カテゴリ:自然( 97 )

万葉集その三百三(武蔵野)

(武蔵野冬景色)
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(武蔵野晩秋)
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( 手塚治虫 鉄腕アトム 赤いネコの巻 1953年 )
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「 むさし野の 冬めき来る 木立かな」 高木晴子

「 昔の武蔵野は萱原(かやはら)のはてなき光景をもって絶頂の美を
  ならしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。
  林は実に今の武蔵野の特色といってもよい。
  すなわち木はおもに楢(なら)の類(たぐい)で、冬はことごとく落葉し、
  春は滴るばかりの新緑萌え出ずるその変化が秩父嶺(ちちぶね)以東
  十数里の野一斉に行われて、春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に霧に時雨に
  雪に緑陰に紅葉に、さまざまの光景を呈する- 」
                           ( 国木田独歩 武蔵野 岩波文庫より)

天地創造の時代、武蔵野は海の底にあったそうです。
そして、気が遠くなるような長い間、海底の隆起運動が繰り返された結果、
海の丘陵地が次第にせり上がり、地上に高い山脈が出現しました。

その頃、地上では激しい風雨が吹き荒れていて山の岩肌を打ち続け、
脆くなった巨岩が崩れ落ちて砂礫の層を形成していきます。
周囲には盛んに火を噴く日光、浅間、八ヶ岳、富士、箱根などの活火山。
その降灰が関東平野一面を埋め尽くしていきました。

やがて、悠久の時を経て地型が安定すると、羊歯類などの植物が繁茂して原始林が出現。
谷間からこんこんと湧き出る水は川や池そして沼地を造り、その周りに色々な動物や
人間が集まり住んで、高度な縄文文化が形づくられていったと推定されています。

「 ゆく末(すえ)は 空もひとつの 武蔵野に
     草の原より 出づる月影 」 
                   ( 藤原良経(よしつね)  新古今和歌集)


( はるかかなたは空も地も一つになっている広々とした武蔵野を分け行くと
  草原の中から大きな月が出てきたよ )

豊かな原始林は度々の大火で焼失し、奈良、平安時代にはすでに一面見渡す限りの
荒野となり、ススキや萱(かや)が生い茂っていたことが詠われています。
律令時代の武蔵国は、現在の東京都、埼玉県、神奈川県の横浜市、川崎市を含む
広大な地でムザシ(武蔵)とよばれていました。

「 武蔵野(むざしの)の をぐきが雉(きぎし) 立ち別れ
    去(い)にし宵より 背ろに逢はなふよ 」     巻14-3375 作者未詳


( 武蔵野の山ふところに潜む雉がぱっと飛び立つように、
あの方も突然出立してしまいました。
それ以来まったくの音沙汰なしでお逢いしていません。)

「をぐき」:「ぐき」は山洞(やまほら)を示す「岫(くき)の意 「背ろ」:背子

雉は平地や山地の草原に一雄多雌の小さい群れを作りますが、秋から冬にかけて
雄同士、雌同士別れて暮らすので、これを立ち別れといったようです。
男は防人か雑役として西方に徴集されたのでしょうか。
別れの言葉を交わす間もなく慌しく出立した夫。
残された妻の悲しみと寂しさを朴訥な方言で詠う一首です。

「 武蔵野の 草葉もろ向き かもかくも
   君がまにまに 我(あ)は寄りにしを 」 巻14-3377 作者未詳


 ( 武蔵野の草葉があちら、こちらへと風にまかせて靡くように
  私はあなた様のおっしゃるまま、自分としてはどうかと思われることでさえ
  ただただ、お言葉に従ってまいりましたのに、どうして今になって
  冷たくなさいますの )

心変わりをした男に恨みを込めながらも、自身の変わらぬ思いを込めている女。
一途に愛を捧げている心情をひたむきに詠っています。

「 埼玉(さきたま)の 津に居(を)る舟の 風をいたみ
    綱は絶ゆとも 言な絶えそね 」      巻14-3380 作者未詳


( 埼玉の船着場に繋がれている舟のもやい綱が、風の激しさで切れてしまうことが
あろとも、あなたのお便りは絶やさないでね )

埼玉は現在の行田市、羽生市あたりで利根川の船着場で詠まれたものらしく
遊女達が唄った歌(伊藤博)ともされています。
埼玉という地名ははサキタマ(幸魂)が転じたもので幸いの霊をあらわし、利根川や
荒川などがもたらす幸魂が宿るところとしてその名を伝えています。

「風をいたみ」: 風が激しく吹く

武蔵野が雑木林になったのは江戸時代からだそうです。
農家が薪炭用の材木を植林して10年~20年毎に伐採し、さらにその切り株から出る
新芽を育てて繁茂させました。
樹種は薪炭に適した櫟(くぬぎ)、コナラ、欅、エゴ、などが多く、整然と一定の間隔を
残して植えられたので、明治時代には美しい雑木林になり、また観賞用に梅、櫻、竹、
松などが加えられたそうです。
また道端には百花繚乱。

徳富蘆花はその美しさを次のように書き残しています。

「 野はすみれ、たんぽぽ、春竜胆(はるりんどう)、草木瓜(くさぼけ)、薊(あざみ)が
  咲き乱れ、大欅が春の空を摩(な)でて淡褐色に煙りそめ、雑木林の楢が逸早く、
  櫟(くぬぎ) やや晩(おく)れて芽を吐(ふ)きそめる。
  やがて落葉木は若葉から漸次青葉となり林には金襴銀襴の花が咲き、
  畑の境には雪のように卯の花が咲きこぼれ、林端には白いエゴの花がこぼれ、
  田川の畔(くろ)には花茨が芳しく咲き乱れる- -」
                            (  「みみずのたはこと」  岩波文庫 より )

わが国経済が高度成長期にさしかかると、武蔵野周辺は開発のため見るも無残な姿に
なりつつあり、その荒廃のさまを観察していた手塚治虫は「鉄腕アトム」を通して
警鐘を打ち鳴らしました。
それは、いち早く環境問題に取り組んだ画期的なコミックとして今もなお高く
評価され続けています。

「 紫にほひし 武蔵の野辺に
  日本の文化の 華(はな)さきみだれ
  月影いるべき 山の端(は)もなき
  むかしの廣野の おもかげいずこ 」
           ( 旧東京市歌 山田耕筰作曲 高田耕甫作曲 )


   註.「紫にほひし」:武蔵野はその昔、染料となる「紫草」が多く繁殖していた
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by uqrx74fd | 2011-01-24 20:57 | 自然

万葉集その三百二 (冬野、冬木立)

(冬木立:武蔵野公園)
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『 粉雪ちらちら 止(や)みて日(ひ)出(い)でたれど 底寒きこと甚だしく、
  北風終日膚(はだ)を刺す。
  日落ちて 天(てん)紫(むらさき)なり。
  葉落ち盡(つく)したる欅の大樹、幹は老将の如くに硬く、
  節高(ふしだか)なる梢頭(しょうとう)より 
  針の如く、糸の如き千万枝 縦横に射し出で、紫の空を揶揄す。
  一枝々骨を刺して寒きを覚ふ。
  上に蒼ざめたる月あり。 空に氷つきたる様なり。 』
                         ( 徳富蘆花  自然と人生:寒樹より 岩波文庫)

「 草も木も かれはてしより 冬の野の
         月はくまなく成にけるかな  」 樋口一葉


葉が落ちて裸になった木々。雪や枯れ草に覆われた地面。
冬の野は見渡す限り寒々とした光景のように見えます。
しかしながら草も木も枯れ果ててしまったのではなく、ただ静かに眠っているだけ。
地面の下で膨大なエネルギーを蓄えながら来るべき生命の復活を
今や遅しと待ち構えているのです。

「 道の辺(へ)の 草を冬野に 踏み枯らし
     我(あ)れ立ち待つと 妹に告げこそ 」 
                         巻11-2776 作者未詳


( 道端の草が枯れてしまうほど何度も踏みつけながら、立ちつくしているこの冬野。
  誰かお願い!
  「あなたを待ちあぐんで凍えている」とあの子に伝えてくれませんか?)

恋人の家の近くで逢う約束をした男。
何らかの事情で家を出られない女。
母親の監視が厳しいせいでしょうか。

逢引といえば夕方から夜にかけてが当時の習い。
身を切るような寒さの原っぱの中を行ったり来たりしながら、ため息をつき、
かじかんだ手に白い息を吹きかけている男の姿が目に浮かぶようです。

万葉唯一の「冬野」という言葉。
貝原益軒によると「ふゆ」は古語「冷ゆ」と同義語だそうです。

「冬野」という古いたたずまいの村落が奈良県明日香村にあります。
その名の通り冬は積雪を見ることが多い寒冷の地です。
竜在峠を越えて吉野に向かう道筋にあり、古くは芭蕉や本居宣長が
峠の茶屋で休息したらしく
「 雲雀より 空にやすらふ 峠かな 」(芭蕉) と詠まれたり
「 はるかに山蹄をのぼりゆきて、手向に茶屋あり。
やまとの国中見えわたる所也」(本居宣長)
などと記されています。
また、近くに冬野川(古代の細川)が流れ、石舞台の付近、祝戸で
飛鳥川と合流するなど、実在の冬野もまた万葉ゆかりの土地です。

「 玉川の 一筋光る 冬野かな」  内藤鳴雪

その昔、正岡子規は20歳年上の門下生、鳴雪と高尾山へ吟行に行き
「 (日野、松蓮寺:百草観音堂の)石段を上れば堂宇あり- 
玉川(多摩川)は眼の下に流れ、武蔵野は雲の際に広がる」と高尾紀行に記しています。
上記の句はその折に詠まれたものです。

「- - 取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒き み雪降る 冬の林に 
  つむじかも い巻き渡ると 思ふまで - -」
                    巻2-199 柿本人麻呂


(  - 取りかざす弓弭(ゆはず:弓と弦をつなぐところ)の 
  どよめきは雪降り積もる冬の林に つむじ風が渦巻き渡るかと
  思うほど - -。)

天武天皇の長子、高市皇子への挽歌。壬申の乱の奮闘の場面です。
この歌での「冬の林」は枯木の林をいい、そこに強い風が吹けば、
枝が風を切り、細枝が折れて、さまざまな音を立てる。
それは丁度弓弭(ゆはず)が鳴るのと同じようだと詠っています。

「冬木立」とは立ちならんでいる冬木の枝が「すきすき」となり、
寒々としたさまをいうそうです。
この歌での「冬の林」はそのような情景なのでしょう。

「 斧入れて 香におどろくや 冬木立 」 蕪村 

 枯れているようでもやはり木は生きているのです。
柏餅で良く知られている「カシワ」というブナ科の落葉樹があります。

以下は山本健吉氏の解説です。
『 この木の葉は冬になって褐色に枯れても、落ちないで冬を越す不思議な
 性質がある。
  だから昔から、柏木には葉守(はもり)の神が宿るといわれ、「柏木の葉守の神」
  などと詠われた。
  春になって新芽が出はじめてから、やっと役目が終わったかというかのように
  枯葉を落とす。
  だから冬の間、からからと からびた葉音を立てながら年を越す姿は
  周囲の雑木がすべて葉を落とした冬木立の中に置いてみると特異な風景である。
  柏の群生地などで、あの大きな枯葉をつけている冬景色は、また美しいものだ。
  ― その大きな葉が色もあざやかな枯色を見せて、冬日に映えている美しさは
  国木田独歩以降の武蔵野人種には知られていたのだろう。』
                               ( 「言葉の季節」より 文芸春秋社 )

枯葉となりながらも厳しい風雪に耐えて落ちず。
それどころか、ますます輝きを増して美しくなり人々を楽しませる。
そして、自分の役目である世代交代を終えるや否や、何の未練もなく
淡々と去ってゆく。
その自然の摂理の偉大さは、私たちに生き様のお手本を示してくれているようです。

「 武蔵野の 雀と親し 冬柏 」 蕪村

( 註 : 四季を通じて色を変えない樹木である松と柏を「松柏」いい、
      「人間の節操が堅い」例えとされていますが、
      ここでの「柏」は「ヒノキ科の常緑樹 コノテガシワ」とされ
      柏餅のカシワとは別物です)
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by uqrx74fd | 2011-01-17 19:55 | 自然

万葉集その二百九十六(神風)

(神風展パンフレットより :靖国神社遊就館)
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「 神風が吹いた!」
今日、思わぬ僥倖が発生した時に使われているこの言葉は、古代「伊勢」という
地名に関連してのみ用いられていました。

「伊勢国風土記(逸文)」によると、
その昔、神武天皇の命によって天日別命(あめひわけのみこと)が伊勢国を平定した時、
土地の神・伊勢津彦は恭順の意を示すため国土を献上し、大風を起こして波浪に乗り
東方へ去って行ったので、この地を「神風の伊勢」と呼ぶようになったといわれています。

この伝説は、伊勢は暴風の国であり、伊勢神宮鎮座以前に土着の神・伊勢津彦が
存在していた事を物語っていますが、壬申の乱を契機として伊勢神宮と密接に
結びつけられていきます。

672年6月近江朝との戦いを決意した大海人皇子(おおあまのみこ)は吉野を出て
伊勢に向かいました。壬申の乱勃発です。
翌日、伊賀を経て四日市市北部の朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかわ)に到着した
皇子は遥か南方の伊勢の天照御大神を遥拝し戦勝と武運長久を祈願しました。
その霊験はあらたかで、戦闘中に暴風雨が吹き荒れて敵を惑わせ、
長子、高市皇子(たけちのみこ)を総司令官とする吉野軍は近江軍に大勝します。

大海人皇子は若い頃から天文、遁甲(とんこう:身を隠す術)をよくしたといわれ、吉野を
脱出したその日の夜、名張(三重県)の横河で大きな黒雲が天に立ち上がるのを見て
自ら式占を行い、自分が天下を得ると占ったそうです。

戦いに勝利した大海人は即位し天武天皇誕生。
天皇は伊勢神宮からの神功の風に感謝の意を捧げるため大伯皇女(おおくのひめみこ)を
斎宮として天照御大神に奉仕させることに決定し伊勢に向かわせます。(673年)
ここに、天皇個人の守護神という性格を持つ伊勢神宮は天照御大神を皇祖神とする
国家第一の神社とされ、国により維持されることになりました。
そして、「神風は天照御大神の神意によって国家の危急を救うために吹く」という
思想をたどってゆきます。

「 神風の 伊勢の国にも あらましを
    何しか来けむ 君もあらなくに 」
           巻2-163 大伯皇女(おほくのひめみこ)


( 激しい風が吹く神の国伊勢にでもいたほうがよかった。
 どうして私は大和などに帰ってきたのだろう。
 わが愛する弟はもうこの世にいないのに ) 巻2-163

686年、天武天皇崩御され持統女帝が誕生。
女帝は天武との間に生まれたわが子草壁皇子を後継者にすべく腐心します。
そして最大のライバルであった甥の大津皇子を謀反の罪で処刑したのです。
仕組まれた冤罪とも言われている事件です。
大伯皇女は弟大津皇子が処刑されたことに伴い斎宮の任を解かれ明日香に戻ってきました。
ただ一人の弟を無残にも失った皇女の心中は察するに余りあります。
こみ上げる慟哭、やりどころない怒りが「何しか来けむ」にこもっているようです。

大津皇子が持統天皇に謀反という口実を与えてしまったのは、姉に会うため無断で
伊勢神宮へ行ったことでした。
国家と天皇の守護神である伊勢神宮に参拝する時は皇后、皇太子といえども
奏上して許可を得る必要がありました。
それを突然無断で訪れたのですから失脚を狙っていた持統側としては絶好の機会で
あったことでしょう。

なお、万葉集で「神風の伊勢の国」と詠われたのは、この歌が最初とされていますが、
単なる枕詞として使用され、そこにはまだ政治的な意味合いは含まれておりません。

「 - - 日の御子(みこ) いかさまに思ほしめせか
  神風の伊勢の国は 沖つ藻(も)も 靡(な)みたる波に
  潮気(しほけ)のみ 香(かほ)れる国に 
  味凝(うまこ)り あやにともしき 
  高照らす 日の御子 」
                   巻2-162 持統天皇 


( - 天下をあまねく支配されたわが大君
     大君はどのように思し召されて
    神風の吹く伊勢の国においであそばすのでしょうか。
    沖の藻が靡いて 波の上に潮の香りばかりけぶっている国に。
    私はただただあなた様を慕わしゅうございます。
    私の日の御子よ!   ) 巻2-162

この歌は693年9月天武天皇の命日に冥福を祈る供養が行われたとき
持統天皇が夢の中で詠み覚えた歌とされています。

壬申の乱で行動を共にし伊勢を廻って美濃に入ったときの難渋した忘れがたい思い出。
その際に天武が伊勢神宮を遥拝し、その加護あって勝利をえたことを持統天皇は
誰よりも強く認識していたことでしょう。

持統天皇にとって伊勢神宮は天武と一体となって苦渋を乗り越えさせた給うた
偉大な太陽の神のいますところ。
その神に誘われるごとく天武の霊魂は「神風の伊勢」にいますという。
しかしそれでも愛するわが夫(つま)はこの明日香、わが側にいて欲しいと
切々と詠っています。

「- - 渡会(わたらひ)の 斎(いつ)きの宮ゆ 神風に い吹き惑(まと)はし
  天雲を日の目見せず 常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて
  定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷(ふとし)きまして - - 」

               巻2-199 (長歌 一部抜粋) 柿本人麻呂


渡会(わたらひ) : 伊勢の国の郡名 伊勢神宮の所在地

696年、天武天皇の長子高市皇子が43歳をもって生涯を閉じました。
壬申の乱の折、父、天武天皇の下で吉野軍の総司令官となり獅子奮迅の働きをし
勝利に導いた功労者です。
皇子は母が卑しい身分であったため長子でありながら天皇になることが
出来ませんでしたが、天武天皇亡き後、持統女帝の信任厚く太政大臣として
活躍した温厚篤実な人物です。

万葉集の中で最長かつ格調高い名歌とされる人麻呂の挽歌は壬申の乱の
大海人皇子(のちの天武天皇)の活躍の部分でクライマックスを迎えます。                    

( 渡会に斎き奉る伊勢の神宮(かみみや)から吹き起こった神風の力で敵を惑わせ、
  その風が呼ぶ天雲は敵を日の目も見せずに真っ暗に覆い隠して混乱させ
  ついに平定なさった瑞穂の神の国。 
  この国をわが天皇(天武、持統)が神のままに統治あそばされ -) 巻2-199

かくして、伊勢地方の土着神は国家神である天照大御神と習合され、さらに伊勢を
度々襲う暴風の観念とが結び合わされて「神風の伊勢」すなわち
「国家存亡の時の神助の風」として固定されるに至ったといえましょう。
(注:習合=異なる神仏を折衷、調和すること)

このことは、近江朝に反旗を翻し本来ならば逆賊とされるべき天武の皇位継承の正当性を
補填すべく皇祖神天照御大神、さらには現人神を創作した思想と軌道を一にしており、
その演出には柿本人麻呂の力が大いに与っていました。
そして、朝廷の権威が確立した聖武天皇の時代以降、「伊勢の神風」と「現人神」は
共にその用例を見なくなったのです。

「 大海人の 駆けぬけし道 花大根 」 藤本安騎生

(  壬申の乱 大海人皇子(天武天皇)が吉野に蜂起。
  伊勢を経て不破から近江を南下した道を詠う )
 
エピローグ:

『 「元寇」とよばれる蒙古襲来は二度あった。
  二度とも同じ台風にあうわけだが、一度目は文永11年10月20日、
  二度目は弘安4年閏7月1日である。
  これを現行暦に直すと、弘安のほうは8月23日で台風シーズンだが、
  文永のそれは11月26日となりこの時期の台風はきわめて珍しい。
  当時の人も後世の人も、だからこそ「神風」と呼んだのである。

 「 神風もわが日本の武器のうち 」(柳143)

という川柳は天保年間(1830~44)の作かと思われるが、百数十年後これを
特攻という形で実行に移したのは頂けない。 』
                       ( 阿部達二 歳時記くずし 文芸春秋社 )
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by uqrx74fd | 2010-12-05 08:53 | 自然

万葉集その二百七十九(初秋風)

『 暦の上の立秋の後先、まだ夏が衰へ初めたとも見えない とある八月の日の、
 朝か夕の思はぬ時に、ふと、その年の初の秋風を肌が感ずる。 - -

 まだ夏のさかりに早くも一息吹いて来る その秋風。
ぬれた髪のやうな冷やかな手で、つと頬を撫で去るのみで
後はまた夏らしい微風が渡ってゐる その秋風。

しかし 私の心が 今のひと吹きは今年最初の秋風だった。- -

夏にやうやく萎へそめた青草の呼吸の感じられる そのひと吹き。
今宵より野にすだく虫の やうやくしげく、
夜露やうやう深まさるだらうと思はれる そのひと息。- - 』

                ( 堀口大学 初の秋風 作品社:「日本の名随筆所収」)

「 初秋風 涼しき夕(ゆうへ) 解かむとぞ
   紐は結びし 妹に逢はむため 」   巻20-4306 大伴家持


( 初秋風、涼しい風が吹く来年の七夕に再び逢い、着物の紐を解こうと
 誓いながらお互いに結びあったのだったなぁ。
 ようやく一年が経ちその日がやってきたよ )

難波に単身赴任中の作者が天の川を仰いで詠んだ一首です。

当時の人々は別れの際にお互いの衣服の紐をしっかり結び合っておけば
再び思う人に逢えると信じていました。
牽牛の待ちに待った喜びを詠ったものですが、作者自身、妻にまもなく逢えるという
気持も込めているのでしょう。

「初秋風」は大伴家持の造語。万葉集中この一例のみ。

「 我がやどの 萩の末(うれ)長し 秋風の
   吹きなむ時に 咲かむと思ひて 』      巻10-2109 作者未詳


( 我家の庭先の萩が枝先を伸ばしています。
 秋風が吹いたら早速咲こうと思って待っているのだろう。 )

「萩の末(うれ)」の原文は「若末」で、若く伸びた枝先。
萩が咲くのを待ちかねている思いを初秋風に託している作者です。

「 古衣 打棄(うつ)る人は 秋風の
    立ちくるときに 物思(ものも)うふものぞ 」  
                      巻11-2626 作者未詳


( 古い衣をうち捨てるように恋人を捨てた人は、秋風が吹きはじめる時に
 わびしい思いをするものですよ )

つれなくなった男を咎める女の歌のようです。
古衣は長らく連れ添った糟糠の妻をさしているのかもしれません。
とすれば男に新しい愛人が出来たのでしょうか?

秋風が立つ時期は、物思う、ひたぶるに うら悲しい季節という感覚を
万葉人が既に持っていたことを窺わせる一首です。

「 人の心の 秋の初風 
  告げ顔の
  軒端(のきば)の萩も 恨めし 」     閑吟集


( あの人はわたしに飽きたのか、姿も見せない。
 軒端の萩が「秋の初風が吹いたよ」と知らせるように
 揺れているのも恨めしいこと )

「秋風の秋」に「飽き」を、「軒端」の「軒」に(男が)「退き」を掛けた女の心。

「 明日香風、浜風、朝風、神風、港風、伊香保風、川風、浦風、春風、山風、
時つ風、佐保風、花風、港風、沖つ風、松風、比良山風、家風、朝東風(あさこち)、
泊瀬風(はつせかぜ)、あらしの風、そして秋風。」

万葉集使われている風の名前です。
万葉人は何故このように風の名前を使い分けたのでしょうか。
単なる詩的興趣からなのでしょうか。

大岡信氏は日本人の風に対する感覚について以下のように述べておられます。

『 秋の最初の使者としての風。そこにゆらいでいる時間の流れ。- -
 日本人は秋季に限らず、季節の節目節目をまず敏感に感じ取らせるものとして
 風をたえず意識してきた。
 おそらくこれは四方を海で囲まれ、気象条件によって支配されている島国に住む
 民族として、日本人が農耕、漁撈いずれにせよ、風雨によって生活を根本的に
 左右されてきたということと無縁ではあるまい。

 春風によって芽ぶいた植物も、収穫期に嵐に遭(あ)えば一年の苦労は無と化してしまう。
 一見単純なリズムを刻んでいるかのような季節の中にも、人間の生命をおびやかす
 要素はさまざまにあった。

 古来の日本の詩人たちはそれらの最も微妙なあらわれとして、風に注目した
 ものだともいえるだろう。
 「初風」という一語をとってみても、風が吹きはじめるその瞬間に対して
 心をとぎすましている人々の、心の姿勢を見ることができるのである。 』

              ( 大岡信 名句歌ごよみ:秋 より要約抜粋  角川文庫 )

「 山聳え 川流れたり 秋の風 」   蓼太(りょうた:江戸中期の俳人)
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by uqrx74fd | 2010-08-08 08:09 | 自然

万葉集その二百七十七(立つ波、騒く波)

「 海恋し 潮の遠鳴りかぞへては
    をとめとなりし 父母の家 」   与謝野晶子 恋衣


            ※ 晶子の生家は堺市甲斐町にあった菓子商「駿河屋」

「 ゴロ ゴロ.ゴー.ゴゴゴゴ 」
海辺は穏やかなのに遠くから雷のような音。
彼方の空は雲が垂れ込みはじめているようです。
沖合いでは風が吹き、波も高くなっているのでしょう。

古来から海鳴りは台風や津波が押し寄せてくる前兆とされてきました。
海辺を磯伝いに歩いていた旅人は慌てて険しい山路に進路を変更します。

「 あしひきの山道(やまじ)は行かむ 風吹けば
    波の塞(ささ)ふる 海道(うみぢ)は行かじ」 

                      巻13-3338 作者未詳


( 山道を行こう。 
  風が吹き波が前途に立ちはだかる海の道は怖いよ )

作者は海の恐ろしさを身にしみて経験してきたのでしょう。
磯伝いに歩く海辺の道は津波のほか崖崩れの危険も多くありました。

漁師達も慌てて船を引き返し、岸に向かって必死に櫂を漕ぎます。

「 風早の 三穂の浦みを 漕ぐ舟の
   舟人騒く 波立つらしも 」 巻7-1228 作者未詳


(  風早の三穂の浦あたりを漕いでいる舟、その舟人たちが大声を上げて
  動き回っている。
  どうやら波が立ち始めたらしい。)

三穂の浦:和歌山県日高郡美浜町三尾付近。 
一見穏やかに見える海も、沖では荒々しい力をみなぎらせています。
このあたりは、一旦風が吹き出せばその激しさは凄まじいところ。
舟人のきびきびした動きが目に浮かぶような一首です。

旅人を乗せた船は近くの港に避難し、天候が回復するまで動けません。

「 粟島(あはしま)へ 漕ぎわたらむと 思へども
      明石の門波(となみ) いまだ騒(さわ)けり 」 

                     巻7-1207 作者未詳


( 粟島に漕ぎ渡ろうと思うけれど、明石の瀬戸の波は行く手を阻んで
  いまだに立ち騒いでいる。)

「粟島」は淡路島付近にあった島と思われます。
「明石の門波」は明石海峡に立つ波 「門」はここでは狭い通路の意。

難波から明石海峡まで30㎞。瀬戸内海、九州への旅の最初の関門です。
当時の船は底の浅い木造船で、人力あるいは帆走によって時速10㎞の
海峡を越えなければなりません。
穏やかな時でさえ潮流が早く危険な海峡。
荒天ではなすすべもなく、天候が回復するまで何日も滞在することになります。

 当時の港には遊女も多く、「滞在もまた楽しからずや」だったようです。

「 また湊(みなと)へ舟が入るやろう 
  空櫓(からろ)の音がころりからりと」  (閑吟集)


『 櫓を水に浅く入れて漕ぐのが空櫓。
  「ころりからり」とは涼しげな音
 港に入ってくる船には男たちが乗っている。
 その男たちがまた舟で去ってゆくだろう。
 「ころりからり」の音を残して。
 その音を聞きながら、もの思いにふける遠い昔の女』
                      (長谷川 櫂)

「 紀伊の海の 名高の浦に寄する波
     音高(おとだか)きかも 逢はぬ子ゆゑに 」 
                       巻11-2730 作者未詳


( 紀伊の「名高」(和歌山県海南市)海岸にうち寄せる波。
 その波音が高いように、俺達の噂が何と高いことか。
 相手はまだ大して逢ってもいない子なのに )

「名高の浦」はきめ細かな美しい白砂で都にも知られていたようです。
その名のように自分の浮名も高いとぼやいた歌ですが、言葉遊びをしながら
楽しんでいる余裕の作者です。

「潮騒、白波、さざれ波、沖つ波、荒波、夕波、千重波(ちえなみ)、
五百波(いおえなみ) たゆたふ波、雲の波、浦波、風波、騒く波、等々。」

万葉集に使われている波の名前です。
静かな心地よい波、美しい波、そして恐ろしい波。
その表現の豊かさ、観察の細やかさ。
古代の人にとっては文学的な表現というよりも生活に密着した言葉だったのでしょう。

「 ふるさとの 潮の遠音(とおね)のわが胸に 
    ひびくをおぼゆ 初夏(はつなつ)の雲 」  与謝野晶子 舞姫


                                 遠音:遠鳴り
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by uqrx74fd | 2010-07-24 19:58 | 自然

万葉集その二百六十八(光いろいろ)

「あらたうと青葉若葉の日の光」 芭蕉

この句は「奥の細道」への旅の途中、日光で詠まれたものです。
目のさめるような濃淡模様の青葉若葉。木々の葉に残った前日の雨の水滴が
降りそそぐ日の光にきらきらと輝いている。
自然の美しさへの感動とともに日光という土地、さらには東照権現の威光への挨拶が
籠っているともされている一首です。

746年の正月、奈良の都に大雪が降りました。
左大臣橘諸兄は諸王諸臣を率いて元正太上天皇のご在所に馳せ参じ、雪掻きの奉仕を
したところ、大いに喜ばれた上皇は酒宴を催されて労をねぎらいました。
宴もたけなわになり、上皇は「みなのもの、歌を奏上せよ」と仰せられます。

「 天(あめ)の下 すでに覆ひて 降る雪の
     光をみれば 貴(たふと)くもあるか 」 
                巻17-3923 紀朝臣清人


( 天の下をあまねく覆いつくして降り積もる雪。
 このまばゆいばかりの雪を見ると、お上の威光の何と貴くももったいないことか)

自然の美しさの中にお上への賛美を込めた一首ながら、なんと芭蕉の句と
発想が似ているのでしょう。
芭蕉も万葉集を勉強していたのでしょうか。

「 あしひきの 山さへ光り 咲く花の
   散りぬるごとき 我が大君かも 」   巻3-477 大伴家持


( われらの皇子が逝ってしまわれました。
 それは山の隅々まで照り輝かせて咲き盛っていたその花がにわかに散って
 しまったようです。)

744年聖武天皇のたった1人の皇子、安積皇子急逝。17歳の短い生涯でした。
橘諸兄をはじめ大伴家持も将来を嘱望していた優秀な人物だっただけに人々の
ショックは大きかったようです。
徳高い皇子を光り輝くばかりの花にたとえ、周囲は一挙に暗黒化したと悼んでいます。

「 ひさかたの光のどけき春の日に
     しず心なく花の散るらむ 」 紀 友則 古今和歌集


百人一首でもよく知られている歌です。
風のそよぎも全くない爛漫たる春の日。
音もなく静まり返っている中を桜の花びらが一枚また一枚と散ってゆく。
桜よ!どうしてそんなに散り急ぐのか。我が心を乱さないでおくれ!

「 山もとの 鳥の声より明けそめて
    花もむらむら 色ぞみえ行く 」 永福門院 (伏見天皇の中宮)


光という言葉を用いないで朝の光を詠った名歌。
大岡 信氏は次のように解説されています。

『 「山もとの」は山のふもとの意。 
山麓一帯にさえずり始める小鳥どもの声から夜は明けそめる。
そして射し始めた淡い日差しの中で、ある場所の花はいち早く日をあび、
別の場所の花はまだ影に沈みながら、むらのあるさまでしだいにはっきり
色を呈してくる。
ここで単に「花」といわれているのは、平安朝時代の言い方のならいで、
桜の花をさしている。
「花もむらむら」に漢字をあてれば聚々、群々でところどころに群れをつくって
あちこちまだらに、という意味の副詞である。
そんな意味よりも先に「花もむらむら」という言葉の響きが、なんというか
あちらこちらでムックリ、モッコリ身じろぎしはじめる花の感じを伝えてくる。

夜明け方、刻々光が移り変わる物の表面の生き生きした表情。
それが「花もむらむら色ぞみえ行く」にぴたりととらえられているところが
たかが三十一文字(みそひともじ)の短い詩の、長い生命の秘密である。 』
                ( 「うたのある風景」日本経済新聞社 )

「 たかんなの 光りて 竹となりにけり 」   小林康治

光はまた生命力の強さをあらわす言葉としても使われます。
「たかんな」とは漢字で「笋」と書き筍(たけのこ)のこと。
 雨後の筍という諺通り、盛んな生命力を「光りて」の4文字に託しています。

「 風光り 雲また光り 草千里 」   門松 阿里子

「風光る」はうららかな春の日にまばゆい陽光のなかを吹き渡る風が、
あたかも光っているように感じられるさまをいう感覚的な季語です。

 そして最後は誰かさんの親の七光り

「 親はこの世の油の光
          親がござらにゃ光ない 」   摂津古歌

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by uqrx74fd | 2010-05-23 08:25 | 自然

万葉集その二百五十九(時は今・春)

   『 時は春、  
   日は朝(あした)、
   朝は七時、
   片岡に露みちて、
   揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
   蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
   神、そらに知ろしめす。
   すべて世は事も無し。 』  

 
「 ロバート・ブラウニング 春の朝(あした)より: 上田敏訳」

『 私たちの中学時代の英語のリーダーには、この原詩が掲げられていて
  愛誦したものである。
  神の創りだした秩序を賛美し祝福している詩であろう。
  感情の高まりを抑えた静かな詩だが、春のよろこびはおのずから現れている。』

        ( 山本健吉 ことばの季節より : 文芸春秋社 )

 「 時は今 春になりぬと み雪降る
      遠山の辺(へ)に 霞たなびく 」 
         巻8-1439 中臣 武良自(むらじ)


( ようやく春になったのだなぁ。 
  いまだに雪が降り積もっている遠くの山のあたりにも
  霞がたなびいているよ。)
 
「春は霞と共にやって来る」と考えていた古(いにしえ)の人々。
「時は今」という言葉に待ちに待ったに春到来の喜びがあふれているようです。

   「 春なれや 名もなき山の 朝がすみ 」 芭蕉

  芭蕉大和路での詠。
  万葉の春の代表的な風物、霞は平安さらに江戸時代にまで受け継がれました。
  山の辺の道の途中に「たたなずく青垣」と詠われた山並みが一望できる
  小高い丘があります。
  早春の朝、その丘から眺める大和三山、三輪、二上山をはじめ、四方の山々は
  すべて霞にぼやけ、さながら水墨画のような世界です。芭蕉が見た大和は

   「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際少し明りて
     紫たちたる雲の細くたなびきたる 」 (枕草子 第一段) 


    のような風景だったのでしょうか 。

「 ならさか の いし の ほとけ の おとがひ に
   こさめ ながるる はる は き に けり 」  会津八一


奈良坂は奈良市の北にあり、木津、京都にいたる道。
石仏のおとがい(下あご)に春雨がしたたっており、
その細い雨足に春到来を感じとった一首です。

  「 青柳の 糸の細(くは)しさ 春風に
       乱れぬ い間(ま)に 見せむ子もがも 」 
              巻10-1851 作者未詳


( 青々と芽ぶいている柳の枝はまるで糸のよう。
  春風にゆらゆら揺れて、美しいなぁ。
  見せてあげる誰かさんがいればよいのに・・・)

万葉集唯一の「春風」という言葉です。
しだれ柳の瑞々しく、しなやかな新芽。
春風に吹かれて簾(すだれ)のようにそよぐ柳。
軽やかなウキウキとした気分を誘う歌です。

歌中の「い間」の「い」は接頭語で「風で枝の美しさが損なわれない間に」と
いった意味でしょうか。

「 春の野に 心延(の)べむと 思ふどち
    来(こ)し今日(けふ)の日は 暮れずもあらぬか 」
                   巻10-1882 作者未詳


( 親しい仲間同士で、伸び伸び一日過ごそうと春の野にやってきました。
 今日は何時までも日が暮れないで欲しいものだなぁ )

心を許したもの同士の会話は何時まで経っても尽きることがありません。
時よ止まれ!
 
「 沈丁花 春の月夜と なりにけり 」 高浜虚子
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by uqrx74fd | 2010-03-21 20:42 | 自然

万葉集その二百五十一(万葉の立山は剣岳か)

『 北アルプスの南の重鎮を穂高とすれば北の俊英は剣岳であろう。
 層々たる岩に鎧(よろ)われて、その豪宕(ごうとう)、峻烈、高邁の風格は
この両巨峰に相通じるものがある。

「万葉集」に載っている大伴家持の「立山(たちやま)の賦(ふ)並びに短歌」に
讃えられている立山(たちやま)は、今の立山ではなく剣岳であろうという見解を
私は持っている。
太刀(たち:剣)を立ちつらねたようなさまであるから「たちやま」と名づけられた。
家持の歌に和して大伴池主の作った歌の中の
「厳(こご)しかも巌(いわ)の神さび-」とかいう描写は剣岳以外には考えられない。』    
                 ( 深田久弥 日本百名山 剣岳2,998m)

「 朝日さし そがひに見ゆる   神(かむ)ながら み名に帯ばせる 
白雲の 千重(ちへ)に押し別け   天(あま)そそり 高き立山 
夏冬と 別(わ)くこともなく  白栲(しろたへ)に 雪は降り置きて 
いにしへゆ あり来にければ
  こごしかも 岩の神(かむ)さび   たまきはる 幾代経にけむ- - 」
                巻17-4003 (長歌の一部) 大伴池主

「 立山に 降り置ける雪の 常夏に
    消ずてわたるは 神(かむ)ながらとぞ 」 巻17-4004 同


( 朝日を受け、背をくっきりと見せて聳え、神の山という立派な御名を
もっておられる立山。
 白雲のいく重なりをも押し分けて天空に高くそそり立つこの山は、
冬夏といわず年中いつも真っ白に雪が降り積もって
長い間の年月を経てきたので
 険(けわ)しい岩石も神さびている
この神々しさはいったい幾代経てきたことであろうか- - )

( 立山に降り積もっている雪が夏でも消えないのは
 神の御心のままということなのだ  )

「そがひに見ゆる」: そがひは後ろ向きの意。
            東方の逆光の中にくっきりと浮き立つ山姿を背をみせているといった。
「み名に帯ばせる」:  立山に名に「太刀」を連想したゆえに帯ばせるとしたものか
「こごしかも」:  岩の険阻なさまを感動を込めていったもの

剣岳は日本アルプスの山々が登り尽くされる最後まで人を寄せ付けなかった霊峰で、
登ってはならない山とされていました。
明治40年当時、日本の登山は宗教による開山を目的としたもの以外はすべて
測量のためになされ、陸軍参謀本部陸地測量部の所轄でした。

ところが民間の山岳会が剣岳初登頂を試みようとしたのです。

『 「その山がなんの目的もない山岳会の人たちによって初登頂されたとなれば、
それこそ陸地測量部の恥でなくてなんであろうぞ。」
陸軍少将大久保徳明は最後の言葉を怒りをこめて言った。:(新田次郎 剣岳)』

かくして、陸地測量部に命をかけた登頂命令が下ります。
 命令を受けた測量官、柴崎芳太郎は周到な調査と用意を重ね、さらに優秀な案内人
宇治長次郎を得て、総勢4人で雪に覆われた急峻な岩ぶすまに果敢に挑みました。

「 彼は望遠鏡を出して覗いた。
それは鑢(やすり)で磨き上げられたような鋭い岩峰であった。
 立山連峰のどの山とも似ていなかった。
 剣岳だけが地質学的な成因を異にしたような山に思われた。
 浄土山も雄山も大汝(おおなんじ)山も別山もすべておだやかな表情をしていた。
 剣岳だけが一角で肩をいからし、近づく者を威嚇しているようであった。」
                                  (新田次郎  同より)

食料やテントなどの必需品のほか、100キロを越す測量機材を持ち、道なき道を
あえぎながら登るという苦闘の末、最後の難関の雪渓に取り付きます。
そして遂に1907年7月13日、測量部隊は人跡未踏と思われていた頂を極めました。

ところが、信じがたい光景に遭遇します。
頂上にはなんと! 修験者が使用していたと推定される槍の穂と錫杖(しゃくじょう)の
頭が置かれていたのです。
しかも錫杖はのちに唐時代の作と鑑定された古いものです。

いつ、誰がどのようにして登ったかは未だに不明とされていますが、兎も角大昔、
装備も何もない時代に宗教心に燃えた修験者が不退転の勇気と鋼のような意思を
もってこの山の頂上に到達していたのです。

その報告を受けた軍首脳は測量隊員に対して賞賛やねぎらいの言葉もなく、
「ご苦労であった」という一言のみ。
あとは何の沙汰もなく新聞発表も禁じたそうです。

「剣岳には登頂した。至上命令は果たしたのだ。
しかしその功績を上層部が認めて彼の測量官としての将来に光を当ててくれるか
どうかは、はなはだ疑問であった。
初登頂でなかったという理由で柴崎の業績は結果的には意味のないことであったと
考えているのかもしれない」 (新田次郎、同)

測量本来の目的よりも民間の登山家に先を越させまいと体面のみを重んじて
部下に命を懸けたさせた旧陸軍参謀本部の醜い体質を見るような思いがする一文です。

「昔は立山も剣も一様に立山と総称されていたのに違いない。
越中の平野から望むと立山は特にピラミッドにそびえた峰でもなければ左右に際立った
稜線をおろした姿でもなく、つまり一個の独立した山というより波濤(はとう)のように
連なったやまという感じである。
ことに富山あたりからではその前方に大日岳が大きく立ちはだかっていて
立山はその裏に頭を出しているだけなので、山に詳しい人でなければ立山を的確に
指摘することはできまい。」       
( 深田久弥 日本百名山 立山より )

「 六十七歳の 老のよろこびを 誰に告げむ
          剣岳の上に けふ岩を踏む 」    松村英一

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by uqrx74fd | 2010-01-24 10:21 | 自然

万葉集その二百二十八(瀧もとどろに)

古代、「瀧(たき)」という言葉は「激流」を意味していたそうです。

その由来は、「水が激しく流れるさま」すなわち「たぎつ(激つ)」が「たぎ」に短縮され、
さらに清音の「たき」になったものといわれております。
 
723年、元正天皇が吉野に行幸されました。
轟音を響かせて逆巻く流れを眼の前にしてお供の人が声高らかに詠います。

「 斧取りて 丹生(にふ)の檜山の
     木(き)伐(こ)リ来て  筏(いかだ)に作り 

     真楫(まかじ)貫き  磯漕ぎ廻(み)つつ 
     島伝ひ  見れども飽かず 

     み吉野の  瀧もとどろに   落つる白波 」   
                  巻13-3232  作者未詳
(反歌)

「 み吉野の 瀧もとどろに 落つる白波
           留まりにし 妹に見せまく 欲しき白波 」 

                     巻13-3233 同


( 斧を手に取り、丹生の檜山の木を伐ってきて、筏に作り、
左右の櫂(かい)もしっかりと取りつけました。

そして、その筏で磯を漕ぎ巡り、島伝いに眺めているのですが、
いくら見続けても飽きません。

激流をごうごうと、天にもとどろくばかりに響かせて流れ落ちる白波よ! )

(反歌)
( このような素晴らしい光景を都に残っている妻に見せてやりたかったなぁ)
 
註1. 丹生(にふ)=地名:奈良県吉野郡黒滝村一帯、檜の産地
註2. 島伝い: ここでは水辺 

吉野川を海に見立てて、白波の躍動するさま、吉野の景観の見事さを褒め称えています。
続く旋頭歌では、望郷の念を詠いながら、そこに旅の安全を祈る気持を込めたのでしょう。

簡潔ながらも筏に乗って激流を下っているような臨場感が感じられる歌です。

さて、私たちが今日言うところの「瀑布の瀧」は、「垂水(たるみ)」とよばれていました。
文字通り「空中を垂直に落下する水」という意味の言葉です。
  
「 石(いは)走る 垂水の水の愛(は)しきやし
              君に恋ふらく 我が心から 」 

                  巻12-3025 作者未詳


( 岩の上から逆巻き落ちる瀧の水のように激しくあなたに恋焦がれています。
 この苦しい胸のうち、それは誰のせいでもありません。私自身のせいなのです。)

「愛(はしき)やし」には「愛(いと)しい」という意味と、水が「疾(は)しき=早い」とが
掛けられています。
恋の激しさを一直線に流れ落ちる瀧のさまに喩えた一首です。

なお、この「ハシキ」という言葉は、のちに「敏捷」を意味する「ハシコイ」という
現代語に転じた(井上通泰:万葉集新考)といわれています。 

「垂水」という言葉を有名にしたのは、何と言っても

「 石(いは)走る 垂水の上の さわらびの
           萌え出づる 春になりにけるかも」 

      巻8の1418 志貴皇子   (万葉集その51 早蕨 既出)


の名句でありましょう。
然しながら、万葉人のこの美しい造語「垂水」は時の経過とともに消え去り、
今では地名 (神戸市垂水区など) にその名残を留めるばかりとなってしまいました。

「 瀧はこの世に数あれど 
   うれしや うれし 鳴り響く

   これはまことの 瀧の水 
   日が照ったとて絶えもせず 
   
   とうとう たらり 鳴りひびく  
       ヤレコトットウ 」 

        ( 梁塵秘抄: 榎 古朗訳 新潮日本古典集成)


瀧に対する感謝の気持が溢れるばかりの「お祭り囃し歌」で、お能の「翁」にも同じ
詞章がみえるそうです。

我国では古代から多くの人々が、瀧壷には水の神、龍神が住んでいて、
霊力あるその水で体を清める、いわゆる禊(みそぎ)をすることによって魂が甦り、
肉体も若返らせることが出来ると信じてきました。

717年、「養老の瀧」(岐阜県養老町) を訪れた元正天皇は、瀧水を浴びたところ、
肌が滑らかになり、痛むところも治ったので、大いに喜ばれ、年号を養老に改めたとも
伝えられています。(古今著聞集)

老若男女が冷たい水に打たれて修行する姿は今もなお各地で多くみられますが、
女帝も瀧に打たれたのでしょうか?

「 瀧浴びの しなびし乳房 ひしと抱き 」 

                         水守 萍浪(へいろう)

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by uqrx74fd | 2009-08-17 08:14 | 自然

万葉集その二百二十六(弓張月)

本年の立秋は八月七日で旧暦の七夕です。

牽牛、織姫年一度の逢瀬のこの日は、夕暮れから三日月が中天にかかり、
星の光は少しかすんで見えますが、夜も更け月が完全に沈むと、
爽やかな夜空に天の川が燦然(さんぜん)と輝き、満天の星たちが
二星のために最高の舞台を提供します。

「 天の原 行(ゆ)きて射てむと 白真弓(しらまゆみ)
            引きて隠(こも)れる 月人壮士(つきひとをとこ) 」 
                         巻10-2051 作者未詳


( 天の原を行ったり来たりして牽牛を射てしまおうとしているお月さんよ。
 とうとう諦めて、立派な白木の真弓を引き絞ったまま山の端に隠れてしまったわい。)

三日月が恋敵の牽牛に向かって弓を引き絞っているように見立てた歌です。

古代では月が完全に沈んでから二星の逢瀬が始まると考えられていました。
牽牛織姫の渡河を今か今かと待ち望んでいる人にとって月がいつまでも空に
居座っているのは迷惑。
「どうせ片恋なのだから弓を射ても届かないよ」と冷やかしているようです。

「星の恋 いざとて月や入りたまふ 」 長斎

そして山の端に消えてゆく月を見ながら「振られたのに威張りながらの退場だわい」と
笑い、やがて始まる天体ショーへの期待に胸を膨らませています。


「 天の原 振り放(さ)け見れば 白真弓
            張りて懸けたり 夜道はよけむ 」 

       巻3-289 間人宿大浦(はしひとのすくね おほうら)


( 天つ空を遠く振り仰いで見ると、引き絞った白真弓のような月がかかっている。
 この分だと夜道はさぞ歩きやすいであろう )

古代人は満ちては欠け、欠けては満ちる月を命の再生の象徴とみなし、月の光には
夜の世界を跋扈する悪魔や悪霊を追い払う呪力があると信じていました。

天空から明るい光を照らしてくれる三日月は危険な夜道を急ぐ人にとって、弓で魔物を
射てくれる頼もしい守護神であったことでしょう。

なお、白真弓は木の皮を削って白くした立派な(真)弓という意味ですが、
真弓=檀(まゆみ)、梓弓、槻(つき=けやき)弓など材料の木を表すこともあります。

さて、舞台は時空を越え中世へ。
シェイクスピア劇「夏の夜の夢」の冒頭の場面です。

「シーシアス」: さて、美しいヒポリタ、吾(われ)らの婚儀も間近に迫った。
          待つ身の楽しさもあと4日、そうすれば新月の宵が来る。
          それにしても虧(か)けてゆく月の歩みのいかに遅いことか!
          - -。

「ヒポリタ」:   でも4度の日はたちまち夜の闇に融け入り、4度の夜もたちまち
          夢と消え去りましょう。
          やがて新月が、み空に引きしぼられた銀の弓さながら、
           式の夜を見守ってくれましょう。
                     

                                ( 福田 恒存 訳 新潮文庫 )            
どこかで聞いた台詞だなぁ。 
シェイクスピアも万葉集を読んでいたのかしらん。


  「三日月をゆみはり月とみるばかり
             中(なか)空にして そふ光かな 」   正徹

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by uqrx74fd | 2009-08-03 19:32 | 自然