万葉集その六百三十九 (春蚕繭:はるごまゆ)

( 2017,6、18 付 読売新聞 )
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( 蚕飼する 人は 古代の姿かな  河合曾良 )
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( 多い地方では 春、夏、初秋、晩秋 晩々秋 の5回収穫する )
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( 京都 奥嵯峨野のまゆ村  )
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( 人形をつくる繭  同上 )
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( 繭人形  兎と虎  同上 )
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(  白と赤の対比が美しい人形棚  同上 )
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( ひつじ    同上 )
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万葉集その六百三十九 (春蚕繭:はるごまゆ)

春に収穫した蚕繭(ごまゆ)の出荷が始まる季節になりました。
瑞々しい桑の新芽をたんまり食べた蚕は最上の繭を生み出し、
美しい絹に生まれ変わるのです。

養蚕は今から4000年前に中国の黄河流域で始まり、漢代から絹織物を
西域に輸出していたといわれています。
古代ローマでの絹は金と同じ目方で取引されていたほどの極めて貴重品。
中國の養蚕技術は門外不出、国家機密として厳しく管理されていました。
欧州に伝わったのは6世紀頃、ペルシャ人の僧侶が竹の杖に蚕の卵を隠して
伝えたのがはじまりとか。

我が国でも弥生時代に野生種であった蚕を屋内で飼育して独自の絹を作っており、
「魏志倭人伝」に243年、卑弥呼が魏帝斉王に使いを送り、絹織物などを贈ったと
記されています。
また、5世紀中ごろ、雄略天皇が后妃に養蚕を勧め、諸国に桑を植えさせて以来、
養蚕は女性の最も大事な仕事の一つとされました。

然しながら日本の絹織物は独自のものといっても品質的には中国産に比べて
見劣りしたようです。
養蚕技術が飛躍的に向上したのは、679年遣唐使として派遣されていた
藤原鎌足の長男、僧 定恵(じょうえ)が桑を携えて帰国し、
琵琶湖東岸の古刹、桑実寺に植え、合わせて養蚕の手法を教えて以来からの
ようですが、その頃には中国の技術移転禁止令が解かれていたのでしょうか。

万葉集では春の蚕繭を詠ったものが1首残されています。

「 筑波嶺の 新桑繭(にひぐわまよ)の 衣(きぬ)は あれど
   君が御衣(みけし)し  あやに着欲しも 」 
                            巻14-3350 作者未詳

( 筑波山の麓の新桑で飼った繭の素晴らしい着物を私は持っていますが
  でも、やっぱりあなたのお召し物がむしょうに着たいものですわ)


当時、夫婦や恋人同士が互いに下着を交換して身に付ければ、
片時も離れることがないと信じる習慣がありました。
作者は、高価な絹織物より貴方が着ている衣を身にまとう方がよい、
出来れば一緒に寝たいと詠っています。

     「 美しき人や 蚕飼(こがひ)の 玉襷 」  高濱虚子

蚕は2昼夜糸を吐き続けて繭をつくりやがてその繭の中に閉じこもって
蛹になります。

志村ふくみ氏は繭の中で成長した蛹が、どのようにして外へでていくのか、
次のように述べておられます。

『 蚕がいっしんに白い糸を吐いて繭をつくり蛹になり,蛾になって
  外界に出てゆく時、どうしてあの繭から飛び立つかご存知ですか。
  勿論、繭を喰い破って穴をあけ、そこから飛び立つとお思いでしょう。
  ところが違うのです。

  蚕は口から少しずつ、アルカリを含んだ液を出して、繭の内側の壁を
  溶かしてゆき、小さな穴をあけてそこから飛び出してゆくのです。

  その穴に、大豆を1粒入れて、コロコロころがしながら、糸の口を
  みつけ、静かに引きだしますと、烟(けむり)のような一すじの糸は
  最後まで切れずに続くのです。
  乱暴に喰い破って穴をあけるのは蛹にいる寄生虫の仕業なのです。

  蚕は自分の命とひきかえにつくった白い城をどうしても喰い破ることが
  出来ず、みずからの体液でなめてなめて、溶かしながら門をひらき
  出てゆくのです。 
  一すじの糸も切ることなく。

 とあるひとが語ってくれた。 』  ( 蚕 一色一生 講談社文芸文庫所収)

「 たらちねの 母が飼ふ蚕(こ)の 繭隠(まよごも)り
     いぶせくもあるか 妹に逢はずして 」 
                            巻12-2991 作者未詳

( 母さんが飼い育てる蚕の繭ごもりのように、息がつまって、つまって
 何ともうっとうしいことよ。
 あの子に長い間逢わないでいて。)
 
健康な蚕が作った繭は極めて堅固で、湯で煮てほぐす以外に解かす
すべがありません。
身動きが出来ない心情を「いぶせくもあるか」(うっとうしい)と詠っていますが
その原文表示が傑作。

「馬声(い)、蜂音(ぶ)、石花(せ:岩石に付着している貝)
 蜘蛛(くも、)荒鹿(あるか)」と
 あらん限りの動物関係の漢字を使用しています。

「馬声」をイヒーンと聞きなした「イ」
「蜂の羽音」は「ブウーン」の「ブ」
「岩に張り付いたカメノテの固い石花」の「セ」
そして「蜘蛛」のクモ、「荒鹿」の「アルカ」

どれもこれも「うっとうしいなぁ」と。
万葉人の遊び心です。

以下は学友,T.Sさんから。

『 蚕の思い出といえば、終戦直前に3ヶ月半疎開した栃木の田舎で、
 屋根裏のようなところで蚕を飼っていたことを思い出しました。
 何となく、甘ったるい匂いがしていたような気がします。
 また、祖母が、湯に漬けた繭から、糸を引きながら、
 糸を紡いでいたことも思い出しました。
 独特な臭いがしていましたっけ。
 家の近くには、桑の木が沢山植えてありました。
 全く忘れていたことが、この歌をきっかけにいろいろと思い出すのも
 不思議な感じがします。』

「 母在りし その日のごとく 飼屋(かひや)の灯(ひ) 」   松岡悠風



          万葉集639(春蚕繭:はるごまゆ) 完


          次回の更新は7月7日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-06-29 14:33 | 動物

万葉集その六百三十八 (めづらし)

( 弓月ヶ岳にわく雲   奈良 山の辺の道 )
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( 万葉人は雲をながめながら恋人を想った )
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( 名のるという言葉はホトトギスから生まれた )
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( 名のるという言葉を最初に使ったのは大伴家持 )
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( 万葉で卯の花と詠われているシロバナヤエウツギ )
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( ヒメウツギ )
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( 梅花ウツギ )
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( 間もなく七夕 めづらしわが恋人よ  奈良万葉植物園 )
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万葉集その六百三十八 (めづらし)

「めづらし」とは優れた対象に心惹かれる意で、特にその目新しさに魅せられる
気持を含み持つ言葉です。

万葉集の原文表記に「希見」(めづらし)とあり、もっと見たいという気持ちや、
愛すべく賞賛すべき、あるいは、見ることが少ない、特別である等
様々なニユーアンスを込めて使われており、26例見えますが、
1300年も前の言葉が現在でもほぼ同じ意味で日常使われているとは、
驚きを禁じ得ません。

なお、語源は「愛(めず)らし」とか。(語源辞典 吉田金彦 東京堂出版)

「 青山の 嶺(みね)の白雲 朝に日(け)に
    常に見れども めづらし我(あ)が君 」 
                           巻3-377 湯原王

( 青い山の嶺にかかる白雲、その雲のように朝夕いつもお会いしていますが
 ちっとも見飽きることがありません。
 我が君よ。)

作者は志貴皇子の子(天智天皇孫)
客人、石上乙麻呂を迎えた宴席での歓迎歌。
ここでの「めづらし」は「心惹かれる」の意です。

通い婚の時代、男も女も互いに雲を眺めながら恋人の面影を追い、
旅にあっては故郷の方向に向かって流れゆく雲に伝言を託すような
思いで詠っていました。

「 暁(あかとき)に 名告(なの)り鳴くなる ほととぎす
    いやめづらしく 思ほゆるかも 」 
                         巻18-4084 大伴家持

( 暁の闇に中で、我が名を名のって鳴く時鳥。
 その初音を聞くと 貴女様がいよいよ懐かしく思われてなりません。)


越中に赴任した作者が、都の叔母、大伴坂上郎女に送った歌の1つ。
時鳥を名のる鳥と詠ったのは家持が最初とされています。

以下は伊藤博氏の解説です。( 万葉集釋注9)

「 一声天をめぐる。 
  時鳥の声は広く万葉人の心を刻んだ。
  鋭い声で夜となく昼となく鳴きながら、姿をみせることはほとんどない。
  声への関心は高まらざるをえない。

  そのそも、ホトトギスと称するその名が、鳴き声に由来する。
  しかも、百鳥の鳴き騒ぐ春ではなく、夏到来と共にひとりやってきて
  一声天をめぐるのである。
  「名のり鳴く」は時鳥によって時鳥のために生れた語である。」

「 卯の花の ともにし鳴けば ほととぎす
    いやめづらしも  名告(なの)り鳴くなへ 」 
                           巻18-4091 大伴家持

(  「卯の花は自分の連れ合いですよ」といわんばかりに鳴く時鳥。
   その鳴く声にはますます心惹かれる。
   自分はホトトギスだと名のりながら鳴いているにつけても。)

時鳥の鳴き声を「ホトトギス」と聞きなして、自身の名を名のっていると
詠っています。

卯の花は初夏に白い花を咲かせ、現在名は空木(うつぎ)です。

「ともにし鳴けば」:「伴にし鳴けば」で「連れ合いとして鳴くものだから」

「 紅の 八しほの衣 朝な朝な
     なれはすれども  いやめづらしも 」 
                        巻11-2623 作者未詳

(  紅の何度も染め重ねた八汐の衣。
   その衣を毎日着ていると馴れ親しんでくるが、
   お前さんも毎日抱いているとますます可愛いわい。)

        八しほ: 「八」 回数が多いの意。
              「しほ」 衣を染料に浸す回数をしめす言葉

「 衣は着る回数を重ねる度に体になじんでくるが、
  可愛いあの子も抱けば抱くほど素晴らしい。
  あぁ、いやいや、愛(う)いやつだ 」

と臆面もなくのろけている男です。

万葉時代に盛んに詠われた「めづらし」は現在の日常会話では
よく使われていますが、歌の世界ではほとんど見えなくなり、
わずかに茂吉が詠っているのみです。

「 味噌汁に 笹竹の子を 入れたるを
   あな珍(めづ)ら あな難有(ありがた)と 云ひつつ居たり 」

                       斎藤茂吉 ともしび


         万葉集638 (めづらし) 完


次回の更新は 6月30日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-06-22 17:40 | 心象

万葉集その六百三十七 (梅雨の季節)

( 雨、雨 降れ降れ     学友N.Fさん提供 )
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( せっかくのお祝いなのに、、  春日大社 奈良 )
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( 二人で仲良く   海外からの客人か  春日大社参道 )
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( 紫陽花が美しい季節です )
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( 同上 )
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( 雨の長谷寺   本堂から  奈良 )
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(  同上  五重塔 )
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( 紫陽花と僧侶  長谷寺にて  筆者 )
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( 雨の室生寺    奈良 )
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( 雨晴れて   室生寺 )
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万葉集その六百三十七 (梅雨の季節)

日本列島は今や梅雨の季節。
南の沖縄は既に5月半ばからはじまり、関西、関東は6月上旬、
東北は6月中旬、それぞれ約ひと月の間、雨が断続的に降り続きます。

大地を潤し稲や野菜、草木を育てる恵みの雨は、時には洪水や
土砂崩れなどの災害も引き起こす気まぐれもの。
どのように付き合ってゆくのか、大昔から死活上の大問題でした。

梅雨と表記されるのは「梅」の実が黄色く熟れる頃に降る「雨」。
その語源は湿っぽい(多湿)を意味する「つゆ」が本義だそうな。

また、「梅雨」は時候をさし「五月雨」は雨そのものをいう表現。
「さみだれ」の「さ」は神聖な稲にかかわる言葉、あるいは五月(さつき)の「さ」
「みだれ」は「水垂れ」とされています。

またこの時期の長雨を「卯の花腐(くた)し」とも。
盛りの卯の花を腐らせるように降る雨の意です。

「梅雨」が歌語になるのは意外や意外、江戸時代から。
「五月雨」(さみだれ)は平安時代、「卯の花くたし」と「長雨」は万葉集に。

「 卯の花を腐(くた)す長雨(ながめ)の 水始(みずはな)に
    寄る木屑(こつみ)なす 寄らむ子もがも」 
                                  19―4217 大伴家持

( 卯の花を痛める長雨で水かさが多くなった川、その流れの先に木の屑が
  いっぱい集まっています。
  このような木屑のように私のところに美しい女性が
  集まってくれたらいいのになぁ)

水始(みずはな):「はなみず」とも読み水量の増した流れの先端のこと。
ここでの「腐(くた)す」は「腐らす」ではなく「散らす」「だめにする」の意。
後に「五月雨(さみだれ)」の異名となります。

「 谷川に 卯の花腐し ほとばしる 」 高濱虚子

万葉人にとって雨は大して苦にならなかったらしく、ロマンティックな若者は
乙女の赤い裳裾が雨に濡れて、白い素足がチラチラのぞくさまを
想像しながら詠っています。

「 我妹子(わぎもこ)が 赤裳の裾(すそ)の ひづつらむ
    今日の小雨に 我れさへ濡れな 」 
                        巻7-1090 作者未詳

( 今日は小雨、いとしいあの子は今頃赤裳の裾を濡らしていることだろう。
 おれも濡れながら行こう、あの子を思い出しながら 。)

作者は旅をしながら故郷に残した いとしい人を目に浮かべています。
あの子はきっと雨に濡れていることであろう。
遠くに離れていても心は一緒、俺様も濡れていこうじゃないか。

「赤裳」:
       腰から下に付ける女性の衣服、
       赤い裾が濡れるさまは男の官能をそそった

「ひづつらむ」: 「泥(ひぢ)打つ」の約で「濡れる」、「泥がかかる」の意

このフレーズは近代でも好まれ「浜辺の歌」の3番でも引用されています。

「   疾風(はやち)たちまち  波を吹き
    赤裳の裾(すそ)ぞ  濡れ漬(ひ)じし
    病みし我は  すでに癒えて
    浜辺の真砂  まなご(愛子)いまは 」
  
                     ( 作詞 林 古渓 作曲 成田為三)

上の歌とは逆に「濡らさないでくれ」と詠う男もいました。

「通るべく 雨はな降りそ 我妹子が
   形見の衣 我(あ)れ下に着(け)り 」 
                         巻7-1091  作者未詳

( 着物の中へ通るほど雨は降らないでくれ。
      いとしいあの子と交換した形見の衣をおれは下に着ているのだから.)

旅する時にお互いの下着を交換するのが当時の習い。
形見とは亡くなった人の記念のものではなく、お互いを思い出す
よすがとなるものです。

それにしてもこの男、旅の間中ずっと下着を脱がずに
着ていたのでしょうかね。

「 ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ子が
       やどに今夜(こよひ)は 明かしてゆかむ 」 
                               巻6-1040  大伴家持

( 雨よどんどん降り続けるがよい。
      いとしいあの子の家で思う存分夜をあかしてゆこう )

藤原八束の家で宴があり安積皇子と共に招かれた作者が
「雨が降るとはこれ幸い、腰を落ち着けてゆっくり楽しませて戴きますよ」と
謝意を込めて詠ったもの。

八束は藤原房前の第3子、家持の父、旅人と房前が親しかった関係で
子の代になっても親交が続いていたらしく、お互い気心が知れた仲でした。

安積皇子は聖武天皇の子、将来を嘱望されていたが惜しくも
早世された方です。

以下は長谷川櫂氏著「日本人の暦」からです。

『 梅雨は日本人の生活や文化に大きな影響を与えてきました。
  日本人の文化の土台となったのは梅雨だった。
  梅雨がなかったら、それはもっと違ったものになっていたはずです。

  というのは、梅雨のもたらす大量の雨水は大地にしみこみます。
  梅雨が明け、そこに真夏の太陽が照りつけると、水蒸気となって日本列島を
  包み込みます。

  天然の蒸し風呂の中にいるような、この蒸し暑い夏をどうしたら涼しく快適に
  過ごせるのか。これこそ日本人にとって昔からの大問題でした。

  そこでさまざまな工夫がされて生まれたのが、日本人の文化です。
  一言でいうなら、それは「間(ま)」を大事にする文化です。

 物と物、人と人が、べたべたくっつかないようにする十分な「間」をとる。

  切れ目を残す着物の仕立て、さらりとした料理の味付け、
  風通しのいい家づくり、絵画の余白、音楽や芝居の沈黙の部分。
  こうした「間」を重んじる日本の文化を育んだ大きな要素の一つが
  梅雨のもたらす大量の雨水でした。 』 (筑摩書房)

「 日本文化の源泉の一つに梅雨があり 」

なるほど、なるほど。
このような説を唱えられた方は寡聞にして存じませんでした。

「 あふち咲く 外面(そとも)の木陰 露落ちて
              五月晴るる 風わたるなり 」       藤原忠良 新古今和歌集

       外面(そとも):家の外の

高々と伸びて空に枝を広げる栴檀(あふち)の木
梅雨の晴れ間の風が、その薄紫の花を揺らして吹き渡ってゆく。
五月晴れとは梅雨の晴れ間。
清々しい香りが漂ってきそうな気持よい1首です。



万葉集637 (梅雨の季節)完


次回の更新は6月24日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-06-15 18:09 | 自然

万葉集その六百三十六 (田植は神事)

( 春日大社本殿から御田植神事の会場へ   奈良 )
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( 巫女が勢ぞろいする中神主がゆっくり歩む  同上 )
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( 笛と打ちものの楽奏に合わせて舞を奉納   同上 )
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( 巫女の舞   同上 )
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( 春日山からの湧水に向かって祈る  同上 )
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(  苗やり  同上 )
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(  御田植祭のイラスト  月刊 ならら )
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(  住吉大社の御田植祭  大阪 )
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(  大神神社:おおみわじんじゃ の御田植祭  奈良 )
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(  菅原天満宮の御田植祭    奈良  )
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( 田植が終わったあと  安達太良山麓 )
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万葉集その六百三十六 (田植は神事) 

日本列島の田植は3月末頃から始まり、6月中旬まで続きます。
沖縄、九州は同じ畑で年2回栽培、収穫する2期作や、麦、小麦など2種類の
作物を収穫する2毛作を行うところがある関係で早い時期から始まり、
中には8月まで続くところもあるようです。

北海道、東北は5月、関東は6月が多いようですが、必ずしも南から北へと
順次移るわけではなく、気温や品種により各地域毎にその都度判断されており、
ばらつきがあります。

古代の田植は、先ず田の神を迎えて豊作を祈願する儀式を行うのが習いでした。
早乙女(田植する女性)が巫女になり、屋根の上に菖蒲や蓬(よもぎ)を葺(ふ)いて
邪気を払い、家の中には香り高い草を積んでその上に座り、
一夜お籠りをして身を清める。
やがて夜が明けると、乙女たちは早々と紺の着物に紺の手甲脚絆、菅笠に
赤いたすきという出で立ちで田植に向かったのです。

「 青柳の 枝(えだ)伐(き)り下ろし 齊種(ゆたね)蒔き
   ゆゆしき君に 恋ひわたるかも 」  
                           巻15-3603 作者未詳

( そろそろ田植の時期です。
  青柳の枝を伐り取って田に挿し、ゆ種を蒔いて神様に豊作をお祈りいたします。
  そのような神様のように恐れ多く、近づきがたい身分違いのあなた様に
  恋をしてしまって- - 、毎日々々焦がれ続けている私。 )

奈良時代の水稲耕作は、直接籾種を蒔く直播式から苗代で育てた苗を移植する田植式へ
移行する過渡期にあたり、二通りの方法が行われていました。

「ゆ種」とは「神が宿る神聖な種籾」という意味で、ここでは直播式と思われ、
苗代の中央や水口(田の水の取り入れ口)に生命力の強い青柳やツツジの枝を挿して
苗の順調な発育を祈ります。

この風習は現在でも続けられており、ウツギの枝、地竹の細いものなども
用いられているそうです。

「 人の植うる 田は植ゑまさず 今さらに
     国別れして 我(あ)れは  いかにせむ 」 
                    巻15-3746  狭野弟上娘子(さの おとかみの をとめ)

( 世間の人はみな二人一緒に田植をなさるというのに
 新婚早々、あなたは別の国へ旅立ってしまわれたのですね。
 別居することになってしまった今、私はこれから一体どのようにして
 生きて行けばよいのでしょうか。 )

当時の官人は、都で暮しつつ農耕の状況に応じて郊外にある庄(たどころ)で
農作に従事していました。
農繁期の5月、8月には田仮(でんけ)という15日の休暇が与えられ
夫は妻の労働を助ける習慣がありましたが、作者の夫、中臣宅守は新婚早々、
罪を得て配流の身になってしまったのです。(740年)、

罪は何によるものかは定かではなく、一説に政争に巻き込まれた讒言によるもの
ともいわれていますが、二人の悲しみは如何ばかりであったことでしょう。

本来なら一緒に田植え作業が出来たはずなのに!
一人寂しく作業を営むにつけても別離の悲しみが込みあげてくる新妻。

なお、ここでの田植は苗代で育てた苗を移植したようです。

「 我妹子(わぎもこ)が 赤裳(あかも)ひづちて 植えし田を
     刈りて収めむ 倉無(くらなし)の浜 」
                         巻9-1710  伝 柿本人麻呂

( 可愛いあの子が 赤裳を泥まみれにして植えた田であるのに
 その収穫を刈りとって収めようにも 収めきれる倉がないという
 この倉無の浜よ )

「倉無の浜」という珍しい地名に興を覚えての歌。
収めようにも収めきれる倉がないの意で、それほど稲の豊かに稔る地だと
機知を込めた、土地褒めの通過儀礼。
古代、異郷を旅する時、その土地の神様に敬意を表して祟(たた)りなきよう
歌を奉納して祈ったのです。

人麻呂は九州まで旅をしたのでしょうか。
「万葉集地名歌総覧」(樋口和也著 近代文芸社)によると

「 倉無の浜は大分県中津市竜王町の浜。
  現在、闇無浜(くらなしのはま)神社とよばれる社ある」 そうです。

   「 雨乞に 曇る国司の なみだ哉 」   蕪村

古代、水不足による旱魃は人々の生死に関わる重大事であり、
雨乞いは国司(国守)の大切な仕事の一つとされていました。

749年越中の国で6月(陰暦)下旬から1ヶ月近く雨が降らず
秋の収穫が心配されはじめます。
7月もまもなく終わろうとする頃、空の彼方に雨雲の気配が見られたので
国守、大伴家持は雨乞いの歌を詠って天に祈りました。

「 -  雨降らず 日の重なれば 
  植ゑし田も 蒔きし畑も 
  朝ごとに凋(しぼ)み 枯れゆく 
  そを見れば 心を痛み 
  みどり子の 乳乞ふごとく 
  天つ水  仰(あふ)ぎてぞ 待つ - 
  との曇りあひて 雨も賜はね 」 
                      巻18-4122 大伴家持 (長歌の一部)

「との曇りあひて」: 四方から雲が広がって一面の曇り空になる
          との:一面に
(訳文)

( 雨が降らない日が重なり、
 苗を植えた田も、種を蒔いた畑も
 朝ごとに萎んで枯れてゆく。
 それを見ると、心が痛んで
 幼子が乳を求めるように
 天を振り仰いで恵みの雨を待っている。- -
 どうか一面にかき曇って 雨をお与え下さい )

幸運にも祈祷三日後、家持は雨に恵まれ面目を果たしました。
祈祷には天文学や気象学の知識も必要とされ、国守の仕事も楽ではありません。

もし雨が降らなければ、この人は神に見放されたのだと、部下や領民から
冷たい眼で見られるだけに、必死の思いだったことと思われます。

 「早乙女の 重なり下りし 植田かな」     高濱虚子

田植や雨乞いにかかわる神事は現在もなお各地で継承され、神社の
重要な祭事となっています。
中でも春日大社(奈良)の田植神事は、田の中ではなく、神社の境内の一角で
宮司や巫女たちが笛や打ちものに合わせて舞を奉納する優雅な催しです。

「 早乙女に 早苗さみどり やさしけれ 」    池内友次郎



           万葉集636(田植は神事)完

           次回の更新は6月16日(金)の予定です
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# by uqrx74fd | 2017-06-08 16:26 | 生活

万葉集その六百三十五 (香魚:あゆ)

( 鮎釣る人   木津川  奈良 )
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( 鮎の川上がり    同上 )
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( 今宵の肴     自宅 )
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( 鮎の塩焼き   吉野 )
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( 蓼:タデの花 葉をすりつぶし酢を加えたものが蓼酢 ) 
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( 鮎の宿  つたや  京都 奥嵯峨 )
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( 同   平野屋     同上 )
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( 鮎菓子  奈良の老舗 鶴屋徳満 )
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万葉集その六百三十五( 香魚:あゆ )

「アユ」は その清楚な姿から川魚の王とされ、「鮎」「年魚」「香魚」とも書かれます。
古代、魚を釣って吉凶を占うことがよく行われていたらしく、伝説によると
神功皇后が征韓の成否を占うため、釣り糸を垂らしたところ立派な魚が釣れたので
大いに喜ばれ、その魚を鮎と名付けた、つまり「魚」+「占」(うらない)。

「年魚」と書かれるのは、秋に川で生まれて一冬海で過ごし、桜の季節と共に
再び清流を遡上して晩秋、産卵をして一生を終える1年限りの儚い命ゆえ。

「香魚」は石に付いた珪藻を食べながら成長し、一種独特の香気を持つため。
などと説明されています。

関東地方の鮎釣りの解禁は六月。
この日を待ちかねていた釣り人は、一斉に清流に向かいます。
然しながら、この時期の鮎はまだ小さく、しかも脂が少ない上、香りも立たず、
あまり美味くない。
というのは餌になる岩苔が雨に流されて栄養源を失った魚はガリガリに
痩せているのです。
旬は土用入りから2週間前後、通の人はこの時期の料理を楽しみます。

万葉集に見える鮎は16首。
そのうち作者名未詳ながら大伴旅人と思われる物語風の連作が11首。
ピチピチとした美女との会話を楽しむ幻想のお話。
そして、4首は鵜飼を好んだ家持。
大半が大伴親子作ですが、残念ながら食としての鮎は詠われていません。

「 年のはに  鮎し走らば  辟田川(さきたがわ)
      鵜(う)八つ潜(かづ)けて  川瀬尋ねむ 」 
                         巻19-4158 大伴家持

( 来る年ごとに、鮎が走って飛び跳ねるようになったら
 辟田川(さきたがわ)、この川に鵜を幾羽も潜らせて
 鮎を追いつつ川の瀬を辿って行こう。)

「年のは」毎年
「辟田川(さきたがわ)」所在未詳なるも、高岡市伏木近くの川と思われる。
「八つ」数が多いこと

家持はスポーツとして鵜飼を楽しんだようです。
鮎が棲んでいそうな流れの速い川に入り徒歩で進む。
背中に松明、腰に魚籠(びく)。
片手で鵜をさばきながら流れに逆らって歩く。
しかも徹夜ともなれば相当な運動量です。
もっとも、本職の鵜使いに手伝わせたようですが。

「 松浦川(まつらがわ) 川の瀬光り 鮎釣ると
       立たせる妹が 裳の裾濡れぬ 」  
                            巻5-855 大伴旅人

( 松浦川の川瀬がきらめき、鮎を釣ろうとして立っているあなた。
  ほらほら、裳の裾が、濡れていますよ。)

鮎釣りに興じている美しい乙女。
燃えるような紅の裳裾から白い素足がチラチラと見えている。
健康な色気を感じさせる幻想的な一首です。
              (作者未詳となっているが実際は大伴旅人作)

「 春されば 我家(わぎえ)の里の 川門(かわと)には
            鮎子さ走る 君待ちがてに 」 
                           巻5-859 大伴旅人

( 春になると我家の里の渡り瀬では若鮎が跳ね回っています。
  あなた様を待ちあぐんで )

上記2首は「序」と十一首の短歌群からなる空想の歌物語の一部で
肥前松浦の玉島川のほとりで遊んだ時のもの。
旅人は玉島川を美しい乙女ばかりが住む神仙境に仕立てています。

玉島川はその昔、神功皇后が鮎を釣ったと伝えられる伝説の地。
それ以来、この地の女性は玉島川で鮎を釣り、男が釣っても
掛からなくなったそうな。

『 松浦川の川瀬に赤い裳裾を濡らして立っている美しい乙女たち、
  彼女達はあたかも川を自由に泳ぎまわる若鮎の化身のよう。
  「若い雌の鮎が雄の鮎を待ちかねていますよ」 と
  彼女たちは積極的に男たちに誘いかけています

勿論、男たちも拒む気持ちはありません。

  「さぁさぁ喜んで釣り上げられましょう」  』

清流のほとりで、そんな想像をしながら、しばし俗世を離れて
幻想の世界に遊んだ旅人です。

  「 鮎釣るや 奔流に岩さかのぼる 」      秋元不死男

鮎の塩焼きによく合うのは「たで酢」。
「蓼」は青タデという柳のような葉をもつ草で、これをすり鉢ですって
酢に加えますが、古代の人も同じような味わい方をしていたことが
次の歌から窺われます。

「 わが宿の 穂蓼古幹(ほたで ふるから) 摘み生(おほ)し
     実になるまでに 君をし待たむ 」 
                            巻11-2759 作者未詳

( 我家の庭の穂蓼の古い茎、その実を摘んで蒔いて育てる。
 そしてまた実が結ぶようになるまで、私はずっとあなたを待ち続けます。)

男は旅に出るのでしょうか。
結婚出来るまでいつまでも待ち続けると願う純情な乙女です。

穂蓼古幹(ほたでふるから): 穂の出た蓼(たで)の古い茎
                   蓼は水辺に自生する1年生草本。
                   秋に穂を出す。
                    葉に辛味があり摘み取って食用とした

以下は「食の万葉集」からです。(廣野卓著 中公新書)

『 現在は蓼の若芽を刺身にそえたり、蓼酢が鮎の塩焼きに不可欠な
  香味料になっているがこの歌では秋になって実を摘んでいる。
  実は香味料になり、根は漢方薬として利用されている。
  「延喜大膳式」によるとタデを4月から9月まで採集すると定めて、
  その計算単位を「把」とするので、実だけではなく
  葉も利用していたようである。』

藤原宮跡や平城京跡から発掘された木簡から「年魚」「鮎」「醤(脾塩:ひしほ)鮎」
「酢年魚」「煮干鮎」などの記述が見え、また、各地の風土記にも
(鮎)「有昧(うま)し」とあり、鮎は様々な料理にされて万葉人の舌を
満足させていたようです。

また、鮎の内臓の塩辛「あゆのうるか」も古来から好まれていたらしく、
木簡にみえる「醤鮎(ひしおあゆ)」もその一種だったかもしれません。

  「 又やたぐひ 長良(ながら)の川の 鮎なます 」 芭蕉 (笈日記)

ある一夜、招かれて長良川名物の鵜飼を初めて見物したときの句。

金華山の木陰に席が設けられていて鵜飼で獲れた鮎を鱠(なます:刺身)にして
出され、「それは それは他に比べようもないほど美味しかった」と
感嘆している作者。

「長良」に「たぐひ なから(長良)ん」つまり、「たぐひなからん美味」と
地名の「長良(なから)」を掛けた即興句です。

「 めづらしや しづく なほある 串の鮎 」    飯田蛇笏

以下は池波正太郎氏の一文から

『 魚の塩焼きといえば、何といっても鮎だろう。(中略)
  魚を食べるのが下手な私だが、気心の知れた相手との食膳ならば、
  鮎を両手に取ってむしゃむしゃとかぶりついてしまう。

  鮎はサケと同類の硬骨魚だそうな。
  清らかな川水に成育するにつれ、水中の石に付着する珪藻(けいそう)や
  藍藻(らんそう:石垢)を餌とするので、それがため、魚肉は一種特別の
  香気を帯びる。

  その香気。
  淡白の味わい。
  たおやかな姿態。
  淡い黄色もふくまれている白い腹の美しさを見ていて
  「 あぁ、処女を抱きたくなった、、、」
  突如けしからぬことを叫んだ男が、私の友だちの中にいる。

  いまは鮪でさえも養殖しょうという世の中になってしまったけれども
  鮎だけは「夏来る」の詩情を保ちつづけている。  』

                   (味と映画の歳時記 新潮文庫から)

   「 鮎の香や 膳の上なる 千曲川 」   松根東洋城 

                   千曲川を他の川名に置き換えても通用する一句。


           万葉集635 (香魚:あゆ)  完


            次回の更新は6月9日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-06-01 16:26 | 動物