万葉集その三十九(富士)

「一富士 二鷹 三茄子」というよく知られた諺があり
「初夢に見ると縁起がよいもの」とされています。

その由来は徳川家康が領有した駿河の国の名物説など種々ある中で
次の説が最も説得力があるようです。即ち,

富士は「不死」に通じるので「不老長寿」

鷹は「高、貴」と訓が共通するので「出世栄達」

茄子は「事を成す」あるいは無駄花がなく実がたくさん出来るので
「子孫繁栄」をというものです。

富士山は万葉時代に噴火を繰り返した活火山でした。

633年、命知らずの役小角(えんのおづぬ)という修験道の祖が早くも
富士山に登頂し、
「そんな高い山に登ったのは世界初で、人類の到達した最高峰のこの記録は
8~900年間保持された」と深田久弥の「日本百名山」にも書かれております。

大和の宮廷歌人、山部赤人は東国への旅の途中、富士山を目のあたりにして
驚きと敬虔な崇拝の気持を次のように詠っています。長歌と反歌です。

 「 天地の分れし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる 富士の高嶺を 

    天の原 振り放(さ)けみれば 渡る日の 影も隠らひ 

    照る月の 光も見えず 

    白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 

    語り告げ言い継ぎ行(ゆ)かむ 富士の高嶺は 」     

                        巻3の317 山部赤人

   「 田子の浦ゆ うち出(い)でてみれば 真白にぞ 

      富士の高嶺に 雪は降りける 」    
                 巻3の318 山部赤人


(天地の分れた時からずっと神々しく高く貴い駿河の富士の高嶺を

天遠く振り仰いでみると空渡る太陽の光も頂に隠れ、

照る月の光もさえぎられ 白雲も流れなずんでいつも雪が降り積っている。

これからも語りつぎ言いついでいこう、富士の高嶺は) 

   ーーー (中西進:万葉集全注釈より一部修正)

( 田子の浦を過ぎて景色が見渡せるところへ出てみると、おぉーなんと!

 富士山がそそり立ち山頂が真っ白になるほどに雪が積もっているよ。

 これはすばらしい! 感激だ!) 

この歌は「吟誦してそのまま歌の価値を味わうことの出来るすぐれた調べを持っている。
簡潔で意をつくしておりかつ荘重にして明るい」(伊藤博)と評されている万葉屈指の
秀歌です。

まず長歌で、富士は悠久の昔から崇高、清浄、雄大に四方を睥睨してそそり立ち、
太陽の光も照る月も白雲も、行くのを躊躇する厳然たる存在であることを観念的に
述べ「雪は降りける」に焦点を集中していきます。

さらに「語り告げ言い継ぎゆかむ」と永遠の命を詠います。 
これを受けて反歌は
「田子の浦ゆ」とは田子の浦を通っての意で、「うちいでて」は眼前に障害物のない
展望がぱっと開けた地点に出た時の感じをいい、現在の薩捶峠(さったとうげ)あた
りからの眺望とされています。

紺碧の空、大きく広がるコバルトブルーの海、その中に屹立し、山頂に白雪を頂く
神々しいまでの富士。

峠を登っていた赤人の目に突然その雄大な景色が出現した時の感動は
如何ばかりだったでしょうか?

「語り告げ言い継ぎゆかむ」とは自然にわき出た言葉であっただろうと思われます。

ところで長歌、反歌で「雪は降りける」と二度繰り返されます。

現代の大雪は多くの災害をもたらすものとされていますが、万葉時代に雪が降ること
は豊作の瑞兆とされていました。

まして富士山に「止む事なく雪が降る」ともなればこれ以上の吉兆はありません。
従ってこの歌は富士山の美しさ、崇高さを讃えると共に

「大和の国の繁栄よ、永遠なれ!」と国土を讃えた歌でもあります。

なお、反歌は新古今和歌集、百人一首にも一部語句を変え山部赤人作として
採用されています。

「田子の浦ゆ うち出(い)でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」
                                      (万葉集)

「田子の浦に うち出(い)でて見れば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」
                                (新古今、百人一首)

新古今の歌は船に乗り海上から富士を見ており、しかも雪が現在進行形で降っています。

雪の間から富士山が見え隠れしている感じで、蒼空のもとに雪を抱いてそそり立つ
富士山のイメージは姿を消し、幽玄の世界といってもよい情景となりました。

万葉と平安時代の貴族たちの感性の違いが際立つ一首ですが、
改作された作者の赤人もさぞかし目を白黒していることでしょう。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:18 | 自然

万葉集その三十八(弓絃葉:ゆづるは=ゆずりは)

明治末期、口語自由詩を提唱した河井酔茗(かわいすいめい)は

「ゆずりは」と題する美しい詩をつくりました。

  こどもたちよ、これはゆずりはの木です。
  このゆずりはは 新しい葉ができると
  入れ代わって 古い葉が落ちてしまうのです。

  こんなに厚い葉 こんなに大きい葉でも
  新しい葉ができると無造作に落ちる、
  新しい葉に 命を譲って― 。

  こどもたちよ、
  おまえたちは何を欲しがらないでも
  すべてのものがおまえたちに譲られるのです。
  太陽のまわるかぎり 譲られるものは絶えません。

  世のおとうさん おかあさんたちは
  何一つ持っていかない。
  みんなおまえたちに譲っていくために、
  いのちあるもの よいもの 美しいものを
  一生懸命造っています。 

              (花鎮抄より部分抜粋)


「ゆずりは」は古代「弓絃葉(ゆづるは)」とよばれトウダイグサ科の常緑高木です。

春に出た新葉が成長すると前の葉がいっせいに落ち、新旧交代の特色が際立つので
「代を譲る」意で「譲葉(ゆずりは)」の名が付きました。

その名の由来から子孫永続の願いを込めて大晦日には生け花に用いられ、
またお正月のしめ飾りや鏡餅に添え、縁起物として使われています。

「いにしえに 恋ふる鳥かも 弓絃葉の
             御井(みい)の上より 鳴き渡りゆく」 
                       弓削皇子(ゆげのみこ) 巻2の111


「御井」は 聖なる泉

この歌は678年持統天皇が吉野に行幸された時、お伴した弓削皇子
(天武天皇第6皇子当時24歳)が都にいる額田王(当時63~64歳)に贈った歌です。

調べ美しく、格調が高い名歌とされています。

額田王は若くして天武天皇と結ばれ、十市皇女をもうけた後、
兄の天智天皇の寵愛をも受けた華々しいラブ・ロマンスの持ち主でありました。

一方、弓削皇子は持統天皇が自分の血筋(天武―草壁皇子―文武)に執着し、
他の諸皇子には厳しくあたる治世下にあって人一倍不安と哀愁を感じて
生きなければならない運命でした。

吉野にお伴した彼は天武天皇が在世中額田王と共に訪れ、しばしば遊宴を催した当時を
懐かしみ、また歌に弓絃葉を詠みこむことにより
時代の移り変わり、新旧交代する自然のあり方に感慨を示したものと思われます。

従ってこの歌の「いにしえ」とは皇子の父である天武天皇と若き額田王との
恋愛関係を指しています。

( 昔を恋うる鳥でしょうか。
  弓絃葉が茂る泉の上を今、よい声で鳴き渡っていきましたよ)

額田王は孫のように甘える弓削皇子に対して温かく、いとおしむような歌を返します。

「 いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす
             けだしや鳴きし 我(あ)が思(も)へるごと」  
                            額田王 巻2の112


ホトトギスには昔をしのんで鳴くという中国の故事があります。

( 皇子がお聞きになった鳥の声は恐らくホトトギスだと思います。
  丁度昔をしのんでいた私、同じ気持ちでホトトギスも鳴いたのでしょう)

「 年ごとに ゆづりゆづりて 譲り葉の
            ゆづりしあとに また新しく 」   河井酔茗


皆様、良き新年をお迎え下さい。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:17 | 植物

万葉集その三十七(駅伝)

今年も駅伝の季節がやってきました。

駅伝のルーツは古く「大化の改新」にまで遡ります。

646年大化の改新の詔が公布され律令制度が発足しました。

律は刑法、令は行政法で律令を統治の基本にしようというわけです。

それ以前の氏族制社会では各郡がそれぞれ独自の経済システムや

法律で版図を支配していました。

このような政治の仕組みを中国の制度も参考にしながら

中央集権社会、即ちすべてを中央の秩序、価値観に

統一しようと試みたのです。

この制度を円滑に運営するためには、中央や地方の情報を

速やかに行き来させることが必須となります。

即ち古代情報化社会への移行です。
そこで、まず幅6~12mの7つの幹線道路を整備し、

関所を設けました。

更に幹線道路には16kmごとに駅(駅家=うまや)を置き、

馬を常時5~20匹用意して官用に供し(駅馬)、宿泊、給食、

給水設備も完備しました。

又これとは別に伝馬という逓送用の馬も各郡に置き公用の

役人に使わせたのです。

駅馬には鈴を付け(駅鈴)、官の通行証とサイレンの役割を果たし、

リィーン・リンと鈴を響かせながら馬を走らせていました。

次の歌は都の役人が早馬を走らせ、駅家で休息しょうとした時に

うら若く美しい乙女を見かけて声をかけたものです。

「 鈴が音(ね)の 
     早馬(はゆま)駅家(うまや)の 堤井(つつみい)の
     水を給(たま)へな 妹が直手(ただて)よ 」 

                   巻14の3439 作者未詳



「堤井」周りを堰で囲み湧き水などを溜めた水汲み場 

「直手」 手から直接に

( 鈴が響き渡る駅、その宿場で一休みしましょう。

 お嬢さん水を頂けませんか?いえいえコップなんか結構です。
 貴女の綺麗な手に水を汲んでそのまま飲ませて頂戴ね。)

この駅家制度は戦国時代から更に江戸時代へと引き継がれ幕府、

領主の公用に供し、民間の輸送にも用いられました。

それと共に手紙、金銭、小荷物をリレー式に運ぶ飛脚制度が考案され

足の速い韋駄天が日本全国を走り廻るるようにになります。

かくして駅馬、伝馬、飛脚からヒントを得て競技としての

駅伝競走が誕生し、1917年(大正6年)世界最初の駅伝が開催されました。

この大会名は「東海道五十三次駅伝徒歩競争」といい関西、関東2チームが

参加し、4月27日午前11時に京都三条大橋を出発、23区508kmを走り抜き、

翌々日の29日午前11時34分にようやく上野不忍池に到着しました。

今もなお、この競技のスタートの地、京都三条大橋とゴール上野不忍池界隈に

「駅伝発祥記念碑」が立っています。

更に3年後の1920年、長距離選手の育成を目的として「箱根駅伝」

(正式名 東京箱根間往復大学駅伝競走) が誕生しました。

82回目を迎えるこの行事は毎年テレビでも放映され、

新年に彩りを添えてくれています。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:16 | 生活

万葉集その三十六(歌垣)


古代に歌垣という行事があり、東国地方では「かがい」と

よばれていました。

「かがい」とは歌を掛け合い、踊るといった意味です。

本来は豊作を祈ったり、豊年であったことを感謝する行事でありましたが

次第に歌を仲立ちとした男女の求愛の場となり、

性の解放も許されていたようです。

とりわけ筑波山の歌垣は全国的に有名で春秋2回の行事には都から役人が

視察に来たという記録も残っています。

伝説歌人といわれる高橋虫麿呂は当時の様子を次のように語っています

「鷲が住むという筑波の山奥に裳羽服津(もはきつ)というところがある。

その場所にお互い声を掛け合って誘い合わせた男女が多数集まり、

大いに歌い、且つ踊り実に楽しそうだ。

このような晩には俺も人妻に交わろう。俺の女房には他人も言い寄るがよい。

これはこの山を支配する神様が遠い昔からお許し下さった行事なのだ。

何をしても咎めだてしてくれるなよ 」    (巻9の1759の長歌を抄訳)



「男神(ひこかみ)に 雲立ち上(のぼ)り 時雨降り

   濡れ通るとも 我れ帰らめや」 巻9の1760(高橋虫麿呂歌集)


 「男神」 は筑波山西側の男体山

( 男神の嶺に雲が湧き上がり 時雨が降ってびしょ濡れになろうとも

 楽しみ半ばで帰ったりするものか。今夜はとことん交わるぞぉ )

この歌垣という行事は筑波山のみならず日本各地で行われており、

摂津の国(兵庫)の鄙人(田舎者)夫婦にまつわる面白い話が残っています。

摂津の国住吉というところで行われた歌垣に

「人妻におれも交わろう 他人も俺の女房に言い寄るがよい」と

心を弾ませて出かけた夫婦がいました。

当時は夫婦別居の習慣(男の通い婚)でお互い現地待ち合わせです。

鄙人の妻は毎日家業に明け暮れ、汗にまみれた真っ黒な山妻でした。

彼女は今日は歌垣ということで日頃の身なりとは打って変わり、

めかせるだけめかし、顔に厚化粧をし、年に似合わぬ派手な装いに

着飾っていきました。

ところが現地で妻を見た夫は彼女のあまりの変貌とその美しさに

息をのみ且つ驚嘆し

「他人の妻に我は交じらはむ」の勢いはどこへやら。

衆人の前で「どうだ、俺の女房は美人だろう。凄いだろう」と

大いにのろけたということです。

「住吉(すみのえ)の 小集楽(をづめ)に出(い)でて うつつにも

    おの妻(づま)すらを 鏡と見つも」 

            巻16の3808 (作者未詳)

 「小集楽」は歌垣の集い

( 住吉の歌垣の集まりに出かけてきたが、夢ではないか。いや現実だ。

  ピカピカと鏡のように光り輝く女。我が妻ながら大いに見直したぞ。

  どうだ諸君。美人だろう、わが女房殿は!)

ところがどうやらこの鏡のごとく光り輝く妻の姿はあくまで鄙人の夫だけに

映った美しさだったらしく、不必要な厚化粧、ど派手に着飾った妻の姿は

他人から見れば随分と滑稽な姿だったようです。

ところが夫はそのようなことに気が付かずただただ美しいと見て

のぼせ上ってしまいました。

だからこそこの夫婦は「鄙人の夫婦」だったのです。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:15 | 生活

万葉集その三十五(十二月:しはす)

「しはす」は一般に「師走」と書きますがこれはどうやら
「当て字」のようです。
この「当て字」の歴史は古く、なんと平安時代に出現しています。

従って
「十二月には法師を呼んで経をあげる習慣があり、
僧が忙しく走りまわる師馳(しはせ)が訛って師走になった」という説も
些か「こじつけ」といえましょう。

然しながら「師走」は当て字とはいえ既に1000年以上も
使用され続けており、現在では立派な冬の季語になりました。

さて、この「しはす」という言葉は既に万葉当時から存在しています。

その語源は不明とされていますが江戸時代の新井白石は
「年果ツ」即ち「四季が果つる」意とし専門家ではこの説の支持者が
多いようです。
「大言海」には「万事為(な)し果つ月」また「農事終わる」とあります。

山形地方では「済む」ことを「シム」といい借金を済ますことを「シマス」と
言うそうです。
山形のある駅で 「おちる(降りる)人がしん(済ん)でから、お乗りけらっしゃぃ」と
放送したという笑い話も残っております。

このように「しはす」という言葉は色々と研究された結果、現在では
「万事、終(しま)はし=済まし」「万事、為(し)果つ」とが
「シマシ」→「シワシ」→「シハス」と転じたのではないかと推定されています。


さらに、元々暮の数日間を意味していたものが、1ヶ月を表す言葉に変わりました。


「 十二月(しはす)には 沫雪(あわゆき)降ると 知らぬかも

     梅の花咲く 含(ふふ)めらずして 」

 巻8の1648 紀小鹿郎女「きの をしかの いらつめ」


(紀小鹿郎女は大伴家持の女友達で10歳年上ともいわれている)

薔薇の蕾(rosebud)には「年頃の美しい乙女」という意味があります。
この歌の「ふふむ」も蕾のままでまだ開かない状態をいい「美しい少女」を
暗示しているようです。

「ふふむ」は本来「ふくむ」即ち口の中に何かを入れるというものですが
その口がふくらんだ様子から蕾がふくらむに転じた言葉です。

また、沫雪は淡雪(やわらかく消えやすい雪)ではなく牡丹雪(ボタ雪)のことです。

( 梅の花は十二月(しはす)に大きな牡丹雪が降るということを知らないのかしら。

 気が早いのね。もう、ちらほら咲き始めているわ。

 何もそんなに急がないで蕾のままでいればいいのに)

早く咲いた梅の花へのいたわりの思いが強く作者の優しい人柄が
滲み出るような歌です。

ところがこの歌の「ふふむ」から「梅の花」を「乙女」、
沫雪を「思いやりのない男」と見立てると

「 まだ清らかな乙女を思いやりがない男が恋をさせてしまった。
もうしばらく蕾のままにしておけばよいのに 」とイメージが一変します。
(窪田空穂、万葉集評釈をもとに意訳)

「早咲き梅への優しい思いやりを詠ったもの」「乙女を早咲きさせた思いやりのない
男に対してちょっぴり非難を込めた歌」あるいは「表裏両方の意味を含む歌」と様々
な解釈が可能なところにこの歌の面白みがあります。

なお、万葉集で「十二月・しはす」という言葉が出てくるのはこの歌一首のみです。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:14 | 自然