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万葉集その七百四十五( 仁徳天皇は女好き)

( 仁徳天皇御陵  大阪府 )
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( 仁徳帝は難波天皇ともいわれた  難波宮跡で )  画面クリックで拡大出来ます
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( 磐之媛命陵 :磐姫   奈良市)
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( 同上付近案内図 )
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万葉集その七百四十五 (仁徳天皇は女好き)

令和元年7月6日、ユネスコの世界遺産委員会で
「百舌鳥(もず)、古市古墳群」(大阪府)の世界遺産登録が決定しました。

大阪府羽曳野、藤井寺両市にまたがる49基(4世紀後半~5世紀後半)が
遺産構成資産として認定され、古代のすぐれた土木技術や、権力を象徴する墳墓が
日本列島独自の文化を示すものとして世界に認められたのです。

7月7日(日)の読売新聞の記事(要約)によると
『 前方後円墳、前方部が小さい帆立貝形墳、方墳、円墳など。
 その中で、最大の規模を誇る仁徳天皇陵古墳(大山古墳:だいせんこふん)は
 全長486m、1985年の大林組の試算によると、周囲に壕(ほり)を掘り、
 盛り土をして墳墓を造る作業を全て人力で担うと、延べ680万7000人、
 完成まで15年8か月を要したと推定されている。

 この古墳の被葬者は仁徳天皇かどうか今の段階ではまだ確定されていないが
 強大な権力を持つ人物であったことには間違いない。』

さて、一躍スポットライトを浴びた「仁徳天皇」(313年~399年)。
古事記、日本書紀(以下記紀)によると、善政を敷いた聖帝とされています。

すなわち、
「 高殿に登って周囲を見渡すと、どの人家からも竈(かまど)を炊く煙が
  上がつていない。
  これは貧しさゆえからであろうと賢察し、3年間課税を止める詔を出し、
  自らも質素倹約に務め、宮殿の屋根や垣根も荒れ放題にした。」
あるいは、
「 収穫を増やすため大阪平野の開発をすすめ、治水灌漑のための
  大規模な土木工事を行ったなど云々。」

万葉集には仁徳帝(難波天皇ともいう))の歌は見えませんが、
二人の女性から贈られた歌が残されています。
聖帝は艶聞に満ちた、なかなかの色好みだったのです。

まずは皇后磐姫(いはのひめ)。
歴代の天皇に仕えた功臣、武内宿禰の孫にあたり、大和の豪族葛城氏の一族。
歴史上臣下から皇后になられた最初の方です。

次の歌は四首連作からなる歌群の冒頭。
万葉集最古にして、かつ名歌の誉れが高いものとされています。

 「 君が行(ゆ)き 日(け)長くなりぬ 山尋ね
      迎へか行かむ 待ちにか待たむ 」  
              巻2-85 磐姫皇后(いはのひめ おほきさき)

( あなたが家を出られてから随分日にちが経ちました。
  毎日毎日あなたのことを想い、胸が張り裂けんばかりです。
  いっそのこと険しい山を越えてお迎えにいきましょうか、
  それとも、このままじっと待ち続けましょうかと悩む日々です。 )

記紀によると磐姫は異常なくらい嫉妬深い女性だったようです。

曰く『 他の妻妃たちが天皇に対して親しげな物言いをすると
「足もあかがに」(地団太ふんで) 妬(ねた)んだ。
曰く『 吉備国から召された黒姫は磐姫の嫉妬に耐えかねて実家に逃げ帰った』云々。

そして、決定的な事件が起きたのです。

『 宮中で大宴会を催すことになり、皇后はそれに必要な柏の葉を採りに
 遥々(はるばる)紀州にまで出かけた。
 その留守中、天皇はかねてから執心の異母妹八田皇女(やたのひめみこ)を
 こっそり宮中に入れた。
 その事実を知った皇后は柏の葉を全部海に捨て、そのまま天皇のもとに帰らず
 山城の帰化人のところに身を寄せ、再三迎えに来た天皇に逢うことも拒絶し、
 そのまま夫を許すことなく五年後にその地で生涯を終えた 』

上記の歌は山城に引き籠った時に詠われたもので、再び逢うことはないと
決心したものの、やはり自分から迎えに行こうかどうかと揺れ動く切々たる女心です。
  
一夫多妻が公然と認められた時代ながら、潔癖感が強い皇后。
天皇の浮気に大いに悩みながらも、愛し続ける心情を余すところなく吐露しています。

一方、磐姫留守中、宮中に引き入れられた八田皇女(やたのひめみこ)も
負けずに詠う。


 「 一日(ひとひ)こそ 人も待ちよき 長き日(け)を
       かく待たゆれば 有りかつましじ 」 
           巻4-484 八田皇女(やたのひめみこ:応神天皇皇女)

( 1日くらいなら人を待つのもたやすいことでしょう。
  しかし日を重ねに重ねてこんなにも待たされたのでは
  とても生きてはいられない気持です。)

    人も待ちよき:人を待つことは容易ですの意
    有りかつましじ:生き続けることは出来ない。
                 「有り」「生き長らえる」 
                 「かつ」:可能 「ましじ」否定

民間出身の磐姫に対して、八田は皇女というプライド。
血筋が重んじられる古代において磐姫の味方は葛城氏の財力と武力、
そして自身の献身的な愛。
しかしながら「私が愛するのはあなただけ、だからあなたも私だけを愛して」と
迫られた仁徳さんは、息がつまりそうになったのか、皇女を離しません。

そして、磐姫が山城で亡くなった3か月後、八田妃は皇后に立てられました。
ともに「長き日を待つ」苦しみを詠ったライバル同士。
新皇后の得意げな顔が目に浮かぶようです。

しかしながら歌で勝ったのは磐姫、4首の連作は万葉不朽の名歌とされ、
多くの人々に愛唱されました。
( 柿本人麻呂作、山上憶良作者名改ざん説もあるが- -
  詳しくは:「320磐姫皇后の謎」御参照ください )

399年、仁徳天皇崩御、御陵は大阪府。
磐姫は奈良、平城京に近い佐紀に葬られています。
生前離れ離れになった二人は死後も再び一緒になることはありませんでした。

この物語には後日譚があります。
仁徳さんが、八田皇女を皇后に迎えた後またまた浮気の虫が
疼き出しました。
今度は八田皇后の妹「雌鳥(めとり)皇女」に心惹かれ口説いたところ、
見事に拒絶されました。(古事記)。
しかも妃となるよう使いに遣った異母弟、隼別皇子(はやぶさわけ おうじ)と
駆け落ちされるというおまけつきです。

女にかけては百戦練磨の天皇にとって痛いしっぺ返しでありました。

   「 雨晴れし 大仙陵は 鳥渡る 」 森本祐子

                 大仙陵:仁徳陵

ご参考 : 磐姫皇后の4連作

「 君が行(ゆ)き 日(け)長くなりぬ 山尋ね
         迎へか行かむ 待ちにか待たむ 」  
              巻2-85 磐姫皇后(いはのひめ おほきさき)

   「かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の  
            岩根しまきて 死なましものを 」  巻2-86 同上

( こんなに恋焦がれているのに、待ち続けて苦しむくらいなら、いっそのこと
      お迎えに出ていこうかしら。
     たとえ、道に迷って険しい山の岩を枕にして死んでしまっても構わないわ。)
  
  「 ありつつも 君をば待たむ うち靡く
          我が黒髪に 霜(しも)の置くまでに 」  巻2-87 同上

     ( でも、やはり、このままいつまでも、あの方をお待ちいたしましょう。
       長々と靡くこの黒髪が白髪に変るまでも  )

 「 秋の田の 穂の上に 霧(き)らふ朝霞(あさがすみ)
      いつへの方に 我(あ)が恋やまむ 」   巻2-88 同上

( 秋の田の稲穂の上に立ちこめる朝霧はまるで私のため息のよう。
  それにしても私の恋は一体いつになったらすっきりするのでしょう。
   秋の田の稲穂の上に立ち込めている朝霧だってやがては晴れるというのに。)


          (万葉集745 仁徳天皇は女好き)  完


          次回の更新は7月19日(金)の予定です。

# by uqrx74fd | 2019-07-12 08:35 | 生活

万葉集その七百四十四 (妻恋鮎歌)

( こもりくの泊瀬  長谷寺本堂から  奈良 )
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( 鮎釣る人   木津川   奈良 )
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(  鮎の塩焼き  吉野川 )
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(  鮎の宿 平野屋  奥嵯峨  京都 )
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万葉集その七百四十四 (妻恋鮎歌)

 万葉集で鮎を詠ったものは16首ありますがその大半が大伴旅人と家持。
 旅人は鮎釣る美しい乙女を幻想風物語に、家持は自ら川を上りながら鵜を
 操る様子を詠っています。

 その中で唯一無名の人物が妻の死を悲しんで、
 「ああ、生前に鮎を食べさせてやりたかった」と嘆く特異な長歌があり
 その声調は柿本人麻呂の挽歌に比肩すると評価されているのです。

 同じフレーズを何度も繰り返し、さながら民謡風。
 多くの人々に歌い継がれてきたのでしょう。

まずは訳文から

「 山々に囲まれた  泊瀬(はつせ)の川の

  上の瀬に 鵜を八羽もぐらせ
  下の瀬に 鵜を八羽もぐらせ

  上の瀬の鮎を鵜に食わせ
  下の瀬の鮎を鵜に食わせておきながら

  美しい妻に 鮎を惜しんで食わせず
  美しかった妻に鮎を惜しんで食わせず

  その妻が投げた矢のごとく 遠ざかってしまった今
  自分の気持ちは とても安らかではいられず
  嘆く思いは とても安らかではいられない

  これが、もし衣だったら、なあに、破れたなら
  継ぎはぎして また 一緒になれるというのに

  玉だったならば 緒が絶えたとしても 
  くくりつけておいて また 一緒になれるというのに

  再び逢うことが出来ない わが妻よ 」   巻13-3330 作者未詳

次は原文です

「 こもりくの 泊瀬(はつせ)の川の 

  上つ瀬に 鵜を八つ潜(かづ)け
  下つ瀬に 鵜を八つ潜け

  上つ瀬の 鮎を食はしめ
  下つ瀬の 鮎を食はしめ

  くはし妹に 鮎を惜しみ
  くはし妹に 鮎を惜しみ

  投ぐるさの 遠ざかり居て

  思ふそら 安けなくに
  嘆くそら 安けなくに

  衣(きぬ)こぞば それ破(や)れぬれば
  継ぎつつも また合ふといえ

  玉こそば  緒の絶えぬれば
  くくりつつ また合うといへ

  また逢はぬものは 妻にしありけり 」 
                     巻13-3330 作者未詳

1行づつ訓み解いてまいりましょう。

 「 こもりくの 泊瀬(はつせ)の川の 

       こもりく:隠国 泊瀬の枕詞 四方を山々に囲まれたの意
       泊瀬川 : 奈良県桜井市の初瀬川 長谷寺の麓を流れる

    ( 四方山々に囲まれた 泊瀬を流れる川の )  
   
  上つ瀬に 鵜を八つ潜(かづ)け

       上つ瀬 :上流
       八つ: 多くの意
 
      ( 上の瀬に多くの鵜を潜らせ)

  下つ瀬に 鵜を八つ潜け

      ( 下の瀬にも鵜を多く潜らせ )

  上つ瀬の 鮎を食はしめ
        
       ( 上の瀬の鵜に鮎を食べさせ)

  下つ瀬の 鮎を食はしめ

        食わしめ: 下の「くはし妹」を導く同音語の役割もはたす

        (下の瀬の鵜にも鮎を食わせながら )

  くはし妹に 鮎を惜しみ

          くはし妹:麗(くは)し:繊細な美しさを表す形容詞 
                       わが美しい妻

         ( 美しい妻に 商売とはいえ 鮎を惜しんでしまった )

  くはし妹に 鮎を惜しみ

       (  鵜に食べさせたのに、
          我が最愛の妻に好きな鮎を食わせるのを惜しんでしまった )

  投ぐるさの 遠ざかり居て

        投ぐるさ: 「遠ざかり居て」の枕詞 

                「さ」は矢、銛

     ( 投げた矢のごとく遠くへ行ってしまった )

  思ふそら 安けなくに

       思うそら:放心して  そら:空;心の状態
      
     ( 気持ちがとても安らかでおられず)

  嘆くそら 安けなくに

      ( 嘆く心は苦しくてたまらない )

  衣(きぬ)こぞば それ破(や)れぬれば

      ( 衣ならは 破れても )

  継ぎつつも また合ふといえ

      ( 継ぎ接ぎすれば また元に戻るのに )

  玉こそば  緒の絶えぬれば

     (  玉の紐が切れたら )

  くくりつつ また合うといへ
   
    くくりつつ:原文表記は「八十一喚鶏(くくりつつ)
          八十一は99(くく) 掛け算も得意だった作者。
          喚鶏(つつ):鶏を呼びよせるのに「つつ」といった

          これは戯書といい戯れながら詠っており
           相当な教養の持主であることが窺える

    ( 結び直して また一緒に なれるというのに )

  また逢はぬものは 妻にしありけり 」 

     ( もう妻には逢うことが出来ないのだ )
                           巻13-3330 作者未詳



  妻を失った泊瀬地方の漁師が、生前十分に美味いものを食べさせて
  やらなかったことを痛恨して詠ったものです。

  それにしても何故鮎なのか。
  作者は鮎を生業にしていた漁夫。
  それゆえ鮎が何よりのご馳走だと信じていたのでしょう。

  そんな美味いものを満足に食べさせてやれなかった。
  なぜもっと早く気がつかなかったのだろう。
  思えば思うほど慟哭がこみあげてくる。
  まさに心からの心情の吐露の歌です。

伊藤博氏は

「 人麻呂の亡妻挽歌(2-207~16)とはまた違った意味で、それよりも
  凝視が強く、一個の男がそこに投げ出されている感じがする。
  本来、泊瀬あたりで川狩をして暮す人びとの間で、葬送歌が
  伝播されていくうちに次第に内容が深められていったのであろう。

  けだし、万葉亡妻挽歌の最高峰を占めて立つというべく、
  人麻呂と前後するかと思われる謡いものの中に、このような孤絶感を
  見出し得ることは、驚きというほかはない。

  万葉開巻冒頭の雄略天皇御製が名のない人々の間で育てられてきたことどもと
  考えあわせて、古代日本民族の根生いの言語力に圧倒される。(万葉集注釈) 」

さらに大岡信氏は

「 単なる漁民自身がこれだけの技巧を駆使してこの長歌を作れたか?
  相当な知識人が漁民の立場で創作し、歌い、あるいは演じるための一種の
  台本として作り、愛唱されたのではないか。
  繰り返しが多く、また、〈それ〉(破れぬれば)という合いの手のような
  物言いまで含まれている。」 
                    ( 私の万葉集:講談社文庫 )


格調高い創作劇が無名の作者によって作られていた。
つまり、日本人の教養の高さと底辺への広がりに注目されているのです。

万葉集には天皇、貴族、役人など上流階級の歌だけではなく、
地方の農民、漁民、乞食人(ほかひびと:大道芸人)、防人など
ありとあらゆる階層の人たちの歌が集められています。

彼等は何故文字を書き、歌が詠めたのか?

当時、朝廷は地方に役人を派遣しており、各地で寺子屋のような学問所を
作って字や歌を教えていました。
また、税を物納するときに、必ず歌を添付させ、各地方の実情を
把握しようとしていたそうです。

国民すべて読み書き出来る教育の下地は万葉時代既に形成されて
いたのです。

  「 鮎の宿 いにしへ人を しのぶ夜 」  筆者


             万葉集744(妻恋鮎歌) 完


  次回の更新は7月12日(金)の予定です。

# by uqrx74fd | 2019-07-04 18:00 | 心象

万葉集その七百四十三 (吉野の鮎)

( 奈良 吉野 宮滝 )
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( 吉野川で泳ぐ子たち  同上 )
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( 万葉人はこのような情景を 鮎走る と詠った  同上 )
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( 鮎の塩焼き   吉野山で )
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万葉集その七百四十三(吉野の鮎)

昨年の夏、奈良は吉野の宮滝を訪れた時のことです。
近鉄下市口下車、炎天下徒歩2時間余の道のりを
吉野川に沿ってテクテク歩き。

車の往来が激しい通りを抜け、田舎道に入ると山百合が咲き乱れ、
周りに心地よい香りを漂わせていました。
胸一杯新鮮な空気を吸い込みながら、およそ1時間ばかり歩き続けたところ、
川べりの鄙びた小屋の脇に「鮎塩焼き 1匹500円」の看板あり。

「おお!これは、これは」と願ってもない幸運に小躍りしながら
店に入り、早速、塩焼き3匹注文。

「生簀(いけす)の鮎を今から炭火で焼くので少々お待ちを」と店主。

乾いた喉をビールで潤すことしばし。
やがて「おまちどう」と木串にさした鮎が目の前に。
早速、頭からかぶり付き、「旨い!」と思わず声を出す。
「親父さん、こんな美味い鮎、初めて食べたよ」と褒めると
嬉しそうに肯きながら

「 吉野川の鮎は川面に散り浮く櫻の花びらをついばんで食べるので
櫻の匂いが身に沁みて「櫻鮎」とよばれる。
だから、ひときわ風味が良いんだ。」と
教えてくれました。

楽しい鮎談議で一時を過ごしたのち、店主に「ありがとう、また来るよ」と
挨拶し、宮滝へ。

宮滝は天武持統天皇時代、離宮が営まれた風光明媚なところ。
吉野山から流れ込む清流は栄養分がたっぷり。
鮎も気持ちよさそうにスイスイ泳いでいたようです。

「 隼人(はやひと)の瀬戸の巌も 年魚(あゆ)走る
      吉野の滝に なほ及(し)かずけり 」 
                        巻6―960 大伴旅人

( 隼人の瀬戸へ来て見ると白波が大岩に砕け散り実に勇壮な風景だ。
  でも鮎が身を躍らせて走っている吉野の滝の流れの爽やかさの方が
  もっと素晴らしい。)

 隼人の瀬戸:所在については2説あり

「鹿児島県阿久根市 黒の浜と天草諸島長島との間の黒の瀬戸」または
「北九州市門司と下関壇ノ浦との間の早鞆の瀬戸」

旅人は「隼人の瀬戸」の荒々しい海波に感心しながらも、
吉野の流れを思い浮かべて望郷の念に駆られています。

「鮎走る」はピチピチと飛び跳ねながら渓流をさかのぼる鮎を
瞼に思い浮かべているのでしょう。

   「 氷魚(ひお)食えば 瀬々の網代木 見たきかな 」 松瀬青々

氷魚とは鮎の稚魚で琵琶湖など特定の湖に棲むものをいいます。
通常の鮎は初春に海から川を遡上して、上流で川藻を食べながら
体長21~30㎝位に成長したのち、秋には川の下流で産卵し、
その稚魚が海に戻りますが、琵琶湖に棲む鮎は海に下らず生涯湖で暮らします。

その為、体長が6cm位にしかならないので特に子鮎とよばれ、
その稚魚が氷魚(ひを:ひうを)。  
氷のように半透明のためその名があります。
晩秋から冬になると、増水した湖水とともに瀬田川や宇治川へ大量に押し流され、
人々は下流の近江の田上川(たながみがわ)や宇治で網代を用意して捕りました。

網代とは網の代用という意味で、竹や木などを編んで連ねた魚を獲る装置です。

次の一首は宴会の席上、「意味のないナンセンスな歌を詠め」所望があり、
即座に応じたものです。

 「 わが背子が  犢鼻(たふさき)にする 円石(つぶれいし)の
        吉野の山に 氷魚ぞ 懸有(さがれる) 」 
                 巻16-3839 安部朝臣子祖父( あへのあそみ こおほじ)

( 亭主が褌にしている丸石 その丸石の吉野の山に
 氷魚がぶら下がっているわい )

     犢鼻(たふさき): 犢鼻褌の略でいわゆる三尺ふんどし 
     円石(つぶれいし) :角の取れた丸い小石

万葉唯一の氷魚です。

朝廷文化華やかなりし頃、宴席で舎人親王( とねりしんおう:天武皇子)が
「 おおーい 皆のもの! 歌を詠め。
上手く詠んだものには賞金10万円と景品をつかわす。 
但し、条件がある。 
 意味が全く分らない面白歌を作ること。
意味が分かる歌は失格 」

という呼びかけに応じて詠ったもの。

作者は合格、賞金を獲得したそうですが、
この歌の面白味はどこにあるのでしょうか?

まず、 犢鼻(たふさき) と 円石(つぶれいし)
      つまり、「 平たくて薄いふんどし」を「重くて丸い石」といい、
次に  「大きい吉野山」を「小さな丸い石」と戯れ、
さらに 「川の氷魚」が「山にぶらさがっている」 、しかも
琵琶湖にしかいない魚が吉野にいる。

と支離滅裂な表現。
しかし、なんとなく意味ありげ。

そこで伊藤博は

「 女と男のむやむやとした叫びとだけ分るように布石し、
女と男の関係が何かきわどいものが感じられないわけではないと
いうところにくだけて酒などを飲む男たちを満足させる面があったと思う 。
なかなかしたたかな歌 」 と粋な解説です。(万葉集釋注)

 「褌(ふんどし)、氷魚」を男に「吉野の山」を女に見立てると
 このような深読みになるのでしょうか。

1300年前に「言葉遊び」というものが既にあり、
それがのちの俳諧や川柳などに繋がっていると考えると、
この歌も大いに意義があるのでしょう。

  「 吉野川 八十瀬(やそせ)の隅(くま)に 鮎を掛く」 
                          鈴鹿 野風呂(すずか のぶろ)

       八十瀬の隅 ;あちらこちらの隅で
           鮎を掛く: 餌を付けない空の釣針で鮎を引っ掛ける(掛け釣り)。
                  群れをなして泳ぐ魚に行う漁法。

6月1日、鮎釣り解禁。
釣人は喜び勇んで清流に向かいますが、鮎を賞味するなら
土用入りから2週間後が最適。
というのは、梅雨の時期、餌である珪藻が出水で流れとられ
栄養源を失った鮎は痩せ衰えてガリガリなのです。

梅雨明けになると、餌が豊富になり、たっぷり食べた鮎は
丸々太って美味。
筆者が吉野川で食べた頃が、ドンピシャリだったのです。

   「 鮎の骨 強き吉野の 坊泊り 」 百合山 羽公 


 万葉集743(吉野の鮎)完



次回の更新は7月5日(金)の予定です。

# by uqrx74fd | 2019-06-28 09:48 | 動物

万葉集その七百四十二 (雨の歌)

( 雨々降れ降れ   N.F さん提供 )
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( はねず  N.F さん提供)
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( 万葉のはねずは庭梅とされている    奈良万葉植物園 )
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( 雨の長谷寺     絵 筆者
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万葉集その七百四十二 (雨の歌)

中國渡来の梅雨という言葉は室町時代の本に「梅の雨」が見え、
本格的に使われるようになったのは江戸時代とされています。

「梅の実が熟する頃に降る雨」なので「梅雨」と表記され、
それを「湿っぽいを」意味する「つゆ」という訓をあてたそうな。

平安時代、この時期の雨は「五月雨(さみだれ)」とよばれました。
「さ」は神聖な稲にかかわる言葉、あるいは五月(皐月)の「さ」、
「みだれ」は「水垂れ」の意だそうです。

万葉集では長雨が3首、その中でも次の歌がこの時期の代表的なものと
されています。

「 卯の花を腐(くた)す長雨(ながめ)の 水始(みずはな)に
    寄る木屑(こつみ)なす 寄らむ子もがも」 
                       19―4217 大伴家持

( 卯の花を痛める長雨で水かさが多くなった川、
  その流れの先に木の屑がいっぱい集まっています。
  このような木屑のように私のところに美しい女性が
  集まってくれたらいいのになぁ。)

    水始(みずはな):「はなみず」とも訓み水量の増した流れの先端のこと。
                ここでの「腐(くた)す」は「腐らす」ではなく「散らす」「だめにする」。

この「卯の花腐し」は1300年後の今でも使われる季語になっています。
家持の造語力恐るべしです。

   「 書を読むに 卯の花腐し よろしけれ 」 河合 正子


さて、万葉集で雨の歌が130首近く登場しますが、単なる雨と詠われているのが
70首、春雨23首、時雨、26首、村雨、雨霧、など。
その中から色々な場面の歌をピックアップしてみました。

「 夏まけて 咲きたる はねず ひさかたの
       雨うち降らば うつろひなむか 」 
                    巻8-1485 大伴家持

( 夏を待ちうけてやっと咲いたはねず、 その はねずの花は
  雨でも降ったら色があせてしまうのではないか。)

       夏まけて:「まく」は時期が来るのを待ち受けるの意、ここでは夏到来
       うつろふ : 散る、色褪せる

せっかく咲いた可憐な花をいたわり、いつくしんでいる心優しい作者です。

はねず:通説は春咲く庭梅とされるが、モクレン,芙蓉、山梨,
ざくろ、露草など諸説あり。

ここでは夏の花とされているので大柄の芙蓉が相応しいか。

「 大野らに 小雨降りしく 木(こ)の本(もと)に
         時と寄り来ね 我(あ)が思(も)へる人 」 
                       巻11-2457 作者未詳

 ( 人里離れた荒野に 小雨がしきりに降っています。
       この木の根元に今が時だと立ち寄って下さい。
       私の思う人よ)

人気のない荒野を歩いていたら 雨が降り始め慌てて木陰で雨宿りした。
待っても待ってもなかなか降りやまず。
心細くなってきた女は
「ねえ、あなた、私のところへ来て!」 と呟く。

そんな場面でしょうか。

           大野: 荒野
           木の本 : 木の根元
           時と:二人きりで逢う絶好の機会(時)の意を含む

 「 この夕(ゆふへ) 降りくる雨は 彦星の
        早漕ぐ舟の 櫂(かい)の散りかも 」 
                        巻10-2052 作者未詳

( この七夕の夕方に降ってくる雨は、彦星が心をせかしながら
  漕ぐ舟の櫂から飛び散っている飛沫(しぶき)なのであろうか。)

中國の七夕伝説では、織姫が彦星のもとに通いますが、我国では逆。
星がきらめく天の川を彦星が櫂の雫を飛び散らせながら小舟で渡ってゆきます。

空を眺めながら「あぁ、これは彦星が散らした雨だ」
と呟くロマンテイックな万葉人です。

「 鳴る神の 少し響(とよ)みて さし曇り
      雨も降らぬか 君を留めむ 」 
                      巻11-2513 作者未詳

( 雷が少しだけ鳴って、空がかき曇り、雨が降ってくれないものでしょうか。
 そしたら、帰りかけるあなたを、しばしお留することができましょうに。)

久しぶりの逢い引き。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、そろそろ帰る時間。
「 雷さん、雨を降らしてくれないかしら。
  そしたら、あなたをもう少し引きとめることが出来ましょうに。」
と甘える女。

それに対して男は  
「 雷なんぞ鳴らなくても、お前がもっといて欲しいといえば、
いくらでも居るよ。」と返します。

「 ひさかたの 雨は降りしく なでしこが
       いや初花に 恋しき我が背 」 
                      巻20-4443 大伴家持

( ひさかたの雨はしとしと降り続いております。
 しかし撫子は今咲いた花ように初々しく、その花さながらに
 心惹かれる貴方様です。)

        「ひさかたの」:雨の枕詞 天、月、都などにも掛かる
                 ひさかた(久方)は久遠の彼方の天空。
                 天の広大無窮を表す褒め言葉とされる。

755年、6月の終わりころ、公用で都に来ていた大原今城が任を終えて
上総に戻るにあたり、家持の屋敷で送別の宴を催したときの4首の中の1。
今城と家持はお互い信頼し合う友。
何時いつまでも貴方さまを忘れることはありませんと、心こもる送辞です。

 「うす日さす 梅雨の晴間に 鳴く虫の
             住みぬる声は 庭に起これり 」 若山牧水

最後に雨が好きだった歌人、若山牧水の一文から。

『 どんより曇った日は、鬱陶しく、
  静かに四辺(あたり)を濡らして降りだしてきた雨を見ると
  漸(ようや)く手足もそれぞれの場所に返ったように身がしまってくる
  中略
  雨はよく季節を教へる。
  だから季節のかわり目ごろの雨が心にとまる。
  梅のころ、若葉のころ、または冬のはじめの時雨など。

  梅の花のつぼみの綻びそむるころ、消え残りの雪のうへに降る強降の
  あたたかい雨がある。
  桜の花の散りすぎたころの草木のうへに、またわが家の屋根、
  うち渡す屋並みの屋根に、列を乱さず降りゐる雨の明るさは
  まことに好ましいものである。

  しやあ しゃあと降るもよく、ひっそりと草木の葉末に
  露を宿して降るもよい 』  
                         ( 「なまけ者と雨」 日本の名随筆 雨 作品社所収 )

 「 あららかに わがたましひを 打つごとき
            この夜の雨を  聴けば なほ降る 」  若山牧水

             あららかに: 荒らかに



万葉集742 (雨の歌)完


次回の更新は6月28日(金)の予定です。

# by uqrx74fd | 2019-06-21 08:16 | 自然

万葉集その七百四十一 (久木:ひさぎ)

( 久木は現在のアカメガシワとされている)
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( 房状の花茎に黄色い小花を多数つける )
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( 赤い葉は柏に似ているのでアカメガシワの名がある )
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( 黒い実はヒオウギに似ている )
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 万葉集その七百四十一 (久木:ひさぎ)

万葉集に詠われている「久木」(ひさぎ)はトウダイグサ科の落葉高木
アカメガシワとされています。(ノウゼンカズラ科のキササゲ説もあるが少数派)

若葉が美しい赤色の毛で覆われるので「赤芽」(アカメ)、
葉が柏(かしわ)に似ているのでカシワ、あるいはコメなどを包んで蒸したので
「炊(かし)ぐ葉」の意でその名があります。

また、古くから食物を盛るのに使われたので御菜葉(ごさいば)とも。

日当たりの良い場所を好み、成長が早く高さは10m超、
初夏に大きな淡黄色の花房をつけ、多数の小花を咲かせます。

秋になると黒い実が割れて種子が出てきますが、その寿命は長く、
100年以上も保存可能とか。

葉、樹皮、種子は赤色の染料に、材は床柱、下駄、薪炭に、
薬用として腫物の治療、駆虫剤にも用いられる有用の木です。

万葉集では4首、中でも次の名歌のお蔭で久木は不滅のものになりました。

「 ぬばたまの 夜の更(ふ)けゆけば 久木(ひさき)生ふる
          清き川原に 千鳥しば鳴く )  
                        巻6-925  山部赤人

( 夜が更けてゆくにつれて、久木の生い茂る清らかな川原で
      千鳥がチチ チチと鳴きたてている )

        ぬばたま:檜扇(ひおうぎ):実が黒いので夜に掛かる枕詞とされる。
        川: 吉野の象川 (奈良)
        しば鳴く: しばしば鳴く

昼間見た山川の美しい情景を思い浮かべながら詠っています。
もの音一つしない中、突然千鳥の鳴き声が静寂(しじま)を破る。
引き込まれるような美しい声に耳を傾けながら陶然となる作者。

以下は大岡信氏の解説です。

『 自然界にまっすぐ没入し、奈良の都に住みなれている人物が
  吉野の清冽な山や川に対面した時の個人的な感動を
  廷臣としての立場を離れ素直に詠みこんでいる点で,
  はからずも新風の抒情詩の誕生を告げるものとなっています。
  叙景と抒情が不即不離になっている点で、日本短歌史上における重要な
  出発点をなしたといっていいでしょう。 』 
                             (私の万葉集 講談社現代新書)

「廷臣としての立場を離れ」とは「宮廷歌人の役割である天皇賛美を詠うことなく」の意。

次の1首もまた色々な示唆に富む重要な歌です。

「 度会(わたらひ)の 大川の辺(へ)の 若久木
       我が久ならば 妹恋ひむかも 」 
                    巻12-3127 柿本人麻呂歌集

( 度会の大川の川べりに立つ若い久木。
     その名のように我が旅が久しく続いたならば
     家に待つあの子はきっと恋焦がれて苦しむことであろう。)

「旅先から故郷を懐かしんでいる」羈旅の歌。
作者は三重県の伊勢神宮の中を流れる五十鈴川のほとりにいるようです。
( 度会は地名)

この一首は水辺を好むこの木が五十鈴川あたりに多かったことを
教えてくれています。

以下は疋田輝一著「樹の文化誌」(朝日選書)からの要約です。

『 現在、伊勢神宮の内宮の社殿を中心とした95ヘクタールに
  杉、楠木などの巨木が針葉樹、広葉樹混合林をつくっていて、
  一般の参拝客にも森厳な景観を見せている。

  その区域の背後の神路山、島路山一帯は2つの宮域林に指定されている。
  第1宮域林の1020ヘクタールは、その大部分が天然林であり、
  神域の背景の風致を守るために特に自然保護につとめている。

  それに対して第2宮域林の4180ヘクタールはヒノキの造林を主とし、
  神宮の造営用の資材を育成するのを目的とする針葉,広葉樹混交林である。
  ここは2000年にわたる神々の庭ともいえる自然の領域であった。 

     (中略)

  伊勢神宮には重要な三つの祭りがある。
  六月の月次祭(つきなみさい)、九月の神嘗祭、十二月の月次祭には
  神饌をミツナガシワという葉の上に供え、また、常時の祭典の敷物には
  トクラベという葉を現在も使っている。
  アカメガシワは宮域林の周辺には多く生育している。』

 つまり、伊勢神宮の式年遷宮(20年に1度の宮の建替え)や修理など、
 全ての用材を敷地内の山で調達し、また日々のお供え(神饌)のために
 アカメガシワを植林していたことを、万葉集は教えてくれているのです。

「 波の間ゆ 見ゆる小島の 浜久木 
    久しくなりぬ  君に逢はずして 」 
                      巻11-2753 作者未詳

( 波の間からはるか向こうに見える小島の浜の久木。
     その名のように あの方にお逢いしないまま随分久しくなってしまった。)

          浜久木:海岸近くのアカメガシワ 

「波の間ゆ 見ゆる小島の 浜久木」は「久しくなりぬ」を導く序詞(じょことば)。
序詞とは2句または7音節以上からなり、ここでは「久しくなりぬ」を
有効かつ美しく飾る(修辞)する役割を果たしています。

恋する男と疎遠になり嘆いている女性の歌のようですが、
男は小島に住んでいるのでしょうか。
遠くから島を眺めながら懐かしい男の顔を俤に抱く可憐な女です。

「 去年(こぞ)咲きし 久木今咲く いたづらに
            土にか落ちむ 見る人なしに 」 
                       巻10-1863  作者未詳

( 去年咲いた久木が、今また咲き出した。
 やがてむなしく地面に散り落ちてしまうのではなかろうか。
 見る人もなしに 。)

「土にか落ちむ」は「土にや散らむ」と読み替えると理解しやすく、
 黄色の花が無数に散る情景が頭に浮かびます。


この歌はずっと以前に詠まれた

「 高円の 野辺の秋萩 いたずらに
        咲きか散るらむ 見る人なしに 」
                      巻2-231 笠金村歌集

を手本にしたものと思われ、桜、花橘、白波にも同様の類歌が見られます。

「 もみでたる あかめがしわに  屋根越しに
        いまさしきたる 朝日の光 」       半田良平
 
            もみでたる: 紅葉した


    万葉集741( 久木:ひさぎ)完



    次回の更新は6月21日(金)の予定です。

# by uqrx74fd | 2019-06-13 16:22 | 植物