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万葉集その八百十(蔦:つた)

テイカカズラの花と葉  奈良万葉植物園  
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土塀を這う蔦 ブドウ科 奈良百毫寺への道すがら
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        桜の巨木にまといつく蔦  東大小石川植物園
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            紅葉が美しい蔦 北の丸公園 東京 
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万葉集その八百十(蔦:つた)

蔦といえば葡萄科のツタを思い浮かべますが、万葉集の蔦は

「キョウチクトウ科のテイカカズラ」とする説が多いようです。

古くは「岩蔦、石綱(いはつな)、絡石(らくせき)とよばれ、

本州、四国、九州の山野に自生する常緑、つる性の木本植物。

茎は太いもので4㎝、長さ10mに達し、葉は皮質で対生、

新葉は緑色で光沢あるが、古くなると暗褐色に変化します。

 夏に白色、香りをもつ5弁の風車のような白花が咲き、

風が吹くと今にもクルクルと回りだしそうな可愛い花です。

 万葉中では6首、そのうち5首が長歌です。

「 岩つなの またをちかへり あおによし

     奈良の都を またも見むかも 」 

61046 作者未詳

( いつかまた若返って、繁栄を極めた奈良の都を

  再びこの目で見ることが出来るだろうか。 )

岩つなの:テイカカズラ、ここでは「またをちかえり」の枕詞。

          蔓性の植物で蔓が這い広がりまたもとのところに

戻る意で掛かる

変若(をち)かえり:若返って

聖武天皇の741年ころ、都が奈良から恭仁京に移されたとき

旧都に残った老人が荒れたさまを見て嘆き、

昔を懐かしんだものです。

740年天皇は伊勢、美濃など彷徨の旅に出て、

恭仁、紫香楽、難波と5年間さまよい続けました。

天皇の自律神経失調のため、あるいは

父、天武の壬申の乱の足跡を辿り、

新しい生命力を得ようとした、など

色々な憶測がなされていますが、

その行動は未だに謎とされています。

旅に出た天皇は心機一転。

恭仁京新都造営と大仏建立の大事業に

取り組みます。

然しながら、無計画に事を急いだため資金と人員が不足し、

1年経過した後も大極殿はおろか宮垣すら

完成させることが出来ず、ついに744年、造営を中止。

745年再び奈良の都に戻ることになりました。

「再び奈良の都を見たい」と悲痛に詠った老人の夢が

叶えられたのです。

「 石見路や 木槿(むくげ)垣より 鶏の声 」林 晴美

次の歌は柿本人麻呂が石見国(島根県)に赴任していた時に

共に暮らした現地妻との別れの悲しみを詠った長歌の一部です。

「 -玉藻なす 靡き寝し子を

 

深海松(ふかみる)の

  深めて思(も)へど 

 

さ寝し夜は 幾時(いくだ)もあらず

延(は)ふ蔦の  別れし来れば

肝向かふ 心も痛み - 」

           巻2135 柿本人麻呂

( - 玉藻のように絡みながら 

私に寄り添って寝た愛しい子を 

その深海松のように深く深く想うけれども

  共寝した日はいくばくもなく 

這う蔦がまとわりつくように

  別れてきたので 心痛さに耐えられず
  ますます悲しい思いに

  ふけりながら- )

持統天皇時代、693年から約3年間、

石見国に赴任していた人麻呂は突然都に転勤の命を受け、

心から愛した女性(現地妻)との別れを悲しみ

二群の長短歌を詠いました。

この長歌は二群の後の一部で見送りの女の姿が

見えなくなり、二人で過ごした楽しかった日々を

回想しながら歩いている場面です。

「深海松(ふかみる)」は海藻 、ここでは「深い」の枕詞。

「延ふ蔦の」も蔓が方々に延び広がって枝わかれするところから

「別れ」に掛かる枕詞です。

荒い波が打ち寄せる海岸に美しい藻が生えている。

その藻が海中で靡くように絡みつき寝た妻が愛しい。

共に過ごした日々はそう多くないのに泣く泣く別れてきた。

あぁ、いとしのあの子よ!

石見相聞歌として知られる人麻呂の代表作です。

   「 蔦若葉 風の去来の 新しく 」 稲畑汀子

テイカカズラの名前は謡曲「定家」(藤原定家)に由来すると

いわれています。

それは次のような物語です。

『 平安時代も終わりに近いころ、後白河天皇は法皇になって

20年余りの長きにわたって院政をしいた。

その法皇の第3皇女 式子内親王は、幼くして賀茂斎院となり、

10年にわたって神社に奉仕していたが、病のため退いた。

このころ歌人として有名な定家は皇女を慕って

恋に身を焦がしていたが、皇女は独身を守って49歳で

病気のために亡くなった。

それでもなお、皇女を慕い、忘れることが出来なかった定家は

蔦葛になって皇女の墓石にまつわりついた。

  以来、蔦のことを「テイカカズラ」とよぶようになった 』とか。

 「 秋風の 嵯峨野を歩む 一人なり

     野宮(ののみや)のあとの  

濃き蔦紅葉 」 佐佐木信綱

       野宮:天皇の代理として伊勢に赴く斎王が

事前に身を清める社、源氏物語にも登場する。

「蔦」は後代、ブドウ科のつる性落葉樹に

代表されるようになります。

晩秋の紅葉が美しく、多くの人を魅了したのです。

「 蔦の葉は むかし めきたる 紅葉哉」  芭蕉


万葉集810(蔦:つた)完


次回の更新は1023日(金)の予定です。


# by uqrx74fd | 2020-10-15 15:01 | 植物

万葉集その八百九(吉野の宮2)

(鮎走る吉野川) 

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(宮滝の巨岩 )


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(吉野山から宮滝への道)
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(金剛蔵王権現  金峯山寺 ) 
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(金峯山寺本堂 7世紀創建)
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「蜻蛉(せいれい)の滝 」
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万葉集その八百九(吉野の宮2)

前回は舒明天皇が民に想いを致した国見から持統天皇が

神となって君臨するまで。

そして、今回はその神を越えて絶対神になるというお話です。

持統天皇が吉野で国見をした689年頃のことです。

夫である天武天皇が崩御、さらに後継の皇太子 草壁皇子まで急逝し、

「これから女の身一人で政権を維持できるのだろうか」と

女帝の心中に不安がよぎっていた時期でした。

それを払拭するために、天武朝発祥の聖地とされる吉野を頻繁に訪れて

神を頼り、さらに朝廷の役人、全国の領主を服従させるために自らが

神にならざるを得ませんでした。

そのような意を受けて、柿本人麻呂は次のように詠います。

まずは意訳文から

「  安らかに天下を支配されている我が大君は

神として超然と振舞われ

吉野川の激流渦巻く河内に 高殿を高々とお造りになった。

そこに登り立って国見をなさると

幾重にも重なる青垣のような山々の、その山の神が

大君に捧げる貢物として、春の頃には花を髪にかざし

秋たけなわの時ともなると、色づいた葉をかざしている。

高殿に沿うて流れる川、その川の神も 大君の食事に

お仕え申そうと、上の瀬に鵜川の用意し、

下の瀬にすくい網を張り設けている。

あぁ、我が君の代は山や川の神まで心服して仕える

神の御代であることよ。 」

訓み下し文

「 やすみしし 我が大君 

神ながら 神さびせすと

  吉野川 たぎつ河内(かふち)に 

高殿を知りまして

  登り立ち 国見をせせば 

  たたなはる 青垣山 

山神の 奉る御調(みつき)

  春へは 花かざし持ち 

秋立てば 黄葉(もみち)かざせり

  行き沿ふ  川の神も 

大御食(おほみけ)に 仕へ奉ると

  上つ瀬に 鵜川(うかは)を立ち 

下つ瀬に 小網(さで)さし渡す

  山川も 依りて仕ふる  

神の御代かも 」

            巻138 柿本人麻呂

反歌

「 山川も 依りて仕ふる 神ながら

     たぎつ河内に 舟出(ふなで)せすかも 」 

139 柿本人麻呂

( 山の神,川の神までも心服してお仕えする我が大君は

 尊い神さながらに 吉野川の激流渦巻く河内に

 舟を漕ぎ出されることよ  )

一行づつ訓み解いてまいります。(訳文)

「 やすみしし 我が大君 

   (国の隅々まで安らかに支配されているわが大君)

       やすみしし:大君の枕詞 原文;八隅、安見

神ながら 神さびせすと

  (神として 神様らしく振舞われ)

    神さびせすと: さび:それらしく せす:為すの尊敬語

 吉野川 たぎつ河内(かふち)に 

    ( 吉野川の激流渦巻く河内に )

河内:川を中心とした山に囲まれた小生活圏

高殿を知りまして

    ( 高く聳え立つ宮殿をお造りになり)

        知りまして:営なまれて

 登り立ち 国見をせせば 

      (その宮殿に登り立ち、国見をされると)

      国見:高所に立ち国土の風景を観望すること

 

たたなはる 青垣山 

      (幾重にも重なる青い垣根のような山々)

      たたなはる: たたなずく:幾重にも重なる

山神の 奉る御調(みつき)

     ( 山の神が大君に捧げる貢ぐ品として)

          御調: 貢ぎもの

春へは 花かざし持ち 

       (春には花を髪にかざし)

      花かざしもち: 春に咲く花を翳しに見立てたもの

秋立てば 黄葉(もみち)かざせり

       (秋たけなわの頃になると 黄葉を翳している)

行き沿ふ  川の神も 

       ( 高殿に沿って流れる川の神も )

大御食(おほみけ)に 仕へ奉ると

    (大君の食事に お仕えいたそうと)

          大御食(おほみけ):天皇の食事

上つ瀬に 鵜川(うかは)を立ち 

       (上流に鵜川を用意し )

       鵜川立ち:鵜飼をもよおす

下つ瀬に 小網(さで)さし渡す

     ( 下流ではすくい網を張り設けている)

      小網:魚や貝をすくう漁具

山川も 依りて仕ふる  神の御代かも 

  ( 山の神も川の神も わが君に心から心服して仕える 

我が大君、神の御代であることよ)

                 巻138 柿本人麻呂

ここに至って持統天皇は、山の神、川の神に

君臨する絶対神へと昇華します。

しかも、自身を天つ神である天照大神(女神)

重ね合わせているのです。

その後、宮中儀礼行事のたびに群臣が列席する中

「天皇は神」と詠われ、宮廷歌人柿本人麻呂が

大きな役割をはたしました。

なぜそのような発想が生まれたのでしょうか?

その手本は天武天皇です。

672年、古代最大の内戦「壬申の乱」が勃発。

天智天皇の後継者である大友皇子と

天智の弟大海人(おおあま)皇子との

甥叔父間の皇位継承争いです。

近江朝から見れば大海人は賊軍。

大義名分が不可欠となった大海人は

「 我こそ皇祖天照大御神の直系の正統なり。

我軍は神に守られた軍団であるぞ」と

声高に味方の士気を鼓舞し圧倒的な勝利を収めました。

乱平定後、天武天皇として即位した大海人は、

次のように讃えられます。

「 大君は 神にしませば 赤駒の

     腹ばう田居を都と成しつ 」 

194260 大伴御行(家持の祖先)

( わが大君は神であり、超人的なお方であるぞ!

 強靭とされている赤馬でさえも動くのに難儀していた

泥沼の湿原地を都に造り変えられた。)

天皇を神と詠った最初のもの(他に一首あり)です。

天武天皇はさらに「古事記」「日本書紀」の編纂を開始して

天孫降臨と

「天照大神の子孫が日本の国の王となるべきものである」

という天照大神のお告げを創作し皇位継承の正当性の

裏付けとしました。

持統天皇はその故事に習い、自ら神になることで人心の統一、

ひいては、国を完全に統治しようと図ったのです。

その目論見は成功し、持統朝は盤石の基盤を築き、

元明、元正女帝、そして聖武天皇に引き継がれてゆきます。

しかしながら聖武時代になると、仏教が興隆し大仏建立、

天皇自ら「我は三宝(仏法僧)に仕える奴である」と宣言し、

絶対神は消滅。

「天皇は神」という言葉は乱世における

古代国家統一の手段として創造された産物、

揺るぎない統治の下で、もはや不要となったのです。

余談ながら、「現人神」という言葉が万葉集に登場するのは

住吉の神様を詠った長歌(61020 1021)に見える 

「住吉(すみのえ)の現人神」。

「 住吉の神は人の姿となって現れ、

舳先に立って航海を守る神 」

であるとされており

天皇が神であると詠われたわけではありません。

「現人神天皇」は先の戦争時代、軍部に歪曲、悪用され、

いつしか国民もそのように思い込み、家々に肖像写真を

掲げるようになりましたが、終戦後、

天皇は自ら神にあらずと宣言されたのであります。

「 天皇(すめろぎ) は 

神にあらずと  住吉の

      おかみのたまふ  

()こそ 現人(あらひと) 」 筆者

      

   万葉集809(吉野の宮2) 完

次回の更新は1016日(金)の予定です。



# by uqrx74fd | 2020-10-08 15:39 | 心象

万葉集その八百八(吉野の宮)


象山(きさやま)、吉野川  万葉人は山川の春秋の美しさを賛美した

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宮滝 この界隈で天皇の離宮が営まれた
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奥千本から金峰山寺を臨む
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西行庵への道  吉野
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万葉集(吉野の宮1)
   

 今回は古代の天皇が何故、神、さらに神をも従える絶対神と詠われる

 ようになったのかというお話です。

 まずは天皇の重要な政(まつりごと)、国見、すなわち

 春の初めに聖なる山に登り、国土を俯瞰(ふかん)しながら、

 そのにぎわいを褒めることにより豊かな秋の実りを予祝する

 農耕儀礼から。

             「 大和には 群山(むらやま)あれど 

             とりよろふ 天(あめ)の香具山
                 登り立ち 国見をすれば 

              国原は けぶり立ち立つ 

             海原(うなはら)は かまめ立ち立つ
                うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづ しま) 大和の国は 」 

                    巻1-2 舒明天皇

              (意訳)

              ( 大和には多くの山々があるけれども、その中でも

                 木々も豊かに生い茂り、美しく装っている香具山。

              神話の時代に天から舞い降りたと伝えられる天の香具山。

              その頂に登り立って国見をすると、

              国土には盛んに炊煙の煙が立っている。

               民の竈(かまど)は豊かなようだ。

             海原(広い池)には、かもめ(ゆりかもめ)が盛んに飛んでいる。

                 海の幸も豊かなのであろう。

                この上もなく美しい国よ。

               豊穣をもたらすという蜻蛉が盛んに飛び交う

               わが日本の国よ  ) 

            国原:陸地

            海原(うなはら): 川、沼を海に見立てた

              五穀豊穣、豊かな水、これほど素晴らしいことがあろうかと

              国土を賛美し、自然の恵みを感謝しつつ民を想う。

              万葉の黎明を飾るにふさわしい堂々たる歌です。

           ところが時代が遷り持統女帝の時代になると国見は天皇ではなく

           臣下が詠い、場所も山から俯瞰するのではなく山、川と対峙する形に

           変わってゆきます。

         次の歌は持統天皇の吉野行幸の折の国見の歌です。

         まずは訳文から。

              「 あまねく天下を支配される 

              我が大君のお治めになる天の下に

                国といえばたくさんあるけれども、

              中でも山と川の清らかな河内として

                特に御心をお寄せになる吉野の国の

              豊かに美しい秋津の野辺に

                宮柱をしっかりとお建てになると、

              ももしきの大宮人は

               船を並べて朝の川を渡り、

              船を漕ぎ競って夕べの川を渡る。

               この川の絶えることなく

               この山のようにますます君臨し給う

              水流の激しいこの滝の都は

               見ても見ても見飽きることがない 」 

136 柿本人麻呂

         (訓み下し文)

             「 やすみしし 我が大君の 

              きこしめす 天の下に

               国はしも さはにあれども 

              山川の 清き河内と

               御心(みこころ)を 吉野の国に 

               花散らふ 秋津の野辺に 

             宮柱 太敷きませば 

               ももしきの 大宮人は 

             舟並めて朝川渡る  

               舟競(ふなぎほ)ひ 夕川渡る

             この川の 絶ゆることなく

               この山の いや 高知らす

             水激(みずそそ)ぐ  滝の宮処(みやこ)は

                    見れど飽かぬかも 」     

           136  柿本人麻呂

            一行づつ訓み解いてまいりましょう

   

                「 やすみしし 我が大君の 

              あまねく国をわが大君が

   やすみしし: わが大君の枕詞 八方を広く治めるの意

                 きこしめす 天の下に

                         支配される天下

               きこしめす:統治される

                国はしも さはにあれども

 

                    国といえば たくさんあるけれど

                    国はしも: 「はしも」は強調

          さはにあれども:たくさんあるけれども

                山川の 清き河内と

            山川の 美しくも清らかな河内として

                河内: 河を中心とし山に囲まれた小生活圏

                御心(みこころ)を 吉野の国に
 

                 天皇が特に御心をお寄せになる 吉野の国に

                御心を:吉野の枕詞 天皇が心をお寄せになるの意

                花散らふ 秋津の野辺に 

               (稲の)花が盛んに散る 秋津の野辺に

       秋津: 吉野離宮一帯 :蜻蛉(せいれい)の滝付近か 

       「秋津」はもともと蜻蛉(トンボ)を意味し、

      その語源は

       「秋に多くいづる」が縮まったものとされている。

   古代、田の収穫前に多く群れ飛ぶのは豊作のしるし。

   聖霊として大切にされた蜻蛉はやがて豊かな実りを表す大地

   「蜻蛉島(あきづしま)大和の国」と詠われ、

   日本国全体を象徴する「秋津島」へと変化してゆきます。

                 宮柱 太敷きませば

                立派な御殿を建てて

                太敷きませば: 宮の柱が太く立派なの意

               ももしきの 大宮人は 

                        大勢の大宮人は

        ももしきの:大宮に掛かる枕詞、

    石や木を築いて建てた立派な宮を闊歩するの意

                舟並めて 朝川渡る

                    舟を並べて朝に川を渡り 

 

              舟競(ふなぎほ)ひ 夕川渡る

                 舟を漕ぎ競って 夕べに川を渡る

               この川の 絶ゆることなく

                 この川の流れが絶えることなく

              この山の いや 高知らす

                 この山のように 益々君臨し給う

     

         高知らす: 立派にご統治になる

               水激(みずそそ)ぐ  滝の宮処(みやこ)は

                 水流が豊富で流れが激しい この滝の宮は

              見れど飽かぬかも 」 

                見ても見ても 飽きることがありません

136  柿本人麻呂

              (反歌)

                「 見れど飽かぬ 吉野の川の

                  常滑の 絶ゆることなく またかへり見む 」 

             巻137 柿本人麻呂

                 ( 見ても見ても飽きることがない吉野の川

                   その川の常滑のように 絶えることなく、
                        またやって来て

                      この滝の都を見よう。)

           ここには国土の豊穣を寿ぎ民の竈に思いを致すことがありません。

           吉野の国と川の美しさを褒め称え、そのような美しい場所に

           宮を営まれている天皇を称える。

           まさに天皇賛美の歌に変化しているのです。

            なぜそのように変わったのか?

           その理由を知るためにはまず、なぜ香具山ではなく吉野なのか?

           そして時代背景を見なければなりません。

                まず、吉野についてです。

           近江に都があった頃、大海人皇子は皇位継承を巡るさなか、

           兄、天智天皇の殺意を感じ、
          妃、鵜野讃良(うののさらら:のち持統)を伴い

          吉野に隠棲しました。

    そして、天智天皇崩御後、9か月の忍従苦節を経て、壬申の乱に勝利して即位、

    天武天皇が誕生。

     以来、吉野は天武朝発祥の聖地と位置づけられ、飛鳥に都が置かれると

     吉野川のほとり宮滝付近に離宮が営まれて、歴代天皇の行幸42回、

     なかでも持統女帝は32回も訪れたのです。(女帝前後を含めると34)

        吉野は水が豊富に湧き出るほか、水銀、金銀を産する鉱山があり、

        歴代天皇は水の神に五穀豊穣を祈り、かたわら鉱物発掘作業督励し、

       さらに創建時代の精神に戻って良き国造りへの決意を新たにしたものと

        思われます。

             万葉で詠われた吉野は70余首。

           これだけ行幸が重なると歌も多くなるのも当然でしょう。

「 み吉野は 神の宮なり 鮎走る 」 筆者

                      次回に続く 

                  万葉集808(吉野の宮)完




         次回の更新は
109日(金)の予定です。


# by uqrx74fd | 2020-10-01 16:12 | 心象

万葉集その八百七 (水よ永久に)

( 藤原京 我国最初の本格的都城は湧水がある場所が選ばれた 
          奈良産業大学プロジエクトポスター)
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( 岩清水  山の辺の道  奈良 )
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( 苔むす中の湧水  天龍寺 京都 )
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( 木津川 平城京から遷された恭仁京はこの川の近くに造営された 京都(奈良との県境)
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     万葉集 (水よ 永久に)  

「 - 水こそば とこしへにあらめ 御井(みゐ)のま清水 」
                   巻1-52 長歌の一部 作者未詳

この歌は、我国最初の本格的な都城とされる「藤原京」(694~710) を
称えたもので、都を造営するにあたって尽きることがない
湧き水がある場所を探し求め、掘られた井戸は都の繁栄と永続の
シンボルとされたのです。

水道などなかった時代、人々の生活用水の確保は最優先の仕事。
川、湧水、地下水、雨水などありとあらゆる水源を探し求めて
水路を造り、井戸を掘り、ため池を作りました。

次の歌は村の長が人々のために井戸を掘り、多くの人に
感謝されている様子を詠ったものです。

「 馬酔木なす 栄えし君が 堀りし井の
      石井の水は 飲めど飽かぬかも 」 
                 巻7-1128 作者未詳

( 馬酔木の花のように栄えた君が掘られた石で囲った井戸。
  その水はとても美味しい。
  飲んでも飲んでも飽きることがありません。)


君は作者が仕えた主人、または村の長老で、今は亡き人の功績と
人徳を称えた1首。
井戸掘りは多くの人を使う力と財力がなければ不可能。
村のためにと掘った井戸が後々まで多くの人々を助けたのです。

次の歌は湧水のほとりで村人が楽し気に踊りながら
掛け合いしている場面です。
本来は一連の長歌、しかも方言混じりなので分かりやすくするため
便宜上男歌と女歌を分けて解説致します。

(男)「 こと酒を 押垂小野(おしたれ をの)ゆ 出づる水
     ぬるくは出(い)でず  寒水(さむみず)の
     心も けやに 思ほゆる 
     音の少なき 道に逢はぬかも 」 
                     巻16-3875(前半) 作者未詳

男 ( 格別に美味い酒よ、それを圧(お)して垂れるという
    押垂の小野から湧き出す水。
    生ぬるくなく、冷たい佳き水。

    その水のように胸にひんやりと応えるような
    人に出会わないものかな。
    この人気が少ない道で 。 )   16-3875(前半)


    こと酒(琴酒) :殊酒の意で格別に美味い 
             ここでは押垂小野の枕詞

    押垂小野:  所在不明 
           名泉の地として村の人々が集まり遊んだところと思われる
           ここでは格別に美味い酒をも圧倒する上質な湧水を導く
           「押」は「圧倒するほど美味い」の意
    寒水:冷たい水

    心も けやに: 極めて 「けや」際立った感じを表す擬声語

    音:人気(ひとけ)

    道に逢はぬかも : 道で出会わないものだろうか


(女)「 少なきよ 道に逢はさば 色げせる
     菅笠小笠(すがかさ をがさ) 我がうなげる
     玉の七つ緒 取り替へも 申さむものを
     少なき 道に逢はむかも 」
                巻16-3875(後半) 作者未詳

女   (こんなに人気が少ない道で あんさんに出会ったら
     あんさんが被っておられる菅笠と、
     私の首にかけている 大事な大事な七連の玉飾りとを
     取り換えっこさせていただきましょうに。

     仰せのような素敵な方と
     行き逢わないものかしら。)
                     巻16-3875(後半)

        色げせる菅笠小笠: 色で彩色してある菅笠

        我が うなげる:私の首にかける

        玉の七つ緒:玉を付けた数条の首飾り
    
夏の暑い盛り、村の人たちが こんこんと湧き出る泉のほとりで
憩い、酒盛りをしている。
方言のため分かりにくい言葉づかいですが、男女踊りながら
楽しく掛け合いしている様子が目に浮かぶような歌です。

このような情景は各地でも見られたらしく常陸風土記にも
下記のような記述が見られます。

「 村の中に清き泉あり。
  俗に大井という。
  夏は冷ややか、冬は温かし。
  湧き流れて川となる。
  夏の暑き時、遠近(おちこち)の里より、
  酒肴(さけさかな)を持ち寄り、男女集い遊び楽しめり。」

            (註:一部現代語訳に変えています)

  「 苔厚き 長枝の下に 泉湧く 」 中村草田男

自然に恵まれた我が国は湧水も豊富。
  水道水もそのまま飲める。
  そんな有難い国が世界でどれだけあるでしょうか。

  水質汚染に頭を悩ます国も多く、北海道をはじめ各地の水源地を
  買いあさる動きも見られます。

  かけがえのない国の宝が海外勢に買い占められぬよう、
  早急の対策が望まれるところでありましょう。

「 湧き止まぬ 泉なりけり 橡(とち)のもと 」 高濱年尾



 万葉集806(水よ永久に) 完



 次回の更新は10月2日(金)の予定です。

# by uqrx74fd | 2020-09-24 10:33 | 自然

万葉集その八百六 (梻:しきみ)

( 梻:しきみ  奈良万葉植物園 )
万葉集その八百六 (梻:しきみ)_b0162728_14122651.jpg

(  梻の花     同上 )
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    万葉集その八百六( 梻 :しきみ)


  「 ゆかしさや しきみ花咲く 雨の中 」  蕪村

 シキミはモクレン科の常緑小高木で4月頃淡黄白色の花を咲かせたのち、
袋状の果実をつけ、熟して裂開し黄褐色の種子を出します。
果実は有毒、全木に芳香があり、仏花、抹香木(まっこうぎ)などの
別名の通り仏前や墓などに、また線香や抹香の材料にも用いられています。

 梻(しきみ)いう字は国字、すなわち木+佛。
 榊(さかき)は木+神 
なるほど、なるほど、覚えやすい。

万葉集には1首のみ、当時は佛との関連は見られず恋歌です。

「 奥山のしきみが花の 名のごとや
       しくしく君に 恋ひわたりなむ 」 
                    巻20-4476 大原今城

  ( 奥山に咲くしきみの花のその名のように
    私は次から次へとしきりにわが君のお顔が見たいと
    思い続けることです。)

大伴池主邸で催された宴席での歌。

恋歌に仕立てて主人池主を称えています。

「しくしく」はしきりにの意。
「しきみ」、「しくしく」と「し」音を連ね口に出して詠うと
心地よく響きます。

当時、大伴池主は橘奈良麻呂らと共に朝廷で権勢を振い横暴を極めている
藤原仲麻呂を除こうと暗躍していました。
池主の心友、大伴家持も誘われようですが、参加せず次第に疎遠に。


この歌は主人池主を称えると共に、いつも一緒にいた家持を懐かしむ
気持ちも含まれていたかもしれません。

しかしながら藤原仲麻呂打倒の企ては密告により、あえなく挫折。
関係者433名が捕らえられ死刑、流刑に処せられ池主もその中に
含まれていたようです。

もし、家持もその企てに参加していたら万葉集の編纂も成らなかった
ことでしょう。

  「 石山や 石にさしたる  花梻(はなしきみ) 」 松瀬青々

 シキミが仏の木として定着するのは平安時代からで「枕草子」に

「 寺にこもり、梻の枝を折りて もて来るに
  香などの いと たふときも かなし 」


  と書かれており、香木として仏前に供えていたことがうかがわれます。

「 目白鳴きて ほのかに人を 思ひ出づ
        梻の花の 匂ふ山かげ  」  岩谷莫哀

 まもなくお彼岸。
 亡き両親や親友たちの顔が目に浮かび、懐かしくも寂しい。
 遠方の墓参がかなわぬご時世、せめて仏前に梻と線香を。
 
   「  香を焚く ゆらりと浮かぶ 父母と友 」 筆者 


     万葉集806(梻:しきみ)完


       次回の更新は9月25日(金)の予定です。 

# by uqrx74fd | 2020-09-17 14:19 | 植物