カテゴリ:植物( 213 )

万葉集その六百六十九 ( 楮の衣と和紙)

( 楮の木   奈良万葉植物園 )
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( 和紙の里  東秩父村 埼玉県 )
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( 楮を切りそろえる→釜蒸しする  同上 )
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( 表皮を剥く   同上)
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( 剥いた皮を天日干し、白木は燃料に  以下の作業は本文で  同上 )
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( 紙漉きの絵  紙の博物館  飛鳥山公園 東京王子 )
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( トロロアオイ 紙製  根を細かくして楮の繊維と混ぜる;
  糊の役割を果たす不可欠な材料    同上)
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( 東大寺修二会:お水取りの練行衆:僧が法衣の上に着る紙衣 ) 
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( 歌舞伎舞台衣装 中村扇雀が着用 遠藤忠雄作  紙の博物館 )
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( 紙布の着物:桜井貞子作と ペーパーデニム エドウイン社  同上 )
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   万葉集その六百六十九 (楮の衣と和紙)

古代、楮(こうぞ)は栲(たく)、織った衣を栲(たへ)とよんでいました。
中でも白栲(しろたへ)は上質な織物とされ、次の名歌

「 春過ぎて 夏来るらし 白栲(しろたへ)の
      衣干したり  天の香具山 」    巻1-28 持統天皇

の白栲は香具山で春の菜摘み行事などの神事に奉仕した人々が身に付けた白衣
(渡瀬昌忠氏 万葉一枝)、あるいは巫女たちの斎衣(伊藤博氏 釋注)
とされています。

丈夫な繊維を持つ楮は、古くから衣類、網、縄、衾(ふすま:寝具)、
領布(ひれ:女性が首から肩にかけていたスカーフのような布)、
神事に用いる木綿(ゆふ)とよばれる襷(たすき)や幣(ぬさ)、
加うるに和紙の重要な材料とされていました。

万葉集に詠われている栲(たく、たへ)は115首、木綿(ゆふ)が27首 
合計142首の多きにのぼりますが、和紙の歌は1首もありません。

和紙の歴史を紐解くと、奈良時代には既に独自の製紙法を開発しており、

「 610年高句麗の僧曇微(どんちょう)が最新の技術をもたらし(日本書紀)
  飛躍的に進歩した。」

「 現存最古の紙は聖徳太子筆といわれる法華義疏(ほっけぎしょ)但し産地は不明。」

「 最古の和紙は701年の美濃、筑前、豊前各国の戸籍に用いられたもので、
  いずれも正倉院文書として保存。」

「 奈良時代の正倉院文書は約1万点保存されているが、その多くに産地が記されており
  紙漉きを行っていた国は20カ国に及んだ。」

「 各国府で政庁の指導の下に製紙場が設けられて各地で消費する紙をまかない、
  上質のものは中央に貢納された。」

など多くの記録が存在しますが、それにもかかわらず、紙の歌が一首も
残されていないのは不思議なことです。

考えられることは、当時、紙は極めて貴重かつ高価だったため、
使途は天皇の詔、朝廷の重要な公式記録、戸籍、租税記録、
写経、仏典などに限られ、通常の記録は木簡を用いていました。

従って一般の人にとって紙は無縁の存在であり、歌の対象は自ずと
日常生活に密着した衣や白妙,木綿(ゆふ)などに集中した為ではなかろうかと
思われます。

なお、紙の衣は楮を細かく切って縒(よ)り、糸にして織ったものを
何重にも重ねあわせて強度を増やし、さらに揉んで軟らかくするという
高度な技術が必要とされ、古代の人達が自家薬籠中の物にしていたとは、
驚きを禁じ得ません。

「 馬並(な)めて 多賀(たか)の山辺を 白栲に
     にほはしたるは 梅の花かも 」 
                   巻10-1859 作者未詳


( 馬を勢揃いして手綱をたく(る)、そのたくではないが、この多賀の山辺を
  真っ白に染めているのは、梅の花なのであろうか )

馬並めて: 多賀の枕詞 手綱を繰(たく)る意の「たく」の類音で掛かる
多賀の山辺: 京都府綴喜郡(つづきぐん)
にほはしたる: 「にほふ」は色や香りが他のものに移り染みつくことをいう。
主に視覚に用いられ嗅覚を表す例は少ない。

数人で馬を並べてゆっくり走らせる。
向うに見える丘は一面真白。
よくよく見ると、梅が満開。
おぉー、見事、見事、梅が丘を美しい色に染めたのだなぁ。

「 荒栲(あらたへ)の 布衣(ぬのきぬ)をだに 着せかてに
        かくや嘆かむ  為(せ)む すべをなみ 」   
                         巻5-901 山上憶良

( 粗末な着物すら着せてやれなくて、このように嘆かなくてはならぬのか。
  一体どうしたらよいのか、手のほどこしようがないままに- -。)

「荒栲の布衣」:楮の繊維の荒い粗末な衣類。

「着せかてに」:着せたいが、それすら出来ないの意。
                  「かて」:することができる 「に」打消しの助動詞

作者は当時、老身(74歳)の上、長年の病で苦しんでいました。
「 いっそのこと死んでしまいたいが、いじらしい子供を置いて死ぬにも死ねない。
この貧しい子供を守ってやれるのは親である自分しかいないではないか。」

という悲愴な気持がひしひしと伝わってくる一首です。
 然しながら憶良は中級官吏の身分であり、困窮していたとは思えないので
 貧窮問答歌と同様、貧しい庶民の生活を代弁したものでしょう。

「 このころの 寐(い)の寝らえぬは 敷栲の
     手枕(たまくら)まきて 寝まく欲(ほ)りこそ 」 
                           巻12-2844 作者未詳

( このごろ よく眠れないわけは あの子と手枕を交わして寝たいと
 思うからなんだなぁ )

敷栲: 寝床の敷物
手枕まきて: 女性の手を枕にして共寝する

この歌は4首連作の1つで、
ある日道を歩いていると美しい女性を見かけ、一目惚れしてしまった。
毎日夢にまで見る。
あぁ、あの子を抱きたいと、悶々としている男です。

「 栲縄の 長き命を 欲(ほ)りしくは
     絶えずて人を  見まく欲りこそ 」 
               巻4-704 巫部 麻蘇娘子(かむなぎべの まそおとめ) 

( 栲縄のような長い命 その命を望んできたのは、ほかでもありません。
      いつもいつも、あのお方のお顔を見たい一心からなのです)

大伴家持を交えた席で詠ったもの。
恋の歌遊びの会合かと思われます。
それにしても貴公子家持はモテモテの男、関係した女性は数知れずです。

「 いっしんに 竹簀(たけす)うごかす 紙漉女(かみすきめ)
           見つつし居れど もの云わずけり 」      吉井勇

冬は楮の季節、和紙を作るための作業が始まります
埼玉県東秩父村小川町に和紙の里があり、丁度、楮の皮むき作業が行われている
最中なので早速見学に行きました。(2018年1月7日)

この里は地元の細川紙が、石州半紙(島根県)、本美濃紙(岐阜県)と共に
ユネスコ無形世界文化遺産に登録されたのを機に整備されたもので
和紙の歴史が展示され、また紙漉体験もできます。

東武東上線池袋から約1時間、更にバスに乗り継いで15分、山々に囲まれた
道の駅の裏手にあり、いかにも山里らしい雰囲気です。

寒風吹きすさぶ中、細長い楮を切りそろえ、皮を剥きやすくする為釜で蒸す。
屋内で数人の方々が手作業で皮を剥く。
剥いた皮を天日干しにしたあと、釜で煮、煮立ったらソーダー灰を加えて
不純物を取り除き、水で晒し、アク抜きと日光漂泊。

棒で丹念に叩いて繊維をほぐし、トロロアオイという植物の根を糊状にしたものを
加えて紙漉をしたのち天日干し。

出来上がったものを切りそろえてやっと終わり。
純白の美しい紙が日に映えて美しい。

それにしても、なんと根気がいる仕事なのでしょうか。
伝統技術を後世に伝え続けてゆこうという里の皆様の熱意と努力に、
ただただ頭が下がる思いがした貴重な体験でした。

   「すたれゆく業を守りて紙を漉く」     藤丸東雲子


番外編 :紙漉の歌

( 紙漉の歌が見えるのは手持ちの文献では江戸時代以降、
  それも江戸後期の橘曙覧:たちばなあけみに集中しています。)

「 家々に 谷川引きて 水湛(たた)え
    歌 うたひつつ  少女(をとめ) 紙すく 」  橘曙覧

「 水に手を 冬も打(うち)ひたし 漉(す)きたてて
        紙の白雪  窓高く積む 」     同

「 居ならびて 紙漉く をとめ 見ほしがり
    垣間見(かいまみ)するは  里の男の子か 」   同

「 黄昏に 咲く花の色も 紙を干す
       板の白さに まけて見えつつ  」     同

「 流れくる  岩間の水に 浸しおきて
     打ち敲(たた)く草の  紙になるとぞ 」    同

「 屏風には 志功版画の 諸天ゐて
    紙漉く家の  炉火(ろび)は なつかし 」    吉井勇

「 翁ゐて 楮ならべる 雪晒(さら)し」        伊藤敬子



     万葉集669 (楮の衣と和紙 ) 完


        次回の更新は2月2日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2018-01-25 17:41 | 植物

万葉集その六百六十七 (黄金色の森)

( 落葉道  自然教育園 東京目黒 )
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( コナラ    同上 )
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( ケヤキ   日比谷公園 )
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( ハン    自然教育園 )
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〈オギ     同上 〉
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〈 同上 )
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〈 オギの中で枯れずに頑張っているマユミ  同上)
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〈 枯れても葉が落ちない ヤマコウバ    同上 )
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万葉集その六百六十七 (黄金色の森)

「 楽しみは 落葉散り敷く 黄金道
           サクサク踏みて 歩くひととき 」  筆者

カエデ、銀杏、桜、柿、栗などの落葉が終わると、冬木立の下は
フカフカの絨毯を敷きつめたような道が出現します。

そして、枯れた後もなかなか落ちないカエデ、コナラ、ハン、ヤマコウバの葉が
真っ青な空に映え、太陽の光を浴びて黄金色に輝く。

池や沼地に目を転じると、イエローオーカ色の葦、荻、菅などが生い茂り、
枯れても直立したままの立居姿はさながら古武士の佇まいのよう。

そんな景色を求めて、まずは色とりどりの葉が残る自然教育園(東京、目黒)の
「こなら」(小楢)の森へ参ります。
数十本の巨木が林立し折柄の日の光を浴びて美しい。

「 み狩する 雁羽(かりは)の小野の 櫟柴(ならしば)の
       なれはまさらず  恋こそまされ 」
                             巻12-3048 作者未詳

( み狩りに因む雁羽の小野の 楢の雑木ではありませんが
 あなたと馴れ親しむ機会が一向増さず、お会いできない苦しみばかりが
 増す一方です )

「み狩(かり)と雁(かり)羽」:「かり」を掛けた小野の枕詞。

「櫟(柴(ならしば)と馴(なれ))とを掛け「一向に馴染まない(なれはまさらず)」の意
                        「柴」は小さい雑木。
雁羽の小野の所在は未詳。

「み狩り」は天皇、皇族の狩をいう(沢瀉久孝)ので
このあたりに皇室の猟場があったと思われる。

一度関係を持ったのにそれっきり。
そのあと一向に見えないのはどうしたことかと嘆く女。
男は心変わりして足遠くなったのでしょうか。

小楢(こなら)はブナ科の落葉高木で、一般的には楢(なら)とよばれています。
生命力極めて旺盛な樹木で、根元から切断しても、その切り株から
新芽を伸ばして再び大きくなり、古くから薪炭の材料やシイタケ培養の
ホダ木として重宝されてきました。

秋、大量に落とす団栗は鳥、シカ、イノシシ、ネズミなどの大好物です。
「鳥の餌になるので持ち帰らないで下さい」と書かれた立札が。

次は欅(けやき)。
公園、林、街路樹など、どこでも見られる木です。
万葉時代「槻:つき」とよばれ、落葉高木(ニレ科)にもかかわらず、
旺盛な生命力、立居姿の美しさから神木とされていました。

「 早来ても 見てましものを 山背(やましろ)の
                多賀の槻群(つきむら) 散りにけるかも 」
                         巻3-277 高市黒人(たけちのくろひと)

( もっと早くやって来たらよかったのに。
     紅葉した欅の木々は もうすっかり散ってしまっていることよ )

         「山背の多賀」:  京都府綴喜郡井手町多賀周辺。
         「槻群」(つきむら) : ケヤキ(欅)が群生している場所

作者は持統、文武期の歌人で度々三河や吉野行幸のお伴をしており、
この歌も北陸か東国からの帰路で詠われたようです。
「紅葉で知られている多賀に息せき切ってやって来たが、
ついに間に合わなかった」
と残念がっています。

古来、旅の歌は道中の不安や怖れ、故郷への思慕の情を詠うものが多かった中で
黒人は自然の風物を感覚的にとらえて旅を楽しんでいる様子を詠い、
この歌も新しい境地の一首とされています。

「けやき」の語源は「ケヤケキ」即ち「秀でた木」の意。
その風格、品格は松とならぶ樹木界の双璧とされ、古くから船材や橋桁、
枝は海苔栽培の粗朶に用いられました。

「 みちみちの 山の樹の間の 榛紅葉(はりもみじ)
              はやわが心 もえ居たるかも 」   中村憲吉

古代「榛」(ハリ)とよばれた「ハンノキ」はカバノキ科の落葉高木で、
湿った低地や河川沿いに群生し、早春、葉に先立って暗紫褐色の花穂を下に垂らして
咲かせ、花後、松かさ状の小さな実をつけます。

日本列島いたるところに自生し、稲作が広まると収穫後、
木に架けて稲穂を干すために田の畔に植えられ、
農家の人たちはこれを稲架木(ハサギ)とよんでいました。

樹皮と実は染料にし、後世になるとタンニンを抽出して女性の
鉄漿(おはぐろ)などにも用いたそうです。

「 伊香保ろの 沿(そ)ひの榛原(はりはら)  ねもころに
                 奥をなかねそ  まさかし よかば 」
                            巻14-3410  作者未詳

( 伊香保の山沿いの榛原 その榛(はり)の木の根(ネ)ではないが
 そんなにネチネチと心砕いて二人の先の事までこだわらないでくれ。
 今の今さえ幸せであったらそれでいいのではないか 。)

女が男に抱かれながら、「こんな幸せな時間がいつまで続くか心配だ」と
言い募るので男が戸惑いながら、とりなしている場面です。

     「伊香保ろの 沿ひの」 : 伊香保の山(榛名山)一帯

     「ねもころに」 : 元来は「ねんごろに」の意だがここは「くどくど」

     「奥を なかねそ」: 「な」-「そ」は禁止をあらわす言葉 「奥」は将来
                  「かね」は二つのことを兼ねる、ここでは「今も将来も」

     「まさかし よかば」:「まさか」は共寝している今の今 「し」は強調の助辞


東国の方言交りの歌で分かりにくいですが
「なぁ、お前、先の事など心配しないで、今の今を楽しもうや」
というところでしょうか。

「 はらりはらり 荻吹音(おぎふくおと)や 琵琶の海 」  諸九尼

荻(おぎ)には「風ききぐさ」という異名があります。
水辺に繁殖するその草は背丈が高く、細長い葉や茎は風に靡いて
さやさやと鳴る。
それは季節の到来を告げる「荻の声」。

上記の句は荻が琵琶の音色のように奏でていると興じています。

「 妹なろが 付(つ)かふ川津(かわづ)の ささら荻(をぎ)
      葦と人言(ひとごと)  語りよらしも 」 
                        巻14-3446 作者未詳

( あの子がいつも居ついている川の渡し場に茂る 気持ちのよさそうな
  ささら荻。
  そんな素晴らしいささら荻(共寝の床)なのに、世間の連中は
  それは葦(あし)、悪い草だと、勝手に話し合っているんだよなぁ。)

   「妹なろが」:「なろ」は愛称の接尾語

   「付かふ」: 「付く」の継続を表す言葉で洗濯をするため
           いつも寄りついているの意

   「ささら荻」:「ささら」は「さざれ」で小さくて細かい 共寝の床を暗示

   「語りよらしも」: 「語りよろしも」で調子よく語るが如何なものかの意

葦と悪しを掛け、
「あんないい子なのに世間のやつらは悪しざまにいう」とぼやいている男。
宴席で詠われたものかもしれません。


『 「をぐ」という言葉は神または霊魂を招く意で
  霊魂を呼び醒す意味にも用いた。
  だから「をぎ」の名も霊魂に関係した信仰上の意味があったのだ。
  荻は神霊を招き降ろす、
  即ち「招(を)ぐ」ところの「招代 (をぎしろ)」である。

  そのそよぎに神の来臨の声を聞いたのである。
  また、荻がそよそよと揺れることを「そよ」「そそや」などと
  擬声語で現すことがある。
  その「そよ」「そそや」も神の告げを示す言葉である。 』

                (山本健吉: 基本季語500選より要約抜粋)

荻の用途はそれほど多くはありませんが 筵(むしろ)草履、屋根葺き、箒などの
生活必需品に加工されていました。

「 楽しみは  夕日に映える 木のこずえ
                鬱金(うこん)に染まるを  眺め見るとき 」  筆者



           万葉集667(黄金色の森) 完

          次回の更新は12月19日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2018-01-11 10:25 | 植物

万葉集六百六十二 (椎の木)

( 椎の木 :スダジイ 自然教育園  東京 )
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( 同上  奈良万葉植物園 )
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( 椎の実 スダジイ  奈良公園 )
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( 同上   マテバシイ  同上 ) 
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( 椎の原木は椎茸のホタギ:榾木 に用いられる  長谷寺参道で 奈良 )
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( クヌギの実   自然教育園  東京 )
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万葉集その六百六十二 (椎の木)  

椎(シイ)はスジダイ(イタジイ)、ツブラジイ(コジイ)、マテバシイの総称とされ、
本州以南に生育する常緑高木です。
照葉樹林の代表的構成種とされ、スジダイ、ツブラジイはブナ科シイ属、
マテバシイは別種マテバシイ属。
共に堅くて弾力があり建築材、家具材とされたほか、木の実はアク(タンニン)が
少なく生食できる上、60%が糖質でカリウムが多く、ビタミンB1、B2、Cなど
栄養価が高いので古代の重要な食糧とされていました。
また、原木は椎茸栽培の榾木(ほだぎ)、薪炭、樹皮は漁網の染料、利尿薬としても
用いられる有用の木です。

万葉集では3首。
生活に密着した樹木にもかかわらず少ないのは意外な気がします。

「 片岡の この向つ峰(を)に 椎蒔かば
            今年の夏の 蔭にならむか 」 
                   巻7-1098 柿本人麻呂歌集

( 片岡と云う名の、この向かいの高みに、椎の実を蒔いたなら
 今年の夏には日かげになるほどに育っていようか )

片岡は奈良県北葛飾郡王寺町から香芝町一帯。
シイは枝葉がよく茂りよく日蔭をつくりますが、大木になるには少なくとも
30年以上かかるとされていますので、この歌は文学的表現。
「恋の種を蒔いたなら、夏に成就するだろうか?」の気持ちが含まれているのかも
しれません。

   「 先ず頼む 椎の木もあり 夏木立 」 芭蕉

元禄2年、6か月を費やした奥羽、北陸の長旅ののち近江、石山の奥
国分山の幻住庵に住むことになった時詠まれた一句。
長い漂泊の旅のあと安住の場を得た安らぎの気持ちを椎の木陰に託したものです。



「 遅早(おそはや)も 汝(な)をこそ 待ため
    向(むか)つ峰(を)の 椎の小枝(こやで)の逢ひは 違(たが)はじ 」 
                                 巻14-3493  作者未詳

( 遅かろうが早かろうが、お前さんの来るのを待とう。
 真向いの峰の椎の小枝が重なりあっているように、
 逢えることは間違いないだろうから。)

「遅早(おそはや)も」: 相手が来るのが遅かろうが早かろうが

「向(むか)つ峰(を)の 椎の小枝」: 
                逢ひを導く序詞で 「向かいの峰の椎の小枝」
                シイは小枝が多く交叉(こうさ)するので
               「小枝(こやで)と女が「来(こ)や」を掛けている。
               小枝(こやで)は小枝(こえだ)の訛り。

向うの山の椎の木を眺めながら女を待っている男。
出来るなら早く来てほしいという気持ちが籠っています。

この歌には次の一首が併記されており、女の歌と思われます。

「 遅早(おそはや)も 君をし 待たむ
    向(むか)つ峰(を)の  椎のさ枝の 時は過ぐとも 」 
                   巻14-3493 或る本の歌  作者未詳

( 遅かろうが早かろうがあなたのお出でを待ちましょう。
 真向いの峰の椎の若枝が茂る時、その約束が過ぎようとも )

        椎のさ枝: 椎の若枝が茂る 「時」を起こす序 

     「 団栗や ころり子供の 言うなりに 」 一茶

                   (団栗(どんぐり)は木の実の総称)

奈良公園は団栗の宝庫、椎をはじめイチイガシの実などいたるところに
落ちています。
大きなもの小さいもの、
細長いものから丸いもの。
中にはトチやコナラの実も。
幼い頃、集めては箱にしまった思い出の宝物です。

  「 椎の実 沢山拾うて来た 息をはづませ 」  河東碧悟桐



         万葉集622(椎の木) 完

         次回の更新は12月15日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-12-07 15:27 | 植物

万葉集その六百六十 ( 蓼:たで)

( ヤナギタデ 蓼の種類は多いが食用となるのは本種のみ  奈良万葉植物園 )
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 ヤナギタデの花      同上
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( イヌタデ 別名アカノマンマ  大隈庭園 東京 )
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( 同上 山の辺の道  奈良 )
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( サクラタデの花    同上 )
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( 鮎の塩焼にタデ酢は欠かせない)
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万葉集その六百六十 (蓼:たで)

  「 草の戸を 知れや穂蓼に 唐辛子 」   芭蕉

   ( おもてなしの料理の薬味にタデとトウガラシを用意してお待ちして
     おりますので、ぜひお越しください。)

タデは日本全土の野山や水辺に自生するタデ科の1年生草木で、
秋に枝先ごとに紅や白色の花の穂を出します。
イヌタデ、オオベニタデ、サクラタデなど多くの種類がありますが(50~60種)、
食用となるのはヤナギタデ(ホンタデ、マタデともいう)のみ。
葉はピリッとした辛みがあり、すり潰して二杯酢を加えた蓼酢は
鮎の塩焼きに不可欠の薬味です。

芽生えの頃の双葉はさっと茹でてお浸しにしたり、蓼飯にすると美味く、
各地の寺院で精進料理として出されていますが、昔はごく普通の農山村の
常食の一つでした。

「 わが宿の 穂蓼古幹 (ほたで ふるから)  摘み生(おほ)し
     実になるまでに 君をし待たむ 」 
                       巻11-2759 作者未詳

( 我家の庭の穂蓼の古い茎、その実を摘んで蒔いて育てる。
      そしてまた実が結ぶようになるまで、私はずっとあなたを待ち続けます。
      だから、きっと私と一緒になってね 。)

男は旅に出るのでしょうか。
結婚出来るまでいつまでも待ち続けると願う純情な乙女です。

穂蓼古幹(ほたでふるから)は穂の出た蓼(たで)の古い茎で、
庭で栽培されていたヤナギタデと思われ、新葉を摘んで食用に、
実は香味料、根は漢方薬として利用されていたようです。

「 童(わらは)ども 草はな刈りそ 八穂蓼(やほたで)を
        穂積が朝臣(あそ)が 腋草(わきくさ)を刈れ 」
                     巻16-3842 平群朝臣が嗤(わら)ふ歌

( おい、みんな、草なんか刈らんでもよろし。
  刈るなら八穂蓼の穂を積むという穂積のおっさんの臭い腋草を刈れよ。)

童ども:皆さんという意の呼びかけ
な刈りそ:な-そで禁止をあらわす。「刈るなよ」
八穂蓼: 摘んだ後も次から次へと生える蓼。

宴席で
「 あいつは穂積という名の通り、沢山の穂を出した蓼のように、
わき毛が多いから草など刈らないで、わき毛を刈れよ」
と戯れたもの。
しかも「腋草」の「草」(くさ)に「臭い」を掛けているので強烈。

万葉集の巻16にはこのような面白い歌が多く収録されています。

 「 見るままに 駒もすさめず つむ人も
                  なきふるさとの  蓼に花咲く 」
                             藤原信実 新撰六帖

 すさめず: 好まない 喰おうともしない

それでも「蓼食う虫も好き好き」です。

故事ことわざ辞典( 三省堂)によると
『 人の好みはさまざまで理解しがたいような多様性を持っているものであること。
よりによって辛い蓼の葉を好んで食べる虫がいることから、
他人の悪趣味についていうことが多い。』

使用例として

『 「 驚いたわ。 お玉さんが、雷を好きだなんて」
  「 だって、あなた、蛇を好きな人もあれば、嫌いな人もあるでしょ。
    蓼食う虫も好き好きじゃないの。
    雷だってそうよ。
    きらいな人ばかりとは、いえないでしょ。』
                            ( 船橋聖一 雪夫人絵図) 

 「 わが歩む 小野の上にて 蓼の花
         咲くべくなりぬ  夏終わりけり 」  斎藤茂吉

子供のままごとの遊びに使われる「アカノマンマ」はイヌタデ。
夏から秋にかけ房状に咲く花を赤飯に見たてたものです。
また、サクラタデは花が淡紅色で大きく美しい。

   「 花か穂か 紅葉か蓼の 紅(くれなひ)は 」   凡菫(きとう:江戸中期) 


         万葉集660(蓼:たで)完


     次回の更新は12月1日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-11-23 15:45 | 植物

万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)

( オオムギ    奈良万葉植物園 )
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( コムギ     同上 )
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( キビ      市川万葉植物園   千葉)
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( アワ      同上)
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( ヒエ      同上 )
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( 赤花そば  栗橋  埼玉県 久喜市 )
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( 高層ビルの前で堂々たる風格、 老舗砂場の発祥地は大阪  虎の門 東京 )
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      万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)

古代の五穀は「 粟(アワ)、稗(ヒエ)、稲、麦、豆 」(日本書紀)とされていますが、
庶民の主食は「 麦、粟(アワ)、黍(稷:キビ)、稗、蕎麦 」。
米や豆は税として朝廷に収められ、大多数の人たちの口に入らなかったのです。

万葉集では蕎麦以外すべて詠われていますが、苦しい農作業にもかかわらず
いずれも楽しいものばかり、まずは麦からです。

大麦の原産地はカピス海から地中海の沿岸、小麦は西アジアとされており
弥生時代には早くも日本に伝わっていたと推定されています。
723年、朝廷は飢饉に備えて麦などの雑穀の栽培を奨励する太政官府を
発布しており、「廣野 卓著  食の万葉集 (中公新書) 」によると

「 オオムギはそのまま粒食し、コムギは主として粉にして、
 餅(団子)や煎餅に加工したので用途が広く、時代と共に多用された」
 そうです。

「 馬柵(うませ)越しに 麦食(は)む 駒の 罵(の)らゆれど
       なほし恋しく 思ひかねつも 」 
                              巻12-3096 作者未詳

( 馬柵越しに麦を食べている馬が怒られているように
     私もあの子の母親から、もう娘に会うなと怒鳴りつけられてしまった。
     でも、やっぱり恋しくて恋しくて--。
     そう簡単に忘れられるものか! )

通い婚の時代、母親は子と同居していたため家庭内の発言力が強く、
結婚や交際は自身の眼鏡にかなった男しか許可しませんでした。
男は女の家の前で呼び出そうと声をかけたら母親が出てきて
怒鳴られたのでしょう。
自分を馬に譬えるとは、なかなかユーモアセンスがある男です。

「 梨 棗(なつめ) 黍(きみ)に 粟(あは)つぎ 延(は)ふ葛の
      後(のち)も逢はむと 葵花(あふひはな)咲く 」
                             巻16-3834  作者未詳

( 梨が生り棗(なつめ)や黍(きび)、さらに粟(あわ)も次々と実り、
 時節が移っているのに、私は一向にあの方に逢えません。
 でも、延び続ける葛の先のように、
  「後々にでも逢うことが出来ますよ」
 と葵(あふひ)の花が咲いています。 )

言葉遊びの戯れ歌。
宴会で梨、棗(なつめ)、黍(きび)、粟(あわ)、葛、葵を詠みこめと
囃されたものと思われます。
これらは、すべて食用とされる植物ばかりで

「 季節を経て果物や作物が次から次へと収穫の日を迎えているのに、
  長い間愛しい人に逢えないでいる。
  でも葛の蔓先が長く這うように、長い日を経た後でも、きっと逢えるよと
  葵(あふひ)の花が咲いています。」

つまり、「あふひ(葵)」を「逢う日」に掛けて見事な恋歌に仕立てたのです。

古代中国で五穀の筆頭に「キビ」を置き、重要視していたことが
「社稷(しゃしょく」という言葉に窺われます。

廣野 卓氏によると

『「社」は「土地」を意味し、「稷」は「キビ」、
従って「社稷を守る」という事は国を維持すること。
これは古代中国の歴史は黄河流域を中心として展開したため、
その地帯は水田耕作よりも畑作に適しており、必然的に陸作のキビが重視された。

  キビにはタンパク質やカルシュウム、鉄、ビタミンB2をふくみ、
最近注目されている食物繊維も多く、必然的にわが国でも多く栽培された 』
                                ( 食の万葉集  中公新書 要約 ) 
なお、上記歌の葵は冬葵(フユアオイ)とされ、若葉は食用、
実は利尿に効ありとされています。

「 左奈都良(さなつら)の 岡の粟蒔き  愛(かな)しきが
    駒は食(た)ぐとも 我(わ)は そとも追(は)じ 」
                                巻14-3451 作者未詳

( ふさふさと実る粟を楽しみに左奈都良の岡に種を蒔いています。
 でもその粟があのお方の馬に食べられようともかまいませんわ。
 いとしいお方の馬ですもの。決して追い払ったりはしません )

左奈都良:常陸説など諸説あるが未詳   
「そ とも追(は)じ」 :「そ」は馬を追う声

可愛い娘が憧れの人を想いながら粟の種蒔きをしている場面です。
房々とした実がなる時節を思い描いているところから恋の成就と豊作を
祈ったのでしょうか。

粟の原産地はインド北部から中央アジア。
ユーラシア大陸で栽培化されたものが中国に伝播したのが紀元前2700年頃で、
我国へは縄文時代に朝鮮を経て入り、稲が伝来するまで主食とされていました。

715年元正天皇は「粟は長年の間人々の生活を支える中心であり、
色々な穀物の中でも最もすぐれたものである。
納税に粟を納めたいというものがおればこれをゆるせ」
と命じています。(続日本紀)

粟は痩せた土地や寒冷地でも良く育ち、澱粉、蛋白質、ビタミンB1,B2を含み、
しかも、保存性がよいので明治40年頃までは20万ヘクタール以上の栽培面積を
誇っていましたが、稲作技術の向上により米の生産量が増えると急速に減少し、
現在では九州と東北地方の一部でわずかに生産されているのみです。

なお、粟には「うるち種」と「もち種」があり、「うるち種」は、
飯に混ぜて炊いたり、粟おこしに、「もち種」は、だんご、粟餅、粟饅頭、
水飴、泡盛(酒)などに使い分けられています。

因みに世界最古の麺は中国青海省 喇家(らつか)遺跡で出土した
「アワ(粟)で作った麺」で今から4000年前のものとか。

「 打つ田に 稗(ひえ)はし あまた ありといへど
    選(え)らえし我ぞ 夜をひとり寝(ぬ)る 」 
                         巻11-2476 作者未詳

( 田んぼに稗はまだたくさん残っているというのに
 よりによって抜き棄てられた俺は、夜な夜な一人寝だわい )

もてない男が「おれは稗より劣る」とひがんでいます。
というのは、稲の間に稗が混じっていると米の味が落ちるので、
抜き棄てられていたのです。
尤も貧農は棄てずに食べていたので、作者はそれなりの余裕がある男だった?

『 ヒエの原産地は東アフリカ、インド説があり、野ビエと水ビエから栽培種に
  改良されたといわれ、現在インドにはヒエを主食とする地方があり、
  粥にしたり、粉を団子にしたり、薄くのばして焼くなどと調理されているが
  万葉時代のヒエ食を推測する参考になる。

主な栄養成分は、ビタミンB1が白米の半量である以外は、ほとんどの
成分が米より1.5~2倍、カルシュウム、鉄の含量が2倍~3倍あるので
調理法を研究すれば日本人に不足しがちな栄養素の補給源として有効な穀物 』
だそうです。  ( 廣野卓 同 要約 )

   「 蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな 」    芭蕉

 蕎麦の花は秋の季語。
「 折角お出でいただいたのに蕎麦はまだ花の状態で何もご馳走ができません。
 蕎麦を打っておもてなししたいところですのに。」
と作者の挨拶句。

蕎麦も古くから栽培されており、約3000年前といわれる縄文晩期の
埼玉県真福寺遺跡や弥生時代の静岡県登呂、韮山山木遺跡からソバの実の
出土例があり、また722年、元正天皇詔に

「 全国の国司に命じて人民に勧め割り当てて、晩稲(おくて) そば、大麦、小麦を
  植えさせその収穫を蓄え、おさめて凶年に備えさせよ」 とあります。

さらに、宮本常一氏は
『 平城宮から出土した木簡(租税の荷札)に「波奈作久」(はなさく)とあり、 
  この「ハナサク」がソバであろう。
  ソバの古名はソバムギだと図鑑は記しているが別名ハナサクと
  いっていたのではないか 』      ( 日本文化の形成 講談社学術文庫 ) 

  と述べておられ、当時そば粉を湯で溶いて「そばがき」のようにして食べて
  いたようです。
  にもかかわらず、万葉集に歌が1首もないのは誠に残念至極。

   「 古を 好む男の 蕎麦湯かな 」      村上鬼城

蕎麦閑話 ( 楠木憲吉 たべもの歳時記 おうふう より)

 蕎麦の「蕎」は「キョウ」と読み「ハヤトグサ」という薬草であり
 「タカトウダイ」(ヒルガオ)の古名。
 ヒルガオに似た葉をもち、麦のような実を付けるので
 「蕎麦」という字が生れた。
 タデ科のソバ属でありながら、麦という名が付いたのは粉にすると
 麦と変わらないところからきたもの。

 蕎麦の字が初めて登場するのは「続日本紀」(元正天皇養老6年:722年7月の条)で
 「蕎麦及大小麦」とある。

 「そばがき」が現在のソバの形状になるのは江戸時代からで
 江戸にはすでに4000件近くの蕎麦屋があった。

 蕎麦屋には「更科」、「藪」、「砂場」の3系列がある。

 「更科」は寛政の初めごろに初代の布屋清右衛門が江戸麻布永坂に
 「信州更科蕎麦処」を始めたのがその起こり。
 「布屋」はその名が示すように、もとは呉服屋で信州更科郡保科出身の
 晒し布の行商人であった。
 元禄期に領主の保科兵部少輔について江戸にのぼり、江戸屋敷の
 麻布十番の長屋に住んでいたが、蕎麦打ちの特技を買われ、領主のすすめで
 「そばや」になったとのこと。
 「更科」という屋号は、故郷の更級郡の「更」と主家、保科の「科」を
 合わせたものである。

 「藪」は本郷団子坂の藪のなかにあった「つたや」のニックネーム「やぶ」から
 きたものとされる。

 「砂場」は、もと大阪のそば屋であった。
 新町遊郭の付近を砂場といい、新町疎開のための砂利置場であったのであろう。
 この砂場一党が江戸へ進出して、最初麹町7丁目に開業し、後に芝魚藍坂に
 移り、現在は三ノ輪にも系類が残っている。
 「本石町砂場」や「芝琴平町砂場」はそこから出たものである。

 俗に「更科は白米の味、藪は七分搗きの味」といわれる。
 つゆも「藪」の方が濃い目だ。

             万葉集656 (庶民の五穀 )完



           次回の更新は11月3日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-10-26 16:48 | 植物

万葉集その六百五十五 (桑の木)

( マグワ  東京都薬用植物園 )
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( ハリグワ   同上 )
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( 桑の花    同上 )
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( 桑の実    同上 )
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( ヤマボウシ:山桑  山辺の道  奈良 )
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( ただいま養蚕中  シルク博物館  横浜 )
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(  桑茶  群馬絹の里産 )
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(  桑の実ジャム  島根産 )
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万葉集その六百五十五 (桑の木)

「 夕焼け小焼けの 赤とんぼ
  負われて見たのは いつの日か

  山の畑の 桑の実を
  小籠に摘んだは まぼろしか 」 
                            ( 赤とんぼ 三木露風 作詞 山田耕作 作曲)

桑はクワ科の落葉樹で樹皮は暗褐色、葉は卵形あるいは心臓の形をしており、
両面に短い毛があります。
4月頃、淡い黄緑色の花を穂状に付けますが、花びらがないので目立ちません。
花後、夏に甘味のある紫黒色の実を結び食用に、茎、根皮は利尿、咳止め、
血圧を下げる薬効があり、葉は養蚕に欠かせない有用の木です。

養蚕盛んなりし頃は全国いたるところで桑畑がみられ、

「 桑海(そうかい)の 涯(はて)に山あり、夕日あり 」   岸 善志

などと詠われていましたが、現在ではあまり見かけなくなっています。

古代、養蚕は重要な生業の1つで、蚕を育てて繭玉を作り、
糸を紡いで衣を織る一連の作業はすべて女性の仕事とされていました。

「 たらちねの 母がその業(な)る 桑すらに
    願へば衣(きぬ)に 着るといふものを 」  
                            巻7-1357 作者未詳

( 母が生業として育てている桑の木でさえも、ひたすらお願いすれば
 着物として着られるというのに。)

どんなに困難なことでも一心に願えば成就するのに
私の恋は実らないと嘆く乙女。

以下は伊藤博氏の解説(万葉集釋注)、当時の女性の養蚕の様子を詳しく記して
おられますので、全文引用させて戴きます。

『 養蚕は女の困難にして重要な生業であった。
  すぐれた桑を育てないと立派な蚕は出来ない。
  幼虫には柔らかい葉を与えねばならず、成虫にはつやつやとした
  張りのある葉を与えねばならない。
  油断していると、蚕を好物としている蟻に食われてしまう。

  無事育て上げた蚕の食欲は旺盛で、深夜にはその歯音の響きが
  さざ波のように聞こえる。

  桑の葉に毒物があると、蚕たちは一朝にして死す。
  今でも、蚕を育てる人は、蚕のことを「お蚕さま」とよんでいる。

  「お蚕さま」は成熟の極みに達すると「おヒキさま」になる。
  躰が少し曲がって透体を呈するのである。
  これを拾って藁の床に寝かせてやると、かれらは糸を吐いて
  二、三日の間に繭となる。

  だがヒキの拾いの時期を誤るとほれぼれする繭は期待できない。
  こうした難行の末にできた絹が貴重であることはいうまでもない。

  桑から繭へ、そして糸から衣へ― それは外目にも神秘な過程である。
  が、当事者にとっては悲願にも似た祈りが常に込められている。

  「 桑すらに願へば衣に着る」という表現は、蚕を育てる母親の緊張を
  よくよく知る者の言葉に違いない。

  その難行を我が恋の苦しさに譬えたところが新鮮である。
  この娘の恋は、当の母親によってさえぎられているのではなかろうか。
  母の願いはその困難な生業に通じるのに、私の願いはどうして母さんに
  通じないのか。
  そのように考えればさらにいっそう生きてくる歌のように思えるが
  いかがであろう。 』

「 見るからに 桑の若芽は やはらかし
        夕日の光 ながれたるかな 」    土田耕平

古代、養蚕に使われていたのは中国渡来のマグワのほか、古くから自生していた
野性のヤマグワ(別名ヤマボウシ)も利用されていた推定されています。

万葉集では「拓:つみ」と詠われ、用途は桑とほぼ同じ。
葉を蚕の飼料にするほか、和紙の原料、織物、黄色の染料、家具材、
薬用(利尿)など多方面に利用されていました。
また、初夏になると小さな白い花を咲かせ、秋には黒紫色の実をつけます。

「 ますらをの 出(い)で立ち向かふ 
  故郷(ふるさと)の 神(かむ)なび山に

  明けくれば 柘(つみ)の さ枝に  
  夕されば 小松が末(うれ)に  」   
                          巻10-1937(一部) 古歌集

( ますらおが家を出て相立ち向かう
  故郷の神々しい山。

  この山に明け方にやって来ると、
  ホトトギスが柘(つみ)の枝に止まって鳴き、
  夕方にには松の枝で鳴く。)

「神なび山」は「神がこもる山」の意で飛鳥のミハ山とされ、
ホトトギスを通して聖なる山を讃えています。

古代、柘(つみ)は菖蒲、桃、蓬(ヨモギ)などと共に邪悪を払う魔除けの植物と
されていたので聖なる意をあらわす「“さ”枝」と詠い、
不老長寿の象徴である松(小松)と対句になっています。

旅先で家恋しい作者は、妻を求めて鳴くホトトギスに
わが身を重ねているのでしょうか。

  「 郷愁や この道ばたの 桑の実に 」   水原秋櫻子



             万葉集655 (桑の木)完

          次回の更新は10月27日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-10-19 17:10 | 植物

万葉集その六百五十四 (秋の草花)

( カワラナデシコ  奈良万葉植物園 )
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( ナンバンギセル  同上 )
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( ハギ 山の辺の道 巻向   奈良 )
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( ヒガンバナ  明日香 稲渕棚田 )
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( ハダススキ   石舞台公園  奈良 )
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( 風に靡くススキ   同上 )
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( 三輪山   山の辺の道 )
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( 今年も豊作  明日香 案山子祭り )
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万葉集その六百五十四 (秋の草花)

秋の七草といえば山上憶良が詠った
「萩、尾花、葛、なでしこ、オミナエシ、藤袴,桔梗」が定番。
ところが、最近は花期がそれぞれ異なり同じ時期に出会うことが
出来なくなっています。

あちらこちらの植物園で七草コーナーが設けられていますが、
中秋まで咲いているのはオミナエシ、ススキに藤袴。
萩、葛、なでしこ、桔梗は夏の半ばから咲きはじめ、9月中旬に
終わっていることが多く、折角のコーナーも見栄えがしません。

というわけで、彼岸も過ぎたある日、今頃どんな草花が咲いているだろうかと、
思い立ち、奈良万葉秋の草花探しに出かけました。

まずは春日大社神苑万葉植物園の撫子コーナーへ。
毎年所狭しと咲いていましたが、今年は天候不順が続いたため、あるいは
もう散ってしまったのか、残っていたのはわずか数株のみ。
それでも色美しく健気な姿を見せてくれました。

「 我がやどに 咲けるなでしこ 賄(まひ)はせむ
      ゆめ花散るな いや若変(をち)に咲け 」 
                  巻20-4446 丹比国人真人( たじひの くにひとの まひと)

( 我が家の庭に咲いている撫子よ、欲しいものは何でも差し上げよう。
 だから、決して散るなよ。 
 これからも益々若返り、咲き続けていくのだぞ。)

755年の6月の終わり頃、作者は左大臣橘諸兄の推挙により栄進。
そのお礼にと諸兄に自宅への来駕を乞い、祝宴を設けた時の歌。
撫子にことよせて主賓の諸兄の繁栄と健勝を寿いだ挨拶です。
 左大臣が部下の自宅へわざわざ足を運んだのは、よほど目にかけていたのでしょう。
作者、真人の感激と喜びが感じられる一首。

「若変(おち)」は若返る意で、撫子が初夏から秋まで次から次へと咲き続け、
常夏という別名もあるので寿ぎ歌として取り上げられたものと思われます。

植物園を巡っていると「ナンバンギセル」開花の表示の立札が。
でも、芒の茂みの下蔭で咲いているのでなかなか見つけることが出来ません。
目をこらして探すと、あった、あった。

「 道の辺(へ)の 尾花が下の 思ひ草
       今さらさらに 何をか思はむ 」 
                        巻10-2270 作者未詳

( 道のほとりに茂る尾花の下で物思いにふけっているように咲く思ひ草。
  俺はもう、その草のように今さら思い迷ったりなどするものか )

ススキが風にそよぐ音、サラサラが「今さらさらに」の語を引き出すように
詠われ、リズムが心地よい。
作者は一体何を決心したのでしょうか。
好きな女性との決別、あるいは様々な困難を乗り越えて結婚、
正反対の解釈が出来そうです。

ナンバンギセルはハマウツボ科一年草の寄生植物で、ススキや、ミョウガ、サトウキビ
などの根元に生え、その根から養分をとっています。
秋になると紫紅色の花を咲かせますが、その先端が首をかしげて
物思いにふけっている様子から、古代の人たちはこの植物を「思ひ草」とよんでいました。

この漠然とした名前が現在の何に当たるかについて諸説ありましたが、
この歌の「尾花が下の思ひ草」つまり、ススキに寄生する姿を詠っていることが
決め手となり、現在ではナンバンギセルが通説となっています。
なお、ナンバンギセルは漢字で「南蛮煙管」と書き、南蛮から渡来した煙管(きせる)の
雁首に花の形が似ているとことから命名されたそうですが、これは後代(16世紀以降)
のことです。

   「 草陰で 思ひにふける 煙管花(きせるばな)
            そは誰をし 愛(いと)し染めける 」     筆者
         
今度は山の辺の道へ。
三輪山の麓からの出発し、約8㎞のハイキング。
柿、栗、ぶどう、蜜柑、ざくろ等が枝も撓むほどに実り美味しそう。

花はコスモス、ヒマワリ、そして綿の花。
萩はほとんど終わっていましたが、幸運にも巻向山の麓で赤白一対が満開。
まるで私の来訪を待っていてくれたようです。

「 妻恋ひに 鹿(か)鳴く山辺(やまへ)の 秋萩は
    露霜寒み 盛り過ぎゆく 」 
                             巻8-1600 石川広成 

( 妻に恋焦がれて鳴く鹿がいる山辺に咲く秋萩。
  その美しい萩も、露霜が寒々と置くので、盛りが過ぎて行くなぁ。)

743年、恭仁京、大伴家持宅宴席での歌。
頃は9月の終わり、鹿の声、萩、露を取り合わせて過ぎゆく秋を惜しみ、
「のびやかでうるおいがあり、素直な抒情が快い」(伊藤博)と評されています。

翌日、明日香石舞台の奥、稲渕棚田へ。
稲が間もなく収穫期を迎える中、彼岸花が満開。
案山子祭りも行われていました。

「 道の辺(へ)の 壱師(いちし)の花の いちしろく
      人知りにけり 継ぎてし思へば 」
                 巻11-2480  柿本人麻呂歌集 別歌

( 道端の「いちし」の花ではないが、とうとう世間様の噂になってしまった。
 私が絶えずあの子の事を想っているので。)

「いちしろく」の原文は「灼然」、「著しくはっきり」という意で、
壱師(いちし)の「いち」を掛けている。

真紅に燃えるように咲き、火花を散らしたような花びらを広げる彼岸花。
私の恋の炎は一瞬たりとも消えることがない。
そんな思いがとうとう世間の人に、ばれてしまった。

「恋は秘密に」というのが当時の習い。
ひよっとしたらこの恋は壊れるのではないかと心配している純情な男です。

なお、「壱師(いちし)」が現在のどの花に該当するか、諸説ありましたが、
牧野富太郎博士は彼岸花であることを力説され、山口県に「イチジバナ」 
山口県熊毛地方に「イチシバナ」北九州小倉地方に「イチジバナ イッシセン」の
方言があることが判明し(松田修 古典植物事典 講談社学術文庫 ) 
牧野説の正当性が裏付けられています。

彼岸花は冷夏、酷暑、多雨などの悪天候に関係なく時期が到来すると
必ず花を咲かせるなど極めて生命力が強い上、鱗茎の澱粉が極めて良質なので、
飢饉に備えて田畑に多く植えられた救荒植物です。
( 鱗茎:りんけい  地下茎の一種 ユリ根、たまねぎの類 )
ただし、アルカロイド、リコリンなどの有害物資を含んでいるので、
人々は鱗茎を細かく搗き砕き、一昼夜以上流水に浸して毒性を洗い流して
そうですが、古代の人々の生活の知恵は大したもの。

  「 歩き続ける 彼岸花 咲き続ける 」     種田山頭火

明日香は見渡すかぎりの彼岸花。
ゆっくりゆっくり歩いて石舞台公園へ。
ススキが元気よく生い茂り風に靡いています。

「 かの子ろと 寝ずやなりなむ はだすすき
          宇良野の山に 月片寄るも 」 
                          巻14-3565 作者未詳

( 今夜はあの子と一緒に寝ずじまいになってしまうのかなぁ。
 はだすすきが茂る宇良野の山に月が傾いている。)

はだすすき:「肌すすき」: 皮(苞)につつまれ未だに穂に出ていないすすき
                 ここでは宇良野の枕詞、
                 「穂の末(うれ)」の縁で「ほ」「うら」などに掛かる
宇良野:  長野県上田市浦野あたりか。

今夜は待望のデート。
約束の場所で今か今かと心をときめかせて待っていた。
ところが彼女は何時まで経っても姿を見せない。
一体どうしたのだろう? 
母親に止められたのだろうか。
それとも心変わり? 
あれこれ悩んでいるうちに月も傾き間もなく夜が明ける。
焦燥と絶望感、寂しさ、じれったさが染み入るような東歌の佳作です。

「 山陰の 野に暮れ急ぐ 芒かな 」    松窓乙二

間もなく夕暮れ時。
抜けるような青空の下、爽やかな秋の草花探しの旅でした。




           万葉集654 (秋の草花)完


            次回の更新は10月20日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-10-12 16:18 | 植物

万葉集その六百五十一 (露草、月草)

( 露草 奈良法華寺で)
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( 露草とエノコログサ 同上 )
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( アカバナツユクサ  小石川植物園 )
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( オオボウシバナ 露草の変種   同上 )
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(  同上 )
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万葉集その六百五十一 ( 露草、月草)

  「 露草の 群生が わが目を奪う 」  高濱年尾

秋の早朝、野山を歩くと朝日を浴びた草木に置く露が
ダイヤモンドのようにキラキラ光っている。
その陰にひっそりと隠れるように咲いている一群の青い花。
近づいてよく見ると、帽子のような形をした露草です。
徳富蘇峰は「色に出た露の精」、新井白石は「月の光を浴びて咲く花」と讃え
俳人は
「 露草の 瑠璃の露落ち 瑠璃残り 」    吉岡 秋帆影

と詠いました。

露草の上に置く露は、瑠璃色の影を映して輝く。
やがて、露は滴り落ちるが花は依然として青い妖精。
美しい小宇宙の世界です。

然しながら花の命は短く、早朝に咲き夕方には萎(しぼ)む一日花。
その儚さが好まれたのか、古来多くの恋歌に詠われており、
万葉集にも9首登場します。

「 朝(あした)咲き 夕べは消(け)ぬる 月草の
      消ぬべき恋も 我(あ)れはするかも 」 
                           巻10-2291 作者未詳

( 朝に咲いては夕方に萎んでしまう露草。
 私の恋も切なくて、切なくて。
 身も心も消え果ててしまいそうな気持ちです。)

万葉集での露草は「つきくさ」とよばれています。
染料に用いるため臼で搗(つ)いて染めた、あるいは色が付き易いので
その名があるとされていますが、原文表示が「月草」となっているものが多く、
万葉人は、やはり夜の暗いうちに月の光をあびて咲くと感じていたのでしょうか。

「 うちひさす 宮にはあれど 月草の
     うつろふ心   我が思はなくに 」 
                   巻12-3058 作者未詳

( はなやかな宮廷に仕えている我が身。
 でも色の褪(さ)めやすい露草のような移り気な心、
 そんな気持ちであなた様を想っているのではありませんよ。)

露草は色が褪せやすいので、移ろいやすい恋に譬えて詠われています。

作者は宮廷に仕え、美しくも華やかな存在。
云い寄る男が多かったのでしょう。

「お前さん、他の男に気持ちが傾いているのか」と詰問する男。
「決してそんなことはありません。好きなのは あなただけ」と応える女。

「うちひさす」: 宮に掛かる枕詞 掛かり方、語義未詳なるも、
          日=太陽=天皇の連想から宮に掛かるようになったとも。

「 月草の 仮(か)れる命に ある人を
    いかに知りてか  後に逢はむと言ふ 」 
                      巻11-2756 作者未詳

( 月草のように儚い仮の命しか持ち合わせていないのに、
 それを、一体どういう身だとと思って、後にでも逢おうというのですか。)

この世の人間は仮の身しか持ち合わせていない儚い存在。
それをあなたは後々に逢いましょうとおっしゃる。
何故今すぐに逢おう、一緒になりましょうと云ってくれないのですか。

作者は女性に「またね」と婉曲に断られたのでしょう。
必死になって口説くが、脈なしか。

月草という名は江戸時代になると露草に変わります。
露を置いた姿が美しい、あるいは露が多く発生する時期に咲くことに
由来すると云われ、現在は秋の季語です。

友禅染めの下絵描きに用いられている露草の変種オオボウシバナは
その褪せやすい性質を利用したもので、上絵を描き終わった後、水で流すと
きれいに融け落ちる貴重な染料です。
夏の土用の頃の早朝に花を集め、手で絞って濃い藍色の汁を採り、
強い日ざしのもとで、和紙に刷毛で何回も塗り重ねて乾燥させ青花紙を作る。
下絵を描く時は短冊状に切って小皿にのせ、絵具のように水を含ませた
筆で溶く。
今日これに変わる染料は他にないと言われていますが、絶滅危機種です。

「 露草を 面影にして 恋ふるかな」   高濱虚子


ご参考

    京都新聞(2017,8,29)の記事から

「 友禅下絵「青花紙」、存亡の危機 
        滋賀、高齢化で生産者減 」

 友禅染の下絵描きに使われる滋賀県草津市特産の「青花紙」が、
高齢化による生産者の減少に直面している。
今年は2軒だけが紙を作っていたが、うち1人は今年限りでの引退を検討。
「紙を作る技術を伝えていきたい」と後継者を求めている。

アオバナから取れる染料は色が鮮やかで水に溶けやすいことから
友禅染に活用されてきた。
青花紙は、搾った汁を和紙に塗って天日で乾かす工程を約80回繰り返して作る。
使うときには小さく切って水に浸し、染料を溶かし出す。

 かつて青花紙は地域の名産として知られ、最盛期の大正時代には
500軒以上が生産していたとされる。
しかし、アオバナの花が咲く7~8月の炎天下で花びらを
一つずつ手作業で摘み取るため、地元では「地獄花」と呼ばれた過酷な作業や、
化学染料が普及したことで、近年は数軒だけが手掛けていた。

 生産者の1人、中村繁男さん(88)=同市上笠1丁目=は10歳のころから親の手伝いで花摘みを始め、70年近く作っていた。
最近は体調がすぐれず、重労働をこなすことが難しくなったため、
今夏、関係者に引退の意思を伝えた。
関係者は慰留しており、中村さんは後継者がいれば技術を伝えたいとしている。

中村さんは「アオバナは全国でも草津にしかない大事な花。
紙を作りたいという人がいれば、技を引き継ぎたい」と話している。
アオバナを使った特産品づくりなどを進める草津あおばな会
(事務局・草津市農林水産課)も今春、青花紙保存部会を立ち上げており、
「継承の方法を検討していきたい」としている。

   
            万葉集651(露草 月草) 完


      次回の更新は9月29日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-09-19 20:02 | 植物

万葉集その六百五十 (天平の紫)

( 紫草の花は白くて小さい   奈良万葉植物園)
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( 紫草の根は赤い   同上 )
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( 根を臼で搗いて砕く   西川康行  万葉植物の技と心  求龍堂より )
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(  紫根の染液に浸された絹     吉岡幸雄  NHK放映 )
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(  色々な紫色に染め分けられた絹    同上 )
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( 国宝 紫紙金字金光明最勝王経  和紙を顔料のような紫で染めた上に書かれた金文字
                            奈良国立博物館蔵 )
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( 再現された天平の伎楽の紫衣装   東大寺  吉岡幸雄作 )
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万葉集その六百五十 (天平の紫)

万葉人の憧れの色、「紫」は紫草の根から生まれます。
天平時代の人々が高度な染色技術を駆使して芸術品ともいえる織物を
作り上げていたことは、現存する数々の正倉院宝物に見ることが出来ますが、
驚くなかれ、万葉集にその染色の方法や、材料が詠い込まれているのです。

紫を詠った歌は17首、そのうち13首は作者未詳の庶民。
当時、紫草は上流階級の衣服を染める貴重な染料とされ、全国各地から税として
貢納されており、庶民の歌は、その作業の過程で詠われたのでしょう。

「 紫草(むらさき)は 根をかも終ふる 人の子の
    うら愛(がな)しけを  寝を終へなくに 」 
                           巻14-3500 作者未詳

( 紫草は根が途切れる(終える)ことがあるのかなぁ。
 この俺はあの子が可愛くてならないのに、
 まだ、一緒に寝るのを終えていないんだよ。)

「根を終ふ」「寝を終ふ」の語呂合わせ。
「人の子」は親に厳しく躾けられている子の意。

紫草の根はゴボウのように地中深く伸び、横にも大きく広がります。
作者は紫草の栽培する仕事に携わっていたのでしょう。
深く根をおろし、地中に長く続いていることを理解している歌です。

「 韓人(からひと)の 衣染(そ)むとふ 紫の
    心に染みて 思ほゆるかも 」 
                  巻4-569 麻田連陽春(あさだの むらじ やす)

( かの国の人が衣を染めるという 紫の色が染みつくように
 紫の衣を召されたお姿が、私の心に染みついて、あなたさまのことばかり
 思われてなりません。)

730年、大宰府帥であった大伴旅人は大納言に任ぜられ、都に向けて
旅立ちました。
この歌はそれに先立って催された送別の宴で詠われたもので、
旅人は紫の衣で正装していたものと思われます。

「韓人の衣染む」は優れた染色技術を伝えた渡来人の意。

紫根の染織を始めた当初、恐らく色も薄く、定着も悪かったのでしょう。
この歌は、渡来人が先進技術をもたらしたことを示しています。

「 紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の
    八十(やそ)の衢(ちまた)に逢へる子や誰(た)れ 」
                            巻12-3101 作者未詳

( 紫染めには椿の灰を加えるものです。
  その椿の名がある海石榴市で出会ったお嬢さん。
  あなたの名前はなんとおっしゃるの? )

海石榴市(奈良県桜井市)には椿の木が多く植えられていました。
この歌は椿の生木を燃やした灰を灰汁(あく)にして、媒染剤として使用し
鮮やかな紫色を生み出していたことを示すものです。
この技術の確立により、紫の染色は画期的な進歩を遂げることになります。

「 託馬野(つくまの)に 生ふる紫草(むらさき) 衣(きぬ)に染(し)め
     いまだ着ずして 色に出(い)でにけり 」 
                                  巻3-395 笠郎女

( 託馬野に生い茂る紫草、その草で着物を染めました。
 出来上がった着物をまだ着ていないのに、もう人に知られてしまいましたわ )

作者が大伴家持に贈った歌で、託馬野(つくまの)は滋賀県米原市あたりの野。
                                
「託(つく)」には「色がよく付く」が掛けられています。                           
「紫草」は家持、「衣」は自分自身を暗示しており
「まだ契りを結んでいないのにあなたを思い慕っている事が
世間の評判になってしまった」の意がこもります。


「 紫の 名高の浦の 真砂地(まなごつち)
     袖のみ触れて 寝ずかなりなむ 」 
                       巻7-1392 作者未詳

( 名高の浦の細かい砂地、あの砂地には袖が触れただけで、
  寝ころぶことも なくなってしまうのであろうか )

真砂(まなご)の原文は同音の愛子(まなご)。
細かい砂と可愛い子の両方を掛け、その子に対する淡い思いを述べています。
また、「袖のみ触れる」は言葉だけを交わす仲。
共寝までは許さない女への男の嘆きです。

「名高の浦」は和歌山県海南市の海岸
「紫」は名高の浦の枕詞で、高貴の色とされて名高い紫の意。

603年、聖徳太子は「氏」とよばれる諸豪族の血縁集団が、地位、職業に応じて
姓(かばね)という尊称を世襲的に与えられていたのを改め、個人の功績に応じて
冠位を付与すること、いわゆる「冠位十二階の制」を定めました。

位階の冠の色は紫、青、赤、黄、白、黒とし、紫が最上位。
また服装もそれに準じ、以降、紫はやんごとなき人の色となり
平安時代以降も続きます。

我国で高僧に紫袈裟が下賜されたのは735年(天平7)。
聖武天皇が興福寺に住していた玄昉(げんぼう)に与えたのが最初とされています。

紫法衣は1141年(永治元年)
鳥羽上皇から青蓮院行玄に。
宗教の世界にも紫の権威が持ち込まれたのです。

その後、後鳥羽上皇は、曹洞宗、道元に紫衣を下賜しようとしましたが、
再三にわたり辞退、遂に勅命となり已む無く拝受するも、生涯その紫衣を
着ることがなかったとか。
名誉、地位に執着しない宗教家としての矜持を示したものといえましょう。

天平の紫は染色の第一人者、吉岡幸雄氏によって古代紫や深紫色再現の
試みがなされていますが、綾1疋(布帛2反)を染めるのに、
紫草根18㎏、酢2升必要とされ、さらにその作業工程は極めて手間がかかり
しかも触媒剤の椿の灰汁の加減によって色が千変万化するそうです。

古人の工程を簡単に列記すると

紫草の根を地中から掘り出し切断。
石臼で細かく砕く。
70~80度の湯を注ぎ、手で色素を揉みだす。
出来た染料を、目の細かいふるいで漉し不純物を取り除く。
染料液に絹の布を浸して染める。
椿の生木を燃やした灰を灰汁にして媒染し色を固定した後、水洗い。

この工程を30分ずつ、交互に繰り返し、
4~5日続けると濃い紫になる。

なお、椿の灰汁(アルカリ性)を加えると青系の紫
酢(酸性)に浸すと赤系の紫になるそうです。

手間も大変ですが消費される紫根も膨大なものとなり、しかも高価。
とうとう、紫の衣は禁色となり王侯貴族しか着ることが出来ないものになりました。

現在、正倉院に聖武天皇の遺品「金光明最勝王経帙(ちつ)」。
( 帙(ちつ)とは写経した経典を10巻ほどまとめて束ねるように包むもの
 細竹を芯として、紫草の根で染められた絹糸で編む。)

奈良国立博物館に
「紫紙金字金光明最勝王経」( ししこんじ こんこうみょう さいしょうおうきょう)
( 紫根で染めた紫の和紙の上に金泥で文字が書かれたもの )

など豪華絢爛な国宝が展示されており、天平の華やかな紫を
偲ばせてくれております。

「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
      野守は見ずや 君が袖振る 」 
                            巻1-20  額田王

   標野:皇族、貴族の狩猟地で立入禁止区域、紫草の栽培もされていた。

   「 白き花 地中深き赤根より
            紫の妹  にほひ出づる 」    筆者


        万葉集その650(天平の紫) 完

   次回の更新は9月20日(火) いつもより早くなります。
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by uqrx74fd | 2017-09-14 17:46 | 植物

万葉集その六百四十九 (綿の花)

( 綿の花  奈良万葉植物園)
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(  同上 )
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( 綿の実   同上 )
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( 生花の綿 北鎌倉 去来庵  当店のビーフシチューは絶品です )
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万葉集その六百四十九 (綿の花)

綿は東インド、エジプトを原産地とするアオイ科の1年生草本で、草丈60㎝~1m。
茎は直立、まばらに枝分かれして、秋に浅黄色の5弁の美しい花を咲かせます。
花後、球形の果実を結び、やがて3つに割れて白い綿毛をもった種子を
宿しますが寒気に弱く、渡来当時は栽培に苦労したようです。

人々はこの綿毛を紡いで織物の材料や、布団、衣類の中入りなどに利用し、
実から絞った油を食用、石鹸の材料にしました。

「 しらぬい 筑紫の綿は 身に付けて
    いまだ着ねど 暖けく見ゆ 」  
                     巻3-336 沙彌満誓(さみ まんぜい)

( 筑紫産の綿はまだ肌身に着けてきたことはありませんが、
 いかにも暖かそうで見事なものです )

この歌は宴席でのもので皆が奈良の都への望郷の思いを詠っている時に
「筑紫も捨てたものではないですよ」と詠ったようです。
一説によると作者は筑紫の女性と懇ろになり、既に子も産ませていたので
「筑紫の綿」は女性の肌を暗示して、「まだ着たことがないと」白々しく
とぼけたところ、周知の皆はどっと笑ったという解釈もなされています。

古代の綿は殆ど絹から加工した真綿とされていますが九州は早くから
大陸文化がもたらされており朝鮮半島経由で到来した綿花が栽培されて
いたのではないかと思われ、それを裏付ける文献として、
「続日本紀」平城京、称徳天皇の769年の記述に
「 筑紫から毎年大量に綿花や綿織物が都に送られた」とあり、
又、千葉県で奈良時代の遺跡から立派な綿の種子が発見されていることによります。

「 山高み 白木綿花(しらゆふばな)に 落ちたぎつ
     滝の河内(かふち)のは 見れど飽かぬかも 」 
                            巻6-909  笠 金村

( 山が高いので、白く清い木綿花となってほとばしり落ちる滝、
 この滝の渦巻く河内は見ても見ても見飽きることがない。)

「 泊瀬女(はつせめ)の 作る木綿花(ゆふばな) み吉野の
        滝の水沫(みなわ)に 咲きにけらずや 」
                           巻6-912  笠 金村

( 泊瀬女が作る木綿花、あの神聖な花が、今、み吉野の滝の水沫となって
 咲いているではありませんか。)

上記2首は723年 元正天皇吉野行幸の折の賛歌の一部です。

『 白木綿花(しらきゆうばな)は綿の実が裂けて中から真っ白な綿毛が
  種子を包んでパッとはじけ出しているさま。
 「泊瀬女が造る」は「泊瀬女が耕作する」 (豊田八十代 万葉学者) 』

ことであり、当時九州以外の土地でも綿の栽培が行われていたことを
窺わせています。

「 伎倍人(きへひと)の まだら衾(ぶすま)に 綿さはだ
      入りなましもの  妹が小床(をどこ)に 」 
                          巻14-3354 作者未詳

(  伎倍人(きへひと)の まだら模様の布団に綿がたっぷり。
   そうだ、そうだ あの子の床の中にどっぷりともぐりこみたいものだ。)

伎倍人(きへひと) : 渡来した機織り職人 遠州(浜松)あたりに住んでいたらしい

まだら衾:    まだらに染めた掛布団

綿さはだ: 綿が沢山入っている

入りなましも: 入ることができたらいいのに

ここでの綿は絹の真綿か。

綿に関する公式文献は、
『 「日本後紀」桓武天皇平安京時代799年7月
  崑崙(こんろん)人( 南ベトナムからインドネシア)が三河国(愛知県)に
  漂着した折、綿の種子を所持していたので、時の政府が丁重に譲り受け、
  直ちに日本各地で試験的に栽培させた』
とされています。

従来、この記録をもって綿の到来は平安時代からとの説が多かったのですが、
政府がこのような敏速な対応が出来たのは、奈良時代に既に綿栽培の経験があり、
何らかの失敗で種子が失われていたこと、更に前述の「続日本紀」の記述、
並びに豊田八十代、西川康行氏らの万葉植物学者の熱心な研究により
奈良時代には綿が既に栽培されていたことが認められつつあります。

万葉時代、貴重品であった綿は次第に普及し

   「 広々と 続く平原 綿の花 」 高濱虚子

と詠われているように各地で栽培されていましたが、今はほとんど
見かけなくなってしまいました。

   「 朝露は 雨の兆しと 綿摘まず 」  斎木涛花



                  万葉集649 (綿の花)完

               次回の更新は9月15日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-09-07 16:30 | 植物