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カテゴリ:万葉の旅( 67 )

万葉集その七百三十三 (吉野賛歌)

( 蜻蛉の滝:せいれいのたき  奈良県吉野郡  N.Fさん提供 )
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( 奥千本  吉野 )
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( 宮滝   同上  この近くで吉野離宮が営まれた )
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( 象山:きさやま  象の形に見えるのでその名がある  )
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(鳥の声 川崎春彦 
   み吉野の 象山の際(ま)の 木末(こぬれ)には ここだも騒く 鳥の声かも  山辺赤人)
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(  奥千本より金峯山寺を臨む  )
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万葉集その七百三十三 (吉野賛歌)

   「 吉野山 下千本の 花がすみ 」  小林あや子

万葉集で「吉野」という地名がみえるのが70余首。
他の地を圧倒する多さ、しかも自然の美しさを讃えると共に
天皇の治世を寿ぐ歌ばかりです。
なぜ吉野は、かくも賛美されたのか?

天智天皇の末期、病重き天皇から譲位を打診された大海人皇子(のち天武)は
兄の言葉の裏に殺意を感じ、にわかに剃髪して僧となり、
妃、鵜野讃良(うののさらら:のち持統)を伴い近江を離れ吉野に隠棲。
そして、忍従苦節9か月の後、壬申の乱に勝利して天皇に即位しました。

以来、吉野は天武朝発祥の聖地と位置づけられ、飛鳥に都が置かれると
吉野川のほとり宮滝付近に離宮が営まれて、歴代天皇の行幸42回、
なかでも持統女帝は32回も訪れたのです。(女帝前後を含めると34回)

吉野は水が豊富に湧き出るほか、水銀、金銀を産する鉱山があり、
歴代天皇は水の神に五穀豊穣を祈り、かたわら鉱物発掘作業督励し、
さらに創建時代の精神に戻って良き国造りへの決意を新たにしたものと
思われます。
 
多くの官人や女性を従えた天皇の行幸。
数百人の人たちが、山々に囲まれた川のほとりの神仙境で賑やかな酒宴を催し、
美しい吉野と良き治世を讃えました。

次の長歌と短歌2首は、725年5月 (神亀2年)、聖武天皇行幸の折のもの。
2首の短歌はあまりにも有名すぎて、長歌が置き去りにされがちですが、
長短歌を同時に鑑賞することにより、作者の意図が鮮明になり、
歌も味わい深いものとなりましょう。

まずは訳文から

「 あまねく天下を支配される われらの大君が 
  高々とお造りになった吉野の宮
  この宮は 幾重にも重なる青い垣のような山々に囲まれ 
  川の流れの清らかな河内である
  春には 山に花が枝もたわわに咲き乱れ      
  秋ともなれば 川面一面に霧が立ち渡る
        
  その山が幾重にも重なるように 幾たびも   
  その川が絶えぬと同様、絶えることなく 
        
  大君に仕える大宮びとは いつの世にも 変わることなく
  ここ吉野に通うことでありましょう 」
                                  巻6-923 山部赤人

「訓み下し文」

「 やすみしし 我(わ)ご大君の 」 

          やすみしし: 「我ご(が)大君」の枕詞、
                 安らかに天下をお治めになる、あるいは八隅をくまなく治めるの意

          我ご大君:  聖武のみならず歴代の天皇

  「高知らす 吉野の宮は 」

          高知らす : 高々とお造りになった

 「 たたなづく 青垣隠(ごも)り 」

         たたなづく: 山がひしめき合って幾重にも重なる

         青垣隠り:青い垣根のように山々に囲まれ

 「 川なみの  清き河内(かふち)ぞ 」

         川なみ: 川の流れているさま

             河内: 川を中心とする山に囲まれた一帯の地

 「 春へは 花咲きををり 」
       
             花咲き ををり: 枝がたわむほどに花が咲き

 「 秋されば  霧立ちわたる 」

 
    「 その山は いやしくしくに 」

          いや しくしくに: しきりに重なる

  「 この川の 絶ゆることなく 」

   「ももしきの 大宮人は  常に通はむ  」

         ももしきの: 大宮人の枕詞 
                 多くの石や木で造られた宮の意

                             巻6-923 山部赤人

さて、この長歌は

「 やすみしし 我(わ)ご大君の 高知らす 吉野の宮は」の導入部のあと、
  交互に「山、川」を対比させ、
「ももしきの 大宮人は  常に通はむ 」 で結句。

一糸も乱れぬ構成で短歌に続きます。

長歌は四季を通じての山川の美しさを、短歌は朝の象山、夜の吉野川を
対比させています。

「 み吉野の 象山の際(ま)の 木末(こぬれ)には
    ここだも騒く  鳥の声かも 」 
                         巻6-924  山部赤人    

( み吉野の 象山の谷あいの梢で 
  こんなにもたくさんの鳥が 鳴き騒いでいる )


「み吉野」と大きく詠いだし、ついで「象山の際」にと場所を特定し、
「木末:こぬれ」と視覚上に焦点を絞り、ここで、にわかに
「聴覚」の世界に転じ、鳴き騒ぐ鳥の声に耳をすまして緊張を持続している。

「自然詠の絶唱としてたたえられるのに値する」(犬養孝)名歌です。

象山(きさやま)は奈良県吉野町宮滝の南正面にあり、
稜線が象の形に見えるところからその名があります。

「きさ」とはは象の古名で象牙の横断面に橒(キサ)すなわち木目に似た
文様が見えることに由来するそうです。
象の渡来は江戸時代とされていますが、万葉人は正倉院御物に描かれた絵や
象にまたがる普賢菩薩像を見てその姿形を知っていたのでしょう。

「 ぬばたまの  夜の更けゆけば  久木(ひさぎ)生ふる
        清き川原(かはら)に  千鳥しば鳴く 」 
                             巻6-925 山部赤人

( 夜が更けてゆくにつれて 久木の生い茂る清らかなこの河原で
     千鳥が鳴きたてている )  
    
「久木」は千鳥が寝ぐらとして好む「アカメガシワ」(落葉高木)。

深々(しんしん)と更けゆく夜。
静寂(しじま)の間から鳥の声が聞こえてくる。
耳をすますと玲瓏と響く川の音と千鳥の澄んだ声。

瞑想することしばし。

昼間に見た清々しい川原と緑鮮やかな木々。
そして飛び交う様々な鳥たちの姿が目に浮かぶ。
それはあたかも眼前でその情景を見ているようだ。

やがて口元から朗々とした調べが。
「 ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる - -」
かくして1300年後に絶賛される名歌が誕生しました。
それは、心の集中から生まれた鮮やかな写生とも言える静寂の極致です。

間もなく平成時代の終わり、この賛歌の吉野を我が美しい日本、
そして脈々と続く皇位継承を寿ぐ歌と読み替えることも出来ましょう。

最後に
「山村暮鳥 日本」 から。

「 日本、うつくしい国だ
  葦(あし)の葉っぱの
  朝露が ぽたりと
  落ちて こぼれて ひとしづく
  それが
  この国となったのだ とも言ひたいやうな日本

  大海(たいかい)のうへに浮いてゐる
  かあいらしい日本
  うつくしい日本
  小さな国だ
  小さいけれど
  その強さは
  鋼鉄(はがね)のやうな精神である
  - -

  静かな国 日本
  小さな国 日本
  つよくあれ
  すこやかであれ
  奢(おご)るな
  日本よ、真実であれ
  馬鹿にされるな    」 
                      
   



           万葉集733(吉野賛歌)完

  

        次回の更新は4月26日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-04-18 16:49 | 万葉の旅

万葉集その七百十一 (明日香の石橋)

( 明日香の飛び石 昔は石橋とよんだ)
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( 明日香川は今も昔も田畑を潤し続けている )
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( 稲渕の棚田の脇を流れる明日香川 )
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  万葉集その七百十一 (明日香の石橋)

「石橋」というと石造りの立派な橋を想像しますが、万葉での石橋は
川を渡るため浅瀬に飛び石を置いたものをいいます。

都の中ならいざ知らず、町並みはずれた田舎町では橋を造る財力も技術もなく、
人々は対岸に渡るため平らで大きな石を探し、川に埋め込んだのです。
それでも結構重く、大変な作業でしたが、日常生活に不可欠な通路は
多くの人達が協力しての産物でした。

石橋は若い人たちにとって恋の通い路。
水かさが増して石が沈んだり、流されたりした時は、恋しい人にも逢えず
悶々とした日を過ごすことになります。

「 明日香川 明日も渡らむ 石橋の
      遠き心は 思ほえぬかも 」 
                  巻11-2701 作者未詳

( 明日香川 あの川を明日にでも渡って逢いに行こう。
 その飛び石のように、離れ離れに遠く隔てた気持ちなど
 少しも持ったことがないよ )

女から「このごろ少しも来てくれないわね。どうしたの。
    心変わりしたの。」
というような便りがきて慌てて言い訳する男。

「 飛び石が離れているような、そんな疎遠な気持ちをもつものか。
 明日にでも行くよ」と
明日香の「あす」と明日(あす)の音を重ねた民謡風の1首。

明日香の稲渕に美しい棚田があります。
その下に明日香川が流れており、上流に向かって歩いてゆく途中
当時の面影を偲ばせる飛び石が残っています。

大きな石で平たく渡りやすい。
でも、少し水かさが増えると足を踏み外しそう。

ごつごつした石を加工したのかもしれませんが、大変な作業だったことでしょう。
岸の草陰にこの歌の歌碑がありました。
昭和57年(1982)8月、大雨による大出水でこの石や近辺の石が
下流に押し流され、復元するのにかなりの機械力が必要とされたらしく、
当時の苦労が偲ばれます。

「 年月(としつき)も  いまだ経(へ)なくに 明日香川
      瀬々ゆ渡しし 石橋もなし 」  
                              巻7-1126 作者未詳

( 年月はまだそれほど経っていないのに
 明日香川のあちらこちらに渡しておいた飛び石は
 もうなくなっている )

しばらく故郷飛鳥を離れていた作者。
久しぶりに帰郷してみると、不変のものと思っていた石橋が消えていた。
かってあの子のもとに頻繁に通い、渡っていた頃の懐かしい思い出。
それも今は遠い昔。

「 秋されば 霧立ちわたる 天の川
     石並(いしなみ)置かば 継ぎて見むかも 」
                 巻20-4310 作者未詳

( 秋になると霧が一面に立ちこめる天の川、
 ここにこっそり飛び石を置いたなら、毎夜々々続けて逢えるだろうか )

秋到来と共に七夕を待たずに逢いたいと心はやる男。
「霧立ちわたる」に「人知れずに川を渡れる、しめた!」の意がこもります。

天の川を仰ぎながら牽牛が織姫のもとに通う様子と、自身の恋の通い路を
重ねたものですが、天の川に石橋を置くとはロマンティックな想像。
その石は星のようにキラキラ光っていたのでしょうか。

  以下は犬養孝氏の解説です。

『 飛鳥が、各地からの訪問者でどんなに充満しているときでも
  飛鳥川の上流、稲渕から栢(かや)ノ森ににかけての一帯は、
  古代の谷間をここに見るような、ひそけさだ。

 きたなくなったという飛鳥川もここでは澄みとおって、
 せんかんと流れ、小魚もぴちぴちと川底に影をうつしている。

 古代には小川の飛び石を渡ってゆくところを「石橋」といった。
 現在、飛鳥川の上流には石橋が五カ所あるが、一つは先年の増水で
 こわされたようだ。

 稲渕の集落のすぐ下にある石橋がいちばん、見事である。
 もちろん、それらが昔のままであるわけはないが、ほぼそんなあたりに
 飛び石がおかれていたにであろう。
 稲渕の石橋を渡ってゆく農家の人にきくと、少し前までは高取から
 壷坂山へゆくだいじな道だったという。
 小魚は、岩のあいだを、ここでもスイスイと泳いでいる。』

                          ( 万葉の里 和泉書院より)

    「 明日香川 小鮎さ走る 石の間を 」    筆者


注: 現在「明日香」は地名、自治体名に
   「飛鳥」は時代、地域名に用いられている。

   古くは万葉集で「飛ぶ鳥の明日香」と詠われたがその由縁は
   鳥が多く飛ぶということは食物が豊富なしるしであり、
   豊穣な地,明日香の褒め言葉として枕詞となり、
   後々、地名に使われるようになった。


          万葉集711(明日香の石橋)  完


          次回の更新は11月23日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2018-11-17 11:17 | 万葉の旅

万葉集その六百九十四 (伊豆と湯河原)

( 伊豆の海 城ケ島 )
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( 修善寺温泉 )
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( 映画 伊豆の踊子ポスター )
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( 富士山5合目 )
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万葉集その六百九十四 (伊豆と湯河原) 

古代の伊豆はもともと独立した国でしたが、大化の改新(645年)のとき、
駿河国に併合され、681年(天武10年)、再び1国としてたてられた
という歴史をもちます。

温暖な気候、風光明媚な海山の自然、新鮮な魚介類や山の恵み、
疲れを癒す温泉など人々が住むには申し分ない環境ながら、
都と直結する交通の要衝、東海道から外れていたためか、
万葉集に登場する歌は少なく、伊豆の海、伊豆の高嶺に寄せた恋歌
そして伊豆で作られた船を詠ったもののみです。

「 伊豆の海に 立つ白波の ありつつも
           継ぎなむものを 乱れしめめや 」 
                      巻14- 3360 作者未詳

( 伊豆の海に 立ちしきる白波のように 
     私は二人の仲を このままずっと長く続けていこうと思っているのに
     何であなたの心を乱したりなどいたしましょうか。)

男から「何でこんなことを言うのか、俺が嫌いになったのか」と
問われて応えたものと思われます。

今まで男から体を求められいつも応じていたのに、今日は拒否した。
あの人、他の女と浮気しているのかもしれない。
ちょっと気持ちを確かめてみようと拗ねてみせたのかも。

「 白波は強風にあおられて立ち騒ぐかと思えばたちまちにして消え、
また瞬時に現れ立つ。
伊豆乙女の恋心はとつおいつ揺れ動き、これまで幾度となく恋人から
離れ戻りしたようで何とも心もとない。」
                      (永井郁 万葉の道 日本教文社 )

ありつつも: 同じ動作を継続することを示す。 ここでは「ずっと」。
乱れしめめや: あなたの心を乱れさせるようなことをいたしましょうか。

「 伊豆の海に 立つ白雲の 絶えつつも
       継がむと思(も)へや 乱れそめけむ 」 
                             巻14-3360 同 (或る本)

( 伊豆の海に湧き立つ白雲のように、湧きあがっては消え
  湧いてはまた流れ去ってゆく。
  そのようにお互いの行き来が途絶えがちであっても、
  なお 二人の仲を続けようと思う気持ちが私にあるから、
  心が乱れはじめてしまったのでしょうか。)

そんな生易しい気持ちで恋したのではないのに、
あの人の訪れが途絶えがちなので気持ちが乱れる。
いっそのこと別れてしまった方が、どんなに楽になることか。
でも、どうしても忘れられない。

乱れそめけむ: 相手に逢いたいゆえ心が乱れるの意

次の歌は東国の方言交りで分かりにくいですが、歌意は面白い。

 「 ま愛(かな)しみ 寝(ぬ)らく 及(し)けらく さ鳴らくは
             伊豆の高嶺の 鳴沢(なるさは)なすよ 」
                     巻14-3358 作者未詳(或る本)

( かわいさのあまり 寝たのはしょっちゅう。
 それにつけても噂のとどろきは、伊豆の高嶺の鳴沢なみよ。)

    ま愛(かな)しみ : 可愛くて可愛くて仕方がない

    及(し)けらく: 繰り返すの意 ここでは何度も抱いた

    さ鳴くなくは: 噂が大きいのは

    伊豆の高嶺: 天城山、あるいは伊豆から見える富士山とも

伊藤博氏によると
「 鳴沢とは高く音を立てる渓谷をいう、富士山には西部の大沢など
  岩石が崩れ落ちる。
  その崩壊の音の凄まじさを世間の噂に譬えたもの。」(万葉集釋注)


  「 初旅の 伊豆湯ヶ島に あくがるる 」 矢島渚男

古代、伊豆で作られた船は材質が良く、難波の港でも見られたようです。

「 防人の 堀江漕ぎ出(づ)る 伊豆手船
      楫(かじ)取る間なく  恋は繁(しげ)けむ 」  
                               巻20-4336 大伴家持

( 防人が難波堀江から漕ぎ出してゆく伊豆手船、 
     その楫を漕ぐ手の休む間がないように、防人たちはひっきりなしに
     故郷の妻を恋しく思っていることであろう。)

東国各地から難波に集結した防人が、港から九州に出発するため、
次から次へと堀江から小舟に乗り、漕ぎ出している様子を見ながら、
「もう二度と逢えないかもしれない。
さぞかし望郷の念に駆られていることであろう 」

と、防人を監督する家持がその心中を思いやった1首です。

伊豆手船とは伊豆仕様の船のことで、当時、伊豆の他、能登、熊野、足柄での
造船が盛んだったことが知られています。
その造船方法は山で伐採した丸木をその場で刳りぬき、
刳り船として川に流し海辺で舷側などをつける作業をしていたそうです。

    楫(かじ)とる間もなく: ひっきりなしに

  「 湯河原や 山蟻走る 奥湯径(おくゆみち) 」 赤松薫子

風土記によると、道後(伊予国)、牟婁(むろ:紀伊国)、湯本、湯河原(伊豆国)、
有馬(摂津)などは、古代からすでに著名な湯治場として知られており、
それぞれ万葉集にも登場しています。

次の歌は万葉唯一「温泉が湧き出ている」と表現したもので、
もともとは民謡であったとも。

「 足柄(あしがり)の 土肥(とひ)の河内(かふち)に 出(い)づる湯の
        よにも たよらに 子ろが言はなくに 」  
                            巻14-3368 作者未詳

( ここ足柄の河内でお湯が勢いよく湧き出て、ゆらゆらと揺れています。
  私の心もあの湯と同じ。
  いつも不安で揺らいでいるのです。
  あの子は「迷っている」などと少しも言っていないのに、
  やっぱり心配だなぁ。)

よにも : 決して
たよらに: ゆらいで安定しないさま 

「足柄の土肥の河内」は現在の湯河原町(神奈川県)と伊豆の国境(静岡県境)を流れる
千歳川沿いの奥湯河原温泉とされています。
梅の産地であることから「小梅湯」(こごめゆ)ともよばれ、
「こごめ」には「子産め」という意味も含まれているとか。

なお、現在、伊豆に土肥という地名があり温泉と金山跡で知られていますが、
こちらは万葉歌とは関係なく、1611年、土肥金山開発中当地にある安楽寺境内の
坑口から温泉が湧出したのが土肥温泉の始まりで、この源泉は発見者の
間部(まぶ)彦平に因み「まぶ湯」と名づけられたそうな。

 「 滑(なめ)らなる 岩はだに触(ふ)りて  吾がひたる
        御湯は古りにし   玉湯とぞおもふ 」  中村憲吉


           万葉集694(伊豆と湯河原)  完



次回の更新は7月27日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2018-07-19 18:09 | 万葉の旅

万葉集その六百七十二 (足柄の箱根 )

( 富士山  三国峠から )
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( 箱根山は列なる山々の総称  手前芦の湖 )
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( 駒ヶ岳山上から芦の湖 )
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( 駒ヶ岳の杉並木 )
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( 大湧谷 )
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( 懐かしの映画 箱根山のポスター )
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( アマドコロ 万葉名:にこ草  暮らしの植物園 佐倉市 )
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万葉集その六百七十二 (足柄の箱根)

奈良時代、足柄は上下二郡に分かれ、箱根は足下郡(あしのしもぐん)に属する
山地でした。
東海道の箱根路はまだ開かれておらず、都との往復は駿河の横走駅(御殿場市)から
足利峠(759m)を越えて相模の国に入り足上郡の坂本駅(南足利市関本)に達する
官道を利用していたそうです。
駅とは公用の旅行や通信の為に馬や船、人を常備している場所をいいます。

日本紀略によると、
「 平安時代、桓武天皇802年、富士山が噴火して通行できなくなったので
  箱根路を開いたが、翌年足利路は復旧された」
という記録があり、その後噴火の心配がない箱根峠を通る街道が
次第に整備され、現在に至っております。

万葉集では「箱根」という地名が見られますが、すべて「足柄の箱根」と
詠われており、その地名の由来は、

「足柄」: 足柄山の杉材で造った船の足が軽くて速いことから
       足軽→足柄に転訛された。

「箱根」:「箱」は「山の形が箱型」であるため、
      あるいは古代、急な崖を「ハケ、ハコ、ホキ」などと呼んだことにより
      「崖のような斜面が多い」の意。

「根」は「嶺、山」を意味しているそうです。

 
「 足柄(あしがら)の 箱根飛び越え 行く鶴(たづ)の
      羨(とも)しき見れば  大和し思ほゆ 」
                           巻7-1175 作者未詳

( 足柄の箱根の山を飛び越えて行く鶴、
  その鶴が羨ましくも都をめがけて飛んでゆくのが見える。
  あぁ、妻のいる大和が懐かしくて仕方がない。)

作者は都から東国に向かって旅をしているのでしょう。

足柄峠を越える途中、西に向かって飛んでゆく鶴をみて、都が懐かしく
思い出された。

富士山の美しさに感激しながらも、早く都に帰り、愛する妻子に会いたいと
望郷の念を募らせています。

「 足柄(あしがら)の 箱根の山に 粟(あは)蒔きて
        実とは なれるを 粟無くも あやし 」 
                           巻14-3364 作者未詳

( 足柄の箱根の山に粟を)蒔いて 見事にに実ったというのに粟がないとは
 一体どういう事なのだ。)

「粟なく」に「逢わなく」が掛けられており、
「一生懸命育んだ愛なのに、あの子に逢えないとは一体どういうことだ」と
嘆く男です。

女が心変わりしたのか、親が反対しているのか。
からっとしており、畑仕事の作業歌(伊藤博)、あるいは歌垣で詠われたもの
かもしれません。

「 足柄(あしがら)の 箱根の山に 延(は)ふ葛の
      引かば寄り来(こ)ね 下なほなほに 」 
                    巻14-3364 作者未詳(或る本の歌)

( 足柄の箱根の山に延いまわる葛を引っ張るように
  俺が引っ張ったら、素直にこっちへ来てくれよね。)

       下なほ なほに : 「下」:心底 
       「なほ なほに」:「直直に」で「素直に」

前の歌と同番号で掲載されていますが、内容が違うので、同じく
作業歌だったのかもしれません。
素朴な詠いぶりで、当時葛を引いて収穫する作業は女性の仕事、
束ねて運ぶのは男の仕事だったようです。

「 足柄(あしがり)の 箱根の嶺(ね)ろの にこ草の
    花つ妻なれや 紐解かず寝む 」 
                       巻14-3370 作者未詳

( お前さんが箱根山の嶺に咲いている「にこ草の花」のように手が届かない
  聖女の花妻ならば仕方がないが、そうでないのだから共寝しょうよ。
  何で嫌だと言うのかねぇ?)

「花つ妻」は花のように美しい妻、あるいは新妻。
美しい万葉人の造語です。

何らかの事情で夜の共寝を拒絶された男の嘆き節と思われますが、
拒絶されたのは、神祭りの時など触れてはならない期間、あるいは月の障り?
男の恨めしげな顔が目に浮かぶようです。

折口信夫氏は「結婚前、ある期間厳粛な隔離生活をする処女」とされていますが
結婚後でも新嘗祭などで一定期間精進潔斎する人妻の歌がみられるところから
結婚の有無に関わりなく神に仕えている間の女性か。

「にこ草」:  ハコネシダ、アマドコロ説あるも未詳
         「似児草」「和草」の字が当てられており
         「花が咲く柔らかい草」の意とも。

   「 春祭り  足柄峠  下り来れば 」  平野青坡


        万葉集672 (足柄の箱根) 完


        次回の更新は2月23日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2018-02-15 16:16 | 万葉の旅

万葉集その六百六十六 (伊勢の国)

( 伊勢神宮外宮:げぐう 参道 )
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(  同 正宮   衣食住と産業を司る 豊受大御神:とようけおおみかみ を祀る )
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(  同 風の宮 )
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( 宇治橋の下を流れる清冽な五十鈴川 手前の柱は橋を流木から守る木よけ杭 )
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( 伊勢神宮 JRのPRポスター 神々しい雰囲気 )
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( 伊勢神宮 内宮正宮  天照大御神を祀る )
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( おかげ横丁 )
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( 伊勢海老の活き造り  おかげ横丁伊勢丸で)
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 万葉集その六百六十六 (伊勢の国)

伊勢といえば伊勢神宮、神風、美しい海、浜木綿、伊勢海老、鮑、真珠。
四方山々に囲まれた盆地に住み、海に無縁の都人にとって憧れの国。
天皇の行幸ともなれば従駕(じゅうが)希望者が続出し、いざ出立の日は
官人、女官、数百人がきらびやかに着飾り、徒歩4~5日の旅を楽しみます。

早朝の清々しい空気の中、神宮に詣で、その神々しさに心洗われて気持を新たにした後、
岩をも砕く荒波、浜木綿が咲き乱れている浜辺、海に潜って鮑を獲る海女などを
目の当たりにした人々は思わず歓声をあげ、夜の宴で美味しい酒や魚貝類に
舌鼓をうったことでしょう。

  「 水澄むや 内宮へ木の橋 匂ふ 」  森高 武
 
万葉集には伊勢海老以外すべて歌に詠みこまれています。
まずは壬申の乱に神風を吹かせて大海人皇子(のち天武天皇)を勝利に
導いたとされる伊勢神宮からです。

「 度会(わたらひ)の 斎(いつ)き宮ゆ  
  神風に い吹き惑はし
  天雲を 日の目もみせず  
  常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて
  定めてし 瑞穂の国を  神ながら 太敷きまして ― ― 。」
                   巻2-199 長歌の一部  柿本人麻呂

     度会(わたらひ):伊勢国の郡名 伊勢神宮の所在地

( 度会に斎き奉る伊勢の神宮から 
  吹き起こった神風で 敵を迷わせ
  その風がよぶ天雲で 敵に日の目も見せず天を真っ暗にして
  平定なさった瑞穂の国、 この国を我が天皇(天武、持統)が
  神のままに ご統治遊ばされ ― )

人麻呂が詠った歌の中で最も長く、かつ傑作とされているもので、
戦いの陣頭指揮を執り獅子奮迅の活躍をされた天武天皇の長子、高市皇子が
亡くなった時、当時の活躍の様子を偲び、褒めたたえたものです。

672年、近江朝との戦いを決意した大海人皇子は吉野を出発し
味方を集結させながら鈴鹿,不破の関を越えて近江の戦場に向かいました。
山越え、谷を渡り、難儀しながらようやく四日市北部の朝明川に辿りついたとき、
皇子は遥か南方の伊勢神宮に向かい戦勝と武運長久を祈ります。

歌は乱戦の最中、突然神風が吹き天地が暗闇に包まれて敵が混乱しているあいだに
攻め込んで大勝を収め、その結果、天皇が神としてこの瑞穂の国を
統治されていると詠っています。(実際には勝利するまで約1か月かかったようですが)

以来、「神風」は伊勢の枕詞となり、国難に際し必ず天照大神(あまてらす おおみかみ)、
豊受大神(とようけ おおみかみ:衣食住、産業を司る)の二神のご加護があると信じられ、
皇室の氏神を祀る守護神として崇められます。

天武天皇は即位後、感謝の意を奉げ、未婚の皇女(大伯皇女:おおくのみこ) を
神に奉仕させるため斎王(さいおう)に任命、神宮に派遣して絆を強化してゆきます。

斎王の始原は崇神天皇の代と伝えられていますが、その後途絶えており。
制度化されたのは天武時代が初めて。
一代一人限りの任命とされ、以降、南北朝時代まで続けられました。

「 大海(おほうみ)の  磯もとどろに  寄する波
       われて砕けて  さけて散るかも 」    源 実朝

伊勢神宮の参拝終わったあとは憧れの海へ。
荒波が岩礁にあたって砕け散る勇壮な場面が出現し、実朝の名歌は
次の一首を本歌取りしたものです。

「 伊勢の海の 磯もとどろに 寄する波
      畏(かしこ)き人に 恋ひわたるかも 」   
                           巻4-600 笠郎女

( 伊勢の海の磯をとどろかして 打ち寄せる波
      その波のように畏れ多いお方に私は恋ひ続けているのです。)

               畏き人:身分が高い人(大伴家持をさす)

作者は大伴家持に恋をしますが、一向に靡いてくれません。
郎女にとっては厳しくも辛い恋。
あらん限りの心情を吐露した24通の恋文をせっせと送り続けましたが反応なし。
遂に諦めて故郷に帰りました。

「 伊勢の海の 沖つ白波 花にもが
        包みて妹が 家づとにせむ 」 
                  巻3-306 安貴 王 (あきの おほきみ)

( 伊勢の海の沖の白波よ。
  これが花であったらなぁ。
  包んで持ち帰り、いとしいあの子の土産にしょうに。)

作者は志貴皇子の孫(天智天皇の曾孫)。
美しい白波を眺めながら都に残してきた愛しい人の顔を思い浮かべています。
流石、歌の名手の血を引くだけにロマンティックな一首です。

「 伊勢の海の 海人の島津が 鰒玉(あはびたま)
     採りて後もか  恋の繁けむ」   
                        巻7-1322 作者未詳

( 伊勢の海人が、志摩のアワビ真珠を採っています。
 もし私がそのような貴重な真珠、すなわちあの女性を得ることができたならば、
 後々まで変わることなく心を引かれ、思いを募り続けることが出来ようか。)

  困難であった恋がまさに成就しようとしているのですが、
  男はその前途に不安を抱いているようです。
  相手は身分違いの高貴な女性でしょうか?

 「島津」は「しまの津」すなわち「志摩」の地名(沢瀉久孝)で、
  当時から鮑、真珠の名産地として知られていました。

 万葉集での真珠は主として白玉と詠われ、水晶をも含む白い玉の総称と
 されていますが、アワビのみは別格。
 特に重んじられたのは、希少であることと、
 ピンクや青色の色彩が極めて美しく、まさに珠玉であったのでしょう。

「 伊勢の海女の 朝な夕なに 潜(かづ)くといふ
        鮑の貝の 片思(かたもひ)にして 」 
                      巻11― 2798 作者未詳

( 私の恋は伊勢の海女が朝に晩に水に潜って採るというアワビ貝のように
  片思いなのです。
  あぁ- この恋心。一体どうしたらよいのでしょう )

アワビは二枚の貝を持って生まれますが、生後十五日ほどで
透き通った片方の稚貝を捨ててしまうため「磯のあわびの片思い」と
詠われています。

水が澄み、潮の流れが良い海底の岩肌に居を定め、海藻を食べながら成長し、
古くは朝廷への貢物、お祝いの食用として重宝され、また干し鮑にして
保存されました。
 
「 み熊野の 浦の浜木綿 百重(ももへ)なす
       心は思(も)へど 直(ただ)に 逢はぬかも ) 
                         巻4―496 柿本人麻呂

    熊野: 三重県牟婁(むろ)郡 温泉としても有名

( 黒潮の洋々たる海辺、浜木綿の葉が幾重にも重なり合い白い花は実に美しい。
  このような素晴らしい光景なのに私の心は貴女にじかに会えないので一向に
  晴れやかになりません。
  まるで浜木綿のあの大きな葉が重なり合っているような重々しい気分です。
  貴女に対する熱い想いはあの黒潮の海のように広くて大きいのですが- -)

690年 持統天皇行幸された折の一首。
当時、人麻呂は朝廷の美しい官女に恋をしていたようです。

 浜木綿は茎の先に咲く白い花が神に祈る時に使う木綿の幣(ぬさ)に
似ているところからその名があり、大きな葉は万年青(おもと)に
そっくりなので、「浜おもと」とも。
群生し百合に似た甘美な香りを浜一面に漂わせます。

  「 浜ゆふや はら一ぱいの 花ざかり 」  沾圃(てんほ)

    「はら一ぱい」: 原一杯と腹いっぱい(満足、満足)を掛けているか。
             

江戸時代、「伊勢詣で」は「おかげまいり」と称して爆発的に流行しました。
十分な旅費がなくても道中で無料の食べ物、施行宿があり、神様や街道の
おかげで参宮出来たのです。

以来、現在に至るまで参拝者が絶えることなく大賑わい。
平成25年の年間参拝者は、なんと過去最高の1420万人に達したそうです。

おかげ横丁に入ると昔の面影を残す店の佇まい。
松坂肉、鮑、伊勢海老、赤福餅、美味しそうなものがいっぱいです。

特大の伊勢海老をお造りと焼き海老にしてもらいました。
美味い! 
満ち足りた万葉伊勢の旅。
またいつか訪れたいものです。

   「 伊勢海老の 髭の見事や 生きて着く 」 宮下翠舟


            万葉集666(伊勢の国)完

           次回の更新は1月12日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2018-01-04 15:56 | 万葉の旅

万葉集その六百五十八 (難波)

( 難波宮跡  大阪 )
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( 同上  後方 大阪歴史博物館 )
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( 前期難波宮復元模型 中央大極殿  同上 )
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( 大極殿復元図  同上 )
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( 後期難波宮復元模型  前方 朱雀門  同上 )
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( 女官  大阪歴博 )
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( 侍従  同上 )
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( 堂島米市  同上 )
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( 蔵屋敷   同上 )
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( 北海道の珍魚 フサギンボ  海遊館  大阪港前 )
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(  マイワシ群  同上 )
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(  タカアシガニ   同上  )
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万葉集その六百五十八 (難波:なにわ)

古代の難波は摂津国(大阪府北半と兵庫県南東部)の中心部に位置し、なかでも
大阪湾に面する難波津は瀬戸内海を経て大陸に通じる航路の要衝でした。

古くは5世紀に仁徳天皇が難波高津宮、645年孝徳天皇の難波長柄豊崎宮、
744年聖武天皇の難波宮が営まれ、784年桓武天皇の長岡京遷都までの
約140年間、首都,副都として栄えました。

とりわけ、仁徳天皇の時代、淀川と大和川の合流地点で頻繁に起こる氾濫を
防ぐため、水流を大阪湾に落とす大規模な運河(堀江)を造った結果、
大和から九州、大陸を結ぶ道が直結され遣唐使や防人の往来の
拠点となります。

朝廷は、難波津を管理するために屯倉(みやけ)とよばれる役所を構えて、
役人を常駐させ、天皇の行幸も度々行われたようです。
また、都から貴族、官人たちの出張も多く、海がない大和人にとっては
珍しい光景に接するまたとない機会であり、明るく楽しそうな歌が多く残されています。

「 昔こそ 難波田舎と 云われけめ
    今は都引(みやこひ)き 都(みやび)にけり 」 
                        巻3-312 藤原宇合(うまかい)

( 昔は難波田舎と馬鹿にされもしただろう。
 だが今はすっかり都らしくなり、雅やかなことよ )

645年、孝徳天皇の時代に遷都の詔が出され、652年に完成した難波宮は
役所なども整備されましたが、天武天皇の時代になると再び大和に還り、
683年に難波を副都とする詔が出された僅か3年後の686年に火災ですべて
焼失してしまいました。(前期難波宮)
その後、聖武天皇の726年に都城の再建開始、732年に後期難波宮が完成します。

難波宮再建の責任者であった作者は藤原不比等の3男。
有能な人物であったらしく、見事に期待に応えて立派な宮都を造営させ、
きらびやかに立ち並ぶ建物を眺めながら長い間の苦労が報われた喜びを
噛みしめつつ、感慨にふけっています。
なお、藤原宇合は異色の万葉歌人高橋虫麻呂の庇護者として、あるいは
常陸国風土記の編集者とも推定されています。

「 難波潟 潮干に立ちて 見わたせば
      淡路の島に 鶴(たづ)渡る見ゆ 」
                       巻7-1160 作者未詳

( 難波潟 この潮の引いた千潟に立って見渡すと
 淡路の島のかなたに向かって鶴が鳴きわたって行く )

晴れた日に大阪湾から遠望すると淡路島が美しく臨まれたのでしょう。
その中を鶴が飛び去ってゆく、絵画的な風景です。

「 難波潟 潮干(しほひ)に出でて 玉藻刈る
    海人娘子(あまをとめ)ども  汝(な)が名 告(の)らさね 」
                巻9-1726  丹比真人( たぢひの まひと)

( 難波潟 この潮干の潟に出て 玉藻を刈っている海女の娘さん、
 あなたの名前を私に教えてくれませんか )

「 あさりする 人とを見ませ 草枕
        旅行く人に 我が名は告(の)らじ 」
                          巻9-1727 作者未詳

( 私を千潟で獲物を漁る名もない女とでも見ておいてくださいませ。
     行きずりの旅のお方に大切な私の名など、教えられませんわ。)

海に縁がない大和の官人にとって、海辺の海人乙女は異国情緒が漂う憧れの姿。
当時、女性に名前を聞くという行為は、関係を持つことを意味していました。
見も知らない旅のお方に、共寝するなんてとんでもないとはねつけた乙女。
宴席での座興歌だったかも知れません。

「 我が衣 人にな着せそ 網引(あびき)する
      難波壮士(なにわおとこ)の 手には触るとも 」
                  巻4-577  大伴旅人

( 私の大切にしている着物、この着物は、他の人には着せないで下さいよ。
 綱を引く難波男のあなた様が手に触れるのは仕方がありませんが。)

作者が難波に訪れたとき摂津職の長官、高安王の暖かいもてなしを受け
お礼に新しい朝服を贈ったときに添えた1首。
親しい間柄だったのでしょう、長官を難波の漁師に見たてて戯れています。

「人にな着せそ」の「な」-「そ」は禁止を表す言葉で「人」は共寝する女を暗示し、
「寝床の場で着るような代物ではなく、ありあわせのお粗末なもので恐縮ですが」
の意がこもります。

「 津の国の 難波の春は 夢なれや
     蘆(あし)の枯葉に 風わたるなり 」  
                       西行 新古今和歌集

( 明るい光に満ちていた津の国の難波の春、あれは夢だったのであろうか。
 今目に映るものは、蘆の枯葉だけ。
 ただただ、風がさびしく吹き渡っている音がする。)

津の国とは、港の国の意。

都が平安京に遷って以来、難波は政治の中心から外れ、商業、文化都市として
発展してゆきます。
繁栄を誇った難波宮は784年長岡京遷都の時に解体され、
その後埋め立てられたのか後世になると、どの場所にあったか
全く分からなくなってしまいました。

現在、大阪城近くに北接する難波宮遺跡は1871年(明治5年)以降
兵部省(のち陸軍省)の管轄地になり、戦後占領軍に接収。
戦後に解除された後、偶然にも大極殿屋根に使われたと推定される
鴟尾(しび)が発見され、発掘作業がなされた結果、難波宮跡と確認、
現在も作業が続けられています(約89000㎡)。
この発見がなければ恐らく今ごろはビルが立ち並んでいたことでしょう。

この遺跡保存最大の功労者は、元大阪商大教授山根徳太郎氏。
「ここが難波宮跡」と説きつづけても誰からも相手にされず、
幾多の反対、無視をはねのけた氏の確固たる信念と燃えるような
情熱が無ければ、日の目を見ることが出来なかった(直木孝次郎氏)そうです。

また、近くの大阪歴史博物館で発掘された品の数々や、当時の復元模型などが
展示されており、近くの大阪城とあわせ古代から中世をつなぐ
歴史街道となっています。

今や大阪人の「難波」は「なんば」、「なにわ」と呼ぶ人は滅多におりません。

 「 堀返す 難波(なにわ)の宮や 花菫(はなすみれ) 」   阿部月山子


          万葉集658(難波)完


          次回の更新は11月17日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2017-11-11 19:55 | 万葉の旅

万葉集その六百三十一 「 美(うま)し 東北 」

( 安達太良山  福島県 )
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( 多賀城跡 奈良時代最北の国府 宮城県 )
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(  裏磐梯 五色沼  福島県 )
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(  復興を祈って旗のぼり  三春 )
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( 田沢湖  秋田 )
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万葉集その六百三十一「美(うま)し東北」 

「大震災の発生が東北でよかった」
無神経かつ心無き発言で被災者の方々を傷つけ、多くの国民から顰蹙(ひんしゅく)を
買って即刻罷免になった某大臣。

「東北でよかった」(東北に住んでよかった)
と即座に切返し、美しい四季の風景や特産品の写真と共に
暖かい言葉で支え、勇気づけた19万人超のツイッタ-の投稿。

まさに言葉は心の鏡。
一度口から発せられたものは二度と戻りません。
一言の重みをつくづく感じさせられた出来事でした。

今から1300年前の万葉時代、常陸(茨城)下野(栃木)から北方を
陸奥(みちのく)の国とよんでいました。
今の福島県、山形県内陸部、宮城県一円の地域にあたり、万葉歌に見える
北限に近い場所とされています。

東北に関する歌は多く残されていますが、その中から数々の挿話と共に
語り継がれてきた3首を取り上げてみたいと思います。

まずは、大仏建立に関するものです。
743年聖武天皇は盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)造営の詔を発しました。

当時の世相は藤原氏と天皇親政派の間の権力闘争、加えて農村にうち続く疫病と飢饉。
戦乱や相次ぐ遷都による労力の負担による村の荒廃と村人の逃亡、
など混沌としていました。

天皇は社会のあらゆる面で対立が激化する国内の混乱を、
世にも稀なる巨大な大仏を建立することによって抗争するエネルギーを吸収し
人心の統一をはかろうとしたのです。

ところが、大仏が完成に近づいた頃、一大問題が発生しました。
像に塗るべき金(きん)が入手出来ません。

海外からの輸入もやむなしと検討していた矢先の749年、
なんという幸運! 陸奥の国から金が産出したとの報告があり、
陸奥国守、百済王敬福(くだらの こにしき きょうふく)が
管内の小田郡から産した黄金を献上。

今まで国内で産出しなかった金が採掘できたのは百済系渡来人の技術が
発揮されたものと思われ、その知識や技術を持つ人材を陸奥に派遣していた
用意周到な人事が功を奏したものと思われます。 

天皇は狂喜され、産金は神仏が大仏の造立を祝って表出してくれたものと受け止め、
そのことを寿ぐ長大な詔を発せられました。

その詔の中で大伴家は累代天皇によく尽くしたと称えられ、
感激した大伴家持が感謝の意を捧げて下記の歌を詠みます。

「 天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東(あずま)なる
   陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く 」
                            巻18-4097 大伴家持 

( 天皇の御代が栄えるしるしと、東の国の陸奥山に黄金の花が咲きました。)

今日、巨大な大仏を仰ぎ見る時、古の東北の人々が苦労を重ねて金を探し求め
天皇に献じた有難さをしみじみと思い浮かべます。
奈良の大仏は永遠に東北と共にあり、その慈悲ある目ざなしで
復興早からんことを見守り続けられることでしょう。
なお、金産出場所は現在の宮城県遠田郡とされ「黄金山産金遺跡」として
遺されています。

「 安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる 山の井の
     浅き心を 我が思はなくに 」 
                          巻16-3807  前采女(さきのうねめ)

( 安積山の姿さえくっきりと映し出している清らかな山の井、
 あの水は浅いですが、私はあのような浅はかな気持ちで、
 あなた様をお慕いしているのではありません。
 本気であなたさまを想っているのですよ )

「安積香山」 :福島県郡山市日和田の郊外にある小さな丘

「影さへ見ゆる」: 山の影までくっきりと映っている清らかな浅い水

「山の井」 : 人工の井戸ではなく、山から自然に湧き出た水を堰き止めて
         飲料水にしているところ

「浅き心を」: 浅くは

「我が思はなくに」: 私はあなたを想ってはいないのに
             浅く思っていない→ 深く想っている

「 安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる 山の井の 」までが
「浅き心を 我が思はなくに 」を引き出すための序詞です。

この歌の前に註があり

「 云い伝えによると、葛城王(後の左大臣 橘諸兄とみられる)が若き頃 
 陸奥国に派遣された時、国司の接待が極めていい加減だったので
 王は怒りの表情を顔に浮かべ飲食の饗応もまったく楽しげではなかった。

 その宴席に、以前天皇に近侍していた采女がいた。
 立ち居振る舞い風流(みやび)やかな美女である。
 客人のご機嫌ななめと見て取ると、おもむろ立ち上がり、
 左手に酒杯、右手に水瓶を持って、王の膝をたたきながら拍子をとり、
 この歌を詠んだ。
 すると王の気持ちはすっかり和らぎ、始終楽しく飲んで過ごした。」

この歌は元々安積香山近くに住んでいた男女の間で交わされていた恋歌で、
一種の民謡であったと推定されていますが、古今和歌集の仮名序で高く称賛され、

「 難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
                   今や春べと さくやこの花 」

の歌と共に、貴族の子女の手習いの材料とされて一躍有名になったものです。

この歌が評価されたのは、
自然の風景をとりいれ人を和ませる機知と風流、適度の色気、
調べよく覚えやすい、ことなどでしょうか。
賢明な葛城王も酒席での野暮を即座に悟ったようです。

「 安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも
   我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね 」 
                           巻14-3428 作者未詳

( 安達太良山の鹿や猪はいつも決まった寝床に帰って休むと言います。
 私もお前のところへ通い続けるから、
 いつでも共寝できるように待っていてくれよね。 )

この歌の解釈には色々な説がありますが、
佐々木幸綱氏は「二人の間に何かトラブルでもあって、
女が“もう通ってこないで!”などとすねてしまった。
そんな場面を思い浮かべればこの歌の意味が理解しやすい」
と解説されています。(万葉集東歌)

もともとは山野で働く人達の作業歌だったのでしょうか。

「 格子戸に 山百合かをる  智恵子の間 」 金子智代 

         ( 智恵子の生家、長沼家は二本松市の旧奥州街道に面した酒造家)

安達太良山が不朽の名になったのは、高村光太郎の「知恵子抄」。

「 あれが 阿多多羅山 (あたたらやま)
  あの光るのが 阿武隈川 (あぶくまがわ)
  かうやって 言葉すくなに座ってゐると
  うっとり ねむるやうな頭の中に
  ただ遠い世の  松風ばかりが 
  薄みどりに吹き渡ります 」

                   高村光太郎 智恵子抄 (樹下の二人より)

「 智恵子は東京に空が無いといふ。
 阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 
 智恵子の ほんとの空だといふ」 
                     ( 智恵子抄 あどけない話より)

人々は「智恵子のほんとの空」を見たくて車窓から安達太良山を眺め、
    山に登ります。
    安達太良山の頂上は、つんと突起しており「乳首山」ともよばれていますが、
    二本松方面からみた山容はいくつもの山が連なった連峰で、
    どの頂が安達太良山の頂上か分りにくく、万葉人が見た安達太良山は
    恐らく連峰全体をさしているのでしょう。

   「 安達太良は 北の雄嶺ぞ 帰る雁 」   篠田 悌二郎




         万葉集630 「 美(うま)し 東北 」 完


         次回の更新は 5月9日(火)の予定。
          ( 通常より早くなります )

by uqrx74fd | 2017-05-02 19:33 | 万葉の旅

万葉集その六百二十五 (早春の奈良)

( 八房梅: ピンクが美しい  奈良万葉植物園 )
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( 杏子:アンズ  同上 )
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(  お水取の大松明  東大寺二月堂 )
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(  豪快に飛び散る火花  同上 )
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今日は3月14日。
桜には早く、梅はそろそろ散り始めという時期です。
それでも、「せめて早春の空気なりとも」と思いながら古都奈良へやって参りました。

まずは、万葉植物園へ直行。
どんな花が咲いているかなぁと様子見です。
ミツマタの蕾が大きく膨らみ花が四つ五つ。
嬉しいことに梅、杏子が私の訪れを待ちうけてくれていたように今が盛りと満開。
赤白桃色のコラボレーションが美しく、この一角だけ春爛漫です。

「 御園生(みそのふ)の 百木(ももき)の梅の 散る花し
     天(あめ)に飛びあがり 雪と降りけむ 」 
                        巻17-3906 大伴書持(ふみもち) :家持弟

( 「天から流れくる雪」とはきっとお庭の百木(ももき)の梅の散る花
  その花びらが天空に舞い上がって雪となって降ったものなので
  ございましょう 。)

この歌は父、大伴旅人の

「 我が園に 梅の花散る ひさかたの
          天(あめ)より雪の 流れ来るかも」 
                         巻5-822  大伴旅人
に唱和したもの。
    風に吹かれて梅の花びらが舞い散り、雪かと見まごう。
    この世のものとは思えない幻想的な世界です。

   百木(ももき):沢山の梅の木

日が落ち気温は5℃位か、風が強く真冬のように寒い。
夕闇の中、御蓋山麓の宿に向かって急ぎ足。
途中に梅林があり、スポットライトを受けて美しく、夜になったらまた
撮影に来ようと場所を記憶する。

「 ぬばたまの その夜の梅を た忘れて
       折らず来(き)にけり 思ひしものを 」 
                      巻3-392   大伴百代(ももよ)

( あの夜見た時 これはと当りを付けておいた梅だったのに
 ついついうっかりして手折らずにきてしまった。
 心の中では折ろうと思ったのになぁ。 )

作者は梅を女性に譬えているようです。
いつか口説き落そうとして目をつけていたのに、
ついついそのままにしてしまった。
素晴らしい女性だったのに残念なことをしたわいと悔やむ作者。
宴席での戯れだったかもしれません。

「 如月(きさらぎ)を  奈良いにしへの 御ほとけに
         浄(きよ)き閼伽井(あかゐ)を 汲む夜にぞあふ 」     中村憲吉

宿に入るとご主人が
「今夜 お水取り行かれますか。
もしご希望なら食事早めにお出ししますが」と
尋ねて下さり、
「あぁ、そうだ、今日は御松明の最終日」と思い出し、喜び勇んで出向く。

午後6時半から約1時間。
10本の大松明が天にも届けと炎を上げ、火の粉が豪快に飛び散る。
燃え盛る巨大な炎がお堂の庇(ひさし)に届きそうになり周囲のどよめきが夜空に響く。
圧巻の火祭りです。
  
「 お松明 燃えて星空 なかりけり 」   開田 華羽

今日でお坊様がたの14日にわたる厳しい修行が終わります。
752年の大仏開眼以来1266回絶えることなく続けられている伝統行事。
これからも絶ゆることなく、続けられることでありましょう。

最後の松明が消えると、辺りは暗闇と静寂に包まれ、大観客が警官の誘導で
整然と坂を下る。
余韻冷めやらぬ中、奈良公園を通って夜の梅を撮影し宿へ。
早春の古都の清々しい一日でした。

   「 水取や  提灯借りる 東大寺 」  塚本虚明


ご参考:

「 お水取とは 」


「 お水取は東大寺二月堂で行われる仏教行事で、正式には修二会(しゅにえ)といい、
  目的は、仏の前で罪過を懺悔すること(悔過(けか))。
  心身を清めた僧(練行衆:れんぎょうしゅう)が十一面観音の前で宝号を唱え、
  荒行によって懺悔し、あわせて天下安穏などを祈願する。

  現在3月1日から14日間にわたっておこなわれ、
  3月13日の午前2時を期して、二月堂のほとりの良弁杉の下にある
  閼伽井屋(あかいや)のお香水を汲み取り、本堂に運ぶ儀式が行われる。

  この夜、井戸の中には遠く若狭の国から地下水道を抜けて送られた聖水が
  湛えられていると信じられており、この水を1年間の仏事に供するため
  壺に汲み取っておくのである。

  籠りの僧が大松明を振りかざしつつ石段を駆けのぼり、二月堂の回廊に
  これを打ち据える行は壮観で、庇をこがすばかりの炎から堂下の
  群衆に火の粉が舞い散る。
  お水取りが済むと、奈良に春が本格的に到来すると云われている。

  なお、若狭国から聖水が送られる由来は、昔、遠敷(おこう)という若狭の神様が
  魚を採っていて、二月堂の参集に遅れたお詫びとして、二月堂のほとりに
  清水を湧き出させ、観音様に奉ったとの言い伝えによる。
 
以下は白洲正子さんの一文からです。

『 奈良のお水取は、毎年3月12日の夜半に行われるが、2月堂の修二会(しゅにえ)は
  15日の未明までつづいており、二週間にわたる烈しい行法を終えた練行衆は、
  沓(くつ)の音も軽々と、高い石段を駆けおりてくる。

  ほっとした気分が、お堂の内外(うちそと)にみなぎり、
  東の空には曙光(しょこう)のきざしが現れる。 
  まだ夢を見ているような大和の野べには、薄紫の霞がただよい、
  常夜灯は眠たげにまたたきつつ、次第に光を失って行く。、、、、

  華やかなお水取の行事もさることながら、なにもかも終わった後の、
  このひとときほど美しく、静かに感じる瞬間はない。

  「お水取が済むと春が来る」というのはほんとうのことなのだ。
  さすがに外は寒いけれども、夜明けとともに山にも野にも春の気配が
  しのびよって来る。』 

                  ( 「古都奈良の春色」 新潮文庫 「金平糖の味」に収録)

     
       万葉集625 ( 早春の奈良 ) 完




     次回の更新は3月31日の予定です。

by uqrx74fd | 2017-03-23 16:25 | 万葉の旅

万葉集その五百八十五 (東御苑花散歩)

( 紫陽花  皇居東御苑   )
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(  アサザ   同上 )
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( ハナショウブ  同上 )
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( カワラナデシコ  同上 )
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( 桔梗  同上 )
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(  萱草  同上 )
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東京駅から徒歩10分足らずの皇居東御苑。
海外からの訪問客も多く、いつも賑わっていますが、何しろ広いので
解放感はたっぷり。
大手門から入場し巨大な石垣の間を通り抜けると、まず目に入るのは
緑濃い木々の下で色とりどりに咲く紫陽花です。
 
我国原産の紫陽花は古代から
「幾重にも重なって咲く花」(橘諸兄)
「色変わる花」(大伴家持) と
観察眼も的確に詠われていますが、残念ながら万葉集には2首しか見えません。

 「 あぢさゐの 八重咲くごとく 八つ代にを
     いませ我が背子 見つつ偲(しの)はむ 」
                巻20-4448  橘諸兄(既出)

( 紫陽花が次々と色どりを変えて新しく咲くように、あなたさまも
 幾年月のちまでお元気でありますよう。
 この紫陽花を見るたびにあなたを思い出し、ご健勝をお祈りしています )

755年旧暦の5月(現在の6月中旬)、官人、丹比真人(たぢひの まひと)宅での
宴の席上、客人として招かれた左大臣橘諸兄が主人を祝福したもの。
真人は諸兄のお気に入りの直属の部下。
親愛の情がこもります。

   「 笠を着て 邸(やしき) のうちの 茶を摘めり 」 野村泊月

紫陽花を愛でつつ散策する中、左手の段々茶畑が点描を添え、
梅の木の下には熟れた実がいたるところに落ちていています。
小鳥が美味しそうに啄んでいますが、酸っぱくないのかしら。
そうだ、そろそろ、梅干し、梅酒を仕込まなければ。

やがて日本庭園。
今が盛りと咲く花菖蒲、そして池面に「あさざ」や「こうほね」が。

「あさざ」はミツガシワ科の多年草で、地下茎が長く横に這い、
睡蓮に似た葉を水に浮かべます。

6月から8月にかけて鮮やかな黄色の花を咲かせますが、天気が良い日の
朝にしか開いてくれません。
花の形が蓴菜(じゅんさい)に似ているが食べられないので花蓴菜ともよばれるそうな。

万葉集では「あざさ」と云う名で長歌に1首登場。
恋人を自慢する息子と両親との楽しい会話の中で女性の髪飾りとして詠われています。

「 - 蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に  
真木綿(まゆふ)もち  あざさ結ひ垂れ 
大和の 黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)を
    押へ刺す うらぐはし子 それぞ我が妻 」 
                       巻13-3295 作者未詳(既出)
訳文
( - あの子の緑の黒髪に
 木綿(ゆふ)で「あざさ」を結わえて垂らし 
 大和の黄楊で作った小櫛を 
 髪の押さえに挿している 輝くような美しい娘
 それが私の妻なのですよ )

 蜷(みな)の腸とは食用にしていた田螺(たにし)と思われますが、
緑の黒髪の枕言葉に貝の腸とは面白い表現。
栄養たっぷりなので茹でたり黒焼きにして食べていたようです。

 「真木綿(まゆふ)」の「ま」は褒め言葉、
「木綿」は現在の「モメン」ではなく楮の繊維で結った紐。

髪飾りとして「あざさ」を結いつけて髪に垂らしているのです。

「うらぐはし」の「うら」は心、「くはし」は妙なるほどに。
心にしみるほど輝くばかりに美しいの意。

夜中に頻繁に家を抜け出す息子。
「どうやら恋をしたらしい」と親も薄々気づいていたのでしょう。
とんでもない相手ではあるまいかと心配する両親がある日、事情を聞いてくれた。
これは幸いとばかりに惚気まくる息子です。

「 紫に 裏表ある 桔梗かな 」  島田 左久夫

やがて秋の七草コーナへ。
葛の葉と薄の茎だけかなと思っていたら、何と! 
撫子、桔梗、女郎花(おみなえし)、そして、萩が数株咲いているではありませんか。
年々開花が早くなり、季節感が乏しくなってまいりますが、
目の前の花は初々しく美しい。

「 ひさかたの 雨は降りしく なでしこが
       いや初花に 恋しき我が背 」 
                      巻20-4443 大伴家


( ひさかたの雨は しとしとと降り続いています。
 しかし撫子は今咲いたように初々しく、その花さながらに
 心惹かれるあなたさまです。)

755年大伴家持宅で酒宴が催された折の歌。
主賓大原今城が挨拶で
「 あなたさまのお庭の撫子は毎日雨に降られておりますが
  色一つ変わりませんね 」
と主人、家持の健勝を祝したのに対する返歌。

6月下旬、梅雨の頃に詠われたものですが、当時の撫子も早咲きだった?
ご機嫌伺いのやり取りに美しい花を介する優雅な万葉人です。

東御苑花散策もこれにて終わり。
色々な花を少しづつ愛で、さながら幕の内弁当を食べたよう。
さらに帰り道の大手町ビルの一角の木陰で山百合が一輪。
デザートのおまけです。
何という幸運!
梅雨の晴れ間の清々しい一時(ひととき)でした。

 「 起(た)ち上がる 風の百合あり 草の中 」 松本たかし





     万葉集585 (東御苑花散歩)  完


    次回の更新は6月24日の予定です。

by uqrx74fd | 2016-06-17 07:09 | 万葉の旅

万葉集その五百八十二 (風薫る道)

( 薬の神様 大神神社   )
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( 山辺の道  奈良 )
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( 蜜柑の花と蝶 )
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( 葉先の紅葉 )
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( カキツバタ  長岳寺 )
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( サヤエンドウの花 )
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大型連休が終わった5月中旬。
今年は花の盛りが早く、藤、躑躅、牡丹,芍薬、菖蒲は既に散り、今は新緑が
美しい時期です。
「風薫る」は「初夏の爽やかな心地よい風」をいいますが、こちらは
文字通り花の香りを運んでくれる風吹く「山辺の道」(奈良)を訪れました。

先づは薬と酒の神様、大神神社と三輪山参拝。
人まばらな早朝の境内は清々しく、巫女の赤白の装束が目にも鮮やかです。
柏手の音が大きく響く。
一礼をした後、薬の道へ向かいます。

「 三輪山の 山下響(とよ)み 行く水の
   水脈(みを)し絶えずは 後も我が妻 」 
                           巻12-3014 作者未詳

( 三輪山の麓を鳴り響かせて流れゆく水、この水の流れが絶えないかぎり
  のちのちまであなたは私の妻なのだよ )

行く水を見つめながら相手に詠いかけている作者は初恋なのか。
瑞々しさを感じる一首。
場所は下り坂にある狭井川あたりでしょうか。

檜山神社に向かう道は、野の花が一杯。
アザミ、矢車草、レンゲ、野イチゴそして山ボウシの木の白い花。
卑弥呼の墓と推定されている箸墓や大和三山が展望できる井寺池あたりの
高台は桃の実やざくろの花。
ここを通り過ぎると新緑の山並みが美しく、たたなずく青垣が続きます。

「 玉かぎる 夕さり来れば 猟人(さつひと)の
       弓月が嶽に 霞たなびく 」
                       巻10-1816 作者未詳


(玉がほのかに輝くような薄明りの夕暮れになると
 猟人(さつひと)の弓 その弓の名を持つ弓月が嶽に
 霞がいっぱいたなびいている )

突然一陣の風が吹き、甘い香りが漂ってきました。
山の麓は蜜柑や橘の木々で埋め尽くされ、白い花が咲き乱れ、
蝶々が飛び廻っています。
まるで夢の世界にきたような心地。
むせるような柑橘類の香りがどこまでも続きます。

「 橘は常花(とこはな)にもが 時鳥(ほととぎす)
     棲むと来鳴かば 聞かぬ日なけむ 」 
                        巻17-3909 大伴書持(ふみもち


( 橘が一年中咲き誇る花だったらなぁ。
  きっと時鳥が棲みつくはず。
  そうなったら その美しい声を聞くことができるのに )

三輪山を右手に眺めながら巻向、景行天皇、崇神天皇陵に向かいます。
撫子、豆、茄子の花。
そして、エゴ、ざくろ、柿の花。

やがて、秋になると紅葉が美しい場所に出ると、
何と!葉の先がすべて紅葉していました。
葉先に種があり、風に吹かれて繁殖するのだそうな。

日に当たって光り輝く美しさは、言葉に表せません。
まさに天の摂理。

「 我が衣 にほひぬべくも 味酒(うまさけ)の
    三室(みむろ)の山は 黄葉(もみち)しにけり 」
                   巻7-1094 柿本人麻呂歌集(既出)

( 私の衣が美しく染まってしまうほどに 三輪の山は見事にもみじしている)

味酒(午酒)は三室の枕詞 神酒を供えるの意
三室は神の籠る土が盛り上がったの意、ここでは三輪山

風花紀行もいよいよ終わり。
ツツジとカキツバタで有名な長岳寺に着きました。
ツツジはとっくに終わり本堂の前の池のカキツバタも残り僅か。
住職の奥様によると今年の花は例年より大分早かった由。

「 かきつはた 佐紀沢(さきさは)に生ふる 菅の根の
   絶ゆとや君が 見えぬこのころ 」
                      巻12-3052 作者未詳

( かきつばたが咲く佐紀沢。
  そこに生い茂っている菅の根でも絶えるといいますが、
  これっきりでお互いの仲が絶えてしまうのでしょうか。
  あの方が一向にお見えにならない今日この頃。)

かきつはた:杜若 ここでは佐紀沢の枕詞
佐紀沢: 平城京北の水上池周辺の湿地帯

ともあれ僅かでも美しいカキツバタに出会えたのはラッキー。
心地よい花薫る風に吹かれながら歩いた10㎞でした。

打ち上げは例によって、近くの「千古」という蕎麦屋さん。
渇いた喉にビールをグイと流し込む。
あぁ!美味い! 
極楽、極楽。

「 都辺は埃(ちり)立ちさわぐ 橘の
         花散る里に いざ行きて寝む 」  正岡子規



   万葉集582 (風薫る道) 完

  次回の更新は6月3日の予定です。

by uqrx74fd | 2016-05-27 06:47 | 万葉の旅