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万葉集その六百 (藤原京)

( 藤原京復元CG 奈良産業大学、橿原市   以下の資料すべて撮影許可を戴いています)
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( 藤原京と平城京の規模比較  奈良文化財研究所)
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( 天の香久山  大極殿跡から )
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( 畝傍山 )
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( 耳成山 )
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( 藤原京造営のための道づくり  山を切り拓く  奈良文化財研究所 画面をクリックすると拡大)
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( 資材運搬  同上 )
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( 瓦工場   同上 )
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( 屋根工事  同上 )
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( 大工  同上 )
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( 貴族邸の復元模型   同上 )
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(  台所  同上 )
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( 租税として集められた物品  同上 )
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( 藤原宮復元模型   奈良万葉文化館 )
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694年持統天皇は都を飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)から藤原京に遷しました。
東西、南北共に約5.3㎞四方、少なくとも25万平方㎞に及ぶ我国最初の本格的な
都城で平城京、平安京を凌ぐ堂々たる規模です。

着手は天武天皇時代、676年になされましたが、天皇崩御の為中断し、
持統天皇即位後の690年に再開されたのです。
4年後ようやく遷都したとはいえ建物は一部しか出来上がっておらず、
完成したのは704年。
着工から実に28年も経過していました。

日本書記の記録では藤原宮は見えますが、藤原京の記載はなく
新益京(あらましのみやこ)となっています。
完成するまで飛鳥浄御原宮と併用されたので「新たに増した」の意で
命名されたものと思われ、「藤原京」は明治時代になってから付けられた
学術用語です。

※ この稿では、すべて「藤原宮、藤原京」で統一します。
      「宮」は天皇の居住執務地 (内裏、大極殿、朝堂院、宮司の建物)
      「京」は都 (官人、民の居住地、商業地、公共空間)

新都は東、香具山、西、畝傍山、北は耳成山の大和三山、さらに南の吉野山を
守護神とする山々に囲まれた盆地で清水がこんこんと湧く場所に宮殿が建てられたと
詠われています。(巻1-52 長歌)

朱雀大路を中心に碁盤目のように整然と区画された道路。
宮は1㎞四方、周囲に瓦葺の大垣がめぐらされ、大極殿(天皇の政務、重要な儀式場)、
朝堂院(官人の執務場所)はすべて瓦が葺かれました。
更に、官立の寺院として大官大寺(後の大安寺)、薬師寺が建てられ、
持統、文武、元明天皇3代にわたる古代最大の都として機能することになります。

使用された太柱、数万本、瓦10万枚以上、巨大な花崗岩礎石2千個以上。
運搬のための道路、運河、瓦工場、数万人の労働者の宿泊場所、食堂。
都つくりのためには膨大な労力、資材、技術、金銭を必要とし、
過酷な労働、租税は想像を絶するものであったことでしょう。

万葉集では造営のための木材運搬の様子が語られていますが、
民の苦しみは詠われず、ただ喜び勇んで奉仕するさまが描かれています。

まずは訳文から。(  )は枕詞

「 -(石:いわ走る) 豊かな近江の地の 
 (衣手の) 田上山の立派な檜丸太
 その丸太を (もののふの八十の)宇治川に 
 (玉藻のように) 軽々と浮かべ流しているものだから 
 それを引き取ろうと せわしく働く大君の御民も 
 家のことを忘れ、わが身のことも すつかり忘れて 
 鴨のように軽々と水に浮きながら
 われらが造る大君の宮廷(みかど)- 」  巻1-50 (一部)

訓み下し文

「 石(いは)走る 近江の国の
  衣手の 田上山(たなかみやま)の
  真木さく 檜(ひ)の つまでを
  もののふの 八十(やそ)宇治川に
  玉藻なす 浮かべ流せれ
  そを取ると 騒く御民(みたみ)も 
  家忘れ 身もたな知らず
  鴨じもの 水に浮き居て 
  我が作る 日の御門(みかど)-  」 巻1-50 (一部)

   
一行づつ訓み解いてまいります。

「 石(いは)走る 近江の国の」

   石(いは)走る:「近江」の枕詞  石走る溢水(あふみ)の意
          「走る」は水平の移動にも、上下の跳躍にもいう

          「水が溢れるほど豊かな近江の国の」

「 衣手の 田上山(たなかみやま)の」

       「衣手の」: 田上山の枕詞 衣手(袖)の手(た)の意
       「田上山」は 大津市南部 檜の名産地

「真木さく 檜(ひ)のつまでを」

      「真木さく」: 檜の枕詞 「さく」栄くの意で
              檜の中でも特にすぐれた
      「つまで」:  角材(つま)の料(て) 丸太の意

「もののふの八十(やそ) 宇治川に」 

      「もののふの八十」: 「宇治をおこす序」
                 「もののふ」は宮廷に仕える文武百官、
                 氏が多いので「宇治に」かかる

「玉藻なす 浮かべ流せれ」

      「玉藻なす」: 軽々とした藻のように 「玉」は美称
      「浮かべ流せれ 」: 丸太を浮かべて流せば

「そを取ると 騒く御民(みたみ)も 」

      「 広大な貯木池(巨椋池:おおくらいけ)で待ち受けて
        宇治川を下ってきた丸太を木津川の方に導く作業を
        大忙しで騒ぎ働く民たちは 」の意 
       「そを」: 丸太

「家忘れ 身もたな知らず」

        故郷に残してきた家人も、自分自身のことも忘れて
        「たな」は「すっかり」



「 鴨じもの 水に浮き居て 」

        「鴨もじの」:まるで鴨のように 

「我が作る 日の御門(みかど)-」

     我らが造る大君の宮殿 -

枕詞を多用して祝詞のようになっており、持統天皇、宮造営状況視察の折の歌
と思われます。
題詞に「藤原の宮の役民の作る歌」とありますが、実際には
官人が民になり代わって天皇の威光を賛美したもののようです。

檜の良材を滋賀県の田上山に求め、瀬田川、宇治川に流して貯木場である
巨椋池に集めて筏を組んで木津川に流し、陸揚げしてから荷車で佐保川まで運ぶ。
その後、再び川に流し、初瀬川を経て飛鳥まで運んだ。

役民たちがまるで鴨のように軽々と水に浮き、重い丸太を玉藻のように
扱っている、それは神ながらのお上の御威光であると賛美していますが、
この頃の役民には報酬がなく、労力で税を賄う人頭税です。
(大宝時代になると僅かな賃金が支払われた)

歌とは裏腹に、過酷な労働に耐えきれず逃亡し、餓死した人達も
少なからずいたようです。

こうした国を挙げての大事業がなされ、都が完成するとともに
飛鳥浄御原令に続く大宝律令(701)による法整備、官僚組織の構築、冠位位階制度、
戸籍編纂による税収の確保、国号(日本)、天皇号、元号の制定、史記の編纂
(後の古事記、日本書記となる)、耕作すべき田を分かち与える班田収授法、
和同開珎発行による貨幣制度、遣唐使の再開。
など次々と画期的な政を推し進め、天皇中心の集権国家を築きあげました。

官僚制度の名称である宮内庁、主計局は今もその名を残し、大蔵省も
近年にいたるまで使われ続けられました。
大宝律令はその後、養老律令に修正され、形式的には国法として
江戸時代末期まで存続したのです。

「このくにの かたち」を創り上げた天武、持統天皇。
国家の100年の大計のために、あらゆる犠牲も厭わない決断力と、実行力。
そしてゆるぎない信念。
政治家とは何ぞやと再認識させられる藤原京造営です。

持統、文武、元明三代16年続いた都は710年に平城京に遷ります。
短命に終わったのは、国際社会との接触により不便となった地理的要因、
組織が肥大化し手狭になった、下水道の処理に失敗したともいわれ、
焼失説もあります。(発掘の結果、焼失の跡は認められていない)

都が奈良へ移る際に、建物は解体されて再利用、跡地は完全に埋め立てられ
田畑に転用されました。
藤原京の概要が明るみになったのは、今から僅か80年前、昭和9年(1934)に
日本古文化研究所による発掘が開始されてからで、当時は文献もほとんどなく、
藤原宮の所在地すら不明でした。

現在の地(橿原市高殿町)であると言明したのは江戸時代の賀茂真淵。
その後多くの議論を経て、発掘が進むにつれてようやく実態が解明されつつあり、
現在も発掘が続けられています。

我国のかたちをつくった原点、藤原京への認識が薄いのも、地中に埋もれていた
都であり公式の記録もほとんどなく、発掘の検証結果を待つしかなかったためです。
そうした中で万葉集が大きな力を発揮し、単なる歌集ではなく、
古代の歴史、文化を解明する重要な資料であり記録であることを
物語っています。
発掘された大極殿の土壇から、東を臨むと、天の香具山が眼前に迫り、

「 春過ぎて 夏きたるらし 白栲(しろたへ)の
     衣干したり 天の香具山 」   
                     巻 1-28(既出) 持統天皇


と声高らかに詠われた女帝の姿が目に浮かぶようです

     「 揚げひばり 藤原宮址 真つ平ら 」  福永京子


              万葉集600(藤原京) 完


             次回の更新は10月7日の予定です。

by uqrx74fd | 2016-09-29 20:52 | 生活

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