万葉集その七百三 (虫の声)

( コオロギ  向島百花園 )
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( スズムシ   同上 )
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( 虫の声  明日香稲渕 案山子祭  奈良 )
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( 虫の演奏会   同上 )
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( 巨大な赤トンボ   同上 )
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   万葉集その七百三 (虫の声)

秋風吹きはじめるころ、日暮れと共に「ルルルル」(邯鄲;カンタン)
「ガチャガチャ」(くつわ虫)、チョンギース(きりぎりす)、「チン チロリン」(松虫)
「コロコロコロリーン」(こおろぎ)、リーンリーン(鈴虫)など賑やかな虫の声が
聞こえて参り、私たちの気持ちを和ませてくれます。

虫の音を聞くことは古代の人達にとっても大きな楽しみでしたが、万葉人は、
秋に鳴く虫はすべて蟋蟀(こおろぎ)とよび、個別に聞き分けて名を付けたのは
平安時代からです。

蟋蟀科の昆虫の種類は日本で90種とも言われ、なかでも
ツズレサセコオロギやエンマコオロギ、ミツカドコオロギなどが
よく知られていますが、単に「こおろぎ」といえばツズレサセコオロギを
指すことが多いようです。

   「 鳴き止むと いふことのなく つづれさせ」    稲畑汀子

「ツズレサセコオロギ」の名は晩秋に生き残って鳴く蟋蟀の鳴き声を
「肩刺せ 裾刺せ 綴(つづ)れさせ」と聞きなし、冬仕度の為の着物の手入れを
するように教えているという俗信に由来するそうですが、
次の歌は平安時代には蟋蟀の鳴き声を「綴れ刺せ」と聞きなしていたことを
示すものです。

「 秋風に ほころびぬらし藤袴
      つづりさせてふ きりぎりす鳴く 」 
                        古今和歌集 在原棟梁(むねやな)

( 秋風に吹かれて藤袴がほころびたらしい。
 「ツズリサセ ツズリサセ」と蟋蟀が袴のほころびをなおしなさいと
  鳴いているよ)

秋の七草の「藤袴」と衣類の絝をかけたもの。
「こおろぎ」は平安時代「きりぎりす」とよばれていました。

短歌の構成(57577)の制約上「こおろぎ」の四文字よりも「きりぎりす」の
五字の方が詠みやすいこともあったようですが、この誤用は延々と
江戸時代まで続きます。

 「 あたたかい雨です
      えんまこほろぎです 」     三橋鷹女

  コオロギの鳴き音は3種類あるそうで、                                 
  「コロコロコロコロ」  ひとり鳴き    
  「コロコロリ・・・コロコロリ」  切ない響き、雄の求愛  
  「キリキリキリッ 」は  縄張り争いの喧嘩鳴き。

「 蔭草(かげくさ)の 生ひたるやどの 夕影に
        鳴くこほろぎは  聞けど飽かぬかも 」  
                       巻10―2159 作者未詳

( 蔭草が生い茂っている庭先の、夕方のかすかな光の中で
 鳴いている蟋蟀の声は、いくら聞いても飽きることがない。)

           蔭草:物陰に生えている草

草むらの蔭から蟋蟀の音がきこえてくる。  
右から左から、真中から、やがて大合唱。  
ひとしきり鳴くとピタリととまり、また鳴きはじめる。  
まるでコーラスだ。                     

「 庭草に 村雨降りて こほろぎの
        鳴く声聞けば  秋づきにけり 」  
                    巻10-2160 作者未詳

( 村雨(ひとしきりの雨) がさっと降りすぎてゆきました。
  おぉ、庭草の間から蟋蟀の鳴きすだく声が聞こえてきたよ。
  もう秋になったのだなぁ)


一人静かに秋を告げる虫の声に耳を傾けている作者の姿が目に浮かび、
「淡々として清く、落ち着いた気韻があって、まことに歌品が高い」(佐々木信綱)
と評されている一首です。

「 秋風の 寒く吹くなへ 我がやどの
      浅茅がもとに  こほろぎ鳴くも 」   
                       巻10-2158 作者未詳

( 秋風が寒く感じる位に吹くおりしも、我家の庭の浅茅の根元で
  こおろぎが鳴いていますよ )

    「なへ」 ~するにつれて 二つの事象が併行して進さまをいう
    「浅茅がもと」:「浅茅」は丈が低い茅(ちがや)
              「もと」は根元

なんとなく肌寒い気配。
ふと気が付くと虫たちが盛んに鳴いている。
深まりゆく秋をしみじみと感じている作者。
調べよく、爽やかな涼気が漂う一首です。

「 我のみや あはれと思はむ きりぎりす
           鳴く夕かげの 大和なでしこ 」 
                    素性法師  古今和歌集

( この秋の夕日の中に可憐な花を咲かせている大和撫子を
  一人で眺めているのは何とも惜しい。
 蟋蟀の声がしみいるように聞こえてくるこの野原で。)

         「大和撫子」はカワラナデシコ(河原撫子)。

「撫子」は「いとしんでいる子」を掛けているようです。
撫でてやりやいくらい愛しい人と一緒に眺めていたいという意が含まれ
秋の夕景、蟋蟀、大和撫子の取り合わせが日本人の繊細な感性を
伝えている一首です。

「こおろぎ」は現代に至るまで錚々たる歌人に多く詠われています。


「 こほろぎが  清く寂しく  鳴き出でぬ
        雲の中なる 奥山にして 」     与謝野晶子

 深々とした奥山。
 作者は寺にでも泊まっていたのでしょうか。

 澄み切った空気に響く蟋蟀の音。
 低く、高く、どことなく寂しげだ。
 これは求愛の声だろうか。

「 わが住みし 山寺(さんじ)の縁に 脱ぎ棄てし
           君が草履に こほろぎの鳴く 」     吉井勇

 愛する女性が訪ねてくれた。
女は案内を待ちきれず、急いて玄関を駆け上がったのか。
乱雑に脱ぎ捨てた草履にまだ温かみが残る。
何となく大人の色気が感じられる一首です。

そして最後に「もののあはれ」を解さぬ人への痛烈な皮肉。

「 部屋には こおろぎがいるのに
  なぜ こおろぎの話をしないのか
  この部屋の人達は みんな女の話ばかりする 」 

                       (村上昭夫  動物哀歌)


             万葉集703 ( 虫の声) 完


            次回の更新は9月28日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2018-09-20 16:23 | 動物

万葉集その七百二 (山梨)

( 山梨 万葉人は花や実より黄葉を愛でた  奈良万葉植物園 )
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(  山梨の実は小ぶりで酸味あり   同上 )
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(  山梨の花   同上 )
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( 白い清楚な花は美女の代名詞   同上 )
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 万葉集その七百二 (山梨)

万葉集で詠われている「梨」は西日本以南に分布する落葉高木の「山梨」と
されています。
弥生時代、稲作とともに中国から渡来した我国最古の果物の一つで、
現在食されている「二十世紀」「長十郎」などの原種に近いものと
推定されていますが、実は小さく、酸味も強かったようです。

春、若葉開く頃、五弁の白い花が咲き、その美しさは古来、美女に形容されて
きました。
また梨は腸の働きを良くし、便秘解消、利尿作用、さらに腎臓病に効ありと
されており、693年、持統天皇は
「 桑、からむし(苧麻:ちょま)、梨、栗、青菜などの草木を植え、五穀の助けとせよ」

との詔を下し全国に栽培をすすめたとの記録(日本書紀)されている有用の植物です。

万葉集では4首、面白いことに梨の実や花ではなく葉の黄葉を
詠ったものばかりです。

 「 十月(かむなづき) しぐれの常か 我が背子が
     やどの黄葉(もみちば) 散りぬべく見ゆ 」 
                            巻19-4259 大伴家持

  ( 十月の時雨はこの時期の習いなのでしょうか。
    あなたさまの庭の梨の葉は色づき、またとなき美しさ。
    今にも散りそうに見えるくらいですが
    いつまでも、この景色を見ていたいものです。)

この歌の後書きに「時に当たりて梨の黄葉を見てこの歌を作る」とあり、
紀飯麻呂(きの いまろ)という官人宅での宴席で梨の黄葉の盛りを褒め、
主人を讃えた一首です。

「しぐれ」は紅葉を促し、かつ散ることを早めるものとされていました。
作者は盛りの梨の黄葉が雨に濡れて、今にも散りそうな様子に風趣を
感じたようです。
主人を褒めるのに「散る」という表現はそぐわないような気がしますが、
気楽な宴席だったからでしょうか。

 「 霜露の 寒き夕(ゆうへ)の秋風に
      もみちにけらし 妻梨の木は 」  
                   巻10-2189 作者未詳

( 露が置き、秋風もひとしお寒く感じられるこの夕べです。
    この寒さで妻なしという梨の木もどうやら色づいたようですね。)

    「妻梨」は「妻なし」で恋人もいない一人身。

夕べは男女の出会いの格別な時間帯。
そんな中でのわびしさは一入。
かわいそうな妻梨さんよと自嘲のからかいがこもる一首です。

    「 甲斐が嶺に 雲こそかかれ 梨の花 」  蕪村

昔、甲斐の国は山梨、八代、巨摩、都留4つの郡がありましたが、
明治4年11月、廃藩置県で「山梨県」になりました。

その地名由来はバラ科ナシ属の「ヤマナシ」という木が多く、
奈良時代、既に「山梨郡」がみられたことによるとされています。(通説)

その他、「なし」は「成す」の連用形「成し(~のある所の意味)」で
「山成し」を由来とする説や、反対に土地が平らで山が無かったことから、
「山無し」の意味とする説もありますが、この両説はピンときません。

   「 法隆寺の まへの梨畑 梨の実を
            ぬすみし若き  旅人なりき 」  若山牧水

我国は世界的な梨の生産国。
江戸時代には150以上の品種がつくられ、今や1000品種あるとか。
果皮の色から黄褐色の赤梨、淡黄緑色の青梨に大別され、赤梨系が主流。
その代表銘柄は幸水、豊水、新高、長十郎。 
青梨の代表格二十世紀。 
産地のベスト3は千葉、茨城、栃木県とされています。(2016年)

熟した果実を生食するほか、ジャムや果実酒の原料にも。

日本梨特有のシャリシャリとした歯触りは秋の味覚の醍醐味ですが、
欧米ではあまり好まれず砂のようだという意味で「サンド・ペア」と
よばれているそうな。

  「 梨むくや 甘き雫の 刃を垂るる 」  正岡子規




     万葉集702 (山梨)  完

     次回の更新は9月21日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2018-09-13 10:12 | 植物

万葉集その七百一(秋さらば)

( 秋風吹く空 )
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( 鶏頭 古代名:韓藍 からあい  山辺の道 奈良 )
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( ミヤギノハギ  神代植物公園 )
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( 秋さらば 今も見るごと 妻恋ひに 鹿鳴かむ山ぞ 高原の上  京都御所 )
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万葉集その七百一 (秋さらば)

「さる」という言葉は万葉集で130例と多くみられ「去」「離」「避」の
原文表示がなされています。
通常は「移動する」「特定の場所からいなくなる」などの意で使われますが、
時間帯や季節を表す語に付く場合は「やってくる」という逆の意味に変わる
特殊な言葉です。
つまり、「夕さらば」は「夕方になると」、「秋さらば」は「秋になると」。

古代の人は、自分自身の意思にかかわらない自然現象については神意の発動を感じ、
このような用例になったと思われますが、歌語としての5文字は使いやく、
「秋されば」となったり、「冬籠り 春さりくれば」(長い冬が終わり春が来ると)
のように2句目に使われる場合もあります。

「 秋さらば 移しもせむと 我が蒔きし
     韓藍(からあひ)の花を  誰(た)れか 摘みけむ 」
                      巻7-1362 作者未詳

( 秋になったら移し染めにしようと、私が蒔いておいた鶏頭の花なのに、
 一体、どこの誰が摘み取ってしまったのだろうか。)

韓藍は唐(から)からきた藍(染料の総称)。
鶏頭は染料として衣類に直接摺り染め(移し染め)にしていました。

丹精して育てた鶏頭が見頃になったのに知らない間に摘み
取られてしまった。
いったい誰がこんなひどいことをしたのだろう。

ここでの「移す」には結婚する、あるいは関係を持つという意味が
含まれています。
というのは、この歌は「花に寄せる」比喩歌で鶏頭は最愛の娘を暗示
しており、

「大切に育てたあの子、時が来たらこれと見込んだ男に嫁がせようと
楽しみにしていたのに知らぬ間にあらぬ男にとられてしまった。」
と嘆いている母親の歌と思われます。

「 - - 露霜(つゆしも)の 秋さり来れば 
生駒山 飛火(とぶひ)が岳の 
萩の枝(え)を しがらみ散らし 
さを鹿は 妻呼び響(とよ)む 
- - 」 
             巻6-1047  田辺福麻呂歌集

(- - 露が冷たく置く秋ともなると
 生駒山の飛火が岳で
 萩の枝を からませ散らして
 雄鹿が妻を呼び求めて 声高く鳴く- - )
 
作者は最後の宮廷歌人で、左大臣橘諸兄の庇護を受けていた人物。

741年 聖武天皇が都を恭仁京に遷都した時、平城京が廃都となり
寂びれゆく様子を悲しんだ長歌の一部です。

「飛火」は緊急時伝令の為の狼煙台(のろしだい)。

歌の前段で、春は桜が咲き、カワセミが鳴き飛ぶ美しい都も荒れてゆくと
悲しんでおり、そのうるわしい土地から離れてゆくので神がお怒りにならないよう、
一種の地霊を鎮める役割も担っている長歌です。

「 秋さらば 今も見るごと 妻恋ひに
      鹿鳴(かな)かむ山ぞ  高原(たかはら)の上 」  
                               巻1-84 長皇子

(  秋になったら 今、我らが見ているように
  鹿が妻に恋焦がれてしきりに鳴いているのを見たいと思うような
  高台の山ですね。)

天武天皇の子、長皇子が志貴皇子(しきのみこ:天智皇子)を 奈良佐紀の宮の
私邸に招き宴した時の歌。

二人は佐紀の宮から北に見える小高い丘を見ながら春の景色を楽しんでいます。
そして「今もみるごと」は屋敷の中にある絵。
秋の野で鳴く鹿の屏風絵を見ながら詠っているのです。
邸宅の春の景色を楽しみながら、

「 秋にもまたおいで下さい、きっとこの絵のような景色や鹿の声が
 聞こえますよ。」

と細やかなおもてなし。
天武系と天智系の皇子が打ち解けながら、和気あいあいと楽しんでいる
様子が彷彿されます。

京都御所を拝観している時、このような情景ぴったりの襖絵を見付けました。
妻呼ぶ鹿と萩の取り合わせ。
まるで、この歌のために描かれた絵のようです。

「 この寝(ね)ぬる 夜(よ)のまに秋は 来(き)にけらし
        朝けの風の 昨日(きのふ)にも似ぬ 」 
                         藤原季通(すゑみち)   新古今和歌集

( 寝ていたこの一夜のうちに、秋がいつの間にかやってきたらしい。
 今日の明け方の風は、昨日とちがって涼やかだ。)

風に秋を感じた歌が多い中、肌の冷気で秋到来を詠った一首。

朝夕日増しに深まりゆく秋。
そろそろ熱燗が恋しくなる季節です。

「 夕されば 秋風吹きて 縄のれん 」 筆者


         万葉集701 (秋されば) 完


          次回の更新は9月14日(金)の予定です。




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# by uqrx74fd | 2018-09-06 10:38 | 自然

万葉集その七百 (帝王聖武)

( 聖武天皇  小泉 淳作 画  東大寺蔵 )
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( 東大寺大仏殿 )
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( 東大寺南大門 )
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( 正倉院 )
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( 大仏池 )
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( 鋳造中の大仏  奈良万葉文化館 )
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( 二月堂 お水取り )
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( 聖武天皇佐保山陵 )
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万葉集その七百 (帝王聖武)

聖武天皇といえば、まず頭に浮かぶのは国家の財を湯水のごとく使い、
東大寺と大仏、さらに全国に国分寺と国分尼寺を建立した専制的な天皇。
5年の間に都を平城京、恭仁京、紫香楽宮、難波宮とめまぐるしく造営し、
最後に平城京に戻る、という常人では考えられないような彷徨の人。
そして、生前愛用した絢爛たる日用品や宝物を正倉院に遺し、
現在なお多くの人を魅了してくれている帝。
といったところでしょうか。

732年8月、聖武天皇は節度使を各地に派遣することにしました。
節度使とは地方の軍備の充実をはかるために置かれた監察官、いわば
駐屯部隊の隊長です。
派遣されるメンバーは、東海、東山二道に藤原房前、山陰道に 多治比真人、
西海道は藤原宇合。

(  東海道:常陸から伊勢まで  東山道:陸奥から近江 
   山陰道:丹波から壱岐    西海道:九州から対馬 )

さらに加うるに、道ごとに判官4人、主典4人、医師1人、陰陽師1名という
錚々たる陣容です。

次の歌は出発にあたり壮行会で天皇が下された長短歌。
宣命のような調べになっています。

まずは長歌の訳文から

( 朕が治める国の 遠く離れた政庁に
  そなたたちが こうして出向いたならば
  私は心安らかに 遊んでいられよう。
  腕を組んでいられよう。
  天皇たる我は その尊い手で そなたたちの髪をなでねぎらい給うぞ。
  そなたたちの頭(こうべ)をなでて ねぎらい給うぞ。
  そなたたちが帰ってくる日、その日に相ともにまた飲む酒であるぞ
  この尊い酒は )     6-973 聖武天皇

 原文

「 食(を)す国の 遠(とほ)の朝廷(みかど)に 
  汝(いまし)らが  かく罷(まかり)なば
  平(たひら)けく 我は遊ばむ
  手抱(てむだ)きて 我はいまさむ

  天皇(すめら)我れ うづの御手(みて)もち かき撫でぞ 
  ねぎたまふ うち撫でぞ
  ねぎたまふ 帰り来(こ)む日  相飲(あひの)む酒(き)ぞ
  この豊神酒(とよみき)は 」
                              巻6-973 聖武天皇

語句解釈

     食(を)す国: 天皇の統治する国 「食(を)す」は「食う」の敬語。
                   統治するものは諸国献上の五穀を食べることで国々の支配を
                   果たすという考えから「治める」の意となった。

     遠の朝廷(きかど」: 天皇支配下の各国庁
     罷(まかり)なば: 退出したら

     平けく我は遊ばむ: 帝王自ら手を下さずして天下治まるの意

     うづの御手 ;「うづ」は高貴の意 祝詞などに使われ
              「宇豆は貴なり」の記述もみえる。
              天皇という立場から自らの敬語を使っている

      かき撫でぞ: 頭を指で撫で無事成功を祈る呪的行為

      ねぎたまふ:優しくいたわる

      豊神酒 : 霊力ある酒

 反歌

「 ますらをの 行(ゆ)くとふ道ぞ  おほろかに
      思ひて行(ゆ)くな  ますらをの伴(とも) 」
                      巻6-974 聖武天皇

( これからの道は ますらお たるものが行くという道。
通りいっぺんな気持ちで行くのではないぞ。
ますらおのこ たちよ )

 おほろかに: 通り一辺な気持ちで

「 雄渾な調べの中に王者の貫録がみなぎっている。
  汝らの労ゆえに みずから手を下さなくても天下がよく治まる。
  その労を賞(め)で、その功が発揮されるよう天皇たるもの
  この手で汝らの頭を撫でるのだ、の部分は無事成功を祈る呪術。」
                                     ( 伊藤博 万葉集釋注3)

以下は私的な場で詠われたもので声調が がらっと変わります。

「 秋の田の 穂田(ほだ)を雁がね 暗けくに
      夜のほどろにも 鳴き渡るかも 」 
                      巻8-1539 聖武天皇

( 秋の田の穂田を刈るという名をもつ雁が、まだ暗いのに
      夜の明けきらないうちから、鳴き渡ってゆく)

    夜のほどろ: 「ほどろ」は密なる物が拡散して粗になるさまを言う語で
             ここでは夜の闇が白みはじめる頃

「 今朝(けさ)の朝明(あさけ) 雁が音寒く 聞きしなへ
        野辺(のへ)の浅茅ぞ 色づきにける 」 
                         巻8-1540 聖武天皇

( 今朝の明け方に雁の声を寒々と耳にした。
  折しも周りを見渡すと、野辺一帯の浅茅がすっかり色づいているぞ。 )

自然の情景を感じたまま述べ、公の場で見せる威厳とは違う穏かな
性格が滲みでている2首です。

 また、狩場での次のような女性との戯れ歌も残されています。

「 赤駒の 越ゆる馬柵(うませ)の 標(しめ)結ひし
     妹が心は 疑ひもなし 」  
                         巻4-530  聖武天皇

( 元気な赤駒がうっかりすると飛び越えて逃げる柵を
     しっかり結び固めるように、お前も私のものであると標を結っておいた。
     汝の俺を想う心に何の疑いもないよな。)

  海上女王(うなかみの おほきみ 天智天皇皇子 志貴皇子の娘) に贈った歌。

「 しっかりと標(しめ:目印) を結んで固めたからには、
  馬が柵を越えて放れ馬になるように、お前が勝手に俺から離れていくことは
  ありえない」

の意を込めた、狩場の宴席での戯れ。
それに対して女王は

「 梓弓 爪引(つまび)く夜音の  遠音(とほと)にも
      君が御幸(みゆき)を 聞かくし よしも 」 
                             巻4-531 海上女王

( 魔除けに梓弓を爪引く夜の弦打ちの音が遠くに聞こえますが
  その音のように遠くから聞こえてくる噂、
  我が君の行幸があると伺うことが出来るのは嬉しいことでございます)

女王は帝の行幸に参加しているので目の前の席にいます。
しかし天皇から詠みかけられた歌は狩の御幸の場なので、
自分が今いるところにお出まし戴けるのはうれしいことですと
機転を利かしたもの。

狩の開始直前に大猟を予祝して弓の爪引きを行なうのが当時の慣例でした。

   「 父母よ 今は何処と 首(おびと)泣く 」  筆者

              首(おびと):聖武天皇の幼名


聖武天皇は701年文武天皇を父(天武孫) 藤原宮子(不比等娘)を母とする
第1皇子に生れましたが、わずか7歳の時に文武死没。
母、宮子も出産後、心的障害に陥り長年隔離生活を送ったので
何と37歳になるまで対面することが出来なかっという寂しい幼年時代を
過ごしました。

母方の祖父藤原不比等邸で育てられたといわれていますが、
自ら決めたことはどんなことがあってもやり通すという強靭な意思は
その不幸な生い立ちから培われたのでしょうか。
 
    「 三代の女帝 首(おびと)を  守り抜く 」  筆者

天武天皇亡きあと天武第一皇子草壁皇子が若くして亡くなったため(27才)、
持統皇后が皇位を引継ぎ、その後元明(文武の母)、元正(文武の姉)と
3代の女帝が聖武の成長を待つために中継ぎとして皇位を継承し、
聖武24歳でようやく即位します。

当時の世相は天然痘が流行し、権勢を誇った藤原4兄弟をはじめ朝廷高官の相次ぐ死亡。
さらに、飢饉、戦乱、度重なる遷都による労力負担、民の疲弊による逃亡、
など社会のあらゆる面で律令国家の存立が危ぶまれる状態でした。

聖武はこの難局を打開するため、世にも稀なる巨大な大仏を建立することにより
あらゆるエネルギーを吸収し鎮護国家を作り上げることを目指したのです。

彷徨の5年と云われる地方行幸も天武天皇の壬申の乱の折の足跡を辿り、
建国の精神に立ち戻って国家再建の決意を新たにし、相次ぐ遷都も
大仏建立のための物流基地、工事現場の確保などの目的もあったようです。

しかしながら、紫香楽の宮で大仏の像体骨柱が出来上がったころで
地震水害が発生したうえ、民の不満が頂点に達して放火が相次ぎ、
遂に都を平城京に戻さざるをえなくなりました。

それでも、聖武は不撓不屈の精神を傾け、金鐘寺(こんしゅじ:のちの東大寺)で
大仏の造立を続け、完成間近の749年、幸運にも陸奥の国から金産出。
遂に752年、9年を費やして大仏開眼を果たしたのです。

 「 あをによし 奈良の都は 咲く花の 
       にほふがごとく 今盛りなり 」  
                      巻3-328 小野 老(おゆ) 

その後海外からの渡来人も多くなり平城京は、さながら国際都市となり
  天平文化の華が開きます。
  国を傾けるような大事業。
  帝王聖武は未来永劫の遺産を我々に遺してくれたのです。

  「 おほらかに もろてのゆびを ひらかせて
        おほきほとけは  あまたらしたり 」  会津八一

( 大仏は 大きく豊かな両手の指を お開きになって
     その慈徳は 宇宙に広く満ち広がっているのです 。)

749年、天皇は第1皇女阿倍皇太子に譲位、孝謙天皇誕生。
756年 聖武太上天皇56歳の波乱の人生に幕を閉じ、佐保山陵に葬られました。

 隣陵には終生の伴侶 光明皇后。
天皇の遺品を東大寺に遺贈し正倉院宝物とされた方です。

「 我が背子と ふたり見ませば いくばくか
             この降る雪の 嬉しくあらまし 」  
                   巻8-1658 光明皇后
( この降り積もる雪の見事なこと。
      わが背の君と一緒に見ることができましたら、
      どんなに嬉しく思われることでしょう )

夫、聖武天皇が東国巡幸の旅にでた折に贈った歌。
一人の女性として詠い、可憐。 

正倉院に通じる道の小高い丘に建てられているこの歌碑は
正面に正倉院、右側は大仏殿に隣接しており、
いつまでも優しく聖武帝を見守っているようです。

   「 大仏殿 鴟尾(しび)の上なる 秋の雲 」  秋山花笠

      
     万葉集700  (帝王聖武) 完



   次回の更新は9月7日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2018-08-30 10:49 | 生活

万葉集その六百九十九 (あいの風)

( 雨晴海岸から立山連峰を臨む   高岡市)
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( 能登の千枚田 )
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(能登の海 )
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( 能登の海にはあゆの風吹く )
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  万葉集その六百九十九 (あいの風)

テレビ放映で「俳句ランキング プレバト」という人気番組があります。
各界有名人が自作の俳句を披露し、夏井いつき先生の添削よろしきをえて、
それぞれの順位を決定し、名人、素人など格付けを競う。
先生と生徒のやり取りが面白く、また、なかなか勉強になる内容です。

  「 降り立ちて 夜のしじまに あいの風 」  柴田理恵

見事1位になり特待生に昇格した秀句。
よくぞ「あいの風」という季語を見付けてきたものだと感心することしきり。

夏井先生は「地域性をもつ日本海沿岸の独特の夏の季語」と的確な説明を
されていましたが、「あいの風」(あゆの風ともいう)の「あい」(あゆ)とは
どのような意味をもつ風なのでしょうか?

それが、なんと!1300年も前に大伴家持が詠っているのです。

「 東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし 奈呉(なご)の海人(あま)の
     釣りする小舟(をぶね) 漕ぎ隠る見ゆ 」 
                           巻17-4017  大伴家持

( あゆの風が激しく吹くらしい。
 奈呉(なご)の海人たちの釣りする船が波間にゆらゆらと見え隠れするよ )

注記に「東風(あゆのかぜ) 越の国ことばをいう」とあり、
当時の家持の任地、越中(富山県)の方言だったようです。

  奈呉: 高岡市から射水市にかけての海岸

今日、東風は「こち」と訓まれ、凍てを解き梅を咲かせる春告げ風。
春の季語とされていますが、「あゆの風」は夏の強い風、時には低気圧を伴う
暴風となる危険な風ともされ、「時化(しけ)東風」という言葉もあります。
民俗学者によると、この言葉はもともと瀬戸内海沿岸を主とし、
各地で使われた漁師用語だったそうです。

家持時代の越中の国は能登も含んでおり、山陰地方から吹く北東風が
北西風に転換する地点。
この沖の方から吹いてくる風を「あゆの風」(現在はあいの風)とよんでいたのです。

「 英遠(あを)の浦に  寄する白波 いや増しに
      立ちし き寄せ来(く) 東風(あゆ)をいたみかも 」
                          巻18-4093  大伴家持

( 英遠(あを)の浦に 打ち寄せる白波 この白波はいよいよ立ち増さって
 あとからあとから押し寄せてくる。
あゆの風が激しいからであろうか )

  英遠(あを)の浦: 富山県氷見市の北端、阿尾(あを)の海岸 
  いたみかも: 激しいからだろうか

「 東風(あゆ)をいたみ 奈呉(なご)の浦に 寄する波
     いや千重(ちへ)しきに 恋ひわたるかも 」 
                        巻19-4213 大伴家持

( あゆの風が激しく吹いて 奈呉の浦辺に幾重にも押し寄せる波
 その波のようにあなたのことをしきりに恋しく思い続けています)

註に「京の丹比家(たぢひけ)に贈ると」あり、大伴家から京都に嫁いだ
女性にあてた歌を恋文仕立てにしたもの。

大伴家と丹比家は極めて親しい間柄。
珍しい越中の風や地名を紹介する意図から歌に詠みこんだものと思われます。
奈呉の浦は当時、白砂青松の景勝地で万葉集に14首も詠われていますが、
今はその面影はなく、地名を残すのみです。

万葉集に詠われている「あゆの風」は4首(うち長歌1)あり、全て家持作。
よほど、この国言葉が気に入ったのでしょう。

越中方言の記録としては最古級のもので、もし家持が歌に詠まなかったら
季語として残ったかどうか?
極めて貴重な歌群なのです。

「 家持が 詠いしあゆの 風が吹く
          平成の夜 プレバトに 」     筆者

それでは「あゆ:あえ」とはどういう意味なのか?

山本健吉氏によると
『「あゆ」とか「あえ」という言葉にはもともと特殊な意味があり、
能登の珠洲(すず)市あたりで「あえのこと」といわれる古風な新嘗の祭りが
今も行われている。
霜月(11月)5日、今は新暦の12月5日に家々で田の神に新穀感謝の祭りを
やるのである。

この「あえ」には「饗」の字を当てている。
家のあるじがあたかも眼前に田の神があるように、猪苗代田へ行って神を
家の中に案内してきて、風呂に入れたり数々の饗応をしたりする。
その後、田の神は山に帰り、翌春2月5日に田の神迎えを行い、
これもあえのことと云っている。

 この「あえ」と同じ意味らしい。
あゆ(あえ)の風とは、沖から珍宝をもたらす風なのである。
風によって浜辺に多くの魚介類や海藻などの食物や、木材その他の
漂流物をも吹き寄せるのである。

船が寄ることも、それが財宝を落としていくもので、寄り物の一種だった。
だから、強吹き(こわぶき)であるほど、多くの珍宝をもたらすのである。
 昔は遠洋漁業などはなかった。
ひところの北海道の鰊漁のように浜辺に群来(くき)して寄せてきたものを
拾えばよかった。 

そういう古い風の名がいまだに生きていて、漁民たちの生活に中に
使われているのである。
それはまた、船乗りたちにとっては冬の季節風が終わった合図となり、
あいが吹き出す頃から、港々の船の往き来が頻繁になってくるのである。』
                       (ことばの歳時記 文芸春秋社 要約 )

「 あいの風 松は枯れても 歌枕 」  角川源義
  
          万葉集699(あいの風)完



         次回の更新は8月31日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2018-08-23 18:27 | 自然