万葉集その二十九(月の桂)

古代中国の俗信で「月に巨大な桂がある」という記述が
色々な書物に残されています。

桂は「香り高し」という記録から中国では主に木犀とされています。
この桂、雄雌があり日本では雄(オガツラ)は楓、雌(メガツラ)を桂と書き、
共に「かつら」と読みます。

万葉人もまた月に桂があると信じ次のように詠いました。

 「 黄葉(もみち)する 時になるらし 月人の
    楓(かつら)の枝の 色づく見れば 」 
         巻10の2202 (作者未詳)


月人とは月を擬人化したもので

 ( 秋ですね。月の中の桂が色づいて輝いていますよ。
   いよいよ紅葉の季節です)

月光が冴えてきたのを月の桂が紅葉したと見立てて
「色づく」と表現したのです。

では何故「月に桂」となったのでしょうか?

桂はその芳しい香りと共に冬でも枯れない優れた生命力を持っています。
古代中国人はその木を原料にして若返りの仙薬を作り
百薬の長として重宝しました。

同時に満ち欠けを繰り返しながら永遠の生命を持つ月のシンボルに
桂を据えたのです。

ところで私達にお馴染みの「兎さん」
中国の伝説ではその兎が杵と臼で仙薬作りをしていると考えられていました。
日本では子供のお話に仙薬作りは馴染まず「兎さんのお餅つき」に
変わったものと思われます。

月の桂は又、手の届かない恋の歌としても詠われました。


「目には見て手には取らえぬ 月の内(うち)の
  桂のごとき妹をいかにせむ 」 
      巻4の632 湯原王


作者の湯原王は志貴皇子の子で天智天皇の孫。

(目には見えても手に取れない月の内の桂の木のように、
 手にとって引き寄せることが出来ないあなた。
 あぁ一体どうしたらよいんだろう。)

娘子のもとに訪れたのに拒絶され、とぼとぼと夜道を帰らなければならない
嘆きを詠ったものです。
拒まれると益々燃え立つ男心は昔も今も同じですね。

湯原王さん、その後何回もトライしてやっと思いを遂げましたが
嫁さん持ちだった為この恋は長続きしなかったようです。

さてさて今宵は「月桂冠」でも飲むとしましょうか。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:08 | 自然

万葉集その二十八(八咫烏:やたがらす)

八咫烏といえばサッカ-日本代表のエンブレム。

「ヤタ」とは「ヤアタ」の約で、咫(あた)とは古代の長さの単位です。
当時の人達は大きなカラスを八咫烏と呼んでいました。

日本書紀いわく

「神武天皇が東征の時、熊野から大和に入る山の中は険しくて
 道もなかった。そこで天照大神が神武天皇に教えて言われるに、

 <吾は今八咫烏を遣わすからこれを案内にせよ>」と。

つまり八咫烏は天照大神が道の案内役として遣わされた神鳥だったのです。
今もなお島根県八雲村にある熊野神社のお札にはカラスが刷られています。

サッカー日本代表はこの故事を踏まえ、
八咫烏にワールドサッカー優勝への先導役という悲願をこめて
エンブレムに採用したものと思われます。

ところでこの神鳥のカラスさんは昔も今と変わらぬ悪戯ものであったようです。

「 婆羅門(ばらもん)の 作れる小田(おだ)を 食(は)む烏(からす)

      瞼(まなぶた)腫(は)れて 幡桙(はたほこ)に居り 」

        巻16の3856 高宮王(伝不詳)


 ( 婆羅門さまが作っておられる手入れの行き届いた田んぼを食い荒らす烏め。

   満腹したのか 眠そうに うとうとしながら旗の竿に止っているわい )


 「婆羅門」 インドの高僧、 「小田」 寺領の田んぼ、
 「瞼腫れて」 神聖な田んぼを荒した烏が仏罰に当たり瞼が腫れたうえ、
         満腹で眠くなった様子、
 「幡桙」 説法など 仏事の際に寺の庭に立てる幡を支える竿

 
  なお伊藤博教授は「婆羅門」を宮廷、「カラス」を役人、
  「食む」を食い物にすると 見立てて無能な役人が
  へばりつくように宮仕えしている様にも取れると解説 されてい ます。

 736年帰朝の遣唐使と共に婆羅門とよばれるインド渡来の僧が
 やってきました。
  名前は菩提遷那(ぼだいせんな)といいます。
 人々が彼を婆羅門とよんだのはインド四姓の最上位バラモン階級に属する
 高僧だったからです。

 彼は朝廷から荘田を与えられ、奈良の大安寺に住みました。
 彼はまたベトナム人の僧をも伴って来日し、この僧は音楽に詳しかったので
 ベトナム音楽が大安寺に伝わりました。
 
 かの大仏開眼の式典の時、彼の指導のもと、大安寺の僧はベトナム音楽を
 演奏したの です。
 当時ペルシャ人も渡来しており、天平時代の奈良は絢爛たる国際文化都市でありまし た。

 まもなく正倉院展が始まります。
 今年も様々な宝物が往時を偲ばせてくれることでしょう。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:07 | 動物

万葉集その二十七(雁が音:かりがね)

 秋は渡り鳥の季節です。
 渡ってくる鳥は色々ありますが特に日本人に印象深かったのは雁でした。

 古代の人はその秋、渡ってきた雁の声を聞き漏らすまいと熱心に耳を傾けました。
 初めて渡来した雁を「初雁」 その声を「雁が音」という美しい言葉で表し、
 そしていつの間にか「かりがね」は雁の別名となったのです。

 雁はその名のごとく「グヮングヮン」とか「カリカリ」と心に染透るように鳴きます。
 またその整然と空を渡るさまは神々しささえ感じさせ「天つ雁」とか 
 「遠つ人、雁」とも呼ばれ霊鳥とされていました。

 「さ雄鹿の 妻どふ時に 月をよみ
        雁が音聞こゆ 今来(く)らしも 」 
          巻10の2131 作者未詳


 「月をよみ」月が良いという意味で

 ( 皓々と光があたりを照らして 良い月夜だなぁ。
   妻を求めて雄鹿が鳴いている。
   あれっ 遠くから雁の鳴き声まで聞こえてきたよ。
   今年も初雁がやって来たらしいなぁ。
   まるで鹿と雁のデユエットだね )

 「 さ夜中と 夜は更けぬらし 雁が音の 
       聞こゆる空ゆ月渡る見ゆ 」 
              巻9の1701 作者未詳


( 恋しい人のもとへ行きたいと思いながらどうしても行けなかった。
 かれこれ思い悩んでいる内にとうとう真夜中になり夜も更けてしまったなぁ。
 あぁ鳴き渡っていく雁の声が聞こえる。
 空を見上げるとお月さんも西のほうへ渡って行くよ。)


 月に雁、この歌を口ずさむと学生唱歌「秋の夜半」を思い出します。

 「 秋の夜半の み空澄みて 月の光 清く白く
      雁の群れの 近く来るよ 一つ 二つ 五つ 七つ 」


 そうそう、この歌の原曲はウエーバの「魔弾の射手」序曲でした。
 秋の夜長にオペラでも如何ですか?
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:06 | 動物

万葉集その二十六(壱師:いちし=彼岸花)

「いちし」の花が今日の何であるかは色々意見が分かれております。
「エゴノキ」や「イタドリ」又は「草苺」説など諸説紛々でした。

現在では「彼岸花」とする牧野富太郎博士説が支持されています。
今なお「ヒガンバナ」を「イチヂバナ」と呼ぶ地方があるそうです。

 「 道の辺(へ)の 壱師の花の いちしろく

    人皆(ひとみな)知りぬ 我(あ)が 恋妻は 」

       巻11の2480 柿本人麻呂歌集


 「いちしろく」とは「著しくはっきり」という意味で

 ( 道のほとりの彼岸花はすぐ目に付きますが、私の恋しい妻のことも、

 とうとう世間の人々に知られてしまいました。

 恥ずかしいけれど嬉しい!しかし困ったなぁ)

 真紅に燃えるように咲き、その上、火花を散らしたように
 花びらを広げる彼岸花。
 その花に自分の燃えるような恋心を重ね、激しく想い続けてきたので
 とうとう世間の人に、ばれてしまったと嘆きながらも喜んでいる様子を
 詠ったものです。

 何故嘆くのか?「恋は人知れずに密やかに」というのが当時の人の
 心構えでありました。

 何故ならば、人の口に自分達の名前が乗るとその言葉に霊力が付き
 自分達の魂が他人に移ってしまい、やがてお互いの恋は破綻すると信
 じられていたのです。

 純真な若人の姿を彷彿させる初々しい歌です。


 時代は変わって昭和の初期。

 中村草田男は雄大な彼岸花、別名曼珠沙華の句を残しました。

 「 曼珠沙華 落暉(らっき)も蘂(しべ)を ひろげけり 」

 仏典に記される曼珠沙華は一目みれば悪業を離れられる霊験あらたかな天の花。
 その名をもらった彼岸花は、つんつん伸びる真っ赤な蘂が美しい花の冠を形つくる。

 草田男の落暉とは夕日のこと。夕空に巨大な曼珠沙華が蘂を広げている。
 長谷川 櫂 ( 四季のうた より)


 つまり夕焼けを巨大な曼珠沙華に見立てたのです。すなわち「天の花」


 注: 中村 草田男 (1901~1983) 俳人 高浜虚子に師事。

 「 降る雪や 明治は遠くなりにけり 」の句は有名
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:05 | 植物

万葉集その二十五(秋の七草)

日本の野山は今まさに百花繚乱の美しさです。

1270年前、山上憶良は数ある花の中から秋を代表する
七種の草花を歌に残しました。

「 秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)

  かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 」 巻8の1537


 「 萩の花 尾花葛花(くずはな) なでしこの花

   おみなえし また 藤袴(ふじばかま) 朝顔の花 」 
                  巻8の1538


 二首で一組になっており、朝顔は現在の桔梗とされています。

 従来、この歌は「内容そのものは全くの記載文であって別に
 取り上げる程の特色のないもの-土屋文明」という評価を受けていました。

 ところが万葉研究の第一人者である伊藤博は一首目の「指折り」と
 二首目の「また」に注目し、

 この言葉は「あだやおろそかに用いられたはずがない」と
 指摘され画期的な解釈を発表されました。

 即ち「指折り(およびをり)」という言葉は子供に呼びかける俗称で
 「指を折り数えている動作の投影」 「また」とは指を折り数えていて
 5本の指になったところで別の手に変えて数える動作であるとされたのです。

 以下は 伊藤博 解説の大意です。


 時は730年秋。憶良は筑前の国守で71歳。

 当時国守にはその属郡を巡行して百姓の生活、風俗を観るという任務があった。
 この二首も配下の某郡を巡行中、野に遊ぶ子供を目にして呼びかけた言葉、
 その言葉を忠実に投影する歌であったのではなかろうか。

 憶良は花をちぎっては駆け巡る筑紫の子供達に、世に言う秋の七草の花の名
 をつい教えたくなったのであろう。

 とすればこの二首からは秋の光の爽やかに注ぐ野原で大勢の子供達の前に
 相好を崩しながら秋の七草を数え挙げている好々爺憶良の微笑ましい姿を
 思い浮かべることができよう。


 ( 秋の野に咲いている花 その花をいいか、こうやって指を折って数えてみると

 七種の花 そら七種の花があるんだぞ ) 巻8の1537



 ( 一つ萩の花 二つ尾花 三つに葛の花 四つなでしこの花 うんさよう

 五つにおみなえし。ほら それにまだあるぞ 六つ藤袴 七つ朝顔の花

 うんさよう、これが秋の7種の花なのさ) 巻8の1538


伊藤博はこのようにして1270年前の憶良の歌に新たなる生命を
吹き込まれたのです。

時代は変わって昭和10年。時の文人達が
「秋にはもっと美しい花があるではないか、新しい七草の花を選ぼう 」
と新・秋の七草を発表しました。

 「 秋桜(コスモス) 菊 葉鶏頭 彼岸花 白粉花(おしろいばな) 
 秋海棠(しゅうかいどう) 赤飯(あかまんま=イヌタデ) 」 です。

 そうした試みにも拘らず今では「新秋の七草」を知る人も少なくなり、
 万葉時代から受け継がれてきた憶良の秋の七草は今もなお微動だに
 しない地位を占め続けています。

注1、 山上憶良(660~733): 701年42歳の時遣唐使として中国に渡る。
 721年その学識を認められ東宮待講として首皇子(おびとのみこ=のちの
 聖武天皇)の教育係を務めた。万葉初期、大伴旅人と並ぶトップ知識人。
 出自を百済系渡来人とみる説もある。

注2、 短歌は 五七五 七七 を基本形とするが、旋頭歌は
    五七七 五七七を基本形とする。
    万葉集に初めて見える歌体で上三句と下三句を二人で
    掛け合い唱和していたが、やがて一人で詠うようになった。
    本稿の巻8の1538は旋頭歌。
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# by uqrx74fd | 2009-03-08 10:04 | 植物