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万葉集その三百九十九(聖林寺から多武峰へ)

( 桜井から聖林寺への道の途中で )
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( 聖林寺山門 )
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( 国宝 十一面観音立像 奈良県カレンダーより)
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( 聖林寺下から多武峰を臨む)
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( 多武峰 明日香石舞台への道  画面をクリックすると拡大できます)
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近鉄桜井駅から談山神社へ向かって歩くこと約2,7㎞。
賑やかな町を通り抜け、緩やかな坂道を上ってゆくと、やがて山里に囲まれた
小さなお寺、真言宗聖林寺が静かな佇まいを見せてくれます。

天平仏の傑作「十一面観音立像」(国宝) がおわします御寺で、白洲正子に
「この世にこんな美しいものがあるのかと 私はただ茫然とみとれていた」と言わしめ
(十一面観音巡礼:新潮社) 、和辻哲郎も
「そこには神々しい威厳と人間のものならぬ美しさを感ずる」 (古寺巡礼:岩波文庫)と
絶賛され、ミロのヴィ-ナスにも比肩される御仏です。

もと大神神社 (おおみわじんじゃ:桜井市三輪) に付属する大御輪寺(だいごりんじ)の
本尊であったものが明治の廃仏毀釈の時、フエノロサ、岡倉天心が、先代の住職と
相談の上、聖林寺に移されたそうですが、このような立派な仏像が危うく失われる
恐れがあったとは何とも信じがたいことです。

「 芋植ゑし 十坪ばかりや 聖林寺 」 荏原京子

高台から見下ろす眺望も素晴らしい。
大和平野が緑の絨毯のように広がり、はるかかなたに生駒山が臨まれます。

美しい御仏と景色を思う存分堪能している折から、観光バスで修学旅行の高校生が
大挙して押し寄せてきました。
静寂そのものだった境内はたちまち賑やかなな話し声。
早々に退散し、バスで多武峰へ向かいます。
道沿いの川に沿ってゆっくりと坂道を上ること約20分。

「 多武峰は まず朱塔より 霧の晴 」 上田裕計

多武峰は御破裂山(ごはれつざん618m) の中ほど南斜面一帯の地を言い、
山腹に藤原鎌足を祀る談山神社があり、紅葉の名所としても知られています。
御破裂山という奇妙な名前は天災地変がありそうな時、山が轟音を響き渡らせて
激しく揺れ動き、神社に祀られている鎌足の木像が破裂したという言い伝えに
よるものだそうです。

多武峰が初めて文献に出るのは「日本書紀」の斉明天皇2年(656)で、
「田身嶺(多武峰)の頂上に、周りを取り巻く垣を築き、二本の槻(つき)の木のほとりに
観(たかどの=高殿)を立てて、名づけて両槻宮(ふたつきのみや)、また天つ宮とも言った」とあります。
槻(つき)は神木とされ、山上に建てられた楼閣形式の離宮「観」(たかどの)は
道教の寺院ですが、どのような目的で建てられたか定かではありません。
「取り巻く垣」という記述から「山城」であったとも。

「 ふさ手折り 多武(たむ)の山霧 繁みかも
    細川の瀬に 波の騒(さわ)ける 」 
            巻9-1704 柿本人麻呂歌集


( 多武の山の霧が深くなったようだ。
 ここ細川の瀬に波が激しく立ち騒いでいるよ )

弓削皇子(天武天皇の子)宅の宴席で詠まれたものと推定され、
細川は現在の冬野川、山裾で飛鳥川と合流しています。

「ふさ手折り」は、幾重にも折り重なった山が湾曲して枝が撓んだように
見える様をいいますが、ここでは「多武の山」の枕詞です。

急な傾斜を一気に流れてくる細川の幅は狭く、流れも速い。
あたりを響かせる轟音。
聴覚から立ちこめる山霧を目に浮かべ、多武峰の秋の深まりを感じた一首です。

「 ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手を
     高屋(たかや)の上に たなびくまでに 」 
                 巻9-1706 舎人皇子(弓削皇子)


( 夜の霧が一面に立ちこめている。
 衣の袖をたくし上げるというではないが、屋敷の高殿の上まですっぽりと
 覆い尽くしてたなびくほどに )

前歌と同様宴席での歌で作者の邸宅は多武峰の細川べりにあったようです。
当時、人の嘆きは霧となって現れると信じられていました。
伊藤博氏は
『 夜はとりわけ共寝に焦がれる時。
衣は共寝を連想させる工夫に違いない。
その嘆きの霧が高殿全体を包みこむほどに立ちこめている。』(万葉集釋注)とされ、

霧が立ちこめる秋の深まりと女性と共寝できない嘆きを結びつけた
余興の歌のようです。

  「 山霧は 民の嘆きか 多武峰 」 筆者

多武峰の裏側から飛鳥、石舞台に通じる山道があります。
約6㎞位でしょうか、かっては藤原鎌足が南淵請安のもとに通った道です。
冬野川が流れ、ところどころに咲いている野草が美しい。
ゆっくり歩くこと1時間半、石舞台に到着すると、芒と盛りを過ぎた萩が
迎えてくれました。

   「穴惑ひ 日のぬくもりの 石舞台 」   三代川 次郎 

「穴惑い」:秋の季語 蛇は秋の彼岸に穴に入り、長い冬眠を始めるといわれるが
          彼岸を過ぎても穴に入らない蛇を穴まどいという
ご参考 :
 
司馬遼太郎著 「街道をゆく:奈良近江散歩 朝日文庫より(要約)」


『 ― 多武峰は観か神社か、寺か。 
というあいまいさは千数百年つづく。
多武峰の祭神が、「談峰権現(だんぶごんげん)」という名になるのは、
ようやく平安期になってからで、926年である。
権現とは「仏が権(かり:仮)」に日本の神として現れるという意味で、
十世紀の日本に成立した神仏習合のいわば結晶というべき思想だった。

このため多武峰は天台宗(叡山)の末として、仏僧によって護持された。
多武峰の僧のことをとくに「社僧」とよぶことが多い。
ただしいまは存在しない。
明治の太政官政権の勇み足の最大のものは廃仏毀釈であった。
慶応4年(1868) 旧暦3月17日、全国の社僧に対し、復飾(還俗にもどること)を
命じた。
多武峰の社僧も明治2年還俗させられ、「神仏判然令」によって仏教色を除かれ
談山神社(だんさんじんじゃ)という殺風景な名になった。

俗人になった僧たちは、半ば官命によって妻帯させられ、苗字を称し、
その寺院を屋敷にして住んだ。
そのうち代表的な「家」の一つだった六条氏などは三等郵便局を営んだ。
( その六条氏の孫、篤氏が画家でありながら三等郵便局長を守らなければ
 ならなかった。)

太政官政権がやったあざやかのことの1つは、あっというまに全国組織の
郵便(逓信)制度をつくったことである。
旧幕時代の庄屋や在郷の名家の当主に准官吏の礼遇をあたえ、屋敷にいたまま
業務をさせるというただそれだけのこと、一夜にして全国の通信網ができた。』

                                      以上

by uqrx74fd | 2012-11-24 11:12 | 万葉の旅

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