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万葉集その三百七十八(山の辺の道:三輪山)

(大神神社の大鳥居:後方は三輪山)
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( 大神神社春の大祭 三つの茅:ちがやの輪をくぐって参拝する)
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( 同上:拝殿の神官と巫女)
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( 三輪山 ) 
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( 三輪山 ))
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( 山辺の道の花々)
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( 同上 )
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( 同上 )
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私たちは「磯城瑞籬宮跡」(しきみずがきのみやあと)の参拝をすませ、木漏れ日の
坂道を歩きだしました。
鬱蒼と茂る木々を渡る風がひんやりと頬を撫でてゆきます。
恐らく山の中腹あたりなのでしょう。
ほどなく細い道に掛かる石橋を渡ると平等寺です。
このお寺は581年の創建で、十一面観音信仰発祥の地とされ、かっては
本堂ほか12房舎の大伽藍を有し三輪社奥の院とされた古刹ですが、
明治時代の廃仏毀釈のあおりでことごとく打ち壊され、昭和52年に復興されたそうです。

建てられたばかりのような新しいお堂を巡り一礼を捧げてさらに進むと、
急に視界が大きく広がり、耳成、畝傍の山々が浮かび上がってきました。

参詣の方々なのでしょうか、人の行き来が多くなり大神神社が近づいてきたようです。
山の辺の道がそのまま境内に導かれるような脇の入口から入ると、
まず目に付くのは玉垣に囲まれた二股の巨大な杉の老木とその洞に棲むと
いわれる蛇に供えられているお酒や卵の山。
蛇は祭神の化身とされ地元では「巳(みい)さん」と親しまれている由ですが残念ながら
お目にかかったことがありません。
一説によると2mをこえる青大将が4,5匹とか。

「 啓蟄の 地卵供ふ 三輪の神 」 棚山波朗

はるか1300年前には神さびた杉や神酒が恋の歌として詠われています。

「 味酒(うまさけ)を 三輪の祝(はふり)が 斎(いは)ふ杉
           手触れし罪か 君に逢ひかたき 」

       巻4-712(既出)  丹羽大女娘子( たにはのおほめをとめ:伝未詳)


( 三輪の神官があがめる杉、その神木の杉に手を触れた祟りでしょうか。
  あなたさまにお逢いできないのは。)

「味酒(うまさけ)」は美味しい酒の意、「三輪」に掛かる枕詞で、
古くは神酒を「ミワ」といったことによります。
祝(はふり)は神官のことで、老杉が神木と詠われているのは神の拠りどころと
されているからです。

円錐形の秀麗な姿の三輪山(467m)は古来神の中の神として崇められてきました。
拝殿は老杉の奥にありますが、三輪山そのものがご神体とされているので
神殿はありません。
古代は拝殿すらなく三輪山を直接礼拝していたことでしょう。

山は遠くから拝すると鬱蒼とした緑に包まれていますが、その下には
神の依り代である巨大な磐座(いわくら)があり
 大物主命(おおものぬしのみこと) の奥津磐座(おきつ いわくら)
 大己貴命(おほなむちのみこと)  の中津磐座
 少彦名命(すくなひこなのみこと) の辺津磐座(へつ いわくら)
即ち三座の巨岩が重なりあい、結界が張られています。

不思議なことに、周りの山々は花崗岩から成っているのに三輪山だけが異質の
斑糲岩塊(はんれいがんかい)という硬質の岩であるため長年の侵食から免れ、
それが太古から変わることなき円錐形の美しい姿を維持している要因とされているのです。
まさに神の山たる所以なのでしょう。

「三輪山へ 今日の柏手の 涼しさよ」 白茅

667年、飛鳥から近江の大津に都が遷されました。
称制、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇) は白村江
(はくすきのえ)の戦いで唐、新羅軍に大敗(663年)した後、朝鮮半島からの
来襲に備えて国内の防備を固めるとともに、飛鳥の旧勢力と一線を画し
民心一新を図ったようです。

称制とは新帝が即位の式を挙げないままに政務をとることで事実上の天皇です。
近江という地を選んだのは、新羅、唐の使者は何度も来日しており、
難波から都への道を熟知していたので侵攻が容易であると思われたことと、
近江は琵琶湖を通じて東北、北陸との交通の便に恵まれ、大和とも淀川の支流、
宇治川(瀬田川)と木津川によって結ばれていること、さらに味方である
高句麗は日本海を渡って近江を通行していたなどによるようです。

ところが、皇子の意図に反して多くの官人が抵抗し、百姓は動揺、放火や
非難の童謡(わざうた)が絶えなかったといわれています。(日本書紀)
( 註:童謡: 時事を風刺し異変の前兆をうたう民間の流行歌)
古来から大和一帯に定着していた都。
民百姓の生活もここに深く根付いていたのですから無理もありません。
それでも皇子は遷都を強行しました。

いざ近江へと長い列が山の辺の道を進んでゆきます。
国つ神と都を見棄てて行くのですから尋常なことではありません。
あまりのことに三輪の神様のお怒りもさぞや激しいものであったことでしょう。
聖なる山はたちまち雲に隠れてしまいました。

やがて一行は国境の奈良山の峠に掛かりました。
峠を越えるとそこは異境、道の神に幣帛を奉って旅の安全を祈るとともに
故郷に別れを告げ、大和の神、三輪山を慰撫しなければなりません。
額田王は皇子から歌を捧げることを仰せつかり詠いだしました。

「 味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の
  山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積もるまでに
  つばらにも 見つつ行(ゆ)かむを  しばしばも 見放(さ)けむ山を
  心なく 雲の 隠さふべしや 」 
                             巻1-17 額田王

「 三輪山を しかも隠すか 雲だにも
   心あらなも 隠さふべしや 」 
                    巻1-18 同上


長歌訳文(1-17)
( 三輪の山が 奈良山の間に隠れてしまうまで、
  道の曲がり角の 幾重にも重なるまで よくよく見ながら行こうと思っている山
  何度も何度も眺めたい山であるのに 薄情にも雲が隠してよいものか。
  雲よ隠さないでくれ ) 

短歌訳文(1-18)

( あぁ、三輪の山 この山をなぜそのようにして隠すのでしょうか。
 せめて雲だけでも思いやりがあってほしいのに、
 隠したりしてよいものでしょうか。
 どうか姿を見せて下さい )  

語句解釈
 「あをによし」: 奈良の枕詞 「青丹」は染料、顔料に用いられた
           岩緑青の古名で奈良に多く産した
 「奈良の山」:  山城と奈良の国境の山 歌姫越えの奈良山と般若寺越えの
           奈良坂説があり、奈良坂の方が高く見晴らしが良い。
 「山の際(ま)」: 山と山の間 
 「道の隅(くま)」: 道の曲がり角
 「つばらにも」:  つまびらかに 十分しっかりと
 「しかも隠すか」(1-18) : なんでそんなにも隠すのか 

前途への恐れと不安。
何とか神の怒りを解かなければ新天地での政ごとや民の生活は祝福されません。
長歌の結句五、三、七「 心なく 雲の 隠さふべしや」に強い気持ちが籠り
さらに短歌でも「隠さふべしや」と繰り返されます。

大和は作者にとって幼い頃に育った故郷であり、大海人皇子と契り十市皇女をなした
思い出の地です。
もう再び見ることが出来ないのか、一目だけでも姿を見せて欲しい。
愛惜の情、万感せまるものであったことでしょう。

遷都を終えた天智天皇の近江朝。
やはり大和の神を慰撫できなかったのでしょうか
壬申の乱によってわずか5年で滅び、都は再び奈良に遷りました。

「月の山 大国主命(おおくにぬしのみこと)かな」 阿波野青畝

私たちはさまざまな感慨を込めながら参拝を終え、境内の休息所で
暖かいお茶を戴きながらしばし疲れを癒した後、狭井神社に通じる坂道を歩きだしました。
行く先々で三輪山の姿を振り返り、振り返り、古代のきらびやかな行列に
思いを馳せながら額田王が辿った道を進んでゆくことになりましょう。

「 めでたさの 三輪のうま酒 温めつ」 高野素十
               

# by uqrx74fd | 2012-07-01 00:00 | 万葉の旅

万葉集その三百七十七(山の辺の道:敷島の大和)

(山の辺の道の花々)
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( 金屋の石仏 yahoo画像検索より)
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( 山の辺の道の花々 )
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( 平等寺 )
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( 志貴御県座神社:しきの み あがたいます じんじゃ)
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( 同上説明板)
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( 神社後方の山々 奥の高い山は音羽山)
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( 山の辺の道 )
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海柘榴市観音をあとにして広い通りに出ると古風な家のたたずまいが続いています。
家々の玄関先には美しい鉢植えが置かれ、庭先のツツジも美しい。
道脇の小さな水路には澄み切った水が勢いよく流れ込み、その涼やかな音に
心も洗われるようです。

「右 山の辺の道」の指標に従って細い道に入ると畑と民家の先に「金屋の石仏」と
よばれる御仏二体を奉ったお堂が右手に。
格子窓を通して拝観すると花崗岩に刻まれた2,2mの等身大の釈迦、弥勒像が
安置されています。(重要文化財に指定)
石棺の上に刻まれた平安後期の作と推定されていますが、その穏やかで凛としたお顔と
波形の法衣をまとう立ち姿は棟方志功氏が「大和中の仏像を含めて日本の最高品の一つ」と
絶賛されている逸品です。

一礼を済ませてさらに野道を進むと坂道の手前に「山の辺の道 右大神神社」の標識。
左へ少し下ったところには樫や杉が茂った森の中に南面する社、志貴御県座神社
(しきのみあがたいますじんじゃ)がひっそりとたたずんでいます。
創建730年、祀られているのはアマツニギハヤノミコト(天津饒早日命)だそうですが
詳しい由来はよく分かっていません。
重要なのはその拝殿の西側に史跡「磯城瑞籬宮跡」(しきみずがきのみやあと)、即ち
10代崇神天皇の宮跡の碑があることです。
( 実際の跡は少し離れたところにある天理教の大きな建物と小学校あたりらしい)

うっかり見逃してしまいそうな地味な存在ですが、この地こそ我が国古代王権が
確立され、日本を別称する言葉として使われた「磯城島(敷島)のやまと」の
発祥の地なのです。
保田興重郎氏は次のように述べておられます。

『 三輪川をさしはさんで瑞籬宮(みずがきのみや)や金刺宮のある景色は、
かなたに雄略天皇の朝倉宮の泊瀬の谷がのぞまれ、谷あひの北は多武峰、
また南は忍坂(おさか)の山、倉橋の山がこの都の東側に聳え、南には鳥見山、
多武峰の山、そして三輪山の日おもての山麓が都の地である。
その三輪山のふもとを廻って、山裾の西側をのびてゆくのが、山の辺の道であった。
瑞籬宮は国の初めの土地である。

その風景の美しさは、国と民のふるさとという情緒に彩られる。
ここから拝する泊瀬川の谷あひを昇る日の出の姿が「日出づる国」の
となへのもとである。
国といふことばと土地といふことばとは、遠い太古には同じ意味だったのである。』
               (  長谷寺、山の辺の道 新学社より)

「 敷島や やまと島根も 神代より
     君がためとや かためておきけむ 」 
                      よみ人しらず 新古今和歌集


( この日本の国も神代の古から わが君の御為に神々が作り固めて
 おかれたのでしょうか。)

神話時代からの歴史の悠久性を詠うことによって祝歌としたもので
本歌は次の万葉歌です。

「 いざ子ども たはわざなせそ 天地(あめつち)の
    堅(かた)めし国ぞ 大和島根は 」   巻20-4487 藤原仲麻呂


( 皆々の方々、たわけた振る舞いなどは決してなさって下さるな。
 この島国大和は天地の神々が造り固めた国ですぞ )

757年宮中の豊明節会宴席での歌、当時朝廷は、橘奈良麻呂の反逆事件を
鎮圧したばかりで、「たはわざ」とは正気でない行い即ち帝に背くことをさし、 
孝謙女帝の気持ちを代弁して詠ったものと思われます。

万葉集で「敷島の」と詠ったものは純情な乙女の愛の歌です。

「 磯城島(しきしま)の 大和の国に 人さはに 満ちてあれども
  藤波の 思ひもとほり 若草の 思ひつきにし
  君が目に 恋ひや明かさむ 長きこの夜を 」 
                          巻13-3248 作者未詳

  「磯城島の大和の国に 人ふたり 
             ありとし思はば 何か嘆かむ 」
                        巻13-3249 同上
 作者未詳

長歌訳文
( この磯城島の大和の国に 人はたくさん満ちあふれていますが、
  藤の蔦が絡みつくように思いがからみつき、若草のように瑞々しいあなたに
  心が寄り付き、貴方ただお一人にお逢いしたいと、そればかり思い焦がれて
  まんじりともせず、この長い夜を明かすことになるのでしょうか ) 13-3248 
    
語句解釈

「もとほる」: めぐる、まつわる 
「思ひつきにし」: 自分の思いが相手の上にばかりとりつく
「目に恋ふ」: 相手に逢いたいと想い焦がれる

短歌訳文
 ( この敷島の大和の国にあなたと同じ人が二人いると思うことができるなら
  なにをこんなに嘆くことがありましょうか。
  ほかに誰もいないからこそ こんなにも嘆くのです。 ) 13-3249

「人ふたり」 自分にとり他に二人といないかけがえのない人の意で、
作者は男につれなくされ、一晩中ため息をついて悩んでいるのでしょうか。
あるいは、何らかの事情で通えぬ男を案じているのかもしれません。
ただ一筋の恋という思いが強く感じられる名歌です。

「人ふたり」という言葉の解釈に誤解が多く、犬養孝氏が大学の試験問題に
この歌を出したところ、
「この大和の国は天皇、皇后両陛下さえいらっしゃれば何で嘆くことがあろうか。
戦争で負けたけれど何の心配もない」 真面目に書いたり
「この広い日本の国に、私とあなたの愛し合う二人さえいると思うなら何で嘆こうか 」とあったが、
私が愛するのは、ただあの人だけという愛情一すじの歌であると
強調されておられます。 (万葉のいぶき PHP)

「 万代(よろづよ)の 春のはじめと 歌ふなり
     こは敷島のやまと人かも 」 太田垣漣月


古事記によると、崇神天皇が瑞籬宮にあった当時、疫病が蔓延し民の半分が
犠牲者になったと言われています。
また、諸国で豪族が争乱して治安も乱れ、国は崩壊寸前でした。
色々手を尽くしましたが、よい解決策がありません。

悩みに悩みぬいた天皇は遂に神様に縋るほかないと決意し、精進潔斎して
神意を問うたところ、夢の中に大物主神が現れ

「このたびの疫病の流行は私の意思によるものである。汝がこの病を止めたいと
思うなら意富多々泥古(おおたたねこ)をもちいて我が前を祭れ。
そうすれば国も安らかになるであろう」 と告げました。

目を覚ました天皇は早馬を四方に放ち、意富多々泥古(おおたたねこ)を
探したところ、河内の美努村(みののむら)で見つかりました。
素性を聞くと大物主神がイクタマヒメに生ませた子の子孫だったのです。
天皇は大いに喜び三輪山に大物主神を祀りオオタタネコを神主としたところ、
お告げ通り疫病はぴたりとおさまりました。

しかるのち、軍隊を北陸、東海、丹波に派遣して反乱を平定し人々の生活を
安定させ、さらに国の礎を築くために民から色々な品を貢納させます。
徴税の始まりです。
これに拠って崇神天皇は三輪山の祭主となり、各地の神と豪族を従えて
絶対王権を確立したのです。
服従した豪族や民から武器をすべて供出させ天理の石上に兵器庫を建てて
保管しましたが、司馬遼太郎氏によると「はるかな後世、桓武帝のときこれらを
京都に移したが人夫14万7千人を要した」(街道をゆく1甲州街道、長州路ほか)
そうで、如何に強大な権力を握ったかが窺われます。
豊臣秀吉の刀狩はこの故事に倣ったのでしょうか。

「 大和座(います) 大国魂(みたま) 霞立つ 」 川崎展宏

保田興重郎氏が語られた美しい山並みとその裾野に広がる平野の雄大な景観は、
今や前に建ち並ぶ家々に遮られ、往時の眺めを望むべくもありませんが、
このあたりは北緯34度32分線の近く、即ち太陽の道にあたる(水谷慶一氏)とされ、
古代祭祀遺跡の立地条件を無言のうちに教えてくれています。

空を見上げると三輪山から上った太陽は西の二上山の方角に向かっています。
私たちは次なる訪問地、大神神社へと木立が鬱蒼と茂る坂道を登ってゆきました。
あとわずか500mで神の山に到着です。

「 山の辺の 道のはじめの 草雲雀(くさひばり) 」 深川知子

# by uqrx74fd | 2012-06-24 07:52 | 万葉の旅

万葉集その三百七十六(山辺の道:海石榴市:つばいち)

( 海石榴市 馬井手橋から 正面は忍坂山(おさかやま)
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( 古代の市 奈良万葉文化館より )
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( 同上 )
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( 歌垣 奈良万葉文化館より)
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( 海石榴市観音への道 )
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( 海石榴市観音 )
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( 金屋への道 4月上旬)
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( 野辺の花  同上 )
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( 海石榴市で、木瓜(ぼけ)の花 同上)
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山の辺の道は古代大和朝廷の時代に開かれたもっとも古い道で、
三輪山の南麓、海柘榴市(現桜井市金屋)を起点として北へ進み、
青垣の山裾を縫いながら天理の石上神宮までの約16㎞、さらに奈良へと
全長およそ30㎞の道のりです。

周辺の山や川、野や里の風景が美しく、梅、桜、桃、椿、菜の花、
レンゲ、ツツジ、山吹、銀杏 柿の木、コスモス、曼珠沙華、そして
秋の七草など、四季折々の木々花々が私たちを迎えてくれ、また、
古代遺跡や名所旧跡も多く点在し、神話や古代ロマンの世界へ
誘(いざな)ってくれます。

海柘榴市(つばいち)はJR、近鉄桜井駅から北東2㎞のところにあり、
このあたりは古代、崇神天皇の「磯城瑞蘺宮」(しきみずがきのみや)や
7世紀頃の欽明天皇「磯城島金刺宮」(しきしまかなさしのみや)が営まれた
跡だそうです。

私たちは今、この海柘榴市で三輪山を見上げながら大和川(初瀬川)の
ほとりにいます。
馬井手橋(うまいでばし)の中央に立ち、南に向かうと、左手に三輪山の裾野、
中央に忍坂山(おさかやま:現、外鎌山) 、右手にはひときわ高い音羽山。
かえりみると、遥か彼方に二上山と葛城山。
その山に向かって流れる一筋の川は古代難波の淀川にまで続いていたのでしょうか。

目の前の何の変哲もない情景からは想像も出来ないことですが、かって
この地は、百済の使節が難波から大和川を船で遡行して上陸し、我国に
初めて釈迦仏と経典をもたらした(538年)仏教伝来の地であり、608年には
遣隋使小野妹子が隋の使者を伴って帰国した時、朝廷は錺馬(かざりうま)
75匹を仕立てて盛大に出迎えた国際色豊かな舞台でもありました。

当時の川幅は恐らく今の倍以上あり、大船が航行できるほどの満々たる水を
たたえ、多くの船が行き来していたことでしょう。
今はただ当時の栄華の跡を偲ばせるよすがとして河川敷に馬の置物が
あちらこちらに置かれているのみです。

「 みもろの 神の帯(お)ばせる 泊瀬川(はつせがは)
    水脈(みを)し絶えずは 我れ忘れめや 」 
                           巻9-1770 古歌集


( 私はこれから遠方へ参りますが、三輪のみもろの山の神が
 帯にしておられる泊瀬川、この川の流れが絶えない限り
 ここを忘れることがありましょうか。決して忘れはいたしません。)

詞書によると702年大神神社の宮司、大神大夫が長門守に任ぜられたとき
三輪山の麓を流れる初瀬川のほとりで宴をした時の歌とあります。

作者は持統天皇が吉野行幸を計画された時、「今は秋の収穫期、民に迷惑が
掛かるので中止せよ」と職を賭して諫言した硬骨漢。
天皇の怒りに触れて左遷されたのかもしれまません。
送別の席で「この美しい故郷を忘れまい。必ず戻ってくるぞ」との
強い気持ちが籠る一首です。

「みもろ」は神の来臨する場所をさす言葉で「み+むろ(室)」ないし
「み+森」と理解されており、ここでは三輪山をさします。
また、大和川は流れる場所によって初瀬川、三輪川ともよばれていました。

聖なる三輪山が帯にして佩いていると讃えられた川は大和平野を潤し、
多くの人々の生活の糧を与え続けてきたことでしょう。

「椿市(つばいち)は、大和にあまたある中に、長谷寺に詣づる人の
 必ずそこに止(とど)まりければ、観音のご縁あるにやと、
心ことなるなり。」 ( 清少納言 枕草子14段) 
  :心ことなる:格別

海柘榴市は東の道が伊勢、南は飛鳥、西は難波、北は奈良、京洛に通じる
古道が交わり四通八達した要衝(ようしょう)の地であり、さらに外港まで
整備されていたので様々な物産が集まり、物々交換を行う大規模な市が
立ちました。
海石榴市(つばいち:椿)という名は当時の市は露天であったため、
木陰を確保するために椿の街路樹が植えられていたことに由来します。

市が開かれれば人も大勢集まります。
ましてや聖なる三輪山の麓、春秋の季節には歌垣が盛大におこなわれました。
多くの男女がこれという相手を求めて歌を掛け合い、互いに結ばれる機会を
作っていたのです。
「 海石榴市(つばいち)の  八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し
     結びし紐を 解かまく惜しも 」 
                              巻12-2951 作者未詳

( 海柘榴市のいくつにも分かれる辻に立って、広場を踏みつけ踏みつけして
 踊ったときにお互いに結び合った紐 。
 その紐を解くのは惜しくてならないわ。 )

八十の衢:諸方へ四通八達に道が分かれる要衢の辻

踊りながら歌を交換していたものでしょうか。
歌垣はフリーセックスの場といえども互いの愛を誓って結びあった紐を
解くのはためらわれる。
腹に巻きつけた一本の紐とはいえ貞操の証を解くのは神を恐れぬ行為。
やはりきちんと結婚を決めてから解きたいと願う純情な乙女です。

なお、この歌の大地を踏みならす動作は

「 乙女らに 男立ち添い 踏み平(な)らす 
    西の都は 万代(よろずよ)の宮 」 (続日本記 称徳天皇770年)


と詠われているように、のちには国の平安を祈る呪術的動作として、
儀式化されたようです。

「 紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 
    八十(やそ)の衢(ちまた)に逢える子や誰(た)れ 」
                          巻12-3101 作者未詳(既出)

( 紫染めには椿の灰を加えるものです。
 海石榴市の分かれ道で出会ったお嬢さん! 
 あなたは何処のどなたですか?
 お名前を教えてくれませんか? )

紫染めの触媒に椿の灰汁(あく)を使います。
この歌では紫を女性、椿の灰を男性の意を含めて“混わる”すなわち結婚の
誘いかけをしています。
当時は女性の親だけが知っている「本名」と「通り名」があり本名を
男に告げることは求婚の承諾につながりました。
さて女性はどのように返事をしたでしょうか?

「 たらちねの 母が呼ぶ名を申(まお)さめど
     道行く人を 誰(た)れと知りてか 」 
                   巻12-3102 作者未詳(既出)


( 母が呼ぶ名前を申さないわけではありませんが、でもどこのどなたか
  分らない行きずりの方にそう簡単にお教えすることなど出来るもので
  しょうか?)

ラブハントは当然の事と声をかけた男に対して、
「教えないわけではないが」と思わせぶりに気を引いておいて、
やんわりと断った女性。
どちらも機知ある魅力的な問答で、多くの人たちに愛唱されたことでしょう。

「 海柘榴市の乙女のさげし若菜籠 」 有馬朗人

私たちは、楽しそうに歌う乙女の様子を思い浮かべながら
人家と田畑に挟まれた細い道に向かって歩き出しました。
いよいよ山辺の道へ出発です。

ほどなく村の路傍に「海柘榴市観音道」の石標が見えてきました。
民家の間をぬって進むと奥に小さな観音堂がひっそりとたたずんでいます。
格子窓を通して拝するお堂の中には1500年代のものと伝えられる二体の
小さな石仏が安置されていますが、み顔は黒ずんでいてよく見えません。
毎月27日の観音講には地元の人たちが集まって線香や花を供えて御詠歌を
唱え、小豆粥を戴きながらお堂の中で夜を過ごすそうです。
前の衝立には
「 ありがたや われらのねがひ かなやなる
        名もつば市の ここのみほとけ 」

と書かれています。
そうです。
「海柘榴市」という名を唯一残したみ仏。
それは、古代と現在を繫いでくれている細い細い一筋の糸なのです。

私たちは繁栄の極みであった古の街の面影を頭に描きながら、
お堂に一礼をして次なる目的地へと歩んで行きました。

「 海柘榴市の 野路に飛び交ふ 虫や何 」 佐藤春夫

# by uqrx74fd | 2012-06-17 07:56 | 万葉の旅

万葉集その三百七十五(明日香:橘の寺)

( 明日香朝風峠より 耳成山 左後方二上山)
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( 明日香朝風峠より 稲渕の棚田 )
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( 秋の棚田:稲渕 )
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( 橘寺全景 )
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( 秋の橘寺 )
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( 橘寺二面石 悪面)
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( 橘寺二面石 善面)
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( 橘寺で)
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近鉄飛鳥駅を下車すると、そこは幻の古都の跡。
のどかな田園風景がひろがり、なんとなく1300年前の世界に舞い降りたような気分です。
普段は、てくてく歩きの明日香ですが今日は車でちょっと遠出。
まずは稲渕を目指します。

高松塚古墳を左に見ながら緩やかな登り坂にかかると、耳成山が目に飛び込んできました。
ぽっかりと浮かびあがった青いシルエットはまるで海に浮かんだ島のようです。
いつもは1時間も掛かって登る朝風峠にわずか10分で到着。
峠の切り通しに降り立つと程よい日差しの中、爽やかな薫風が通り過ぎてゆきました。
はるかに棚田が広がり青々とした早苗がさざ波のように揺れています。

「 朝風に靡くみどり、若き早稲田の稲穂
  日輪の光に映ゆる 姿たのもし 」  
         (永遠なるみどり 田中千恵子作詞 西条八十補 古関裕而作曲)


思わず口ずさんだこの歌は、50年前に神宮球場で声を大にして歌った応援歌。
今日は年来の学友たちとの万葉の旅なのです。

車はゆっくりと田園の中を走り、稲渕の入口で小休止。
飛鳥川の上に張られた男綱の中央に巨大な男根の形をしたものが揺れています。
上流の女綱と対になっており、子孫繁栄と五穀豊穣を祈り悪疫を防止する村の守り神です。

近くの南淵請安の墓へと進みます。
この辺りは帰化漢人が大変多かったところで、請安(しょうあん)もその一人でした。
608年、遣隋使小野妹子に従って留学生として隋に渡り、32年間もの間滞在して
儒教などを学び、帰国後、南淵(稲渕)に居を構え、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、
のちの天智天皇)や藤原鎌足に儒学を教えたと伝えられている人物です。
小高い丘の上の桜の木の下で眠る先生にしばし黙祷を捧げて再び車中に。

吉野に通じているこの道は、かって天武天皇、持統女帝が若かりし頃、また近世では
芭蕉や本居宣長が歩いたと伝えられていますが当時はまだ険しい山道。
さぞ難儀なことだったでしょう。
やがて、栢(かや)の森に到着。
女綱が奇形を見せながら飛鳥川の上でゆらゆらと揺れていて、なんとなく
蠱惑的(こわくてき)な風景です。

「 勧請縄張る村境 蛍とぶ 」 田辺洋子

このあたり一帯は人家も少なく、飛鳥古京の面影を強く残したところで、
万葉人は次のように詠っています。

「- 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし
   春の日は 山し見が欲し 秋の夜は 川しさやけし
   朝雲に 鶴(たづ)は乱れ  夕霧に かはづ騒(さは)く -」
                      巻3-324(長歌の一部 山部赤人


( 明日香の古い都は山が高く 川は広くて大きい
 春の日はずっとその山を眺めていたいし 秋の夜は清かな川の音に聴き入る
  朝雲の中、鶴が乱れ飛び、 夕霧の中で河鹿が鳴き騒いでいる )

(語句解釈) : 「明日香の古き都」:飛鳥清御原宮 「とほしろし」: 大きい
          「見が欲し」:  見たい  「かはづ」: 河鹿(かじか)

田園風景を満喫し、石舞台を経て飛鳥の中心で静かな佇まいを見せる橘寺へ。
聖徳太子創建7ヶ寺の1つであるとともに太子誕生の地とも伝えられているみ寺です。
別名「仏頭山上宮院菩提寺」ともいい、太子が推古女帝に勝鬘経(しょうまんぎょう)を
講じたとき、寺の南側に仏頭の形をした山が出現し、三尺の蓮の花が空から降ったと
いう奇瑞(きずい)に由来する山号だそうです。
建立当時は寺運の隆昌をみせ、東西8丁(872m)、南北6丁(654m)の境域を有し、
60余の殿堂を備えていたそうですが、680年「橘寺の尼の房(いえ)に 失火(ひつき)て
十房(いへとを) 焚(や)きき」(日本書紀)とあり、火災で多くの堂塔が失われました。
またこの記述から当時は尼寺だったことが窺えます。

今は白い壁に囲まれたこじんまりとした佇まいの中、創建当時の名残として
礎石と二面石、そして万葉歌1首が残るのみですが、驚いたことに、なんと! 
その歌は寺で少女を犯したという歌なのです。

「 橘の 寺の長屋に 我が率寝(ゐね)し 
    童女放髪(うなゐはなり)は 髪上げつらむか 」
                             巻16-3822 古歌


( 橘のあの寺の坊さんたちの寝る長屋で、おれが一緒に寝たおぼこ娘は
 あの垂れていた髪を上げてしまっている娘になっただろうか )

童女放髪(うないはなり)は8歳位から15~16歳ごろの少女の振り分け髪をいいます。
どうやら寺僧が詠んだものと思われますが、僧が尼寺に忍び込みで見習いをしていた
少女を無理やり犯したものなのでしょうか?
それとも当時は尼寺ではなく、寺男が少女を宿坊に連れ込んだものなのでしょうか?
いずれとも判じかねますが、永井路子氏は想像逞しく以下のように詳細に解説して
おられます。

『 橘寺の長屋に引っ張り込んでなかば暴力的に犯したあの子、まだ十になるやならずの
 おかっぱのあの子は、胸もふくらんでいず、むきだしにされた股(もも)のあたりにも、
 性の萌(きざ)しもないくらいだった。
 が、あれから数年、いまごろあの子も、もうおとなになって、髪を上げたかなぁ。
 何も知らない少女を連れ込んでいたずらしたのはだれなのか。
 そのあたりの農民かそれとも寺の奴隷か。
- だれにも内証、ほんとに内証、、、

 こんなふうに肩をすくめていう男は、おそらく少女と同じ年頃の若者ではなくて
 すこし年上の男のような気がする。

 さすがにこれをひどい歌だと思ったのだろう。
 こんなただし書きがあり、歌を書き直している。

[  寺の中は俗人の寝所ではないから、こんなことをするはずがない。
  また若い女ですでに髪を上げたものを「放:はなり」というから、
  この下に「また髪上げつらむか」という言葉がくるのはおかしい。
  だから次のように改める。 〕

「 橘の 照れる長屋に 我が率寝(ゐね)し 
    童女放髪(うなゐはなり)に 髪上げつらむか 」
                  巻16-3823 椎野長年


こうなれば橘の実の輝いていた長屋で、私がいっしょに寝たあの童女は
もうはなり髪に髪をあげたろうか、という意味になる。

がわたしは古歌のほうが面白いと思う。- -
いささか淫猥(いんわい)でどぎつい歌だが、しかし今のポルノと違ったたくましい
野放図さと言葉の豊かさがある。
これに比べると千語、万語を費やしたポルノ小説がいかに言葉貧しく、内容も
おそまつだということがわかると思う。
こうしたたくましさ、おおらかさに、いまさら戻ることは、現代人には不可能かも
しれない。
が、それだけに「万葉」のこの世界は日本人にとって、ひとしお貴重なのである。』
                               (  万葉恋歌 光文社より ) 

「 二面石 悪面撫でる 善(よ)き児かな 」   筆者

本堂の礼拝が終わり奇石二面石へ。
左悪面 右善面とあり、人間の心の善悪両面を伝えるものだそうです。
明日香には猿石、亀石、鬼の俎板など不思議な石が点在しますが、一体誰が
どういう目的で造ったのかよく分かっていません。

折柄、小学生の集団に出会いました。
「こんにちは」「こんにちは」とそれぞれ礼儀正しく挨拶をしてくれます。
こちらも挨拶を返しながら
「君たちこの石は何か知っている?」
「知りません」
「これはねぇ、人間には良いことをしようという気持ちと
 悪いことをしようと言う気持ちがあり、いつも心の中で戦っているの。
 だから、良いことをしなさいと教えてくれているんだよ。」
「わかりました。有難うございます」

と礼儀正しくお辞儀をして去る子供たち。

「 あぁ、この学校は礼儀や言葉遣いをしっかりと教えているのだな。
わが国もまだまだ捨てたものではないのだ。」 
と清々しい気持ちになってこの寺を後にしたことでありました。

「 丘飛ぶは 橘寺の燕かも 」 水原秋桜子

# by uqrx74fd | 2012-06-10 05:20 | 万葉の旅

万葉集その三百七十四(こもりくの泊瀬)

(長谷寺登廊)
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(長谷寺本堂)
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( 牡丹が満開)
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( 春の長谷寺 )
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近鉄大阪線の朝倉、長谷寺あたりはその昔「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)」即ち
「山々に囲まれた地」とよばれていました。
万葉集巻頭を飾る雄略天皇の宮が営なまれたと伝えられる「朝倉」から「長谷寺」に
向かう電車は「たたなづく青垣」とよばれるに相応しい山々の裾野を進んで行きます。
長谷寺駅で下車し、み寺に向かって歩くこと15分。
この道は伊勢街道に通じており、かっては殷賑を極めた門前町だったそうです。

家々の前には細い水路がひかれ涼しげな音を立てています。
古びた旅館は花街の名残を偲ばせ、軒下に杉玉を飾った酒屋に並ぶ地酒
「八咫烏(やたがらす)」もなんとなく由緒ありげです。
店々の棚には、三輪そうめん、吉野葛、湯葉が並び、食欲をそそる「よもぎ餅」の
美味しそうな香りも漂ってきました。
民家の玄関前には牡丹の鉢植えが所狭しと並んで彩りを添え、竹の秋の風情も美しい。

日本書紀は雄略天皇がこの地を訪れ次のように詠われたと伝えています。

「 隠国(こもりく)の泊瀬の山は 出で立ちのよろしき山 
  走り出の よろしき山の 隠国の泊瀬の山は 
  あやにうら麗(ぐは)し あやにうら麗し。」
 
     
( 泊瀬の山は 体勢(なり)の見事な山 山裾の形もよい山。
  何とも言えないくらい美しい。 実に美しい。 )

万葉人も負けじと詠います。

「 泊瀬川 白木綿花(しらゆふばな)に 落ちたぎつ 
     瀬をさやけみと 見に来(こ)し我れを 」 
                          7-1107 作者未詳


( 泊瀬川が流れ落ちて砕けるさまはまるで白い木綿花のようだ。
 その清々しい瀬を見たくなってまた訪れたよ。)

古代、泊瀬川は川幅広く水量も豊富でした。
山の上から滝のように流れ落ち、激流逆巻く水泡。
木綿花は木綿(もめん)ではなく楮の皮の繊維で作った布を榊の枝に結んで
花に見立てたもので、神祭りのときに用いられていました。
「さやか」という言葉にも神に対する敬虔な気持ちがこもります。

「 こもりくの 豊泊瀬道(とよはつせじ)は 常滑(とこなめ)の
   かしこき道ぞ 汝(な)が心ゆめ 」 
                   巻11-2511 柿本人麻呂歌集


( こんもりとした谷あいの泊瀬の道は、いつもつるつるとした滑りやすい道です。
 そんなに急いでは危険です。 気を付けて下さいね。)

この歌は男が久しぶりに恋人に「今夜訪ねるぞ」と使いを遣り

「 赤駒が 足掻(あがき)き早けば 雲居にも 
    隠(かく)り行かむぞ 袖まけ我妹(わぎも)」 
                         巻11-2510 同上


( 俺様の赤栗毛の馬はあっという間に雲に隠れてしまうほどに速いんだ。
  今夜、すっ飛んで行くから寝床の支度して待っていろよ。)

と言ったのに対して 
「早く来てくれるの嬉しいけれど気を付けてね」と思いやったものです。

 明かりもない山道、危険を承知の上での馬の早駆け。
 勇み立ち、心はやる男の様子が目に浮かぶようです。

「 こもりくの泊瀬の山に 照る月は
   満ち欠けしけり 人の常なき 」
                    巻7-1270 古歌集


( あの泊瀬の山に照っている月は 満ち欠けを繰り返している。
 人も同じだなのだなぁ。 
 いつまでも変わらないという事はありえないのだ。)

ハセは初瀬、泊瀬、長谷とも書きますがいずれも正しいとされています。
初(ハツ)は「初め」、泊は「終わり」、「長谷」は「狭くて長い谷」の意があり
その地形にかなっているからです。
従って「こもりくのはつせ」は「山々に囲まれた長い谷」、霊験あらたかなる観音様を
拝して心機一転の「新しい人生の初まり」、そして「人生の泊(とま)りどころ」すなわち
「生涯の果て」である墓所が営まれた「霊異のこもる地」でもあります。

この歌の作者が人生無常を感じていたのもそのような背景があったからでしょう。

「 香に酔へり牡丹3千の花の中 」 水原秋櫻子

長谷寺の山門から上を見上げると、そこには日本一美しいといわれている
三百九十九段の登廊(のぼりろう)。
低い石段の左右にはその数7千株を越す赤、黄、ピンク、紫、白、など
色とりどりの牡丹が真っ盛りです。
この豪華絢爛にして雄大な牡丹園は元薬草園だったらしく、移植されたのは
元禄時代からと伝えられています。

「 白牡丹 咢(がく)をあらはに くづれけり 」 飯田蛇笏

上の方から勇壮な法螺貝が聞こえてきました。
西国巡礼を引率してきた僧が一心不乱に吹き鳴らしているのです。
まだ慣れないせいか時々音づまりさせ、首をかしげているのも微笑ましい。

やがて、木造としては我国最大、10mもある巨像、十一面観音が鎮座まします本堂に到着。
岩盤の上に立つ男性的な御姿は観音菩薩と地蔵菩薩が合体した他に類のない仏像で、
右手に錫杖、左手に華瓶(けびょう)を持ち、現生利益(りやく)と極楽浄土の先導をされるといわれる
有難い御本尊です。
観音信仰は奈良時代後期から盛んになり、平安時代に大流行しました。
特に人気第一の長谷寺へは女性が競って参詣し、源氏物語、枕草子、更級日記、蜻蛉日記
などの舞台にもなっています。

礼拝を終わって崖につきだした露天の舞台へ。
そこに立って見はるかすパノラマの眺望は雄大で素晴らしい。
初瀬、巻向、天神の山々。
初瀬川が流れる谷間から山腹にかけて点在する堂塔伽藍。

春は桜、夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪、四季を通じて美しい山河に囲まれた母なる故郷
「こもりくの泊瀬」は昔も今も変わることなく私たちを迎え入れてくれているのです。

  「 此の寺のぼたんや旅の拾い物 」  几董(きとう:江戸時代中期)

# by uqrx74fd | 2012-06-03 07:37 | 万葉の旅