万葉集その六百三十一 「 美(うま)し 東北 」

( 東大寺大仏  創建時 金色に輝く東北産の金で覆われていた )
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( 安達太良山  福島県 )
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( 多賀城跡 奈良時代最北の国府 宮城県 )
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( 陸奥の国の範囲  10世紀には東北全域に及ぶ  多賀城跡で)
                    
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(  裏磐梯 五色沼  福島県 )
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(  裏磐梯  福島県 )
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(  三春滝桜    福島県 )
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(  復興を祈って旗のぼり  三春 )
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(  護国神社 仙台 )
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( 仙台七夕 )
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( 田沢湖  秋田 )
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( 奥入瀬川   青森 )
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(  ねぶた    同上 )
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万葉集その六百三十一「美(うま)し東北」 

「大震災の発生が東北でよかった」
無神経かつ心無き発言で被災者の方々を傷つけ、多くの国民から顰蹙(ひんしゅく)を
買って即刻罷免になった某大臣。

「東北でよかった」(東北に住んでよかった)
と即座に切返し、美しい四季の風景や特産品の写真と共に
暖かい言葉で支え、勇気づけた19万人超のツイッタ-の投稿。

まさに言葉は心の鏡。
一度口から発せられたものは二度と戻りません。
一言の重みをつくづく感じさせられた出来事でした。

今から1300年前の万葉時代、常陸(茨城)下野(栃木)から北方を
陸奥(みちのく)の国とよんでいました。
今の福島県、山形県内陸部、宮城県一円の地域にあたり、万葉歌に見える
北限に近い場所とされています。

東北に関する歌は多く残されていますが、その中から数々の挿話と共に
語り継がれてきた3首を取り上げてみたいと思います。

まずは、大仏建立に関するものです。
743年聖武天皇は盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)造営の詔を発しました。

当時の世相は藤原氏と天皇親政派の間の権力闘争、加えて農村にうち続く疫病と飢饉。
戦乱や相次ぐ遷都による労力の負担による村の荒廃と村人の逃亡、
など混沌としていました。

天皇は社会のあらゆる面で対立が激化する国内の混乱を、
世にも稀なる巨大な大仏を建立することによって抗争するエネルギーを吸収し
人心の統一をはかろうとしたのです。

ところが、大仏が完成に近づいた頃、一大問題が発生しました。
像に塗るべき金(きん)が入手出来ません。

海外からの輸入もやむなしと検討していた矢先の749年、
なんという幸運! 陸奥の国から金が産出したとの報告があり、
陸奥国守、百済王敬福(くだらの こにしき きょうふく)が
管内の小田郡から産した黄金を献上。

今まで国内で産出しなかった金が採掘できたのは百済系渡来人の技術が
発揮されたものと思われ、その知識や技術を持つ人材を陸奥に派遣していた
用意周到な人事が功を奏したものと思われます。 

天皇は狂喜され、産金は神仏が大仏の造立を祝って表出してくれたものと受け止め、
そのことを寿ぐ長大な詔を発せられました。

その詔の中で大伴家は累代天皇によく尽くしたと称えられ、
感激した大伴家持が感謝の意を捧げて下記の歌を詠みます。

「 天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東(あずま)なる
   陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く 」
                            巻18-4097 大伴家持 

( 天皇の御代が栄えるしるしと、東の国の陸奥山に黄金の花が咲きました。)

今日、巨大な大仏を仰ぎ見る時、古の東北の人々が苦労を重ねて金を探し求め
天皇に献じた有難さをしみじみと思い浮かべます。
奈良の大仏は永遠に東北と共にあり、その慈悲ある目ざなしで
復興早からんことを見守り続けられることでしょう。
なお、金産出場所は現在の宮城県遠田郡とされ「黄金山産金遺跡」として
遺されています。

「 安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる 山の井の
     浅き心を 我が思はなくに 」 
                          巻16-3807  前采女(さきのうねめ)

( 安積山の姿さえくっきりと映し出している清らかな山の井、
 あの水は浅いですが、私はあのような浅はかな気持ちで、
 あなた様をお慕いしているのではありません。
 本気であなたさまを想っているのですよ )

「安積香山」 :福島県郡山市日和田の郊外にある小さな丘

「影さへ見ゆる」: 山の影までくっきりと映っている清らかな浅い水

「山の井」 : 人工の井戸ではなく、山から自然に湧き出た水を堰き止めて
         飲料水にしているところ

「浅き心を」: 浅くは

「我が思はなくに」: 私はあなたを想ってはいないのに
             浅く思っていない→ 深く想っている

「 安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる 山の井の 」までが
「浅き心を 我が思はなくに 」を引き出すための序詞です。

この歌の前に註があり

「 云い伝えによると、葛城王(後の左大臣 橘諸兄とみられる)が若き頃 
 陸奥国に派遣された時、国司の接待が極めていい加減だったので
 王は怒りの表情を顔に浮かべ飲食の饗応もまったく楽しげではなかった。

 その宴席に、以前天皇に近侍していた采女がいた。
 立ち居振る舞い風流(みやび)やかな美女である。
 客人のご機嫌ななめと見て取ると、おもむろ立ち上がり、
 左手に酒杯、右手に水瓶を持って、王の膝をたたきながら拍子をとり、
 この歌を詠んだ。
 すると王の気持ちはすっかり和らぎ、始終楽しく飲んで過ごした。」

この歌は元々安積香山近くに住んでいた男女の間で交わされていた恋歌で、
一種の民謡であったと推定されていますが、古今和歌集の仮名序で高く称賛され、

「 難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
                   今や春べと さくやこの花 」

の歌と共に、貴族の子女の手習いの材料とされて一躍有名になったものです。

この歌が評価されたのは、
自然の風景をとりいれ人を和ませる機知と風流、適度の色気、
調べよく覚えやすい、ことなどでしょうか。
賢明な葛城王も酒席での野暮を即座に悟ったようです。

「 安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも
   我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね 」 
                           巻14-3428 作者未詳

( 安達太良山の鹿や猪はいつも決まった寝床に帰って休むと言います。
 私もお前のところへ通い続けるから、
 いつでも共寝できるように待っていてくれよね。 )

この歌の解釈には色々な説がありますが、
佐々木幸綱氏は「二人の間に何かトラブルでもあって、
女が“もう通ってこないで!”などとすねてしまった。
そんな場面を思い浮かべればこの歌の意味が理解しやすい」
と解説されています。(万葉集東歌)

もともとは山野で働く人達の作業歌だったのでしょうか。

「 格子戸に 山百合かをる  智恵子の間 」 金子智代 

         ( 智恵子の生家、長沼家は二本松市の旧奥州街道に面した酒造家)

安達太良山が不朽の名になったのは、高村光太郎の「知恵子抄」。

「 あれが 阿多多羅山 (あたたらやま)
  あの光るのが 阿武隈川 (あぶくまがわ)
  かうやって 言葉すくなに座ってゐると
  うっとり ねむるやうな頭の中に
  ただ遠い世の  松風ばかりが 
  薄みどりに吹き渡ります 」

                   高村光太郎 智恵子抄 (樹下の二人より)

「 智恵子は東京に空が無いといふ。
 阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 
 智恵子の ほんとの空だといふ」 
                     ( 智恵子抄 あどけない話より)

人々は「智恵子のほんとの空」を見たくて車窓から安達太良山を眺め、
    山に登ります。
    安達太良山の頂上は、つんと突起しており「乳首山」ともよばれていますが、
    二本松方面からみた山容はいくつもの山が連なった連峰で、
    どの頂が安達太良山の頂上か分りにくく、万葉人が見た安達太良山は
    恐らく連峰全体をさしているのでしょう。

   「 安達太良は 北の雄嶺ぞ 帰る雁 」   篠田 悌二郎




         万葉集630 「 美(うま)し 東北 」 完


         次回の更新は 5月9日(火)の予定。
          ( 通常より早くなります )
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# by uqrx74fd | 2017-05-02 19:33 | 万葉の旅

万葉集その六百三十 (曲水の宴)

( 城南宮 平安時代 都の守護神 曲水の宴が今でも開催されている 京都伏見区 )
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( 曲水の宴  城南宮 )
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( 同上 )
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( 曲水の宴図  吉田元陳作  城南宮収蔵 )
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(  羽觴:うしょう 鴛鴦の形をした酒杯の受皿  作歌が終わった人が取り上げ盃を戴く) 
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( 曲水の宴図  京都御所 )
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(  東院庭園  平城宮跡隣り  奈良 )
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( 同上 )
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( 桃と鯉のぼり  万葉ゆかりの古河 茨城県 )
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(  桃の花  同上 )
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万葉集その六百三十 (曲水の宴)

「曲水の宴」とは宮中で催された中国伝来の行事で、庭園の曲がりくねった小川の両側に
貴族たちが座り、上流から流れてくる酒杯が自分の前を通り過ぎないうちに
詩歌を詠んだのち、おもむろに酒杯を取り上げて飲むという優雅な宴です。

時期は旧暦の3月初旬、現在の4月の中頃でしょうか。
桜や桃、椿の花が咲く華やかな季節です。

「 今日(けふ)のため と思ひて標(しめ)し あしひきの
      峰の上の桜 かく咲きにけり 」 
                       巻19-4151 大伴家持

( 今日の宴のためにと思って私が特に押さえておいた山の峰の桜、
 その桜はこんなに見事に咲きました。)

「 奥山の 八つ峰(を)の椿 つばらかに
    今日(けふ)は暮さね ますらをの伴(とも) 」 
                          巻19-4152 大伴家持

( 奥山のあちらこちらの峰に咲く椿、
 その名のように、つばらかに心ゆくまで
 今日1日、ゆっくりお過ごしください。
 お集まりの ますらおの皆様たち。)

      「つばらかに」: ゆったりとした気持ちで

「 漢人(からひと)も 筏(いかだ)浮かべて 遊ぶといふ
      今日(けふ)ぞ 我が背子  花かづらせな 」 
                            巻19-4153 大伴家持

( 唐の国の人も、筏を浮かべて遊ぶという今日のこの日。
 さぁ、皆さん、花蘰(はなかずら)をかざして、
 楽しく遊ぼうではありませんか )

   「花蘰」: 花で編んだ髪飾り

古代中國では陰暦3月最初の巳の日を上巳(じょうし)といい
格別な吉日とされて曲水の宴が行われていました。
この行事が後に、3月3日に固定されて我国に伝えられたと云われています。

我国文献での記録は古く、日本書記 顕宗(けんぞう)天皇元年(485)
「 3月の上巳に後苑にて曲水の宴をきこしめす 」とあります。

ただ、家持が詠った3首の歌は、いわゆる正式な曲水の宴ではなく、
越中国守の館で山桜、椿を眺めながら官吏と共にした宴会でのもの。
というのは、曲水の宴を催すには広大かつ凝った造りの庭園が必要なので、
場所は宮中か大貴族の庭園にかぎられ、一介の地方国守ではなしえない
行事だったからです。

風流貴族の家持は3月3日に歌を詠むという習慣だけを採りいれたようですが、
他に例がなく、上記3首は和歌史上初の記念すべき歌群とされています。

また、747年、大伴家持の歌友、大伴池主も同じく「晩春3日遊覧」と題する
漢詩を作り3月3日の佳き日に、桃の花の紅と柳の緑が美しいことと、
水辺に出て酒を酌み交わす光景を述べています。

以下は訳文です。(漢詩は省略)

「 春の終わりの佳き日は 賞美するによく
  3月3日のさわやかな風景は、遊覧するに値する。
  川に沿って柳の道が続き、人々の色とりどりの晴れ着が美しい。
  桃咲く里は流れが海に通じており、仙人が舟を浮かべている。

  雲雷模様の酒樽で香り高い佳酒を酌めば
  澄酒がなみなみと湛えられ、
  鳥形の盃は人々に詩詠をうながして,幾曲りもしている水に流れる。

  私はほしいままに気持ち良く酔い 陶然としてすべてを忘れ、
  酩酊してところ構わず 座り込むばかりである。」
    
さて、宮中で行われた曲水の宴の歌は、我国最初の漢詩集「懐風藻」に
3編残されており、下記はそのうちの1つです。

三月三日 曲水の宴 

「 錦巌(きんがん) 飛瀑(ひばく)激し
  春岫(しゆんしゅう) 曄桃(えふとう)開く
  流水の急なるを 憚(はばか)らず
  ただ盞(さん)の 遅く来ることを 恨む 」   山田 三方 懐風藻より

                    (春)岫(しゅう) :(春の)峰 
                    曄桃(えふとう): 輝き照っている桃
                    盞(さん):盃

( 錦の彩りをした巌から 滝が激しく流れ落ち
  春にかすむ峰には  桃があでやかに咲いている
  曲水の流れの急なことは 別にいとわないが
  盃の廻ってくるのが 遅いのが残念だ )

我国では民間で古くから流し雛といって木片などで作った人形(ひとがた)に
穢れや災いを託して水辺に流すという禊ぎの風習があり、のち宮中で
6月,12月の末、大祓(おおはらえ)といわれる大規模な行事になります。

このような下地があったので、酒杯を川に浮かべて流すという行事が
中国からもたらされてもごく自然に我国でも受け入れられたのでしょう。

現在、平城京宮跡の近くに当時の庭園(東院庭園)が再現されています。
春日山、御蓋山を借景にし、古代王侯貴族の優雅な生活を彷彿させるような
たたずまいです。
また、京都の城南宮、上賀茂神社、福岡の太宰府天満宮でも毎年、
古式豊かな曲水の宴が催されており、多くの観光客を楽しませてくれています。

※ 京都城南宮の曲水の宴 4月29日、11月3日 年2回開催

  「 曲水の 流れゆるやか 花筏 」       川戸狐舟


            万葉集630 (曲水の宴) 完



           次回の更新は5月5日(金) の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-04-27 15:18 | 生活

万葉集その六百二十九 (八重桜)

( 知足院山門  ナラヤエザクラの発祥地   奈良 正倉院東側 )
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(  同上  本堂 )
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( ナラヤエザクラ  知足院 )
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(  新宿御苑  東京 )
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(  同上 )
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( 同上 )
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( 鬱金桜:うこんざくら  新宿御苑 )
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( 高千穂神社    佐倉市)
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(  同上 )
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( 同上 )
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( 京都御所 御苑 )
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( 同上 )
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万葉集その六百二十九 (八重桜)

「 いにしへの奈良の都の八重桜
    けふ九重(ここのへ)に にほひぬるかな 」  
                       伊勢大輔(いせのたいふ) 詞花集 百人一首

一条天皇の御代、奈良の八重桜が献上された際、作者が受取人となり、
藤原道長から「その花を題にして歌を詠め」と命じられ即座に詠んだもの。
上の句で古き都の栄光を背負っているような見事な八重桜を強調し、
下の句でそれが平安京の宮廷(九重)で絢爛と輝く有様を述べて詠嘆した。

「いにしへ」と「けふ」、「八重」と「九重」を対比し、古都の桜を称え
平安宮廷の繁栄を明るく高らかに詠いあげた名作。
この一首により八重桜と云えば奈良、不変のものとなりました。

八重桜は桜の一品種ではなく、八重咲きに花をつける桜の総称で、
我国では「関山(カンザン)、「一葉(イチヨウ)」、「普賢象(フゲンゾウ)」、
「八重紅枝垂れ」、そして淡い黄色の「鬱金(ウコン)」などが知られています。

多くはヤマザクラやソメイヨシノに比べて開花期が遅く、見頃は4月中旬~下旬。
散り始めまでの期間が長くゆっくり楽しめ、風に舞う花びらや花絨毯も美しい。

万葉集には八重桜という言葉は見えませんが、聖武天皇がご覧になって
いたく感心されたという記述もあるので、平城京の周囲には多く咲き誇って
いたことでしょう。

「 あをによし 奈良の都は 咲く花の
   にほふがごとく 今盛りなり 」 
                        巻3-328 小野 老(おゆ)

( 奈良の都は咲き誇る花の色香が匂ひ映えるごとく、今真っ盛り。)

大宰府で勤務している作者が公用で都に上り、桜満開の素晴らしさを
宴席で語ったもの。
豪華絢爛な八重桜が咲き誇る奈良の春を世にも美しく詠い、
長く愛唱されている一首です。

「 見渡せば 春日の野辺(のへ)に 霞立ち
    咲きにほへるは 桜花かも  」  
                        巻10-1872  作者未詳

( 遠く見渡すと、春日の野辺一帯に霞がたちこめ、花が美しく咲き誇っている。
 あれは、桜の花だろうか。)

「 遠く霞の中に咲きにほふ桜花の眺め。
今も美しい日本の春の典型的な景色である 」( 佐佐木信綱 万葉集評釈)

と評される平安朝和歌の先駆をなすもの。
今日の飛火野から奈良公園一帯にその面影が残ります。

「 千歳すむ 池のみぎはの 八重桜
           かげさへ底に 重ねてぞ見る 」    藤原俊忠 千載和歌集

八重桜はオクヤマザクラが重弁化して生まれたものと考えられています。

以下は小清水 卓司奈良女子大名誉教授の記述からの要約です。

『 その昔、聖武天皇が弥生の頃三笠山の奥に行幸された時、
谷間にいとも麗しい八重桜の咲いているのをご覧になり、
宮廷に帰って光明皇后に伝えたところ、皇后は非常にお喜びになり
その桜の一枝なりとも見たいと御所望になり、臣下が気を利かせて
宮廷に移植して御覧に入れ、以来春ごとにこの桜花を愛でられていた。

ところが女帝孝謙天皇のころになって、当時飛ぶ鳥も落とす勢力を
誇示していた興福寺の僧達はこの名桜を宮廷に置くことを喜ばず
権力をもってこの桜を興福寺の東円堂前(旧奈良学芸大学正門内)に
移植して興福寺の名桜として誇っていた。
との言い伝えがある。

しかし、多数の古歌、古図、史実に掲載されている桜が
いかなる種類に属する桜であるか検討したものがなかった。

大正11年(1922) 植物学の権威である三好学博士が
一般の桜がほぼ散った4月の末の頃、奈良の正倉院東隣の丘の上にある
世人から隔離され、訪ねる人も少ない知足院の裏山の藪の中に
赤い芽ざしの葉と花とを調和よく同時につけ、いとも優雅な気品のある
他に類例を見ない八重桜が咲き盛っているのを見て、調査の結果
これこそ古来から古記録、古歌、史実などに現れている貴重な八重桜と
よく符合することを確認して、その結果を植物学雑誌に独文で報告、
記述し、桜の新種「ナラノヤエザクラ」と発表した。

さらに大正12年(1923)には、文学上、歴史、植物学上貴重であり、
稀珍な存在であるとして、知足院奈良八重桜を天然記念物に指定して
今日に及んでいる。
なお、この桜の増殖は非常に困難であり、保存に意を用いないと
絶滅する運命にあり、この種の老樹は、ほとんど枯れてしまっているのは
残念である。 』                 ( 万葉の草、木、花 朝日新聞社 )

「 『 いにしへの 寧楽(なら)のみやこの やえざくら 』―
                ふとくちずさみ 涙うかべり  」    土岐善麿

ナラヤエザクラは増殖力が弱く、現在は東大寺知足院で小ぶりのものしか
見ることが出来ませんが、他の種の八重桜はいたるところで豪華絢爛な花を
咲かせており、中でも、新宿御苑、大阪の造幣局の「桜の通り抜け」が
よく知られています。

    「 奈良七重 七堂伽藍 八重ざくら 」   芭蕉




                  万葉集629 ( 八重桜 )完



                  次回の更新は4月28日の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-04-20 19:57 | 植物

万葉集その六百二十八 (あだ桜)

( 吉高大桜  千葉県印旛村 )
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( 三春滝桜   福島県 )
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( 上田城   長野県 )
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( 又兵衛桜  奈良県 )
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( 千鳥ヶ淵   東京 )
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( 六義園枝垂れ桜     東京 )
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( 醍醐寺   京都 )
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(  玄賓庵   山辺の道  奈良 )
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(  高千穂神社   佐倉市 )
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(  新宿御苑   東京 )
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(  同上 )
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万葉集その六百二十八 (あだ桜)

「 明日ありと 思ふ心の あだ桜
         夜半に嵐の 吹かぬものかは 」 親鸞聖人絵詞伝

親鸞聖人9歳の時に詠んだと伝えられる一首。(ほんとかしら?)

得度(僧侶になること)するために青蓮院の慈円和尚を訪れたが、生憎夜中。
慈円は「今日は遅いから明日に」と云った時に答えた歌とされています。

「この世は無常であり、今を盛りと咲く桜が夜中の嵐で
 散ってしまうかもしれません。
 私の命も同じように何時果てるかもわからない。
 どうか、今ここで得度の儀式を執り行って下さい」 と
お願いして了解を得たそうな。

この歌を人生で最初に覚えたとされる向田邦子さんは
「あだ桜」という随筆で

「 人生の折り返し地点をはるかに過ぎ、残された明日は日一日と
  少なくなっているのに、まだ明日をたのむ気持ちは直っていない。
  さしあたって一番大切な、しなくてはならないことを先に延ばし、
  しなくてもいいこと、してはならないことをしたくなる性分は
  かえって年ごとに強くなってゆくような気がする。」

と述べておられます。( 父の詫び状 所収 文芸春秋社)

「思い立つた日が吉日」という言葉もあり、花見も散らぬうちに
 楽しみたいものです。

さて、こちら万葉人は風流な恋歌であだ桜を楽しんでいます。

「 やどにある 桜の花は 今もかも
      松風早み 土に散るらむ 」  
                      巻8-1458 厚見 王

( 庭に植えてある桜の花は 今ごろ松風がひどく吹いて
  ひらひらと地面に散っていることだろうか。)

作者は官人(少納言) 。
749年奉幣使として伊勢神宮に遣わされたの記録がありますが
詳しいことは未詳。

「やどにある桜」: 女の家の庭の桜を我家のもののように
            馴れ馴れしく云っており相手の女性は
            我がものという意識が底にある

女の家の落花の美しさを思いやった風流を装いながら、
他の男に心を移しているのではないかと疑っているのです。

それに対して女性は

「 世間(よのなか)も 常にしあらねば やどにある
    桜の花の 散れるころかも 」 
                     巻8-1459 久米女郎

( 人の世は 定まりないものです。
  我家の庭の桜も、空しく散ってしまいましたよ。 )

あなたこそ、一向に訪れがないものですから、待ちくたびれて
他の男に魅かれてしまいましたと応えたもの。

色よい返事を期待していた男はあっけにとられたことでしょう。
久米女郎の経歴は未詳、万葉集でこの1首のみです。

  世間(よのなか): 無常の人の世の意で男女の仲を譬えている

「 あしひきの 山の際(ま)照らす 桜花(さくらばな)
     この春雨に 散りゆかむかも 」 
                            巻10-1864 作者未詳

( 山あいを明るく照らして咲いている桜の花。
  この春雨に散ってゆくことだろうか。)

作者は前の日に満開に咲く桜を見てきたのでしょうか。
今降る春雨に打たれて散っているだろうかと、惜しんでいます。

万葉人にとっての桜は、明るく生きる生命の象徴、
散る桜は命の再生の肥やし。そして稲の神様の化身。
桜咲く時期になると山の神様がそろそろ田植えだよと教え、
花が多ければ多いほど、散る時期が遅ければ遅いほどその年は
豊年と信じられていたのです。

万葉人の詠んだ散る桜。
そこには親鸞聖人が詠った仏教的無常観は微塵も見られません。
「世間(よのなか)も常にしあれば」と詠っても、彼らにとっては
男と女の間の話。

あだ桜は万葉人にとって恋のあだ花だったのでしょう。


        「 桜花 何が不足で 散りいそぐ 」  一茶




    万葉集628(あだ桜)完

次回の更新は4月21日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-04-13 22:02 | 植物

万葉集その六百二十七 ( 桜の歌 )

( 長谷寺 奈良 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 山辺の道 桃と桜  奈良 )
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( 美和の杜  山辺の道  奈良 )
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(  同上 後方は三輪山  奈良 )
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( 浮御堂  奈良 )
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( 薬師寺遠望  奈良 )
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(  同上  前方は大池 )
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( 甘橿の丘  奈良 )
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( 吉野山  奈良 )
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万葉集その六百二十七 (櫻の歌)

「 さくら さくら
  野山も里も  見渡すかぎり
  かすみか雲か  朝日に匂う
  さくら さくら   花ざかり 」  (日本古謡)

桜前線の北上が始まり、琴の調べとともに流れてくるこの曲を耳にすると、
たちまち浮き浮きするような気分になります。
南の小さな島々から、北海道の隅々まで順次桜で埋め尽くされてゆく。
このような国は世界広しと云えども、我国だけでありましょう。
あぁ!日本人に生れてよかった!としみじみ感じる季節です。

万葉人もこのような光景を「国のはたてに」( 国の隅々まで)と詠い
桜の到来を寿ぎました。

「 娘子(をとめ)らが かざしのために 
  風流士(みやびを)が かづらのためと
  敷きませる
  国のはたてに 咲きにける
  桜の花の  にほひはも あなに 」 

         巻8-1429 若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)口誦

 ( 乙女たちの 挿頭(かざし)のために
   風流士(みやびを)の蘰(かずら)のためにと
   大君がお治めになる
   国の隅々まで 咲き満ちている
   桜の花の まぁ何と輝くばかりの美しさよ )

「 かざし」: 花や小枝を髪に挿して飾りとしたもの

「 風流士(みやびを)」 : 都会風の風流を解する教養ある男子

「 かづら 」: 柳や蔓草などを頭に巻く髪飾り

「 敷きませる 」: 天皇が国を統治し領有しておられる

「 国のはたてに 」: 端手、涯 :隅から隅までも 国の果てまで

「 にほひはも あなに 」: にほひ:明るく照り映える
               はも: 感動の助詞
               あなに: あぁ、ほんとうに の意の詠嘆

「 去年(こぞ)の春  逢へりし君に 恋ひにてし
     桜の花は 迎へけらしも 」 
                           巻8-1430  同上

( 去年の春 お逢いしたあなたに恋焦がれて 桜の花は
 この春もこんなにも美しく咲いて あなたをお迎えしたのですよ )

作者は宴会の席で,古歌として伝えられているものを口誦したようです。
桜を擬人法的に詠っています。

国の隅々まで桜が咲き誇り、美しい花の化身である輝くばかりの乙女が
私を迎えてくれた。
それは桜と同時に生命に対する賛歌でもあります。

 「 あしひきの 山桜花 一目だに
      君とし見てば  我(あ)れ恋ひめやも 」
                 巻17-3970   大伴家持

( 山々に咲き匂う桜の花。
 その花を、あなたと一緒に一目だけでも見ることができたら
 こんなに想い焦がれることもないことでしょうに 。 )

家持が大病を患い床に臥せていた時、歌友、大伴池主と歌のやり取りを
していた中の一首。
恋文仕立てで詠うことにより、親愛の情を示したもので、古代ではよく
用いられた手法です。

万葉時代の桜はすべて山桜か遅咲きのカスミザクラ。
カスミザクラの突然変種がナラヤエザクラになったともいわれ、
現在、東大寺近くにある智足院で栽培されたものが残っています。

自然の中で咲く山桜について 小清水 卓司氏が次のように述べておられます。

『 桜の中で日本の精を包含した花として謳歌されるものは、山桜系である。
  この桜の類は何れも、花と葉が同時に開くいかにも清浄な清々しいもので、
  多種多様な変種があるが、みなその背景を必要とし、しかもその背景は
  人工的な物体ではなく、どこまでも大自然そのもの、例えば常緑樹や、
  山川渓谷等の背景が配されてこそ、真のよさや、真の表情が
  表れるものである。』
                              (万葉の草・木・花 朝日新聞社)

今やソメイヨシノ全盛の時代。
それでもよく気を付けて見ると山桜が逞しく生き残っています。

古びた山里を歩いている時、一本の大木が満開の花を咲かせている。
それこそ絵になる風景、感動もひとしおなのです。

 「 やどりして 春の山辺に ねたる夜は
           夢のうちにも 花ぞちりける 」 
                        紀貫之 (古今和歌集)


        万葉集627(桜の歌)完

     次回の更新は4月14日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-04-06 11:04 | 植物