万葉集その六百五十七 (万葉人は鮪がお好き)

( 鮪   築地魚市場 )
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( 鮪の尾鰭  プロはこれを見て品定めする  同上 )
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( 鮪の大切り身  同上 )
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( 大トロ  新富寿し   銀座 )
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(  赤身     同上 )
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( トロ巻き     同上 )
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万葉集その六百五十七 (万葉人は鮪がお好き)

726年10月、聖武天皇が播磨国に行幸されたときのことです。
海が見える場所に急造された仮宮に着き、外を眺めると、
鮪釣り舟が多く集まって漁をしており、砂浜では人々が塩を焼いていました。
民たちが天皇歓迎の大漁祭をしていたのかも知れません。
海が無い大和で育った天皇にとって何よりの催し。
思わず身を乗り出し、見入りながら満足げなご様子です。

ややあって、お供の人が歌を奉り声高らかに詠います。
まずは訳文から。

「  あまねく天下を支配されておられる 我らの大君が
   神として 高々と
   宮殿をお造りになっている 
   印南野の邑美(おふみ)の原の中の 
   広々とした海に面した藤井の浦では
   鮪(シビ)を釣ろうとして 海人の舟がたくさん集まり
   また、浜では塩を焼こうとして 人がいっぱい集まっている

   なるほど、浦が良いので  このように 釣りをするのだ
   浜がよいので  このように 塩を焼くのだ

   さればこそ  わが大君も こうしてたびたび お通いになって 
   ご覧になるのだ
   あぁ、なんと清らかな 眺めの素晴らしい白浜であることよ。 」

                              巻6-938  山部赤人

   ( 当時、鮪(マグロ)は「シビ」とよばれていた。)

訓み下し文

「 やすみしし 我が大君の 
  神(かむ)ながら 高知らせる

  印南野(いなみの)の 邑美(おふみ)の原の
  荒袴(あらたへの)  藤井の浦に

  鮪(しび)釣ると 海人舟騒き
  塩焼くと 人ぞ さはにある

  浦をよみ うべも釣りはす
  浜をよみ  うべも塩焼く

  あり通ひ  見さくもしるし
  清き白浜 」
                   巻6-938 山部赤人
語句解釈

 「やすみしし」   我が大君に掛かる枕詞 
                「八隅知し」「安見知し」で八隅をくまなく治める、
                 安らかに天下を治める の意か。

     「神ながら」     神として(天皇を神とみている)

     「高知らせる」    高々と宮殿(行宮:仮の宮)をお造りになっている

     「印南野の邑美の原」 播磨国(兵庫」明石から加古川のかけての平野
     「藤井の浦」 明石市藤江付近

     「荒栲の」 藤井の枕詞、荒い布の繊維の藤の意

     「人ぞ さはにある」 さは:沢山
     「うべも」 なるほど
     「あり通い」 なんども通い
     「見さくも しるし」   ご覧になるのは当然
                  「見さく」は見るの敬語 「しるし」は著しい
反歌

「 沖つ波  辺波(へなみ)静けみ 漁(いざ)りすと
              藤江の浦に 舟ぞ騒ける 」 
                   巻6-939  山部赤人
( 沖の波も 岸辺の波も 静かなので
      魚を獲ろうとして 藤江の浦に 舟が賑わい、騒いでいる )

当時、播磨灘に面した明石の沖は鮪が沢山獲れ、製塩も盛んだったようです。

ここでは「釣る」とあるので、勇壮な1本釣り。
古代遺跡から、手のひら大の骨製釣り針が古代遺跡から出土していることも
そのことを裏付けています。
また古事記に

「 大きな魚(うお)よ 鮪(しび)突く 海人よ
  その大魚が逃げたら さぞや恋しく悲しかろ
  鮪を突いていろ シビ(人名)さんは 」

との記述があり、銛で突く方法もあったようです。

 「 船傾き 阿吽(あうん)の呼吸で 鮪(まぐろ)釣る 」     楓 巌涛

鮪(まぐろ)の脂身は記憶能力,創造能力を高め、血栓を防ぐ物資が驚くほど
多く含まれていますが、古代人はどのようにして食べていたのでしょうか?

冷蔵能力がなかった時代、考えられるのは塩付けで保存し焼く、いわゆる
鮪のステーキ、あるいは煮る、乾燥させる。
いずれにしても縄文時時代の貝塚から多数の骨が出土しているので、
万葉人の好物だったことは間違いありません。

江戸時代になると、握りずしが考案され鮪が飛躍的に普及しましたが
好まれたのは赤味のみ、脂身のトロは捨てられるか、豚の餌に。
大トロが超高級ネタになったのは戦後の高度成長期以降のことです。

ごく最近の新聞記事で「赤マグロ価格高騰」とありました。
乱獲による資源大幅減が原因のようですが、庶民にとっては何よりのご馳走。
秩序ある漁法で食卓を賑わせてもらいたいものです。

   「 遠つ海の 幸の鮪を 神饌となす 」  黒田 晃世


            万葉集657(万葉人は鮪がお好き)完


   次回の更新は11月12日(日曜日)、通常(金曜日)より遅くなります。

 
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# by uqrx74fd | 2017-11-02 17:17 | 動物

万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)

( オオムギ    奈良万葉植物園 )
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( コムギ     同上 )
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( キビ      市川万葉植物園   千葉)
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( アワ      同上)
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( ヒエ      同上 )
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( 赤花そば  栗橋  埼玉県 久喜市 )
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( 高層ビルの前で堂々たる風格、 老舗砂場の発祥地は大阪  虎の門 東京 )
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      万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)

古代の五穀は「 粟(アワ)、稗(ヒエ)、稲、麦、豆 」(日本書紀)とされていますが、
庶民の主食は「 麦、粟(アワ)、黍(稷:キビ)、稗、蕎麦 」。
米や豆は税として朝廷に収められ、大多数の人たちの口に入らなかったのです。

万葉集では蕎麦以外すべて詠われていますが、苦しい農作業にもかかわらず
いずれも楽しいものばかり、まずは麦からです。

大麦の原産地はカピス海から地中海の沿岸、小麦は西アジアとされており
弥生時代には早くも日本に伝わっていたと推定されています。
723年、朝廷は飢饉に備えて麦などの雑穀の栽培を奨励する太政官府を
発布しており、「廣野 卓著  食の万葉集 (中公新書) 」によると

「 オオムギはそのまま粒食し、コムギは主として粉にして、
 餅(団子)や煎餅に加工したので用途が広く、時代と共に多用された」
 そうです。

「 馬柵(うませ)越しに 麦食(は)む 駒の 罵(の)らゆれど
       なほし恋しく 思ひかねつも 」 
                              巻12-3096 作者未詳

( 馬柵越しに麦を食べている馬が怒られているように
     私もあの子の母親から、もう娘に会うなと怒鳴りつけられてしまった。
     でも、やっぱり恋しくて恋しくて--。
     そう簡単に忘れられるものか! )

通い婚の時代、母親は子と同居していたため家庭内の発言力が強く、
結婚や交際は自身の眼鏡にかなった男しか許可しませんでした。
男は女の家の前で呼び出そうと声をかけたら母親が出てきて
怒鳴られたのでしょう。
自分を馬に譬えるとは、なかなかユーモアセンスがある男です。

「 梨 棗(なつめ) 黍(きみ)に 粟(あは)つぎ 延(は)ふ葛の
      後(のち)も逢はむと 葵花(あふひはな)咲く 」
                             巻16-3834  作者未詳

( 梨が生り棗(なつめ)や黍(きび)、さらに粟(あわ)も次々と実り、
 時節が移っているのに、私は一向にあの方に逢えません。
 でも、延び続ける葛の先のように、
  「後々にでも逢うことが出来ますよ」
 と葵(あふひ)の花が咲いています。 )

言葉遊びの戯れ歌。
宴会で梨、棗(なつめ)、黍(きび)、粟(あわ)、葛、葵を詠みこめと
囃されたものと思われます。
これらは、すべて食用とされる植物ばかりで

「 季節を経て果物や作物が次から次へと収穫の日を迎えているのに、
  長い間愛しい人に逢えないでいる。
  でも葛の蔓先が長く這うように、長い日を経た後でも、きっと逢えるよと
  葵(あふひ)の花が咲いています。」

つまり、「あふひ(葵)」を「逢う日」に掛けて見事な恋歌に仕立てたのです。

古代中国で五穀の筆頭に「キビ」を置き、重要視していたことが
「社稷(しゃしょく」という言葉に窺われます。

廣野 卓氏によると

『「社」は「土地」を意味し、「稷」は「キビ」、
従って「社稷を守る」という事は国を維持すること。
これは古代中国の歴史は黄河流域を中心として展開したため、
その地帯は水田耕作よりも畑作に適しており、必然的に陸作のキビが重視された。

  キビにはタンパク質やカルシュウム、鉄、ビタミンB2をふくみ、
最近注目されている食物繊維も多く、必然的にわが国でも多く栽培された 』
                                ( 食の万葉集  中公新書 要約 ) 
なお、上記歌の葵は冬葵(フユアオイ)とされ、若葉は食用、
実は利尿に効ありとされています。

「 左奈都良(さなつら)の 岡の粟蒔き  愛(かな)しきが
    駒は食(た)ぐとも 我(わ)は そとも追(は)じ 」
                                巻14-3451 作者未詳

( ふさふさと実る粟を楽しみに左奈都良の岡に種を蒔いています。
 でもその粟があのお方の馬に食べられようともかまいませんわ。
 いとしいお方の馬ですもの。決して追い払ったりはしません )

左奈都良:常陸説など諸説あるが未詳   
「そ とも追(は)じ」 :「そ」は馬を追う声

可愛い娘が憧れの人を想いながら粟の種蒔きをしている場面です。
房々とした実がなる時節を思い描いているところから恋の成就と豊作を
祈ったのでしょうか。

粟の原産地はインド北部から中央アジア。
ユーラシア大陸で栽培化されたものが中国に伝播したのが紀元前2700年頃で、
我国へは縄文時代に朝鮮を経て入り、稲が伝来するまで主食とされていました。

715年元正天皇は「粟は長年の間人々の生活を支える中心であり、
色々な穀物の中でも最もすぐれたものである。
納税に粟を納めたいというものがおればこれをゆるせ」
と命じています。(続日本紀)

粟は痩せた土地や寒冷地でも良く育ち、澱粉、蛋白質、ビタミンB1,B2を含み、
しかも、保存性がよいので明治40年頃までは20万ヘクタール以上の栽培面積を
誇っていましたが、稲作技術の向上により米の生産量が増えると急速に減少し、
現在では九州と東北地方の一部でわずかに生産されているのみです。

なお、粟には「うるち種」と「もち種」があり、「うるち種」は、
飯に混ぜて炊いたり、粟おこしに、「もち種」は、だんご、粟餅、粟饅頭、
水飴、泡盛(酒)などに使い分けられています。

因みに世界最古の麺は中国青海省 喇家(らつか)遺跡で出土した
「アワ(粟)で作った麺」で今から4000年前のものとか。

「 打つ田に 稗(ひえ)はし あまた ありといへど
    選(え)らえし我ぞ 夜をひとり寝(ぬ)る 」 
                         巻11-2476 作者未詳

( 田んぼに稗はまだたくさん残っているというのに
 よりによって抜き棄てられた俺は、夜な夜な一人寝だわい )

もてない男が「おれは稗より劣る」とひがんでいます。
というのは、稲の間に稗が混じっていると米の味が落ちるので、
抜き棄てられていたのです。
尤も貧農は棄てずに食べていたので、作者はそれなりの余裕がある男だった?

『 ヒエの原産地は東アフリカ、インド説があり、野ビエと水ビエから栽培種に
  改良されたといわれ、現在インドにはヒエを主食とする地方があり、
  粥にしたり、粉を団子にしたり、薄くのばして焼くなどと調理されているが
  万葉時代のヒエ食を推測する参考になる。

主な栄養成分は、ビタミンB1が白米の半量である以外は、ほとんどの
成分が米より1.5~2倍、カルシュウム、鉄の含量が2倍~3倍あるので
調理法を研究すれば日本人に不足しがちな栄養素の補給源として有効な穀物 』
だそうです。  ( 廣野卓 同 要約 )

   「 蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな 」    芭蕉

 蕎麦の花は秋の季語。
「 折角お出でいただいたのに蕎麦はまだ花の状態で何もご馳走ができません。
 蕎麦を打っておもてなししたいところですのに。」
と作者の挨拶句。

蕎麦も古くから栽培されており、約3000年前といわれる縄文晩期の
埼玉県真福寺遺跡や弥生時代の静岡県登呂、韮山山木遺跡からソバの実の
出土例があり、また722年、元正天皇詔に

「 全国の国司に命じて人民に勧め割り当てて、晩稲(おくて) そば、大麦、小麦を
  植えさせその収穫を蓄え、おさめて凶年に備えさせよ」 とあります。

さらに、宮本常一氏は
『 平城宮から出土した木簡(租税の荷札)に「波奈作久」(はなさく)とあり、 
  この「ハナサク」がソバであろう。
  ソバの古名はソバムギだと図鑑は記しているが別名ハナサクと
  いっていたのではないか 』      ( 日本文化の形成 講談社学術文庫 ) 

  と述べておられ、当時そば粉を湯で溶いて「そばがき」のようにして食べて
  いたようです。
  にもかかわらず、万葉集に歌が1首もないのは誠に残念至極。

   「 古を 好む男の 蕎麦湯かな 」      村上鬼城

蕎麦閑話 ( 楠木憲吉 たべもの歳時記 おうふう より)

 蕎麦の「蕎」は「キョウ」と読み「ハヤトグサ」という薬草であり
 「タカトウダイ」(ヒルガオ)の古名。
 ヒルガオに似た葉をもち、麦のような実を付けるので
 「蕎麦」という字が生れた。
 タデ科のソバ属でありながら、麦という名が付いたのは粉にすると
 麦と変わらないところからきたもの。

 蕎麦の字が初めて登場するのは「続日本紀」(元正天皇養老6年:722年7月の条)で
 「蕎麦及大小麦」とある。

 「そばがき」が現在のソバの形状になるのは江戸時代からで
 江戸にはすでに4000件近くの蕎麦屋があった。

 蕎麦屋には「更科」、「藪」、「砂場」の3系列がある。

 「更科」は寛政の初めごろに初代の布屋清右衛門が江戸麻布永坂に
 「信州更科蕎麦処」を始めたのがその起こり。
 「布屋」はその名が示すように、もとは呉服屋で信州更科郡保科出身の
 晒し布の行商人であった。
 元禄期に領主の保科兵部少輔について江戸にのぼり、江戸屋敷の
 麻布十番の長屋に住んでいたが、蕎麦打ちの特技を買われ、領主のすすめで
 「そばや」になったとのこと。
 「更科」という屋号は、故郷の更級郡の「更」と主家、保科の「科」を
 合わせたものである。

 「藪」は本郷団子坂の藪のなかにあった「つたや」のニックネーム「やぶ」から
 きたものとされる。

 「砂場」は、もと大阪のそば屋であった。
 新町遊郭の付近を砂場といい、新町疎開のための砂利置場であったのであろう。
 この砂場一党が江戸へ進出して、最初麹町7丁目に開業し、後に芝魚藍坂に
 移り、現在は三ノ輪にも系類が残っている。
 「本石町砂場」や「芝琴平町砂場」はそこから出たものである。

 俗に「更科は白米の味、藪は七分搗きの味」といわれる。
 つゆも「藪」の方が濃い目だ。

             万葉集656 (庶民の五穀 )完



           次回の更新は11月3日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-10-26 16:48 | 植物

万葉集その六百五十五 (桑の木)

( マグワ  東京都薬用植物園 )
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( ハリグワ   同上 )
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( 桑の花    同上 )
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( 桑の実    同上 )
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( ヤマボウシ:山桑  山辺の道  奈良 )
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( ただいま養蚕中  シルク博物館  横浜 )
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(  桑茶  群馬絹の里産 )
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(  桑の実ジャム  島根産 )
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万葉集その六百五十五 (桑の木)

「 夕焼け小焼けの 赤とんぼ
  負われて見たのは いつの日か

  山の畑の 桑の実を
  小籠に摘んだは まぼろしか 」 
                            ( 赤とんぼ 三木露風 作詞 山田耕作 作曲)

桑はクワ科の落葉樹で樹皮は暗褐色、葉は卵形あるいは心臓の形をしており、
両面に短い毛があります。
4月頃、淡い黄緑色の花を穂状に付けますが、花びらがないので目立ちません。
花後、夏に甘味のある紫黒色の実を結び食用に、茎、根皮は利尿、咳止め、
血圧を下げる薬効があり、葉は養蚕に欠かせない有用の木です。

養蚕盛んなりし頃は全国いたるところで桑畑がみられ、

「 桑海(そうかい)の 涯(はて)に山あり、夕日あり 」   岸 善志

などと詠われていましたが、現在ではあまり見かけなくなっています。

古代、養蚕は重要な生業の1つで、蚕を育てて繭玉を作り、
糸を紡いで衣を織る一連の作業はすべて女性の仕事とされていました。

「 たらちねの 母がその業(な)る 桑すらに
    願へば衣(きぬ)に 着るといふものを 」  
                            巻7-1357 作者未詳

( 母が生業として育てている桑の木でさえも、ひたすらお願いすれば
 着物として着られるというのに。)

どんなに困難なことでも一心に願えば成就するのに
私の恋は実らないと嘆く乙女。

以下は伊藤博氏の解説(万葉集釋注)、当時の女性の養蚕の様子を詳しく記して
おられますので、全文引用させて戴きます。

『 養蚕は女の困難にして重要な生業であった。
  すぐれた桑を育てないと立派な蚕は出来ない。
  幼虫には柔らかい葉を与えねばならず、成虫にはつやつやとした
  張りのある葉を与えねばならない。
  油断していると、蚕を好物としている蟻に食われてしまう。

  無事育て上げた蚕の食欲は旺盛で、深夜にはその歯音の響きが
  さざ波のように聞こえる。

  桑の葉に毒物があると、蚕たちは一朝にして死す。
  今でも、蚕を育てる人は、蚕のことを「お蚕さま」とよんでいる。

  「お蚕さま」は成熟の極みに達すると「おヒキさま」になる。
  躰が少し曲がって透体を呈するのである。
  これを拾って藁の床に寝かせてやると、かれらは糸を吐いて
  二、三日の間に繭となる。

  だがヒキの拾いの時期を誤るとほれぼれする繭は期待できない。
  こうした難行の末にできた絹が貴重であることはいうまでもない。

  桑から繭へ、そして糸から衣へ― それは外目にも神秘な過程である。
  が、当事者にとっては悲願にも似た祈りが常に込められている。

  「 桑すらに願へば衣に着る」という表現は、蚕を育てる母親の緊張を
  よくよく知る者の言葉に違いない。

  その難行を我が恋の苦しさに譬えたところが新鮮である。
  この娘の恋は、当の母親によってさえぎられているのではなかろうか。
  母の願いはその困難な生業に通じるのに、私の願いはどうして母さんに
  通じないのか。
  そのように考えればさらにいっそう生きてくる歌のように思えるが
  いかがであろう。 』

「 見るからに 桑の若芽は やはらかし
        夕日の光 ながれたるかな 」    土田耕平

古代、養蚕に使われていたのは中国渡来のマグワのほか、古くから自生していた
野性のヤマグワ(別名ヤマボウシ)も利用されていた推定されています。

万葉集では「拓:つみ」と詠われ、用途は桑とほぼ同じ。
葉を蚕の飼料にするほか、和紙の原料、織物、黄色の染料、家具材、
薬用(利尿)など多方面に利用されていました。
また、初夏になると小さな白い花を咲かせ、秋には黒紫色の実をつけます。

「 ますらをの 出(い)で立ち向かふ 
  故郷(ふるさと)の 神(かむ)なび山に

  明けくれば 柘(つみ)の さ枝に  
  夕されば 小松が末(うれ)に  」   
                          巻10-1937(一部) 古歌集

( ますらおが家を出て相立ち向かう
  故郷の神々しい山。

  この山に明け方にやって来ると、
  ホトトギスが柘(つみ)の枝に止まって鳴き、
  夕方にには松の枝で鳴く。)

「神なび山」は「神がこもる山」の意で飛鳥のミハ山とされ、
ホトトギスを通して聖なる山を讃えています。

古代、柘(つみ)は菖蒲、桃、蓬(ヨモギ)などと共に邪悪を払う魔除けの植物と
されていたので聖なる意をあらわす「“さ”枝」と詠い、
不老長寿の象徴である松(小松)と対句になっています。

旅先で家恋しい作者は、妻を求めて鳴くホトトギスに
わが身を重ねているのでしょうか。

  「 郷愁や この道ばたの 桑の実に 」   水原秋櫻子



             万葉集655 (桑の木)完

          次回の更新は10月27日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-10-19 17:10 | 植物

万葉集その六百五十四 (秋の草花)

( カワラナデシコ  奈良万葉植物園 )
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( ナンバンギセル  同上 )
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( ハギ 山の辺の道 巻向   奈良 )
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( ヒガンバナ  明日香 稲渕棚田 )
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( ハダススキ   石舞台公園  奈良 )
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( 風に靡くススキ   同上 )
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( 三輪山   山の辺の道 )
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( 今年も豊作  明日香 案山子祭り )
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万葉集その六百五十四 (秋の草花)

秋の七草といえば山上憶良が詠った
「萩、尾花、葛、なでしこ、オミナエシ、藤袴,桔梗」が定番。
ところが、最近は花期がそれぞれ異なり同じ時期に出会うことが
出来なくなっています。

あちらこちらの植物園で七草コーナーが設けられていますが、
中秋まで咲いているのはオミナエシ、ススキに藤袴。
萩、葛、なでしこ、桔梗は夏の半ばから咲きはじめ、9月中旬に
終わっていることが多く、折角のコーナーも見栄えがしません。

というわけで、彼岸も過ぎたある日、今頃どんな草花が咲いているだろうかと、
思い立ち、奈良万葉秋の草花探しに出かけました。

まずは春日大社神苑万葉植物園の撫子コーナーへ。
毎年所狭しと咲いていましたが、今年は天候不順が続いたため、あるいは
もう散ってしまったのか、残っていたのはわずか数株のみ。
それでも色美しく健気な姿を見せてくれました。

「 我がやどに 咲けるなでしこ 賄(まひ)はせむ
      ゆめ花散るな いや若変(をち)に咲け 」 
                  巻20-4446 丹比国人真人( たじひの くにひとの まひと)

( 我が家の庭に咲いている撫子よ、欲しいものは何でも差し上げよう。
 だから、決して散るなよ。 
 これからも益々若返り、咲き続けていくのだぞ。)

755年の6月の終わり頃、作者は左大臣橘諸兄の推挙により栄進。
そのお礼にと諸兄に自宅への来駕を乞い、祝宴を設けた時の歌。
撫子にことよせて主賓の諸兄の繁栄と健勝を寿いだ挨拶です。
 左大臣が部下の自宅へわざわざ足を運んだのは、よほど目にかけていたのでしょう。
作者、真人の感激と喜びが感じられる一首。

「若変(おち)」は若返る意で、撫子が初夏から秋まで次から次へと咲き続け、
常夏という別名もあるので寿ぎ歌として取り上げられたものと思われます。

植物園を巡っていると「ナンバンギセル」開花の表示の立札が。
でも、芒の茂みの下蔭で咲いているのでなかなか見つけることが出来ません。
目をこらして探すと、あった、あった。

「 道の辺(へ)の 尾花が下の 思ひ草
       今さらさらに 何をか思はむ 」 
                        巻10-2270 作者未詳

( 道のほとりに茂る尾花の下で物思いにふけっているように咲く思ひ草。
  俺はもう、その草のように今さら思い迷ったりなどするものか )

ススキが風にそよぐ音、サラサラが「今さらさらに」の語を引き出すように
詠われ、リズムが心地よい。
作者は一体何を決心したのでしょうか。
好きな女性との決別、あるいは様々な困難を乗り越えて結婚、
正反対の解釈が出来そうです。

ナンバンギセルはハマウツボ科一年草の寄生植物で、ススキや、ミョウガ、サトウキビ
などの根元に生え、その根から養分をとっています。
秋になると紫紅色の花を咲かせますが、その先端が首をかしげて
物思いにふけっている様子から、古代の人たちはこの植物を「思ひ草」とよんでいました。

この漠然とした名前が現在の何に当たるかについて諸説ありましたが、
この歌の「尾花が下の思ひ草」つまり、ススキに寄生する姿を詠っていることが
決め手となり、現在ではナンバンギセルが通説となっています。
なお、ナンバンギセルは漢字で「南蛮煙管」と書き、南蛮から渡来した煙管(きせる)の
雁首に花の形が似ているとことから命名されたそうですが、これは後代(16世紀以降)
のことです。

   「 草陰で 思ひにふける 煙管花(きせるばな)
            そは誰をし 愛(いと)し染めける 」     筆者
         
今度は山の辺の道へ。
三輪山の麓からの出発し、約8㎞のハイキング。
柿、栗、ぶどう、蜜柑、ざくろ等が枝も撓むほどに実り美味しそう。

花はコスモス、ヒマワリ、そして綿の花。
萩はほとんど終わっていましたが、幸運にも巻向山の麓で赤白一対が満開。
まるで私の来訪を待っていてくれたようです。

「 妻恋ひに 鹿(か)鳴く山辺(やまへ)の 秋萩は
    露霜寒み 盛り過ぎゆく 」 
                             巻8-1600 石川広成 

( 妻に恋焦がれて鳴く鹿がいる山辺に咲く秋萩。
  その美しい萩も、露霜が寒々と置くので、盛りが過ぎて行くなぁ。)

743年、恭仁京、大伴家持宅宴席での歌。
頃は9月の終わり、鹿の声、萩、露を取り合わせて過ぎゆく秋を惜しみ、
「のびやかでうるおいがあり、素直な抒情が快い」(伊藤博)と評されています。

翌日、明日香石舞台の奥、稲渕棚田へ。
稲が間もなく収穫期を迎える中、彼岸花が満開。
案山子祭りも行われていました。

「 道の辺(へ)の 壱師(いちし)の花の いちしろく
      人知りにけり 継ぎてし思へば 」
                 巻11-2480  柿本人麻呂歌集 別歌

( 道端の「いちし」の花ではないが、とうとう世間様の噂になってしまった。
 私が絶えずあの子の事を想っているので。)

「いちしろく」の原文は「灼然」、「著しくはっきり」という意で、
壱師(いちし)の「いち」を掛けている。

真紅に燃えるように咲き、火花を散らしたような花びらを広げる彼岸花。
私の恋の炎は一瞬たりとも消えることがない。
そんな思いがとうとう世間の人に、ばれてしまった。

「恋は秘密に」というのが当時の習い。
ひよっとしたらこの恋は壊れるのではないかと心配している純情な男です。

なお、「壱師(いちし)」が現在のどの花に該当するか、諸説ありましたが、
牧野富太郎博士は彼岸花であることを力説され、山口県に「イチジバナ」 
山口県熊毛地方に「イチシバナ」北九州小倉地方に「イチジバナ イッシセン」の
方言があることが判明し(松田修 古典植物事典 講談社学術文庫 ) 
牧野説の正当性が裏付けられています。

彼岸花は冷夏、酷暑、多雨などの悪天候に関係なく時期が到来すると
必ず花を咲かせるなど極めて生命力が強い上、鱗茎の澱粉が極めて良質なので、
飢饉に備えて田畑に多く植えられた救荒植物です。
( 鱗茎:りんけい  地下茎の一種 ユリ根、たまねぎの類 )
ただし、アルカロイド、リコリンなどの有害物資を含んでいるので、
人々は鱗茎を細かく搗き砕き、一昼夜以上流水に浸して毒性を洗い流して
そうですが、古代の人々の生活の知恵は大したもの。

  「 歩き続ける 彼岸花 咲き続ける 」     種田山頭火

明日香は見渡すかぎりの彼岸花。
ゆっくりゆっくり歩いて石舞台公園へ。
ススキが元気よく生い茂り風に靡いています。

「 かの子ろと 寝ずやなりなむ はだすすき
          宇良野の山に 月片寄るも 」 
                          巻14-3565 作者未詳

( 今夜はあの子と一緒に寝ずじまいになってしまうのかなぁ。
 はだすすきが茂る宇良野の山に月が傾いている。)

はだすすき:「肌すすき」: 皮(苞)につつまれ未だに穂に出ていないすすき
                 ここでは宇良野の枕詞、
                 「穂の末(うれ)」の縁で「ほ」「うら」などに掛かる
宇良野:  長野県上田市浦野あたりか。

今夜は待望のデート。
約束の場所で今か今かと心をときめかせて待っていた。
ところが彼女は何時まで経っても姿を見せない。
一体どうしたのだろう? 
母親に止められたのだろうか。
それとも心変わり? 
あれこれ悩んでいるうちに月も傾き間もなく夜が明ける。
焦燥と絶望感、寂しさ、じれったさが染み入るような東歌の佳作です。

「 山陰の 野に暮れ急ぐ 芒かな 」    松窓乙二

間もなく夕暮れ時。
抜けるような青空の下、爽やかな秋の草花探しの旅でした。




           万葉集654 (秋の草花)完


            次回の更新は10月20日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-10-12 16:18 | 植物

万葉集その六百五十三 (月)

( 春日山の月  奈良 )
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( 中秋の名月  2017,10,4撮影 )
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(  同上 )
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(  若草山焼きと月    奈良 )
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( 歌川広重も絵に描いた月の松   上野公園 )
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( 狸囃子  明日香 棚田案山子祭り   奈良 )
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( 餅つく兎さん   同上 )
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(  二人で月見   同上 )
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万葉集その六百五十三 (月)

澄み切った秋の空。
地上を煌々と照らす月は爽やかで四季を通じて最も美しい。
それゆえ詩歌の世界で単に「月」と云えば「秋の月」をさし、
他の季節の月をいうときは「春の月」「夏の月」などの、ことわりがいるそうな。

今夜(10月4日)は仲秋の名月。
雲が少し多いが金木犀の香り漂う良夜です。
さぁさぁ、万葉人と一緒にお月見を致しましょう。

「 春日山 おして照らせる この月は
       妹が庭にも  さやけくありけり 」
                     巻7-1074 作者未詳

( 春日山一帯をあまねく照らしているこの月は
 いとしいあの子の家の庭にもさわやかに照り輝いていたなぁ。)

「おして照らせる」: 地上をあまねく照らしている

作者は数日前、愛しい人の家で一緒に月を愛で、その余韻にひたっています。

春日山の上で輝いている月は今日も我家の庭を照らしている。
あの時は彼女も月も美しかった。

酒杯を傾けながら、楽しかったひと時を瞼に思い浮かべ、
今頃、あの子はどうしているだろうか、と呟く男。

次の二首は春日山に隣接する高円山麓での月見歌です。

「 常はかって 思はぬものを この月の
     過ぎ隠らまく 惜しき宵かも 」 
                       巻7-1069  作者未詳

(  日頃はついぞ思ったこともないのに、目の前の月が西に傾いて
  見えなくなるのが、とりわけ惜しまれる今宵ですなぁ。)

招待された客の挨拶歌。
月を褒めることによって、主人への賛辞と謝意を述べたもの。
普段は月が落ちるのを見ても何とも感じなかったが、あなた様とこうして
盃を傾けながら月を愛でていると、時間が立つのが名残惜しく思われてなりません。

「 ますらをの 弓末(ゆずゑ)振り起こし 猟高(かりたか)の
      野辺(のへ)さへ清く 照る月夜(つくよ)かも 」
                              巻7-1070  作者未詳

( ますらおが 弓末を振りたてて猟をするという名の猟高の野。
 今夜はこの野辺まで清らかに照り映えて見えています。
 なんと素晴らしい月夜なのでしょうか。)

猟高: 奈良春日山に隣接する高円山近辺

客人に対する主人の返歌。
あなたさまと一緒に過ごすひとときは何と楽しいことでしょう。
この野原一面を照らす月の光も清々しく、酒も美味い。
さぁ、さぁ、もう一献どうぞ。

「 ぬばたまの 夜わたる月を 留(とど)めむに
        西の山辺(やまへ)に 関もあらぬかも 」 
                        巻7-1077  作者未詳

( 夜空を移つて行く月、この月を何とか引きとめる関所が
     西の山辺にでも ないものでしょうか。)

月を眺めているうちに、夜も更け明け方近くなってきた。
なんとかそのままずっと止まっていてくれないものか。

「 秋風に たなびく雲の 絶え間より
       もれ出づる月の  影のさやけさ 」
                      左京大夫顕輔(さきょうのだいぶ あきすけ)
                      新古今和歌集、百人一首


( 秋風に吹かれてたなびいている雲の切れ間から
 もれ出てくる月の光の、なんと明るく澄みきっていることか。)

「影のさやけさ」の「影」は光

秋の夜の華麗な月。
風に吹かれ流れてきた雲が一瞬月を隠す。
雲間から射す月の光もまた清々しく神々しい。
華やかさの背後に、そこはかとない寂しさが滲み出ている名歌です。

      「 月夜よし、 二つ瓢(ふくべ)の 青瓢(あおふくべ)
                   あら へうふらへふ と 見つつおもしろ 」 北原白秋


月に照らされながら ぶら下がっている二つの瓢箪が、
清風に吹かれて微かに揺れている。
盃を傾けながら眺めていると、飲むほどに
「あら、へうふら へふ」と酔いが廻ってきた。
これは、これは、瓢箪が揺れているのか、俺様が揺れているのか。
と興じている作者です。

 「 月読神(つくよみの かみ)にと 供(そな)ふ小机に
               茹で栗 団子 菊添ふすすき 」    窪田空穂



       万葉集653 (月)    完


      次回の更新は10月13日 (金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-10-05 10:56 | 自然