万葉集その三百二十(磐姫皇后の謎)

仁徳天皇のお后(きさき) 磐姫(いはのひめ)は歴史上臣下から皇后になられた最初の方です。
歴代の天皇に仕えた功臣、武内宿禰の孫にあたり、大和の豪族葛城氏の一族とされています。
仁徳天皇(313~399年)と言えば、民の竃(かまど)の煙が乏しいのを見て、3年間の免税を
断行された聖帝とされていますが、人は見かけによらぬもの、実は大の色好みだったそうです。
一夫多妻が公然と認められた時代ながら、潔癖感が強い皇后は天皇の浮気に大いに悩まれ、
その心情を余すところなく詠われました。
以下の四首連作からなる歌群は万葉集最古にして、かつ名歌の誉れが高いものとされています。

「 君が行(ゆ)き 日(け)長くなりぬ 山尋ね
    迎へか行かむ 待ちにか待たむ 」  
           巻2-85 磐姫皇后(いはのひめ おほきさき)


( あなたが家を出られてから随分日にちが経ちました。
 毎日毎日あなたのことを想い、胸が張り裂けんばかりです。
いっそのこと険しい山を越えてお迎えにいきましょうか、それとも、
このままじっと待ち続けましょうか )

「かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の  
  岩根しまきて 死なましものを 」  巻2-86 同上


( こんなに恋焦がれているのに、待ち続けて苦しむくらいなら、いっそのこと
お迎えに出ていこうかしら。
たとえ、道に迷って険しい山の岩を枕にして死んでしまっても構わないわ。)
  
「 ありつつも 君をば待たむ うち靡く
   我が黒髪に 霜(しも)の置くまでに 」  巻2-87 同上


( でも、やはり、このままいつまでも、あの方をお待ちいたしましょう。
  長々と靡くこの黒髪が白髪に変るまでも  )

「 秋の田の 穂の上に 霧(き)らふ朝霞(あさがすみ)
    いつへの方に 我(あ)が恋やまむ 」   巻2-88 同上


( 秋の田の稲穂の上に立ちこめる朝霧はまるで私のため息のよう。
それにしても私の恋は一体いつになったらすっきりするのでしょう。
秋の田の稲穂の上に立ち込めている朝霧だってやがては晴れるというのに。)

この歌は、天皇が長い旅に出られ(他の女性に逢いに行った?)、帰りを待つ皇后の気持を
詠ったもので、
『 恋情のやるせなさ、死ぬほどの激しさ、ひたぶるに待つ純情、かなしいあきらめを
これほど美しくまとめあげた作品は万葉の相聞歌の中でもまれである』(青木生子)
『 煩悶、興奮、反省、嘆息、まことに見事な連作、全く見事なロマンチシズム
  女性の恋愛心理に対する理解の深さは文学精神でもある』 (犬養孝)

と最大限の評価がなされております。
然しながら、万葉最古の歌にしては、あまりにも流暢な調べのため、
「作者は本当に磐姫なのか?」との疑問が呈されており、伊藤博氏は

『 心情の流れを漢詩絶句の起承転結に託する高度な技法がその頃に存在したはずがない。
ここには誰か埋もれた作者が必ずいる。
その人が新旧さまざまな歌を組み合わせて磐姫皇后が夫、仁徳天皇を偲ぶ歌として
仮託したもの。
そしてその演出者は柿本人麻呂ではなかろうか?
何故ならば、短歌四首を起承転結構えに仕立てることを試み、また、
自然現象の「霧」を人間の悲しみや、はかなさを言う為の素材として用いたのは
人麻呂が最初の人だからである 。
元々民謡のように歌われていたものが歌物語風に編集されたのではなかろうか 』
 (万葉集釈註より要約) と推定されています。

ところが、もう一つ大きな疑問があります。
古事記、日本書紀によると磐姫は異常なくらい嫉妬深い女性だったようです。

曰く『 他の妻妃たちが天皇に対して普段と違った物言いをすると「足もあかがに」
(地団太ふんで) 妬んだ。
曰く『 吉備国から召された黒姫は磐姫の嫉妬に耐えかねて実家に逃げ帰った』
そしてさらに決定的な事件は
『 宮中で大宴会を催すことになり、皇后はそれに必要な柏の葉を採りに遥々(はるばる)
紀州にまで出かけた。
その留守中、天皇はかねてから執心の異母妹八田皇女(やたのひめみこ)を
こっそり宮中に入れた。
その事実を知った皇后は柏の葉を全部海に捨て、そのまま天皇のもとに帰らず
山城の帰化人のところに身を寄せ、再三迎えに来た天皇に逢うことも拒絶し、
そのまま夫を許すことなく五年後にその地で生涯を終えた 』

と記されているのです。

歌では貞淑、献身的で情熱的ではあるがつつましく、しおらしい磐姫
記紀ではねたみ深く、独占的で、威圧的な女性。
一体これはどうしたことでしょうか?

「愛情」と「嫉妬」とは表裏一体。
愛情深ければ嫉妬もまた強いことも一面の真理です。
万葉人は磐姫を生き生きとした人間らしい理想の女性と憧れたのでしょうか。
伊藤博氏は
『 磐姫の嫉妬は、彼女が臣下、葛城氏の出身で皇族の八田皇女と比べて
格が低い点に一つの由来があろう。
有史以来はじめて人臣の出身で皇后になるという経験をもつ磐姫にとっての
保身の術は、嫉妬しかなかったかもしれない。
しかしながら、それは天皇への深い愛情に根づいているだけに、
どんなに強烈であっても最も安心できる戦術であったのではないか。」と
磐姫の心情に深い理解を示しておられます。

然しながら更にもう一つ大きな謎があります。
それは冒頭の磐姫の歌とほぼ同じ歌が記紀歌謡に別の作者のものとして記されて
いるのです。
以下は二首の比較です。

「 君が行(ゆ) 日(け)長くなりぬ 山尋ね
    迎へか行かむ 待ちにか待たむ 」  
          万葉集巻2-85 磐姫皇后(いはのひめ おほきさき)

「君がゆき け長くなりぬ 山たづの
   迎へを行かむ 待つには待たじ 」   軽大郎女 記紀歌謡


充慕天皇の皇女である軽大郎女の歌は、厳禁されている同母兄、木梨軽皇子との結婚に
走り、二人して心中に追いやられた悲恋物語とされているものですが、
磐姫歌とたった五文字入れ替わっているだけです。
なぜこの様な盗作まがいのことがおきたのでしょうか?

実は、磐姫の歌には「山上憶良が類聚歌林に載す」との註があり、憶良は軽大郎女の歌を
意識的に磐姫作に置き換えたのではないか?と憶測されているのです。

直木孝次郎氏はその著「夜の船出」で
『 憶良は聖武天皇の東宮時代、学問の相手をつとめていた。
彼は軽大郎女作とされている歌を磐姫の作とすることにより、藤原氏が皇族でない
光明子(不比等の娘)を聖武天皇の皇后にする手助けをしたのではないか。
その為に記紀の嫉妬深い猛妻の磐姫像から貞淑でつましい理想の女性への転換を
はかった。
そして、藤原氏は万葉集巻二の巻頭に置くよう編集させたのではなかろうか 』
と述べておられます。

民謡で歌われていたものに最後の一首を加えて歌物語に仕立てたあげた柿本人麻呂。
それをさらに政治的な意図をもって他人の作を磐姫作に置き換えた山上憶良。
果たしてこの憶測が真実であるかどうかは今となっては知る術がありません。

しかしながら、その経緯がどのようなものであっても、この四首の歌の価値はいささかも
損なわれることなく、古代の理想の女性― じっと耐えながら待ち続ける芯の強い大和撫子が
「ただ私一人だけを愛して」と切なく詠った恋歌として多くの人たちに愛誦され続け、
今もなお燦然と光を放っているように思われるのです。

「 人恋ふは 悲しきものと
    もとおり来つつ  たえ難かりき 
  いにしへの  夫(つま)に恋いつつ
    平城山の路(みち)に 涙おとしぬ 」
                       ( 北見志保子作詞 平城山 )


( 作者は磐姫の歌をもとにして自身の恋を重ねたものとされている )
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by uqrx74fd | 2011-05-22 10:26 | 心象

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