万葉集その二十五(秋の七草)

日本の野山は今まさに百花繚乱の美しさです。

1270年前、山上憶良は数ある花の中から秋を代表する
七種の草花を歌に残しました。

「 秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)

  かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 」 巻8の1537


 「 萩の花 尾花葛花(くずはな) なでしこの花

   おみなえし また 藤袴(ふじばかま) 朝顔の花 」 
                  巻8の1538


 二首で一組になっており、朝顔は現在の桔梗とされています。

 従来、この歌は「内容そのものは全くの記載文であって別に
 取り上げる程の特色のないもの-土屋文明」という評価を受けていました。

 ところが万葉研究の第一人者である伊藤博は一首目の「指折り」と
 二首目の「また」に注目し、

 この言葉は「あだやおろそかに用いられたはずがない」と
 指摘され画期的な解釈を発表されました。

 即ち「指折り(およびをり)」という言葉は子供に呼びかける俗称で
 「指を折り数えている動作の投影」 「また」とは指を折り数えていて
 5本の指になったところで別の手に変えて数える動作であるとされたのです。

 以下は 伊藤博 解説の大意です。


 時は730年秋。憶良は筑前の国守で71歳。

 当時国守にはその属郡を巡行して百姓の生活、風俗を観るという任務があった。
 この二首も配下の某郡を巡行中、野に遊ぶ子供を目にして呼びかけた言葉、
 その言葉を忠実に投影する歌であったのではなかろうか。

 憶良は花をちぎっては駆け巡る筑紫の子供達に、世に言う秋の七草の花の名
 をつい教えたくなったのであろう。

 とすればこの二首からは秋の光の爽やかに注ぐ野原で大勢の子供達の前に
 相好を崩しながら秋の七草を数え挙げている好々爺憶良の微笑ましい姿を
 思い浮かべることができよう。


 ( 秋の野に咲いている花 その花をいいか、こうやって指を折って数えてみると

 七種の花 そら七種の花があるんだぞ ) 巻8の1537



 ( 一つ萩の花 二つ尾花 三つに葛の花 四つなでしこの花 うんさよう

 五つにおみなえし。ほら それにまだあるぞ 六つ藤袴 七つ朝顔の花

 うんさよう、これが秋の7種の花なのさ) 巻8の1538


伊藤博はこのようにして1270年前の憶良の歌に新たなる生命を
吹き込まれたのです。

時代は変わって昭和10年。時の文人達が
「秋にはもっと美しい花があるではないか、新しい七草の花を選ぼう 」
と新・秋の七草を発表しました。

 「 秋桜(コスモス) 菊 葉鶏頭 彼岸花 白粉花(おしろいばな) 
 秋海棠(しゅうかいどう) 赤飯(あかまんま=イヌタデ) 」 です。

 そうした試みにも拘らず今では「新秋の七草」を知る人も少なくなり、
 万葉時代から受け継がれてきた憶良の秋の七草は今もなお微動だに
 しない地位を占め続けています。

注1、 山上憶良(660~733): 701年42歳の時遣唐使として中国に渡る。
 721年その学識を認められ東宮待講として首皇子(おびとのみこ=のちの
 聖武天皇)の教育係を務めた。万葉初期、大伴旅人と並ぶトップ知識人。
 出自を百済系渡来人とみる説もある。

注2、 短歌は 五七五 七七 を基本形とするが、旋頭歌は
    五七七 五七七を基本形とする。
    万葉集に初めて見える歌体で上三句と下三句を二人で
    掛け合い唱和していたが、やがて一人で詠うようになった。
    本稿の巻8の1538は旋頭歌。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:04 | 植物

万葉集その二十四(漱石の草枕)


 「山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ、
 情に棹させば流される--」の名文で始まる夏目漱石の草枕。
 

峠の茶屋で主人公と老婆が次のような会話を交わします。

「昔しこの村に長良の乙女という美しい長者の娘がござりましたそうな」
「へえ」
「ところがその娘に二人の男が一度に懸想(けそう)して、あなた」
「なるほど」
「ささだ男に靡こうか、ささべ男に靡こうかと女はあけくれ思い煩ったが、
どちらへも靡きかねてとうとう

 ーあきづけば おばなが上に置く露の けぬべくもわは おもほゆるかもー

 という歌を詠んで淵川へ身を投げて果てました」

余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、
こんな古雅な話を聞こうとは思いがけなかった。(草枕第二章)

今回は万葉歌ー漱石ーシェイクスピアの三題噺です。

 「 秋づけば尾花が上に置く露の 
    消ぬべくも我(あ)れは思ほゆるかも 」 巻8の1564


作者の日置長枝娘子(へきながえをとめ)は 大伴家持が青春時代に交友が
あった女性の一人で、この歌は家持と掛け合いをして「楽しんでいる」ものです。

(秋めいてくると尾花の上に露がおきます。
 その露のように今にも消え果ててしまいそうに
 私はあなたのことが、この上もなく切なく思われます)

話は変わって古代から摂津の葦屋(兵庫県芦屋市)に伝わる妻争いの説話。

「摂津の葦屋に莵原処女 (うないおとめ) という美しい娘がいました。

数多くの男が言い寄りましたが、最後まで望みを捨てずに争った男が二人。
一人は同郷の莵原壮士(うないおとこ) 
一人は隣国和泉の信太壮士(しのだおとこ)

娘は信太に心を傾けていましたが、信太がよそ者なので同村の若者達の
妨害を受け 遂に思い余って入水して果ててしまいました。

すると二人の男も負けじと娘の後を追って果てたのです。
後世の人は哀れに思い、娘の墓を真ん中にして左右に男の墓を建てて
弔ったそうです」

これは万葉時代に有名な説話だったようで、万葉集にも多くの長歌と短歌が残され
ています。
その中からの短歌一首、

 「 いにしえの信太壮士(しのだをとこ)妻問し 
    莵原処女(うないおとめ)の 奥津城(おくつき)ぞこれ」

              田辺福麻呂巻9の1802

 ( はるか遠くの時代の信太壮士がはるばる妻問いにやってきた菟原処女の
   お墓がここなのだよ )

漱石は「尾花が上に置く露の消ぬべくも我」という歌を、日置長枝娘子より深刻に
「命が消える我」という意味に置き換え、更に、この歌とは直接関係がない
万葉集に伝わる説話を、場所と名前を変えた上で
 (草枕の場所は熊本県小天「おあま」) 
新しい悲恋物語として茶屋の老婆に語らせました。

最後に話は大きく三転します。

ロンドンのテイト・ギャラリーに ジョン・E・ミレー作の「オフイーリャの面影」
という絵があります。
シエイクスピァ作 「ハムレット」の女主人公の入水の場面です。

漱石は、ロンドン留学中に見たこの絵に強烈な印象を受けました。

その結果「草枕」で、峠の茶屋の老婆の悲恋物語に、万葉集・シェイクスピア
を想い、 万葉説話の菟原処女とオフイーリヤの入水場面とを重ね合わせて、
主人公に春の夜の夢を見せるという幻想的な場面を登場させたのです。
(草枕第三章)

ここに万葉集の伝説の美少女は、漱石の「草枕」によってはるか彼方の
ハムレットのオフイーリャと結びついたのであります。

余談ですが、アメリカで発生した第2のハリケーンの名前はオフイーリャ。
余程ハムレットの好きな人が名付けたのかしらん。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:03 | 生活

万葉集その二十三(虫のシンフォニー)


「あれ松虫が鳴いている チンチロ チンチロ チンチロリン

 あれ鈴虫も鳴き出した リンリン リンリン リーンリン

 コロコロ コロコロ こおろぎや 

 ガチャガチャ ガチャガチャ くつわ虫」 

     (作者未詳:虫の声より一部抜粋)


万葉人は秋に鳴く虫をすべて蟋蟀(こおろぎ)と呼んでいました。
マツムシ スズムシ クツワムシと呼びわけ、その鳴く音を聞分けるという
風流気はまだ彼らにはありません。

平安時代になると堂上貴族による虫の聞き分け遊びや
競い合わせ競技がおこなわれそれぞれの名前が付けられたのです。

いわば万葉人は虫の音をシンフオニーとして聴き、平安人はソナタとして
聴いたとでもいえましょうか。



「 草深み こおろぎ多に(さわに) 鳴く屋前(やど)の

     萩見に君は 何時か来まさむ 」 
               巻10の2271 作者未詳


「多に」は数多くという意味で、

「庭のこおろぎや萩が見頃、聞き頃ですよ」と男の来訪を促しています。

 お互いの関係が濃密で相許す親愛の気持ちがよく表われた歌です。


( 草深い我家の庭で虫がたくさん鳴いています。萩も満開です。
  あなた何時お出でになるの? 早くお会いしたいわ。早く来て!)

「夕月夜(ゆうづくよ) 心もしのに 白露の

 置くこの庭に こおろぎ鳴くも 」 
             巻8の1552 湯原王


作者の湯原王(ゆはらのおおきみ)は天智天皇の孫、
志貴皇子の子で親子共に気品のある秀歌を多く残しています。

「心もしのに」とは心も萎れてしまうばかりにと言う意味で心情の世界と

夕月夜、白露、こおろぎ、という自然の景とが融合して染み入るような
感じをうちだしており、佐々木信綱は

「 情緒細やかにして玲瓏たる歌調、風韻豊かな作である。
  作者の感じた秋のあわれは千年の時の隔たりを超えて
  今日の読者の胸臆(きょうおく)にもそっくりそのまま流れて
 沁みこむ思いがする」

と解説されています。

なお平安時代、松虫と鈴虫とは今の我々とは名前が逆になっていました。
チンチロリンが鈴虫でリンリンが松虫。

現在でも地方によってはこのままの名前が使われているところもあるようです。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:02 | 動物

万葉集その二十二(秋の香)

秋の香りと言えば松茸。
今や国産ものは匂いだけで辛抱しなければならない程高価で
縁遠くなってしまいました。

茸の歴史は古く縄文時代後期(4000年前)まで遡ります。

古代人はキノコの毒の有無を判別する知識を苦い経験によって蓄え、
万葉時代に松茸は既に大いに食され又好まれてました。

焼いて醤(ひしお―醤油の原型)を付けたり、塩をふったり、また現在で云う
松茸飯や吸い物にしてその香りと歯ごたえを味わったものと思われます。

 「 高松の この峰も狭(せ)に 笠立てて

      満ち盛(さか)りたる 秋の香のよさ 」 

           巻10の2233 作者不詳


高松は奈良の高円山(たかまどやま)。
全山に足の踏み場のない程にびっしりと生い並ぶ松茸。
その松茸が今を盛りとかぐわしい芳香を放っている様子を
詠ったもので、今日では想像も出来ない光景です。

(高円山の峰も狭しとばかりに、まぁ見事に茸の傘が立ったことよ。
 眺めもさることながらこの香りの良さ。早く食べたいものだなぁ)

江戸時代でもまだ松茸は健在で

「 松茸の 山かきわくる 匂ひかな」 支考 

などと詠まれています。

昭和初期でも松茸飯は大衆食でした。

「 取り敢えず 松茸飯を焚くとせん 」 虚子

草間時彦の「食べ物俳句館」によると

「この句が作られたのは昭和9年。
その頃松茸飯は一膳飯屋の食べ物だったのである。

だから虚子の句も不意の来客で何もないし、銭も乏しい。
八百屋で松茸を買ってきて松茸飯。
それに豆腐の味噌汁、大根の漬物。
そんなところで.....。というのがこの句の取り敢えずなのである」

と解説されています。

 古き良き時代のお話です。

その後 松茸は昭和28年頃を境に急速に日本の山々から
姿を消してしまったようであります。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:01 | 植物

万葉集その二十一(河鹿:かじか)

清流に鈴を転がすように鳴く「かじか」。河鹿と書きますが実は蛙の一種です。
雄のみが「フィフィフィフィフィフィ、フィーフィー」と鳴き雌を求めます。


古代の人達もこの美しい声を楽しみながら詠いました。
当時「かはづ」といえばすべて河鹿蛙のことで、平安初期から他の種類の蛙と
混同し始めいつの間にか蛙全般を指すようになりました。

「 神(かむ)なびの 山下響(とよ)み 行く水の

 かはづ鳴くなり 秋と言はむとや 」 
               巻10の2162 作者未詳


河鹿は晩春から鳴き出して初秋には鳴きやみます。
「神なび」とは神の籠るところで奈良の三輪山、川は飛鳥川と推定されています。

( 神なびの山下も鳴り響くほどに流れ行く水の中で河鹿がしきりに鳴いている。
 もう秋だと言おうとしているのかなぁ )

 「上(かみ)つ瀬に かはづ妻呼ぶ 夕されば

  衣手(ころもで)寒み 妻まかむとか 」 

               巻10の2165作者未詳
 

万葉人も河鹿がなくのは雄だけと知っていたようです。
作者はただ1人いる淋しさを河鹿に託して詠っています。
「まかむ」は枕にする意で共寝の事です。

( 上の瀬で河鹿がしきりに妻を呼んでいる。
  夕方になると衣の袖のあたりが寒いので
  妻と共寝しょうというのであろうか )

「 佐保川の清き川原(かわら)に鳴く千鳥

    かわづと二つ忘れかねつも 」 

         巻7の1123 作者未詳


( 佐保川の清らかな川原で鳴く千鳥と河鹿。忘れようにも忘れられないなぁ。
  早く旅を終えて家に帰りたいよ )

佐保川は春日山に発し、奈良市を西南に流れる川で千鳥と河鹿が名物と
されていました。

今は千鳥も河鹿も姿を消し、桜並木と柳が往時をしのばせてくれています。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:00 | 動物