カテゴリ:万葉の旅( 64 )

万葉集その四百七十三 (雲梯の杜:うなてのもり)

( 河俣神社=雲梯の杜 奈良県橿原市 )
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( 同上 )
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( 河俣神社から畝傍山をのぞむ)
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( 曽我川沿いの桜並木 )
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( 川に映える桜 )
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( 川に棲む鯉 )
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( 春爛漫 後方河俣神社 )
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( 金剛葛城山脈 )
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近鉄南大阪線、橿原神宮駅から2つ目の坊城駅。
ここから曽我川沿いに北に向かって2㎞ばかり歩くと、こんもりと茂った森の中に
河俣神社という小さな社(やしろ)があります。
入口に立つ石標は新しいものですが、社歴は古代に遡(さかのぼ)る雲梯の杜(うなてのもり)とされ、
祭神は事代主神(ことしろ ぬしのかみ)。
明日香に皇居があった時代、西方の守護神として出雲から移られたそうです。

この辺り一帯は奈良県橿原市雲梯町という地名で雲梯は元、宇奈堤(うなて)と書かれ、
川堤や水路を築いたことによるものとされていますが、古代、鷲が棲むような鬱蒼とした森の中に
巨木があったので、それが雲に掛かる梯子(はしご)のように見えたのかもしれません。

「 真鳥(まとり)棲(す)む 雲梯(うなて)の杜の 菅(すが)の根を
    衣(きぬ)にかき付け 着せむ子もがも 」
                            巻7-1344 作者未詳

( 鷲の棲む雲梯の杜の長い菅(すげ)の根、
 その根を衣に摺りつけて着せてくれる可愛い子がいたらいいのになぁ。)

神域の菅の根を採ることは禁忌、神罰が下る行為です。
作者はそんな危険を冒してでも自分のために衣を染めてくれる女性、
すなわち、親や世間の反対に屈せず自分と一緒になってくれる子が
いたらなぁと願っています。
心に想う女性がいて、何かの理由で結婚に反対されているのでしょうか。

真鳥(まとり)とは鷲のことで「真」と云う言葉に「神聖な」という意味が含まれ、
いかにも恐ろしい神様がおわしますという感じを漂わせています。

「 思はぬを 思ふと言はば 真鳥棲む 
       雲梯の杜の 神し知らさむ 」 
                    巻12-3100 作者未詳


( 貴方を本心からお慕いしていないのに「好きだ」などと言おうものなら、
 恐ろしい鷲の棲む雲梯の杜の神様が見通して厳罰を下されることでしょう )

「 嘘をついたら神罰を受けるでしょうから、決してそのようなことはいたしません。
私は本心からあなたが好きなのです。」

と男が神前で女性に誓ったものと思われますが、歌垣などで詠われた民謡だったかも。

「 ま菅(すが)よし 曽我の川原(かはら)に 鳴く千鳥
      間なしわが背子 我(あ)が恋ふらくは 」 
                               巻12-3087 作者未詳


( 菅(すが)が多く生えている曽我(そが)の川原、
 その川原で絶え間なく鳴いている千鳥のように、
 私の貴方に対する恋心はやむこともなく燃え上がっています。 )

菅(すが)は「すげ」ともよばれるカヤツリ草科の多年草で蓑や笠などの材料になる
生活に欠かせない植物です。
マスガ、「間なし(マナシ」)と「マ」を重ね、さらにスガ、ソガ、アガと「ガ」を
繰り返して軽快なリズムを奏でています。

河俣神社は「装束の宮」ともよばれています。
というのは、その昔、近くの畝傍山で祭祀の土器をつくるのに適した良質の
埴土(はに)を産しており、その土を求めて住吉神社から畝傍山に埴使(はにつかい)が
派遣されていましたが、途中、雲梯の社に立ち寄り、曽我川で水垢離(みずごり)するなど
精進潔斎し装束を改めてから山に向かったという故事によるものです。

現在の曽我川両岸は数キロにわたる美しい桜並木。
川には無数の鯉が悠々と泳ぎ、亀たちが舞い落ちた花びらを啄(ついば)んでいます。
見わたす限り桜、桜、桜 。
にもかかわらず、釣人二人のほか人影が全く見当りません。
世間に知られていない場所のせいなのでしょうが、花見客皆無というのも
不思議なことです。
雑踏を予想していただけに、何千本という桜を独り占めできるなど、まるで
夢の世界に迷い込んだよう。

川堤周辺は住宅が立ち並んでいますが、5分も歩くと広々とした田園。
真中に畝傍山がぽつんと聳え立ち、遠くに金剛葛城連山が臨まれます。
青空に浮かぶ雲も美しい。
畑でただ一人草むしりをしている農夫。
春爛漫、長閑なひとときを過ごした後、大和三山に向かって歩き出しました。

  「 畝傍山 香久山つなぐ 桜かな 」  筆者
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by uqrx74fd | 2014-04-25 06:53 | 万葉の旅

万葉集その四百六十六(梅紀行:山の辺の道)

( 海柘榴市:つばいち観音 奈良県桜井市 )
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( 玄賓庵 ;:げんぴんあん )
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( 梅林に人影もなし )
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( たたなづく青垣の下を行く )
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( 蜜柑畑の中の一本の梅 )
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( 山茱萸 椿、梅、蜜柑 )
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( 川の上の白梅紅梅 )
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( 梅畑が少ない山辺の道 )
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( 間もなく石上神宮 農家の板壁が美しい )
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ひな祭りも過ぎ水が温む頃になると各地から梅便りが続々と届きはじめます。
梅の名所は数多(あまた)あり、それぞれに心惹かれるものがありますが、
見頃ともなれば観光バスを連ねて大勢の方が押し寄せるので、なかなか落ち着いて
愛でることができません。

人里離れたところでひっそりと咲く梅もよし。
野山や道端に立つ老木の風情も捨てがたい。
というわけで山の辺の道(奈良)を辿ることにしました。

JR桜井駅で下車し徒歩20分。
その昔、海外の使節が訪れたり、歌垣が行われて賑わったと伝えられる海柘榴市(つばいち)。
ここから天理に向かって約16㎞の観梅散策を始めます。

まだ肌寒いせいか人影がほとんど見当たりません。
路傍に「海柘榴市観音道」の石標があり、民家の間をぬって進むと奥に小さなお堂が
ひっそりと佇んでいました。
格子窓を通して拝するお堂の中には1500年代のものと伝えられる二体の小さな石仏が
安置されています。
「お客さん どちらからお見えですか」 と突然の呼びかけ。
後ろを振り向くと庭を掃除していた地元の管理人の方です。
親切にも「もしよろしければ鍵を開けますから中にお入りになりますか」
と聞いて下さいました。
何という幸運! 
何十年もこの地を訪れているのにお堂の中に入るのは初めてなのです。
喜び勇んで入堂させて戴くと、外からは暗くてよく見えなかった二体の仏様が
柔和なお顔で迎えて下さいました。
前の衝立には

「 ありがたや われらのねがひ かなやなる
        名も つば市の ここのみほとけ 」
と書かれています。

今は失われた「海柘榴市」という名を唯一残したみ仏なのです。
「かなやなる」はこの辺りの地名が金屋であることに由来します。
撮影の許可も戴き、管理人の方に幾重もお礼を申し上げ、
いよいよ梅探しの道を歩みます。

平等寺、大神神社へと進んでゆきますがなかなか梅に出合えません。
歩くこと20分、ようやく玄賓庵(げんぴんあん)の前の山林に数本、満開の花。
桜井駅から歩くこと約5㎞の地点でした。

「 馬並(な)めて 多賀の山辺を 白袴(しろたへ)に
     にほはしたるは 梅の花かも 」
                     巻10-1859 作者未詳

( 馬を勢揃いして手綱を手繰りながら、やってきた多賀の山辺を
      真っ白に染めているのは梅の花なのだろうか )

こちらは馬ならぬテクテク歩き。
多賀は京都府綴喜郡と推定されていますが多賀を「奈良の山辺」に置き換えると
今の雰囲気にピッタリの歌です。

脇道から急坂を上ると、5分ばかりで檜原神社。
目の前に桃と梅畑が広がっています。
桃にはまだ早いけれど梅は満開。
風が吹くと花びらが舞い上がり、まるで雪のようです。

「 春の野に 霧立ちわたり 降る雪と
     人の見るまで 梅の花散る 」 
              巻5-839  田氏真上(でんじのまかみ) (既出)

( 「 あれは春の野に霧が立ちこめて、真っ白に降る雪なのか」
    と皆が見まごうほどに、この野原に梅の花が散っていますよ。 )

紅梅の渡来は平安時代からとされているので万葉人の梅は白一色。
そのためか雪との取り合わせも多く詠われています。

檜原神社を過ぎると、遠くに山々が重なり「たたなづく青垣」。
細い山道を下ると農家の大きな家並みが続きます。

道脇の清流がさやさやと遠くの田畑に向かって流れ下り、庭先から散った梅の花びらを
運んでゆきました。

約1㎞ばかり歩き、標識に従って右に曲がると三輪山を背景にした野道へと導かれ、
周りの景色が一変します。
長閑な田園風景。
景行天皇陵、長岳寺へと向かう道の左側には金剛葛城山脈が霞んで見えます。

畑や山麓に梅が多くなり、何処からか鶯の鳴き声が聞こえてきました。
「ホーホケキョ」
声の方向に目を向けますが姿が見えません。
鶯は意外にも人にあまり近づかないようです。

「 春されば 木末(こぬれ)隠(がく)りて うぐひすぞ
    鳴きて去(い)ぬなる 梅が下枝(しづえ)に 」

        巻5-827 山氏若麻呂(さんじのわかまろ)

( 春がやってくると鶯が梢に隠れながら鳴きわたってゆく。
  梅の下枝あたりにでも飛び去ったのだろうか )

程なく長岳寺に到着。
躑躅と杜若(かきつばた)が有名な花の寺ですが、山門の前で梅が迎えてくれました。
早春の梅散策を十分に堪能した半日。
近くの蕎麦屋さんで一服した後、天理へと向かいます。

「 この道を われらが往くや 探梅行 」  高濱虚子
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by uqrx74fd | 2014-03-06 16:36 | 万葉の旅

万葉集その四百四十六(葛城山春秋)

(つつじ咲く葛城山)
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( 秋の葛城山)
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( 葛城山ロープウエイから)
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( 葛城山頂から大和三山を臨む )
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( 葛城金剛連山  明日香冬野から )
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( 金剛山 葛城山頂から )
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(  綏靖天皇(すいぜいてんのう)葛城高宮跡  葛城古道で) 
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( 葛城金剛連山遠望  山の辺の道から )
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奈良県と大阪府の境に屏風を立てたように連なる金剛、葛城、二上連山は古くは
葛城山と総称されていました。
この辺りは古代豪族葛城、鴨氏の本拠地で、ゆかりの古社、古墳も多く、
また、修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)が修行のために山に籠ったともいわれ、
太古の世界の雰囲気を漂わせているところです。

主峰金剛山(1125m)には記紀にみえる雄略天皇ゆかりの一言主神を祀る葛城神社があり
葛城山(959m)の南麓には葛城水分神社が鎮座まします。
水分(みくまり)とは水配りのことで、人々は豊かな水をもたらす山々を聖なる山と崇め、
朝に夕に祈りを奉げていたのです。

また、「日本書紀」神武天皇即位前紀によると、この地域に土蜘蛛とよばれた部族が
住んでいましたが、天皇の兵が葛(かずら)の蔓(つる)で編んだ網で一網打尽にしたのち、
その地を葛城という名に改めたという地名縁起も伝えられています。

万葉集で葛城山を詠ったものは2首。
他の関連地域を含めても6首しかありません。
栄華を誇った葛城一族の本拠地にしては意外に少ないと感じますが、
5世紀の末、葛城氏が雄略天皇に反抗して手痛い制裁を受けて没落し、
蘇我氏に実権を奪われたことや、政治の中心が飛鳥、藤原京に遷ったという事情が
あったのかもしれません。

「 明日香川 黄葉(もみちば)流る 葛城の
      山の木(こ)の葉は 今し散るらし 」 
                        巻10-2210 作者未詳

( 明日香川に黄葉が流れている。
 どうやら葛城の山の木の葉がしきりに散っているようだ。)

明日香川に流れている木の葉を眺めながら、葛城山の秋の深まりに感慨を
抱いている一首ですか、平安時代にこの歌を本歌取りしたものが多く詠まれ
次のような人麻呂作とされたものもあります。

「 飛鳥川 もみじ葉流る 葛城の
      山の秋風 吹きぞしくらし 」  柿本人麻呂 新古今和歌集


「吹きぞしくらし」は「しきりに吹いているようだ」の意。 
なお、飛鳥川は河内にも同名の川が存在し諸説ありますが大和説が有力です。

 「 春柳 葛城山に立つ雲の
      立ちても居ても 妹をしぞ思ふ 」 
                     巻11-2453 柿本人麻呂歌集


( 春柳を鬘(かず)くと云うではないが、 その葛城山に立つ雲のように
 立っても座っても ひっきりなしにあの子のことばかり思っている )

春柳はそれを髪飾り(鬘:かずら)にすることから葛城山に掛かる枕詞とされ、
春に芽吹く柳を頭にかざすことで新しい生命力を取り入れようという
願いが込められています。
そのかづらの葛城山と「か」が続く軽快なリズム、立つ雲のように居ても立っても
いられないという言葉遊び。
若い男女の間で詠われた民謡だったかもしれません。

「 葛城や あやめもわかぬ 五月雨」  松瀬青々

「あやめ」は布の模様などの文目(あやめ)で、
「わかぬ」は「分かぬ」で区別がつかないこと。

「折角葛城を訪れたのに生憎の五月雨。
薄暗くて、周りの景色がはっきり見えないことよ」 と嘆いています。
秋ならば「葛城や あやめもわかぬ 時雨かな」とでも詠んだのでしょうか。

葛城は仁徳天皇の皇后、磐姫の故郷としても知られています。
次の歌は皇后の留守中、天皇が八田皇女という女性を後宮に入れたことに抗議して
再び宮に戻るまいと山城の国の知り合いのもとに去った時、奈良坂あたりから
葛城を臨んで詠った望郷の歌です。

「 つぎねふや 山城河を 
  宮のぼり 吾(わ)が のぼれば
  青丹よし 奈良を過ぎ 
  小盾(をだて)  倭(やまと)を過ぎ
  吾が見が欲し国は 葛城高宮  
  吾家(わぎへ)のあたり 」    (古事記)


(  山々が重なる中を流れる山城川
  我が宮を過ぎ、さらに上ってゆくと
  美しい 奈良を過ぎ
  小さな盾なす山々に囲まれた 大和も過ぎてしまった
  あぁ、私が見たいと思う国は  葛城の高宮
  なつかしき 我が家の辺り )

「葛城の高宮」の所在地は一言主神社から九品寺に向かう道の杉木立の一角に
「綏靖天皇(すいぜいてんのう)葛城高宮跡地」の石碑があるあたりと推定されています。

( 仁徳天皇の浮気については「万葉集遊楽320 磐姫皇后の謎」をご参照下さい)

「 うつりゆく 雲にあらしの 声すなり
    散るか正木(まさき)の 葛城(かづらき)の山 」 
                              藤原雅経 新古今和歌集

( 空を移ってゆく雲間から 烈しい山風の音が聞こえる葛城山
 正木のかずらは この山嵐で散っているのだろうか )

謡曲「紅葉狩」にも引用されている名歌で、正木は紅葉の樹のことです。

葛城山の秋は紅葉の他ススキが美しく、冬は樹氷、初夏は一目百万本といわれる
ツツジの群生で山が赤く燃え立つなど、四季折々素晴らしい表情を見せてくれます。
山頂からの視界もきわめてよく、国民宿舎や自然研究路が整備されているので
ロープウエイで訪れる人も多いようです。

お隣の金剛山は富士山に次いで全国第2位の登山客で賑わい、特に全長45㎞の
長距離歩道はダイヤモンドコースの愛称で親しまれています。

「 金剛の 露ひとつぶや  石の上 」 川端茅舎

もろくも儚いものの代表の露の中に金剛(ダイヤモンド)の強さを見出した
作者の内面世界の啓示。
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by uqrx74fd | 2013-10-18 07:17 | 万葉の旅

万葉集その四百四十五(葛城古道 朝妻)

( 朝妻近辺 後方は金剛山)
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( 極楽寺鐘楼門 )
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( 一言主神社 )
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( 同、大銀杏)
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( 九品寺への道 左側)
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( 長柄の古い町並み 堺屋太一氏の実家もこの辺りにある )
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( 九品寺 )
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( 同 石仏 )
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天孫降臨の伝承地とされる高天原から極楽寺へ向かう道は狭くて急な下り坂が続き、
倒木がところどころで行く手を妨げています。
難儀しながら歩くこと約40分。
ようやく見晴らしのいい場所に出ました。
眼下に大和三山がパノラマ状に広がり、大和国原そのものです。

葛城古道は標高300mの高台を歩く道が多いので、空気が清々しく、
美しい緑の田畑や低い山並みを俯瞰できるのも魅力の一つです。

金剛山の麓を過ぎるあたりに朝妻とよばれる地域があります。
古代、国造(くにのみやっこ)が置かれ、渡来人も住み着いて繁栄した群落で、
天武天皇も行幸され流鏑馬(やぶさめ)を行ったとも伝えられているところです。

万葉集では「朝妻」という言葉の響きの良さからでしょうか。
2首の恋歌が詠われています。

「 今朝(けさ)行きて 明日には来ねと 言ひし子か
     朝妻山に 霞たなびく 」
                       巻10―1817 柿本人麻呂歌集

( 「 今朝はひとまずお帰りになっても、今夜また来てくださいね 」
  と言ったあの子。
  その姿は朝妻というのにふさわしい。
  あぁ、外を見ると、その名をもつ朝妻山に霞がたなびいているよ。 )

「朝妻山」は金剛山の東に連なる小高い丘稜地帯と思われます。
一夜過ごした朝、女性は早々に起きて身づくろいを終え、後朝の別れを待っている。 
作者はその初々しいしぐさを愛でながら朝の妻という呼び方にふさわしいと
感じたのでしょう。
ほのぼのとした情景を感じさせる一首です。

「 子らが名に 懸(か)けのよろしき  朝妻の
    片山崖(かたやまきし)に 霞たなびく 」 
                        巻10-1818 柿本人麻呂歌集


( あの子の名に懸けて呼ぶのにふさわしい朝妻山の、その片山の崖に霞が
 たなびいている )

片山は一方が山で他方が開けている地形の山側をいい「きし」は崖のことです。
前の歌と同様の発想なので同じ作者かもしれません。
一夜共にした相手を朝妻と美しく詠う風雅な万葉人。
1300年を経た現在でも使いたくなるような言葉です。

「 葛城の 一言主の 冬の雷 」 有馬朗人

大和3山を眺めながら歩いて行くとやがて極楽寺に至ります。
951年開基といわれる浄土宗の古刹です。
堂々たる鐘楼門をくぐり、阿弥陀如来が鎮座まします本堂を参拝。
前方に金剛山の山肌が迫り、後方は大和平野が広がる素晴らしい眺めです。

この辺りから金剛山の山並みが途絶え、葛城山の麓を辿ることになります。
点在する石仏を拝みながら歩くこと約40分。
左手の葛城山を眺めながら坂を下ると、やがて古い街並みが続く長柄の集落へ。
由緒ありげな大きな家が立ち並び、格子戸が美しい。
杉玉を吊るした酒屋もあり、昔、金剛山に登拝する人達の宿場町として栄えた
面影が残るところです。

さらに歩くこと30分。
長い松並木の参道を進み、ようやく葛城一言主神社に到着しました。
葛城山を背にした堂々たる社殿。
主神は「 善いことも 悪いことも遠慮なく一言で言い切る 」託宣、予言の神とされ、
願い事をすれば一言だけかなえて下さるというので
土地の人たちから「一言神(いちごんじ)さん」とよばれて親しまれています。

境内には樹齢1200年と云われる大銀杏がひときわ目を引きます
「乳銀杏」とも云われ、この木にお祈りすると、子供が授かり
お乳がよく出るともいわれる御神木です。

「 猶(なお)見たし 花に明行(あけゆく) 神の顔 」   芭蕉


一言主神には次のような伝説があります。
「 役行者が鬼神たちを集めて、葛城山と吉野の金峯山とをつなぐ岩橋を掛けさせたが、
一言主神は容貌が醜いのを恥じて昼は出ないで夜のみ働いた」
しかし芭蕉は「神の顔が醜いなどということはあるまい。
本当はこの花盛りの山々の夜明けにふさわしく、きっと美しいにちがいない。
そんな神様のお顔を是非一目拝見したいものだ」 と詠んだのです。

ほのぼのとする土地の神への挨拶句で境内に句碑が立てられています。

一言主神社を後にした後、千体石仏で知られる九品寺に向かいます。
高台から眺める大和三山が美しく、疲れも忘れて歩くこと3㎞。
ようやく最終訪問地、九品寺に到着。
堂々たる本堂、庭のあちこちに立つ石仏の多さには圧倒されながらゆっくりと
拝観させていただきました。
境内には木々の剪定をしている植木職人が二人だけ。
静寂(しじま)を破るかのように蜩(ひぐらし)の声が響いてきました。

空を見上げると夕焼け雲。
最寄りの御所駅まであと4㎞。
さぁ、もう一息と呟きながら、夕日に照り映える美しい葛城山を眺めつつ、
長い長い散策を終えました。

「 葛城の 山懐に 寝釈迦かな 」 阿波野青畝

  葛城山を寝釈迦に見立てて詠んだ雄大な句です。


 
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by uqrx74fd | 2013-10-11 07:54 | 万葉の旅

万葉集その四百四十四(葛城古道:高天原)

( 高鴨神社 奈良県御所市 )
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( 同上 )
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( 高天彦神社参道の老杉   )
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( 高天彦神社   同上 )
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( 高天原 後方白雲嶽 )
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( 高天原碑 )
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( 橋本院 )
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( 橋本院入口に立つ万葉歌碑 )
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奈良盆地の西南、大阪府と奈良県の境に連なる二上、葛城、金剛山の峰々は
古くは総称して葛城山(かつらきやま)とよばれていました。
その東側の山裾(奈良県側)を南北に辿る道が葛城古道で、古代豪族葛城氏や鴨氏の
本拠地とされています。
葛城氏は天皇家との結びつきが強く、その祖とされる襲津彦(そつひこ)の娘が
仁徳天皇の皇后、磐姫、万葉集最古の歌を詠んだといわれる女性です。

「 葛城の 襲津彦真弓(そつびこまゆみ) 新木(あらき)にも
   頼めや君が  我が名 告(の)りけむ 」
                             巻11-2639 作者未詳


 ( 葛城の襲津彦(そつびこ)の持ち弓、その新しい弓材が強いように
  あなた様は私を強く信じ切って下さった上で、私の名を他人に明かされたのでしょうか)

古代、恋人の名を他人に告げることは禁忌とされていました。
他人の口から人の名が発せられると、その人の魂が抜け出てしまい、
お互いの関係が消滅すると考えられていたのです。

この歌の作者は、自分の名を明かした男に、
「 なぜ人に教えたの.
  教えても私の気持ちが心変わりしないと強く信じておられたの。
  それとも、もうお互いの関係は終わっても良いという心づもりなので
  しょうか 」 と問い詰めています。

葛城襲津彦は大和朝廷の外交関係を担っていたと云われ、何度も新羅、百済に渡り
武勇の人としても知られていたらしく、彼が引く強弓が詠われています。

「新木」は新しい弓材と「荒木神社」(五條市)とを掛け、新しい木さながらの
「まっさらな嘘偽りがない強い自分の心」と「神にかけて」の意を含んでいるようです。

葛城氏が盆地の中央に本拠を構えながら海外に渡ることが出来たのは、和歌山、河内に
至る道路を整備し、さらに、吉野川、淀川を経て瀬戸内海、朝鮮半島へと結ぶ海路を
確保したことによるものと思われます。
その結果海外からの最新技術を導入して鉄を使った武器や農具を用いて
他の豪族を圧倒し、天皇家に匹敵する力を蓄えたのです。

「 葛城の 日暮れに匂ふ 花蜜柑 」 室谷幸子

近鉄、御所(ごせ)駅から新宮、五條行のバスに乗って約20分。
風の森という風雅な名前の停車場で下車します。
葛城古道散策約20㎞の出発点です。
このあたりは金剛山の麓で、吹きおろしの風が強く、近くに風神が祀られています。
左手の坂道を上ると眼前に金剛山(1125m)が迫り、辺りは一面の田園地帯です。

心地よい風に吹かれながら歩くこと約20分で最初の訪問地、高鴨神社に到着しました。
葛城氏より古い豪族、鴨氏の氏神で、京都の上賀茂、下賀茂神社をはじめ全国の
賀茂社の総本宮です。
赤い鳥居を潜り抜け、杉木立に囲まれた参道に続く石段の上に拝殿、その奥には
立派な檜皮葺の本殿があり、厳かな雰囲気を漂わせています。
参道の左手に広がる大きな池面に金剛山の山並みが影を落としていて美しい。

参拝を終えて高天彦神社に向かいます。
曲がりくねった坂道をしばらく進むと、やがて視界が開け、大和盆地が一望に。
大和三山、遠くに三輪山も。
ここからが胸突き八丁の上り坂。約40分位急坂が続きます。
息も絶え絶えになりながら、ようやく鬱蒼とした杉木立、その向こうに
鳥居が見えてきました。

 高天彦神社は葛城氏の祖神を祀り、祭神は高皇産霊神(タカミ ムスビノカミ)。
如何にも神さびた雰囲気の拝殿の背後にはご神体の白雲峰、別名高天山です。
この辺り一帯は建国神話の天孫降臨の舞台、高天原であると伝えられています。
高天原については九州日向の高千穂の峰をはじめ日本各地にいくつかありますが、
ここもその1つです。
高天彦神社から約10分のところに高野山真言宗橋本院があり、手前に「史跡高天原」の
石碑と次のような万葉歌の碑が立っています。

「 葛城の 髙間の草野(かやの) 早や知りて
     標(しめ)刺さましを 今ぞ悔(くや)しき 」   巻7-1337 作者未詳


( 葛城の髙間の草野、そこをいち早く見つけて、「ここは俺のものだ」と目印を
  立てておけばよかった。
  いつの間にか他人に刈られてしまったわい。悔しい! )

草野は屋根材の最高級品とされた茅(かや)の群生地のことで、当時このあたりに
生い茂っていたようです。
この歌は「草に寄す」に分類されているので、草野は若く美しい女性の譬えとされ、
標刺すは我が物にすること。
目を付けていた女性が、知らない間に他人と一緒になった悔しさを詠っています。

辺りを見渡すと金剛山中腹に広がる台地は見渡す限り一面の稲田。
水も空気も澄みきっていて、いかにも神話の世界にタイムスリップしたような
心地がします。
時が経つのも忘れて長閑なひとときを過ごした後、次の訪問地、極楽寺に
向かうことにしました。
   
   「 葛城の 神の鏡の 春田かな」 松本たかし
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by uqrx74fd | 2013-10-05 08:50 | 万葉の旅

万葉集その四百四十 ( 生駒山:暗峠 )

( 生駒山の古道 大小の石が転がっている )
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( 同上  狭くて滑りやすい山道 )
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( 暗峠:くらがりとうげ  奈良県と大阪府の県境 )
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( 生駒山に続く狭い道 )
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( 生駒山中腹から奈良方面を望む )
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 ( 柘榴の花 )
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( 合歓の花 )
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( のうぜんかずら  白壁と石組みが美しい )
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「 棟寄せて くらがり峠 小鳥来る 」  犬童冴子

50年ぶりに生駒山へ。
猛烈な暑さなので下りのみのハイキングです。
まずは近鉄生駒駅に隣接する年代物のケーブルカ-に乗り山頂を目指します。
ところが、なんと!途中で乗り換え。
接続が悪く待つこと30分、山頂に到着するまで50分も掛かってしまいました。

降り立って、「さ-て、大和、難波は何処」と見渡せど、周りはテレビ局の
電波塔や観測台が隙間なく林立している上、厳重な鉄網で囲われており、
展望は全くきかない状態。

中心部は遊園地。
酷暑の影響か閑散としています。
遊ぶ施設が少なかった時代、子供たちで賑わっていたものでしたが、
今は夜の納涼祭で大人が多いとか。

標高642m、360度俯瞰できた昔の素晴らしい眺めを懐かしみながら
早々と南側から奈良方面に通じる山道を下りはじめることにしました。

大小さまざまな岩があちらこちに転がっています。
急坂を滑らないように気を付けながら歩くこと約40分。
突然、道が途切れ、目の前は信貴生駒スカイライン。
古代の道が開発のためズタズタに寸断されていることを実感します。

利用客が少ないのか、車もほとんど見当たりません。
危険が少なさそうな脇道を歩き続けること約2㎞。
急な下り道が続き爪先が痛くなってきました。
逆に登るとなると「大変だなぁ」と実感することしきりです。

再び山道に入り、てくてく歩くこと約2㎞のところで広い道に出ました。
「暗峠(くらがりとうげ)」です。
生駒山の鞍部にあたり、標高は455m。
峠の頂上には、奈良県生駒市と大阪府東大阪市の境を示す標識が立ち、
50mほど続く石畳に昔の面影が残されています。
周囲はお休み処のほか数軒の民家。
近くに棚田が広がっているので農業を営んでおられるのでしょう。

1914年、近鉄奈良線の生駒トンネル(3494m)が貫通するまで奈良、大阪間の
幹線道路として賑わい、
「商品を仕入れにゆく人々は徹夜でこの峠を越えた」(犬養孝 万葉の旅上)
と云われるところです。
重厚な石畳は江戸時代、郡山藩が参勤交代をスムースにするために設けたと
伝えられていますが、平城京と難波を結ぶ最短距離の道として利用されていた頃は
今よりもずっと道幅も狭く、むき出しのごつごつとした岩が多く転がって
いたことでしょう。

「 妹に逢はず あらばすべなみ 岩根踏む
     生駒の山を 越えてぞ我が来る 」 
                       巻15-3590 作者未詳


( あの子に逢わないでいると どうにもやるせなくて 
 岩を踏みしめるような険しい生駒の山を越え 大和へ急いでいる )

遣新羅使を命じられた若者が出発前の僅かな休暇の間に夜を徹して
山越えをした時の歌です。
「岩根踏む」に険阻な道を想像させますが、一心不乱の男には辛さよりも
恋人に逢える喜びの方が勝っていたのでしょう。
「もう一息であの子を抱けるぞ」という思いが伝わってくる1首です。

「 妹がりと 馬に鞍置きて 生駒山
   打ち越え来れば 紅葉散りつつ 」 巻10―2201 作者未詳


( いとしいあの子の許へと馬に鞍を置いて 生駒山を急ぎ越えてくると
 紅葉がしきりに散っていることよ ) 

こちらは悠々と馬上の旅。
紅葉を楽しむ余裕があり、旅情も漂っています。
作者は高貴な人物なのでしょうか。

「妹がり」の「がり」は「~のもとへ」
なお、万葉で「もみじ」の原文表記はほとんど「黄葉」(もみち)。
その中で「紅葉」と表記されている唯一の歌です。

「 菊の香に くらがり登る 節句かな 」 芭蕉

1694年9月9日、芭蕉は伊賀上野を立ち大阪へ向かいました。
奈良で一泊した翌日、暗峠を越えたところで、ほのかな菊の香りが。
「おぉ、そういえば今日が重陽の節句であった」
と詠んだ土地への挨拶句です。

大阪に到着した芭蕉はほどなく体調を壊し、10月に花屋仁左衛門宅で
人生の終焉を迎えました。
暗峠越えが最後の旅になるとは、夢想だにしなかったことでしょう。

「 旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる 」 芭蕉

しばし古を偲んだ後、再び坂道を下りはじめました。
美しい棚田や遠くの山並みを楽しみながら歩くこと4㎞。
柘榴、合歓、凌霄花(ノウゼンカズラ)などの花々も美しい。

町が近づくにつれ民家が急に多くなります。
生駒山麓の高台の落ち着いた家並みを通り、町中を通って南生駒駅へ。
ざっと3時間の山下りでした。

「 音もなく のうぜんかづら こぼるる日 」 吉川思津子
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by uqrx74fd | 2013-09-07 08:24 | 万葉の旅

万葉集その四百三十九 (生駒山)

( 平城宮跡 大極殿  後方 生駒山)
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( 生駒山)
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( 東大寺二月堂から  前方 生駒山 )
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( 同上 )
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( 落日の生駒山 )
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平城京跡に立ち西の方角を望むと行く手を遮るような山並みが見えます。
奈良県と大阪府の境に聳え立つ生駒山です。
標高642m、それほど高い山ではありませんが山頂から平城京、大阪湾が
一望のもとに収めることが出来るので大化の改新後、外敵の侵入を防ぐため、
烽火台がおかれ、東の春日山と共に宮都鎮護の山とされていました。

難波が瀬戸内海、朝鮮半島、中国大陸への重要な港として整備されるにつれ、
遣唐使、遣新羅使、防人など人の往来が多くなり、加えて物資の運搬も頻繁になります。

当時、都から河内、難波へ行くには生駒山をまっすぐ越えていく「生駒越え」と
山を迂回する「龍田越え」がありました。
「生駒越え」は最短距離ながら険阻な岩道の上、大阪側の平野部に湿地帯が多く、
人々は急ぎの用事がないかぎり斑鳩、龍田本宮を経て高さ200mあまりの丘陵地帯を
通る平坦な「龍田越え」を選んでいたようです。

ところが恋に燃えると、どんなに険しい岩道であろうが沼地であろうがなんのその。
とにかく一刻も早く恋人の姿を見たいと、生駒越えの夜道を駆け抜ける若者たちが
いたのです。

「 夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山
   越えてぞ我が来る 妹が目を欲(ほ)り 」 
                  巻15-3589(既出)   秦 間満(はだの はしまろ) 


( 夕方になると蜩(ひぐらし)が来て鳴くものさびしい生駒山。
 私は、あの子に一目逢いたくて その山を越え、大和に向かっています。)

「妹が目を欲り」に愛する人に逢いたいという切実な想いが込められているようです。

736年6月、大和朝廷は総勢80人からなる新羅使節団を派遣することになり
難波に集結します。
646年に始まり779年まで27次派遣された使節の23番目です。
上記の歌は難波に集まった下級官人が出航する風待ちの間休暇を与えられ、
僅かなひと時を惜しんで妻に逢いに行った時の歌です。

岩がごつごつしている急峻な山を夜道朝駆けで往復するのですから
余程体力に自信がなければ出来ません。

新羅への道は玄界灘の荒れた海を小さな船で渡る危険な旅。
確実な生還を期し難かっただけに今生の別れと悲壮感が漂う心境だったことでしょう。

当時、山越の道はいくつかあったようですが、今や開発で寸断され、
どの道を辿ったか定かではありません。
ただ、鞍部に「暗峠」(くらがりとうげ:標高455m)と呼ばれる石畳の道が残されて
おり、往時の面影を偲ばせてくれています。

「 君があたり 見つつも居(を)らむ 生駒山
    雲なたなびき 雨は降るとも 」
                   巻12-3032 作者未詳


( あの方の家のあたりを見やりながらお待ちしていましょう。
 あの生駒山に雲よ、どうか棚引かないで下さい。
 たとえ雨は降っても )

大和に住む女性。
恋人は生駒山を越えた難波あたりに住んでいるのでしょうか。
生駒山を恋人に見立て、訪れてくれるのは何時かと待ち望む切ない女心です。

「 難波津(なにはと)を 漕ぎ出て見れば 神さぶる
    生駒高嶺に 雲ぞたなびく 」
                巻20-4380 大田部三成(おほたべのみなり)


( 難波津を漕ぎだして振りかえってみると 
 神々しい生駒の高嶺に雲が棚引いている)

下野(栃木)の防人歌。 
難波を出航し沖合から見た生駒山。

当時の大阪湾は今よりずっと内陸に入り込んでいました。
船上から仰ぎ見る生駒山は故郷そのもの。
「山の神様、どうか私を守って下さい」と、切実な祈りが籠る1首です。

今日の生駒山頂は航空灯台、天文台、テレビ塔が林立し、ケーブルカー、
ドライブウエイが整備された遊園地となり昔日の面影は全くありません。
山頂からの展望も公共建物の鉄柵で立ち入ることが出来ず、登山の途中、
中腹からの眺望で当時の様子を瞼に思い浮かべるしか術がありませんが、
岩が多く残る山道は万葉人の苦労を偲ばせ、季節の花々や棚田が目を
楽しませてくれます。

  「 二重虹 生駒の嶺を 跨ぎけり 」 久保田嘉代

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by uqrx74fd | 2013-08-31 07:39 | 万葉の旅

万葉集遊楽その四百二十六(石上神宮:いそのかみじんぐう)

( 石上神宮 鳥居 )
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( 同 楼門 )
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( 同 拝殿 )
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( 同 神杉 )
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 ( 同 神鶏 尾長鳥 )
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 ( 同 )
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 ( 同 )
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 ( 同 矮鶏:ちゃぼ )
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石上神宮は伊勢神宮、大神神社(おおみわじんじゃ)と共に我国で最も古い神社とされています。
祭神は「布都御魂(ふつのみたま)」とよばれる神剣で、古事記によると、

「 神武天皇東征の時、熊野の山中で邪神の難に遭い、武甕雷神(たけみかづちのかみ)が
  佩いていた剣によって難を逃れた。
  その剣を崇神天皇の時代に布留の地に移して石上大神とし物部氏が護った」そうです。

物部氏は大伴氏と共に天皇の親衛隊の役割を担った氏族で、石上神宮はもともと
朝廷の武器庫の役割を果たしていました。

   「 町ぐるみ 天理の氏子 水を打つ 」  松原歌子

JR天理駅から駅前の長い長い商店街を真東へ進み、天理教本部を過ぎると
やがて布留川に至り、橋を渡ったその先の高台に鬱蒼とした森があります。

大きな鳥居をくぐりぬけると広々とした神域の両側に注連縄が張られた杉の巨木が立ち、
建物の近くの真砂地には神鶏が群れ遊んでいて、いかにも古の社らしい雰囲気を
漂わせています。

人影も少なく静寂そのもの。
伊勢神宮や大神神社が年中参詣者でごった返しているのと対照的です。

万葉集には石上、布留と詠われたものが15首あり、その大半が恋の歌です。
「布留」は「剣を振る」すなわち神霊の降臨、あるいは除災招福をあらわす言葉とも
云われていますが、巫女が袖を振って神を招く姿を想像させ、その美しい容姿と
清純さが恋に憧れる歌と結びついたのでしょうか。

「 未通女(をとめ)らが 袖布留山(そでふるやま) の 瑞垣(みづかき)の
            久しき時ゆ 思ひき我れは 」   
                        巻4-501 柿本人麻呂


( おとめが袖を振る その布留山の瑞垣が 大昔からあるように
  私はずっと昔から あの人を想ってきたのだよ )

「未通女」を乙女と訓ませるのはその女性が処女であり、神に仕える巫女を
暗示させています。
「袖布留」に「衣の袖振る」と山名が掛けられており、作者は長い間手を触れては
ならない女性に秘かな恋心を抱いていたようです。

「瑞垣」は神聖な瑞々しい生垣のことですが、現在は先端を剣先状に尖らせた
石を並べたものに変わっており、近寄りがたい威厳を感じます。

「 石上(いそのかみ) 布留(ふる)の神杉(かむすぎ) 神さびて
    恋をも 我(あ)れは さらにするかも 」
                           巻11-2417 柿本人麻呂歌集 


( 石上の布留の年古りた神杉 
その神杉のような年になって私はまたまた恋に陥ってしまったことよ)

石上は奈良県天理市の石上神宮付近から西方一帯にかけて広く称した名で、
布留は神宮の付近、すなわち現在の石上神宮を中心とした地域と見られています。

作者は「年甲斐もなくまた恋をしてしまったことよ」と詠っていますが、
浮き浮きしたような気分がうかがえ、
「おれも満更ではなさそうだ。まだまだ若いぞ」という声が聞こえてきそうです。

「 石上 降るとも雨に つつまめや
   妹に逢はむと 言ひてしものを 」  
                      巻4-664 大伴像見(おおともかたみ)


( 石上の布留というではないが いくら降りに降っても 雨になんか
 閉じ込められているものか。
 あの子に逢いにいくよと言ってやったのだから )

作者は前もって「今日はお前さんの家に行くから待っていろよ」と
云いやっていたところ、生憎土砂降りの雨。

「これしきの事でやめてたまるか。おれもあの子を抱きたいし
あの子も楽しみに待っているんだから」と今でも飛び出していきそうな
様子が目に浮かぶ歌です。

「 編み立ての 茅の輪の匂ふ 布留の宮 」    朝妻 力

堂々たる楼門を入った広庭の正面に、平安宮から移建されたと云われる古式豊かな
檜皮葺、入母屋造りの拝殿。
その奥にご神体の剣を祀る本殿。
百済から献じられたという国宝の七支刀(ななつさやのたち)が納められている宝物殿。
日本書記の中で「神宮」という名を冠している唯一の社にふさわしい偉観です。

突然、境内に放し飼いにされている尾長鶏が静寂を破るかのように鳴きだしました。
ふと見上げると、木の上に沢山の鶏が気持ちよさそうに止まっており、
いかにも長閑な初夏のひとときです。
鳥たちと楽しい時間を過ごしたあと、社の脇から山の辺の道へ出て、長岳寺に向かって歩き出しました。

「 さへづりや 鳥屋に注連張る 石(いそ)の上(かみ) 」 中野はつえ
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by uqrx74fd | 2013-06-01 15:30 | 万葉の旅

万葉集その四百二十一(万葉花紀行)

(森野旧薬園   裏山に薬園がある 奈良県宇陀市)
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( 同上 カタクリと蕨 )
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( 又兵衛桜と桃  奈良県 宇陀市)
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( 同上の桃 )
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( 大美和の杜  山辺の道 )
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( 同上  後方は三輪山 )
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( 同上  満開の桜 )
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 ( 山辺の道の桃 )
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「 鶏ねむる 村の東西南北に 
   ぼあーん ぼあーんと 桃の花見ゆ 」 小中英之


『 桃の花の ま昼の長閑さをうたっている。
  鶏まで眠りこけている暖かい日ざしの昼、視野は一面にかすんで、
  東西南北どっちを向いても桃の花だ。
  こんな村の桃の花は、人間より大きな存在感をもって佇んでいる。
  「ぼあーん ぼあーん」と大らかに,放恣に、生命の木の力をみせて佇(た)っている。
  桃の木だけが意思をもっているような風景だ。」 
                      ( 馬場あき子 花のうた紀行より 新書館 )

4月8日の花祭りも終わろうとする頃、関東地方は葉桜になると同時に牡丹、石楠花、
躑躅、藤があれよあれよという間に一斉に満開。
木々は鮮やかな新緑に覆われ、はや初夏の趣です。
季節の移ろいのあまりの速さに驚き戸惑い、桜や桃が無性に恋しくなりました。

「  そうだ! 奈良へ行こう。 
   又兵衛桜の後ろに遅咲きの桃があった!
   山辺の道にもまだ咲いているかもしれないぞ! 」

思い立ったらもう止まりません。
早速、新幹線に飛び乗り、近鉄大阪線の榛原(はいばら)駅へ直行し、
ここからバスで終点の大宇陀へと向かいます。
この辺りは昔、阿騎野(あきの)とよばれ、柿本人麻呂が
「東の野に かぎろひの立つみへて」と詠った万葉ゆかりの地です。

走り出したバスの窓から外を眺めると川沿いの道の長い桜並木が見ごろ。
「これは幸先がいいなぁ」と浮き浮きした気分で花見を楽しみながら
道の駅大宇陀に到着。
榛原駅から約20分です。

ここから徒歩で約500m先の史跡「森野旧薬園」へ向かいます。
今から450年前に「吉野葛」を製造するかたわら薬園を営み、
江戸時代、徳川吉宗の庇護をうけて幕府に漢方薬や吉野葛を献上した老舗です。
国内で唯一現存している薬園で、昭和天皇も御幸された由。

吉野葛を販売している店舗で入園の許可を戴き裏山へ。(入園料300円)
登りはじめるやいなや山道の崖にカタクリが群生しているのが目に飛び込んできました。
やや小ぶりですが薄紫色の上品な佇まいです。
曇り空なので開いている花が少なく、下を向いて眠っているよう。
時期が少し遅いので半分ぐらいは花期が終わっていましたが十分に見ごたえがあり、
目録を見ると「すり傷、できもの、滋養」に効ありと書かれていました。

頂上から周囲見渡すと、広大な山に約250種類の薬草が所狭しと植えられており、
その管理は並大抵なものではなかろうと想像され、450年の長きにわたり先祖代々
連綿と引き継いでこられたご苦労に頭が下がる思いでした。

人一人いない園内をゆっくり拝見させて戴いた後、又兵衛桜に向かいます。
戦国の武将 後藤又兵衛が戦いに敗れて落ちのび、子孫も移り住んでいたという
ゆかりの地の桜です。
歩くこと約2㎞、巨大な桜と桃の木が見えてきました。

「 向つ峰(を)に 立てる桃の木 ならめやと
        人ぞささやく 汝(な)が心ゆめ 」
                            巻7-1356 作者未詳


( 向かいの高みに立っている桃の木 。
 あんな木に実などなるものかと人がひそひそ噂している。
 お前さん、決して尻ごみなどするなよ。 )

「二人の恋が成就するはずなんてありえない」と、世間が噂しているが
「決して迷うんじゃないよ」と励ましている男。
桃は女性のたとえです。

又兵衛桜は残念ながら花期が過ぎていましたが、遠くから見ると淡いピンク色をしていて、
残り香を漂わせている後家のようです。
満開の赤い桃は後方の山々の緑を背景にして鮮やかに映えています。
周囲をゆっくり巡り歩くと爽やかな風が渡ってゆきました。

「花散らす 風の一日や 宇陀郡(うだごおり) 」  福永京子

花見を十分堪能した後、山辺の道へ向かいます。
榛原駅に戻り、桜井経由で三輪駅下車。
大神神社から狭井神社に向かう途中の「大美和の杜」がお目当てです。
目立たない場所なので、ほとんどの人が気付かないで通り過ぎていきますが、
丘の上から大和三山が展望出来る絶好のビユーポイントなのです。

ゆっくり登りはじめると、何と! 枝垂桜が満開ではありませんか。
桜、桜、桜、道の周りを埋め尽くし、頂上も桜。
他の場所はほとんど葉桜になっているというのに、なんという幸運!

「 あしひきの 山桜花 日並べて
   かく咲きたらば いたく恋ひめやも 」
                     巻8-1425 山部赤人


( 山桜の花、この花が幾日もずっとこのように 咲き続けているのなら
  こうもひどく心を引かれることなどあろうか。
 すぐ散るからこそ、こんなに悩ましいのですよ )

丘から臨む景色は素晴らしい。
大和三山のほか卑弥呼の墓かと云われる箸墓。
そして背後に金剛、葛城,二上山。
振りかえると桜越しに三輪山が。

人が誰もいないのが不思議です。
山の辺の道の案内書にも書かれていないので、地元の人しか知らない場所なのでしょうか。

立ち去りがたい気持ちで杜を後にして檜原神社へ。
「確か神社の前に桃の木があったぞ」と思い出しながら歩くこと約2㎞。
謡曲「三輪」の舞台になった玄賓庵(げんぴんあん)を過ぎると檜の林が続いており、
通り抜けると神社に到着です。

  「 桃咲くと 檜原の鳥居 幣白き 」 堀文子

1年前親しい友人たちと白い幣でお互いに御祓いをしたことを思い出しながら
参拝をすませ、鳥居の前の道を真っ直ぐに下ります。

山の辺の道を左折したことになり、コースから外れますが近くに桃畑と
井寺池があり、ここからも大和三山が臨めるのです。
井寺池まで約5分たらず。
桃が今盛りなりと咲き匂ひ、振り返ると三輪山が池に映り込んでいました。

そのまま下りると箸墓の前に出ますが、坂道を上って戻るのが大変なので途中から
引き返し、山辺の道散策を続けます。

景行天皇陵の近くで農家の人が桃の手入れをしていました。
広々とした田園風景が広がり、のどかな風景です。
崇神天皇陵のこんもりとした繁みの中の満開の桜も池に映えて美しい。

さらに長岳寺へと歩き続け、ところどころに咲く桃を楽しみながら
千古という店でゴール。
友人たちと乾杯をした蕎麦屋さんです。

阿騎野を含めると約12㎞の花紀行。
カタクリ、レンゲ、タンポポ、蕨、桜、桃。
行く春の名残を心ゆくまで惜しんだ爽やかな1日でした。

  「 野に出れば 人みなやさし 桃の花 」  高野素
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by uqrx74fd | 2013-04-27 07:22 | 万葉の旅

万葉集その四百十九(天の香久山)

( 笑う香久山 )
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( 万葉歌碑 
   「 大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山
   登り立ち 国見をすれば 国原は けぶり立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ
   うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづ しま) 大和の国は 」  巻1-2 舒明天皇
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( 香久山登り口 )
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( 中腹から 畝傍山 後方は葛城山 )
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(  山頂の社 )
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( 井上稔 香久山 想像上の埴安の池が描かれている 奈良万葉文化館刊図録より)
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( 天の岩戸神社 )
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 ( 同  内部に掛けられている絵 )
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「 大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 」
                      巻1-2の一部(既出) 舒明天皇 

( 大和には多くの山々があるが、 その中でも木々が豊かに生い茂り、
  美しく装っている香具山
  神話の時代に天から舞い降りたと伝えられている香具山- )

と万葉集で詠われている香久山は多武峰の山つづきの端山で、その先端が
平野に突き出たような形になっています。
正面から見ると山というより、なだらかに広がる丘のようです。
古代、このような地形のところが神事の場にふさわしいと考えられ、人々は山上に
神祭りの場を設けて、祈り、卜占を行い、山の土で祭器を作っていました。

「伊予国風土記」逸文に
「香久山は天上より天降(くだ)った時二つに分かれて一つは大和に落ち、
もう一つは伊予に落ちて天山になった」という神話が伝えられていますが、
万葉集で「天の」という枕詞が冠されているのは香久山のみです。
古代の人々がいかにこの山を特別な存在として崇めていたか窺われますが、
山の麓に神話で名高い「天の岩戸神社」があることにも関係しているのかもしれません。

「香久山に 筍掘りの一輪車」  飯隈球子

近鉄耳成駅から東の方角に向かって歩くこと約2㎞。
奈良文化財研究所を通り過ぎたところから香久山がひょっこりと姿を現わします。

大きな竹林の枝が風に吹かれて靡いている脇のなだらかな道を上って行くと、
登頂口の前に「大和は群山あれど」の大きな歌碑が立っていました。

山は木々に囲まれて視界が狭く、わずかに畝傍山が臨める程度です。
標高152m。ゆっくり上って約20分。
あっという間に頂上に。

山頂には小さな社が二つ、国土を治める神、国常立(くにとこたち)神社と、
雨や水を司る龍神、高靇(たかおかみ)神社が祀られています。
次の歌は、都が藤原宮から平城宮に遷された(710年)のち、この地を訪れた人が
香久山の麓の池で舟遊びを楽しんだことを懐かしんで詠ったものです。

まずは訳文から。

「 天から降ってきたといわれている香具山
   この山に 春がやってくると 
 桜の花が 木陰いっぱいに咲き乱れていました。

 松を渡る風に  麓の池の波が立ち
 その岸辺には あじ鴨(巴鴨ともいう)の群れが騒ぎ、
 沖の方で 鴨がつがいを求めあっていたこともあります。

 しかしながら、かって宮仕えの人々が御殿から退出して
 いつも楽しそうに船を漕いでいた姿はなく、櫂も棹も見当たりません。
 思い出のよすがとして船を漕いでみようと思ったのに。 」
                                巻3-260 作者未詳

訓み下し文

「 天降(あも)りつく 神の香具山 
  うち靡く 春さり来れば
  桜花  木(こ)の暗茂(くれしげ)に

  松風に 池波立ち
  辺(へ)つ辺には  あじ 群(むら)騒き
  沖辺には 鴨妻呼ばひ

  ももしきの 大宮人の 退(まか)り出て
  漕ぎける船は  楫棹(かじさを)も
  なくてさぶしも  漕がむと思へど 」 
                        巻3-260  作者未詳


往時の華やかな様子が彷彿とされる歌ですが、木陰を作っていた桜の木々は 
ほとんど姿を消し、松籟を響かせていた松の木も1970年頃、松くい虫の被害を受けて全滅。
今は常緑広葉樹が生い茂り、視界を阻んでいます。
大宮人が舟遊びを楽しんだ池は、埴安(はにやす)池と推定されていますが、
付近に池らしい池は見当らず、僅かに道の途中で見かけた「天香久山埴安池伝称地道」という
石柱に名をとどめるのみです。

「 古の 事は知らぬを 我れ見ても
       久しくなりぬ 天の香具山 」   巻7-1096  作者未詳


( 過ぎ去った遠い昔のことはわからないけれども、私が見はじめてからでも
  もう随分長い間変わることなく、神々しくあられることよ。
  この天の香具山は )

下山は反対側の道から北麓の「天香久山神社」に向かいます。
折しも、登ってくる小学生の集団に出会いました。
歴史の勉強でしょうか、引率の先生が熱心に説明しはじめ、耳を傾けると

『 天香久山神社の祭神は占いの神「櫛真知命(くしまちのみこと)」です。
 天の岩戸伝説の岩戸に閉じこもってしまった天照大神を外にお出しするため、
 神々は香久山の牡鹿の骨を、この山の桜木「波波迦(ははか)」で焼いて占いました。
 その占いの結果に従って榊に祭具を取りつけて祀ったところ大神の蘇生を
 見ることになったのです』というような趣旨のことを子供向けに分かりやすく
 話していました。

「波波迦(ははか)」という桜は「カバザクラ、コンゴウザクラ、ニハザクラ、
ウハミズザクラ」などとも云われていますが、注連縄を巻いた櫻木の横に

「 ひさかたの 天(あめ)の香具山 この夕べ
       霞たなびく 春立つらしも 」 
                    巻10の1812 柿本人麻呂歌集より(既出)

の歌碑が建てられていました。

神社を出て天の岩戸神社に向かいます。
周りは田畑が広がり、はるかに見える金剛、葛城の山並み。
美しい板壁の民家が立ち並ぶ道に出ると、その突き当りが「天岩戸神社」です。

どこにでもありそうな簡素な社ですが、なんとなく歴史の重みを感じさせます。
礼拝を済ませて建物の中を覗かせて戴くと、最近奉納されたのか神話の裸踊りの
絵が賑々しく掛かっていました。

崇高な雰囲気を想像していただけに、いささか拍子抜けしたような気持ちで退出し、
近鉄畝傍御陵前へ向かいます。
約2㎞の道のりですが、藤原宮跡の広大な敷地の中に咲くレンゲやタンポポを
楽しみながら、前方に畝傍山、右手に耳成、そして後方に香久山と
大和三山を堪能した散歩道でした。

   「 三山の 天心にして 春の雷(いかづち) 」 沢木欣一

注: 万葉集では「香具山」と表記されていますが一般には「香久山」と記されることが
   多いので、本稿では歌は香具山、説明文は香久山としています。
               ( 国土地理院では天香久山 )
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by uqrx74fd | 2013-04-14 17:25 | 万葉の旅