万葉集その六百四十一 (紅花の季節)

( 紅花  長福寿寺   千葉 )
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(  同上 )
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(  長福寿寺の紅花畑  この地方の紅花が最上に移されたとの説がある )
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( 乾燥させた紅花   国立歴史民俗博物館  佐倉市 )
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(  紅餅   同上 )
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( 最上から京へ   紅花船   同上 )
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( 紅花染めの実演  長福寿寺 )
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( 古代の紅花染振袖  少し黄色ががっている  
              中江克己著 色の名前で読み解く日本史 青春出版社 )
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万葉集その六百四十一 (紅花の季節)

古代赤色植物染料の主役は我国原産の茜と紅花。
中でも紅の鮮やかな色は人々の憧れの的でした。
中近東、エジプトを経て3世紀頃中国、呉から我国に渡来した紅花は
当初「呉の藍」(「藍」は染料の総称)、すなわち「呉から来た染料」とよばれました。

その「呉の藍」(くれのあい)が縮まって「くれない」となり、「紅」の字が
当てられたのですが、不思議なことに大宝衣服令で「紅」を
「ひ」(緋:黄色かかった赤色)と訓ませています。

というのは、紅花には赤と黄の色素が含まれており、当時の技術では
鮮やかな赤色だけをうまく分離させて抽出することが不可能で、
黄味をおびた赤色にしか染めることが出来なかったのです。

古代王朝人にとって燃えるような赤は紫とともに夢の色。
なんとか鮮やかな濃紅を作りだしたいと試行錯誤を繰り返し、
ついに黄色の色素は水に流れ、赤は水溶性がないことを突き止めます。

紅花は7月ごろに鮮黄色の花が咲き、やがて赤みを増していきますが、
赤くなる前に摘み、花びらを水で洗って黄色素を流出させ、
残った花びらを絞って染液を取り出す。

それでも、まだまだ満足できる赤が生まれません。

失敗を繰り返しながら根気よく情熱を傾けて取り組む。
その結果、奈良時代の終わりから平安時代にかけ、遂に理想としていた
鮮紅色に染め上げる方法を見つけ出しました。

まず、染めた衣の色を定着させるため、黄色素に染まらない麻布を染める。
薄赤に染まった麻布取り出し灰汁につけ紅色素を溶かす。
そこに梅酢をくわえ、絹布を浸して赤色に染める。
これを何度も繰り返すと鮮やかな紅色になったのです。
灰汁や梅酢の成分や配合は各職人の秘伝。
同じように染めても、色が微妙に違うのは致し方ありません。

「 紅の 深染めの衣(きぬ) 下に着て
     上に取り着(き)ば 言(こと)なさむかも 」 
                        巻7-1313 作者未詳

( 濃い紅色で染めた着物、それを肌着にしていたあとで
 改めてよそ行きとして上に着たりしたら、世間様は噂を立てるだろうかな。)

深染めの衣は美しい女を比喩しています。
「下に着る」は女との内々の関係、「上に着る」は正式な妻として迎えることを
指しているようです。

噂を気にしなければならないのは、なにか障りがある関係なのでしょうか。
例えば遊女、人妻、釣り合わない身分など。

濃紅の衣を染めるには、絹2反に対して紅花12㎏必要とされ
途方もない高価な贅沢品。
宮廷の女房の公服などに使うと、大変な浪費になるので朝廷は禁色にしますが、
貴族や大金持は内々に着物を作り、女性に与えていたのでしょう。

濃紅の衣は何度も染めるので「八汐の衣」ともいいます。

八しほ: 「八」 回数が多いの意。
     「しほ」 衣を染料に浸す回数をしめす言葉

「 言ふ言(こと)の 恐(かしこ)き国ぞ 紅(くれなゐ)の
    色にな出(い)でそ  思ひ死ぬとも 」 
                      巻4-638  大伴坂上郎女

( 他人の噂が怖い国がらです。
 だから、あなた、想う気持ちを顔に出してはいけませんよ 。
 たとえ焦がれ死にするようなことがあっても 。)

相手は誰か不明ですが、この歌の後に6首も続いているので
甥の大伴家持に恋歌の手ほどきをしているのかもしれません。

「紅の色に出で」: 鮮やかの色のように他人に知られるの意。
「な―そ」で禁止の言葉となる。(色にな出でそ)
当時,人の噂になったらその恋は成就しなくなると信じられていました。

「 紅に 染めてし衣(ころも) 雨降りて
     にほひは すとも うつろはめやも 」 
                    巻16-3877 作者未詳

( 紅にしっぽり染め上げた衣だもの 雨に降られて、一層美しく
  映えるようなことがあっても、色褪せるなどありましょうや。)

大分県南部の海人郡で詠われたと註にあり。
「紅に染めてし衣」は深い契りを交わした仲。
「雨降るは二人の仲を裂こうとする人がいる」譬え。

親か周りのものが反対しているのかもしれませんが、
なかなか艶っぽい歌です。

「 紅摘みに 露の干ぬ間と いふ時間 」 田畑美穂女

紅花を摘む作業は刺(とげ)がチクチクと皮膚を刺すので、早朝、朝露で刺が
柔らかくなっている間に行い、茎の先端に咲く花を摘み取ることから
「末摘花」ともよばれています。

紅花から染料や口紅を作るのは大変な作業が必要とされました。
花を摘み、水洗いをして黄色い色素を洗い流し、
発酵させて餅のように搗いた後、筵に並べてせんべい状にしてから乾燥させ
紅餅といわれるものをつくる。
出来上がった紅餅は、紅花商人を経て都の紅屋売られ、それぞれの秘伝の技術や
灰汁などを加えてようやく染料や口紅になったのです。

紅花の栽培地は山形県の月山の麓や最上川のほとりがよく知られていますが、
昔は伊勢、武蔵、上総、下総など二十四か国が税として納めており、
出羽最上が産地として台頭するのは江戸時代からです。

その種は長南(千葉県)からもたらされたとも伝えられていますが、
栽培の最適地は、花が成長する春から夏にかけて朝霧が立ち、
直接日光が当たる時間が短い場所。
この条件に合うのなら全国どこでも栽培できたようです。

以下は 水上勉著 「紅花物語」からです。

『  花は紅花というて、最上川や仙台にでける花と、伊賀にでける花とがある。
   どちらも似たようなもんやけど、それぞれ土地の性質が花に出て、
   とれる紅はちがうんや。

  その点、わいのつかう紅には、最上の紅がいちばんよいが、伊賀にも
  よいのはある、、、、。

  花は毎年四月、八十八夜にタネをまいて、、、、丹精した畠でつくるんやけんど、
  紅花はぜいたくな苗で、土みしりしよる。
  去年の畠では でけんのや。

  ナスやキュウリとちがうて、めんどうなもんでな。
  四月にまいたタネが苗になると すこしずつ つまびいて、
  畔に二列に、とびとびにして大きくしてゆくわけや。
  花は七月に咲きよる。
  これがなんとケシの花みたいで、まっ黄色い。

  ところが、これを摘んで、団子にしてゆくうちに、だんだん紅うなってきよる。
  不思議な花や。 』
                                   ( 主婦の友社より)

   「 奈良へ通ふ 商人住めり 紅の花 」 正岡子規

          奈良の月ヶ瀬は梅の名所。
          梅酢は紅作りの重要な原料です。




           万葉集641 (紅花の季節) 完


          次回の更新は7月21日の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-07-13 19:45 | 植物

万葉集その六百四十 ( 七夕・相撲・ナデシコ)

( 護国神社の七夕  仙台 )
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( 優雅な仙台七夕 )
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( 同上 )
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( 平塚七夕 )
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(  同上 )
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( 笹に願いを  同上 )
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( 相撲  国立歴史民俗博物館  佐倉市 )
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( 大相撲凧  海外向け観光案内所  東京京橋)
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( カワラナデシコ  古くは七夕の花とされ生花の源流となった )
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( 庄司信州作  撫子  万葉の茶花 講談社より )
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万葉集その六百四十 (七夕・相撲・なでしこ)

今回は何やら三題噺めいたお題ですが、それぞれ密接な関係があり、
すべて日本文化の源流をなしているというお話です。

まずは「七夕」。
何故この漢字を「たなばた」と訓むのでしょうか?

遥か遠い古の時代、我国では夏秋の行き会いの時期に遠来のまれびとである神を
迎えるために水辺に棚を掛けて乙女が機織りする風習があり、
精進潔斎して待ち受ける聖女を「棚(たな)機(ばた)女(つめ)」(たなばたつめ)と
よんでいました。

一方、中国では7月7日の夜、織姫星が天の川を渡って牽牛星に逢うという
空想豊かな恋物語があり、遣唐使(山上憶良?)が帰国後伝えたところ、
このロマンティクな伝説は、たちまち人々の心をとらえ、かつ魅了しました。

物語のヒロインは片や織姫、こなたは「たなばたつめ」。
二人共、織物にかかわる女性とはなんという偶然の一致。
そこで、万葉人は中国で「七夕」と表記されていた漢字に
「たなばた」という訓みを当てたのです。

次は相撲。
734年、聖武天皇の時代、7月7日に相撲を奉納し、その夕方、文人に
七夕の歌を詠ませる行事が定着していました。
相撲と七夕の節会を同じ日に行ない、五穀豊穣、国土繁栄を祈ったのです。

天覧相撲の起源は4世紀前半(推定)、垂仁天皇ご臨席の下で
野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が力と技を競ったのが
始まりとされ(日本書紀)、以降、宮中で行われた相撲節会(すまいせちえ)は
源平争乱で廃絶になる1174年まで続けられました。
( ただし824年、平城天皇が7月7日に崩御されたため以後7月下旬に変更)
今日の天覧相撲もこのような長い歴史を踏まえたものでありましょう。

万葉集には「相撲をとる歌」はありませんが相撲使の役人が諸国から
力士を選別して都に上る途中18歳の若い従者大伴熊凝(くまごり)が急病で
亡くなり、それを悼んで本人になり代わって詠った歌が伝えられています。
長い説明文の序と6首の歌があり、相撲史を知る上での貴重な記録です。

「 出(い)でて行(ゆ)きし 日を数へつつ 今日(けふ)今日と
     我(あ)を 待たすらむ 父母らはも 」  
                                巻5-890 山上憶良

( 私が出発した日を、もう何日経ったかと数えながら今日こそはと私の帰りを
  待っておられるであろう父母よ-- あぁ・・・)

最後に生花。
我国の7月7日の七夕節会の記録は持統天皇の691年が最も古いとされており
公卿以下に宴を賜り、朝服を下される宮廷儀礼でした。

平安時代になると「花合わせ」といわれる「ナデシコ(撫子)」の花の
優劣を競い合う行事も七夕の日に行われるようになり、
櫻井満氏によると
『 この「ナデシコ合わせ」が後に「秋の七草合わせになり」五節会に
結びついてハレの花になり、生花への道に進むことになった。』のだそうです。
                    ( 節会の古典要約 雄山閣) 
        筆者注: 五節会 
                 1月1日(正月)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、
                 7月7日(七夕)、9月9日(重陽)

何故ナデシコなのか定かではありませんが。その可憐で美しく凛とした姿が
織姫を想像させ「七夕の花」として特別視されたのでしょうか。
日本が誇るべき生花文化の源流は七夕節会にありと考えられているのです。

「 天の川 相向き立ちて 我(あ)が恋ひし 
     君来ますなり 紐解き設(ま)けな 」 
                           巻8-1518 山上憶良

( 天の川、この川に向かい立って 私が恋焦がれているあの方がこちらの方へ
 いよいよお出でになるらしい。
 さぁさぁ、私も衣の紐を解いてお待ちいたしましょう。)

724年、作者が東宮(のちの聖武天皇)に命じられ詠った12首のうちの一.
教育掛(侍講)として唐の文化の説明も交えながら織姫の立場で詠ったものと
思われます。

憶良の歌は天空の世界の物語ではなく、人間界の現実のものとして詠っており
後の人々に多大な影響を与えました。
人々は自身が牽牛、織姫の立場になって思いのたけを詠う。
七夕はいわば愛を告白する日、共寝する日だったのです。
だからこそ135首もの多くの歌が詠われたのでしょう。

「 天の川 楫(かじ)の音聞こゆ 彦星と
    織女(たなばたつめ)と 今夜(こよひ)逢ふらしも 」
                            巻10-2029  柿本人麻呂歌集

( 天の川に櫓を漕ぐ音が聞こえる。
 彦星と織姫が 今宵いよいよ逢って共寝するのであるらしい )

人麻呂歌集には38首の七夕歌があり、憶良にはじまった現世表現様式を
確立させた感があります。
作者が銀河を眺めながら織姫、牽牛の逢瀬を想像し、
「俺もそろそろ行かなくては」と呟いているのかもしれません。

「 一年(ひととせ)に 七日(なぬか)の夜のみ 逢ふ人の
    恋も過ぎねば 夜は更けゆくも 」
                         巻10-2031  柿本人麻呂歌集

( 1年のうちこの7日の1夜だけ逢う人の、恋の苦しさもまだ晴れないうちに
 夜はいたずらに更けてゆく )

ようやく二人は逢うことが出来たが、時はあっという間に過ぎて行く。
1年に1度の逢瀬は、この上もない幸せ。
だが、のちに長い長い苦しみが待っている。
あぁ、時は止まらないのか。

「 明日よりは 我が玉床を うち掃(はら)ひ
    君と寐寝(いね)ずて ひとりかも寝む 」
                      巻10-2050 作者未詳

( 私たちの寝床を払い清めたとしても、明日からあなたと共寝することができずに 
ただ、ひとり寂しく寝ることになるのだろうか。)

七夕、相撲、撫子。
日本文化の源流には山上憶良がすべてかかわっています。
秋の七草の歌を初めて詠んだのも憶良でした。

 「 秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)
      かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 」 
                          巻8-1537 山上憶良

 「 萩の花 尾花葛花(くずはな) なでしこの花
     おみなえし また 藤袴(ふじばかま) 朝顔の花 」 
                             巻8-1538  山上憶良

ナデシコが七夕の花とされたのは、この歌とかかわりがあった
からなのでしょうか。

   「 木曽山に 流れ入りけり 天の川 」 一茶

貴族の行事であった「七夕節会」は、さらに中国古来の行事である、
「乞巧奠(きこうでん)」(女子が機織り等の手芸巧みになる事を祈る行事)と
結び付けられ、機織、裁縫、手芸、歌道、書道の上達を祈る行事として
定着してゆきました。
そして、次第に拡大解釈されて様々な願い事を星に祈る行事に変わってゆき、
江戸時代、庶民の間にも手習いが広まると、色とりどりの短冊に願い事を書いて
笹竹に飾るようになり現在に至っています。

七夕行事は夏の7月7日に行う地方も多いですが、本来は陰暦7月7日。
初秋の行事です。
太陽暦の7月7日より約1ヵ月後のこの時期になると、夜空が澄みはじめ
星もさやかに見えるのです。

           「 荒海や 佐渡に橫たふ 天の川 」  芭蕉




万葉集640 (七夕・相撲・ナデシコ) 完


次回の更新は 7月14日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-07-06 17:26 | 生活

万葉集その六百三十九 (春蚕繭:はるごまゆ)

( 2017,6、18 付 読売新聞 )
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( 蚕飼する 人は 古代の姿かな  河合曾良 )
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( 多い地方では 春、夏、初秋、晩秋 晩々秋 の5回収穫する )
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( 京都 奥嵯峨野のまゆ村  )
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( 人形をつくる繭  同上 )
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( 繭人形  兎と虎  同上 )
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(  白と赤の対比が美しい人形棚  同上 )
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( ひつじ    同上 )
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万葉集その六百三十九 (春蚕繭:はるごまゆ)

春に収穫した蚕繭(ごまゆ)の出荷が始まる季節になりました。
瑞々しい桑の新芽をたんまり食べた蚕は最上の繭を生み出し、
美しい絹に生まれ変わるのです。

養蚕は今から4000年前に中国の黄河流域で始まり、漢代から絹織物を
西域に輸出していたといわれています。
古代ローマでの絹は金と同じ目方で取引されていたほどの極めて貴重品。
中國の養蚕技術は門外不出、国家機密として厳しく管理されていました。
欧州に伝わったのは6世紀頃、ペルシャ人の僧侶が竹の杖に蚕の卵を隠して
伝えたのがはじまりとか。

我が国でも弥生時代に野生種であった蚕を屋内で飼育して独自の絹を作っており、
「魏志倭人伝」に243年、卑弥呼が魏帝斉王に使いを送り、絹織物などを贈ったと
記されています。
また、5世紀中ごろ、雄略天皇が后妃に養蚕を勧め、諸国に桑を植えさせて以来、
養蚕は女性の最も大事な仕事の一つとされました。

然しながら日本の絹織物は独自のものといっても品質的には中国産に比べて
見劣りしたようです。
養蚕技術が飛躍的に向上したのは、679年遣唐使として派遣されていた
藤原鎌足の長男、僧 定恵(じょうえ)が桑を携えて帰国し、
琵琶湖東岸の古刹、桑実寺に植え、合わせて養蚕の手法を教えて以来からの
ようですが、その頃には中国の技術移転禁止令が解かれていたのでしょうか。

万葉集では春の蚕繭を詠ったものが1首残されています。

「 筑波嶺の 新桑繭(にひぐわまよ)の 衣(きぬ)は あれど
   君が御衣(みけし)し  あやに着欲しも 」 
                            巻14-3350 作者未詳

( 筑波山の麓の新桑で飼った繭の素晴らしい着物を私は持っていますが
  でも、やっぱりあなたのお召し物がむしょうに着たいものですわ)


当時、夫婦や恋人同士が互いに下着を交換して身に付ければ、
片時も離れることがないと信じる習慣がありました。
作者は、高価な絹織物より貴方が着ている衣を身にまとう方がよい、
出来れば一緒に寝たいと詠っています。

     「 美しき人や 蚕飼(こがひ)の 玉襷 」  高濱虚子

蚕は2昼夜糸を吐き続けて繭をつくりやがてその繭の中に閉じこもって
蛹になります。

志村ふくみ氏は繭の中で成長した蛹が、どのようにして外へでていくのか、
次のように述べておられます。

『 蚕がいっしんに白い糸を吐いて繭をつくり蛹になり,蛾になって
  外界に出てゆく時、どうしてあの繭から飛び立つかご存知ですか。
  勿論、繭を喰い破って穴をあけ、そこから飛び立つとお思いでしょう。
  ところが違うのです。

  蚕は口から少しずつ、アルカリを含んだ液を出して、繭の内側の壁を
  溶かしてゆき、小さな穴をあけてそこから飛び出してゆくのです。

  その穴に、大豆を1粒入れて、コロコロころがしながら、糸の口を
  みつけ、静かに引きだしますと、烟(けむり)のような一すじの糸は
  最後まで切れずに続くのです。
  乱暴に喰い破って穴をあけるのは蛹にいる寄生虫の仕業なのです。

  蚕は自分の命とひきかえにつくった白い城をどうしても喰い破ることが
  出来ず、みずからの体液でなめてなめて、溶かしながら門をひらき
  出てゆくのです。 
  一すじの糸も切ることなく。

 とあるひとが語ってくれた。 』  ( 蚕 一色一生 講談社文芸文庫所収)

「 たらちねの 母が飼ふ蚕(こ)の 繭隠(まよごも)り
     いぶせくもあるか 妹に逢はずして 」 
                            巻12-2991 作者未詳

( 母さんが飼い育てる蚕の繭ごもりのように、息がつまって、つまって
 何ともうっとうしいことよ。
 あの子に長い間逢わないでいて。)
 
健康な蚕が作った繭は極めて堅固で、湯で煮てほぐす以外に解かす
すべがありません。
身動きが出来ない心情を「いぶせくもあるか」(うっとうしい)と詠っていますが
その原文表示が傑作。

「馬声(い)、蜂音(ぶ)、石花(せ:岩石に付着している貝)
 蜘蛛(くも、)荒鹿(あるか)」と
 あらん限りの動物関係の漢字を使用しています。

「馬声」をイヒーンと聞きなした「イ」
「蜂の羽音」は「ブウーン」の「ブ」
「岩に張り付いたカメノテの固い石花」の「セ」
そして「蜘蛛」のクモ、「荒鹿」の「アルカ」

どれもこれも「うっとうしいなぁ」と。
万葉人の遊び心です。

以下は学友,T.Sさんから。

『 蚕の思い出といえば、終戦直前に3ヶ月半疎開した栃木の田舎で、
 屋根裏のようなところで蚕を飼っていたことを思い出しました。
 何となく、甘ったるい匂いがしていたような気がします。
 また、祖母が、湯に漬けた繭から、糸を引きながら、
 糸を紡いでいたことも思い出しました。
 独特な臭いがしていましたっけ。
 家の近くには、桑の木が沢山植えてありました。
 全く忘れていたことが、この歌をきっかけにいろいろと思い出すのも
 不思議な感じがします。』

「 母在りし その日のごとく 飼屋(かひや)の灯(ひ) 」   松岡悠風



          万葉集639(春蚕繭:はるごまゆ) 完


          次回の更新は7月7日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-06-29 14:33 | 動物

万葉集その六百三十八 (めづらし)

( 弓月ヶ岳にわく雲   奈良 山の辺の道 )
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( 万葉人は雲をながめながら恋人を想った )
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( 名のるという言葉はホトトギスから生まれた )
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( 名のるという言葉を最初に使ったのは大伴家持 )
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( 万葉で卯の花と詠われているシロバナヤエウツギ )
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( ヒメウツギ )
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( 梅花ウツギ )
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( 間もなく七夕 めづらしわが恋人よ  奈良万葉植物園 )
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万葉集その六百三十八 (めづらし)

「めづらし」とは優れた対象に心惹かれる意で、特にその目新しさに魅せられる
気持を含み持つ言葉です。

万葉集の原文表記に「希見」(めづらし)とあり、もっと見たいという気持ちや、
愛すべく賞賛すべき、あるいは、見ることが少ない、特別である等
様々なニユーアンスを込めて使われており、26例見えますが、
1300年も前の言葉が現在でもほぼ同じ意味で日常使われているとは、
驚きを禁じ得ません。

なお、語源は「愛(めず)らし」とか。(語源辞典 吉田金彦 東京堂出版)

「 青山の 嶺(みね)の白雲 朝に日(け)に
    常に見れども めづらし我(あ)が君 」 
                           巻3-377 湯原王

( 青い山の嶺にかかる白雲、その雲のように朝夕いつもお会いしていますが
 ちっとも見飽きることがありません。
 我が君よ。)

作者は志貴皇子の子(天智天皇孫)
客人、石上乙麻呂を迎えた宴席での歓迎歌。
ここでの「めづらし」は「心惹かれる」の意です。

通い婚の時代、男も女も互いに雲を眺めながら恋人の面影を追い、
旅にあっては故郷の方向に向かって流れゆく雲に伝言を託すような
思いで詠っていました。

「 暁(あかとき)に 名告(なの)り鳴くなる ほととぎす
    いやめづらしく 思ほゆるかも 」 
                         巻18-4084 大伴家持

( 暁の闇に中で、我が名を名のって鳴く時鳥。
 その初音を聞くと 貴女様がいよいよ懐かしく思われてなりません。)


越中に赴任した作者が、都の叔母、大伴坂上郎女に送った歌の1つ。
時鳥を名のる鳥と詠ったのは家持が最初とされています。

以下は伊藤博氏の解説です。( 万葉集釋注9)

「 一声天をめぐる。 
  時鳥の声は広く万葉人の心を刻んだ。
  鋭い声で夜となく昼となく鳴きながら、姿をみせることはほとんどない。
  声への関心は高まらざるをえない。

  そのそも、ホトトギスと称するその名が、鳴き声に由来する。
  しかも、百鳥の鳴き騒ぐ春ではなく、夏到来と共にひとりやってきて
  一声天をめぐるのである。
  「名のり鳴く」は時鳥によって時鳥のために生れた語である。」

「 卯の花の ともにし鳴けば ほととぎす
    いやめづらしも  名告(なの)り鳴くなへ 」 
                           巻18-4091 大伴家持

(  「卯の花は自分の連れ合いですよ」といわんばかりに鳴く時鳥。
   その鳴く声にはますます心惹かれる。
   自分はホトトギスだと名のりながら鳴いているにつけても。)

時鳥の鳴き声を「ホトトギス」と聞きなして、自身の名を名のっていると
詠っています。

卯の花は初夏に白い花を咲かせ、現在名は空木(うつぎ)です。

「ともにし鳴けば」:「伴にし鳴けば」で「連れ合いとして鳴くものだから」

「 紅の 八しほの衣 朝な朝な
     なれはすれども  いやめづらしも 」 
                        巻11-2623 作者未詳

(  紅の何度も染め重ねた八汐の衣。
   その衣を毎日着ていると馴れ親しんでくるが、
   お前さんも毎日抱いているとますます可愛いわい。)

        八しほ: 「八」 回数が多いの意。
              「しほ」 衣を染料に浸す回数をしめす言葉

「 衣は着る回数を重ねる度に体になじんでくるが、
  可愛いあの子も抱けば抱くほど素晴らしい。
  あぁ、いやいや、愛(う)いやつだ 」

と臆面もなくのろけている男です。

万葉時代に盛んに詠われた「めづらし」は現在の日常会話では
よく使われていますが、歌の世界ではほとんど見えなくなり、
わずかに茂吉が詠っているのみです。

「 味噌汁に 笹竹の子を 入れたるを
   あな珍(めづ)ら あな難有(ありがた)と 云ひつつ居たり 」

                       斎藤茂吉 ともしび


         万葉集638 (めづらし) 完


次回の更新は 6月30日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-06-22 17:40 | 心象

万葉集その六百三十七 (梅雨の季節)

( 雨、雨 降れ降れ     学友N.Fさん提供 )
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( せっかくのお祝いなのに、、  春日大社 奈良 )
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( 二人で仲良く   海外からの客人か  春日大社参道 )
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( 紫陽花が美しい季節です )
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( 同上 )
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( 雨の長谷寺   本堂から  奈良 )
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(  同上  五重塔 )
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( 紫陽花と僧侶  長谷寺にて  筆者 )
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( 雨の室生寺    奈良 )
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( 雨晴れて   室生寺 )
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万葉集その六百三十七 (梅雨の季節)

日本列島は今や梅雨の季節。
南の沖縄は既に5月半ばからはじまり、関西、関東は6月上旬、
東北は6月中旬、それぞれ約ひと月の間、雨が断続的に降り続きます。

大地を潤し稲や野菜、草木を育てる恵みの雨は、時には洪水や
土砂崩れなどの災害も引き起こす気まぐれもの。
どのように付き合ってゆくのか、大昔から死活上の大問題でした。

梅雨と表記されるのは「梅」の実が黄色く熟れる頃に降る「雨」。
その語源は湿っぽい(多湿)を意味する「つゆ」が本義だそうな。

また、「梅雨」は時候をさし「五月雨」は雨そのものをいう表現。
「さみだれ」の「さ」は神聖な稲にかかわる言葉、あるいは五月(さつき)の「さ」
「みだれ」は「水垂れ」とされています。

またこの時期の長雨を「卯の花腐(くた)し」とも。
盛りの卯の花を腐らせるように降る雨の意です。

「梅雨」が歌語になるのは意外や意外、江戸時代から。
「五月雨」(さみだれ)は平安時代、「卯の花くたし」と「長雨」は万葉集に。

「 卯の花を腐(くた)す長雨(ながめ)の 水始(みずはな)に
    寄る木屑(こつみ)なす 寄らむ子もがも」 
                                  19―4217 大伴家持

( 卯の花を痛める長雨で水かさが多くなった川、その流れの先に木の屑が
  いっぱい集まっています。
  このような木屑のように私のところに美しい女性が
  集まってくれたらいいのになぁ)

水始(みずはな):「はなみず」とも読み水量の増した流れの先端のこと。
ここでの「腐(くた)す」は「腐らす」ではなく「散らす」「だめにする」の意。
後に「五月雨(さみだれ)」の異名となります。

「 谷川に 卯の花腐し ほとばしる 」 高濱虚子

万葉人にとって雨は大して苦にならなかったらしく、ロマンティックな若者は
乙女の赤い裳裾が雨に濡れて、白い素足がチラチラのぞくさまを
想像しながら詠っています。

「 我妹子(わぎもこ)が 赤裳の裾(すそ)の ひづつらむ
    今日の小雨に 我れさへ濡れな 」 
                        巻7-1090 作者未詳

( 今日は小雨、いとしいあの子は今頃赤裳の裾を濡らしていることだろう。
 おれも濡れながら行こう、あの子を思い出しながら 。)

作者は旅をしながら故郷に残した いとしい人を目に浮かべています。
あの子はきっと雨に濡れていることであろう。
遠くに離れていても心は一緒、俺様も濡れていこうじゃないか。

「赤裳」:
       腰から下に付ける女性の衣服、
       赤い裾が濡れるさまは男の官能をそそった

「ひづつらむ」: 「泥(ひぢ)打つ」の約で「濡れる」、「泥がかかる」の意

このフレーズは近代でも好まれ「浜辺の歌」の3番でも引用されています。

「   疾風(はやち)たちまち  波を吹き
    赤裳の裾(すそ)ぞ  濡れ漬(ひ)じし
    病みし我は  すでに癒えて
    浜辺の真砂  まなご(愛子)いまは 」
  
                     ( 作詞 林 古渓 作曲 成田為三)

上の歌とは逆に「濡らさないでくれ」と詠う男もいました。

「通るべく 雨はな降りそ 我妹子が
   形見の衣 我(あ)れ下に着(け)り 」 
                         巻7-1091  作者未詳

( 着物の中へ通るほど雨は降らないでくれ。
      いとしいあの子と交換した形見の衣をおれは下に着ているのだから.)

旅する時にお互いの下着を交換するのが当時の習い。
形見とは亡くなった人の記念のものではなく、お互いを思い出す
よすがとなるものです。

それにしてもこの男、旅の間中ずっと下着を脱がずに
着ていたのでしょうかね。

「 ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ子が
       やどに今夜(こよひ)は 明かしてゆかむ 」 
                               巻6-1040  大伴家持

( 雨よどんどん降り続けるがよい。
      いとしいあの子の家で思う存分夜をあかしてゆこう )

藤原八束の家で宴があり安積皇子と共に招かれた作者が
「雨が降るとはこれ幸い、腰を落ち着けてゆっくり楽しませて戴きますよ」と
謝意を込めて詠ったもの。

八束は藤原房前の第3子、家持の父、旅人と房前が親しかった関係で
子の代になっても親交が続いていたらしく、お互い気心が知れた仲でした。

安積皇子は聖武天皇の子、将来を嘱望されていたが惜しくも
早世された方です。

以下は長谷川櫂氏著「日本人の暦」からです。

『 梅雨は日本人の生活や文化に大きな影響を与えてきました。
  日本人の文化の土台となったのは梅雨だった。
  梅雨がなかったら、それはもっと違ったものになっていたはずです。

  というのは、梅雨のもたらす大量の雨水は大地にしみこみます。
  梅雨が明け、そこに真夏の太陽が照りつけると、水蒸気となって日本列島を
  包み込みます。

  天然の蒸し風呂の中にいるような、この蒸し暑い夏をどうしたら涼しく快適に
  過ごせるのか。これこそ日本人にとって昔からの大問題でした。

  そこでさまざまな工夫がされて生まれたのが、日本人の文化です。
  一言でいうなら、それは「間(ま)」を大事にする文化です。

 物と物、人と人が、べたべたくっつかないようにする十分な「間」をとる。

  切れ目を残す着物の仕立て、さらりとした料理の味付け、
  風通しのいい家づくり、絵画の余白、音楽や芝居の沈黙の部分。
  こうした「間」を重んじる日本の文化を育んだ大きな要素の一つが
  梅雨のもたらす大量の雨水でした。 』 (筑摩書房)

「 日本文化の源泉の一つに梅雨があり 」

なるほど、なるほど。
このような説を唱えられた方は寡聞にして存じませんでした。

「 あふち咲く 外面(そとも)の木陰 露落ちて
              五月晴るる 風わたるなり 」       藤原忠良 新古今和歌集

       外面(そとも):家の外の

高々と伸びて空に枝を広げる栴檀(あふち)の木
梅雨の晴れ間の風が、その薄紫の花を揺らして吹き渡ってゆく。
五月晴れとは梅雨の晴れ間。
清々しい香りが漂ってきそうな気持よい1首です。



万葉集637 (梅雨の季節)完


次回の更新は6月24日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-06-15 18:09 | 自然