2013年 03月 02日
万葉集その四百十三(哭沢の杜)
( 同 本殿 )
( 本居宣長古事記伝石碑 )
( 万葉歌碑 )
( 天の香久山 藤原宮跡から )
( 耳成山の麓 )
( 畝傍山 )
[ フランソワーザビエ&クロード・ラランヌ(夫妻:フランス)作 「嘆きの天使」
箱根彫刻の森美術館
「泉の中に横たえる嘆きの天使は涙が途絶えることはありません」という説明文がある。]
古事記によると
『 日本の国々と神々を産んだ女神「イザナミノミコト」が火の神を
産んで亡くなったとき、夫の「イザナキノミコト」が妻の死を悲しんで
大声で哭きながらポロポロと涙を流したところ、その涙から
哭沢女神(ナキサワメノミコト)が生まれ、天の香具山の麓、
畝尾(うねお)の木の本(もと) というところに鎮座ましました 』とあります。
ロマンティックな話に惹かれて早速探訪の旅に。
近鉄大阪線耳成駅で下車し、香久山の北西の麓の小さな森を目指します。
藤原京跡の方向に向かう広い道の両脇はどこまでも田畑が続く田園地帯で、
温かい日差しの中、少し冷たい風が心地よく吹き過ぎてゆきます。
野焼きの煙も流れてきました。
良いお天気なので農家の人たちも楽しげに立ち動いているように見うけられます。
歩くこと約1.5㎞。
「そろそろと着くはずだが」と畑で仕事をしている人たちに
「 哭沢神社(なきざわじんじゃ) はどちらですか」と聞いても誰も知りません。
うっかりしていましたが、「 畝尾都多本神社( うねお つたもとじんじゃ) 」
というのが正式な名前でした。 (どういうわけかローマ字表示は「うねび」)
案内表示に従って左に曲がると、こじんまりとした森の入口に本居宣長が古事記伝で
社の由来を説明した石碑と万葉歌碑が立ち、さらに奥に進むと いかにも田舎の
お宮さんといった感じの小さな本殿があります。
昔、この場所にこんこんと音を立てて流れる泉があったらしく、御神体は井戸、
水の神様だそうです。
湧き出る清水を涙に見立てて、哭沢と名付けられたのでしょうか。
なお、今は失われていますが、この近くに埴安(はにやす)とよばれた大きな池があり、
哭沢女神は池の神様であったという説もあります。
「 哭沢(なきさわ)の 神社(もり)に 御瓶(みわ) 据(す)ゑ 祈れども
我が大君は 高日(たかひ) 知らしぬ 」
巻2-202 檜隈女王(ひのくまのおほきみ)
( 哭沢の社に神酒の瓶(かめ)を 据え参らせて ご無事をお祈りしましたが
その甲斐もなく わが大君は 空高く昇ってしまわれました。
こんなに心をこめてお願い致しましたのに )
作者は亡き高市皇子の娘か妻と推定され、酒甕までお供えして長命をお願いしたのに
神様は聞き届けてくれませんでしたと嘆き悲しんでいます。
高市皇子は天武天皇の長子。
母親の身分が低かったため皇位継承順位は10人中8位でした。
壬申の乱の折は全軍を統率して獅子奮迅の働きをして功を挙げましたが
それを誇ることもなく、身の程を弁えた控えめ、かつ温厚篤実な人柄であったため、
天武、持統天皇の信頼厚く、太政大臣に上りつめた人物です。
惜しむらくは696年、43歳の若さでその生涯を閉じてしまいました。
この歌は柿本人麻呂の長い挽歌の後に「或る書の反歌」として掲載されており、
編集者が遺族の切なる悲しみを汲んで後に追加したものと思われます。
犬養孝氏は
「 死を悲しむ涙が哭沢女神というのは、古代の葬送の時の泣女(なきめ)を思わせる」と
述べておられますが、(万葉の里 和泉書院)
「泣き女」または「泣き屋」というのは中國や朝鮮半島、台湾、ヨーロッパにも
存在した伝統的な職業で、葬儀の時に遺族の代わりに悲しみを大々的に表現することを
もって生業とし、わが国でも古代からそのような習慣があったのかもしれません。
謝礼の額によって泣き方を変えたといわれるのも面白く、
米を謝礼とするときは「五合泣き」「一升泣き」などといっていたそうです。
「 死に近き 母が額(ひたひ)を 撫(さすり)つつ
涙ながれて 居たりけるかな 」 斎藤茂吉
参拝を終えて香具山の方に向かうと、すぐ近くに奈良文化財研究所があります。
めったにない機会なので中に入りゆっくり見学させて戴いたのち、
大和三山を前後左右に眺めながら藤原宮跡を横切り、近鉄畝傍御陵前駅で
約7㎞の散策を終えました。
耳成山を起点とし香久山、畝傍山と三角形に歩いたことになります。
「 老の目に 淚うかべて のたまひし
母の御詞(みことば) 今ぞこひしき 」 佐々木信綱
以上
by uqrx74fd | 2013-03-02 18:08 | 万葉の旅