万葉集その二十(蜩:ひぐらし)

 「 また蜩のなく頃となった。

      かな かな、 かな かな。

      どこかに いい国があるんだ。」

          山村暮鳥 詩集「雲」より


 夏と秋が行き交う頃、蜩蝉が高く美しい声で鳴き始めます。
 そしてこの厳しい残暑の最中でも、野山の萩は健気に咲き乱れています。

「 萩の花 咲きたる野辺(のへ)に ひぐらしの

  鳴くなるなへに 秋の風吹く」 

           巻10の2231 作者不詳


 ( 野辺は萩の花が一面に咲いているよ。あぁ蜩の声が聴こえてくる。
  おおーぅ秋風が吹き抜けていく。ひんやりとして気持ちがよいなぁ)

  「なへに」は同時に進行する様を表します。


 次は「蜩は夜明けや日暮れに時を決めて鳴きます。
 しかし私は片思いのため一日中鳴いているのです」
 というユニークな歌。


 「 ひぐらしは 時にと鳴けども 片恋に

    たわや女(め)我は 時わかず泣く 」 

        巻10の1982 作者不詳

 男はずっと訪れて来ない。今夜も来る当てはないのでしょう。
 毎日泣き続けてきた女のある日の夕方の感慨を詠ったもので
 しんみりとした可愛い女性の歌です。

 746年、大伴家持は越中国守として着任しました。
 妻を残しての単身赴任です。
 望郷の思いにふけっていた頃、着任の挨拶と歓迎を兼ね国守の館で 
 宴席が設けられました。
 越中の役人である部下が次のような歌を詠んで家持を慰めます。

「 ひぐらしの 鳴きぬる時は をみなえし

 咲きたる野辺(のへ)を 行きつつ見べし」

 巻17の3951 秦忌寸八千島「はだのいみきやちしま」


 何の変哲もない歌のようですが、「おみなえし」に「おみな」「女」を掛けている
 のが分かると意味が一変します。

 「都も良いでしょうが、越の国の女も悪くないですよ」と言っているのです。
  やりますね。万葉人の役人も。

 (ひぐらしの鳴いているこのような淋しい時には女郎花が咲き乱れる野辺を
 そぞろ歩きしながらその美しい花(女)をじっくり愛でるのがよろしいですよ、
 大伴さん。)

 この宴以来、父、大伴旅人の筑紫歌壇に対する家持の越中歌壇ともいうべき
 風雅な営みが繰り広げられていくのです。


 注: 山村暮鳥(やまむら ぼちょう) 18841924 群馬生まれ
 「三人の処女」「風は草木にささやいた」「雲」等の詩集がある

  10の1982のたわや女の歌は色々な読み方があり定まっておりません。

 「ひぐらしは 時と鳴けども恋ふるにし たわやめ我は時わかず泣く」

 「ひぐらしは 時と鳴けども恋ひしくに たわやめ我は定まらず泣く」

 この稿は「伊藤 博」の解釈に従いました。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 09:59 | 動物

万葉集その十九(立てる白雲)

雲といえば ヘルマン・ヘッセの郷愁(ペーター・カーメンチント)

 「 広い世の中に私よりも雲をよく知っていて、
   私以上に雲を愛している男がいたら、その男を見せてもらいたい!

   あるいは、世の中に雲よりも美しいものがあったら、それを見せてもらいたい!
   あぁ、雲よ! 美しく浮かび漂う休むことのない雲よ! 」 
                               郷愁 (佐藤晃一訳)


 万葉人も雲を見て恋人を想い、又自然の美しさを詠いました。
 今回は山の雲、海の雲のお話です。

 「 あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに

         弓月(ゆずき)が嶽に 雲立ちわたる 」 

   巻7の1088 柿本人麻呂歌集(人麻呂作と推定)


 (さらさらと流れる川音を聞きながら歩いていると、急に波音が大きくなった。
  ふと上を見ると雲がぐんぐん大きくなり動いていく。)

 まさに驟雨が襲い掛からんとする状態。
 鳴り響く声調の中に山水の緊張関係は更に深められ、
 躍動するその自然の力は神秘的ですらあります。
 その堂々とした力感と格調の高さは万葉の名歌中の名歌とされています。

 「鳴るなへに」とは鳴るとともにという意味で、聴覚から視覚へ移りまた
 視覚から聴覚へと動的な変化を見事に表現しています。

「 大海(おおうみ)に 島もあらなくに 海原(うなはら)の

     たゆたふ波に 立てる白雲 」 

               巻7の1089 作者未詳


 692年か702年、持統天皇伊勢行幸の時、お供の人が作った歌で、
 初めて海を見たときの驚きと感動を詠ったもの。

 大和人にとって雲は、島や山の上に立つものとばかりと思っていたようです。

 ( 見晴らすかぎりコバルトブルーの海、波がゆらゆら絶え間なく揺れ動いている。
  見渡しても見渡しても島一つないなぁ。
  おおっ!むくむくと入道雲が立っているよ、なんと素晴らしいのだろう! 海と雲よ!)

 海も青、空も青、その海上の一画に真っ白な雲を生き生きと踊り出させた歌で
 「お供の人でこのような調べをなす人がいたとは誠に尊敬すべき事である」
 と齊藤茂吉も絶賛しています。

 そして初めて海に感動した万葉人は海を彼女の土産にしたいと詠うのです。

「 伊勢の海の 沖つ白波 花にもが

    包みて妹が 家づとにせむ 」 

   巻3306 安貴王(あきのおおきみ)


 (波が花ならいいのになぁ。包んで彼女のお土産にするのに)


 注: あしひきの; 山に掛かる枕詞 山々が重なるさま
    弓月が嶽: 奈良県三輪にある巻向山の一番高いところ。
            神木とされた欅が多く自生していた。
            川は巻向川で禊のための神聖な川とされていた。
    家づと:    家包み(いえつつみ)の意で土産
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 09:58 | 自然

万葉集その十八(秋の風吹く)


暦では8月の初めはもはや秋。今年の立秋は8月7日です。
この日以降の暑さが残暑となります。
今回は風の音にちなむお話です。まずは古今和歌集の歌より。


「 秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 

   風の音にぞ 驚かれぬる 」 藤原敏行
 

あまりにも有名なこの歌は1100年前の立秋の日に作られました。
多くの日本人がこの歌を心の中で口ずさみながら秋を感じ、
立秋といえば「風の音」と云われるまでになったのです。

結句「驚かれぬる」は「はっと気がつく」という意味で
秋の季節感をまず最初に人々に告げ、知らせたのは風だったと
いうわけです。

時の移り変わりを目ではなく「風という気配」によって知るという発見は
後世の歌人に多大な影響を与えました。

この感覚はまさに日本人独特のものといってよく、
外国の人々には極めて難解なセンスでありましょう。

このように風をめぐる歌を文芸の世界にまで高めた萌芽は既に
万葉時代にありました。


 「 君待つと 我が恋おれば わが屋戸(やど)の

     簾(すだれ)動かし 秋の風吹く 」 

        額田王 巻4の448


 「 風をだに 恋ふるは羨(とも)し 風をだに

     来(こ)むとし待たば 何か嘆かむ 」

      鏡王女(かがみのおおきみ) 巻4の489


 額田王と鏡王女の秋の風をめぐっての恋の歌です。

 最初の歌は額田王が大津宮で天智天皇を思って詠んだ歌

 ( 天皇を恋しく思って恋焦がれて待っている。
  少しの音でもはっとするくらい緊張しています。
  すると簾がカサッと動いて風がスゥーと吹き渡っていく。
  待ち人いまだ来たらず。あとはただ静寂あるのみ。)


 人を待つという微妙な女心のゆらぎを素直に詠んだ名歌であります。


 さて2つ目の歌は鏡王女の歌です。

 ( あぁ秋の風、その風の音にさえ恋心をゆさぶられるとは羨ましいこと。
   風にさえ胸をときめかして、もしやお出でになるかと待つことが
   出来るなら何を嘆くことがありましょうか)

 どうにもならない自分のわびしい気持ちを詠っています。


 鏡王女は天智天皇に愛されていましたが後に藤原鎌足の正室になりました。
 この歌は藤原鎌足が亡くなった後の気持ちを詠んだ歌と推測されています。


 額田王の歌は初期万葉のものとしては優美、繊細、可憐な女心を詠っており
 研究者の間では中国の漢詩にも同様の趣旨の歌があり、後世の別人の作では
 ないかと疑問に感じている人もいます。

 いずれはともあれこの歌は後世に多大な影響を与え、以降、秋風の歌が盛んに
 詠まれるようになったのです。



 注: 額田王 鏡王のむすめ。天武天皇との間に十市皇女を生む

    鏡王女  鏡王のむすめ。額田王の姉ともされるが定かではない。
          一説には舒明天皇の皇女とも。
          夫、藤原鎌足が病のとき奈良、興福寺の建立を発願し、
          以降興福寺は藤原家の氏寺となる。


 
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 09:57 | 自然

万葉集その十七(良寛の歌の手本は万葉集)

良寛さんといえば子供達とひねもす手鞠つき。

歌もその春風駘蕩とした人柄を反映したものが多く、漢詩、和歌あわせて
2000もの作品、さらに素晴らしい「書」を残しています。

「今ここに生きる」「無欲」という道元の「正法眼蔵」の教えを忠実に実践した
清貧の人でもありました。

本が買えない良寛は人から借り、要点を書きとめ、その恐るべき記憶力で
心にかなった歌や表現をたちまち暗記し自由自在に使ったといわれています。

万葉集については「良寛禅師奇話」で
「歌を学ぶには万葉がよろしい。古今はまだ良いが新古今以下は読むに堪えず」
と明治の正岡子規を彷彿させるような歌論を述べています。

今回は良寛が如何に万葉集を駆使して歌を作ったか、所謂「本歌取り」のお話です。

(注): 本歌取りとは和歌、連歌などを意識的に先人の作の用語などを
     取り入れて作る事。
     背後にある古歌(本歌)と二重写しになって余情を高める効果がある。


まずは有名な手鞠歌と万葉の歌をご覧下さい「上段:良寛、下段:万葉集」


 「霞たつながき春日を 子供らと 手まりつきつつ この日暮らしつ」 良寛

    「霞たつながき春日を かざせれど いやなつかしき梅の花かも」

      巻5の846 小野氏淡理(おのうじのたもり)


 (霞立ち込める長い1日。ずっと髪に梅の花をかざしているが益々心が惹かれる事よ)

 更に、良寛歌最後の部分「この日暮らしつ」 も

  「春の雨に ありけるものを 立ち隠(かく)り 

      妹が家路に この日暮しつ」   
                巻10の1877 作者未詳
 

  から取っています。

 つまり、初めと終わりは万葉集からの引用で、良寛のオリジナルは
 「子供らと手まり つきつつ」だけながら全く新しい歌に生まれ変わっています。

 後の歌の意

 (濡れてもどうという雨でもないのに、木陰で雨宿りして、
  いとしいあの子のところへ行くのが遅くなってしまった。
  「春雨だ、濡れて参ろう」とやれば良かったなぁ。)

 次は風雅の友でもあり、有力な後援者でもあった阿部定珍(さだよし)が訪ねてきたが
 話し込んでいるうちに日が暮れてしまい慌てて帰ろうとする定珍を引きとめ、又帰路
 を気遣かった歌。

 冒頭の「月読み」とは月を数えるという意味で月の形で日数を数える事に
 基づくもの。転じて月のこと。

 「 月(つく)読みの 光を待ちて帰りませ 山路は栗のいがの多きに 」 良寛

     「月(つく)読みの 光に来ませ あしひきの 山きへなりて遠からなくに」

      巻4の670 湯原王(宴席で湯原王が女の立場で詠ったもの) 
 

  山きへなりて=(山経隔て) 山がへだてて
 
 (月の光をたよりにおいで下さい。山が隔てて遠いというわけではありませんのに)

 他に数多くの本歌取りがありますが、このようにTPOに応じて即座に自分の歌に取り
 込めるという事は万葉歌を完全に自家薬籠中のものにしていたと思われます。

 最後に、良寛晩年の恋について少し触れてみたいと思います。

 相手は美貌の貞心尼。長岡藩士の娘。18歳で医師に嫁ぎ離婚した後23歳で出家。
 良寛70歳、貞心尼30歳の時に出会い良寛74歳で没するまで歌物語を続けました。
 初めての出会いに、

「君にかく あい見ることの嬉しさも まださめやらぬ夢かとぞ思ふ」 (貞心尼)

「白妙の衣手寒し 秋の夜の 月中空(なかぞら)に澄み渡るかも」 (良寛)
 

なんとも初々しい歌、

 袖のあたりが肌寒いので驚いて外を見れば、秋の夜の月が早や天心に輝いており
 とうとう二人は明け方まで話し合っていたというのです。

 この時から4年の間、良寛は生涯最良の日々を過ごしたのであります。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 09:56 | 生活

万葉集その十六(鰻召しませ)

7月28日は「土用丑の日」

土用は土の気が強まる時で本来は春夏秋冬の四季それぞれの終盤
18日間を言います。
冬なら厳寒、夏なら猛暑が続き、春秋は季節の変わり目で
健康上用心が必要な時期とされていました。

丑というのがこれまた危ない。

方角で云うと東北にあたり丑寅といえば「鬼門」「丑三つ時」と言えば
お化けや幽霊がさまよう時間です。

災害や悪霊は全部鬼門から入ってくるといわれており,丑の日には
災害が起こる可能性が高いとされていました。

特に夏の土用は酷暑が続くと体力が消耗しやすく、
古代人にとってこの期間を無事に過ごすのは大変なことでした。

夏の土用をどのようにして乗り切るか?

丑の方角の守護神は玄武という黒い神様です。
そこで「黒いものを食べるという事におすがりしょう」となりました。
鰻、鯉、泥鰌、鮒、茄子、などを食べる習慣はこのようにして起こったのです。

今回は鰻にまつわる古代から近代までのお話です。

 「 石麻呂(いわまろ)に我もの申す 夏痩せに

      よしというものぞ 鰻(むなぎ)とり食(め)せ 」

         巻16の3853 大伴家持


石麻呂は本名を吉田連老(むらじのおゆ)といい家持の親友で
痩せの大食い老人でした。

痩男に頑丈な男を連想させる石麻呂というニックネームをつけたところにも
この歌の面白みがあります。

( 石麻呂さんよ どうしてあんたはこんなにガリガリに痩せているの?
  夏痩せには鰻がいいというから、鰻でも捕って食べなさいよ )

当時は鰻を丸ごと火にあぶって切り、酒や醤 (ひしお 現在の醤油の原型)で
味付けしたものに,山椒や味噌などを付けて食べていました。
現在のような蒲焼となるのは江戸時代の中期からであります。

時代は下って江戸時代。

俗説によると有名な蘭学者である平賀源内があまり流行らない鰻屋に
「お知恵拝借」と依頼され「今日は土用丑の日」と看板に大書して
店頭に掲げたところ,大評判になり江戸中に広まったと伝えられています。

それでは、お江戸のお笑を一席。( 小泉武夫著 食べ飲み養生訓 より)

『 鰻が買えない男が匂いだけでも効くのだと言って握り飯だけ
 鰻屋の前に持っていき、蒲焼の匂いを嗅いで鰻を食ったつもりで
 握り飯をがっついていました。

 それを見つけた鰻屋が頭にきて「匂いの嗅ぎ代 30文いただこう」と
 請求書を突きつける。

 しかし役者が何枚も上のケチな男は堂々と小銭で30文、
 ジヤラジャラと財布から取り出し、思い切り地面に叩きつけて 
 「鰻を食わせたつもりで金を取るなら金をもらったつもりで
 銭の音を聞いて戻らっしゃい」
 といって鰻屋を追い返したそうであります。』

 さて近代の歌人齊藤茂吉は極め付きの鰻好きでありました。

 彼は会食する時にすばやく他人の鰻と自分の鰻の大小を見比べて、
 時には「取り替えてくれないか」と相手にねだる事もあったと
 齊藤茂太さんなどが書いています。

 「 ゆうぐれし 机の前に ひとり居(お)りて

           鰻を食ふは 楽しかりけり 」 

               齊藤茂吉 (ともしび)より

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# by uqrx74fd | 2009-03-08 09:55 | 生活