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万葉集その二百二十一(紅花)

「 3世紀のベニバナ花粉  邪馬台国と同時期  
  奈良纏向遺跡   卑弥呼の織物と関係か 」 
 
                          ( 読売新聞見出し:2007年10月3日)

エジプトや西アジア原産のベニバナはシルクロードを経由して中国から渡来したと
いわれています。
我国でこれまでに確認されていた最古のベニバナの花粉は6世紀後半の藤ノ木古墳
(奈良県斑鳩)のものとされており、それを300年以上も遡る画期的な発見です。

纏向(まきむく)遺跡は大和王朝の初期に発展した集落跡と考えられており、邪馬台国の
有力候補地とされていることから、「卑弥呼の衣裳や化粧用にベニバナが使われていたと
想像してもよいわけで」(吉岡幸雄 日本人の愛した色:新潮選書) 時空を越えた
遥かなるロマンの世界へと私達を誘(いざな)ってくれます。

 「 紅(くれなゐ)の 深染めの衣(きぬ) 色深く
       染(し)みにしかばか 忘れかねつる 」 
                    巻11-2624 作者未詳


( 念入りに染め上げた紅の深染の衣。
その着物のように私の心の中にあの人への想いが深く染み込んでしまいました。
もはや忘れようとしても忘れられないことです )

紅は紫とともに最高の色とされ着用は上流社会の人たちに限られていました。
美しい女性が紅の衣をまとって優雅に歩く姿は都の男達をたまらないほどに
魅了したようです。

中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に「倭国の女王卑弥呼が魏に赤と青の
織物を献上した」との記述があり「発掘された構跡のまわりに紅花の染工房あるいは
化粧品を造る工房があったと考えてもよく(同氏 同著)、その後400年を経過した
万葉時代の染色技術はかなり高度なものであったと思われます。

紅花から染料や口紅を作るのは大変な作業が必要とされました。
農民は花を摘み、水洗いをして黄色い色素を洗い流し、発酵させて餅のように搗いた後、
筵に並べてせんべい状にしてから乾燥させ紅餅といわれるものをつくります。
出来上がった紅餅は、紅花商人を経て都の紅屋売られ、それぞれの秘伝の技術や
灰汁などを加えてようやく染料や口紅になったのです。

「 黒牛潟(くろうしがた) 潮干(しほひ)の浦を紅の
    玉裳(たまも)裾引き 行くは誰(た)が妻 」  
                    巻9-1672 柿本人麻呂歌集


( 黒牛潟の潮の引いた海辺、その水際を紅染めのあでやかな裳裾を引きながら
  麗人が歩いてゆきます。 あれは一体誰の妻なのだろう )

701年持統太上天皇、文武天皇が紀伊の国 牟婁(むろ)の湯に行幸されたときの
宴席での歌で、黒牛潟は現在の和歌山県海南市黒江とされています。

紅の裳裾(ロングスカート)をたくし上げ、白い素足を見せながら浜辺を逍遥している
美しい女たち。男たちは大いに官能をそそられたことでしょう。
作者はその優雅な姿を目の当たりにしながら都に残してきた妻を思い浮かべて
いるのかもしれません。

『 農家の主人がいった。「紅は昔から染料よりもクスリに重宝されたんです。
  お侍さんの印籠の中にかならず固紅が入っていました。キズ薬だったんですね。
  女の人が赤い腰巻を重宝したのも虫がつかぬからで、またこの真っ赤な色だと
  寒い国では裾が温こうございました 」
  私は女性が真紅の布で裾を巻きつけたのは温まりたいとする本能からきていた
  ことに気付いた。
  - 男性にとって多少は毒々しくても、身を温めてくれそうな女性は永遠に魅力
  なのである。 』 
                  ( 水上 勉 日本のべに 日本の名随筆「色」:作品社)

「 紅の浅葉の野良に刈る草(かや)の
        束の間(あいだ)も我(あ)を忘らすな 」 
                     巻11-2763 作者未詳


( 紅色が浅いという その浅羽の野原で刈る萱。
 その一束を刈る短い時間でも私を忘れないで下さいね )

「浅葉」は「色が薄い葉」という意味のほか「地名」を掛けており現在の
「埼玉県坂戸市浅羽」または「静岡県磐田郡浅羽町(現、袋井市) 説があります。
また「紅」は「紅色」と解釈するのが定説ですが強引に「紅花であると」する説も。

『 埼玉県では浅羽を「万葉集のゆかりの地」として指定し歌碑を建て説明板もある。
また「紅」は「紅花」であると解釈している地元の歌人もいるが、どちらも
我田引水の感があるがその土地の者として当然の心境と思う。 』
(武州桶川紅の花:加藤貴一著より)

江戸時代、武州桶川は出羽最上地方に次ぐ紅花の産地として大いに栄えました。
明治維新以降、化学合成染料の登場により衰退し、ついに消滅してしまいましたが、
近年、街のシンボルとして小規模ながらもその栽培を復活させており、
街づくりの目玉に何としても「浅羽」を「万葉伝来の紅花発祥の地」と
したかったのでしょう。

ただし、古代、紅花は税として貢納され、平安時代には全国で20余国栽培されていた
との記録があるので武州も産地の一つであったことは十分に考えられることと
思われます。

「 眉刷(まゆかき)を 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花 」 
                                    芭蕉 (奥の細道)


芭蕉が最上地方、尾花沢を訪れたとき、紅花畑は一面の花盛りだったようです。
この一句は花のさまを眉掃き、すなわち女たちが白粉をつけたあと眉を払う化粧用具に
見立てたものとされています。
さらに芭蕉の幻想はどんどん広がり、紅花から採れた口紅をつけた艶かしい
女の姿をも思い浮かべていたようです。たった一字の言葉「俤」の深さです。

by uqrx74fd | 2009-06-29 19:24 | 植物

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