万葉集その十八(秋の風吹く)


暦では8月の初めはもはや秋。今年の立秋は8月7日です。
この日以降の暑さが残暑となります。
今回は風の音にちなむお話です。まずは古今和歌集の歌より。


「 秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 

   風の音にぞ 驚かれぬる 」 藤原敏行
 

あまりにも有名なこの歌は1100年前の立秋の日に作られました。
多くの日本人がこの歌を心の中で口ずさみながら秋を感じ、
立秋といえば「風の音」と云われるまでになったのです。

結句「驚かれぬる」は「はっと気がつく」という意味で
秋の季節感をまず最初に人々に告げ、知らせたのは風だったと
いうわけです。

時の移り変わりを目ではなく「風という気配」によって知るという発見は
後世の歌人に多大な影響を与えました。

この感覚はまさに日本人独特のものといってよく、
外国の人々には極めて難解なセンスでありましょう。

このように風をめぐる歌を文芸の世界にまで高めた萌芽は既に
万葉時代にありました。


 「 君待つと 我が恋おれば わが屋戸(やど)の

     簾(すだれ)動かし 秋の風吹く 」 

        額田王 巻4の448


 「 風をだに 恋ふるは羨(とも)し 風をだに

     来(こ)むとし待たば 何か嘆かむ 」

      鏡王女(かがみのおおきみ) 巻4の489


 額田王と鏡王女の秋の風をめぐっての恋の歌です。

 最初の歌は額田王が大津宮で天智天皇を思って詠んだ歌

 ( 天皇を恋しく思って恋焦がれて待っている。
  少しの音でもはっとするくらい緊張しています。
  すると簾がカサッと動いて風がスゥーと吹き渡っていく。
  待ち人いまだ来たらず。あとはただ静寂あるのみ。)


 人を待つという微妙な女心のゆらぎを素直に詠んだ名歌であります。


 さて2つ目の歌は鏡王女の歌です。

 ( あぁ秋の風、その風の音にさえ恋心をゆさぶられるとは羨ましいこと。
   風にさえ胸をときめかして、もしやお出でになるかと待つことが
   出来るなら何を嘆くことがありましょうか)

 どうにもならない自分のわびしい気持ちを詠っています。


 鏡王女は天智天皇に愛されていましたが後に藤原鎌足の正室になりました。
 この歌は藤原鎌足が亡くなった後の気持ちを詠んだ歌と推測されています。


 額田王の歌は初期万葉のものとしては優美、繊細、可憐な女心を詠っており
 研究者の間では中国の漢詩にも同様の趣旨の歌があり、後世の別人の作では
 ないかと疑問に感じている人もいます。

 いずれはともあれこの歌は後世に多大な影響を与え、以降、秋風の歌が盛んに
 詠まれるようになったのです。



 注: 額田王 鏡王のむすめ。天武天皇との間に十市皇女を生む

    鏡王女  鏡王のむすめ。額田王の姉ともされるが定かではない。
          一説には舒明天皇の皇女とも。
          夫、藤原鎌足が病のとき奈良、興福寺の建立を発願し、
          以降興福寺は藤原家の氏寺となる。


 
[PR]

# by uqrx74fd | 2009-03-08 09:57 | 自然

万葉集その十七(良寛の歌の手本は万葉集)

良寛さんといえば子供達とひねもす手鞠つき。

歌もその春風駘蕩とした人柄を反映したものが多く、漢詩、和歌あわせて
2000もの作品、さらに素晴らしい「書」を残しています。

「今ここに生きる」「無欲」という道元の「正法眼蔵」の教えを忠実に実践した
清貧の人でもありました。

本が買えない良寛は人から借り、要点を書きとめ、その恐るべき記憶力で
心にかなった歌や表現をたちまち暗記し自由自在に使ったといわれています。

万葉集については「良寛禅師奇話」で
「歌を学ぶには万葉がよろしい。古今はまだ良いが新古今以下は読むに堪えず」
と明治の正岡子規を彷彿させるような歌論を述べています。

今回は良寛が如何に万葉集を駆使して歌を作ったか、所謂「本歌取り」のお話です。

(注): 本歌取りとは和歌、連歌などを意識的に先人の作の用語などを
     取り入れて作る事。
     背後にある古歌(本歌)と二重写しになって余情を高める効果がある。


まずは有名な手鞠歌と万葉の歌をご覧下さい「上段:良寛、下段:万葉集」


 「霞たつながき春日を 子供らと 手まりつきつつ この日暮らしつ」 良寛

    「霞たつながき春日を かざせれど いやなつかしき梅の花かも」

      巻5の846 小野氏淡理(おのうじのたもり)


 (霞立ち込める長い1日。ずっと髪に梅の花をかざしているが益々心が惹かれる事よ)

 更に、良寛歌最後の部分「この日暮らしつ」 も

  「春の雨に ありけるものを 立ち隠(かく)り 

      妹が家路に この日暮しつ」   
                巻10の1877 作者未詳
 

  から取っています。

 つまり、初めと終わりは万葉集からの引用で、良寛のオリジナルは
 「子供らと手まり つきつつ」だけながら全く新しい歌に生まれ変わっています。

 後の歌の意

 (濡れてもどうという雨でもないのに、木陰で雨宿りして、
  いとしいあの子のところへ行くのが遅くなってしまった。
  「春雨だ、濡れて参ろう」とやれば良かったなぁ。)

 次は風雅の友でもあり、有力な後援者でもあった阿部定珍(さだよし)が訪ねてきたが
 話し込んでいるうちに日が暮れてしまい慌てて帰ろうとする定珍を引きとめ、又帰路
 を気遣かった歌。

 冒頭の「月読み」とは月を数えるという意味で月の形で日数を数える事に
 基づくもの。転じて月のこと。

 「 月(つく)読みの 光を待ちて帰りませ 山路は栗のいがの多きに 」 良寛

     「月(つく)読みの 光に来ませ あしひきの 山きへなりて遠からなくに」

      巻4の670 湯原王(宴席で湯原王が女の立場で詠ったもの) 
 

  山きへなりて=(山経隔て) 山がへだてて
 
 (月の光をたよりにおいで下さい。山が隔てて遠いというわけではありませんのに)

 他に数多くの本歌取りがありますが、このようにTPOに応じて即座に自分の歌に取り
 込めるという事は万葉歌を完全に自家薬籠中のものにしていたと思われます。

 最後に、良寛晩年の恋について少し触れてみたいと思います。

 相手は美貌の貞心尼。長岡藩士の娘。18歳で医師に嫁ぎ離婚した後23歳で出家。
 良寛70歳、貞心尼30歳の時に出会い良寛74歳で没するまで歌物語を続けました。
 初めての出会いに、

「君にかく あい見ることの嬉しさも まださめやらぬ夢かとぞ思ふ」 (貞心尼)

「白妙の衣手寒し 秋の夜の 月中空(なかぞら)に澄み渡るかも」 (良寛)
 

なんとも初々しい歌、

 袖のあたりが肌寒いので驚いて外を見れば、秋の夜の月が早や天心に輝いており
 とうとう二人は明け方まで話し合っていたというのです。

 この時から4年の間、良寛は生涯最良の日々を過ごしたのであります。
[PR]

# by uqrx74fd | 2009-03-08 09:56 | 生活

万葉集その十六(鰻召しませ)

7月28日は「土用丑の日」

土用は土の気が強まる時で本来は春夏秋冬の四季それぞれの終盤
18日間を言います。
冬なら厳寒、夏なら猛暑が続き、春秋は季節の変わり目で
健康上用心が必要な時期とされていました。

丑というのがこれまた危ない。

方角で云うと東北にあたり丑寅といえば「鬼門」「丑三つ時」と言えば
お化けや幽霊がさまよう時間です。

災害や悪霊は全部鬼門から入ってくるといわれており,丑の日には
災害が起こる可能性が高いとされていました。

特に夏の土用は酷暑が続くと体力が消耗しやすく、
古代人にとってこの期間を無事に過ごすのは大変なことでした。

夏の土用をどのようにして乗り切るか?

丑の方角の守護神は玄武という黒い神様です。
そこで「黒いものを食べるという事におすがりしょう」となりました。
鰻、鯉、泥鰌、鮒、茄子、などを食べる習慣はこのようにして起こったのです。

今回は鰻にまつわる古代から近代までのお話です。

 「 石麻呂(いわまろ)に我もの申す 夏痩せに

      よしというものぞ 鰻(むなぎ)とり食(め)せ 」

         巻16の3853 大伴家持


石麻呂は本名を吉田連老(むらじのおゆ)といい家持の親友で
痩せの大食い老人でした。

痩男に頑丈な男を連想させる石麻呂というニックネームをつけたところにも
この歌の面白みがあります。

( 石麻呂さんよ どうしてあんたはこんなにガリガリに痩せているの?
  夏痩せには鰻がいいというから、鰻でも捕って食べなさいよ )

当時は鰻を丸ごと火にあぶって切り、酒や醤 (ひしお 現在の醤油の原型)で
味付けしたものに,山椒や味噌などを付けて食べていました。
現在のような蒲焼となるのは江戸時代の中期からであります。

時代は下って江戸時代。

俗説によると有名な蘭学者である平賀源内があまり流行らない鰻屋に
「お知恵拝借」と依頼され「今日は土用丑の日」と看板に大書して
店頭に掲げたところ,大評判になり江戸中に広まったと伝えられています。

それでは、お江戸のお笑を一席。( 小泉武夫著 食べ飲み養生訓 より)

『 鰻が買えない男が匂いだけでも効くのだと言って握り飯だけ
 鰻屋の前に持っていき、蒲焼の匂いを嗅いで鰻を食ったつもりで
 握り飯をがっついていました。

 それを見つけた鰻屋が頭にきて「匂いの嗅ぎ代 30文いただこう」と
 請求書を突きつける。

 しかし役者が何枚も上のケチな男は堂々と小銭で30文、
 ジヤラジャラと財布から取り出し、思い切り地面に叩きつけて 
 「鰻を食わせたつもりで金を取るなら金をもらったつもりで
 銭の音を聞いて戻らっしゃい」
 といって鰻屋を追い返したそうであります。』

 さて近代の歌人齊藤茂吉は極め付きの鰻好きでありました。

 彼は会食する時にすばやく他人の鰻と自分の鰻の大小を見比べて、
 時には「取り替えてくれないか」と相手にねだる事もあったと
 齊藤茂太さんなどが書いています。

 「 ゆうぐれし 机の前に ひとり居(お)りて

           鰻を食ふは 楽しかりけり 」 

               齊藤茂吉 (ともしび)より

[PR]

# by uqrx74fd | 2009-03-08 09:55 | 生活

万葉集その十五(海ゆかば・・・)

今年の「海の日」は、7月18日。
今回は、さきの戦中を通じて全国津々浦々にまで浸透し唱われた
「海行かばの歌」の「歴史の謎」解き明かしです。

 「 海行かば みずく屍 山行かば 草むす屍
      王(おおきみ)の へにこそ死なめ
      のどには死なじ 」


 ( 海に戦えば水につかる屍、 山に戦えば草の茂る屍となろうとも
   大君のおそばで死のう。のどかに死ぬことはあるまい)

  この歌の原出典は続日本紀における聖武天皇の宣命 
  (勅命を述べ聞かせること、または文書)の記録です。

 時は749年。国家的大事業である大仏造営が完成間近に迫ったころ、
 朝廷は大きな問題に直面していました。

 大仏を荘厳するのに必要な鍍金のための材料、黄金が日本にないのです。
 外国から求めようにも財政は極度に疲弊し手の打ちようがありません。
 聖武天皇は日夜苦悩し、神仏に一心に祈念されました。

 そして奇跡が起きたのです。

 陸奥の国から吉報が届き、渡来人で陸奥の守でもある百済王敬福
 (くだらのこにきしきょうふく) が管内の山から産出したと言って
 黄金9百両を納めてきたのです。

 天皇は殊の外お喜びになり、東大寺に行幸。盛大な式典が行われました。
 そして2つの宣命を下されました。そのうち2番目の宣命で

 「大仏造営のための黄金の不足が心配されたが三法をはじめとして
 天神地祇また祖先の霊の恵みとして黄金を産出したので、天下の人々と喜びを
 共にしたいと考え、年号に感宝の文字を加え天平感宝とすること。

 寺社へ寄進、歴代の功臣への顕彰、位階の昇任、大赦などを発表された
 最後のくだりで、

 「大伴、佐伯宿禰は天皇の朝廷を守りお仕え申しあげることに己の身を
 顧みない人達であって

 祖先が 「海行かば みずく屍 山行かば草むす屍 
       王のへにこそ 死なめ のどには死なじ」

 と言い伝えてきたらしい。このような忠誠な一族には格別に取り計らう 」
 と宣われました。

 大伴家持は感涙に咽び、感謝の意と一族の栄光の証として長歌、短歌を奉り
 「王のへにこそ死なめ のどには死なじ」の部分を

 「大君の辺にこそ 死なめ 顧みはせじ」

 と一部を変えたものが万葉集に残ったのです。(巻18の4094 長歌)

 従ってこの歌は当初、臣下が天皇に忠誠を誓ったものではなく、
 天皇が臣下の忠誠を讃える言葉でありました。


 昭和12年、信時 潔によって作曲された歌は、天皇の兵隊が
 お上に忠誠を誓う歌として戦時中歌われ続けました。

 戦後60年を経過した今日、この歌を知る人も少なくなり、
 今や国に命を捧げた若人への鎮魂歌になったと言えましょう。


 参考; 海の記念日 昭和16年6月5日制定。

 当初定められた祝日は7月20日であり、これは、明治天皇が明治9年
 東北ご巡幸の帰途、灯台視察船「明治丸」で青森から函館を経て
 横浜にご安着された日に由来。

 1959年国民の祝日制定運動が始まり1000万人の署名を得て
 1996年国民の祝日となる。」
[PR]

# by uqrx74fd | 2009-03-08 09:54 | 心象

万葉集その十四(さ百合にかける恋)

古代では百合の花は神聖なものと見なされていました。
「さ百合」の「さ」は神聖なものの頭につける言葉で恐らく
あの強烈な芳香を尊んだものと思われます。

古事記には山百合の傍らで初夜を過ごす歌があり、
百合は初夜を飾るべき聖花だったのです。

 「 筑波嶺の さ百合(さゆる)の花の 夜床(ゆとこ)にも

      愛しけ(かなしけ) 妹そ 昼も愛しけ 」 

     巻20の4369 大舎人部千人(おおとねりべのちふみ)


 防人として出発した男が後に残した妻を思慕する歌です。

 夜の床のいとしい妻を思い出し、昼は昼でいとしいと感情を
 高ぶらせているのです。
 大らかな愛に溢れた歌で、その夜床を筑波山に咲く百合の花のようだと
 回想し妻のいとしい姿を重ねています。

 関東常陸筑波の地方では万葉の頃、百合を訛って(ユル)と発音しました。

 「夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の

   知らえぬ恋は 苦しきものぞ 」 

     巻8の1500 (大伴坂上郎女)
 

 濃緑の夏の草むらに咲く一点朱色の可憐な姫百合は
 片思いに沈む女を表象しています。

 (草むらにひっそりと美しく咲いている姫百合。
  それはそのまま私の心です。
  あの人に知ってもらえない苦しい片思い。でもじっと耐えましょう。)

 作者は恋多き万葉女流歌人のトップランナー。
 恋の歌ならおまかせの大伴坂上郎女(大伴家持の叔母)。

 穂積皇子、藤原 麿(不比等の息子)等と華々しい恋の遍歴を続け
 84首の歌を残しました。

 一体どなたがこの魅力的な女性を可憐な気持ちにさせたのか大いに
 興味があるところですが、残念ながら恋のお相手は不明です。

「 道も辺(へ)の 草深百合(くさふかゆり) の 後(ゆり)もと言う

  妹が命を 我知らめやも」 
                  巻11の2467 作者未詳


 後(ゆり)という言葉は「後でね」 「今度ね」と婉曲な拒絶を表します。

 女に恋を打ち明けたところ、彼女は羞恥心からか他の理由からか
 「後でまた」 と断ったところ、 男は腹を立てて

 「どうして今ではだけなんだ。
 これから後のあの女の寿命の事なんか俺は知らないぞ」 
 と呟いているのです。

 深草の中に咲く山百合は女性の姿をも表象していますが
 これを「草深百合」という美しい言葉に表現する万葉人のセンスの良さ。
[PR]

# by uqrx74fd | 2009-03-08 09:53 | 植物