好きな人もあれば、嫌いな人もあるでしょ。
    蓼食う虫も好き好きじゃないの。
    雷だってそうよ。
    きらいな人ばかりとは、いえないでしょ。』
                            ( 船橋聖一 雪夫人絵図) 

 「 わが歩む 小野の上にて 蓼の花
         咲くべくなりぬ  夏終わりけり 」  斎藤茂吉

子供のままごとの遊びに使われる「アカノマンマ」はイヌタデ。
夏から秋にかけ房状に咲く花を赤飯に見たてたものです。
また、サクラタデは花が淡紅色で大きく美しい。

   「 花か穂か 紅葉か蓼の 紅(くれなひ)は 」   凡菫(きとう:江戸中期) 


         万葉集660(蓼:たで)完


     次回の更新は12月1日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-11-23 15:45 | 植物

万葉集その六百五十九 (黄葉の宴)

( 正暦寺    奈良 )
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( 大仏池    同上 )
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( 大湯屋  二月堂参道の途中で  同上 )
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( 吉城園      同上 )
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( 談山神社    同上 )
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( 室生寺     同上 )
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( 長谷寺    同上 )
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( 奈良公園 浮御堂前   同上 )
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万葉集その六百五十九 (黄葉の宴)

秋の野山を美しく彩る「もみぢ」(黄葉:紅葉)。
それは、多くの草木の葉が紅や黄に変わることを意味する言葉であり、
特定の植物をさしているわけではありません。
古くは清音で「モミチ」とよばれ、その語源は秋が深まりゆくと共に、
木々の葉が揉(も)み出されるように染まってゆく、つまり「揉出(モミチ)」の
意とされております。

万葉集で「モミチ」は135余首も詠まれていますが、大半は「黄葉」や
「色づく」「もみつ」などと表記され「紅」「赤」の字が見られるのは
ごく僅かです。
その理由は大和付近の山々は雑木が多く楓類が少なかった、あるいは
黄も赤もすべて「黄」と表記したとも言われていますが定かではなく、
紅葉と表記されるようになったのは赤に対する憧れが強かった平安時代からです。

「 わが衣(ころも) 色どり染めむ   味酒(うまさけ)
     三室(みむろ)の山は  黄葉(もみち)しにけり 」
                      巻7-1094 柿本人麻呂歌集

( あぁ- 素晴らしい! 神様を祭る三輪山はすっかり黄葉しました。 
  私の着物も色とりどり鮮やかに染めたいものです。 )

味酒: 神酒(みわ)として神に供えることから三輪山(三室の山)に掛かる掛詞。
    三輪山(奈良)の神は「酒の神」ともいわれている。

紅葉狩には酒がつきもの。
738年11月中旬、秋も深まりゆく頃のことです。
右大臣、橘諸兄の御曹司、奈良麻呂(17~18歳)は日頃親しくしている女性二人を含む
友人達10名を招き、酒宴を催しました。

「 本日はお忙しい中 お集まりいただき有難うございます。
  色づいてきた山々を愛でながら歌を詠み、久しぶりに
  酒を酌み交わそうでは、ありませんか」と

まずは主人の歓迎の挨拶歌を披露します。

「 手折(たを)らずて 散りなば惜しと 我(あ)が思(も)ひし
    秋の黄葉(もみち)を  かざしつるかも 」 
                               巻8-1581 橘奈良麻呂

( 手折って賞(め)でる前に 散ってしまったら惜しいと私が思っていた黄葉。
 この黄葉をようやくこのようにして、かざすことが出来ました。 )

当時美しい木や花に強い生命力を備えた精霊が宿り、手折って頭や身に付けると
その力を受け継ぐことが出来ると信じられていました。
きらびやかな衣装に黄葉。
さぞ、美しく映えたことでしょう。

「 黄葉(もみちば)を 散らす時雨に濡れてきて
      君が黄葉を かざしつるかも 」 
                   巻8-1583  久米女王(くめのおほきみ)

( 黄葉を散らす時雨の雨に濡れながらやってまいりましたが
 その甲斐あってあなたさまが手折ってきて下さった美しいもみじを
 かざすことが出来ましたわ。)

作者は本日の主賓。
家系は未詳ですが「天智、天武天皇 いずれかの皇子の子孫」と推定され、
奈良麻呂がひそかに好意を抱いていたようです。

「 奈良山の 嶺の黄葉(もみじば) 取れば散る
       時雨の雨し  間なく降るらし 」
                     巻8-1585 犬養吉雄(よしお)

( 奈良山の嶺で手折ってきた黄葉を手に取ればはらはらと散ります。
 これは時雨の雨に濡れたからだが、山では今でも時雨が絶え間なく
 降っているらしい。) 

当時、時雨は黄葉を散らすものと考えられていました。
いずれ散り果ててしまう黄葉。
それなら目前の美しい姿を大いに楽しもうではありませんか。
と行く秋を惜しみ、いとしんでいます。
酒席は大いに盛り上がり、夜になりました。
月の光が木々を美しく照らしています。
やおら大伴家持の弟が立ち上がり、声高らかに詠います。

「 あしひきの 山の黄葉(もみちば) 今夜(こよひ)もか
      浮かび行(ゆ)くらむ 山川の瀬に 」 
                          巻8-1587 大伴書持(ふみもち)

( あしひきの山の黄葉、この黄葉の葉は今夜もはらはらと散って
 山あいの瀬の上を流れていることであろう )

昼間見た見事な奥山の黄葉が、はらはらと散り川に浮かび流れている
様子を想像しています。
一枚また一枚、表を見せ、裏を返しながら散り落ちた色とりどりの葉が
小舟のように流れてゆく。
月の光を浴びてきらきら光りながら静かに、滑るように。
風情があり、感性豊かな一首です。

「 黄葉(もみちば)の 過ぎまく惜しみ 思ふどち
     遊ぶ今夜(こよひ)は 明けずもあらぬか 」 
                            巻8-1591 大伴家持

( 紅葉が散ってゆくのを惜しみながら 気の合うもの同士で飲む酒の美味さよ。
  実に楽しい夜だ。時よ止まれ!)

当時家持は21歳、最年長だったらしく、宴を楽しく盛り上げて
歌会を締めました。

主人を含め11名全員黄葉という言葉を入れて1首づつ。(主人は2首)
若い仲間同士の楽しい歌会。
古代貴族の雅な生活が彷彿される情景です。

    「 彼一語 我一語 秋深みかも 」   高濱虚子



        万葉集659(黄葉の宴 )完



       次回の更新は11月24日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-11-16 11:03 | 生活

万葉集その六百五十八 (難波)

( 難波宮跡  大阪 )
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( 同上  後方 大阪歴史博物館 )
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( 前期難波宮復元模型 中央大極殿  同上 )
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( 大極殿復元図  同上 )
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( 後期難波宮復元模型  前方 朱雀門  同上 )
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( 女官  大阪歴博 )
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( 侍従  同上 )
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( 堂島米市  同上 )
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( 蔵屋敷   同上 )
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( 北海道の珍魚 フサギンボ  海遊館  大阪港前 )
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(  マイワシ群  同上 )
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(  タカアシガニ   同上  )
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万葉集その六百五十八 (難波:なにわ)

古代の難波は摂津国(大阪府北半と兵庫県南東部)の中心部に位置し、なかでも
大阪湾に面する難波津は瀬戸内海を経て大陸に通じる航路の要衝でした。

古くは5世紀に仁徳天皇が難波高津宮、645年孝徳天皇の難波長柄豊崎宮、
744年聖武天皇の難波宮が営まれ、784年桓武天皇の長岡京遷都までの
約140年間、首都,副都として栄えました。

とりわけ、仁徳天皇の時代、淀川と大和川の合流地点で頻繁に起こる氾濫を
防ぐため、水流を大阪湾に落とす大規模な運河(堀江)を造った結果、
大和から九州、大陸を結ぶ道が直結され遣唐使や防人の往来の
拠点となります。

朝廷は、難波津を管理するために屯倉(みやけ)とよばれる役所を構えて、
役人を常駐させ、天皇の行幸も度々行われたようです。
また、都から貴族、官人たちの出張も多く、海がない大和人にとっては
珍しい光景に接するまたとない機会であり、明るく楽しそうな歌が多く残されています。

「 昔こそ 難波田舎と 云われけめ
    今は都引(みやこひ)き 都(みやび)にけり 」 
                        巻3-312 藤原宇合(うまかい)

( 昔は難波田舎と馬鹿にされもしただろう。
 だが今はすっかり都らしくなり、雅やかなことよ )

645年、孝徳天皇の時代に遷都の詔が出され、652年に完成した難波宮は
役所なども整備されましたが、天武天皇の時代になると再び大和に還り、
683年に難波を副都とする詔が出された僅か3年後の686年に火災ですべて
焼失してしまいました。(前期難波宮)
その後、聖武天皇の726年に都城の再建開始、732年に後期難波宮が完成します。

難波宮再建の責任者であった作者は藤原不比等の3男。
有能な人物であったらしく、見事に期待に応えて立派な宮都を造営させ、
きらびやかに立ち並ぶ建物を眺めながら長い間の苦労が報われた喜びを
噛みしめつつ、感慨にふけっています。
なお、藤原宇合は異色の万葉歌人高橋虫麻呂の庇護者として、あるいは
常陸国風土記の編集者とも推定されています。

「 難波潟 潮干に立ちて 見わたせば
      淡路の島に 鶴(たづ)渡る見ゆ 」
                       巻7-1160 作者未詳

( 難波潟 この潮の引いた千潟に立って見渡すと
 淡路の島のかなたに向かって鶴が鳴きわたって行く )

晴れた日に大阪湾から遠望すると淡路島が美しく臨まれたのでしょう。
その中を鶴が飛び去ってゆく、絵画的な風景です。

「 難波潟 潮干(しほひ)に出でて 玉藻刈る
    海人娘子(あまをとめ)ども  汝(な)が名 告(の)らさね 」
                巻9-1726  丹比真人( たぢひの まひと)

( 難波潟 この潮干の潟に出て 玉藻を刈っている海女の娘さん、
 あなたの名前を私に教えてくれませんか )

「 あさりする 人とを見ませ 草枕
        旅行く人に 我が名は告(の)らじ 」
                          巻9-1727 作者未詳

( 私を千潟で獲物を漁る名もない女とでも見ておいてくださいませ。
     行きずりの旅のお方に大切な私の名など、教えられませんわ。)

海に縁がない大和の官人にとって、海辺の海人乙女は異国情緒が漂う憧れの姿。
当時、女性に名前を聞くという行為は、関係を持つことを意味していました。
見も知らない旅のお方に、共寝するなんてとんでもないとはねつけた乙女。
宴席での座興歌だったかも知れません。

「 我が衣 人にな着せそ 網引(あびき)する
      難波壮士(なにわおとこ)の 手には触るとも 」
                  巻4-577  大伴旅人

( 私の大切にしている着物、この着物は、他の人には着せないで下さいよ。
 綱を引く難波男のあなた様が手に触れるのは仕方がありませんが。)

作者が難波に訪れたとき摂津職の長官、高安王の暖かいもてなしを受け
お礼に新しい朝服を贈ったときに添えた1首。
親しい間柄だったのでしょう、長官を難波の漁師に見たてて戯れています。

「人にな着せそ」の「な」-「そ」は禁止を表す言葉で「人」は共寝する女を暗示し、
「寝床の場で着るような代物ではなく、ありあわせのお粗末なもので恐縮ですが」
の意がこもります。

「 津の国の 難波の春は 夢なれや
     蘆(あし)の枯葉に 風わたるなり 」  
                       西行 新古今和歌集

( 明るい光に満ちていた津の国の難波の春、あれは夢だったのであろうか。
 今目に映るものは、蘆の枯葉だけ。
 ただただ、風がさびしく吹き渡っている音がする。)

津の国とは、港の国の意。

都が平安京に遷って以来、難波は政治の中心から外れ、商業、文化都市として
発展してゆきます。
繁栄を誇った難波宮は784年長岡京遷都の時に解体され、
その後埋め立てられたのか後世になると、どの場所にあったか
全く分からなくなってしまいました。

現在、大阪城近くに北接する難波宮遺跡は1871年(明治5年)以降
兵部省(のち陸軍省)の管轄地になり、戦後占領軍に接収。
戦後に解除された後、偶然にも大極殿屋根に使われたと推定される
鴟尾(しび)が発見され、発掘作業がなされた結果、難波宮跡と確認、
現在も作業が続けられています(約89000㎡)。
この発見がなければ恐らく今ごろはビルが立ち並んでいたことでしょう。

この遺跡保存最大の功労者は、元大阪商大教授山根徳太郎氏。
「ここが難波宮跡」と説きつづけても誰からも相手にされず、
幾多の反対、無視をはねのけた氏の確固たる信念と燃えるような
情熱が無ければ、日の目を見ることが出来なかった(直木孝次郎氏)そうです。

また、近くの大阪歴史博物館で発掘された品の数々や、当時の復元模型などが
展示されており、近くの大阪城とあわせ古代から中世をつなぐ
歴史街道となっています。

今や大阪人の「難波」は「なんば」、「なにわ」と呼ぶ人は滅多におりません。

 「 堀返す 難波(なにわ)の宮や 花菫(はなすみれ) 」   阿部月山子


          万葉集658(難波)完


          次回の更新は11月17日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-11-11 19:55 | 万葉の旅

万葉集その六百五十七 (万葉人は鮪がお好き)

( 鮪   築地魚市場 )
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( 鮪の尾鰭  プロはこれを見て品定めする  同上 )
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( 鮪の大切り身  同上 )
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( 大トロ  新富寿し   銀座 )
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(  赤身     同上 )
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( トロ巻き     同上 )
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万葉集その六百五十七 (万葉人は鮪がお好き)

726年10月、聖武天皇が播磨国に行幸されたときのことです。
海が見える場所に急造された仮宮に着き、外を眺めると、
鮪釣り舟が多く集まって漁をしており、砂浜では人々が塩を焼いていました。
民たちが天皇歓迎の大漁祭をしていたのかも知れません。
海が無い大和で育った天皇にとって何よりの催し。
思わず身を乗り出し、見入りながら満足げなご様子です。

ややあって、お供の人が歌を奉り声高らかに詠います。
まずは訳文から。

「  あまねく天下を支配されておられる 我らの大君が
   神として 高々と
   宮殿をお造りになっている 
   印南野の邑美(おふみ)の原の中の 
   広々とした海に面した藤井の浦では
   鮪(シビ)を釣ろうとして 海人の舟がたくさん集まり
   また、浜では塩を焼こうとして 人がいっぱい集まっている

   なるほど、浦が良いので  このように 釣りをするのだ
   浜がよいので  このように 塩を焼くのだ

   さればこそ  わが大君も こうしてたびたび お通いになって 
   ご覧になるのだ
   あぁ、なんと清らかな 眺めの素晴らしい白浜であることよ。 」

                              巻6-938  山部赤人

   ( 当時、鮪(マグロ)は「シビ」とよばれていた。)

訓み下し文

「 やすみしし 我が大君の 
  神(かむ)ながら 高知らせる

  印南野(いなみの)の 邑美(おふみ)の原の
  荒袴(あらたへの)  藤井の浦に

  鮪(しび)釣ると 海人舟騒き
  塩焼くと 人ぞ さはにある

  浦をよみ うべも釣りはす
  浜をよみ  うべも塩焼く

  あり通ひ  見さくもしるし
  清き白浜 」
                   巻6-938 山部赤人
語句解釈

 「やすみしし」   我が大君に掛かる枕詞 
                「八隅知し」「安見知し」で八隅をくまなく治める、
                 安らかに天下を治める の意か。

     「神ながら」     神として(天皇を神とみている)

     「高知らせる」    高々と宮殿(行宮:仮の宮)をお造りになっている

     「印南野の邑美の原」 播磨国(兵庫」明石から加古川のかけての平野
     「藤井の浦」 明石市藤江付近

     「荒栲の」 藤井の枕詞、荒い布の繊維の藤の意

     「人ぞ さはにある」 さは:沢山
     「うべも」 なるほど
     「あり通い」 なんども通い
     「見さくも しるし」   ご覧になるのは当然
                  「見さく」は見るの敬語 「しるし」は著しい
反歌

「 沖つ波  辺波(へなみ)静けみ 漁(いざ)りすと
              藤江の浦に 舟ぞ騒ける 」 
                   巻6-939  山部赤人
( 沖の波も 岸辺の波も 静かなので
      魚を獲ろうとして 藤江の浦に 舟が賑わい、騒いでいる )

当時、播磨灘に面した明石の沖は鮪が沢山獲れ、製塩も盛んだったようです。

ここでは「釣る」とあるので、勇壮な1本釣り。
古代遺跡から、手のひら大の骨製釣り針が古代遺跡から出土していることも
そのことを裏付けています。
また古事記に

「 大きな魚(うお)よ 鮪(しび)突く 海人よ
  その大魚が逃げたら さぞや恋しく悲しかろ
  鮪を突いていろ シビ(人名)さんは 」

との記述があり、銛で突く方法もあったようです。

 「 船傾き 阿吽(あうん)の呼吸で 鮪(まぐろ)釣る 」     楓 巌涛

鮪(まぐろ)の脂身は記憶能力,創造能力を高め、血栓を防ぐ物資が驚くほど
多く含まれていますが、古代人はどのようにして食べていたのでしょうか?

冷蔵能力がなかった時代、考えられるのは塩付けで保存し焼く、いわゆる
鮪のステーキ、あるいは煮る、乾燥させる。
いずれにしても縄文時時代の貝塚から多数の骨が出土しているので、
万葉人の好物だったことは間違いありません。

江戸時代になると、握りずしが考案され鮪が飛躍的に普及しましたが
好まれたのは赤味のみ、脂身のトロは捨てられるか、豚の餌に。
大トロが超高級ネタになったのは戦後の高度成長期以降のことです。

ごく最近の新聞記事で「赤マグロ価格高騰」とありました。
乱獲による資源大幅減が原因のようですが、庶民にとっては何よりのご馳走。
秩序ある漁法で食卓を賑わせてもらいたいものです。

   「 遠つ海の 幸の鮪を 神饌となす 」  黒田 晃世


            万葉集657(万葉人は鮪がお好き)完


   次回の更新は11月12日(日曜日)、通常(金曜日)より遅くなります。

 
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by uqrx74fd | 2017-11-02 17:17 | 動物