万葉集その七百十五 (島崎藤村の万葉詩)

( 雷丘:いかづちのおか 左のこんもりした森  右は畝傍山  奈良飛鳥)
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( 天の香久山:右 耳成山:左 甘樫の丘より  同上 )
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( 志賀の海と詠われた琵琶湖 )
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( 豊旗雲と詠われた茜雲 )
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万葉集その七百十五 (島崎藤村の万葉詩) 

島崎藤村に「懐古」と題される万葉集をモチーフにした詩があります。
今回はその詩が「どの万葉歌をイメージされたものなのか」の謎解きです。
まずは藤村の詩の中で万葉に関係ある部分をすべてピックアップしてみます。

「懐古」     島崎藤村

「 天の河原に やほよろづ
  ちよろづ神の かんつどひ
  つどひ いませし あめつちの
  始めのときを 誰か知る
 
( この導入部は古事記、日本書紀の世界、
  以下から万葉の世界に入ります)

 大和の国の 高市の
 雷山(いかづちやま)に 御幸(みゆき)して
 天雲のへに いほりせる
 御輦(くるま)のひびき 今いずこ

 目をめぐらせば さざ波や
 志賀の都は 荒れにしと
 むかしを思ふ 歌人の
 澄(す)める 怨(うらみ)を なにかせん
  
 春は霞(かす)める 高臺(たかどの)に
 のぼりてみれば けふり立つ
 民のかまどの ながめさへ
 消えてあとなき 雲に入る

むかしは遠き 船いくさ
 人の血潮の 流るとも
 今はむなしき わだつみの
 まんまんとして きはみなし

それでは各パートと該当する万葉歌のコラボです。

( 島崎藤村)

「 大和の国の 高市の
  雷山(いかづちやま)に 御幸(みゆき)して
  天雲のへに いほりせる
  御輦(くるま)のひびき 今いずこ 」

この詩に該当する万葉歌

「 大君は 神にしませば 天雲の
               雷の上に 廬(いほ)らせるかも 」 
                          巻3-235 柿本人麻呂

( 天皇は神様でいらっしゃるから、天雲を支配する雷の上に仮宮を
 お作りになっておられることよ )

天皇は持統の他、天武または文武説もあります。
廬(いおり)は身を清めたり休息するための仮屋。
雷の丘に立たれる天皇を誇張し
「 雷神をも支配する偉大な大君は絶対的な存在である」と讃えています。

雷丘は飛鳥甘樫の丘から北に向かって約1㎞の場所にある標高わずか10mの高台。
住宅と田畑に囲まれた一見何の変哲もない丘は人麻呂のお蔭で一躍不滅のものに
なりました。
もし、この歌が残されていなかったら宅地や田畑に転用されて消滅する運命を
辿ったことでしょう。

そもそも天皇が神であると詠われるのは壬申の乱以降です。
兄、天智天皇の子 大友皇子を倒して天武天皇に即位した大海人皇子は
見方によっては反逆、その正統性を疑問視されてもおかしくありません。

そこで、天武天皇は「古事記」「日本書紀」の編纂を開始して天孫降臨と
天照大神のお告げ、
「 神の血統である我が子孫が日本の国の王となるべきものである」といういわゆる
「天壌無窮の神勅」を創作し皇位継承の正当性の裏付けとしたのです。

「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」とは「永遠に変わらぬ」の意。

(島崎藤村)

「 目をめぐらせば さざ波や
  志賀の都は 荒れにしと
  むかしを思ふ 歌人の
  澄(す)める 怨(うらみ)を なにかせん 」  

(万葉歌)

「 楽浪(ささなみ)の 志賀(しが)の唐崎 幸(さき)くあれど
        大宮人の 舟待ちかねつ 」
                  巻1-30 柿本人麻呂
( 楽浪の志賀の唐崎よ
     おまえは昔のままに たゆとうているが、ここで遊んだ大宮人の舟
     その舟はいくら待っても もう再び現れないよ )

         楽浪(ささなみ) 琵琶湖西南岸地方一帯の古名
         志賀の唐崎   大津市下阪本町唐崎

 「 楽浪(ささなみ)の 国つ御神(みかみ) うらさびて
      荒れたる都  みれば悲しも 」 
                   巻1-32  高市古人(たけちの ふるひと)

(楽浪の地を支配したまう国つ神の 御魂(みたま)も衰えすさんで
荒れて廃れている都 この都をみると悲しみがこみあげてくる )

壬申の乱によって廃墟となった近江の都。
この地を訪れた人麻呂や高市古人の同胞も多く亡くなったことでしょう。

そして万葉屈指の名歌が生まれました。

「 近江(あふみ)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば
    心もしのに いにしへ 思ほゆ 」   
                       巻3-266 柿本人麻呂

( 近江の海の夕波千鳥よ、お前たちが哀しそうに鳴くのを聞いていると
 心もうつろに萎えて、ひたすら昔のことが思われてならないよ )

心も萎えてしまうほどに昔が思われるのは天智天皇の近江朝。
あの華やかなりし都は壬申の乱で滅亡し今や荒れ果てた廃墟となっています。

万葉人は「鳥」は「英霊を運ぶ使い」と考えていました。
「ちどり」の「ち」は 「いかずち(雷)」「おろち(蛇)」「みずち(鮫龍)」
「ちはやぶる」の「ち」と同じく「霊力」を意味する語であるといわれています。

人麻呂はその千鳥に滅亡した近江朝の人たちの霊魂を見、その鎮魂も含めて
「夕波千鳥よ」と呼びかけたのです。

(島崎藤村)
「 春は霞(かす)める 高臺(たかどの)に
  のぼりてみれば けふり立つ
  民のかまどの ながめさへ
  消えてあとなき 雲に入る  」   
 
(万葉歌)

「 大和には 群山(むらやま)あれど 
  とりよろふ 天(あめ)の香具山
  登り立ち 国見をすれば 
  国原は けぶり立ち立つ 
  海原(うなはら)は かまめ立ち立つ
  うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづ しま) 大和の国は 」 
                             巻1-2 舒明天皇

(意訳)
( 大和には多くの山々があるけれども、その中でも
  木々も豊かに生い茂り、美しく装っている香具山。
  また、神話の時代に天から舞い降りたと伝えられる天の香具山。

  その頂に登り立って国見をすると、
  国土には盛んに炊煙の煙が立っている。
  民の竈(かまど)は豊かなようだ。

  海原(広い池)には、かもめ(ゆりかもめ)が盛んに飛んでいる。
  海の幸も豊かなのであろう。

  この上もなく美しい国よ。
  豊穣をもたらすという蜻蛉が盛んに飛び交う わが日本の国よ  ) 

「国見」とは春の初めに天皇が聖なる山に登り、国土を俯瞰(ふかん)しながら、
そのにぎわいを褒めることにより豊かな秋の実りを予祝する農耕儀礼で、
元々は民間の気楽な行事であったものが次第に儀礼化され、
国の儀式になったものとされています。

以下は伊藤博氏の解説です。

「国原はけぶり立ち立つ 海原はかまめ立ちたつ」の対句は
その土と水とがとも生気に満ちて躍っていることを述べた表現で、
このように、国土の原核であり農耕に必須の媒材である「土」と「水」とが
充実しているということは、国土の繁栄、一年(ひととせ)の
五穀豊穣が確約されたことを意味する。
だから一首はただちに「うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」と
高らかな賛美のもとに結ばれる。

この歌の冒頭の大和は天皇が立つ大和(奈良)であるが、
後の大和は映像を大きく広げて
国全体を意味するヤマト(日本)に変貌している。」(万葉集釋注)

さらに「国原」「海原」の対句は、自然の情景をそのままに詠っており、
叙景歌の萌芽が既に芽生えていることをも示しています。
かくして、この歌は国土の美しさを褒め称えたものであると同時に、
我国文学の幕開けの歌でもあったのです。

(島崎藤村)

「むかしは遠き 船いくさ
 人の血潮の 流るとも
 今はむなしき わだつみの
 まんまんとして きはみなし 」 島崎藤村
  
(万葉歌)

「 海神(わたつみ)の 豊旗雲に 入日さし
      今夜(こよひ)の 月夜(つくよ) さやけくありこそ 」
 
             巻1-15 中大兄皇子(のちの天智天皇)

( 空を見上げると海神が棚引かせたまう豊旗雲、何と素晴らしい光景だろう。
  おぉ、夕陽が射しこんできて空はすっかり茜色に染まってきたぞ。
 今宵の月夜はきっと清々しいことであろうなぁ。 )

万葉屈指の美しい造語「豊旗雲」。
「豊」はその立派さ、壮麗さを讃えた言葉、「旗雲」は幡(ばん)のような
横に靡いている吹流しのような雲。

661年、斉明天皇が征新羅のために九州行幸された途中、播磨灘海岸辺りで
詠まれたもので、額田王が天皇になり替って作ったとも推定されている秀歌。

天には茜色の巨大な豊旗雲、海上には軍船、陸上には軍団の無数の旌旗が靡き、
実に雄大、荘厳な光景が想像されます。
作者は豊旗雲を神の旗と感じ、この船旅が海神に祝福されているとも受取った
ことでありましょう。
さらに美しい夕焼け雲をみて「今夜は月夜も素晴らしそうだ。我々の未来もこのような
バラ色であって欲しい」という祈りと期待をこめて詠ったものと思われます。


齊藤茂吉は「壮麗ともいうべき大きな自然と、それに参入した作者の
気迫と相融合して読者に迫ってくるのであるが、
是の如き壮大雄厳の歌詞というものは遂に後代には跡を絶った。
後代の歌人等は渾身をもって自然に参入して、その写生をするだけの
意力に乏しかった」と絶賛されています。
                           ( 万葉秀歌より : 岩波新書 )

そして藤村の詩の最終章

「 われ今 秋の野にいでて
  奥山高く のぼり行き
  都のかたを 眺むれば
  あぁあぁ熱き なみだかな 


と閉じます。
万葉屈指の名歌を網羅した見事な藤村の世界です。


万葉集715 (島崎藤村の万葉詩)  完


次回の更新は12月21日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2018-12-13 17:32 | 生活

万葉集その七百十四 (恋の面白歌3)

(恋の花 合歓:互いに合い歓ぶの字は意味深長)
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( 邪鬼 法隆寺五重塔)
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( 想 鹿島喜陌:きよみち 奈良万葉文化館蔵 )
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( 天平祭  平城京跡 奈良 )
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万葉集その七百十四 (恋のおもしろ歌3)

万葉集4500余首のうち約70%が恋の歌。
どの巻を紐解いても恋歌ばかりです。
植物、動物、自然の情景、旅の歌を詠っているように見えても
落ち着くところは、恋人に対する切ない想いを寄せた歌がほとんど。

初恋、火のように燃え上がる恋、心に秘めた恋、人妻への憧れ、
老いらくの恋、片想い、亡き人への愛惜、旅先での慕情等々。
その中で、ユーモアの中にもペーソスが感じられる歌を。

「 家にある 櫃(ひつ)に鏁(かぎ)さし 収めてし
     恋の奴が つかみかかりて 」 
                      巻16-3816 穂積親王

( 家にある櫃(ひつ)に錠前を下して、
      ちゃんとしまいこんでおいたはずなのに
      恋の奴め! 
      またしっこく掴みかかってきよって 。)

作者は天武天皇第五皇子。
宴席で機嫌が良くなると良く詠った十八番(おはこ)だそうです。

櫃(ひつ)は蓋つき木箱の物入れでそれ自体装飾された美術品。
鏁(かぎ)は錠前、金編に巣と書きます。

この皇子、よほど女にもてたのか、美貌の天平最高の才女、大伴坂上郎女(家持の叔母)と
結婚し、さらに異母兄高市皇子の妻、但馬皇女を寝取るなど、
華々しい恋の遍歴の持主です。
「恋の奴」という造語も素晴らしい。

但馬皇女との不倫は一大スキヤンダルとなり、持統女帝が穂積を山寺に
蟄居させる騒ぎとなりましたが、皇女の一途な恋はやまず、終生続いたようです。

この歌もおどけながら、亡き皇女にたいする想いを詠ったのかもしれません。

「 寺々の 女餓鬼(めがき)申さく 大神(おほみわ)の
        男餓鬼(をがき)賜(たば)りて その子生まはむ 」
                              巻16-3840 池田朝臣

( 寺々の女餓鬼どもが口々に申しておるぞ。
 大神の男餓鬼をお下げ渡し戴き、そいつの子をたくさん産みたいとな。)

池田某が大神という名の瘦せ男をからかった。
餓鬼は悪業の報いとして餓鬼道に落ちた亡者。
やせ細って喉が細く、飲食することができないので常に飢え渇きに
苦しむ人のことです。

寺々の瘦せ女が、「 瘦せ男のお前の子をいっぱい産みたい」と
神様に頼んでいるぞ。というのですが、大神と云う名は三輪山の神を祀る一族。
神職の男に仏教の男餓鬼をあてた二重の痛烈なからかいです。

「 相思はぬ 人を思ふは 大寺の
     餓鬼の後方(しりへ)に 額(ぬか)つくごとし 」 
                         巻4-608 笠郎女

( 私を想ってもくれない人を想うのは 大寺の餓鬼像を後ろから
 額ずいて拝むようなもの。
 あぁ、もうやめた! あほらしい。)

作者は大伴家持を熱烈に愛し、24首も歌を送りましたが、
かなり年上だった上、家持の好みに合わなかったのか全く相手にされない。

「 あなたを想うのは餓鬼像の尻を拝んでいるようなもの」
と開き直った作者。

奈良の大寺に飾られている餓鬼道に落ちた亡者の像は
仏像の足もとに踏みつけられている哀れな姿をしています。
そんな像を拝んでもご利益がない。
ましてや後ろ姿なんて。
自分自身の姿を餓鬼像に重ねたのかも知れません。

傷心のはて故郷に帰ったが、それでも諦めきれずまた歌を送る。
その恋のお蔭で、笠郎女は劇的な恋の秀歌を詠った万葉女性歌人として
歴史に名を残すことになりました。
自分の恋文を受けとった家持が、万葉集に載せて公開するなどとは
夢だにも思わなかったことでしょう。

「 眉根(まよね)掻き 鼻ひ紐解け 待つらむか
           いつかも見むと 思へる我れを 」
                          巻11-2408 作者未詳

( 眉を掻き くしゃみをし、下着の紐を解いているだろうか。
 何時この俺様にいつ逢えるだろかと首を長くして待っているあの子。 )
  
当時、眉根の根元が痒くなったり、「ハクション」とくしゃみをしたり、
着物の紐が自然に解けると男が訪れると信じられていました。

「 可愛いおぼこの娘は自ら着物の紐を解き、胸をはだけながら、
愛しい俺様を瞼にえがいている。」

と、ちよっと憎たらしいほどの自信満々の男。
今はやりのイケメンだったのでしょうか。
新鮮なエロティシズムを感じさせる1首です。

  「 よしなあの ひくいは少し 出来かかり 」 江戸川柳

『 男が露骨に迫ると、女が「よしなあ(止してよ) 」と拒む。
  だが、それは大声ではなく「ひくい」声で。
  彼女もだいぶオツな気分が出来かかっているのだ。
  艶笑小説などの“いやよ、いやよも好きのうち”である。 』

      ( 下山 弘著 川柳のエロティシズム 新潮選書) より


           万葉集714(恋のおもしろ歌3) 完

           次回の更新は7月14日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2018-12-06 15:32 | 心象

万葉集その七百十三 (無常)

( ゆく川の流れは絶えずして しかも元の水にはあらず  宇治川 )
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( 巻向の山辺響(とよ)みてゆく水の 水沫(みなわ)のごとし 世の人我れは  :山辺の道)
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( 露の命ははかなくて )
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( 世の中は 漕ぎ去(い)にし 船の跡なきごとし )
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万葉集その七百十三 (無常) 
 
 無常とは読んで字の如く「万物は常ならず」で「非情」「無情」とは
全く別の深い意味を持つ言葉です。 

我国に仏教が伝来したのは552年、欽明天皇の時代、百済王が
釈迦仏、経綸などを献上したことに始まるとされています。
その新教をめぐって崇仏派の蘇我氏、反対派の物部氏が激しく抗争を
繰り返し、蘇我氏が勝利。
物部氏が滅びると急速に仏教が広まり、天武天皇の時代、国教としての
性格をもち、持統天皇の692年には全国の寺院数が545か所に急増しました。

聖武天皇の時代、諸国に国分寺、国分尼寺の建立を命じ、752年、大仏開眼。
以来、仏法を以て国家を鎮定し保護する、いわゆる鎮護国家の道を歩みます。

万葉集も仏教思想の影響を受け、中でも、当代の学識者大伴旅人、
山上憶良、大伴家持などが共感して無常観を詠っています。

「 世の中は 空しきものと 知る時し
    いよいよますます 悲しかりけり 」  
                        巻5-793 大伴旅人

大宰府に赴任してから半年後、都から大伴宿奈麻呂(すくなまろ)他界の知らせを
受け取って悲しんだもの。(異母妹 大伴坂上郎女の夫)
その1か月前に妻を亡くしただけに人生無常を深く感じたようです。

「 常盤なす かくしもがもと 思へども
       世の事理(こと)なれば 留(とど)みかねつも 」 
                                巻5-805 山上憶良

( 常盤のように不変でありたいと思うけれども
 老いや死は人の世の定めであるから 留(とど)めようにも止められない。)

長歌で美しかった乙女はあっという間に老いさらばえ、若々しく凛々しい
青年もやがてよぼよぼになって人に嫌われる。

この世で何とも仕様がないものは、歳月が遠慮なく流れ、
くっついて追いかける老醜があの手この手でわが身に襲いかかる。
どうにも施す術がないと詠ったあとの1首です。

「 うつせみの 世は常なしと 知るものを
     秋風寒み 偲(しの)ひつるかも 」 
                            巻3-465 大伴家持

( この世ははかないものだとわかっているものの、
秋風が寒々と身にしみるので、亡き人が恋しくてたまらない )

739年 3年前、3才位の幼女を残して亡くなった妾を偲んで詠ったもの。
妾とは妻の一人で正妻に次ぐものとして当時の社会では公に認められていたが
いかなる人物か不明。

家持が妾のもとに通い始めたのは16歳頃のようです。
( 幼子は成長して藤原家に嫁す。)

「 巻向の 山辺響(とよ)みて  行(ゆ)く水の
       水沫(みなわ)のごとし 世の人我れは 」 
                         巻7-1269 柿本人麻呂歌集

( 巻向の山辺を鳴り響かせて流れゆく川、うつせみの世にある我らは
 その川面の水沫のようなものだ )

水沫によせて人の無常を詠った人麻呂の名歌。
巻向山の麓、清流が流れるところにこの歌碑が置かれています。

「 こもりくの 泊瀬(はつせ)の山に 照る月は
       満ち欠けしけり 人の常なき 」    
                      巻7-1270  古歌集

( あの初瀬の山に照っている月は、満ちたり欠けたりしている。
     人もまた不変ではありえないのだなぁ )

初瀬に住む人が毎日月を眺めながら感慨を述べたもの。


仏教思想の「諸行無常」の本来の意味は、

「 万物は絶えず変化しており一瞬たりとも、同じ状態でない。
  それは縁と偶然によって支配され、盛者は滅亡することもあるし、
  栄え続けることもある。
  善行を続けてきた人は必ずしも幸せになるとは限らない。

  この世の世界においては、すべての出来事がなんの保証もなく
  我々の気持ちや思惑を無視して動いてゆく。
   それゆえ、この世に対する不信を仏教によって信に変え、
   無常の中に妙を見出す。」

といったところでしょうか。

「 世間(よのなか)を 何に譬(たと)へむ 朝開き
         漕ぎ去(い)にし船の 跡なきごとし 」
                    巻3-351 沙弥満誓( さみまんぜい)

( 世の中 これをいかなるものに譬えたらよいだろうか。
 いってみれば 朝早く港を漕ぎだして消え去った船の
 その跡がなにもないようなものではないか )

航跡がすぐ消えうせる儚さを人生に譬えた1首です。

ご参考:

教科書で習った懐かしい名文です。

「 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり、
  沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
  奢れるもの久しからず ただ春の夜の夢の如し 」  (平家物語)

「 ゆく川の流れは絶えずして しかも もとの水にあらず
  よどみに浮かぶ うたかたは かつ消えかつ結びて
  久しくとどまりたる ためしなし
  世の中にある 人とすみかと またかくのごとし 」  (方丈記)


「 あだし野に 露消ゆる時なく 鳥辺山の煙立ち去らでのみ
  住み果つる習ひならば いかに もののあはれも なからん
  世は定めなきこそ いみじけれ
  命あるものを見るに 人ばかり久しきはなし 」    (徒然草)

  

          万葉集713 (無常) 完



        次回の更新は12月7日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2018-11-29 22:14 | 心象

万葉集その七百十二 (大和路の紅葉)

( 大仏殿秋色  後方右 二月堂  奈良県庁屋上から )
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( 長谷寺 本堂に向かう僧侶たち    奈良)
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(  談山神社    同上 )
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(  浄瑠璃寺  いずれも2018年11月13日~15日撮影 )
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   万葉集その七百十二 (大和路の紅葉)

大和路の紅葉の名所といえば奈良公園一帯、正歴寺、長谷寺、室生寺、
談山神社、浄瑠璃寺といったところでしょうか。

奈良公園の南大門付近から大仏池、正倉院あたりの楓や銀杏。
春日大社の裏通りの杉や檜の大木に囲まれた色とりどりの紅葉。
奈良県庁の屋上から眺める赤や黄色に染められた春日山、高円山、若草山。

郊外に足を伸ばせば、鬱蒼とした木々に囲まれた正歴寺。
赤、黄、緑、色彩豊かな木立の中の美しい堂塔、室生、長谷寺、
そして藤原鎌足ゆかりの談山神社。
奈良と京都の県境にひっそりと佇み九体の御仏で知られる浄瑠璃寺(京都府)。

そんな古都に惹かれて毎年足を運びます。

万葉集での紅葉は約140首、ほとんど黄葉と表記されています。
まずは春日山から。

 「 今朝の朝明(あさけ) 雁が音聞きつ 春日山
    もみちにけらし 我(あ)が心痛し 」 
                         巻8-1513 穂積皇子

( 今朝の明け方に雁の声を聞いた。
     この分では春日山はもみじしてきたにちがいない。
     それにつけても私の心は痛む )

作者は天武天皇第7皇子、劇的な恋愛の後異母妹但馬皇女を
娶ったが先立たれました。
魂を運んでくるという雁の声を聞き、亡き妻を偲びつつ
共に春日山のもみじを見たかったと想いを馳せている皇子です。

 「 奈良山をにほわす黄葉 手折りきて
      今夜(こよひ)かざしつ 散らば散るとも 」
                  巻8-1588  三手代 人名(みてしろの ひとな)

( 奈良山を色鮮やかに染めているもみじ、そのもみじを折り取ってきて
 今宵はかざしにすることができました。
 もう満足満足、あとは散るなら散ってもかまわないよ。 )

右大臣橘諸兄の子、奈良麻呂邸での宴の席での歌。
親しき仲間と10名でそれぞれ黄葉を詠ったもの。
折り取ってきたもみじの1枝を頭にかざして詠い舞ったのでしょう。
楽しげな様子が目に浮かぶような1首です。

「 もの思ふと 隠(こも)らひ居(を)りて 今日(けふ)見れば
              春日の山は 色づきにけり 」
                  巻10-2199  作者未詳

( 物思いにふさぎこんでずっと家にひきこもっていたが、今日久しぶりに
 見ると 春日山はすっかり色づいているよ )

平城京から東の方を眺めると春日山、御蓋山、高円山、若草山が
一望できます。
万葉人は立ちのぼる朝日の光を受けながら赤く染まりつつある山々に
神々の摂理を感じて遥拝し、新鮮な気持ちで一日のスタートを
切ったことでしょう。

JR奈良駅から約30分桜井駅で近鉄に乗り換え約10分で長谷寺駅。
その昔「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)」とよばれ、平城京、平安京からの
参拝客で賑わった地です。

「はつせ(またはハセ)」は初瀬、泊瀬、長谷とも書きますが、
いずれも正しいとされ、
初(ハツ)は「初め」、泊(セ)は「終わり」、「長谷」は「狭くて長い谷」。
そして「こもりく(隠国)」は「山々に囲まれた国」の意です。

すなわち「こもりくのはつせ」は「山々に囲まれた長い谷」にある霊験あらたかなる
観音様を拝して、心機一転の「新しい人生を初め」、生涯の果ては
「人生の泊(とま)りどころ」つまり墓所が営まれた聖なる地なのです。

「 こもりくの 泊瀬(はつせ)の山は 色づきぬ
    しぐれの雨は 降りにけらしも 」 
                     巻8-1593 大伴坂上郎女


( こもりくの初瀬の山は見事に色づいてきました。
  時雨が早くもあの山々に降ったのでしょうね。)

作者は耳成山東北の地、大伴家の私領、竹田庄に行っていたようです。
古代、早秋の時雨は紅葉の色づきを早め、晩秋のそれは落葉を促すものと
考えられていました。
泊瀬の紅葉は昼夜寒暖の差が大きく色鮮やか、とりわけ長谷寺の
堂宇の間から臨む色とりどりの美しさはこの世のものとは思えません。

以下は堀辰雄著「大和路」からです。(旧仮名遣いのまま)

 『 この頃、私は万葉集をしばしば手にとって見てゐるが、
   源氏物語などの頃とは異なり、宗教思想が未熟だったせゐか、
   生と死との境界さへはっきり分からぬ古代人らしく

 「 秋山に 黄葉あはれと うらぶれて
       入りにし妹は 待てど来まさぬ」
  とか、又、

 「 秋山の 黄葉を茂み 迷ひぬる
       妹を求めむ 山道(やまじ)しらずも 」

などといふ考え方でもって死者に対してゐる。

これは歌といふものの性質上、わざと さふいふ原始的な素朴な死の
観念を借りて、山に葬られた自分の妻を、あたかも彼女自身が
秋山の黄葉のあまりの美しさに憑(つ)かれたやうにして、
自ら分け入ってしまったきり道に迷って もう再び帰ってこないやうに
自分も信じてをるがごとくに嘆いて、以つて死者に対する一篇の
レクイエムとしたのかも知れない。

― ― 肉体が死んでも魂は分離して亡びないことを信じてゐた古人は、
深い山の中をさすらってゐる死者の魂を鎮めるために、
その山そのものの美しさを讃え、また死後彼等の居処や木々を
払わず其処(そこ)に漂っている魂の落ちつくまで荒れるがままにさせ、
ときをりその荒廃した有様を手にとるやうに さながら、その死者の
魂に向かっていふようにいふ、
― そんな事を私は万葉の挽歌作者をよみながら考える。 』

                              ( 黒髪山 本郷書林より )
筆者注:

  「 秋山に 黄葉あはれと うらぶれて
            入りにし妹は待てど来まさぬ」
                      巻7-1409 作者未詳

( 秋山のもみじに心惹かれて、なんだかしょぼしょぼと
 その山に入って行ってしまったあの子は、いくら待っても
 帰ってきてくれない )

 「 秋山の 黄葉を茂み 迷ひぬる
        妹を求めむ 山道(やまじ)知らずも 」
                 巻2-208 柿本人麻呂

( 秋山いっぱいに色づいた草木が茂っているので中に迷い込んだ
 いとおしい子、あの子を探し求めようにもその道さえ分からない)

人麻呂が妻を亡くした時の挽歌

今年の大和路の紅葉は酷暑と度重なる台風の影響で、木々が痛み
色も少し寂しげ。
それでも、ところどころを美しく彩り、私たちを暖かく迎え旅愁を慰めてくれました。

 「 古寺や 紅葉も老て 幾昔 」 桃隣(とうりん) 
                      (江戸時代前期 芭蕉の縁者 )


      万葉集712 (大和路の紅葉)完

     次回の更新は11月30日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2018-11-22 11:02 | 植物

万葉集その七百十一 (明日香の石橋)

( 明日香の飛び石 昔は石橋とよんだ)
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( 明日香川は今も昔も田畑を潤し続けている )
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( 稲渕の棚田の脇を流れる明日香川 )
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  万葉集その七百十一 (明日香の石橋)

「石橋」というと石造りの立派な橋を想像しますが、万葉での石橋は
川を渡るため浅瀬に飛び石を置いたものをいいます。

都の中ならいざ知らず、町並みはずれた田舎町では橋を造る財力も技術もなく、
人々は対岸に渡るため平らで大きな石を探し、川に埋め込んだのです。
それでも結構重く、大変な作業でしたが、日常生活に不可欠な通路は
多くの人達が協力しての産物でした。

石橋は若い人たちにとって恋の通い路。
水かさが増して石が沈んだり、流されたりした時は、恋しい人にも逢えず
悶々とした日を過ごすことになります。

「 明日香川 明日も渡らむ 石橋の
      遠き心は 思ほえぬかも 」 
                  巻11-2701 作者未詳

( 明日香川 あの川を明日にでも渡って逢いに行こう。
 その飛び石のように、離れ離れに遠く隔てた気持ちなど
 少しも持ったことがないよ )

女から「このごろ少しも来てくれないわね。どうしたの。
    心変わりしたの。」
というような便りがきて慌てて言い訳する男。

「 飛び石が離れているような、そんな疎遠な気持ちをもつものか。
 明日にでも行くよ」と
明日香の「あす」と明日(あす)の音を重ねた民謡風の1首。

明日香の稲渕に美しい棚田があります。
その下に明日香川が流れており、上流に向かって歩いてゆく途中
当時の面影を偲ばせる飛び石が残っています。

大きな石で平たく渡りやすい。
でも、少し水かさが増えると足を踏み外しそう。

ごつごつした石を加工したのかもしれませんが、大変な作業だったことでしょう。
岸の草陰にこの歌の歌碑がありました。
昭和57年(1982)8月、大雨による大出水でこの石や近辺の石が
下流に押し流され、復元するのにかなりの機械力が必要とされたらしく、
当時の苦労が偲ばれます。

「 年月(としつき)も  いまだ経(へ)なくに 明日香川
      瀬々ゆ渡しし 石橋もなし 」  
                              巻7-1126 作者未詳

( 年月はまだそれほど経っていないのに
 明日香川のあちらこちらに渡しておいた飛び石は
 もうなくなっている )

しばらく故郷飛鳥を離れていた作者。
久しぶりに帰郷してみると、不変のものと思っていた石橋が消えていた。
かってあの子のもとに頻繁に通い、渡っていた頃の懐かしい思い出。
それも今は遠い昔。

「 秋されば 霧立ちわたる 天の川
     石並(いしなみ)置かば 継ぎて見むかも 」
                 巻20-4310 作者未詳

( 秋になると霧が一面に立ちこめる天の川、
 ここにこっそり飛び石を置いたなら、毎夜々々続けて逢えるだろうか )

秋到来と共に七夕を待たずに逢いたいと心はやる男。
「霧立ちわたる」に「人知れずに川を渡れる、しめた!」の意がこもります。

天の川を仰ぎながら牽牛が織姫のもとに通う様子と、自身の恋の通い路を
重ねたものですが、天の川に石橋を置くとはロマンティックな想像。
その石は星のようにキラキラ光っていたのでしょうか。

  以下は犬養孝氏の解説です。

『 飛鳥が、各地からの訪問者でどんなに充満しているときでも
  飛鳥川の上流、稲渕から栢(かや)ノ森ににかけての一帯は、
  古代の谷間をここに見るような、ひそけさだ。

 きたなくなったという飛鳥川もここでは澄みとおって、
 せんかんと流れ、小魚もぴちぴちと川底に影をうつしている。

 古代には小川の飛び石を渡ってゆくところを「石橋」といった。
 現在、飛鳥川の上流には石橋が五カ所あるが、一つは先年の増水で
 こわされたようだ。

 稲渕の集落のすぐ下にある石橋がいちばん、見事である。
 もちろん、それらが昔のままであるわけはないが、ほぼそんなあたりに
 飛び石がおかれていたにであろう。
 稲渕の石橋を渡ってゆく農家の人にきくと、少し前までは高取から
 壷坂山へゆくだいじな道だったという。
 小魚は、岩のあいだを、ここでもスイスイと泳いでいる。』

                          ( 万葉の里 和泉書院より)

    「 明日香川 小鮎さ走る 石の間を 」    筆者


注: 現在「明日香」は地名、自治体名に
   「飛鳥」は時代、地域名に用いられている。

   古くは万葉集で「飛ぶ鳥の明日香」と詠われたがその由縁は
   鳥が多く飛ぶということは食物が豊富なしるしであり、
   豊穣な地,明日香の褒め言葉として枕詞となり、
   後々、地名に使われるようになった。


          万葉集711(明日香の石橋)  完


          次回の更新は11月23日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2018-11-17 11:17 | 万葉の旅