2018年 09月 27日
万葉集その七百四 (秋の味覚)
( 桃 万葉人は毛桃とよんだ 石和温泉 山梨県笛吹市 )
( 松茸 築地市場 )
( 栗 山辺の道 奈良 )
万葉集その七百四 (秋の味覚)
秋の味覚と言えば新米、松茸、桃、柿、栗、梨、林檎、葡萄、芋、秋刀魚。
さらに、秋の夜長には新酒も欠かせません。
万葉集では柿、林檎、葡萄、秋刀魚は登場していませんが、他は色々な形で
詠われています。
まずは稲の歌からまいりましょう。
「 荒城田(あらきだ)の 鹿猪田(ししだ)の稲を 倉に上げて
あな ひねひねし 我が恋ふらくは 」
巻16-3848 忌部首黒麻呂(いむべの おびと くろまろ)
( 荒れた山地を開墾して作った田、
鹿や猪が荒らす中で苦労しながら、やっと収穫した稲。
その稲を税として倉に納めたのに、役人めが粗末にしおって
干からびさせてしまった。
それにしても、俺の恋も潤いがなく、味気ないものだなぁ。 )
荒城田:新たに開墾した山地
倉に上げて: 税として官倉に納める
あな ひねひねし:あな:感動詞
ひねひねし:干からびて生気がなくなった様子
「夢の中で友に贈った歌」と詞書がありますが、恋歌にかこつけて
お上に対する批判をこめた落首ともいうべきものです。
当時の貴族、官人は朝廷から土地を与えられ、自ら耕す者も
少なくありませんでした。
郊外が多かったようですが、この歌の作者は余程辺鄙なところを
割り与えられたのでしょう。
未開墾の山地、しかも鹿や猪が収穫物を荒らす。
やっとの思いで国に納めたのに、放置され、味も落ちていることだろう。
怒りが収まらない思いを恋歌に託したものと思われます。
「 新米も まだ草の実の 匂ひかな 」 蕪村
新米が出来たら今度は酒の出番。
万葉の酒仙、大伴旅人は酒賛歌13首を声高らかに詠っており、
下記はそのうちの1首です。
「 言はむすべ 為(せ)むすべ知らず 極まりて
貴(たふと)きものは 酒にしあるらし 」
巻3-342 大伴旅人
( 言葉では言い表しようもない、どうしょうもなく
この世で貴いものは酒であるらしいよ )
酒好きの人は多けれど旅人は別格。
酒壺になり、毎日酒びたりになりたいと詠い、酒を飲まぬやつは
猿みたいだと、けなすのです。
「 それが好き あたため酒と いう言葉 」 高濱虚子
次ぎは万葉唯一の松茸。
「 高松の この峰も狭(せ)に 笠立てて
満ち盛りたる 秋の香のよさ 」
巻10-2233 作者未詳
( 高円山の峰も狭しとばかりに、まぁ見事に茸の傘が立ったことよ。
眺めもさることながらこの香りの良さ。
早く食べたいものだなぁ。)
高松は奈良の高円山(たかまどやま)。
全山に松が林立し足の踏み場のない程にびっしりと生い並ぶ松茸が、
今が盛りと かぐわしい芳香を放っている様子を詠ったもので、
今日では想像も出来ない光景です。
茸の歴史は古く縄文時代後期(4000年前)まで遡りますが、
ふんだんに採れた松茸は今や希少品、昭和初期に6000トンを超えていた
国産品の生産量は現在わずか37トンという惨状。
「 松茸の 今日が底値と すすめられ 」 稲畑汀子
先日百貨店で見かけた大ぶりの国産松茸は1本5万円、とても手が出ませんなぁ。
しからば栗を。
「 瓜食めば 子ども思ほゆ
栗食めば まして偲はゆ
いずくより 来りしものぞ
まなかひに もとなかかりて
安寐(やすい)し寝さぬ 」
巻5-802 山上憶良
( 瓜を食べると子どものことが思われる。
栗を食べるとそれにも増して偲ばれる。
こんなに可愛い子どもというものは一体どういう宿縁でどこから我が子として
生まれてきたものであろうか。
やたらに眼前にちらついて、安眠させてくれないよ )
「まなかひ」:「眼の交(かひ)で眼前」
「もとな」(元無);わけもなくやたらに」
大宰府に単身赴任していた憶良の子を思う親心がひしひしと伝わってくる有名な長歌。
菓子類が少ない古代では栗やマクワ瓜は子供たちの好物だったことでしょう。
正倉院文書によると栗は一升(今日の四合)、約八文といわれ、米(五文)よりも高い贅沢品
だったようです。
栗は今から9000年前に我国で自生していたといわれ、青森県三内丸山遺跡から
出土したDNAの分析によると縄文時代には既に優良種を選択して栽培していたとも
推測されています。
古代から食料に供されたほか材は堅くて耐水性があるので建築、土木 枕木、造船、家具、
さらに椎茸のほだ木、薪炭など多方面に利用されてきた有用の植物です。
「 初栗に山上の香も すこしほど 」 飯田蛇笏
次は芋。
稲作栽培以前、古代の人々が主食としていた里芋の原産地は
インドやインドシナ半島などの熱帯アジア地方といわれ、
我国に伝わったのは縄文時代と推定されています。
自然薯(じねんじょ)などのように山で採れるのではなく、家の菜園で栽培されたので
「山芋」に対して「里芋」と呼ばれ、「じゃがいも」や「サツマイモ」が伝わる
江戸時代まで「芋」と言えば里芋をさしていました。
このような大切な食物にも拘らず、万葉集に詠われているのは
次の一首のみです。
「 蓮葉(はちすば)は かくこそあるもの 意吉麻呂(おきまろ)が
家にあるものは 芋(うも)の葉にあらし 」
巻16-3826 長忌寸(ながのいみき)意吉麻呂
( これが本物の蓮の葉なのですなぁ。なんと豪華なことよ! それに比べて
わが家にあるのは、似ているようでもやっぱり里芋の葉ですわい。)
作者は愉快な歌、戯れ歌を即興的に詠むのを得意としていました。
宴席で大皿の代わりに蓮の大きな葉に盛られた豪華なご馳走を褒める気持も込めて
大げさに驚いてみせ、我家の小さな芋の葉を卑下してみせたものですが、
蓮と里芋の葉の形が似ているところにこの歌の面白みがあります。
古代、蓮の花は高貴な美女の象徴とされていました。
宴席には主人の妻妃などが接待に出ていたかもしれません。
もしそうだとすれば「イモ」は「妹」を連想させ「素晴らしい女性ばかりですね。
それに比べて我が家の妹(イモ)は野暮ったくて何とも見栄えがしないことです」と
落胆したふりをして満場をどっと沸かせたのでしょう。
奈良時代の貴族達の華やかな歓楽の一幕です。
「 我が土に 天下の芋を 作りけり 」 高濱虚子
最後はデザートに桃を。
「 我がやどの 毛桃の下に 月夜(つくよ)さし
下心(したごころ)よし うたてこのころ 」
10-1889 作者未詳
( 我家の庭に月の光が射し込み、桃の実を美しく浮き上がらせています。
なぜか何時もと違ってウキウキした気分。
もう楽しくって楽しくって!)
この歌は比喩歌とされ「桃」は 大切に育てている娘
「月夜さし」は「月水」すなわち娘の「初潮」、
「下心」は自分の心の奥、
「うたて」は「しきりに」で日常と異なる奇妙な心理状態をいいます。
「 大切に育ててきた娘が初潮を迎え、どうやら女性として一人前になったようだ
嬉しいやら 照れくさいやら。
さぁさぁ身内のものに報告をしなくっては 」
と母親が喜んではしゃいでいる歌なのです。
日本の桃は江戸時代まであまり美味くなかったらしく栽培されていたのは
もっぱら花の観賞用でした。
日本でおいしい桃が食べられるようになったのは明治7~8年頃
中国大陸から天津水密桃(北シナ系、先が尖っている) や
上海水密桃(中シナ系、丸桃) が輸入され、
それらの桃に品質改良が加えられてからのこととされています。
世界に冠たる「白桃」は明治32年岡山県可真(かま)村の果樹園で
上海水密の系統をひいた桃が日本の気候に適応し突然変異(自然雑種)して
生まれたものとか。
「 白桃を 洗ふ誕生の 子のごとく 」 大野林火
桃は秋の季語とされています。
番外編
池波正太郎氏はサンマがお好きだったらしく、
次のような一文を書いておられます。
「 初秋ともなれば、いよいよ秋刀魚の季節だ。
毎日のように食べて飽きない。
若いころは、どうもワタが食べられなかったものだが、
いまは、みんな食べてしまう。
むかしは安くて旨い。
この魚が私たちの家の初秋の食膳には、一日置きに出たもので、
夕暮れになって、子供だった私たちが遊びから帰ってくると、
家々の路地には秋刀魚を焼く煙りがながれ、
旨そうなにおいが路地に立ちこめている。 ― 」
池波正太郎 ( 味と映画の歳時記 )
そして、佐藤春夫の有名な秋刀魚の歌。
「あはれ 秋かぜよ
情(こころ)あらば 伝えてよ
― 男ありて
今日の夕餉(ゆうげ)に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思ひにふける と 。
さんま さんま
そが上に 青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
さんまを食うは その男のふる里のならひなり。
― ― 」 (秋刀魚の歌 佐藤春夫)
秋刀魚を味わう王道は塩焼きに大根おろし、スダチ添え。
次いで、蒲焼が旨い。
「蒲焼のたれにワタを隠し味に使うと一段と風味が増す。」とは
料理人、近藤文夫氏の弁です。
「 秋刀魚焼く 煙の中の 妻を見に 」 山口誓子
万葉集704(秋の味覚)完
次回の更新は10月5日(金)の予定です。
by uqrx74fd | 2018-09-27 10:35 | 植物