2012年 08月 18日
万葉集遊楽その三百八十五〈明日香:剣池〉
( 剣池,孝元天皇御陵 後方多武峰:その手前 甘橿の丘)
( 蓮の露 明日香にて )
( 古代蓮 明日香藤原宮跡にて )
( 和田池 建物の後方甘橿の丘)
( 明日香にて )
( 古代蓮 明日香藤原宮跡)
( 明日香にて )
近鉄橿原神宮駅東口から甘橿の丘方面に向かって歩くこと10分足らず。
この辺りは昔「軽(かる)」とよばれ、応神天皇(270~310年)の宮、軽島豊明宮
(かるしま とよあきらみや:橿原市大軽町) があり、蘇我氏の本拠地であったとも
伝えられています。
蘇我氏は大陸からの渡来人を積極的に受け入れて文物や高度な技術を導入し
農地の生産性を飛躍的に増大させ、政治の実権を握っていったようです。
さらに、市なども立ちさぞ賑やかな街であったことでしょう。
日本書記によると、「応神記11年に剣池、軽池、鹿垣(かのかき)池、厩坂(うまやさかの)池が作られた」
とあり、これらの池も最新技術を駆使して灌漑用に掘られたものと思われ、
中でも剣の池は、川底に剣が埋まっていると信じられていたのでその名が
ありますが、万葉集に名をとどめている池の中で唯一現存している千数百年前の
貴重な遺跡です。
池に影を映している孝元天皇の御陵の壕としての役割もあったゆえ長く残されたのでしょうか。
635年さらに644年の2度にわたって1つの茎に2つの蓮の花が現れるという
瑞兆があり(日本書紀)、当時は蓮の花が咲く華やかな池であったようです。
「 み佩(は)かしを 剣(つるぎ)の池の 蓮葉(はちすば)に 溜まれる水の
ゆくへなみ 我がする時に 逢ふべしと 逢ひたる君を
な寐寝(いね)そと 母聞こせども 我(あ)が心 清隅(きよすみ)の池の
池の底 我は忘れじ 直(ただ)に逢ふまでに 」
巻13-3289 作者未詳
「 いにしへの 神の時より 逢ひけらし
今の心は 常忘らえず 」 巻13-3290 作者未詳
(訳文:13-3289)
( 剣の池の蓮の葉にたまっている玉水が、どちらに動くか分からない様に
私もどうしてよいのか途方に暮れていたときに、逢うべき定めなのだと、
占いのお告げによってお逢いしたあなた。
それなのに、おっかさんは、あの人に身を任せて一緒に寝てはいけないと言うのです。
私の心は清隅の池のように澄んでおり一点の迷いもなく、また、池の底が深いように、
あなたのことを深く深く、お慕いしておりますのに。
もう一度じかにお逢いできるまで、貴方のことを決して忘れは致しません。)
(訳文:13-3290)
( はるか古の神の御代から二人は逢っていたのでしょうか。
私は今の今も貴方のことが気にかかり、片時も忘れることができないのです。)
一途に男を慕う乙女は何らかの理由で母親から交際を止められていたようです。
離れて行く男に対して燃え盛るような想いを募らせている心情に諦めの気持ちが籠ります。
ここ「軽」を舞台にしてで詠われたものは紀皇女(きのひめみこ)の孤独な恋(3-390)、
柿本人麻呂の亡き妻を偲んで慟哭しながら市をさまよう歌(2-207)など悲しみとロマンに
満ちた秀歌が残されており、恋に生きる雅やかな人々の生活が偲ばれます。
「 ふるさとの 野寺の池は田となりて
そのひとかたに 蓮咲きにけり」 落合直文
まことに奇妙なことですがこの池の底に「剣の池」「石川池」という標柱があり、
二つの池が併存しているのです。
というのは明治時代、地元の水利組合が灌漑用水を確保するため飛鳥川の水を引いて
剣の池を拡張したので、古来の池と新たに広げた池との間に境界を設けて
区分したそうですが満杯の時は全く分からないので、この池の名も「剣の池」と云ったり
「石川池」と云われたり、ややこしい。
冬になると水をすべて落として空池にするので標識が現れますが、恐らく誰も境界には
気が付かないことでしょう。
「 田植機の 泥ぽたぽたと 飛鳥みち」 横井博行
美しい蓮の花は何時の頃から消え失せてしまったのでしょうか。
周りも民家で埋め尽くされ、昔を偲ぶ縁(よすが)は池淵に立つ石碑のみです。
昭和25年5月に当地を訪れた亀井勝一郎氏は次のように書いておられます。
『さざ波ひとつない鏡のような水面を、時々かいつぶりが一條のすじをひいて走って行く。
あとは物音ひとつ聞こえない静けさだ。
かすかな春風に吹かれながら立っていると、歴史の匂ひがしてくるやうだ。
日本書紀や万葉の思い出が風景に匂ひをもたらすのかもしれない。』
( 飛鳥路:人文書院より)
「 母の顔 道辺の蓮の花に見き 」 山口青邨
by uqrx74fd | 2012-08-18 20:47 | 万葉の旅