人気ブログランキング | 話題のタグを見る

万葉集その六百五十 (天平の紫)

( 紫草の花は白くて小さい   奈良万葉植物園)
万葉集その六百五十 (天平の紫)_b0162728_1744121.jpg

( 紫草の根は赤い   同上 )
万葉集その六百五十 (天平の紫)_b0162728_17434672.jpg

( 根を臼で搗いて砕く   西川康行  万葉植物の技と心  求龍堂より )
万葉集その六百五十 (天平の紫)_b0162728_17433254.jpg

(  紫根の染液に浸された絹     吉岡幸雄  NHK放映 )
万葉集その六百五十 (天平の紫)_b0162728_17431447.jpg

(  色々な紫色に染め分けられた絹    同上 )
万葉集その六百五十 (天平の紫)_b0162728_17425651.jpg

( 国宝 紫紙金字金光明最勝王経  和紙を顔料のような紫で染めた上に書かれた金文字
                            奈良国立博物館蔵 )
万葉集その六百五十 (天平の紫)_b0162728_17423912.jpg

( 再現された天平の伎楽の紫衣装   東大寺  吉岡幸雄作 )
万葉集その六百五十 (天平の紫)_b0162728_17421829.jpg

万葉集その六百五十 (天平の紫)

万葉人の憧れの色、「紫」は紫草の根から生まれます。
天平時代の人々が高度な染色技術を駆使して芸術品ともいえる織物を
作り上げていたことは、現存する数々の正倉院宝物に見ることが出来ますが、
驚くなかれ、万葉集にその染色の方法や、材料が詠い込まれているのです。

紫を詠った歌は17首、そのうち13首は作者未詳の庶民。
当時、紫草は上流階級の衣服を染める貴重な染料とされ、全国各地から税として
貢納されており、庶民の歌は、その作業の過程で詠われたのでしょう。

「 紫草(むらさき)は 根をかも終ふる 人の子の
    うら愛(がな)しけを  寝を終へなくに 」 
                           巻14-3500 作者未詳

( 紫草は根が途切れる(終える)ことがあるのかなぁ。
 この俺はあの子が可愛くてならないのに、
 まだ、一緒に寝るのを終えていないんだよ。)

「根を終ふ」「寝を終ふ」の語呂合わせ。
「人の子」は親に厳しく躾けられている子の意。

紫草の根はゴボウのように地中深く伸び、横にも大きく広がります。
作者は紫草の栽培する仕事に携わっていたのでしょう。
深く根をおろし、地中に長く続いていることを理解している歌です。

「 韓人(からひと)の 衣染(そ)むとふ 紫の
    心に染みて 思ほゆるかも 」 
                  巻4-569 麻田連陽春(あさだの むらじ やす)

( かの国の人が衣を染めるという 紫の色が染みつくように
 紫の衣を召されたお姿が、私の心に染みついて、あなたさまのことばかり
 思われてなりません。)

730年、大宰府帥であった大伴旅人は大納言に任ぜられ、都に向けて
旅立ちました。
この歌はそれに先立って催された送別の宴で詠われたもので、
旅人は紫の衣で正装していたものと思われます。

「韓人の衣染む」は優れた染色技術を伝えた渡来人の意。

紫根の染織を始めた当初、恐らく色も薄く、定着も悪かったのでしょう。
この歌は、渡来人が先進技術をもたらしたことを示しています。

「 紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の
    八十(やそ)の衢(ちまた)に逢へる子や誰(た)れ 」
                            巻12-3101 作者未詳

( 紫染めには椿の灰を加えるものです。
  その椿の名がある海石榴市で出会ったお嬢さん。
  あなたの名前はなんとおっしゃるの? )

海石榴市(奈良県桜井市)には椿の木が多く植えられていました。
この歌は椿の生木を燃やした灰を灰汁(あく)にして、媒染剤として使用し
鮮やかな紫色を生み出していたことを示すものです。
この技術の確立により、紫の染色は画期的な進歩を遂げることになります。

「 託馬野(つくまの)に 生ふる紫草(むらさき) 衣(きぬ)に染(し)め
     いまだ着ずして 色に出(い)でにけり 」 
                                  巻3-395 笠郎女

( 託馬野に生い茂る紫草、その草で着物を染めました。
 出来上がった着物をまだ着ていないのに、もう人に知られてしまいましたわ )

作者が大伴家持に贈った歌で、託馬野(つくまの)は滋賀県米原市あたりの野。
                                
「託(つく)」には「色がよく付く」が掛けられています。                           
「紫草」は家持、「衣」は自分自身を暗示しており
「まだ契りを結んでいないのにあなたを思い慕っている事が
世間の評判になってしまった」の意がこもります。


「 紫の 名高の浦の 真砂地(まなごつち)
     袖のみ触れて 寝ずかなりなむ 」 
                       巻7-1392 作者未詳

( 名高の浦の細かい砂地、あの砂地には袖が触れただけで、
  寝ころぶことも なくなってしまうのであろうか )

真砂(まなご)の原文は同音の愛子(まなご)。
細かい砂と可愛い子の両方を掛け、その子に対する淡い思いを述べています。
また、「袖のみ触れる」は言葉だけを交わす仲。
共寝までは許さない女への男の嘆きです。

「名高の浦」は和歌山県海南市の海岸
「紫」は名高の浦の枕詞で、高貴の色とされて名高い紫の意。

603年、聖徳太子は「氏」とよばれる諸豪族の血縁集団が、地位、職業に応じて
姓(かばね)という尊称を世襲的に与えられていたのを改め、個人の功績に応じて
冠位を付与すること、いわゆる「冠位十二階の制」を定めました。

位階の冠の色は紫、青、赤、黄、白、黒とし、紫が最上位。
また服装もそれに準じ、以降、紫はやんごとなき人の色となり
平安時代以降も続きます。

我国で高僧に紫袈裟が下賜されたのは735年(天平7)。
聖武天皇が興福寺に住していた玄昉(げんぼう)に与えたのが最初とされています。

紫法衣は1141年(永治元年)
鳥羽上皇から青蓮院行玄に。
宗教の世界にも紫の権威が持ち込まれたのです。

その後、後鳥羽上皇は、曹洞宗、道元に紫衣を下賜しようとしましたが、
再三にわたり辞退、遂に勅命となり已む無く拝受するも、生涯その紫衣を
着ることがなかったとか。
名誉、地位に執着しない宗教家としての矜持を示したものといえましょう。

天平の紫は染色の第一人者、吉岡幸雄氏によって古代紫や深紫色再現の
試みがなされていますが、綾1疋(布帛2反)を染めるのに、
紫草根18㎏、酢2升必要とされ、さらにその作業工程は極めて手間がかかり
しかも触媒剤の椿の灰汁の加減によって色が千変万化するそうです。

古人の工程を簡単に列記すると

紫草の根を地中から掘り出し切断。
石臼で細かく砕く。
70~80度の湯を注ぎ、手で色素を揉みだす。
出来た染料を、目の細かいふるいで漉し不純物を取り除く。
染料液に絹の布を浸して染める。
椿の生木を燃やした灰を灰汁にして媒染し色を固定した後、水洗い。

この工程を30分ずつ、交互に繰り返し、
4~5日続けると濃い紫になる。

なお、椿の灰汁(アルカリ性)を加えると青系の紫
酢(酸性)に浸すと赤系の紫になるそうです。

手間も大変ですが消費される紫根も膨大なものとなり、しかも高価。
とうとう、紫の衣は禁色となり王侯貴族しか着ることが出来ないものになりました。

現在、正倉院に聖武天皇の遺品「金光明最勝王経帙(ちつ)」。
( 帙(ちつ)とは写経した経典を10巻ほどまとめて束ねるように包むもの
 細竹を芯として、紫草の根で染められた絹糸で編む。)

奈良国立博物館に
「紫紙金字金光明最勝王経」( ししこんじ こんこうみょう さいしょうおうきょう)
( 紫根で染めた紫の和紙の上に金泥で文字が書かれたもの )

など豪華絢爛な国宝が展示されており、天平の華やかな紫を
偲ばせてくれております。

「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
      野守は見ずや 君が袖振る 」 
                            巻1-20  額田王

   標野:皇族、貴族の狩猟地で立入禁止区域、紫草の栽培もされていた。

   「 白き花 地中深き赤根より
            紫の妹  にほひ出づる 」    筆者


        万葉集その650(天平の紫) 完

   次回の更新は9月20日(火) いつもより早くなります。

by uqrx74fd | 2017-09-14 17:46 | 植物

<< 万葉集その六百五十一 (露草、月草)    万葉集その六百四十九 (綿の花) >>