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万葉集その三百六十六(桜と蘭蕙:らんけい)

( 又兵衛桜  奈良)

( 千鳥ケ淵 )

( 同上 )

(  紫蘭  入江泰吉 万葉の華 雄飛企画より)

( 千鳥ケ淵 )

747年のことです。
大伴家持は前年暮れの風邪をこじらせたのか肺炎らしき病にかかり2カ月以上も
床に臥すという長患いになってしまいました。
一時は死をも覚悟したようですが何とか持ち直し、回復に向かった2月の終わり、
現在の4月の初めのころでしょうか、歌友の大伴池主に見舞いの礼状と歌を送ります。

漢文で書かれた文の大意は次の通りです。

「 思いもよらない邪(よこしま)な病に取りつかれて寝込み、数十日も苦しみました。
  ありとあらゆる神々に祈りを捧げてお縋(すが)りし、ようやく小康を得ましたが、
  まだ体は痛み疲れており一向に力が入りません。
  そのような次第でお見舞いのお礼にも伺うことが出来ずにいますが、
  お目にかかりたい気持ちで一杯です。
  今しも時は春、花は馥郁とした香りを苑に漂わせ、鶯は高らかなる声を林に
  響かせています。
  このような時候に琴や酒樽を傍らに置いて興を尽くしたい気持ちがはやるばかり
  ですがまだ出かける労に耐えることができません。
  よって拙い歌をお送りいたします。」

「 春の花 今は盛りに にほふらむ
    折りてかざさむ 手力(たぢから)もがも 」
                     巻17-3965 大伴家持


( 春の花 今や盛りにと咲いていることでしょう。
 手折って挿頭(かざし)にできる手力があったらよいのに )

手紙と歌を受け取った池主は早速返書と歌を届けます。

「 はからずもありがたいお便りかたじけなくいただきました。
  お筆の冴えは雲を凌ぐばかりに見事で、声に出して吟じたりしてそのたびに
  お慕わしい思いをまぎらわしています。
  春は楽しむべき季節、中でも3月の季節は最も心が惹かれます。
  紅の桃は輝くばかり、浮かれ蝶は花から花へと舞いまわり、緑の柳はなよなよと、
  可憐な鶯は喜々として葉に隠れて囀っています。
  それなのに蘭と蕙そのままの二人の交わりが隔てられて琴も酒も用がないなどと
  いう事になろうとは。
  あたらこの好季節をやり過ごしてしまうとはまことに恨めしいことです。」

「 山峡(やまがひ)に 咲ける桜をただ一目
    君に見せてば 何をか思はむ 」 
                     巻17-3967 大伴池主


( 山あいに咲いている桜、その桜を一目だけでもあなたにお見せできたら
 なんの心残りがありましょう )

風雅な文のやり取りですが文中の蘭(らん)、蕙(けい)とは「シュンラン:春蘭」と
「シラン:紫蘭」ことです。
原文では
「蘭蕙(らんけい)藂(くさむら)を隔て、琴罇(きんそん)用いるところなからむとは」と
なっており、通常は君子賢人に譬えられる表現ですが、ここでは二人の親しい
交わりをいい
「お互いに逢えないので琴も酒も用いることなくいたずらに時を過ごして」の意です。

紫蘭は本州中南部、四国、九州の日当たりの良い、湿った岩上や湿原に自生する
多年草で栽培もされています。
春から初夏にかけて紅紫色の花を咲かせますが、稀に白花のものもあり
これを特にシロバナシランというそうです。

以下は「 柳 宗民著 日本の花」からの要約抜粋です。
 
『 わが国にはランの野生種が大変多い。
中でもシュンランやエビネ、フウラン、セッコクは東洋蘭の一員として
園芸化されて人気が高く、高級品扱いされることが多いが、日本の野性ランの中で
紫紅色のその花がもっとも目立ち、美しいのがこのシランであろう。
他のランは高級品扱いされるが、シランだけはポピユラーな宿根草花として
庭植えや切り花にされて楽しまれてきた。
性質が強く庭植えでよく育つためだろうか。
宿根草として扱われるが、元来は球根植物で地下に扁球状の球根があり、
その球根は白及根(はくきゅうこん)と称し薬用(筆者註:吐血など)に使われるほか、
含まれる澱粉を糊としても用いられた。

シランとは紫蘭の意で、その花色が紫色であることから付けられた名というが、
一名ベニランともいう。
これは紅蘭という事で花色が紅色であるからということらしいが、サテこの花は
紫なのか紅なのか?
じつはその中間の紫紅色なのである。 』 (ちくま新書)

「 うしろ向き 雀紫蘭の蔭に居り
         ややに射し入る 朝日の光 」 北原白秋
                     
                        (やや:少し)
 

# by uqrx74fd | 2012-04-09 08:25 | 植物 | Comments(0)

万葉集その三百六十五(春の夜の夢)

 〈 北鎌倉:明月院 にて)

( 河津桜と菜の花  :伊豆)

( 梅花粧:ばいかそう 鎌倉秀雄 万葉日本画の世界 奈良県立万葉文化館より)

 (  桃の花:古河 ) 

( 山吹の花  北鎌倉 明月院 )


「目に見えね 色をも知れず春の夜や
    ただ何んとなき 我がこころ哉 」
 ( 山田耕作:春の夜の夢 : 楽譜は失われている)

春の夜は目覚めても床離れしがたく、怠惰と愉悦が同居した何とも云えない幸せを
感じるいっときです。
「春眠暁を覚えず」 (孟浩然) 」の中で見る夢は甘美で艶めかしいもの。
古代の人たちもそれぞれの夢を楽しんだことでありましょう。

「 梅の花 夢に語らく みやびたる
        花と我れ思(も)ふ 酒に浮かべこそ 」
                   巻5-852 大伴旅人


( 夢の中に梅の花の精が出て参りました。
 そして私にこのように語ったのです。
 「 私は風雅な花だと自負しております。
   咲いた花は散るのが定め。
   ならばせめてあなた様の酒杯に浮かべて戴けませんでしょうか 」 )

730年大宰府長官大伴旅人宅で観梅会が催され、集う官人たちが32首の歌を
詠み競った後、その余韻がなお冷めやらぬ気持ちで追加して詠われたものです。
酒杯に梅の花を浮かべるという雅やかな趣向が夢の中の梅花の言葉に仕立てられ
後の歌に大きな影響を与えた一首です。

酒と梅をこよなく愛した風流人旅人の暖かい心が感じられると共に、
その幻想的な詠いぶりは能の世界を思わせます。
なおこの歌には 
「梅の花 夢に語らくいたづらに
          我を散らすな酒に 浮かべこそ」 
                            とも付記されています。

「 山吹の にほえる妹が はねず色の
     赤裳(あかも)の姿 夢(いめ)に見えつつ 」
                        巻11-2786  作者未詳 (既出)


( 咲きにおう山吹の花のようにあでやかな乙女
 その美しい子がはねず色の裳を付けて夢の中に現れたよ。
 きっと彼女は俺のことを想っていてくれているのだなぁ )

古代では相手が自分を想ってくれていると夢の中に現れると信じられていました。
片思いでは夢にも出てこないのです。
作者は黄色とピンク色に囲まれた美しい夢の世界で陶然と乙女を抱きしめながら
「 春宵(しゅんしょう)一刻 値千金 (蘇東坡)」、至福の時をすごしたことでしょう。

「蛙の目借り時」という言葉があります。
あまり聞きなれない言葉ですが榎本好宏氏は以下のように解説されています。

『 晩春の頃になると、どうにも我慢ならないほどの眠気を催すことがあります。
そんな時、夜が短くなったと言えば無粋ですが、蛙が目を借りに来たと言えば
微苦笑も出るものです。
苗代の出来る頃の蛙の声を聞いているとつい眠くなりますが、
これは蛙に目を借りられるからだとして出来た春の季語です。
ところが、目借時は、蛙が異性を求める時期ですから、妻(め)狩り時、
または女(め)狩り時だとする説もあります。』 「季語語源成り立ち辞典(平凡社)」

やはり、春は恋の季節なのです。

「 春の夜の 夢ばかりなる 手枕(たまくら)に
    かひなく立たむ 名こそ惜しけれ 」
        周防内侍(すほうのないし) 千載和歌集、百人一首


( 春の夜の短い夢。そんなはかない浮気心に気をゆるし
 あなたさまの捥(かいな)を手枕にしたりすれば、
 きっとありもせぬ浮名が立つことでしょう。
 せっかくのおぼしめしはありがたいのですが残念なことでございます )

詞書によると、ある二月、現在の三月の終わりでしょうか。
月の明るい夜、二条院で大勢の人々が寝ずに夜明かしして話などしていたところ、
作者が物に寄りかかって「枕がほしいものです」とそっと言うのを聞いて
大納言藤原忠家(俊成の祖父)が「これを枕に」といって腕を御簾(みす)の下から
差し入れてきたので詠んだ歌とされています。

「かひなをさしいれる」「かひなを交わす」という言葉には「共寝する」と
意味があり、たとえ戯れにしても腕を差し入れてきたので、それを素早く受け止めて
「腕(かいな)く」「甲斐なく」と詠みこみ、さらに「春の夜」「夢」「手枕」と、
はかなくも甘美な趣の歌に仕上げ、やんわりと男の誘いを断った機知ある一首です。

「 枕だに 知らねばいはじ 見しままに
    君かたるなよ 春の夜の夢 」 
                          和泉式部 新古今和歌集


( 枕ですら二人の恋は知らないのだから人には告げることはしないでしょう。
  だから決して人におっしゃったりしないで下さい。
  この春の一夜、共に見た夢のような逢瀬を )

作者によると、思いもかけずに恋に陥った相手に贈った一首だそうですが、
堀口大学氏は下記のような解説をされています。

『 実に視覚的なエロティックな歌ですね。
  枕というものは見たことを人に話すと言われているのね。
  その枕さえ見ないことは言わないのだから、「君語るな春の夜の夢」と
  ぼかしてあるが、「見しままに」とは式部が男に何を見られてしまったことか、
  想像できるでしょう。
  枕は上の方にあるから、下の方までみてないということだ。 』

        ( 日本の鶯-堀口大学聞き書き 関容子 岩波現代文庫 )

慶応大学での講義、艶やかな堀口節です。
さぞ名物教授だったことでしょう。

「 およしよと いはず小声で 春の夜の 」 (俳風柳樽)

# by uqrx74fd | 2012-04-01 00:00 | 生活 | Comments(0)

万葉集その三百六十四(川の音)

( 橘寺付近の流れ 奈良:明日香)

( 北鎌倉 明月院脇の小川 )

( 同上 梅の花筏 )

( 春日山原始林 佐保川の源流 奈良)

( 吉野山:宮滝の源流)


春の訪れは木々の芽吹きや水の流れからはじまります。
「雪が解けて川となって山を下り谷を走る水」は川底の石や土砂を撫で、
時には水際の草木に触れつつバイオリンのような音を奏でながら流れてゆく。
強く、弱く、早く、ゆっくり。
時には淀みで一服し、風に吹かれてはらはらと舞い落ちてくる花びらや枯れ葉を
巻き込みながら再び楽しい旅を続けてゆきます。

私たちは日頃小川の流れに耳を傾けることがどれだけあるでしょうか。
小鳥の鳴き声、海の引き潮、そして川のせせらぎの音。
それらは、すべて疲れた体や心を癒してくれるアルファ波なのです。

「 ふるさとの川よ
  ふるさとの川よ
  よい音をたててながれてゐるだろう 」
                     ( 八木重吉 ふるさとの川 )


古代の人たちも心の安らぎを求めて野や山を歩き廻り、川音に耳を澄ませていました。

「 いにしへも かく聞きつつか 偲(しの)ひけむ
   この布留川(ふるかは)の 清き瀬の音を 」 
                           巻7-1111 作者未詳


( 今から遠い昔も このように耳を傾けながら賞(め)でたことであろうか。
 この布留川の清らかな瀬の音を )

布留川の所在は奈良県天理市布留。
川の名が「古い川」に通じることを意識して「いにしへも」と詠まれたものと思われます。
「うさぎ追いしあの山 小鮒つりしあの川」を思い出させるような一首です。

「 はねかづら 今する妹を うら若み
    いざ率川(いざかは)の 音のさやけさ 」
                       巻7-1112 作者未詳


( はねかずらを着けたばかりのあの子。
  なんと初々しく清らかなのだろう。
  まるで、率川(いざかは)の流れや川音のようだ。
  「 いざ、デートしましょう」と誘ってみたいなぁ。)

率川(いざかは)は奈良、春日山に発し、猿沢の池の南を西流して佐保川に注ぐ小川で
川の名前「いざ」に「さぁ」という誘いを掛けたリズミカルで明るい一首です。

「はねがづら」(羽蔓)は、羽毛で作った髪飾り。
女性が成年になると付けたものといわれ、現在でも和装の若い女性に見受られます。

「 見まく欲(ほ)り 来(こ)しくも しるく 吉野川
    音のさやけさ 見るに ともしく 」 
                       巻9-1724 島足(しまたり)


( 見たい、見たいと熱望していた吉野川にようやくやって来た。
  素晴らしい! それに瀬音のなんと爽やかで清々しいこと。
  見れば見るほど魅力を感じることだ。 )

朝廷に仕える官人たち4人が吉野遊覧の旅に出かけた折、景勝が望める場所での
酒宴の歌と思われます。
「しるく」は「その甲斐あって」
「ともし」は「羨し」でここでは「心ひかれる」

古代の人たちが川の音を「さやけし」と表現したのは水源の山に神が宿ることを
意識したものと考えられています。
過去から現在まで絶えることない無限の永続性と神秘性を宿した生命の水。
それを天からの賜りものと感じ、万葉人は最高の言葉で褒め称えたのです。


「 森のかげに水がながれてゐた
  そのそばに しゃがんでゐると
  こくんとおとがきこえることもある
  音がすると
  なにかそっと咲(ひら)くようなきがする 」
                           (八木重吉 秋の水 )

# by uqrx74fd | 2012-03-24 09:21 | 自然 | Comments(0)

万葉集その三百六十三(祈りと供花)

( 薬師寺花会式  入江泰吉 奈良大和路 日本カメラより)

( 下曽我梅林 )

( 鳥獣戯画: 猿の僧が蛙に供花  鳥羽僧正 高野山蔵  池坊HPより )

( 万葉の茶花  柳、梅、椿 庄司信州  講談社より )

( 長谷寺の桜 )

「 山寺の 扉(と)に雲遊ぶ 彼岸かな 」 飯田蛇笏

彼岸とはもともと梵語(ぼんご)「波羅蜜多(はらみった)」の訳で、「悟りの境地に至る」
こととされていますが、この季節は太陽が真西に沈むので西方浄土と関係づけて
彼岸会の仏事が行われるようになったといわれています。

春分の日を「お中日」とした前後3日ずつの7日間をいい、今年は3月17日から23日まで。
7日間とされている理由は、中日は先祖に感謝し、残る6日は悟りの境地に
達するのに必要な徳目である六波羅蜜(ろくはらみつ)、すなわち

1、布施(分け与えること) 2、持戒(戒律を守る)、 3、忍辱(にんにく:慈悲)、
4、精進(努力)、 5、禅定(心を安定させる)、
6、智慧 (物事をありのままに観察し根源的なものを把握する)
を1日一つづつ修めるためとされています。

わが国最初のの公式な彼岸会は
『 806年、朝廷が崇道天皇のために諸国の国分寺の僧に命じて
「七日金剛般若経」を読ませたと』(日本後記) の記述によりますが、
記録に残らない法会はそれ以前に行われており、万葉集にも仏前唱歌や
供花に関する歌が残されています。

738年、11月の中頃、光明皇后の祖父にあたる藤原鎌足の70周忌の法会が
皇后宮で行われました。
僧侶の読経が終わった後でしょうか、唐や高麗などの異国の音楽を終日供養したあと、
琴の伴奏で十数人の人たちが仏前で唱歌を捧げ、故人の冥福を祈ります。

「 時雨の雨 間(ま)なくな降りそ 紅(くれなゐ)に
    にほへる山の 散らまく惜しも 」 
                           巻8-1594 作者未詳(既出)


( 時雨の雨よ そんなに絶え間なく降らないでおくれ。
 紅色に美しく照り映えている山の紅葉が散ってゆくのは
 なんとも残念でたまりません )

声明のような節をつけて歌われたのでしょうか。
いまにも妙なる声が聞こえてきそうな気がいたします。

この歌は、もともと仏教とは関係なく、時雨に打たれて散る紅葉を惜しむ気持ちを
詠ったものですが、紅葉に亡き鎌足の華々しい人生、散るさまに諸行無常の気持ちを
こめて献じたものであることが後書きで知ることが出来ます。

鎌足を祀る談山神社が紅葉の名所であることもにも思い重ねて古代王朝の雅やかな
法要の一端を偲ばせてくれる一首です。

「 梅の花 しだり柳に 折り交え
     花に供へば 君に逢はむかも 」 
                      巻10-1904 作者未詳


( 手折ったしだれ柳に梅を交じえて、お花として供えたならば、あの方に
 お逢いすることができるでしょうか。)

愛する人に先立たれ、仏前にぬかずく女性。
様々な思い出が瞼に浮かんできたことでしょう。

万葉集で仏前の供花を詠ったのはこの一首のみですが、春の供花として、
梅、柳を手向けることが多かったことが窺えます。

柳が用いられたのは生命力が強く、春一番に芽吹くことから長寿や繁栄の象徴と
みなされ、さらにその頼もしい生命力に頼り、悪い妖気を払う守護神として
屋敷の周辺や水辺を取り巻くように植えられていたことによるものと思われます。

供花は浄土信仰が浸透する平安時代に一般的になり、有名な鳥羽僧正の鳥獣戯画にも
猿の姿をした僧が蛙の仏前に花を供える様子が描かれていますが、やがて生け花へと
進化してゆきました。

「 みちのくの 今年の桜 すべて供花(くげ) 」 高野ムツオ

以下は長谷川櫂氏の解説です。
『 作者は宮城県多賀城市の人。 昨年の大震災直後の句である。
やがて咲く桜は犠牲者への供花。
「みちのくの」とあるが日本全国の桜が供花のようだった。 』
                       (2012,3,11読売新聞 四季より)

震災後1年経過した後もいまだに傷が癒えることはありません。
本稿を亡くなられた方々に捧げ、心からの冥福をお祈りいたします。

「手に持ちて 線香売りぬ 彼岸道」 高濱虚子

わが国での香の起こりは聖徳太子の時代、595年に淡路島に香木「沈香」が
漂着した(日本書紀)ことに始まるとされています。
その後中国から各種の香木が渡来しますが、正倉院に納められている有名な
蘭奢待(らんじゃたい)もその一つです。
法会に欠かせない線香ですが現在のような形になったのは江戸時代以降だそうです。

また、蝋燭(蜂蜜から作る蜜蝋)も奈良時代に中国から渡来していました。

「 命婦より 牡丹餅たばす 彼岸かな 」  蕪村
彼岸の供え物といえば「ぼたもち」「おはぎ」ですが、彼岸の頃に咲く牡丹(春)、
萩(秋)に由来するといわれています。
「たばす」は「賜ばす」で戴く。
「命婦(みょうぶ)」は後宮の中級女官や中臈の女房の総称ですが、ここでは
牡丹餅をくれた女性を面白がって詠んでいるのでしょう。

「長谷寺に法鼓轟く彼岸かな 」  高濱虚子

( 薬師寺 月光菩薩 入江泰吉 古寺とみほとけ 小学館より )

# by uqrx74fd | 2012-03-17 20:31 | 生活 | Comments(0)

万葉集その三百六十二(梅と蘭)

( 下曽我梅林 2012.3.7日撮影)

( 同上 )

( 同上 )

( 春蘭:シュンラン 入江泰吉 万葉の華 雄飛企画より )


天平2年(730) 正月の13日、大宰府長官、大伴旅人の邸宅で「筑紫歌壇ここにあり」と
大いに名をあげた一大イベント、世にいう「梅花の宴」が催されました。
主客合わせて総勢32名、一人一首づつ詠み合うという、後の歌合せや俳諧連歌の先駆を
なす我国文藝史上画期的な歌会で、都で流行の漢詩に対し「やまと言葉」で詠われたことも特筆されます。

開宴に先立ち主人の大伴旅人は以下のような挨拶をしたと思われます。(序の記述)

「 折しも初春の佳き月で、気は清く澄んで快く、風はおだやかにそよいでいる。
  梅は佳人の鏡の前の白粉(おしろい)のように白い花を咲かせ、
  蘭は貴人の飾り袋のように良い香りを発している。

  そればかりか、夜明けの峰には雲がかかり、松はその雲の薄絹をまとって
  あたかも蓋(きぬがさ)をさしかけたようだ。

  夕方の山の頂には霧がかかり、鳥は霧の帳(とばり)に閉じ込められながら
  林に飛び交うている。

  庭には春生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋来た雁が帰って行く。-(以下省略)

  さぁ、われらもこの園の梅を題としてやまと歌を作ることにしょう。 」

まずは主客の歌から。

「 正月(むつき)立ち 春の来(きた)らば かくしこそ
    梅を招(を)きつつ 楽しき終(を)へめ 」
             巻5-815 紀卿(きのまへつきみ)


( 正月になり春がやってきたなら、毎年このように梅の花を迎えて
  楽しみのかぎりを尽くそうではないか )

「日本暦日原典」(内田正男著)によると天平2年1月13日は陽暦の2月4日、
 つまりこの日は立春であったそうです。
 旅人はこの春立つ日を期して宴を開き、紀卿の歌もそれを踏まえて
 冒頭の挨拶としたのです。

「 梅の花 今咲けるごと 散り過ぎず
    我が家(へ)の園に ありこせぬかも 」 
                 巻5-816 小野大夫(をののまへつきみ)


( 梅の花よ 今咲いているように散り過ぎてゆくことなく、
 ずっと我らの園に咲き続いて欲しいものです )

最初の歌を受けて二番手が開宴を寿ぎ、後の歌人につないでゆきます。
「ありこせぬかも」は「あってほしいなぁ」の意。

さて、上記の序文「蘭は貴人の飾り袋のように良い香りを発している」の原文は
「 蘭は珮後(はいご)の香を薫(ゆく)らす」 と漢文調で書かれています。

「蘭:らん」は漢語。 
わが国では「らに」とよばれ、現在の「春蘭:シュンラン」とされています。

以下は 久保田淳著「野あるき花物語」(小学館)からの一部抜粋です。

『 春蘭は早春の山地に気品のある花を咲かせる東洋蘭の一つです。
  花は淡い黄緑色の咢(がく)に包まれた白くて紅紫の斑点のある唇状の花弁です。
  この花を摘んで塩漬けにして吸い物に入れたりします。
  食べるために摘んでしまうのはもったいないような気がするのですが- -。
  別名を「ほくろ」というのは、花弁の斑点を人の顔のほくろに
  見立てたのでしょうか。 』

「山にして 落葉かき分け 春蘭を
     子らと掘りつつ 楽しきろかも 」  香取秀真


春蘭は古くから我国にも自生していたようですが、当時は梅が大いに
もてはやされていた時代であったため貴族たちの興趣を惹かなかったのでしょうか。
あるいは、野にひっそりと咲いていたので目立たなかったのかもしれません。

このような美しい花がどうして詠われなかったのか不思議な気がいたしますが、
漢文に造詣が深かった大伴旅人のお蔭で蘭が万葉時代に知られていたことが窺える
貴重な一文です。

  「春蘭の 花に逢ひたる 山路かな 」     松本つや女

# by uqrx74fd | 2012-03-10 18:16 | 植物 | Comments(0)

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