2018年 03月 17日
万葉集その六百七十六 (安眠快眠)
( カタクリは1年の大半を地中で過ごす眠り姫 )
( 快眠? エゴンシーレの模写 筆者 )
( うたた寝 ? オスカーココシュカの模写 筆者 )
( 春の夢 パウルクーレ風 筆者 )
万葉集その六百七十六 (安眠、快眠)
寒かった冬も過ぎ、ようやく「春眠暁を覚えず」の季節到来。
何物にも代えがたい至福のひとときです。
静かな環境での安眠熟睡。
古代の人達はそのような眠りを「安寐(やすい)」と云っていました。
ところが大伴家持さんは頻繁に歌を交わしあっていた心の友、大伴池主が
越前に転任し、近くにいない寂しさから夜も寝れなくなり、
ホトトギスに友も寝かせるなと詠うのです。
「 ほととぎす 夜鳴きをしつつ 我が背子を
安寐( やすい)な寝しめ ゆめ心あれ 」
巻19-4179 大伴家持
( ホトトギスよ 夜鳴きをし続けて、わがいとしい人に
安眠などさせてくれるなよ。
わが意を体して、ゆめ怠るでないぞ。)
時鳥の声を一人で聞くのはあまりにも寂しいので、
「 池主を寝かさないで鳴き続けてくれ、そして共に過ぎし日を思い出そう」
と恋歌仕立てで詠ったものです。
いささか大げさな感じがいたしますが、心を許した友が身近にいなくなった
寂しさ伝わってくる1首。
「な寝しめ」:「な-め」で禁止を表す。
通常は「なーそ」と使われる。 「寝かすなよ」の意
「 思はぬに 妹が笑(ゑ)まひを 夢(いめ)に見て
心のうちに 燃えつつぞ居る 」
巻4-718 大伴家持
( 思いもかけず あなたの笑顔を夢に見て、心の中で
ますます恋心をたぎらせています )
「娘子に贈る歌7首」のうちの1つで、娘の名は不詳。
「思いがけず夢に見たのはあなたが自分を想ってくれているのだ」と
切々たる恋心を詠っています。
灯りが少なく、蝋燭も高価だった昔、人々は日が暮れると共に床に就き、
そのまま爆睡し愛しい人の夢をみる、あるいは恋する人と
抱き合って睦むことが何よりの楽しみでした。
万葉集には夢を詠ったものが90首もあるのは、当時、通い婚のため
一緒に過ごす時間が少なく、一人寝の日が多かったためと思われますが、
それにもまして、恋人が自分の夢を見てくれると、自分のもとに現れると
信じていたので、寝る前に「どうかあの人が自分の夢を見てくれますように」
と祈ったのです。
ロマンティックな習慣ですねぇ。
「 昼は咲き 夜は恋ひ寝(ぬ)る 合歓(ねぶ)の花
君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ 」
巻8-1461 紀 郎女
( 昼間は綺麗な花を咲かせて、夜になればぴったりと葉を合わせ、
好きな人に抱かれるように眠る合歓。
ほんとうに羨ましいこと。
そんな花を主人の私だけが見てもよいものでしょうか。
お前さんも御覧なさいな。
あなたと一緒に見ながら抱き合いたいのよ。)
合歓の花木を添え、大伴家持に贈った一首。
漢字の「合歓」は「合歓ぶ(あいよろこぶ)」つまり男と女が抱き合うことを
意味します。
年上で人妻(天智天皇の曾孫 安貴王の妻)でもある作者が
花によせて共寝を誘っているのです。
歌を通じてお互い特別親しい間柄なので、家持を下僕のように呼びかけて
戯れ興じているようですが内心は本気かもしれません。
「 君のみ見めや」 : 君は主人の意で作者自身をさす
「 戯奴(わけ) 」 : 年少の召使などを呼ぶ言葉
ここでは大伴家持をさし、年下なので
わざと見下したした言い方をしている
ところで、万葉集では二人の共寝を「味寐(うまい)」と表現しています。
「味寐」(うまい)とは云い得て妙。
お互い抱き合いながら「美味かった」、「よーく味わった」
というニユーアンスが含まれているのですから。
「 人の寝(ぬ)る 味寐(うまい)は寝ずて はしきやし
君が目すらを 欲りし嘆かむ 」
巻11-2369 作者未詳
( 人様がするような共寝は出来ずに、あぁ。
せめてあの方の顔だけでもと溜息ばかりついているうちに
すっかり夜があけてしまいました。)
「はしきやし」: 愛(は)しきやし 詠嘆をあらわす修飾句
ここでは「あぁ-」
「君が目すらを 欲りし」 : 一目だけでも見たい
「 白妙の 手本(てもと)ゆたけく 人の寝(ぬ)る
味寐(うまい)は寝ずや 恋ひわたりなむ 」
巻12-2963 作者未詳
( 手枕もゆったりと打ちくつろいで、人さまが寝るような
快く楽しい眠りは出来ないので、おれはこうしていつまでも
恋に悩み続けるのだろうか )
「手本ゆたけく」: 女の腕を枕にして心楽しく
伊藤博氏は
『 従来「安寐(やすい)は安眠、「味寐」(うまい)は熟睡、安眠の意と解釈されていた。
ところが、若い後輩が ヤスイとは「一人寝の熟睡」ウマイとは
「男女二人で共寝する熟睡」と発表した。後生畏るべし。
そう思って用例にあたってみると、まさしくことごとくがこの新見に
よって処理できる。
そもそも「安し」は自己の心情の安らかさ、「味し」は対象自体に具わる
性質の良さをいう語であるから、「安寐」と「味寐」とのあいだに
相違があるのは当然なのである。
それにしても、いかにもおっとり自然に歌を詠んでいるように見えながら
万葉人が、ことばづかいにきわめて厳密であった点に、
感服しないわけにはゆかない。) 』
と述べられ、さらに、
「 人や犬など、意思あるものが(何かを)越えるについて
「越ゆ:自ら越えるの意」といい、
風や波など、意思なきものが越えるについては「越す:神が越させるの意 」
といって厳しく使い分けたり、また原則として降る現象が見えない霜、露に
ついては「置く」、降る現象が「雨」「雪」には「降る」と
いって区別したりするなど、かような姿勢が「安寐」「味寐」一つに
限らないことを思えば、なおさらである。」
と付け加えておられます。
( 万葉のいのち はなわ書房 )
「 朝寝して 風呂酒一献 昼寝して
時々起きて 居眠りをする 」 筆者
( この人物は小原庄助さん )
ご参考
( 民謡 会津磐梯山 )
会津磐梯山は宝の山よ
笹に黄金がなりさがる
何故に磐梯あのように若い
湖水鏡で化粧する
北は磐梯 南は湖水
中に浮き立つ翁島
主は笛吹く 私は踊る
櫓太鼓の上と下
小原庄助さん 何で身上(しんしょう)潰した
朝寝 朝酒 朝湯が好きで
それで身上つぶした
ハァ もっともだ もっともだ
万葉集676 (安眠快眠) 完
次回の更新は3月23日(金)の予定です。
by uqrx74fd | 2018-03-17 17:24 | 生活