万葉集その七百 (帝王聖武)

( 聖武天皇  小泉 淳作 画  東大寺蔵 )
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( 東大寺大仏殿 )
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( 東大寺南大門 )
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( 正倉院 )
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( 大仏池 )
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( 鋳造中の大仏  奈良万葉文化館 )
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( 二月堂 お水取り )
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( 聖武天皇佐保山陵 )
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万葉集その七百 (帝王聖武)

聖武天皇といえば、まず頭に浮かぶのは国家の財を湯水のごとく使い、
東大寺と大仏、さらに全国に国分寺と国分尼寺を建立した専制的な天皇。
5年の間に都を平城京、恭仁京、紫香楽宮、難波宮とめまぐるしく造営し、
最後に平城京に戻る、という常人では考えられないような彷徨の人。
そして、生前愛用した絢爛たる日用品や宝物を正倉院に遺し、
現在なお多くの人を魅了してくれている帝。
といったところでしょうか。

732年8月、聖武天皇は節度使を各地に派遣することにしました。
節度使とは地方の軍備の充実をはかるために置かれた監察官、いわば
駐屯部隊の隊長です。
派遣されるメンバーは、東海、東山二道に藤原房前、山陰道に 多治比真人、
西海道は藤原宇合。

(  東海道:常陸から伊勢まで  東山道:陸奥から近江 
   山陰道:丹波から壱岐    西海道:九州から対馬 )

さらに加うるに、道ごとに判官4人、主典4人、医師1人、陰陽師1名という
錚々たる陣容です。

次の歌は出発にあたり壮行会で天皇が下された長短歌。
宣命のような調べになっています。

まずは長歌の訳文から

( 朕が治める国の 遠く離れた政庁に
  そなたたちが こうして出向いたならば
  私は心安らかに 遊んでいられよう。
  腕を組んでいられよう。
  天皇たる我は その尊い手で そなたたちの髪をなでねぎらい給うぞ。
  そなたたちの頭(こうべ)をなでて ねぎらい給うぞ。
  そなたたちが帰ってくる日、その日に相ともにまた飲む酒であるぞ
  この尊い酒は )     6-973 聖武天皇

 原文

「 食(を)す国の 遠(とほ)の朝廷(みかど)に 
  汝(いまし)らが  かく罷(まかり)なば
  平(たひら)けく 我は遊ばむ
  手抱(てむだ)きて 我はいまさむ

  天皇(すめら)我れ うづの御手(みて)もち かき撫でぞ 
  ねぎたまふ うち撫でぞ
  ねぎたまふ 帰り来(こ)む日  相飲(あひの)む酒(き)ぞ
  この豊神酒(とよみき)は 」
                              巻6-973 聖武天皇

語句解釈

     食(を)す国: 天皇の統治する国 「食(を)す」は「食う」の敬語。
                   統治するものは諸国献上の五穀を食べることで国々の支配を
                   果たすという考えから「治める」の意となった。

     遠の朝廷(きかど」: 天皇支配下の各国庁
     罷(まかり)なば: 退出したら

     平けく我は遊ばむ: 帝王自ら手を下さずして天下治まるの意

     うづの御手 ;「うづ」は高貴の意 祝詞などに使われ
              「宇豆は貴なり」の記述もみえる。
              天皇という立場から自らの敬語を使っている

      かき撫でぞ: 頭を指で撫で無事成功を祈る呪的行為

      ねぎたまふ:優しくいたわる

      豊神酒 : 霊力ある酒

 反歌

「 ますらをの 行(ゆ)くとふ道ぞ  おほろかに
      思ひて行(ゆ)くな  ますらをの伴(とも) 」
                      巻6-974 聖武天皇

( これからの道は ますらお たるものが行くという道。
通りいっぺんな気持ちで行くのではないぞ。
ますらおのこ たちよ )

 おほろかに: 通り一辺な気持ちで

「 雄渾な調べの中に王者の貫録がみなぎっている。
  汝らの労ゆえに みずから手を下さなくても天下がよく治まる。
  その労を賞(め)で、その功が発揮されるよう天皇たるもの
  この手で汝らの頭を撫でるのだ、の部分は無事成功を祈る呪術。」
                                     ( 伊藤博 万葉集釋注3)

以下は私的な場で詠われたもので声調が がらっと変わります。

「 秋の田の 穂田(ほだ)を雁がね 暗けくに
      夜のほどろにも 鳴き渡るかも 」 
                      巻8-1539 聖武天皇

( 秋の田の穂田を刈るという名をもつ雁が、まだ暗いのに
      夜の明けきらないうちから、鳴き渡ってゆく)

    夜のほどろ: 「ほどろ」は密なる物が拡散して粗になるさまを言う語で
             ここでは夜の闇が白みはじめる頃

「 今朝(けさ)の朝明(あさけ) 雁が音寒く 聞きしなへ
        野辺(のへ)の浅茅ぞ 色づきにける 」 
                         巻8-1540 聖武天皇

( 今朝の明け方に雁の声を寒々と耳にした。
  折しも周りを見渡すと、野辺一帯の浅茅がすっかり色づいているぞ。 )

自然の情景を感じたまま述べ、公の場で見せる威厳とは違う穏かな
性格が滲みでている2首です。

 また、狩場での次のような女性との戯れ歌も残されています。

「 赤駒の 越ゆる馬柵(うませ)の 標(しめ)結ひし
     妹が心は 疑ひもなし 」  
                         巻4-530  聖武天皇

( 元気な赤駒がうっかりすると飛び越えて逃げる柵を
     しっかり結び固めるように、お前も私のものであると標を結っておいた。
     汝の俺を想う心に何の疑いもないよな。)

  海上女王(うなかみの おほきみ 天智天皇皇子 志貴皇子の娘) に贈った歌。

「 しっかりと標(しめ:目印) を結んで固めたからには、
  馬が柵を越えて放れ馬になるように、お前が勝手に俺から離れていくことは
  ありえない」

の意を込めた、狩場の宴席での戯れ。
それに対して女王は

「 梓弓 爪引(つまび)く夜音の  遠音(とほと)にも
      君が御幸(みゆき)を 聞かくし よしも 」 
                             巻4-531 海上女王

( 魔除けに梓弓を爪引く夜の弦打ちの音が遠くに聞こえますが
  その音のように遠くから聞こえてくる噂、
  我が君の行幸があると伺うことが出来るのは嬉しいことでございます)

女王は帝の行幸に参加しているので目の前の席にいます。
しかし天皇から詠みかけられた歌は狩の御幸の場なので、
自分が今いるところにお出まし戴けるのはうれしいことですと
機転を利かしたもの。

狩の開始直前に大猟を予祝して弓の爪引きを行なうのが当時の慣例でした。

   「 父母よ 今は何処と 首(おびと)泣く 」  筆者

              首(おびと):聖武天皇の幼名


聖武天皇は701年文武天皇を父(天武孫) 藤原宮子(不比等娘)を母とする
第1皇子に生れましたが、わずか7歳の時に文武死没。
母、宮子も出産後、心的障害に陥り長年隔離生活を送ったので
何と37歳になるまで対面することが出来なかっという寂しい幼年時代を
過ごしました。

母方の祖父藤原不比等邸で育てられたといわれていますが、
自ら決めたことはどんなことがあってもやり通すという強靭な意思は
その不幸な生い立ちから培われたのでしょうか。
 
    「 三代の女帝 首(おびと)を  守り抜く 」  筆者

天武天皇亡きあと天武第一皇子草壁皇子が若くして亡くなったため(27才)、
持統皇后が皇位を引継ぎ、その後元明(文武の母)、元正(文武の姉)と
3代の女帝が聖武の成長を待つために中継ぎとして皇位を継承し、
聖武24歳でようやく即位します。

当時の世相は天然痘が流行し、権勢を誇った藤原4兄弟をはじめ朝廷高官の相次ぐ死亡。
さらに、飢饉、戦乱、度重なる遷都による労力負担、民の疲弊による逃亡、
など社会のあらゆる面で律令国家の存立が危ぶまれる状態でした。

聖武はこの難局を打開するため、世にも稀なる巨大な大仏を建立することにより
あらゆるエネルギーを吸収し鎮護国家を作り上げることを目指したのです。

彷徨の5年と云われる地方行幸も天武天皇の壬申の乱の折の足跡を辿り、
建国の精神に立ち戻って国家再建の決意を新たにし、相次ぐ遷都も
大仏建立のための物流基地、工事現場の確保などの目的もあったようです。

しかしながら、紫香楽の宮で大仏の像体骨柱が出来上がったころで
地震水害が発生したうえ、民の不満が頂点に達して放火が相次ぎ、
遂に都を平城京に戻さざるをえなくなりました。

それでも、聖武は不撓不屈の精神を傾け、金鐘寺(こんしゅじ:のちの東大寺)で
大仏の造立を続け、完成間近の749年、幸運にも陸奥の国から金産出。
遂に752年、9年を費やして大仏開眼を果たしたのです。

 「 あをによし 奈良の都は 咲く花の 
       にほふがごとく 今盛りなり 」  
                      巻3-328 小野 老(おゆ) 

その後海外からの渡来人も多くなり平城京は、さながら国際都市となり
  天平文化の華が開きます。
  国を傾けるような大事業。
  帝王聖武は未来永劫の遺産を我々に遺してくれたのです。

  「 おほらかに もろてのゆびを ひらかせて
        おほきほとけは  あまたらしたり 」  会津八一

( 大仏は 大きく豊かな両手の指を お開きになって
     その慈徳は 宇宙に広く満ち広がっているのです 。)

749年、天皇は第1皇女阿倍皇太子に譲位、孝謙天皇誕生。
756年 聖武太上天皇56歳の波乱の人生に幕を閉じ、佐保山陵に葬られました。

 隣陵には終生の伴侶 光明皇后。
天皇の遺品を東大寺に遺贈し正倉院宝物とされた方です。

「 我が背子と ふたり見ませば いくばくか
             この降る雪の 嬉しくあらまし 」  
                   巻8-1658 光明皇后
( この降り積もる雪の見事なこと。
      わが背の君と一緒に見ることができましたら、
      どんなに嬉しく思われることでしょう )

夫、聖武天皇が東国巡幸の旅にでた折に贈った歌。
一人の女性として詠い、可憐。 

正倉院に通じる道の小高い丘に建てられているこの歌碑は
正面に正倉院、右側は大仏殿に隣接しており、
いつまでも優しく聖武帝を見守っているようです。

   「 大仏殿 鴟尾(しび)の上なる 秋の雲 」  秋山花笠

      
     万葉集700  (帝王聖武) 完



   次回の更新は9月7日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2018-08-30 10:49 | 生活

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