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万葉集その七百五十一 (潮の歌)

( 瀬戸内海の夜明け )
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( 稚内から利尻富士をのぞむ )
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( 城ケ島 )
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( 安房鴨川 )
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  万葉集その七百五十一 (潮の歌)

海の高さは1日2回、ゆるやかに高くなったり低くなったり、
規則的に変わります。
いわゆる潮の満ち引きで、主に月の引力と地球の自転の遠心力によっておき、
さらに太陽の引力も加わるという天の摂理の妙。

月は地球のまわりを24時間50分かけてまわっていますが、
海面はこの動きに合わせて12時間25分で満潮から満潮へ、
干潮から干潮へと高さが変わるのです。
 
万葉人は月の引力など知るべくもありませんでしたが、
1日2度の満ち引きや満月の時の大潮を十分理解し、舟を操っていました。
有名な額田王の

「 熟田津に 船乗りせむと 月待てば
      潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 」 巻1-8 
は好例です

万葉集に登場する潮の歌は74首。
今回はその中から満潮,干潮、潮騒、渦潮を選んでみました。

「 安胡(あご)の浦に 船乗りすらむ 娘子(をとめ)らが
        赤裳の裾に 潮満つらむか 」 
                     巻15-3610 作者未詳

( 安胡の浦で舟遊びをしている乙女たちの赤い裳の裾、
 その裳裾は、潮が満ちて濡れているであろうか )

安胡の浦:三重県志摩郡阿児町か

航海の途中で乙女たちが舟遊びをしているのが見えた。
「満ちてくる潮が乙女たちの赤い裳裾を濡らしているのではないか。」と
気遣いながら
「かって都から伊勢に旅した時も、美しい女官が磯で赤裳から素肌を出し、
波に濡れながらキヤッキヤッと騒いでいたなぁ。」
と回想している作者です。

なぜ、伊勢を思い出しているのが分かるのでしょうか?
実はこの歌は柿本人麻呂作

「 鳴呼見(あみ)の浦に 船乗りすらむ をとめらが
                 玉藻の裾に 潮満つらむか 」 1-40

の一部を変えて詠ったものなのです。
都の思い出と今見る光景が二重写しになったのでしょう。

当時、旅の途中で古歌を披露したり、一部を詠み変えたりするのが
習いでした。

「 由良の崎 潮干にけらし 白神の
         磯の浦みを あへて漕ぐなり 」 
                   巻9-1671 作者未詳

( 由良の崎は 潮が引いたらしい。
 舟が白神の岩礁のあたりを、難儀しながら漕いでいるようだ。)

701年、文武天皇と持統上皇が紀伊の国牟婁(むろ)の湯に行幸された折に
詠われた13首の中の1.

由良の崎は和歌山県日高郡由良町、白神は場所未詳なるも白浜の近くと
思われます。

我国では太平洋側の満潮と干潮の差は1,5M、日本海側は40㎝位だそうです。
アジアで大きいのは韓国の仁川の10M、うっかり満潮の時に停泊し、
気がついた水か引いて座礁したような状態になることもあったことでしょう。
特に満月の大潮の時は要注意でした。

「 牛窓の 波の潮騒 島響(とよ)み
         寄そりし君に 逢はずかもあらむ 」 
                   巻11-2731 作者未詳

( 牛窓の潮鳴りが島中になり響くように
 私があの方にいい寄せられたという噂が広がってしまった。
 これからあの方とずっと逢うことが出来ないのだろうか。)


「恋は秘密に」というのが当時の決め事、噂が大きくなりすぎて
あの方はもういらしてくれないのではないかと悩む乙女です。

「潮騒」は万葉人の美しい造語。
「波の鼓」という優雅な言葉もあります。

三島由紀夫の名著「潮騒」は柿本人麻呂が詠った伊勢の神島が
舞台になっています。

「 潮騒(しほさい)に 伊良虞(いらご)の 島辺(しまへ) 漕ぐ舟に
     妹乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を 」 
                           巻1-42 柿本人麻呂

( さわさわと波が騒いでいる中 あの娘は今頃伊良虞の島あたりを
 廻っている舟に乗っている頃だろうか。 
 あのあたりは風波の荒れるところだが )

伊良虞:渥美半島先端の伊良湖岬(愛知県)と神島(鳥羽市)の二説あるが
神島が有力。

691年持統天皇伊勢行幸の折、都に留まっていた人麻呂は
かって訪れた志摩の海と潮の音を思い描きながら愛しい人への
慕情に思いを募らせたもの。
その愛しい人とは天皇に従った宮廷の女性だったようです。

小説「潮騒」はさらに 少年少女の純愛を題材にしたギリシャの古典文学
「ダフニスとクロエ」 (ロンゴス作) を下敷きにしているといわれ、
三島は東西古典文学の壮大な融合を試みたのでしょうか。

余談ながら 「ダフニスとクロエ」はラベル作曲のバレー音楽になり
世界中で演奏中、また小説「潮騒」も4度映画化されるなど
一世を風靡しました。
「久保明 青山京子」「浜田光夫 吉永小百合」「鶴見辰吾 堀ちえみ」
「三浦友和 山口百恵」主演映画、懐かしいですなぁ。

「 これやこの 名に負ふ鳴門の 渦潮に
          玉藻刈るとふ 海人娘子(あまをとめ)ども 」 
                     巻15-3638 田辺秋庭

( これは まぁ、名にし負う鳴門の渦潮か。
  そんなところで玉藻を刈っている海女さんがいるとは
  たまげたなぁ。)

736年 新羅に派遣された使人が鳴門を通過した時の歌。
作者は外交関係にかかわる家系で渡来人のようです。

名だたる鳴門の渦潮をものともせず、巧みに舟を繰り、海藻を刈る
海女への驚嘆と賛辞。
 「これやこの」は憧れていたものを初めて眼前にした時の
感動を表す慣用句です。

もっとも、渦巻く潮の中で海藻を採ることなど出来ませんから
遠く離れていた海女と渦潮を二重写しにして大げさに詠ったのでしょう。

陰暦8月15日の大潮を、仲秋の名月(望月)にからめて望の潮、あるいは
葉月(8月)潮ともいいます。
満月と新月の夜は大潮、その時に吹く風を時津風。

月の光が映った波を金波 銀色に輝く波は銀波。
太陽のそれは黄金波。

この世のものとは思われない美しい光景です。

 「 月はまん丸 金波や銀波
      やっさ踊りに 夜が更ける 」   ( 広島 三原やっさ節 )


           万葉集751(潮の歌)完


         次回の更新は8月30日(金)の予定です。

# by uqrx74fd | 2019-08-22 08:08 | 自然

万葉集その七百五十 (奈良の鹿)

( 奈良へようこそ  春日野)
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( 鹿の夫婦  同上 )
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(  親子     同上 )
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( 生まれたばかりの赤ちゃん  同上 )
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万葉集その七百五十 (奈良の鹿)

奈良の鹿は日本全国に生息する鹿と同様、野性種ですが、
他の鹿と極めて異なる点があります。

一つは神鹿として手厚く保護されてきたこと。
その由来はその昔、春日大社創建にあたり、鹿島神宮(茨城県)から
武甕槌命(たけみかづちのみこと)を勧請した際、命(みこと)が白鹿に乗って
御蓋山に入って行ったという言い伝えによります。

その二は国の天然記念物に指定(1957年)されているので、
捕獲殺傷が禁じられている。

その三は奈良公園内で人と共に生活、共存しているという
世界でも類を見ない存在であることです。

ただ、神鹿となったのは、称徳天皇(765~769年)の時代以降なので、
それ以前は、日本中至るところに棲息した鹿を食用や皮、角などを
利用するために狩られていたようです。

万葉集には63首登場しますが、中でも「鹿鳴く」と「詠われたものが
44首も見えます。

 「 山の辺(へ)に い行くさつ男は 多かれど
            山にも野にも さを鹿鳴くも 」 
                  巻10-2147 作者未詳

( 山のあたりには獲物を狙っている猟師がいっぱいうろついているというのに
 山にも野にも雄鹿が鳴きたてています )

猟師が獲物を狙ってうろうろしているのに、そんなに鳴いて大丈夫かと
心配している優しい男

   さつ男:猟師 「さつ」は「さち」が転じたもので、獲物やそれを獲る道具

この歌は猪と共に鹿も猟の対象になっていたことを教えてくれます。

「 春日野に 粟(あは)蒔けりせば 鹿(しし)待ちに
         継ぎて行(ゆ)かまし 社(やしろ)し恨めし 」 
                            巻3-305 佐伯赤麻呂

( あなたが春日野に粟を蒔いたならば、それを求める鹿を狙いに
      毎日行きたいと思うが、それにしてもそこに春日という
      怖い神様が鎮座ましますのは恐ろしい。)

中年、妻子持ちの赤麻呂がある娘を
「 あなたが 怖い神様がおられる春日の社に 
粟畑を作ってくれたら、毎日でも逢いに行くのに」と
「粟」と「逢わむ」を掛けて口説く。

口説かれた女は次の歌で

「それは御気の毒様、怖いのは春日の神様ではなく
 あなたの女房という恐ろしい神さまよ。 残念ね。」
 とからかい、男の誘いを一蹴しました。

「 高円(たかまと)の 秋野の上の 朝霧に
       妻呼ぶを鹿  出でたつらむか 」  
                     巻20-4319  大伴家持

( 高円の秋の野原に立ちこめる朝霧、その霧の中に
 妻呼ぶ雄鹿が 立ち現れていることだろうか )

作者は防人を指揮するため兵部省少輔として難波に赴任しています。

一仕事を終え、夜の一時を過ごしながら、奈良に想いを馳せる。
高円は春日山に連なる高円山一帯、花の白毫寺で有名。

いままで静かに臥せっていた雄鹿が妻を求めてすくっと立ち上がり、
「カーヒョー」と哀調を帯びた声で鳴く。
そんな美しい姿を連想した一首です。

「 さを鹿の 妻どふ時に 月をよみ
          雁が音聞こゆ 今し来らしも 」 
                 巻10-2131 作者未詳

( 雄鹿が妻を求めて鳴いている。
      天空を仰ぐと 月が煌々と冴えわたり、はるか彼方から
     雁の鳴き声が聞こえてくる。
     今しも雁がやってきたらしい。)

澄み切った空気のなか月の光が冴えわたる中、
哀愁かぎりなき鹿の声と幽寂な雁が音の二重奏。
作者はかなりの手腕の持主。
視覚、聴覚を刺激させ、美しい情景を瞼にえがき出させる秀歌です。

「 大和へ 君が立つ日の 近づけば
    野に立つ鹿も 響(とよ)めてぞ鳴く 」 
                  巻4-570 麻田 連 陽春(あさだ むらじ やす)

( 大和へ向けて あなた様が出発する日が近づいたので、
     鹿も寂しいのか、あたりを響かせるほど鳴いて悲しんでおります。)

730年10月、大宰府長官、大伴旅人は大納言に任ぜられ、12月、都に向けて
旅立つことになりました。
この歌は、送別の宴で部下の作者が詠ったもの。
自身の惜別の悲しみを鹿の鳴き声に託しています。

  「 声聞けば あはれせまりて さ男鹿は
          角あるものと 思はれぬかな 」 与謝野 礼厳

「鹿鳴(ろくめい)」という言葉は中国最古の詩集「詩経」の小雅編に拠ります。
この詩は祖霊神が一族のもとに降臨したことを歓待することを述べ、
鹿は神の使者として歌いこまれています。

祖霊に供物を捧げ、音楽を演奏し、歌い、一族の歓待の意を示す。
そのような由来から「鹿鳴」は「親しい人をもてなす」さらに「賓客をもてなす」
「宴会のときに奏する音楽」意に変わり、明治政府は新設の迎賓館を
「鹿鳴館」と名付けたのです。

  「 寄りくるや 豆腐の糟(かす)に 奈良の鹿 」 正岡子規

奈良には毎年大勢の観光客が訪れ、まず足を運ぶのは東大寺大仏殿。
この周辺の南大門、春日神社参道、飛火野一帯に1200頭余の鹿が群がり
好物の鹿煎餅をねだりながらお辞儀をしてくれます。

しかしながら、煎餅を目の前でちらつかせてなかなか与えず、
じらしたりすると角で突いたり足で蹴る鹿も見られ、
怪我人も出はじめました。

中でも困るのは、お握りなど人間の食物を与えたり、
ビニールの袋を食べてしまうこと。
煎餅は無害ですが、人様の食べ物は塩分や鹿にとっての有害物が多く、
死に至らしめることもあります。
ましてやビニールをや。
言葉が通じない外国人も多く、立看板の注意書きだけでは徹底出来ません。

この世に稀なる人間と野性の動物との共生という環境を一人一人が注意をはらい
守っていきたいものです。

  「 宵闇や 鹿に行きあふ 奈良の町 」  内藤鳴雪



      万葉集750(奈良の鹿)完


     次回の更新は8月23日(金)の予定です

# by uqrx74fd | 2019-08-15 14:48 | 動物

万葉集その七百四十九 (海の歌)

( 白砂青松の海 天橋立 )
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( 葉山 富士山が美しい )
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( 江の島  広い海と空 )
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( 松山 万葉人もこのような景色を眺めながら旅をした )
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( 能登 大伴家持も訪れた )
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( ハワイ 海の色が美しい )
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   万葉集その七百四十九(海の歌)

大和は海が無い国。
にもかかわらず万葉集に登場する海や潮、波は約300首余。
一体彼らはどこで詠ったのでしょうか?

難波宮が営まれていたことから住吉、難波潟。
数回の天皇の紀伊行幸、遣唐使、遣新羅使の渡航、
防人が大宰府をめざして通過した瀬戸内海、
多くの官人の各地赴任先での歌等々。
意外と多くの場所で詠われているのです。

初めて海を目の前にした感激は如何ばかりであったことでしょう。
彼等は白砂青松を讃え、暴風雨に見舞われて神の仕業かと恐れ、
余りの長旅に望郷の念を禁じえなかったり。

その中から各地の海の美しさを讃えたもの、長旅を無事終えた歌を
ピックアップしてみました。

「 住吉(すみのえ)の 沖つ白波 風吹けば
      来寄する浜を 見れば清(きよ)しも 」  
                           巻7-1158 作者未詳

( 住吉の沖の白波、風が吹き出すとその白波が打ち寄せてくる浜は
 見れば見るほど清らかだ。)

住吉は古くは「すみのえ」とよばれ、現在の大阪市住吉区一帯。
当時、海が内陸の住吉神社あたりまで入りこみ、海岸線に沿って
白砂青松がうち続く景勝の地であったようです。

沖で鯨が見られ、浜では蜆(しじみ)、高台では染料となる黄土が
豊富であったことも伝えられています。

近くに難波宮、住吉大社、また遣唐使、遣隋使、防人の出発点として
栄えた難波津(港)を控えていたため殷賑をきわめ、当然のことながら
美しい女性が待つ歓楽街も多く、都の官人たちはこの地を
訪れることを心待ちにしていたことが多くの歌から窺われます。

「 難波潟 潮干(しほひ)に立ちて 見わたせば
       淡路の島に 鶴(たづ)渡る見ゆ 」 
                        巻7-1160 作者未詳

( 難波潟 この潮が引いた千潟に立って見渡すと
 淡路の島の彼方に向かって鶴が鳴き渡ってゆくよ 。)

淡路島は難波港のすぐ先、目の前です。
瀬戸内海を渡り、美しい島々を眺めながら、鶴が飛んでゆく光景に
見惚れている作者が目に浮かぶよう。

当時の難波は葦が多く生え、鶴の生息地としても知られていました。

「 若狭にある 三方(みかた)の海の 浜清み
       い行(ゆ)き帰らひ 見れど飽かぬかも 」 
                          巻7-1177 作者未詳

( 若狭の国にある三方の海の浜が清らかなので
 行きつ戻りつしながら、見ても見ても飽きることがありません。)

若狭は奈良との関係が深く「海のある奈良」とよばれています。
すなわち、お水取りと東大寺の縁、聖徳太子の勅願寺、行基創建の寺、
孝謙天皇勅願寺、白鳳期の仏像のほか多くの御仏。
さながら奈良を歩いているよう。
そして山の上から俯瞰すると日本海。

京都、奈良の人との行き来も多かったことでしょう。

三方海:福井県三方郡の三方湖とされているが汽水湖で
昔は海とつながっており美浜とよばれる海岸線とする説もある。

「 能登の海に 釣りする海人の 漁(いざ)り火の
        光にい行く 月待ちがてり 」
                    巻12-3169 作者未詳

( 能登の海で夜釣りしている海人の漁火
 その光をたよりにして私は旅をしてゆきます。
 月の出を待ちながら 。)

漁火はイカ釣りのものか。
漆黒の闇の先にチラチラと灯りが見える。
やがて月が出て、海面を美しく照らすことでしょう。
美しい光景を想像させる一首です。

  「い行く」:「い」は強意の接頭語
  「月待ちがてり」:「がてり」は 「~をしながら」

当時の能登半島は越中の国に属し、大和から山背(山城)、琵琶湖上水路を経て
朝鮮半島に至る交通の要衝地であり新羅からの渡来人もかなり移り住んで
いたようです。

748年、越中国司大伴家持は支配地の実情調査の為、高岡の国庁を出発し
1か月をかけて約300㎞に及ぶ巡行の旅に出掛けたという記録も残ります。

「 家島は 名にこそありけれ 海原(うなはら)を
            我(あ)が恋ひ来つる  妹もあらなくに 」
                巻15-3718 遣新羅使人

( 家島とは名ばかり。
    遥かな海原を渡り、ようやく帰り着いたのに
    恋焦がれている人がいないのに家とは何だ。)

新羅へ派遣された使人が散々苦労した挙句、ようやく筑紫を回航し
姫路沖の家島群島にたどり着いた。

何と長い旅だったのであろうか。
家を出てから間もなく9か月。
一刻も早く愛する人に逢いたい。
都まであと少し、もう安心だ。
そんな気持ちから、島の名をからかう余裕が出てきた作者です。

「 住吉(すみのえ)の 岸の松が根 うちさらし
    寄せ来る波の 音のさやけさ 」  
                     巻7-1159 作者未詳

 ( 住吉の岸に生い立つ松の根、
   その根を洗い出して打ち寄せてくる波の音の
   何とまぁ清々しいことか )

洗われる松の根、聳え立つ松の緑、打ち寄せる白波の音。
視覚と聴覚の両面から海の清らかさ、爽やかさを讃えたもの。

白砂青松は我国の海辺独特のもので、中でも天橋立、三保の松原の
美しさはよく知られていますが、住吉の松原は護岸工事のため
残念ながら今は見る影もありません。

以下は世界各地の海岸を巡られた大仏次郎氏の一文です。

「 私には平凡な鎌倉の昼間の海が美しく見えた。
  それから、これまでに訪れた各所の海の眺めから考えても
 日本の風景が世界でも美しいものだと、確信を感じた。
 これには、とくに四季による色の変化を考える。
 朝霧や夕靄の魔術が、日本では、どんなに微妙にやわらかに
 海の風景を変化させることか?
 また松の木の多い自然が如何にも美しく海と調和しているのも
 我国だけである。」

             ( 「海辺にて」 日本の名随筆「海」所収 作品社)


    「 松原遠く 消ゆるところ
        白帆の影は 浮かぶ
        干し網 浜に 高くして
        鴎は低く 空に飛ぶ
        見よ昼の梅 見よ昼の海 」  
                   ( 海 :作詞 作曲  作者未詳 )


            万葉集749 (海の歌)完


            次回の更新は8月16日(金)の予定です。

# by uqrx74fd | 2019-08-08 16:01 | 自然

万葉集その七百四十八 (天の海 月の舟)

( 月齢6日目の月  万葉人は三日月を舟に見立てた )
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( 仲秋の名月 )
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( 月の船 上田勝也   奈良万葉文化館収蔵)
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(月の船 藤代清二  中国では織姫が牽牛のもとに通う )
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万葉集その七百四十八 (天の海月の舟)

8月7日は旧七夕。
そして翌8日は立秋。
空は澄み渡り、爽やかな風が吹きはじめる季節です。
万葉人は天の川を眺めながら牽牛、織姫に想いを馳せ、
自らの恋に情熱を燃やし、130余首の七夕歌を詠いました。

月を舟に見立てたものや舟漕ぐ壮士(おとこ)も登場します。
なぜ七夕に星ではなく、お月さまなのか?
というのが今回のお話です。

 「 秋風の 清き夕(ゆふへ)に 天の川
         舟漕ぎ渡る 月人壮士(つきひとをとこ) 」
                       巻10-2034 作者未詳

     ( 秋風が清々しく吹く今宵、
       月の若者が 天の川に舟を出して 漕ぎ渡っているよ )

この時期のお月さまは三日月。
作者は月を舟とみなし、「凛々しい若者が漕いでいる」と詠っています。

古代の人達は、太陽は女神(天照大神)、月は男神(月読命)と
信じていました。
この歌では、月の舟漕ぐ若々しい美男子を思い浮かべて
いるのでしょう。

満天の星の中を三日月の舟が渡ってゆく。
渡り終えれば、引き続き牽牛が織姫のもとへ渡る。
「さぁ、これから1年に1度の逢瀬が始まるぞ」と
わくわくしながら空を仰いでいる作者です。

  「 天の海に 月の舟浮け 桂楫(かつらかじ)
             懸(か)けて漕ぐ見ゆ   月人壮士(つきひとをとこ) 」
                              巻10-2223 作者未詳

       ( 天の海に 月の舟を浮かべ 月の若者が桂の楫(かじ)を
         取り付けて漕いでいる)

中国に次のような月桂樹伝説があります。

「 月に桂があり、ヒキガエルが棲んでいる。
  桂の高さは500丈(850m)あり、下に一人の男がいて、
  いつもこの木を切っているが、切り口はすぐふさがってしまう。
  その男は、仙術を学びながら過失のため罪をえて月に流され、
  永久に桂の木を切らされているのだ。」

万葉人はこの伝説を知っていたのでしょう。
月に桂の木が生えていると信じており、その木で楫を作り,
舟に取りつけた若者が、星きらめく天の川を渡って行くと詠っています。

「 夕星(ゆふづつ)も 通ふ天道(あまじ)を いつまでか
       仰ぎて待たむ  月人壮人(おとこ) 」 
                               巻10-2010 人麻呂歌集

     ( お月さん! 夕星はもうとっくに天道で光り輝いていますよ。
       織姫牽牛さんが渡る道をいつまで塞ぐつもり。
       気を利かせて早くその天道を渡ってあげなさいよ!
       二人の逢瀬を見たくて先ほどからじっと上を仰いでいるのに
       一体何時まで待たせるつもり? )

「夕星」とは夕方にひときわ明るく輝く金星、
「宵の明星」ともよばれています。
牽牛、織姫が渡る天道を月が邪魔をしてなかなか動かない。
「お-い 月の若者よ、野暮なことをせず、早く消えて二人を逢せてやれよ」
と詠う作者です。

「 春日にある 御笠の山に 月の舟出づ
          風流士(みやびを)の 飲む酒坏(さかづき)に 影にみえつつ 」
                  巻7-1295  作者未詳 旋頭歌(577 577)

( ここ春日の御笠山に 月の舟がでたよ。
      我々風流人同士がかわす盃に月影を映してな。)

御笠山の麓で賑やかな宴会。

山の間からまん丸い月が顔を出す。
「月が出た出た、月が出た」とはしゃぐ。
なみなみと酒が注がれた盃を見ると、
月が映り込んでいるではないか。

「おうおう、月も飲んじゃえ」と大騒ぎ。

この歌は七夕の三日月ではなく、満月がふさわしい。

次の歌は万葉七夕歌の最高傑作。
以前登場しましたが、別の角度からの解説をどうぞ。

 「 天(あめ)の海に 雲の波立ち 月の舟
       星の林に 漕ぎ隠る見ゆ 」  
                  巻 7-1068  柿本人麻呂歌集

広々とした大空の海、波のような雲。
その中を月の舟が滑るように渡ってゆき、
やがて燦然と輝く星の林に消えてゆく。
美しくも幻想的な情景。

純然たる天体の光景に想像力の翼を広げた叙景歌ですが、
万葉人はなんとファンタジックな想像をするのでしょうか。

以下は大岡信氏の解説です。

『 日本の古代詩歌で、夜の天空というものを、
 これほど大らかな把握の叙景歌として描写した作品は、
 他に見出しえません。

 「天地」の語は万葉に頻出するのですが、それはたいていの場合
 「天地の神」という語に代表されるような信仰心の表現とともにあるか、
 あるいは恋心の誓いや表白とともにあるかでしたから、
 人麻呂のこの歌のように魅力的な叙景歌が、驚くべき新鮮さとして
  受けとめられたことは十分想像できます.
  - - 少なくともこの歌は、奈良時代の歌人たちに、
 信仰心の介入を離れ、純然たる天体の光景に想像力の翼を
  広げることの面白さを教えたでしょう。
- - 大伴家持も、
 「こういう歌を生涯に1首でも作りたかったろうな」と
  やや脱線的な感想も浮かびます。 』
                    ( 私の万葉集  講談社現代新書より)

    「 きらめきて 銀河に流れ ある如し 」  高濱年尾



            万葉集748 (天の海 月の舟)完


        次回の更新は8月9日(金)の予定です。

# by uqrx74fd | 2019-08-01 16:50 | 生活

万葉集その七百四十七 (茂吉と鰻)

( 7月27日は土用丑の日  鰻の日  野田岩 )
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( うな重  野田岩   )
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( 白焼  竹葉亭  )
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( 茂吉が戦前大量に備蓄していた浜名湖食品製 鰻の缶詰 : 現在も売られている)
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万葉集その七百四十七 (茂吉と鰻)

斎藤茂吉は近代日本を代表する歌人であると同時に、万葉集研究でも
大著、「柿本人麻呂」や、4500余の万葉歌から長歌を除く約420余首を選定し、
今もなお入門書となっている「万葉秀歌」、その他多くの歌論などを残し、
その業績は岩波書店の「斎藤茂吉全書全36巻」に纏められております。

特に晩年は人麻呂研究に注力し、人麻呂の終焉の地を探して
全国を歩き廻り、次のような歌も残しました。

  「 人麻呂が つひのいのちを をはりたる
           鴨山をしも ここと定めむ 」      斎藤茂吉 (寒雲)

   人麻呂終焉の地を島根県邑智郡(をうちぐん)邑智町
   大字湯抱(ゆがかい)字鴨山と断定した時の歌です。
       ( いまだ定説なく浜田市内、益田市、奈良県、など諸説あり。)

その精力的な活動の源は何だったのか?
日記によると鰻なのです。
鰻を食べると歌が次々詠め、なんと下痢まで止まったというのですから、
これは霊薬、下剤代わり。
切らすわけには参りません。

「里見真三著 賢者の食欲 文芸春秋社」によると
「 44歳から68歳までから食べた鰻、およそ1000余匹
つまり毎週1~2回、24年間食べ続けた」ことになります。

本人いわく、

「 これまでに 吾に食はれし 鰻らは
          仏となりて かがよふらむか 」 斎藤茂吉 (小園)

  ( 鰻を食べる時は大切に、感謝の気持ちをこめて食う。
   だから俺に食われた鰻たちもきっと成仏し光輝いていることだろう。)

     かがよふ:きらきら光る 万葉歌にある言葉

茂吉がそれほどまでに好んだ鰻ですが万葉集には2首、
それも大伴家持しか詠っておりません。

「 石麻呂(いしまろ)に 我れ物申す 夏痩せに
       よしといふものぞ 鰻(むなぎ)捕りめせ 」 
                    大伴家持 巻16-3853  

( 石麻呂さんよ どうしてあんたはこんなにガリガリに痩せているの?
  夏痩せには鰻がいいというから、鰻でも捕って食べなさいよ )

「 痩す痩すも  生(い)けらばあらむを はたやはた
        鰻を捕ると 川に流るな 」 
                        巻16-3854  大伴家持

 ( しかしなぁ、痩せているとはいっても、命あってのものだよねぇ。 
  鰻を捕りに行って川に流されてしまったら元も子もないもんなぁ。)

     「生けらば」:生きあらば 
             ( 痩せているとはいっても)
             生きておればそれはそれで結構だが
     「はたややた」:その反面

石麻呂は百済から渡来した医師、吉田連宜(よしだのむらじよろし)の息子で
生まれつき体がひどく痩せていたようです。
作者は父、旅人とともに二代にわたり親交があった仲なので遠慮なく
からかったのでしょう。

石麻呂の父は世間で「仁敬先生」と敬われた名医。
「名医の子なのにガリガリに痩せているのかい」という
「からかい」がこもる一首です。

当時は鰻を丸ごと火にあぶって切り、酒や醤(ひしお)で味付けしたものを
山椒や味噌などを付けて食べていたらしく、それほど美味いとは思われませんが、
家持さんも食べたのでしょうかね。

蒲焼の「蒲」は植物の「蒲(がま)」の穂先。
筒切りにして丸ごと焼いた頭が「蒲の穂先」に似ていることによる鎌倉時代の命名とか。
現在のように開いて、蒸したり焼いたりする、蒲焼となるのは江戸時代の
中期からとされており、
平賀源内が売れなくて困っていた鰻屋に「土用の丑に鰻を」という宣伝文句を教えた、
あるいは蜀山人が広告文を考え大いに広まったなど諸説あります。

 「 ゆうぐれし 机のまへに ひとり居(を)りて
            鰻を食ふは 楽しかりけり 」 
                     齊藤茂吉 (ともしび) 昭和2年

鰻を食べ始めたころの歌。
    一人しみじみと喜びをかみしめながら味わっている様子が
    目に浮かぶような一首ですが、驚くべきことに昭和3年、1年で
    68回、鰻を食べたそうです。

北杜夫(次男)氏によると、昭和18年、長男の茂太の婚約めでたく整い、
両家が築地の竹葉亭で会食をした際、婚約相手の女性が鰻を少し箸をつけて、
そのままにしておいたら、62歳の茂吉が「それ食べないならボクに頂戴」と云って
取り上げて食べてしまったとか、このような逸話には枚挙がありません。

昭和の大戦が近づいた頃のことです。
食糧難が到来することを予想した茂吉は浜松の会社から
鰻の缶詰を大量に買い込み、押し入れに備蓄しました。
そして少しづつ大事に大事に食べたのです。

次の歌は戦争末期、郷里の山形県に疎開した時のもの。

  「 最上川に 住みし鰻も 食はむとぞ
            われ かすかにも 生きてながらふ 」 茂吉 (短歌拾遺)

疎開先の町長から講演を依頼された茂吉は最初断った。
ところが町長もさるもの、「お願い出来れば夕食に鰻を用意しますが。」
とたんに「 何!鰻! そんならやるやる」と茂吉さんです。

そして終戦。

 「 あたたかき 鰻を食ひて かへりくる
          道玄坂に 月押し照れり 」  茂吉(渋谷 花菱へ)

    「けふ一日 ことを励みて こころよく
          鰻食はむと 銀座にぞ来し 」   茂吉(銀座 竹葉亭へ)

花菱、竹葉亭ともいまだ繁盛しております。

昭和23年 年老いた茂吉は次第に食欲が衰え、鰻が食べられなく
なってきました。

  「 ひと老いて 何のいのりぞ 鰻すら 
        あぶら濃過(こす)ぐと 言はむとぞする 」 茂吉 (つきかげ)

昭和24年

「 十余年たちし 鰻の缶詰を 
         をしみをしみて ここに残れる 」 茂吉 (つきかげ)
昭和25年

 「 戦中の 鰻のかんづめ 残れるが
           さびて居りけり 見つつ悲しき 」 茂吉 (つきかげ)

もう完全に食べられなくなっていたようです。

生涯の作歌17907首、そのうち鰻の歌32首は
意外と少ない気がいたします。

1951年(昭和26年)文化勲章、1952年(昭和27年)文化功労者。
文学界に巨大な足跡を残し1953年(昭和28年) 没。

享年70歳、鰻とともに生きた生涯でした。

 「 鰻焼く 備長炭の 極暑から 」  田村劉一郎



           万葉集747 (茂吉と鰻) 完


次回の更新は8月2日 (金)の予定です。

# by uqrx74fd | 2019-07-25 20:27 | 生活