カテゴリ:万葉の旅( 64 )

万葉集その二百六十(佐保路、佐保姫)

『 天平時代の建物だという転害門(てがいもん)から、まず歩き出して法蓮という
ちよっと古めかしい部落を過ぎ、僕は、さもいい気持そうに佐保路に向かい出した。

此処、佐保山のほとりはその昔、-ざっと千年もまえには大伴氏などが多く屋敷を
構え、柳の並木なども植えられて、その下を往来するハイカラな貴公子たちに
心ちのいい樹蔭(こかげ)をつくっていたこともあったそうだけれども、
- いまは見わたすかぎり茫々とした田圃で、その中を真っ白い道が
一直線に突っ切っているきり。 』  
                             ( 堀 辰雄 大和路信濃路 新潮文庫 )

「朝刈りの 草芳(かぐは)しき 佐保路かな 」 東 妙子

佐保路は東大寺、転害門(てがいもん)から西の法華寺に至る大路です。
昔はその路を左右にして、北には佐保山とそれに連なるなだらかな丘陵地、
南へは佐保川が清らかに流れていました。

山野には四季とりどりの花が咲き乱れ、川には千鳥や河鹿が棲む景勝の地で
万葉人はこの界隈を佐保の内とよんで、長屋王や大伴、藤原氏などの貴族が
大邸宅を構えて舟遊びなどを楽しんでいたことが次の歌からも伺われます。

     「佐保山の 清き川原(かはら)に 鳴く千鳥
           かはづと二つ 忘れかねつも 」 
            巻7-1123 作者未詳 (その21河鹿 既出)


今の佐保川の堤には桜が植えられていますが、万葉の昔は川原の青柳が風にそよぎ、
平城京につながる一条南大路には、柳の街路樹が立ち並ぶ心地よい散策地でした。

   「 我が背子が 見らむ佐保路の青柳を
        手折りてだにも 見むよしもがも 」
                  大伴坂上郎女 巻8-1432


( あの方がいつもご覧になっているに違いない佐保路の青柳。
その青柳をせめて一枝なりとも手折りたいのに- -。 残念ですわ)

作者は都から離れた田舎で田畑の世話をしていたようです。
柳は生命力が強いので手折って髪に挿して長命を願ったり、魔よけにしていました。


「 佐保山に たなびく霞 見るごとに
   妹を思ひ出(い)で 泣かぬ日はなし 」 巻3-473 大伴家持


( 佐保山にたなびいている霞、 その霞を見るごとにあの子を思い出し、
悲しみの涙がこみ上げてくる日々です。 ) 

作者15~16歳の頃、女児までなした最愛の妾を亡くしました。
悲嘆にくれた家持は、初恋の人に対する切々たる想いを十二首、弟の書持(ふみもち)も
それに和して一首詠います。
在りし日の思い出の数々、残された幼子のことなど。

たなびく霞に亡き人の面影を連想しているのでしょうか?
あるいは火葬されたときの煙を思い出しているのでしょうか。
それは「家持のみずから奏でる青春のレクイエムであった」
( 青木生子 日本文学の美と心 おうふう) ようです。

妾:「 当時の社会で公認されていた妻の一人。但し正妻ではない」)

「 千鳥鳴く 佐保の川門(かはと)の清き瀬を
      馬打ち渡し いつか通はむ 」 巻4-715 大伴家持


( 千鳥が鳴く佐保川の清らかなせせらぎ。
  その渡り場から、馬を急がせてあなたのところへ早く行きたいのですが、
でもその日が来るのはいつのことか)

「早く逢いたいが、よんどころない事情で今は会えない」と詠う相手は
婚約者、大伴坂上大嬢(おおいらつめ) と思われますが、当時、家持は多くの
女性との交遊に忙しかったようです。

「川門」:両岸が狭くなっている渡り場。

     「 春の初めの歌枕 霞たなびく吉野山 
     鶯 佐保姫 翁草 花を見捨てて帰る雁」( 梁塵秘抄 )


古代、春は東の方角から来るものとされていました。(五行説)
奈良の東側にたたずむ佐保山の神は春の女神とされ、平安時代に佐保姫と
よばれるようになります。

美しい響きをもつ「佐保姫」という言葉が初めて歌われたのは次の歌です。

「 佐保姫の 糸そめかくる青柳を
       吹きな 乱りそ春の山風 」     源 兼盛
 

( 山風さんよ、佐保姫が美しく織りなした青柳を吹き散らすなよ!) 

「 法華寺の里に玉苗余りけり」  大屋達治

『 久しぶりに奈良の法華寺におまいりした。
この寺の門から、尼僧達のお住居へ通じる道が私は好きである。

道といっても、白い砂利を敷きつめた上に、四角の切石を並べてあるだけで、
いかにも門跡寺院らしい気品と優しさにあふれている。- -

まぶしいばかりの白一色の庭と、遠くにかすむ佐保山の緑、それを背景に紫の衣を
召した門跡さんが立たれたとき、目ざめるように見えたことを思い出す。
昔の人々はそういう色彩の調和まで考えて造ったのであろう 』

( 白州正子 十一面観音巡礼 新潮社 )

そして、お堂には光明皇后をモデルにしたと伝えられる豊満な表情の十一面観音様。
 
「 佐保姫の もてなしあつし 独り旅」 正岡子規

  春の色とりどりの野山は佐保姫の厚いもてなし。
  冬枯れの野山が、梅や桜に彩られ、やがて新緑に染まってゆきます。

ご参考:「佐保路ガイド」

「佐保路」: 東大寺の転害門から西の法華寺に至る大路 
        佐保山の麓 佐保川の北岸に沿う。
        平城京の南一条門の大路で多門城址や多くの寺がある
「佐保川」: 春日山東方の石切峠に発し、奈良市北部を西南に流れ大和郡山市
        額田部の南で初瀬川と合流して大和川となる。
        全長19km 古くからの歌枕
「海龍王寺」: 光明皇后の本願で創建、唐から帰った玄昉(げんぼう)が住したという
「法華寺」:  光明皇后が父不比等の旧宅を寺としたもので大和国の総国分尼寺となり
         尼僧の修法道場として栄えた
「興福院(こんぶいん)」 : 閑静そのものの瀟洒な尼寺 
「不退寺」:  在原業平が平城天皇の萱(かや)の御所に自作の観音象を安置し
         精舎としたのが始まりで業平寺ともいわれる
「佐保陵(さほのみささぎ)」:
         法蓮の西一条南大路と佐保川とが交叉するところから
         すぐ北に、うしろに佐保の丘陵を負って聖武天皇と
         光明皇后との御陵(墓)がある。
         天平文化の最盛期をつくりだした信心あつい天皇と皇后、
         東の方角にその象徴である大仏殿の甍が聳え立つ。
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by uqrx74fd | 2010-03-28 20:03 | 万葉の旅

万葉集その二百四十四「香椎潟(かしひがた)」

『 鹿児島本線で門司方面から行くと、博多に着く三つ手前に香椎という小さな駅がある。
この駅をおりて山の方へ行くと、もとの官幣大社 香椎宮(かしいのみや)、海の方に行くと
博多湾を見わたす海岸に出る。

前面には「海の中道」が帯のように伸びて、その端に志賀島(しかのしま)の山が
海に浮かび、その左の方には残の島(のこのしま)がかすむ眺望のきれいなところである。
この海岸を香椎潟といった。昔の「橿日(かしい)の浦」である。

大宰帥(だざいのそち)であった大伴旅人はここに遊んで

「 いざ子ども 香椎(かしひ)の潟(かた)に 白袴(しろたへ)の
   袖さへ濡(ぬ)れて 朝菜摘みてむ    万葉集巻6-957 」 
と詠んだ 』
           
( 松本清張 「点と線」 新潮文庫より)

728年11月(旧暦)、大宰府長官大伴旅人は官人たちと香椎廟に参拝しました。

香椎廟とは博多湾に臨む今の香椎宮のことで、皇室の祖先、仲哀天皇と神功皇后を
合祀しているところから官幣大社とよばれ、古くは神祇官、明治以降は宮内省が幣帛
(へいはく:神に奉献する物の総称)を捧げたのでその名があります。(第2次大戦後廃止)

香椎宮の本殿は、内陣、中陣、外陣に分かれ、入母屋、切妻造りの屋根に様々な装飾
(破風)を配した華麗かつ変化に富む独特の様式をもち、「香椎造」と称されています。
樫や楠の巨木に囲まれた境内は森厳な雰囲気を漂わせており、遠(とう)の朝廷(みかど)
大宰府でも尊崇厚く、官人がしばしば訪れていたようです。

さて、長い参拝が終わった旅人一行は清々しい気分で背後を振り返ります。

そこには湖を思わせるような朝凪の香椎潟が眼前に大きく開け、白い作業衣をまとった
海女たちが、忙しげに海藻を摘んでいます。

紺碧の空に映えるマリンブルーの海。点在する白い海女の姿。遥か彼方には博多湾。
人々はその美しい光景に歓声を上げたことでしょう。 
大伴旅人は
「 おおーい!皆のものたちよ。 我々も海女に混じって、この香椎の海で
 袖が濡れるのも忘れて朝餉の海藻を摘もうではないか 」と声をかけます。

部下の一人、小野 老(おゆ)が早速応じます。

「 時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟(かしひがた)
      潮干(しほひ)の浦に 玉藻刈りてな 」 巻6-958 小野 老(おゆ)


( 海からの風が吹き出しそうな気配になってきました。
  潮がひいているこの入江。今のうちに海藻を刈ってしまいたいものです )

「時つ風」は潮が満潮、干潮に変わるときに、一時的に時を定めて吹く風です。
香椎潟は博多湾の奥深いところにありますが、玄界灘の影響を受け、気象状況が
変化しやすく、老(おゆ)はそのことをよく知っていたのでしょう。

それにしても、お偉方が海藻摘みに興じる? 
「玉藻」には「地元の美しい女」という意味が隠されているかもしれません。

この風光明媚な景色はその後も長く残されていたらしく、昭和の初め頃、鉄道路線の
一部は波打ち際近くにあり、海岸に沿って列車が颯爽と走っていたと伝えられています。

その美しい海岸線も今や埋め立てられて種々の家屋や団地が立ち並び、昔日の面影も
ないくらいに変貌してしまいました。

香椎宮参道入口の右側に頓宮(とんぐう)とよばれる台地があり、そこに
万葉歌碑が建てられています。

そのかたわらに立ち、遥か博多湾を見晴らしながら目を閉じて古を想うと、
清らかな浜辺に打ち寄せる白波や海女たちの姿が髣髴としてよみがえり、万葉人の
さんざめきまで聞こえてきそうです。

目をひらくと海上には帆掛船。
そして、一陣の浜風が頭上を吹き抜けてゆきました。

「 時雨霽(は)れ 香椎の宮で 見る帆かな 」     飯田蛇笏
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by uqrx74fd | 2009-12-06 09:36 | 万葉の旅

万葉集その二百三十六「斑鳩(いかるが) 散歩」

「 いかるがの さとのをとめは よもすがら
    きぬはた おれり あきちかみかも 」    会津 八一


「斑鳩」という地名は聖徳太子ゆかりの法隆寺を中心とする一帯をいい、その地に
「イカルガ」という小鳥(スズメ目アトリ科)が棲息していたことに因むといわれています。

「きぬはた」は絹ではなく、衣類を織るための機。
古き良き時代の長閑な田園風景が彷彿され、しみじみとした旅情が感じられる
一首です。

昭和20年代頃、最寄の鉄道駅から法隆寺に続く道は、春になると田畑一面に菜の花、
レンゲ、タンポポが咲き乱れ、秋にはコスモスや桔梗、女郎花、彼岸花、薄などが
田園を美しく彩っていました。
ところどころに点在する藁葺き屋根の美しい民家や崩れかかった土塀。
ゆっくりと歩いてゆくと、やがて緑も鮮やかな杉木立が迎えてくれます。

「しぐるるや 松美しき 法隆寺 」 阿久津 都子

『 はるかに見えているあの五重塔がだんだん近くなるにつれて、何となく
胸の躍りだすような刻々と幸福の高まって行くような愉快な心持であった。

南大門の前に立つと、もう古寺の気分が全心を浸してしまう。
門を入って白い砂をふみながら古い中門を望んだときには、また法隆寺独特の
気分が力強く心を捕える。
そろそろ陶酔がはじまって体が浮動している気持ちになる。』(和辻哲郎 古寺巡礼)

この本を片手に寺々を巡った若き頃が懐かしく思い出される一文です。

堂々たる世界最古の木造建築、胴太のエンタシスの柱、連子格子の美しい回廊、
金堂の極楽浄土の壁画、五重塔初層の真迫の表情の塑像、アルカイック・スマイル
(古拙の微笑み)の み仏たち、夢殿に佇むモナ・リザの微笑に擬せられた
太子等身の像等々を巡ると、万葉ゆかりの池の跡(現在非公開)に出てまいります。

「 斑鳩の 因可(よるか)の池の よろしくも
       君を言はねば 思ひぞ我(あ)がする 」 巻12-3020 作者未詳


( 斑鳩の「よるかの池」は、よい池、好ましい池といわれています。
 ところが、世間ではあなたのことを、その池の名のように「よい人」と
 誰も言ってくれないのです。 一体どうしてでしょうか。
 それが今の私の物思い、悩みの種なのです。)

どうやら恋人はあちらこちらで浮名を流し、よからぬ噂が立っているようです。
親から付き合いを止められているのでしょうか?
あれやこれやと悩みながらもその男を忘れられない純情な乙女です。

「因可の池」については所在未詳とされていますが、法隆寺管長、大野玄妙師は

「 法隆寺境内にある聖徳会館の南側の湿地帯が因可の池の跡であり、
昔は地域の人々を大変潤(うるお)し、また頼りにされていた池であったと思われる」
と述べられておられます。

「 家ならば 妹が手(て)まかむ 草枕
       旅に臥(こ)やせる この旅人(たびと) あはれ 」

       巻3-415 聖徳太子

             (万葉集その11:聖徳太子とマザーテレサ既出)

( 家にいたなら 妻の腕(かいな)で支えてもらって篤い看病を受けていたであろうに。
この旅先で草を枕に一人倒れ臥しておられるとは。 あぁ、なんと いたわしいことよ!)

万葉集唯一の太子の歌で、行き倒れの旅人を悼んだものです。
日本書紀によると、そのあと太子は自分の衣裳を脱いで旅人にかけてやり、
「安らかに眠れ」と言われたと伝えられています。

552年(538年説もあり)百済から仏教が伝来し、釈迦像、仏具、仏典が献上されます。
時の天皇(欽明)は仏教を受け入れるかどうか朝廷の意見を求めますが、
崇仏(すうぶつ)派の蘇我氏、排仏派の物部氏との間で政権を争う具とされ、
以来35年にわたる熾烈な内乱となりました。

用明天皇2年(587)、ついに蘇我氏が物部氏を滅ぼし我国最初の本格的な仏教寺院
飛鳥寺(法興寺)、次いで聖徳太子の手で四天王寺、さらに607年には法隆寺が
建立され本格的な仏教導入がはじまりました。

新しい国作りの理想に燃えた太子は仏教思想を基底にした中央集権統一国家の
建設を目指すために「遣隋使」を派遣して先進文化や仏教の経典を積極的に
取り入れました。

そして、「冠位十二階」の制定による氏族の世襲禁止と、有能な人材の登用、
「十七条憲法」の制定による「和と平等の政治」、「天皇の詔の遵守」(王権の確立)、
「三法(仏 法、僧)を敬うこと」などの政策を推し進めます。

然しながら、血を血で洗う同族の凄惨な戦い、皇位継承をめぐる争いとそれを操る
蘇我氏の横暴はとどまるところを知らず、ついに太子は仏教の真理を求道するために
斑鳩宮の道場(夢殿)に籠り瞑想の世界に入られました。

太子理想の政治体制の実現は雄図むなしく後代に持ち越されましたが、
日本文明黎明期に異質文明を積極的に採り入れ、それを取捨選択しながら、
有益な知識と技術を自家薬籠のものとして、新しい日本文化を創造し、
それを高度な水準にまで引き上げた功績は大きく、
後々、我国の多様な時代精神を生み出す原動力になったと言えましょう。

『 私は法隆寺から夢殿、夢殿から中宮寺にかけて巡拝するたびことに
この斑鳩里のかって太子の歩まれたことを思い、一木一草すらなつかしく、
ありし日の面影を慕いつつたたずむのを常とする。

春、法隆寺の土塀に沿うて夢殿にまいり、ついで庭つづきともいえる中宮寺を
訪れると、そのすぐ後ろには、もういちめんの畑地である。
法輪寺と法起寺の塔が眼前に見えるかげろうのたちのぼる野辺にすわって
雲雀の空高くさえずるのをきいたこともあった。

かってここに飛鳥びとがさまざまな生活を営んでいたのであろうが、
彼らの風貌や言葉や粧(よそお)いはどのようなものであったろうか。 』

( 亀井勝一郎 大和古寺風物誌 :旺文社文庫)

「 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 」   正岡子規   
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by uqrx74fd | 2009-10-12 10:21 | 万葉の旅

万葉集その二百二十九(清き浜辺ー敏馬:みぬめ)

万葉集には北海道、出羽(山形、秋田)、美作(岡山県北部)、伯耆(鳥取県西部)、
隠岐(島根)を除く全国各地の歌が集められています。

犬養孝氏の考証によるとその地名総数は約2900に達し、そのうち同一呼称のものを1つに
整理しても1200余に上るそうです。

今では失われた地名も多くあり、僅かな手がかりを頼りに場所の特定、あるいは推定が
なされていますが、「敏馬」もその一つです。

現在の神戸港の東、岩屋町あたりと推定されていますが、今は埋め立てられて昔日の
面影はなく、僅かに高台に祀られている「敏馬神社」という社名と、そこから眺望する
風景からしか往時を偲ぶよすがはありませんが、古代は難波、瀬戸内海航路の要港で
あるとともに風光明媚な景勝地であったことが詠われております。

「 八千鉾(やちほこ)の神の御代(みよ)より

    百舟(ももふね)の泊(は)つる泊まりと

   八島国(やしまくに) 百舟人(ももふなびと)の定めてし

   敏馬(みぬめ)の浦は 朝風に 浦波騒き
 
   夕波に 玉藻(たまも)は 来寄る

   白真砂(しらまなご) 清き浜辺(はまへ)は

   行(ゆ)き帰り 見れども 飽かず

   うべしこそ 見る人ごとに

   語り継ぎ 偲(しの)ひけらしき

   百代経て 偲はえゆかむ 清き浜辺を 」

   巻6-1065  田辺 福麻呂(さきまろ) 最後の宮廷歌人


( 国造りの神 八千鉾の御代以来 
 多くの船の停泊する港であると
 わが舟人たちが定めてきた
 この敏馬の浦は 朝風に浦波が立ち騒ぎ
 夕波に 美しい藻が寄ってくる

 白砂の清らかな浜辺は 
 行きも帰りも いくら見ても見飽きない

 さればこそ ここを通る人は誰しも
 この浦の美しさを 口々に語り伝え賛美したのであろう

 今後もまた百代の後まで讃えられてゆくだろう。この清き浜辺は。 )

八千鉾:大国主命(おおくにぬしのみこと)の異称 出雲国の主神

この歌は、行幸従駕またはこれに準ずる公式行事における敏馬賛歌とされ、由来の
古さや連綿と続いてきた殷賑(いんしん:にぎわい)のさまを詠い、また眼前の
浜辺の清らかさ、美しさを言葉を尽くして讃えています。

岬には「延喜式:神名帖(927年)」に登載されている敏馬神社があり、
祭神は身籠ったまま戦いを指揮した伝説で名高い神功(じんぐう)皇后 
(現在はスサオノミコト以下三神)とされています。
社の縁起によると

「その昔、神功皇后が新羅征討にあたり諸神に加護を祈ったところ
美奴売山(みぬめやま)の神が自分の山の杉を伐採して船を作ることを教えた。

皇后がその通りにしたところ首尾よく戦いに勝つことが出来たので、
美奴売の神をこの浦に祀り、その神船も献じた 」と伝えられています。

以来、この神社は船材を司る山の神であるとともに航海の守護神とされてきました。

難波津に近く海岸線が長いこの浦は、白砂青松の美しさでも都に知られており、
寄航する人々の旅愁を慰めていたようです。

万葉時代を代表する柿本人麻呂、山部赤人、大伴旅人などもこの地を訪れて歌を
詠んでおり、さぞかし繁栄を極めた港町であったことでしょう。

なお、この長歌に続く短歌では

「 まそ鏡 敏馬の浦は百舟の
         過ぎて行くべき浜ならなくに 」 
                  巻6-1066 同上     

                   (まそ鏡:「見る」の枕詞)

と、自分達の船が何らかの理由で寄港できず素通りするのは誠に口惜しいと嘆いています。

敏馬(みぬめ)という地名は「見ぬ女(みぬめ)」と発音が通じ、
「港にいるまだ見ぬ女(遊女)に会えないのは残念だ」という気持も
含まれているのかもしれません。

「 または名に負ふ歌枕
     波に千とせの色映る
      明石の浦のあさぼらけ
      松 万代(よろづよ)の音(ね)に響く

  舞子の浜のゆふまぐれ
  もしそれ海の雲落ちて
  淡路の島の影暗く
     狭霧(さぎり)のうちに鳴き通ふ
     千鳥の声をきくときは
  いかに浦辺にさすらひて
  遠き古(むかし)を忍ぶらむ  」
                 島崎藤村 ( 晩春の別離より)

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by uqrx74fd | 2009-08-24 07:38 | 万葉の旅