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万葉集その三百四十三(思ひ草=ナンバンギセル)

「 青きもの 身にはまとはず 思草
    すすきの中に ひそやかに咲く 」 中嶋信太郎 


ナンバンギセルはハマウツボ科一年草の寄生植物で、ススキや、ミョウガ、サトウキビ
などの根元に生え、その根から養分をとっています。
そのため葉緑素がなく、葉はわずかにあってもほとんど見えません。

秋になると紫紅色の花を咲かせますが、その先端が首をかしげて物思いにふけっている
様子から、古代の人たちはこの植物を「思ひ草」とよんでいました。

尤もこの「思ひ草」という漠然とした名前が何にあたるかについては古くから
リンドウ、露草、女郎花、など諸説ありましたが、万葉集で「尾花が下の思ひ草」
つまり、ススキに寄生する姿を詠っていることが決め手となり、
現在ではナンバンギセルが通説となっています。(「思ひ草」は万葉集で1首のみ)

ナンバンギセルは漢字で「南蛮煙管」と書き、南蛮から渡来した煙管(きせる)の雁首に
花の形が似ているとことから命名されたそうです。

「 道の辺(へ)の 尾花が下の 思ひ草
    今さらさらに 何をか思はむ 」 巻10-2270 作者未詳


( 道のほとりに茂る尾花の下で物思いにふけっているように咲く思ひ草。
  その草のように俺様はもう今さら思い迷ったりなどするものか )

ススキの葉の風にそよぐ音、サラサラが「今さらさらに」の語を引き出すように
詠われ、リズム感がある一首です。

この歌の解釈ですが、伊藤博「釋注」では
「 好きな人と縁切れた折の、わが身にそれと言い聞かせる歌である。
率直な言葉づかいがかえってあわれを誘う。」とありますが
色々な障害を乗り越えた男が女と結婚する決心をして決意表明した歌ともとれます。

「 野辺見れば 尾花がもとの思ひ草
    枯れゆく冬に なりぞしにける 」 
                       和泉式部 新古今和歌集


( 野辺をみると、すすきの根元に物思わしげに咲いていた あの紫の思い草も
  次第に枯れてゆく冬ざれのころとなったのですね 。)

秋から冬へ寒々と変わりゆく枯野を見つめながら、恋に沈む女の情感を詠った
ものですが、万葉歌を下敷きにしているように思われます。

 『 煙草も煙管も16世紀後半に海のかなたから伝わってきました。
   それからしばらくしてススキの根元に寄生するこの小さな花を
   南蛮渡来の煙管に見立てて、このように呼ぶようになったのでした。
   でも、草のナンバンギセルは渡来植物ではありません。
   キリスト教や煙草、煙管の伝来以前から日本の各地で、秋になると
   ススキやカヤの根元でひっそりと咲いていたはずです。 』
                   ( 久保田淳 野あるき花ものがたり 小学館より )

    
    「 花といふは あまりに寂し うなじ垂れ
            思ひに耽(ふけ)る 草の生涯 」   中嶋信太郎

# by uqrx74fd | 2011-10-30 08:19 | 植物

万葉集その三百四十二 (明日香:南淵山)

( 明日香:棚田1)
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( 明日香:棚田2)
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( 明日香: 案山子)
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( 明日香:南淵山)
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( 男綱 )
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明日香の石舞台から南へ1㎞ばかり歩くと、そこは一面に広がる棚田。
春は刈田のレンゲやタンポポ、秋には稲穂が風にそよぐ中、
彼岸花やコスモスが咲き乱れています。
そして、子供たちが丹精を込めて作った数々の案山子がお伽の世界を演出して
くれるのです。

昔、このあたり一帯を南淵とよんでいたそうですが今は稲渕といいます。
飛鳥川に添う道は吉野に通じており、かって持統女帝や大海人皇子が通ったかも
しれないと遥か遠い時代に思いを馳せるのも楽しいものです。

やがて、集落の入口。
飛鳥川をわたす橋を挟んで道が二手に分かれ1㎞位先で再び合流します。
村の手前の川とその上流には子孫繁栄、五穀豊穣、悪疫侵入防止を願って
神の降臨を勧請する縄、すなわち雄綱と女綱が張り渡されており、古の時代から
神と共存する人々の心が今なお息づいている村のたたずまいです。

飛鳥川の両岸には屏風のような山々が連なり、進行方向に向かって左側の山塊を
南淵山といいます。
地元の農家の人に「南淵山はどの山ですか?」と聞くと
「この辺から見える山全部を昔から南淵山と言うてんねん」と答えてくれました。

「 まそ鏡 南淵山は今日(けふ)もかも
   白露置きて 黄葉(もみち)散るらむ 」
                     巻10-2206 作者未詳


( 南淵山では今日あたりも白露が置いて、紅葉が散っていることであろうか)

まそ鏡の「ま」は立派な「そ」は充分の意で「よく映る立派な白銅製の鏡を見る」
すなわち「見る」と同音の南淵の「ミ」に懸けた枕詞です。

作者はかって見たことがある南淵山の黄葉が今どうであろうか、
白露が置いてもう散っているであろうかと想像しています。
まそ鏡という美しい枕詞が白露がキラキラ光る様子を連想させている一首です。


「 御食(みけ)向ふ 南淵山の巌には
   降りしはだれか 消え残りたる 」
                    巻9-1709 柿本人麻呂歌集


( 南淵山の山肌の巌には、いつぞや降った薄ら雪が消え残っているのであろうか )

天武天皇の子、弓削皇子に献じた歌とあり、「残雪」を見ながら自然の美しさを
雄大に詠った一首です。

「はだれ」とは雪や霜などがうっすらと降り積もっている状態をいいます。
明日香はめったに雪が降らないところで、たまに降り積もっても
すぐに溶けてしまいます。
それだけに、巌のところに消え残ったまだら模様の雪、白黒の対比の美しさに
人々は心惹かれたのでしょう。

「御食向ふ」は神または天皇に捧げる食事のことで、
粟(あわ)、味鴨(あじかも)、酒(き)、蜷(みな:田螺などの巻貝) などを奉るので、
それぞれ同音の地名、淡路、味経(あじか)、城上(きのへ)、南淵に掛かる枕詞と
されています。

「 野菊挿す 南淵請安先生に 」 高繁 泰治郎

さらに歩いて行くと集落のはずれの丘に「南淵請安先生の墓」と彫られた
石碑が立っています。
この辺りは帰化漢人が大変多かったところで、請安(しょうあん)もその一人でした。

彼は、608年、遣隋使小野妹子に従って留学生として隋に渡り、32年間もの間
当地に滞在して儒教などを学びました。
帰国後、南淵(稲渕)に居を構え、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、のちの天智天皇)や
藤原鎌足に儒学を教えたと伝えられています。

当時(642年)は皇極女帝の時代で、執政、蘇我入鹿が聖徳太子の子、
山背大兄(やましろのおおえ)を殺害するなど横暴を極めていました。
皇子と鎌足は請安宅に足しげく通い、ひそかに打倒蘇我氏と後の政権構想の
秘策を練り、645年、クーデータを敢行して蘇我氏を滅亡させました。

そして、孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子、藤原鎌足は内大臣となり
新しい時代、大化の改新の幕開けとなります。

請安先生が打倒蘇我氏の計画に関与したかどうかは定かではありませんが、
二人の政権構想に指導的役割を果たしたことは充分に考えられ、古代日本史の
影の立役者だったといえましょう。

澄み切った川のせせらぎ、蛍が飛びかう山里。
緑深い山塊、その間を吹き抜ける爽やかな風。
明日香は古代の雰囲気をいまなお濃厚に伝えてくれている美しい村です。

    「 勧請縄張る村境 蛍飛ぶ 」 田辺洋子 


( 女綱 上山好庸 明日香路 光村推古書院より)
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( 南淵請安の墓 )
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( 明日香の春   上山好庸  明日香路 光村推古書院より)
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# by uqrx74fd | 2011-10-23 09:14 | 万葉の旅

万葉集その三百四十一(歌姫街道)

( 歌姫町の農家 )
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( 付近案内図 )
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( 添御県座神社:そうのみあがたにいますじんじゃ)
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『 僕はすこし歩き疲れた頃、やっと山裾の小さな村にはいった。
  歌姫という美しい字名(あざな)だ。
 こんな村の名にしては、どうもすこし とおもうような村にもみえたが、
 ちよっと意外だったのは、その村の家がどれもこれも普通の農家らしく見えないのだ。
 大きな門構えのなかに中庭が広くとってあって、その四周に母屋も納屋も
 家畜小屋も果樹もならんでいる。
 そしてその日あたりのいい明るい中庭で、女どもが穀物などを一ぱいに拡げながら
 のんびりと働いている光景が、ちよっとピサロの絵にもありそうな構図で、
 なんとなく仏蘭西(フランス)あたりの農家のような感じだ。 』
                            ( 堀辰雄: 大和路・信濃路 新潮文庫より)

平城京大極殿から北へ1㎞ばかりのところに歌姫という町があります。
このあたりに昔、「歌姫越え」とよばれた大和と山城国を結ぶ幹線街道がありました。
比較的平坦な道なので平城京造営の折、木津川に集められた木材や建設資材を
都に運ぶために重用されたそうです。

歌姫という名前はかってこの地に松林や池に囲まれた宮殿があり、そこに
雅楽に携わる楽人や歌舞を行う女官たちが住んでいた、あるいは美しい恋歌を詠んだ
仁徳天皇の皇后、磐姫に因むともいわれていますが確かなことはわかりません。
(磐姫陵はすぐ近くにある)

歌姫町をさらに500mばかり行くと緩やかな上り坂になり、登りきったところが
大和と山城の国境です。
そこには旅の安全を守護する「添御縣座神社」(そうのみあがたにいますじんじゃ)があり、
天照大神の弟、「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)と
その妻、「櫛稲田姫命」(クシイナダヒメノミコト)、
そして土地の神様である武乳速命(タケチハヤノミコト)の三神が祀られています。

『  佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣(ぬさ)は
     妹を目離(めか)れず 相見しめとぞ 」
                       巻3-300 長屋王


( 佐保を通り過ぎて奈良山の手向けの神に幣を奉ります。
 どうか、道中安全、無事に帰ることができ、いとしい妻をいつも
 見ることができますよう。 )

作者は公用で山城を訪れた時、この神社で旅の安全と、妃、吉備内親王との
一日も早い再会を祈り幣(ぬさ)を奉りました。
長屋王は高市皇子(天武天皇皇子)の第一子で、聖武天皇のもとで左大臣の
要職にあった人物です。
また、佐保楼という豪華な別邸を持ち、新羅の使者など多くの人びとを招いて
詩宴を催すこともたびたびあり、風流文雅の貴公子ともよばれていました。
政治の面でも能力、気骨があったようですが、それ故か藤原氏と衝突し、
その讒言により自死に追い込まれた悲運の人でした。
藤原不比等は政敵を葬ることにより娘を聖武天皇の皇后として送り込むことに
成功し首尾よく光明皇后を誕生させたのです。

『 このたびは ぬさもとりあへず たむけ山
    紅葉の錦 神のまにまに 」 
                              菅原道真 古今和歌集


( このたびの行幸には幣の用意も出来ませんでした。
 この手向山ではさまざまな色の紅葉が散っております。
 どうかその紅葉を神の御意のままに幣としてご受領下さい )

宇多法皇奈良吉野行幸の折の詠。
実際に幣の用意が出来ていなかったわけではなく、紅葉の散るさまが
あまりにも見事なので幣をまき散らす必要がないと詠ったようです。
ここでの幣は紙を小さく切ったものを意味しています。

この歌は「「添御縣座神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)」で詠まれたものとして
境内に長屋王の歌と共に歌碑が置かれていますが、この辺りは紅葉が少ないので、
東大寺法華堂(三月堂)近くの手向山神社で詠われたのではないかとする説もあります。

舞台は大きく変わりご存じ池波正太郎の鬼平の世界です。
鬼平こと長谷川平蔵が休暇で京都に行った折、旧知の浦部与力が
奈良を案内することになりました。

 (浦部) 「 宇治をあとまわしになさいますなら石清水から山沿いの古道をたどり、
        奈良へ入りますのが、おもむきが深いかと思われます。」
 (平蔵) 「 ほほう。これはおもしろい」
 (浦部) 「 は。この道を歌姫越えと申しまして、むかしむかし、奈良に
        皇都(みやこ)がありましたときは、この道こそが奈良と山城の国を -
        京をむすぶ大道でございましたそうで 」

   と浦部はなかなかにくわしい。
   ( これはおもしろい旅になりそうだ。 浦部をつれてきてよかった )
     平蔵も、こころたのしくなってきている。
 - - 
 (浦部) 「このあたりは、むかしむかし、棚倉野とよばれ、ひろびろとした原野に
      穀物をしまった倉がいくつも建っていたそうでございます。
      かの万葉集にも- -

「 手束弓(たつかゆみ) 手に取り持ちて 朝猟(あさがり)に
          君は立たしぬ  棚倉の野に 」 
                     (巻19-4257 古歌 船王伝誦す)


とございますな 」

(平蔵)  「これは、おどろいた、おぬしがのう・・・」

                    ( 池波正太郎  鬼平犯科帳3 凶剣 文芸春秋より ) 

さて、この歌は
( わが君が手束弓をしっかり手に取り持って、朝の狩場にお立ちになっている。
この棚倉の野に。) 
の意で、「手束弓」は手に束ねやすい弓、「棚倉の野」は京都府山城町付近の野です。

紀飯麻呂(きのいひまろ)という官人の屋敷で催された宴席で披露された
古くから伝わる歌で、「君」は聖武天皇とされています。
かって山城近くに久爾(くに)という都があったとき天皇は盛んに猟をされたらしく、
往時を懐かしむとともに、宴の時期が丁度10月下旬の狩猟の季節にあたっていたので、
それにふさわしいものとして紹介されようです。

それにしても、鬼平でいきなり万葉集が出てくるのには驚きました。
あまり知られていない歌だけに池波先生が万葉集にも深い造詣をお持ちだったことが
窺われる一文です。

「 歌姫を 鬼の平蔵 過ぎゆけり 」  筆者

( 神社内の長屋王歌碑 )
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( 手向山八幡宮の壁付近)
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# by uqrx74fd | 2011-10-16 07:41 | 万葉の旅

万葉集その三百四十(まゆみ)

( まゆみ:京都 天龍寺にて)
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「近づきて 花にはあらで 真弓の実」 五十嵐八重子

真弓は日本全土の山地に自生しているニシキギ科の落葉低木ですが、
中には10m以上の大木に成長するものもあります。
初夏に薄白緑色の4弁の小花を咲かせた後、方形の実を結び秋には熟して
美しい深紅色になり、葉も鮮やかに紅葉するのでヤマニシキギともよばれています。

「まゆみ」は真弓と書き「真(まこと)の弓の木」の意で、この材で
弓を作ったことに由来しますが、「檀」という字が当てられることもあります。

「 南淵の 細川山に立つ檀(まゆみ)
   弓束(ゆづか)巻くまで 人に知らえじ 」
                 巻7-1330 作者未詳


( 南淵の細川山に立っている檀の木よ。
 お前を立派な弓に仕上げて弓束を巻くまでその所在を人に知られたくないものだ )

南淵は奈良県明日香村稲淵の上流、細川山は明日香東南方細川に
臨む山とされています。
「弓束巻く」とは左手で弓を握りしめる部分に桜の樹皮や革を巻きつけて
握りやすくすることで、弓の仕上げの作業です。

男は山で立派な弓の材料になりそうな檀を見つけ、
「木が成長するまで誰にも取られたくない」と詠ったのですが、
檀を自分が目に付けた女に譬え、妻にするまで他人にその存在を知られたくないという心が
籠っています。

「 白真弓(しろまゆみ) 今春山に行く雲の
      行(ゆ)きや別れむ 恋しきものを 」 
                       巻10-1923 作者未詳


( 白真弓を張るという、春の盛りの山に流れて行く雲のように
 私はあなたと別れて行かなければならないのか。
 こんなに恋しくてならないのに。)

いとしい女性と別れて旅立つ男。
作者未詳歌ながら、高く評価されている一首です。

「白真弓は春山の枕詞であるけれども、その山容をくっきりと
空に浮き立つさまを印象づけるのに役立っている。」 (伊藤博:釋注)

「雲に寄せた春の恋の歌としては、まことにおだやかに上品に、
しかも感情があらはれている。
青々とした春の山に棚引く雲を眺めつつ別離の涙をしぼる
情景がしのばれよい歌」       (鷹巣 盛広 万葉集全釈)

「白真弓 石辺(いしへ)の山の 常盤なる
  命なれやも 恋ひつつおらむ 」 
               巻11-2444 柿本人麻呂歌集


( 永久に変わらない石という名をもつ石辺の山
  私の命はその常盤のように不変なのか。そうでもないでしょう。
  それなのにあの子に逢うことも出来ずにいたずらに恋し続けていることよ )

好きな子に逢えないまま、くずくずと日を送る男の自嘲。
白真弓:白木の弓。射るの意で同音の「い」、石辺(いしへ)に掛かる枕詞
石辺の山:滋賀県湖南市の磯辺山か

マユミが古くから重要視されたのは、弓という武器の材料になるほか、
この樹皮から貴重な和紙が作られ、奉書紙や写経などに用いられたことにも
よるようです。
ただ、紙としてはミツマタ、ガンピに比べて樹皮の繊維が短くかつ弱いため
次第に衰退しましたが、その堅牢緻密な材質を利用して各種器具、版木、
将棋駒、こけし、櫛などに加工されています。

「引きよせて みればあかぬは 紅に
   ぬれるまゆみの もみぢなりけり 」  作者未詳 (古今六帖)


見ても見ても見飽きない「まゆみ」の紅葉。
他の紅葉とは異なり、「下葉より染めはじめ、次第に上に及び」しかも長期にわたって
美しさが持続するので、笑み割れた美しい実とともに多くの人達に好まれてきました。

以下は 中 勘助著  まゆみ (岩波書店)からです。

『 - 私は家にも帰らずひとり信州の湖水の島に籠った。
  秋になってから毎日島を覆しそうな嵐が大木の森に咆哮した。
  その息をつく わづかのひまに島のはしに出てみると湖畔の丘の緑の中に
  魁(さきが)けて燃えるばかりにもみぢした木があった。
  ときどき食物を運んでくれる村の人にきいたら歌にあるまゆみの木だといった。』

「 いつしか里は 秋のきて
  むかうの岡の はつもみじ
  ぽつんと赤いひとむらを
  舟こぐ人に問ふたれば
  古歌にありとう梓弓
  まゆみの木とぞ申しける 」   』    ( 同上 )


  



             万葉集340(まゆみ)完

# by uqrx74fd | 2011-10-07 08:48 | 植物

万葉集その三百三十九(橡:つるばみ)

クヌギ:神代植物公園にて
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クヌギの花穂(4~5月)  (万葉歌:ニッポンリプロより)
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楽寿園万葉の森(三島)
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橡(つるばみ)はブナ科コナラ属、檪(くぬぎ)の古名とされています。
本州以東の各地に自生し、建築材、鋤鍬(すきくわ)などの木製農具や
薪(まき)、木炭、近代では椎茸の榾木(ほだぎ)などに用いられ、
また、その実である団栗(どんぐり)はアクを抜いて食糧に、煮汁は樹皮と共に
重要な染料とされました。
 
橡を用いた染色は触媒によって様々な色に変わり、素染めでは亜麻色、
灰汁を使うと黄茶色系、鉄媒染で黒っぽい色(つるばみ色)になります。
橡色に染めた衣は褪色しにくく堅牢なので庶民の服とされ、また中流階級の人たちも
普段着にしていたようです。
万葉集で詠われた橡は六首ありますが、そのすべてが恋の歌か、地味ながらも
昔と変わらぬ色、すなわち妻に譬えられています。

「 紅(くれない)は うつろふものぞ 橡(つるはみ)の
     なれにし衣(きぬ)に なほ及(し)かめやも 」 

     巻18の4109 大伴家持  (既出 32回 部下の恋狂い:カテゴリー心象)

 

( 紅花で染めた衣は華やかで美しいけれどもすぐに色褪せるもの。
  橡染めは地味だが着慣れたほうが良いのに決まっている。
  年若い恋人より糟糠の妻だよ。お前さん。 )

遊女に入れあげている部下に上司である家持が諭している一首で、
説教している最中に都の本妻が妾の家に馬で乗りこみ、
町中が大騒ぎになったという愉快なお話です。

「橡(つるばみ)の 解き洗ひ衣(きぬ)の あやしくも
        ことに着欲しき この夕(ゆふへ)かも 」 
                        巻7-1314 作者未詳


( 橡の洗いざらしの着物が我ながら不思議なくらいに
  格別に着てみたい今日の夕べよ。)

「橡の解き洗ひ衣」とは古い着物を解いて洗い、仕立て直したもの。
「あやしくも」は自分でも不思議に思うくらい。

いつも橡染め着物を着ている女に慣れ親しんできた男が、
妻問ひの夕刻になり、急に懐かしくなり「久しぶりに逢いに行くか」と
思いたったようです。

「 橡の一重の衣 うらもなく
   あるらむ子ゆゑ 恋ひわたるかも 」 
                 巻12-2968 作者未詳


( 橡の一重の着物、
その着物のように裏(心)がないあの子は、男にさっぱり興味を示さないのに
俺様はずっと恋焦がれ続けていることよ )

相手の女はまだ「おぼこ」なのでしょう。
恋もまだ知らず無心に接してくる乙女を密かに想い続けている男です。

平安時代になると、橡で染めた濃い鼠色は、貴人の喪服の色となり、
枕草子の「あはれなるもの」(百一段)に

「 男も女も若く清げなるが、黒き衣(きぬ)を着たる」

などと書かれており、とりわけ女性の喪服姿は楚々とした中にも
凛とした気品を感じさせます。

「 秋風は 心いたしも うらさびし
    檪(くぬぎ)がうれに 騒がしく吹く 」 長塚 節


「 秋風だ。
  檪や楢や雑木やすべてが節制(たしなみ)を失って
  ことごとく裏葉も肌膚(はだ)を隠す隙がなく ざぁつと吹かれてただ騒いだ。
  夜は寂しさに すべての梢が相耳語(あいささや)きつつ、よけいに騒いだ。」

                ( 長塚節 「土」新潮文庫より)

「 檪葉(くぬぎば)は 冬落ちざれば 雪とけて
     雫をおとす 赭土(あかつち)の上に 」 島木赤彦


檪は落葉樹にもかかわらず葉を落とすのはごく一部で、そのほとんどが
枝に残って冬を越し、春、新芽が出はじめると、あたかも役目を終えたかの
ように新葉と交代します。
そして、黄褐色の小さな花を穂状に咲かせ、やがて成熟して団栗になるのです。

   「 団栗(どんぐり)や ころり子供のいふなりに」   一茶

# by uqrx74fd | 2011-10-02 10:23 | 植物