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カテゴリ:生活( 172 )

万葉集その七百四十八 (天の海 月の舟)

( 月齢6日目の月  万葉人は三日月を舟に見立てた )
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( 仲秋の名月 )
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( 月の船 上田勝也   奈良万葉文化館収蔵)
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(月の船 藤代清二  中国では織姫が牽牛のもとに通う )
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万葉集その七百四十八 (天の海月の舟)

8月7日は旧七夕。
そして翌8日は立秋。
空は澄み渡り、爽やかな風が吹きはじめる季節です。
万葉人は天の川を眺めながら牽牛、織姫に想いを馳せ、
自らの恋に情熱を燃やし、130余首の七夕歌を詠いました。

月を舟に見立てたものや舟漕ぐ壮士(おとこ)も登場します。
なぜ七夕に星ではなく、お月さまなのか?
というのが今回のお話です。

 「 秋風の 清き夕(ゆふへ)に 天の川
         舟漕ぎ渡る 月人壮士(つきひとをとこ) 」
                       巻10-2034 作者未詳

     ( 秋風が清々しく吹く今宵、
       月の若者が 天の川に舟を出して 漕ぎ渡っているよ )

この時期のお月さまは三日月。
作者は月を舟とみなし、「凛々しい若者が漕いでいる」と詠っています。

古代の人達は、太陽は女神(天照大神)、月は男神(月読命)と
信じていました。
この歌では、月の舟漕ぐ若々しい美男子を思い浮かべて
いるのでしょう。

満天の星の中を三日月の舟が渡ってゆく。
渡り終えれば、引き続き牽牛が織姫のもとへ渡る。
「さぁ、これから1年に1度の逢瀬が始まるぞ」と
わくわくしながら空を仰いでいる作者です。

  「 天の海に 月の舟浮け 桂楫(かつらかじ)
             懸(か)けて漕ぐ見ゆ   月人壮士(つきひとをとこ) 」
                              巻10-2223 作者未詳

       ( 天の海に 月の舟を浮かべ 月の若者が桂の楫(かじ)を
         取り付けて漕いでいる)

中国に次のような月桂樹伝説があります。

「 月に桂があり、ヒキガエルが棲んでいる。
  桂の高さは500丈(850m)あり、下に一人の男がいて、
  いつもこの木を切っているが、切り口はすぐふさがってしまう。
  その男は、仙術を学びながら過失のため罪をえて月に流され、
  永久に桂の木を切らされているのだ。」

万葉人はこの伝説を知っていたのでしょう。
月に桂の木が生えていると信じており、その木で楫を作り,
舟に取りつけた若者が、星きらめく天の川を渡って行くと詠っています。

「 夕星(ゆふづつ)も 通ふ天道(あまじ)を いつまでか
       仰ぎて待たむ  月人壮人(おとこ) 」 
                               巻10-2010 人麻呂歌集

     ( お月さん! 夕星はもうとっくに天道で光り輝いていますよ。
       織姫牽牛さんが渡る道をいつまで塞ぐつもり。
       気を利かせて早くその天道を渡ってあげなさいよ!
       二人の逢瀬を見たくて先ほどからじっと上を仰いでいるのに
       一体何時まで待たせるつもり? )

「夕星」とは夕方にひときわ明るく輝く金星、
「宵の明星」ともよばれています。
牽牛、織姫が渡る天道を月が邪魔をしてなかなか動かない。
「お-い 月の若者よ、野暮なことをせず、早く消えて二人を逢せてやれよ」
と詠う作者です。

「 春日にある 御笠の山に 月の舟出づ
          風流士(みやびを)の 飲む酒坏(さかづき)に 影にみえつつ 」
                  巻7-1295  作者未詳 旋頭歌(577 577)

( ここ春日の御笠山に 月の舟がでたよ。
      我々風流人同士がかわす盃に月影を映してな。)

御笠山の麓で賑やかな宴会。

山の間からまん丸い月が顔を出す。
「月が出た出た、月が出た」とはしゃぐ。
なみなみと酒が注がれた盃を見ると、
月が映り込んでいるではないか。

「おうおう、月も飲んじゃえ」と大騒ぎ。

この歌は七夕の三日月ではなく、満月がふさわしい。

次の歌は万葉七夕歌の最高傑作。
以前登場しましたが、別の角度からの解説をどうぞ。

 「 天(あめ)の海に 雲の波立ち 月の舟
       星の林に 漕ぎ隠る見ゆ 」  
                  巻 7-1068  柿本人麻呂歌集

広々とした大空の海、波のような雲。
その中を月の舟が滑るように渡ってゆき、
やがて燦然と輝く星の林に消えてゆく。
美しくも幻想的な情景。

純然たる天体の光景に想像力の翼を広げた叙景歌ですが、
万葉人はなんとファンタジックな想像をするのでしょうか。

以下は大岡信氏の解説です。

『 日本の古代詩歌で、夜の天空というものを、
 これほど大らかな把握の叙景歌として描写した作品は、
 他に見出しえません。

 「天地」の語は万葉に頻出するのですが、それはたいていの場合
 「天地の神」という語に代表されるような信仰心の表現とともにあるか、
 あるいは恋心の誓いや表白とともにあるかでしたから、
 人麻呂のこの歌のように魅力的な叙景歌が、驚くべき新鮮さとして
  受けとめられたことは十分想像できます.
  - - 少なくともこの歌は、奈良時代の歌人たちに、
 信仰心の介入を離れ、純然たる天体の光景に想像力の翼を
  広げることの面白さを教えたでしょう。
- - 大伴家持も、
 「こういう歌を生涯に1首でも作りたかったろうな」と
  やや脱線的な感想も浮かびます。 』
                    ( 私の万葉集  講談社現代新書より)

    「 きらめきて 銀河に流れ ある如し 」  高濱年尾



            万葉集748 (天の海 月の舟)完


        次回の更新は8月9日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-08-01 16:50 | 生活

万葉集その七百四十七 (茂吉と鰻)

( 7月27日は土用丑の日  鰻の日  野田岩 )
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( うな重  野田岩   )
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( 白焼  竹葉亭  )
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( 茂吉が戦前大量に備蓄していた浜名湖食品製 鰻の缶詰 : 現在も売られている)
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万葉集その七百四十七 (茂吉と鰻)

斎藤茂吉は近代日本を代表する歌人であると同時に、万葉集研究でも
大著、「柿本人麻呂」や、4500余の万葉歌から長歌を除く約420余首を選定し、
今もなお入門書となっている「万葉秀歌」、その他多くの歌論などを残し、
その業績は岩波書店の「斎藤茂吉全書全36巻」に纏められております。

特に晩年は人麻呂研究に注力し、人麻呂の終焉の地を探して
全国を歩き廻り、次のような歌も残しました。

  「 人麻呂が つひのいのちを をはりたる
           鴨山をしも ここと定めむ 」      斎藤茂吉 (寒雲)

   人麻呂終焉の地を島根県邑智郡(をうちぐん)邑智町
   大字湯抱(ゆがかい)字鴨山と断定した時の歌です。
       ( いまだ定説なく浜田市内、益田市、奈良県、など諸説あり。)

その精力的な活動の源は何だったのか?
日記によると鰻なのです。
鰻を食べると歌が次々詠め、なんと下痢まで止まったというのですから、
これは霊薬、下剤代わり。
切らすわけには参りません。

「里見真三著 賢者の食欲 文芸春秋社」によると
「 44歳から68歳までから食べた鰻、およそ1000余匹
つまり毎週1~2回、24年間食べ続けた」ことになります。

本人いわく、

「 これまでに 吾に食はれし 鰻らは
          仏となりて かがよふらむか 」 斎藤茂吉 (小園)

  ( 鰻を食べる時は大切に、感謝の気持ちをこめて食う。
   だから俺に食われた鰻たちもきっと成仏し光輝いていることだろう。)

     かがよふ:きらきら光る 万葉歌にある言葉

茂吉がそれほどまでに好んだ鰻ですが万葉集には2首、
それも大伴家持しか詠っておりません。

「 石麻呂(いしまろ)に 我れ物申す 夏痩せに
       よしといふものぞ 鰻(むなぎ)捕りめせ 」 
                    大伴家持 巻16-3853  

( 石麻呂さんよ どうしてあんたはこんなにガリガリに痩せているの?
  夏痩せには鰻がいいというから、鰻でも捕って食べなさいよ )

「 痩す痩すも  生(い)けらばあらむを はたやはた
        鰻を捕ると 川に流るな 」 
                        巻16-3854  大伴家持

 ( しかしなぁ、痩せているとはいっても、命あってのものだよねぇ。 
  鰻を捕りに行って川に流されてしまったら元も子もないもんなぁ。)

     「生けらば」:生きあらば 
             ( 痩せているとはいっても)
             生きておればそれはそれで結構だが
     「はたややた」:その反面

石麻呂は百済から渡来した医師、吉田連宜(よしだのむらじよろし)の息子で
生まれつき体がひどく痩せていたようです。
作者は父、旅人とともに二代にわたり親交があった仲なので遠慮なく
からかったのでしょう。

石麻呂の父は世間で「仁敬先生」と敬われた名医。
「名医の子なのにガリガリに痩せているのかい」という
「からかい」がこもる一首です。

当時は鰻を丸ごと火にあぶって切り、酒や醤(ひしお)で味付けしたものを
山椒や味噌などを付けて食べていたらしく、それほど美味いとは思われませんが、
家持さんも食べたのでしょうかね。

蒲焼の「蒲」は植物の「蒲(がま)」の穂先。
筒切りにして丸ごと焼いた頭が「蒲の穂先」に似ていることによる鎌倉時代の命名とか。
現在のように開いて、蒸したり焼いたりする、蒲焼となるのは江戸時代の
中期からとされており、
平賀源内が売れなくて困っていた鰻屋に「土用の丑に鰻を」という宣伝文句を教えた、
あるいは蜀山人が広告文を考え大いに広まったなど諸説あります。

 「 ゆうぐれし 机のまへに ひとり居(を)りて
            鰻を食ふは 楽しかりけり 」 
                     齊藤茂吉 (ともしび) 昭和2年

鰻を食べ始めたころの歌。
    一人しみじみと喜びをかみしめながら味わっている様子が
    目に浮かぶような一首ですが、驚くべきことに昭和3年、1年で
    68回、鰻を食べたそうです。

北杜夫(次男)氏によると、昭和18年、長男の茂太の婚約めでたく整い、
両家が築地の竹葉亭で会食をした際、婚約相手の女性が鰻を少し箸をつけて、
そのままにしておいたら、62歳の茂吉が「それ食べないならボクに頂戴」と云って
取り上げて食べてしまったとか、このような逸話には枚挙がありません。

昭和の大戦が近づいた頃のことです。
食糧難が到来することを予想した茂吉は浜松の会社から
鰻の缶詰を大量に買い込み、押し入れに備蓄しました。
そして少しづつ大事に大事に食べたのです。

次の歌は戦争末期、郷里の山形県に疎開した時のもの。

  「 最上川に 住みし鰻も 食はむとぞ
            われ かすかにも 生きてながらふ 」 茂吉 (短歌拾遺)

疎開先の町長から講演を依頼された茂吉は最初断った。
ところが町長もさるもの、「お願い出来れば夕食に鰻を用意しますが。」
とたんに「 何!鰻! そんならやるやる」と茂吉さんです。

そして終戦。

 「 あたたかき 鰻を食ひて かへりくる
          道玄坂に 月押し照れり 」  茂吉(渋谷 花菱へ)

    「けふ一日 ことを励みて こころよく
          鰻食はむと 銀座にぞ来し 」   茂吉(銀座 竹葉亭へ)

花菱、竹葉亭ともいまだ繁盛しております。

昭和23年 年老いた茂吉は次第に食欲が衰え、鰻が食べられなく
なってきました。

  「 ひと老いて 何のいのりぞ 鰻すら 
        あぶら濃過(こす)ぐと 言はむとぞする 」 茂吉 (つきかげ)

昭和24年

「 十余年たちし 鰻の缶詰を 
         をしみをしみて ここに残れる 」 茂吉 (つきかげ)
昭和25年

 「 戦中の 鰻のかんづめ 残れるが
           さびて居りけり 見つつ悲しき 」 茂吉 (つきかげ)

もう完全に食べられなくなっていたようです。

生涯の作歌17907首、そのうち鰻の歌32首は
意外と少ない気がいたします。

1951年(昭和26年)文化勲章、1952年(昭和27年)文化功労者。
文学界に巨大な足跡を残し1953年(昭和28年) 没。

享年70歳、鰻とともに生きた生涯でした。

 「 鰻焼く 備長炭の 極暑から 」  田村劉一郎



           万葉集747 (茂吉と鰻) 完


次回の更新は8月2日 (金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-07-25 20:27 | 生活

万葉集その七百四十五( 仁徳天皇は女好き)

( 仁徳天皇御陵  大阪府 )
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( 仁徳帝は難波天皇ともいわれた  難波宮跡で )  画面クリックで拡大出来ます
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( 磐之媛命陵 :磐姫   奈良市)
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( 同上付近案内図 )
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万葉集その七百四十五 (仁徳天皇は女好き)

令和元年7月6日、ユネスコの世界遺産委員会で
「百舌鳥(もず)、古市古墳群」(大阪府)の世界遺産登録が決定しました。

大阪府羽曳野、藤井寺両市にまたがる49基(4世紀後半~5世紀後半)が
遺産構成資産として認定され、古代のすぐれた土木技術や、権力を象徴する墳墓が
日本列島独自の文化を示すものとして世界に認められたのです。

7月7日(日)の読売新聞の記事(要約)によると
『 前方後円墳、前方部が小さい帆立貝形墳、方墳、円墳など。
 その中で、最大の規模を誇る仁徳天皇陵古墳(大山古墳:だいせんこふん)は
 全長486m、1985年の大林組の試算によると、周囲に壕(ほり)を掘り、
 盛り土をして墳墓を造る作業を全て人力で担うと、延べ680万7000人、
 完成まで15年8か月を要したと推定されている。

 この古墳の被葬者は仁徳天皇かどうか今の段階ではまだ確定されていないが
 強大な権力を持つ人物であったことには間違いない。』

さて、一躍スポットライトを浴びた「仁徳天皇」(313年~399年)。
古事記、日本書紀(以下記紀)によると、善政を敷いた聖帝とされています。

すなわち、
「 高殿に登って周囲を見渡すと、どの人家からも竈(かまど)を炊く煙が
  上がつていない。
  これは貧しさゆえからであろうと賢察し、3年間課税を止める詔を出し、
  自らも質素倹約に務め、宮殿の屋根や垣根も荒れ放題にした。」
あるいは、
「 収穫を増やすため大阪平野の開発をすすめ、治水灌漑のための
  大規模な土木工事を行ったなど云々。」

万葉集には仁徳帝(難波天皇ともいう))の歌は見えませんが、
二人の女性から贈られた歌が残されています。
聖帝は艶聞に満ちた、なかなかの色好みだったのです。

まずは皇后磐姫(いはのひめ)。
歴代の天皇に仕えた功臣、武内宿禰の孫にあたり、大和の豪族葛城氏の一族。
歴史上臣下から皇后になられた最初の方です。

次の歌は四首連作からなる歌群の冒頭。
万葉集最古にして、かつ名歌の誉れが高いものとされています。

 「 君が行(ゆ)き 日(け)長くなりぬ 山尋ね
      迎へか行かむ 待ちにか待たむ 」  
              巻2-85 磐姫皇后(いはのひめ おほきさき)

( あなたが家を出られてから随分日にちが経ちました。
  毎日毎日あなたのことを想い、胸が張り裂けんばかりです。
  いっそのこと険しい山を越えてお迎えにいきましょうか、
  それとも、このままじっと待ち続けましょうかと悩む日々です。 )

記紀によると磐姫は異常なくらい嫉妬深い女性だったようです。

曰く『 他の妻妃たちが天皇に対して親しげな物言いをすると
「足もあかがに」(地団太ふんで) 妬(ねた)んだ。
曰く『 吉備国から召された黒姫は磐姫の嫉妬に耐えかねて実家に逃げ帰った』云々。

そして、決定的な事件が起きたのです。

『 宮中で大宴会を催すことになり、皇后はそれに必要な柏の葉を採りに
 遥々(はるばる)紀州にまで出かけた。
 その留守中、天皇はかねてから執心の異母妹八田皇女(やたのひめみこ)を
 こっそり宮中に入れた。
 その事実を知った皇后は柏の葉を全部海に捨て、そのまま天皇のもとに帰らず
 山城の帰化人のところに身を寄せ、再三迎えに来た天皇に逢うことも拒絶し、
 そのまま夫を許すことなく五年後にその地で生涯を終えた 』

上記の歌は山城に引き籠った時に詠われたもので、再び逢うことはないと
決心したものの、やはり自分から迎えに行こうかどうかと揺れ動く切々たる女心です。
  
一夫多妻が公然と認められた時代ながら、潔癖感が強い皇后。
天皇の浮気に大いに悩みながらも、愛し続ける心情を余すところなく吐露しています。

一方、磐姫留守中、宮中に引き入れられた八田皇女(やたのひめみこ)も
負けずに詠う。


 「 一日(ひとひ)こそ 人も待ちよき 長き日(け)を
       かく待たゆれば 有りかつましじ 」 
           巻4-484 八田皇女(やたのひめみこ:応神天皇皇女)

( 1日くらいなら人を待つのもたやすいことでしょう。
  しかし日を重ねに重ねてこんなにも待たされたのでは
  とても生きてはいられない気持です。)

    人も待ちよき:人を待つことは容易ですの意
    有りかつましじ:生き続けることは出来ない。
                 「有り」「生き長らえる」 
                 「かつ」:可能 「ましじ」否定

民間出身の磐姫に対して、八田は皇女というプライド。
血筋が重んじられる古代において磐姫の味方は葛城氏の財力と武力、
そして自身の献身的な愛。
しかしながら「私が愛するのはあなただけ、だからあなたも私だけを愛して」と
迫られた仁徳さんは、息がつまりそうになったのか、皇女を離しません。

そして、磐姫が山城で亡くなった3か月後、八田妃は皇后に立てられました。
ともに「長き日を待つ」苦しみを詠ったライバル同士。
新皇后の得意げな顔が目に浮かぶようです。

しかしながら歌で勝ったのは磐姫、4首の連作は万葉不朽の名歌とされ、
多くの人々に愛唱されました。
( 柿本人麻呂作、山上憶良作者名改ざん説もあるが- -
  詳しくは:「320磐姫皇后の謎」御参照ください )

399年、仁徳天皇崩御、御陵は大阪府。
磐姫は奈良、平城京に近い佐紀に葬られています。
生前離れ離れになった二人は死後も再び一緒になることはありませんでした。

この物語には後日譚があります。
仁徳さんが、八田皇女を皇后に迎えた後またまた浮気の虫が
疼き出しました。
今度は八田皇后の妹「雌鳥(めとり)皇女」に心惹かれ口説いたところ、
見事に拒絶されました。(古事記)。
しかも妃となるよう使いに遣った異母弟、隼別皇子(はやぶさわけ おうじ)と
駆け落ちされるというおまけつきです。

女にかけては百戦練磨の天皇にとって痛いしっぺ返しでありました。

   「 雨晴れし 大仙陵は 鳥渡る 」 森本祐子

                 大仙陵:仁徳陵

ご参考 : 磐姫皇后の4連作

「 君が行(ゆ)き 日(け)長くなりぬ 山尋ね
         迎へか行かむ 待ちにか待たむ 」  
              巻2-85 磐姫皇后(いはのひめ おほきさき)

   「かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の  
            岩根しまきて 死なましものを 」  巻2-86 同上

( こんなに恋焦がれているのに、待ち続けて苦しむくらいなら、いっそのこと
      お迎えに出ていこうかしら。
     たとえ、道に迷って険しい山の岩を枕にして死んでしまっても構わないわ。)
  
  「 ありつつも 君をば待たむ うち靡く
          我が黒髪に 霜(しも)の置くまでに 」  巻2-87 同上

     ( でも、やはり、このままいつまでも、あの方をお待ちいたしましょう。
       長々と靡くこの黒髪が白髪に変るまでも  )

 「 秋の田の 穂の上に 霧(き)らふ朝霞(あさがすみ)
      いつへの方に 我(あ)が恋やまむ 」   巻2-88 同上

( 秋の田の稲穂の上に立ちこめる朝霧はまるで私のため息のよう。
  それにしても私の恋は一体いつになったらすっきりするのでしょう。
   秋の田の稲穂の上に立ち込めている朝霧だってやがては晴れるというのに。)


          (万葉集745 仁徳天皇は女好き)  完


          次回の更新は7月19日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-07-12 08:35 | 生活

万葉集その七百四十 (ぬばたまの夜)

( 檜扇:ひおうぎの花  奈良万葉植物園 )
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( 檜扇は朝咲き夕に萎む一日花  同 )
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( 万葉人はこの黒い実を、ぬばたま とよんだ )
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( 葉は儀礼用の扇に似ているので檜扇の名がある )
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   万葉集その七百四十 (ぬばたまの夜)

万葉集には不思議な言葉があり「ぬばたま」もその一つです。
語源は不詳とされていますが、烏玉(ぬばたま)と表記されているものもあり、
烏(カラス)のような黒い玉、すなわちアヤメ科多年草「檜扇:ひおうぎ」の
光沢ある黒い実のこととされ、万葉集で79首も詠われています。

しかしながら、美しい花や実を詠ったものは皆無。
すべて、夜(43首)、黒髪(16首) 、闇、夜床、黒馬、夜霧、夢、
夕べ、月、などに掛かる枕詞として使われているという珍しい存在、
しかも大半が恋歌なのです。

照明が乏しかった古代、油火など使えるのは一部の限られた上流階級のみ。
庶民は夜の帳が下りると早々と寝床につき夜明けとともに起き出して
仕事にかかるというのが日常の生活でした。
昼間の農作業や漁などは力仕事でしたから、年配者は床に就くなり爆睡。
そして、若い人たちは男女の関係を楽しんでいたとなると、閨(ねや)の歌が
多くなるのも当然でした。

「 ぬばたまの 妹が黒髪 今夜(こよひ)もか
      我がなき床に 靡けて)寝(ぬ)らむ 」 
                         巻11-2564 作者未詳

( つやつやとしたあの子の黒髪、その黒髪をあの子は今夜も
 私のいない床に長々と靡かせながら 寝ていることであろうか。)

当時、女性は長い髪を床の枕の上に藻のように靡かせながら寝るのを習いと
していたようです。
艶にして悩ましい恋人の寝姿を悶々としながら思い浮かべている一人寝の男。
官能的な雰囲気を漂わせている佳作です。

「 かくのみや 我が恋ひ居(を)らむ ぬばたまの
     夜の紐だに  解き放(さ)けずして 」 
                   巻17-3938 平群氏郎女(へぐりのうぢの いらつめ)


( このような辛い思いばかりして 私は焦がれ続けていなければ
 ならないのでしょうか。
 夜の寝巻の紐だけでも解き放って寝たいのに、それすらできないままに。)

越中在住の大伴家持に送った12首の中の1首。
作者の素性は不詳とされていますが、奈良県生駒山一帯に勢力を張り、
5世紀後半大臣を出した大豪族の末裔と推定され、家持が朝廷に仕えていた時に
知り合った女性のようです。

12首の歌は物語風に編まれており、親しい友としての戯れだったかもしれません。
それに対する家持の返歌はなし。
つれないですなぁ。

   かくのみや: 「かく」は奈良にいる作者と越中在住の家持が遠く離れている
            状態をさす。「離ればなれのままで」の意。

「 おほならば  誰(た)が見せむとかも ぬばたまの
       我が黒髪を 靡けて居(お)らむ 」 
                           巻11-2532 作者未詳

( あたなのことを、通り一編に思うなら、どこのどなたに見せようとして
 この黒髪を靡かせておりましょうか。)

「 好きなあなたに私の大切な黒髪を結んで欲しいのよ。
それなのに冷たい人、ちっともお見えにならないで。」

と拗ねている可愛い女です。

     おほならば: いい加減な気持ちならば

「 ぬばたまの 夜渡る月に あらませば
       家なる妹に 逢ひて来(こ)ましを 」 
                            巻15-3671 作者未詳

   ( 私が夜空を渡る月であったらなぁ。
     あの人のところへ行ってまたここに帰って来ることができるのに 。)

新羅へ派遣された使人が博多湾の入口糸島半島の先端、志賀島(しかのしま)あたりで
詠んだ一首。
旅先での月は故郷を偲ぶよすがでした。

新羅に使者が派遣されたのは646年から779年までの間に27回、
万葉集巻15に145首の歌が残ります。

  「 よわよわと 咲き始めたる 射千(ひおうぎ)の
         いろかなしきは  ただ一日のみ 」      斎藤茂吉
                              

「ぬばたま」は平安時代になると「ひおうぎ(檜扇)」とよばれるようになりました。
その広い剣状の葉が扁平に互生し、檜の薄板で作った儀礼用の扇(檜扇)の
ようにみえるところからその名があります。

7月から8月にかけて暗紅色の斑点がある美しい黄赤色の花を咲かせますが
朝咲き夕べに萎む1日花です。

  「 九月になれば 日の光やはらかし
        射干(ひおうぎ)の実も  青くふくれて 」 斉藤茂吉

晩秋に莢(さや)が弾け黒い球形の光沢ある実を付けます。

 檜扇は「射千(やかん)」とも書かれます。

漢方に由来する名で、乾燥させた根茎を喉や咳の薬として用いており、
万葉集に表記されている漢字の中に「夜千玉」「野千玉」(共にぬばたまと訓む)
があり薬草としても身近な存在であったようです。

「 夏草の 野に咲く花の 日扇を 
       狭庭(さにわ)に植つ 日々に見るかに 」    伊藤左千夫


             万葉集740(ぬばたまの夜)完



         次回の更新は6月14日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-06-07 08:10 | 生活

万葉集その七百三十五 (端午の節句)

( 青空に翻る鯉のぼり   古河 )
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( 鯉のぼりと桃の花 )
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( 菖蒲:しょうぶ と大きな筆先のような花  神代水生植物園 ) 
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( よもぎ餅つき  奈良三条通り 猿沢池の近く )
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万葉集その七百三十五 (端午の節句)
 
5月5日は「端午の節句」、別名「菖蒲(しょうぶ)の節句」ともいわれます。
では「端午」(たんご)とはどういう意味なのでしょうか?

「端」とは端緒という言葉があるように「はじめ」。
「午(ご)は午日」で「うまの日」。
つまり「端午」は「月の最初の牛(うま)日」のことで本来は5月5日に
限りませんでした。

しかしながら「午」(ご)と「五」は「重五」(55)という言葉があるように、
中国では漢時代から「端午の日」は「5月5日」に固定され、
この日に薬草を摘み、菖蒲や蘭(香草の一種)を入れた湯で沐浴し、
菖蒲酒を飲むなど、病気、厄災を祓う行事が行われていました。

我国にも早くからこの習慣が伝わり、推古天皇の611年5月5日に
菟田野(うだの:奈良県宇陀郡)で薬狩が行われたとの記録(日本書紀)が
あるように宮廷行事に採り入れられ、天武朝以降、定期的なものになります。

次の歌は「薬狩」後の宴での有名な一首です。

「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 
      野守は見ずや 君が袖振る 」 
                    巻1-20  額田王

       薬狩:薬草を摘んだり、鹿の若角(鹿茸:ろくじょう)を採る行事。
           標野:  天皇家の薬園や狩場等立ち入り禁止地区

   「 手折るもの 根ごと引くもの 薬がり」  椋(むく) 砂東

端午の節句に欠かせない菖蒲は「サトイモ科」の多年草。
    初夏に黄緑色の筆先のような花を咲かせますが、
    花菖蒲(はなしょうぶ:あやめ)とは全く別種の植物です。

    香りが高いので邪気を払い、病疫を除くと言い伝えられ、
    軒に葺き、頭に挿ざし、菖蒲湯をたて、浴後は菖蒲酒で一献となります。

    古代「あやめぐさ」とよばれた菖蒲は万葉集で12首詠われていますが
    ホトトギスや花橘と共に登場しています。

「 春過ぎて 夏来向かえば 
  あしひきの 山呼び響(とよ)め
  さ夜中に 鳴くほととぎす

  初声を 聞けば なつかし あやめぐさ
  花橘を 貫き交え かづらくまでに 里響(とよ)め
  鳴き渡れども なほし 偲(しの)はゆ 」 

                        巻19-4180  大伴家持
( 春が過ぎて 夏がやってくると
      あしひきの 山を響かせて 真夜中に鳴くほととぎす
      その初声を聞くと やたらに心が浮かれる

      ほととぎすは、菖蒲や花橘を混ぜて糸に通し
      鬘(かづら)にして遊ぶ五月まで
      里中を響かせて鳴き渡るけれど
      それでも飽きることなく 心が浮き浮きします。)

  越中在住の作者が歌の友 越前判官 大伴池主に送った長歌で
  ほととぎすにことよせて旧懐の念を詠ったもの。

          「あしひきの」: 山の枕詞 山の足(裾野)を長く引く あるいは
                           足を引きずりながら登る
                           の意で山に掛かるとされる説もあるが未詳
          「なほし」: なほ:ますます 
                  し:強調

           「花橘を 貫き交え かづらく」:
                               その日は 端午の節句、5月5日。
                               菖蒲、花橘を糸に通し髪飾り(鬘:かづら)にの意。
 
 「 長命縷(ちょうめいる) かけてながるる 月日かな 」   清原枴童(かいどう)


  「菖蒲と橘の花」あるいは「菖蒲と蓬:よもぎ」を束ねて
  5色の糸に垂らした厄除けのお守りを長命縷(ちょうめいる)といいます。

  また、麝香(じゃこう)や沈香、丁子などを玉に入れて造花で飾り、
  五色の糸に通して作る「続命縷(しょくめいる)」という高級なものも
  上流階級では作られていました。

  最後に「節句」の意味です。
  「節句」の「節」は「節目」(ふしめ)、神が訪れる大切な日。
  「句」は「供」で奉げる供物。

  つまり節句とは元々「神が訪れる大切な節目の日」に「奉げる供物」の
  ことでした。

  薬狩りの時期は「田植え月」とも重なります。
  人々は田畑を荒らす獣の代表である鹿を狩り、五穀豊穣を祈るため
  精進潔斎して供物を供え,田の神様をお待ちする。
  そして、その日は働きずめの女性をねぎらうための安息日でもありました。

  その田植神事と薬狩り、さらに中国伝来の菖蒲を屋根にかけ、粽を食べ、
  蓬人形を作るというしきたりが合体し民間に浸透してゆきます。

  さらに、朝廷では元正太上天皇が「菖蒲の蔓をつけて」不浄を祓い、
  健康を祈るよう詔され、五穀豊穣を祈る田舞いや、走り馬(天皇に献じられた馬を走らせる)、 
  騎射(うまゆみ:馬上から弓矢を射る)が盛んに行われます。

  鎌倉時代になると、菖蒲が尚武に通じるという縁起のため武士の間でも
  流鏑馬(やぶさめ)、菖蒲打ちなど男子中心の勇ましい行事が盛況。
  菖蒲打ちとは菖蒲の葉を編んで棒状にして互いに地面を叩き、
  早く切れた方が負けという子供の遊びです。

  室町時代には兜人形が作られ、江戸時代は男子の健康と出世を祈って
  鯉幟を立てる。

  このようにして古くから積み重ねられてきた風習が継承され
  現在に至っているのです。

 端午の節句の日、奈良の春日大社で「菖蒲祭り」が行われます。
 神前に粽(ちまき)を供え、菖蒲と蓬の小束を献じ、祭祀が行われたあと
 境内にある菖蒲と蓬の小束を残らず社殿の屋根に放り上げ邪気を払う
 という珍しい行事。
 各地の個人の家でもこのような風習が今なお多く見られます。

 5月5日は「子どもの日」。
 昭和23年7月20日発布された祝日法によると
 「 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、
   母に感謝する日」 
  とあります。

 「母に感謝する日」は古代5月5日が女性の安息日だった事にも
  由来するのでしょうか。

  なお、5月の第2日曜は母の日とされていますが、これはアメリカから
  持ち込まれた習慣で法的根拠は全くないものです。


「 いらかの波と 雲の波
   重なる波の 中空を
   たちばな かおる 朝風に
   高く泳ぐや 鯉のぼり

  百瀬の滝を 登りなば
   たちまち龍に なりぬべき
   わが身に似よや 男子(をのこご)と
   空におどるや 鯉のぼり 」

                 「鯉のぼり」 (作者作曲不詳 )


   万葉集735 (端午の節句)完


   次回の更新は5月10日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-05-01 16:01 | 生活

万葉集その七百三十四 (奉祝)

( 天平祭  平城京跡 奈良 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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万葉集その七百三十四 (奉祝)

平成時代も残すところわずか、新しい御代が始まろうとしています。

万葉集には皇位が長く継承されていることを寿ぐ歌が随処に見られますが、
次の歌は孝謙天皇の時代、大伴家持が新年の宴に備えて準備したもので、
歌での「わが大君」は天武以来受け継がれてきた歴代の天皇を象徴しており、
皇統が末永く続くように祈念し、群臣共々声を上げて祝う様子が詠われています。

私たちもこの歌のように、声高らかにお祝いさせて戴きましょう。

まずは訳文から: 括弧内は枕詞:個別解釈ご参照

「 山のあちこちの峰に生い茂る
  栂の木の名のように つぎからつぎへと

  栄え立つ松の根の 絶えることが無いように
  
(あおによし) ここ奈良の都で 

いついつまでも 安らかに国を治めようと
(やすみしし)  わが大君が 
神のみ心のままに  おぼしめされて

豊の宴(あかり)をなさる今日この日は
もろもろの官人(つかさひと)たちが
御苑(みその)の築山に 赤く輝く橘 その橘を髪飾りに挿し
衣の紐を解いてくつろぎ 

千年万歳を寿いで一斉に祝いの声をあげ  
笑みこぼれてお仕え申し上げているさまを見ると 
まことにただ貴く嬉しい極みでございます。  」 

            巻19-4266 大伴家持

 
次は訓み下し文です。

「 あしひきの 八つ峰(を)の上の 
     栂(つが)の木の いや継ぎ継ぎに 
     松が根の  絶ゆることなく 

     あおによし  奈良の都に 
     万代(よろづよ)に   国知らさむと 
     やすみしし  我が大君の 

     神(かむ)ながら   思ほしめして 
     豊の宴(あかり)   見す今日の日は
 
     もののふの 八十伴の男(やそとものを)の
     島山に 赤る橘  うずに挿し

     紐解き 放(さ)けて  千年(ちとせ)寿(ほ)き
     寿き響(とよ)もし  ゑらゑらに

     仕へまつるを 見るが貴(たふと)さ 」  

                           巻19-4266 大伴家持
  

一行づつ訓み解いてまいりましょう。

 「 あしひきの 八つ峰(を)の上の 」


      あちらこちらの峰の上の

           あしひきの:峰、山の枕詞 
                 掛かり方、語義未詳とされるも
                 山の足(裾野を長く引く)、あるいは
                 足を引きずりなが登る(足引きの) など諸説あり。
 
      八つ峰: あちらこちらの峰
 

「 栂(つが)の木のいや継ぎ継ぎに 」

       つがという名前のように継ぎ継ぎと

           栂の木 :同音の「継ぎ継ぎ」を導く 

「 松が根の  絶ゆることなく 」

       松の根が絶えることがないように
   
「 あおによし  奈良の都に 」
     
        奈良の都で

          あおによし:奈良の枕詞 青丹は彩色に用いる青土

「 万代(よろづよ)に   国知らさむと 」

        万代まで 国を治めようと

「やすみしし  我が大君の」
        
        国の隅々まで 安らかにと我が大君が

          やすみしし:「大君」の枕詞 八隅しし:国の隅々まで


 
「神(かむ)ながら   思ほしめして 」

        神意のままにと  おぼされて

「豊の宴(あかり)   見す今日の日は 」

       豊の宴(あかり)を お催しになる今日は
       
              豊:豊かに盛んなる宴。
              宴(あかり)は御神酒によって顔が赤くなること
              現在、皇居の豊明殿にその名が残る


「もののふの 八十伴の男(やそとものを)の 」

      文武百官が勢ぞろいして
     
            もののふ(大夫):八十にかかる枕詞 
                      大夫はもと氏族のこと。
                      氏が多かったので八十に掛かる
            八十(やそ):  多くの

「 島山に 赤る橘  うずに挿し 」

       庭園に美しく実った橘を冠の翳(かざし)に挿して

            うずに挿し:髪飾りとして花や実を髪に挿して

「紐解き 放(さ)けて  千年(ちとせ)寿(ほ)き」

        着物の結び紐を解き放ってくつろぎ 千年万歳を寿ぎ

「寿き響(とよ)もし  ゑらゑらに 」

      祝福の声が響きわたり

            ゑらゑらに: 大声で楽しむさま 笑みこぼれて

「仕へまつるを 見るが貴(たふと)さ 」  
                                   巻19-4266 大伴家持
        お仕え申し上げているさまを 見るにつけても
        ただただ、貴いことです。


「天皇(すめろき)の  御代万代(みよよろづよ)に
     かくしこそ  見し明らめめ 立つ年のはに 」
                19-4267 大伴家持


( 天皇の御代万代(みよ よろずよ) そのままに いつまでも
  このように豊の宴を催して、お心をお晴らしになられますよう。
  新しく立つ年毎に。)

明治、大正、昭和の前半は戦争の時代。
いまだにその傷が完全に癒えたとは言えません。
しかしながら、平成はその名のごとく一度も戦いがなく、
平和のまま「令和」にバトンタッチされようとしています。

来る新時代が希望と繁栄に満ちた良き御代でありますように。

  「 吉日の つづいて嬉し 初暦 」  村上鬼城


         万葉集734 (奉祝)完

     次回の更新は5月3日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-04-25 11:06 | 生活

万葉集その七百三十一 (令和)

(橿原神宮 神武天皇を祀る  奈良 )
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( 同上  巫女の神祀り )
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(伊勢神宮  天照大神を祀る )
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( 京都御所  紫宸殿 )
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(  同上 )
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( 高御座 :たかみくら 即位の礼で用いられる  平城京跡大極殿 奈良 )
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万葉集その七百三十一 (令和)

2019年4月1日 新元号「令和」が公表されました。
出典は万葉集巻5 梅花の歌32首の序文。
漢籍ではなく我国の古典文学に拠る初めての快挙です。
この序は次の文から始まります。

「 天平2年(730年)の正月の13日に 帥老(そちろう:大宰府長官大伴旅人)が宅(いへ)に
  集まりて宴会(うたげ)を申(の)ぶ。

  時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぐ。

  梅は鏡前(きょうぜん)の紛(ふん)を披(ひら)く、
  蘭は珮後(はいご)の香を薫(くゆ)らす。― ― 以下略 )

 ( 天平2年正月13日、大宰府長官(帥老)大伴旅人の邸宅に集まって
   宴会をくりひろげた。

   おりしも、初春の佳き月で、気は清く澄みわたり
   風はやわらかにそよいでいる。

   梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いており、
   蘭は貴人の香り袋のように匂っている。)

この一節「時に初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぐ。」の
中の文字「令和」から採られた新元号。

「令」は「清らかで美しい」、あるいは神のお告げ、さらに「令室」「令息」など
相手の人の「妻、兄弟姉妹」を尊ぶ言葉としても用いられています。

また、「和」は「平和」「調和」さらに大和(日本国)を表わす素晴らしい組み合わせです。

この序文は作者名が明記されていませんが歌会の主催者大伴旅人とする説が有力。
天皇を尊敬してやまぬ旅人さんも感激、感涙の極みでありましょう。

「日本暦日原典」(内田正男著)によると天平2年1月13日は陽暦の2月4日、
つまり、この日は立春であったそうです。

旅人は、この春立つ日を期して宴を開きましたが、主客合わせて総勢32名、
一人一首づつ詠み合うという、後の歌合せや俳諧連歌の先駆をなす我国文藝史上
画期的な歌会とされ、さらに都で流行の漢詩に対し「やまと言葉」で
詠われたことも特筆されます。

なお、序文に「蘭:らん」という漢語が出ていますが わが国では「らに」とよばれ、
現在の「春蘭:シュンラン」。奈良時代に蘭が存在していることを裏付ける
貴重な資料でもあります。

それでは32首のうちの3首を。

「 正月(むつき)立ち 春の来(きた)らば かくしこそ
      梅を招(を)きつつ 楽しき終(を)へめ 」
                巻5-815 紀卿(きのまへつきみ)

( 正月になり春がやってきたなら、毎年このように梅の花を迎えて
  楽しみのかぎりを尽くそうではないか )

冒頭の挨拶歌で立春をふまえてのもの。

「我が園に 梅の花散る ひさかたの
       天(あめ)より 雪の流れ来るかも 」  
                    巻5-822 大伴旅人

( 我らの園に梅の花がしきりに散る。
     これは遥かな天から雪が流れてくるのであろうか )

当時、雪は瑞祥、五穀豊穣のしるしとされていました。
幻想の世界を文学にした名歌です。

「万代(よろづよ)に 年は来経(きふ)とも  梅の花
      絶ゆることなく 咲きわたるべし  」 
                  巻5-830 佐氏子 首(さじのこ おびと)

( 万代ののちまで 春の往来(ゆきき)があろうとも
     この園の梅の花は絶えることなく咲き続けることであろう。)

新元号は天皇陛下の退位に伴い5月1日午前0時から切り替わり、
平成は1989年1月8日からの30年4か月で幕を閉じます。

来る年も「清らかで美しく、人々が暖かく心を寄せ合う国」でありますよう。

「 一つ松 幾代か経(へ)ぬる 吹く風の
      音の清きは 年深みかも 」 
                       巻6-1042 市原王 

( 一本松よ おまえは幾代もの長い歳月を経てきたのだろうなぁ。
      風が爽やかに吹き、こんなにも清らかな音を響かせているのは
      お前が逞しく生き抜いてきたことを寿いでいるようだ。)


      万葉集731(令和) 完



  次回の更新は4月12日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-04-01 19:38 | 生活

万葉集その七百二十九 (若返り)

( 養老の滝  岐阜県 )
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( 養老渓谷  千葉県 )
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( 薬井戸のご神水  狭井神社:三輪山登山口があり大神神社の摂社 奈良)
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( お水取りはお松明とも。元々は修行僧を先導するためのものだった。 奈良二月堂
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万葉集その七百二十九(若返り)

年を経ると共に老いを感じる日々。
目じりにしわが目立ち、皮膚はたるみ運動神経は衰え、呆けはじめる。
「あぁ!若返りたい」と思うのは今も昔も同じ。
万葉人は「若返り」のことを「変若(をつ)」と云っていました。

そして満ちては欠け、欠けては満つる月を見てその命が永遠のものであり、
そこには若返りの水、すなわち変若水(をちみず)が存在すると信じていたのです。
然しながら、月は余りにも遠くそれを得ることは不可能。
そこで、身近に手に入れることができる場所を各地に求め、
その結果「養老の滝」や「お水取り」など数々の聖水伝説が生まれました。

「 我妹子(わぎもこ)は 常世の国に 住みけらし
      昔見しより 若変(をち)ましにけり 」
                                巻4-650 大伴三依(みより)

( あなたは不老不死の理想郷である仙人の世界に住んでおられたのでしょうね。
  昔お目にかかった時よりずっと若返られましたよ )

大宰府勤務の作者が都に転任となり、旧知の大伴坂上郎女に
挨拶に出かけた時の歌。
天平を代表する美女、郎女も大げさな褒め言葉とは感じながら,
悪い気はしなかったことでしょう。
今でも「いつもお若いですね」と挨拶されると嬉しいことです。

次の歌は宴席での掛け合い。
ある男が心憎からず思っている娘子を口説いたところ、娘は

「 我がたもと まかむと思はむ ますらをは
       をち水求め 白髪(しらか)生ひにたり 」 
                         巻4-627 娘子(をとめ)

〈  私の腕(かいな)を枕に寝たいと思っておられる丈夫(ますらお)さま。
   若返りの水でもお探しにいかれたらいかが?
   御髪(おみぐし)が白くなっておりますよ 。〉

すかさず男が応える。


「 白髪生ふる ことは思わず をち水は
      かにもかくにも 求めて行(ゆ)かむ 」 
                       巻4-628 佐伯赤麻呂

〈 丈夫(ますらお)たるもの、白髪が生えていることなど何とも思っていませんが
  折角のお奨めですから、若返りの水を探しに行ってまいりましょう。
  でも、首尾よく見付けたら、そのときはあなたの腕(腕)を枕にして
  寝てもよいでしょうなぁ。〉

「をとめ」という言葉は「をつ(変若)」と「女(め)」からなる語で
「をつめ」が訛ったものとされています。
また、「をとめ」の漢字表記は「未通女」が多く、未婚のうら若い処女をいう
そうですが、万葉人もなかなか乙なことをやりますなぁ。

「 朝露の 消やすき我(あ)が身 老いぬとも
        またをちかへり 君をし待たむ 」 
                      巻11-2689 作者未詳

( 朝露のように 今にも消え入りそうな我が身。
そんな私の命ですが、どんなに老いさらばえようとも
また若返ってあなたをお待ちいたしましょう。)

男が急に心変わりして別れたいと云い出した。
いくら引きとめても良い返事がない。
ついに諦め、別れ際に泣く泣く詠う健気な女性です。

「 いにしへゆ 人の言ひける 老人(おいひと)の
        若変(をつ)といふ水ぞ  名に負ふ瀧の瀬 」  
                         巻6-1034 大伴東人(あづまひと)

( これが遠い昔から「老いた人を若返えらせる」と言い伝えられている聖水ですぞ。
 さすがに名にそむかぬ清々しい滝の瀬であることよ!)

740年、聖武天皇が美濃の国(現岐阜県)に行幸された時、お供した作者が
この地に伝わる美泉と養老の滝にまつわる故事を踏まえて詠ったものです。

その昔、この地に住む木こりが山奥で酒の匂いがする水を見つけた。
早速、家に持ち帰って老いた父親に飲ませたところ、
なんと! 白かった頭髪が黒くなり、顔つやも若々しくなった。
その話を聞いた元正天皇は、早速当地を訪れて水を浴びたところ、伝説通り
肌が滑らかになり、痛むところも直ったので大いに喜ばれ、勅を発して
元号を「養老」と改めたそうな。(717年)

若水を汲むのは元々立春の行事でした。
平安時代、霊水を管理する主水司(いもとりのつかさ)が前もって封じておいた
井戸から水を汲んで天皇の朝餉(あさげ)に奉っていましたが、次第に朝儀が廃れ、
元旦に汲む習慣に変わって民間に浸透していったようです。

「若水」という言葉には、邪気を払うと同時に、不老長寿への期待も
込められているのでしょう。

奈良のお水取りも3月14日に終わり、いよいよ春到来です。

「 如月(きさらぎ)を 奈良いにしへの 御ほとけに
          浄(きよ)き閼伽井(あかい)を  汲む夜にぞあふ 」 中村憲吉

           閼伽井:聖なる井戸に湧く聖水
ご参考

「 お水取り 」について

「 お水取りは東大寺二月堂で行われる仏教行事で、正式には修二会(しゅにえ)といい、
  目的は、仏の前で罪過を懺悔すること(悔過:けか)。
  心身を清めた僧11人(練行衆:れんぎょうしゅう)が十一面観音の前で宝号を唱え、
  荒行によって懺悔し、あわせて天下安穏などを祈願する。

  天平勝宝4年(752)に始まり今年(2019)で1268回、天災や戦火に見舞われたにも
  かかわらず1度も中断されたことがないので、「不退の行法」とよばれる。

  現在3月1日から14日間にわたっておこなわれ、
  3月13日の午前2時を期して、二月堂のほとりの良弁杉の下にある
  閼伽井屋(あかいや)のお香水を汲み取り、本堂に運ぶ儀式が行われる。

  この夜、井戸の中には遠く若狭の国から地下水道を抜けて送られた聖水が
  湛えられていると信じられており、この水を1年間の仏事に供するため
  壺に汲み取っておくのである。

  籠りの僧が大松明を振りかざしつつ石段を駆けのぼり、二月堂の回廊に
  これを打ち据える行は壮観で、庇(ひさし)を焦がさんばかりの炎から堂下の
  群衆に火の粉が舞い散り、浴びると無病息災で過ごせると信じられている。

  なお、若狭国から聖水が送られる由来は、昔、遠敷(おこう)という
  若狭の神様が魚を採っていて、二月堂の参集に遅れたお詫びとして、
  二月堂のほとりに清水を湧き出させ、観音様に奉ったとの言い伝えによる。 

  お水取りが済むと、奈良の春が本格的に到来すると云われている。 」

    「 飛ぶ如き 走りの行も お水取 」  粟津松彩子


           万葉集729(若返り) 完


        次回の更新は3月29日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-03-21 17:46 | 生活

万葉集その七百二十七 (家持栄転)

( 大伴家持  万葉列車 JR奈良駅にて )
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( ダンディな大伴家持をイメージして描かれた  大山忠作  奈良県立万葉文化館収蔵 )
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(絵本: はじめての越中万葉 高岡市が子供の万葉普及のために企画
     文:高岡市万葉歴史館  絵:佐作美保  岩崎書店刊 )  画面クリック拡大できます
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( 藤代清二  群竹の風の音 家持  )
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万葉集その七百二十七 (家持栄転)

751年越中国司、大伴家持は少納言に昇進し都に転勤することになりました。
待ちに待った帰京、飛び上らんばかりの嬉しさ。
しかも、少納言といえば政権中枢に位置する要職です。
早速、離任入京の準備に取り掛かりますが、心残りは公私ともに
親しくしていた友、久米広縄が公用で都に赴いており不在だったことです。

彼に別れの挨拶をしないまま赴任せざるを得なり、やむなく留守宅に
手紙と歌2首を届けることにしました。

手紙に曰く
「 すでに6年の任期が満ち、はやくも転任の巡り合わせに
  遭うことになりました。
  ここに旧知に別れる悲しみは心の中に重くふさがり、
  涙を拭うこの袖は乾かすすべもありません。
  そこで悲しみの歌を2首作って、忘れはしないという我が胸の内を
  書き残しておきます。
  その歌は次の通りです。 」

「 あらたまの 年の緒長く 相見てし
    その心引き 忘れえめやも 」 
                            巻19-4248 大伴家持

( 長い年月の間 親しくお付き合い戴いた、そのお心寄せは
  忘れようにも忘れられません。)

「石瀬野(いはせの)に 秋萩しのぎ 馬並(な)めて
                 初鳥猟(はつとがり)だに せずや別れむ 」 
                             巻19-4249 大伴家持

    (石瀬野で 秋萩を踏みしだき、馬を勢揃いして、せめて初鳥猟だけでもと
     思っていたのに それすら出来ずにお別れしなければならないのか。
     まことに残念でなりません。)

         鳥猟(とがり): その年初めて行われる鷹狩
         石瀬野:富山県射水郡 (現、高岡市庄川石瀬一帯)

歌を託し、気持ちの整理が終わった出立の前日、越中官人による送別の宴が
伊美吉綱麻呂(いみき つなまろ)邸で催されます。

 「 しなざかる 越に五年(いつとせ) 住み住みて
     立ち別れまく 惜しき宵かも 」 
                      巻19-4250 大伴家持

( 都を離れて山野層々たる越の国に、5年もの間住み続けて
 今宵かぎりお別れしなければならないと思うと、
 実に名残惜しいことです。)

どういうわけか他の官人の歌が残されていませんが、思い出深い国に
惜別の情が深く滲み出ている1首です。

     しなざかる: 家持の造語で越の枕詞。 山野層々深くして美しく佳き国の意

翌日早朝の4時出立、彼を慕っていた官人たちが射水郡のはずれまで
見送り、林の中で宴の用意をしてくれました。

当時、親しい人が旅するとき、国境まで同行しそこで道中の無事を祈って
酒杯を交わすのが習い。

家持は謝辞を述べます。

 「 玉鉾の(たまほこの) 道に出で立ち 行く我は
       君が事跡(ことと)を 負ひてし行かむ 」 
                         巻19-4251 大伴家持

      ( たまほこのこの道に出で立ち、いよいよ旅行く私は
        あなたがたの数々の功績を、しつかりと背負ってまいりましょう。)

     玉鉾:道の枕詞 「玉」は「霊魂」
         「鉾」は三叉路や集落の入口に立てた鉾状の石の魔除け。
         道祖神や庚申塚などと関連するといわれる。

そして足取りも軽く、越前に向かます。
越前には家持の歌友、大伴池主が国司として赴任しています。
かっては越中で共に働き、頻繁に歌のやり取りをしていた親しき友です。

ところが、なんという僥倖。
都にいるとばかり思い、留守宅に手紙を託してきた久米広縄が
滞在しているではないか。
通信手段が飛脚便しかない時代、お互いに連絡が取れないままの偶然の出会い。
家持、広縄の驚きと喜びは如何ばかりだったことでしょう。

「 君が家に 植ゑたる萩の 初花を
    折りてかざさな  旅別るどち 」 
                   巻19-4252 久米広縄

    ( あなたの家の庭で育てている萩が季節に先駆けて咲きました。
      その初々しい花を手折って、挿頭(かざし)にしましょう。
      ここで散り散りになる旅人われらは 。)

ここでの君は大伴池主。
館の主人の風流、丹精に賛辞を呈し、三人共に喜び合う気持ちが
生き生きと詠われています。

 「 立ちて居て 待てど待ちかね 出でて来(こ)し
      君にここに逢ひ かざしつる萩 」 
                  巻19-4253 大伴家持

( 立ったり座ったりして、待っても待っても待ちきれずに旅立ってきました。
      そのあなたにここで逢い、ともにかざしている萩の花よ。)

三人の絆の固さを確かめ、友情よ永遠なれと声高らかに詠っている
姿が想像される一首。
三人心おきなく歓飲し、翌朝家持は都へ、広縄は越中へと旅立って
行ったのです。

  「 冬ぬくく 友愛を わが心の灯 」 飯田蛇笏



         万葉集727 (家持栄転)完

           次回の更新は3月17日(日)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-03-07 17:01 | 生活

万葉集その七百二十六 (あぁ、転勤!)

( 梅花粧  鎌倉秀雄 奈良万葉文化館所収 )
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( 木簡に記録する官人 奈良万葉文化館 )
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( 西への道、生駒山は今でも石ころが多く険しい)
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( 生駒山 奈良から )
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  万葉集その七百二十六 (あぁ、転勤!)

672年の壬申の乱後、都が近江から奈良に遷(うつ)り律令制度が確立された結果、
朝廷の権威が急速に高まり、その支配圏は東北から九州,対馬へと、
北海道を除く全国一円に及びました。
都に勤務する役人は約1万人。
さらに、中央から各地に国司や役人が派遣され、地方採用したものも含め
現地勤務はその数約6000人に膨らんだと云われています。

大宰府や東北に防衛基地を設けて守りを固め、急ある時、中央との連絡を
迅速にする為、各地に駅馬を置き、狼煙(のろし)台などの通信網も整えるなど
人手はいくらあっても足りません。
貴族の官僚はのんびりと優雅な生活を送っていましたが、
ペイペイはいつの時代でも同じ、大忙しです。

次の物語は、駅馬を管理するために地方に派遣された役人、それも
新婚ホヤホヤなのに遠国勤務(摂津か)を命じられた若者の宮仕えの嘆きです。

「 昔、一人の男がいた。
  結婚式を挙げてから、いくばくも日が経っていないのに
  思いがけず駅馬(はやうま)を管理する役目(駅使)を命じられ、遠い国に
  派遣されることになった。
  宮仕えには ままならぬ規定があり、単身赴任で勤務期間およそ3年。
  可愛い妻とはいつ逢えるかも分からないまま出立した。

  残された妻は嘆き悲しみ、とうとう病に臥す身になってしまったが
  男は知る由もなかった。
  それから、数年を経た後、男はやっと帰還が叶い、お上への
  報告を無事に終えた後、すぐさま妻の許にやってきて
  顔を見たところ、あの美しかった顔は、げっそり痩せ、
  他人かと見間違えそうになっていた。
  男は悲しみ極まって涙を流し、歌を作って口ずさんだ。」

「 かくのみに ありけるものを 猪名川(ゐながわ)の
    奥を深めて 我(あ)が思へりける 」 
                           巻16-3804 作者未詳

   ( こんなにもやつれ果てて臥せっていなものを、私はこれと知らず
    猪名川の深い水底のように、心の底深く若く美しいそなたのことを
   思い続けていたのだった。あぁ!)

        「かくのみに」: 死別、変心など予想もしない事が起きたことを
                  知った時の失意を表す慣用句。
            ここではやつれ果てた妻の姿をさす。

        「猪名川」:  摂津(伊丹市)あたりを流れる川

        「奥を深めて」: 心の奥へ奥へと深めて思う心

  妻は、床に臥せりながら、夫の歌を耳にし、枕から頭を上げ、
  直ちに応じた。

「 ぬばたまの 黒髪濡れて 淡雪の
      降るにや来ます ここだ恋ふれば 」 
                       巻16-3805 作者未詳

      ( 黒髪も、しとどに濡れて、粉雪が降りしきる中をお帰り下さったのですか。
        私がこんなにもお慕いしていたので。)

 その日は雪が降る日であったようですが、夫の白髪を寓しています。

 さて、この歌は1首目の「かくのみに」 2首目の「淡雪」の意味を
  深く吟味すると味わいが がらりと変わります。

  まず1首目。 
  夫は新婚早々の美しい妻の顔を想像しながら一目散に家に着いた。
  ガラッと戸を開けて見ると、そこには似ても似つかぬ妻の姿。
  一瞬、がっかりしたという気持ちが生まれたのでしょう。
  その表現が「かくのみに」なのです。

  そして、気を取り直し、
 「あぁ、心労をかけて申し訳なかった。
  一瞬でもそのような気持ちを持ったのはすまなかった」
  と素直に反省した。

  その空気を察した妻は、自由にならない体を無理に動かし、
  居ずまいを正して枕から頭を上げ

 「 おかえりなさいませ。 長のお勤めご苦労様でした。
   あなた様も苦労なさったのですね。こんなにも白髪が増えて。」

   と応じたのです。

  伊藤博氏は次のような解説をされています。

  「 妻の歌に裏の意味を読み取ることが許されるならば、
   それはうれしさのあまり拗ねてみせた女の甘えである。
   やつれ果てた姿の妻であっても、妻の媚態を美しく表出したわけである。
   ことさら「枕より頭を上げて」一定の姿勢を作って応じたのであり、
   重病でありながら,寝ながら天井を仰いで応じたのではないのである。
   人々は遠く離れていかに変わり果てようと、夫婦はかくあらねばならぬと
   いうことを思いつつ、この話を伝えていったのではなかろうか。」
                                        (万葉集釋注8)

  「かくのみに」の言葉の裏にある、妻の姿に一瞬落胆した気持ち
  「淡雪」に見える夫に対する妻のいたわり

  2首に込められた男女の心理。
  歌の世界はなかなか奥深い。
  それにしても古の名も定かではない下級官人夫妻が
  このような歌のやり取りをしていたとは驚くべき教養の高さです。

  「 夢路には 足もやすめず 通(かよ)へども
          現(うつつ)に一目 見しごとはあらず 」
                          小野小町   古今和歌集

   ( 夢の中の通い路では、足を休めることなく、あなたの許に通って行きますが、
    現実にあなたを一目見た嬉しさほどではありません。 )

                 万葉集726 (あぁ、転勤)完


               次回の更新は3月8日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-03-01 00:00 | 生活