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万葉集その三百八十七(吉野紀行1.:吉野山奥千本へ)

( 宮滝付近 )
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( 如意輪寺 )
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( 金峰神社 )
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( 義経隠れ塔 )
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( 奥千本への道 )
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( 同上 )
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( 西行庵 )
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( 苔清水 )
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私たちの奈良万葉旅行は新緑の吉野で最終日。
近鉄奈良駅から特急を乗り継ぎ9:30に吉野駅に到着、予て案内をお願いしてた
近鉄タクシー運転手、Tさんが約束通り出迎えてくれました。
地元出身の彼は会社唯一の吉野検定合格者です。

早速、九十九折の山道をゆっくりと如意輪寺へ。
鬱蒼と茂る杉木立の中、瑞々しい若葉がキラキラと光っています。

万葉集で「吉野」を詠ったものは70余首の多きに達しますが、
桜を詠ったものは1首もなく、山川の自然の美しさを賛美し朝廷の繁栄を
予祝したものがほとんどです。
当時、吉野川のほとりの宮滝で離宮が営まれ、天皇の行幸が頻繁に
行われていたことにもよるのでしょう。
記録に残るだけでも42回。
中でも持統女帝に至っては32回(妃時代も含めると34回)も訪れています。

何故これほど足しげく吉野を訪れたのか?

国を司る立場から五穀豊穣を祈り、水の神に潤沢な雨を祈願する雨乞い説、
付近に水銀や金銀を産する鉱山がありその発掘作業の督励、
あるいは天武天皇と共に壬申の乱の際に過ごした思い出の地の追慕の情など、
様々な思いが入り混じり吉野へ向かわせたのではないかと推察されていますが、
確たる定説はありません。

ともあれ多くの官人を従えた天皇は吉野の美しい山や清々しい川を
神仙境とみなして詠い、賑やかな酒宴を催したことでしょう。

「 - -吉野の宮は 山高み 雲ぞたなびく
   川早み 瀬の音ぞ清き 
   神さびて 見れば貴(たふと)く
   よろしなへ 見ればさやけし ――」   巻6-1005(長歌の一部) 山部赤人


(- - 吉野の宮は 山が高くて雲がたなびいている
 川の流れが早くて 瀬の音が清らかである
 山の姿は神々しく 川の姿も宮処にふさわしく
 見れば見るほど清々しい- -  )

736年 聖武天皇行幸の時に詠われたものです。
「よろしなへ」の「よろし」は条件が備わっていて快いという気持ちを
表し、ここでは「ふさわしいの」意。

「 花朧 杉も朧や 如意輪寺 」   堀 吉蝶

高い杉木立に囲まれ如意輪寺に到着です。
中千本の桜の山々を見はるかす山の中腹にある静かな佇まいのお寺で、
延喜年間(901~923年)に建立された後醍醐天皇の勅願寺とされています。

南北朝時代、楠木正成の長男、正行が足利尊氏との戦いの前に

「 かえらじと かねて思へば梓弓
    なき数に入る 名をぞとどむる 」


との辞世の句を本堂の扉に残して出陣し、華々しく散ったと伝えられている
夢の跡でもあります。

再び車に乗り込み、吉野山奥千本の入口あたりに立つ金峰神社(きんぷじんじゃ)へ。
吉野山の地主神、金山昆古命(かなやまひこのみこと)を祀る古い社です。

金鉱を守護し、黄金を司る神としても崇められ、このあたり一連の山並みは古くから
「金御岳」「御かねの岳」「こがねの峰」とよばれていました。
背後はこの地方の最高峰標高858mの青根ヶ峰の西北山腹に道が通じており、
初期吉野修験の発生地ともされています。

「 み吉野の 御金が岳(みかねがたけ)に 
  間なくぞ 雨は降るといふ  時じくぞ 雪は降るといふ 
  その雨の 間なきがごと  その雪の 時じきがごと
  間もおちず 我(あ)れはぞ 恋ふる  妹が直香(ただか)に 」  巻13-3293 作者未詳

「 み雪降る 吉野の岳に 居る雲の
    外(よそ)に見し子に 恋ひわたるかも 」 巻13-3294 作者未詳


( み吉野の み金が岳に 
絶え間なく雨は降るという  休みなく 雪は降るという
その雨の絶え間がないように その雪の休みがないように
間もおかずに私は 恋い焦がれている いとしいあの子に ) 13-3293

( み雪降りしきる吉野の岳 その岳にかかっている雲を見るように
 よそながら見たあの子を 私はひたすら焦がれ続けている ) 13-3294

時じ:定まった時がない
妹が直香に :直接に感じ取ることが出来る雰囲気、その人固有の香り
       女性の美しさや魅力をいう「香」から生まれた言葉か。

この社の創建の経緯は不明ですが、栄花物語に藤原道長が詣でたことが記され、
その際に奉納した経筒が国宝に指定されています。(京都博物館に寄託)

脇の小径を下ったところに義経が頼朝の追っ手に追われ隠れ潜んでいたという
簡素な檜皮葺の塔があり、このあたりから大峰山への奥駈道が始まります。

以下は「前登志夫著 吉野紀行 」からです。

『 金峰神社から山道を奥に入ると、急に山気が濃くなるのを感じる
 すぐ急坂に突き当り、道が2つに分かれている。
 「左大峰」という石標が立っているが、そこから山上参りの山伏道が左手に折れている。

  右の方をほぼ真っ直ぐに、山の中腹のゆるやかな小径を行くのが
  西行庵への道である。- 
  杉、檜の小径を数分歩くと、左へ下りるかなり険しい岨道(そばみち)がある。
 「西行庵」の道しるべがある。
  一歩一歩、岩角を踏みしめるようにして、苔清水の上手(かみて)を通り、
 西行庵のある山ふところの平地に辿りつく。
 道しるべから200mほどの距離だが、岨道に馴れない人には骨が折れる。

 背後に雑木林の急な斜面が迫っているが、前方と横手は杉山、檜山の谷間がひらけている。
 谷間をへだてて前方に広がる杉、檜の山の斜面に、陽ざしがさまざまに照り翳(かけ)る。- -。

 下りてきた岨道(そまみち)の下を、横手に二百歩足らず戻ると、名高い苔清水。
 むろん今もとくとくと真清水は湧き出ている。』     (角川選書より)

西行を敬慕する芭蕉は2度この庵を訪れ、故人を偲んで一句献じました。

「 露とくとく 心みに浮世 すすがばや 」 芭蕉

( 庵跡の苔清水は、西行が詠った通り今もトクトクと滴り落ちている。
 試みに私も俗世の塵をすすいでみましょうかね。)

この句は西行の次の歌を本歌取りしたものです。

「 とくとくと 落つる岩間の苔清水
    汲みほすほどもなき住居(すまひ)かな 」 西行


( 我が庵のそばの岩間からとことくと清水が湧き出ているのだが、
 一人住いのわが身のこと、水汲みするほどのこともなかろうよ )

今に残る西行庵跡とされている建物は何度も朽ち果て、その都度地元の人が
立て直したものだそうです。
それにしても、熊が出そうなこの山奥で小屋のような住処。
よく3年間も過ごせたものです。
如何に桜に魅入られたとはいえ、冬は雪に囲まれ凍えるような寒さだったことでしょう。

「 西行庵 これが栖(すみか)か 苔清水 」氏家頼一

by uqrx74fd | 2012-09-01 20:51 | 万葉の旅

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