( 歌姫町の農家 )
( 付近案内図 )
( 添御県座神社:そうのみあがたにいますじんじゃ)
『 僕はすこし歩き疲れた頃、やっと山裾の小さな村にはいった。
歌姫という美しい字名(あざな)だ。
こんな村の名にしては、どうもすこし とおもうような村にもみえたが、
ちよっと意外だったのは、その村の家がどれもこれも普通の農家らしく見えないのだ。
大きな門構えのなかに中庭が広くとってあって、その四周に母屋も納屋も
家畜小屋も果樹もならんでいる。
そしてその日あたりのいい明るい中庭で、女どもが穀物などを一ぱいに拡げながら
のんびりと働いている光景が、ちよっとピサロの絵にもありそうな構図で、
なんとなく仏蘭西(フランス)あたりの農家のような感じだ。 』
( 堀辰雄: 大和路・信濃路 新潮文庫より)
平城京大極殿から北へ1㎞ばかりのところに歌姫という町があります。
このあたりに昔、「歌姫越え」とよばれた大和と山城国を結ぶ幹線街道がありました。
比較的平坦な道なので平城京造営の折、木津川に集められた木材や建設資材を
都に運ぶために重用されたそうです。
歌姫という名前はかってこの地に松林や池に囲まれた宮殿があり、そこに
雅楽に携わる楽人や歌舞を行う女官たちが住んでいた、あるいは美しい恋歌を詠んだ
仁徳天皇の皇后、磐姫に因むともいわれていますが確かなことはわかりません。
(磐姫陵はすぐ近くにある)
歌姫町をさらに500mばかり行くと緩やかな上り坂になり、登りきったところが
大和と山城の国境です。
そこには旅の安全を守護する「添御縣座神社」(そうのみあがたにいますじんじゃ)があり、
天照大神の弟、「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)と
その妻、「櫛稲田姫命」(クシイナダヒメノミコト)、
そして土地の神様である武乳速命(タケチハヤノミコト)の三神が祀られています。
『 佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣(ぬさ)は
妹を目離(めか)れず 相見しめとぞ 」
巻3-300 長屋王
( 佐保を通り過ぎて奈良山の手向けの神に幣を奉ります。
どうか、道中安全、無事に帰ることができ、いとしい妻をいつも
見ることができますよう。 )
作者は公用で山城を訪れた時、この神社で旅の安全と、妃、吉備内親王との
一日も早い再会を祈り幣(ぬさ)を奉りました。
長屋王は高市皇子(天武天皇皇子)の第一子で、聖武天皇のもとで左大臣の
要職にあった人物です。
また、佐保楼という豪華な別邸を持ち、新羅の使者など多くの人びとを招いて
詩宴を催すこともたびたびあり、風流文雅の貴公子ともよばれていました。
政治の面でも能力、気骨があったようですが、それ故か藤原氏と衝突し、
その讒言により自死に追い込まれた悲運の人でした。
藤原不比等は政敵を葬ることにより娘を聖武天皇の皇后として送り込むことに
成功し首尾よく光明皇后を誕生させたのです。
『 このたびは ぬさもとりあへず たむけ山
紅葉の錦 神のまにまに 」
菅原道真 古今和歌集
( このたびの行幸には幣の用意も出来ませんでした。
この手向山ではさまざまな色の紅葉が散っております。
どうかその紅葉を神の御意のままに幣としてご受領下さい )
宇多法皇奈良吉野行幸の折の詠。
実際に幣の用意が出来ていなかったわけではなく、紅葉の散るさまが
あまりにも見事なので幣をまき散らす必要がないと詠ったようです。
ここでの幣は紙を小さく切ったものを意味しています。
この歌は「「添御縣座神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)」で詠まれたものとして
境内に長屋王の歌と共に歌碑が置かれていますが、この辺りは紅葉が少ないので、
東大寺法華堂(三月堂)近くの手向山神社で詠われたのではないかとする説もあります。
舞台は大きく変わりご存じ池波正太郎の鬼平の世界です。
鬼平こと長谷川平蔵が休暇で京都に行った折、旧知の浦部与力が
奈良を案内することになりました。
(浦部) 「 宇治をあとまわしになさいますなら石清水から山沿いの古道をたどり、
奈良へ入りますのが、おもむきが深いかと思われます。」
(平蔵) 「 ほほう。これはおもしろい」
(浦部) 「 は。この道を歌姫越えと申しまして、むかしむかし、奈良に
皇都(みやこ)がありましたときは、この道こそが奈良と山城の国を -
京をむすぶ大道でございましたそうで 」
と浦部はなかなかにくわしい。
( これはおもしろい旅になりそうだ。 浦部をつれてきてよかった )
平蔵も、こころたのしくなってきている。
- -
(浦部) 「このあたりは、むかしむかし、棚倉野とよばれ、ひろびろとした原野に
穀物をしまった倉がいくつも建っていたそうでございます。
かの万葉集にも- -
「 手束弓(たつかゆみ) 手に取り持ちて 朝猟(あさがり)に
君は立たしぬ 棚倉の野に 」
(巻19-4257 古歌 船王伝誦す)
とございますな 」
(平蔵) 「これは、おどろいた、おぬしがのう・・・」
( 池波正太郎 鬼平犯科帳3 凶剣 文芸春秋より )
さて、この歌は
( わが君が手束弓をしっかり手に取り持って、朝の狩場にお立ちになっている。
この棚倉の野に。)
の意で、「手束弓」は手に束ねやすい弓、「棚倉の野」は京都府山城町付近の野です。
紀飯麻呂(きのいひまろ)という官人の屋敷で催された宴席で披露された
古くから伝わる歌で、「君」は聖武天皇とされています。
かって山城近くに久爾(くに)という都があったとき天皇は盛んに猟をされたらしく、
往時を懐かしむとともに、宴の時期が丁度10月下旬の狩猟の季節にあたっていたので、
それにふさわしいものとして紹介されようです。
それにしても、鬼平でいきなり万葉集が出てくるのには驚きました。
あまり知られていない歌だけに池波先生が万葉集にも深い造詣をお持ちだったことが
窺われる一文です。
「 歌姫を 鬼の平蔵 過ぎゆけり 」 筆者
( 神社内の長屋王歌碑 )
( 手向山八幡宮の壁付近)