2017年 04月 13日
万葉集その六百二十八 (あだ桜)
( 三春滝桜 福島県 )
( 上田城 長野県 )
( 又兵衛桜 奈良県 )
( 千鳥ヶ淵 東京 )
( 六義園枝垂れ桜 東京 )
( 醍醐寺 京都 )
( 玄賓庵 山辺の道 奈良 )
( 高千穂神社 佐倉市 )
( 新宿御苑 東京 )
( 同上 )
万葉集その六百二十八 (あだ桜)
「 明日ありと 思ふ心の あだ桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは 」 親鸞聖人絵詞伝
親鸞聖人9歳の時に詠んだと伝えられる一首。(ほんとかしら?)
得度(僧侶になること)するために青蓮院の慈円和尚を訪れたが、生憎夜中。
慈円は「今日は遅いから明日に」と云った時に答えた歌とされています。
「この世は無常であり、今を盛りと咲く桜が夜中の嵐で
散ってしまうかもしれません。
私の命も同じように何時果てるかもわからない。
どうか、今ここで得度の儀式を執り行って下さい」 と
お願いして了解を得たそうな。
この歌を人生で最初に覚えたとされる向田邦子さんは
「あだ桜」という随筆で
「 人生の折り返し地点をはるかに過ぎ、残された明日は日一日と
少なくなっているのに、まだ明日をたのむ気持ちは直っていない。
さしあたって一番大切な、しなくてはならないことを先に延ばし、
しなくてもいいこと、してはならないことをしたくなる性分は
かえって年ごとに強くなってゆくような気がする。」
と述べておられます。( 父の詫び状 所収 文芸春秋社)
「思い立つた日が吉日」という言葉もあり、花見も散らぬうちに
楽しみたいものです。
さて、こちら万葉人は風流な恋歌であだ桜を楽しんでいます。
「 やどにある 桜の花は 今もかも
松風早み 土に散るらむ 」
巻8-1458 厚見 王
( 庭に植えてある桜の花は 今ごろ松風がひどく吹いて
ひらひらと地面に散っていることだろうか。)
作者は官人(少納言) 。
749年奉幣使として伊勢神宮に遣わされたの記録がありますが
詳しいことは未詳。
「やどにある桜」: 女の家の庭の桜を我家のもののように
馴れ馴れしく云っており相手の女性は
我がものという意識が底にある
女の家の落花の美しさを思いやった風流を装いながら、
他の男に心を移しているのではないかと疑っているのです。
それに対して女性は
「 世間(よのなか)も 常にしあらねば やどにある
桜の花の 散れるころかも 」
巻8-1459 久米女郎
( 人の世は 定まりないものです。
我家の庭の桜も、空しく散ってしまいましたよ。 )
あなたこそ、一向に訪れがないものですから、待ちくたびれて
他の男に魅かれてしまいましたと応えたもの。
色よい返事を期待していた男はあっけにとられたことでしょう。
久米女郎の経歴は未詳、万葉集でこの1首のみです。
世間(よのなか): 無常の人の世の意で男女の仲を譬えている
「 あしひきの 山の際(ま)照らす 桜花(さくらばな)
この春雨に 散りゆかむかも 」
巻10-1864 作者未詳
( 山あいを明るく照らして咲いている桜の花。
この春雨に散ってゆくことだろうか。)
作者は前の日に満開に咲く桜を見てきたのでしょうか。
今降る春雨に打たれて散っているだろうかと、惜しんでいます。
万葉人にとっての桜は、明るく生きる生命の象徴、
散る桜は命の再生の肥やし。そして稲の神様の化身。
桜咲く時期になると山の神様がそろそろ田植えだよと教え、
花が多ければ多いほど、散る時期が遅ければ遅いほどその年は
豊年と信じられていたのです。
万葉人の詠んだ散る桜。
そこには親鸞聖人が詠った仏教的無常観は微塵も見られません。
「世間(よのなか)も常にしあれば」と詠っても、彼らにとっては
男と女の間の話。
あだ桜は万葉人にとって恋のあだ花だったのでしょう。
「 桜花 何が不足で 散りいそぐ 」 一茶
万葉集628(あだ桜)完
次回の更新は4月21日(金)の予定です。
by uqrx74fd | 2017-04-13 22:02 | 植物