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カテゴリ:生活( 168 )

万葉集その七百三十五 (端午の節句)

( 青空に翻る鯉のぼり   古河 )
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( 鯉のぼりと桃の花 )
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( 菖蒲:しょうぶ と大きな筆先のような花  神代水生植物園 ) 
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( よもぎ餅つき  奈良三条通り 猿沢池の近く )
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万葉集その七百三十五 (端午の節句)
 
5月5日は「端午の節句」、別名「菖蒲(しょうぶ)の節句」ともいわれます。
では「端午」(たんご)とはどういう意味なのでしょうか?

「端」とは端緒という言葉があるように「はじめ」。
「午(ご)は午日」で「うまの日」。
つまり「端午」は「月の最初の牛(うま)日」のことで本来は5月5日に
限りませんでした。

しかしながら「午」(ご)と「五」は「重五」(55)という言葉があるように、
中国では漢時代から「端午の日」は「5月5日」に固定され、
この日に薬草を摘み、菖蒲や蘭(香草の一種)を入れた湯で沐浴し、
菖蒲酒を飲むなど、病気、厄災を祓う行事が行われていました。

我国にも早くからこの習慣が伝わり、推古天皇の611年5月5日に
菟田野(うだの:奈良県宇陀郡)で薬狩が行われたとの記録(日本書紀)が
あるように宮廷行事に採り入れられ、天武朝以降、定期的なものになります。

次の歌は「薬狩」後の宴での有名な一首です。

「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 
      野守は見ずや 君が袖振る 」 
                    巻1-20  額田王

       薬狩:薬草を摘んだり、鹿の若角(鹿茸:ろくじょう)を採る行事。
           標野:  天皇家の薬園や狩場等立ち入り禁止地区

   「 手折るもの 根ごと引くもの 薬がり」  椋(むく) 砂東

端午の節句に欠かせない菖蒲は「サトイモ科」の多年草。
    初夏に黄緑色の筆先のような花を咲かせますが、
    花菖蒲(はなしょうぶ:あやめ)とは全く別種の植物です。

    香りが高いので邪気を払い、病疫を除くと言い伝えられ、
    軒に葺き、頭に挿ざし、菖蒲湯をたて、浴後は菖蒲酒で一献となります。

    古代「あやめぐさ」とよばれた菖蒲は万葉集で12首詠われていますが
    ホトトギスや花橘と共に登場しています。

「 春過ぎて 夏来向かえば 
  あしひきの 山呼び響(とよ)め
  さ夜中に 鳴くほととぎす

  初声を 聞けば なつかし あやめぐさ
  花橘を 貫き交え かづらくまでに 里響(とよ)め
  鳴き渡れども なほし 偲(しの)はゆ 」 

                        巻19-4180  大伴家持
( 春が過ぎて 夏がやってくると
      あしひきの 山を響かせて 真夜中に鳴くほととぎす
      その初声を聞くと やたらに心が浮かれる

      ほととぎすは、菖蒲や花橘を混ぜて糸に通し
      鬘(かづら)にして遊ぶ五月まで
      里中を響かせて鳴き渡るけれど
      それでも飽きることなく 心が浮き浮きします。)

  越中在住の作者が歌の友 越前判官 大伴池主に送った長歌で
  ほととぎすにことよせて旧懐の念を詠ったもの。

          「あしひきの」: 山の枕詞 山の足(裾野)を長く引く あるいは
                           足を引きずりながら登る
                           の意で山に掛かるとされる説もあるが未詳
          「なほし」: なほ:ますます 
                  し:強調

           「花橘を 貫き交え かづらく」:
                               その日は 端午の節句、5月5日。
                               菖蒲、花橘を糸に通し髪飾り(鬘:かづら)にの意。
 
 「 長命縷(ちょうめいる) かけてながるる 月日かな 」   清原枴童(かいどう)


  「菖蒲と橘の花」あるいは「菖蒲と蓬:よもぎ」を束ねて
  5色の糸に垂らした厄除けのお守りを長命縷(ちょうめいる)といいます。

  また、麝香(じゃこう)や沈香、丁子などを玉に入れて造花で飾り、
  五色の糸に通して作る「続命縷(しょくめいる)」という高級なものも
  上流階級では作られていました。

  最後に「節句」の意味です。
  「節句」の「節」は「節目」(ふしめ)、神が訪れる大切な日。
  「句」は「供」で奉げる供物。

  つまり節句とは元々「神が訪れる大切な節目の日」に「奉げる供物」の
  ことでした。

  薬狩りの時期は「田植え月」とも重なります。
  人々は田畑を荒らす獣の代表である鹿を狩り、五穀豊穣を祈るため
  精進潔斎して供物を供え,田の神様をお待ちする。
  そして、その日は働きずめの女性をねぎらうための安息日でもありました。

  その田植神事と薬狩り、さらに中国伝来の菖蒲を屋根にかけ、粽を食べ、
  蓬人形を作るというしきたりが合体し民間に浸透してゆきます。

  さらに、朝廷では元正太上天皇が「菖蒲の蔓をつけて」不浄を祓い、
  健康を祈るよう詔され、五穀豊穣を祈る田舞いや、走り馬(天皇に献じられた馬を走らせる)、 
  騎射(うまゆみ:馬上から弓矢を射る)が盛んに行われます。

  鎌倉時代になると、菖蒲が尚武に通じるという縁起のため武士の間でも
  流鏑馬(やぶさめ)、菖蒲打ちなど男子中心の勇ましい行事が盛況。
  菖蒲打ちとは菖蒲の葉を編んで棒状にして互いに地面を叩き、
  早く切れた方が負けという子供の遊びです。

  室町時代には兜人形が作られ、江戸時代は男子の健康と出世を祈って
  鯉幟を立てる。

  このようにして古くから積み重ねられてきた風習が継承され
  現在に至っているのです。

 端午の節句の日、奈良の春日大社で「菖蒲祭り」が行われます。
 神前に粽(ちまき)を供え、菖蒲と蓬の小束を献じ、祭祀が行われたあと
 境内にある菖蒲と蓬の小束を残らず社殿の屋根に放り上げ邪気を払う
 という珍しい行事。
 各地の個人の家でもこのような風習が今なお多く見られます。

 5月5日は「子どもの日」。
 昭和23年7月20日発布された祝日法によると
 「 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、
   母に感謝する日」 
  とあります。

 「母に感謝する日」は古代5月5日が女性の安息日だった事にも
  由来するのでしょうか。

  なお、5月の第2日曜は母の日とされていますが、これはアメリカから
  持ち込まれた習慣で法的根拠は全くないものです。


「 いらかの波と 雲の波
   重なる波の 中空を
   たちばな かおる 朝風に
   高く泳ぐや 鯉のぼり

  百瀬の滝を 登りなば
   たちまち龍に なりぬべき
   わが身に似よや 男子(をのこご)と
   空におどるや 鯉のぼり 」

                 「鯉のぼり」 (作者作曲不詳 )


   万葉集735 (端午の節句)完


   次回の更新は5月10日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-05-01 16:01 | 生活

万葉集その七百三十四 (奉祝)

( 天平祭  平城京跡 奈良 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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万葉集その七百三十四 (奉祝)

平成時代も残すところわずか、新しい御代が始まろうとしています。

万葉集には皇位が長く継承されていることを寿ぐ歌が随処に見られますが、
次の歌は孝謙天皇の時代、大伴家持が新年の宴に備えて準備したもので、
歌での「わが大君」は天武以来受け継がれてきた歴代の天皇を象徴しており、
皇統が末永く続くように祈念し、群臣共々声を上げて祝う様子が詠われています。

私たちもこの歌のように、声高らかにお祝いさせて戴きましょう。

まずは訳文から: 括弧内は枕詞:個別解釈ご参照

「 山のあちこちの峰に生い茂る
  栂の木の名のように つぎからつぎへと

  栄え立つ松の根の 絶えることが無いように
  
(あおによし) ここ奈良の都で 

いついつまでも 安らかに国を治めようと
(やすみしし)  わが大君が 
神のみ心のままに  おぼしめされて

豊の宴(あかり)をなさる今日この日は
もろもろの官人(つかさひと)たちが
御苑(みその)の築山に 赤く輝く橘 その橘を髪飾りに挿し
衣の紐を解いてくつろぎ 

千年万歳を寿いで一斉に祝いの声をあげ  
笑みこぼれてお仕え申し上げているさまを見ると 
まことにただ貴く嬉しい極みでございます。  」 

            巻19-4266 大伴家持

 
次は訓み下し文です。

「 あしひきの 八つ峰(を)の上の 
     栂(つが)の木の いや継ぎ継ぎに 
     松が根の  絶ゆることなく 

     あおによし  奈良の都に 
     万代(よろづよ)に   国知らさむと 
     やすみしし  我が大君の 

     神(かむ)ながら   思ほしめして 
     豊の宴(あかり)   見す今日の日は
 
     もののふの 八十伴の男(やそとものを)の
     島山に 赤る橘  うずに挿し

     紐解き 放(さ)けて  千年(ちとせ)寿(ほ)き
     寿き響(とよ)もし  ゑらゑらに

     仕へまつるを 見るが貴(たふと)さ 」  

                           巻19-4266 大伴家持
  

一行づつ訓み解いてまいりましょう。

 「 あしひきの 八つ峰(を)の上の 」


      あちらこちらの峰の上の

           あしひきの:峰、山の枕詞 
                 掛かり方、語義未詳とされるも
                 山の足(裾野を長く引く)、あるいは
                 足を引きずりなが登る(足引きの) など諸説あり。
 
      八つ峰: あちらこちらの峰
 

「 栂(つが)の木のいや継ぎ継ぎに 」

       つがという名前のように継ぎ継ぎと

           栂の木 :同音の「継ぎ継ぎ」を導く 

「 松が根の  絶ゆることなく 」

       松の根が絶えることがないように
   
「 あおによし  奈良の都に 」
     
        奈良の都で

          あおによし:奈良の枕詞 青丹は彩色に用いる青土

「 万代(よろづよ)に   国知らさむと 」

        万代まで 国を治めようと

「やすみしし  我が大君の」
        
        国の隅々まで 安らかにと我が大君が

          やすみしし:「大君」の枕詞 八隅しし:国の隅々まで


 
「神(かむ)ながら   思ほしめして 」

        神意のままにと  おぼされて

「豊の宴(あかり)   見す今日の日は 」

       豊の宴(あかり)を お催しになる今日は
       
              豊:豊かに盛んなる宴。
              宴(あかり)は御神酒によって顔が赤くなること
              現在、皇居の豊明殿にその名が残る


「もののふの 八十伴の男(やそとものを)の 」

      文武百官が勢ぞろいして
     
            もののふ(大夫):八十にかかる枕詞 
                      大夫はもと氏族のこと。
                      氏が多かったので八十に掛かる
            八十(やそ):  多くの

「 島山に 赤る橘  うずに挿し 」

       庭園に美しく実った橘を冠の翳(かざし)に挿して

            うずに挿し:髪飾りとして花や実を髪に挿して

「紐解き 放(さ)けて  千年(ちとせ)寿(ほ)き」

        着物の結び紐を解き放ってくつろぎ 千年万歳を寿ぎ

「寿き響(とよ)もし  ゑらゑらに 」

      祝福の声が響きわたり

            ゑらゑらに: 大声で楽しむさま 笑みこぼれて

「仕へまつるを 見るが貴(たふと)さ 」  
                                   巻19-4266 大伴家持
        お仕え申し上げているさまを 見るにつけても
        ただただ、貴いことです。


「天皇(すめろき)の  御代万代(みよよろづよ)に
     かくしこそ  見し明らめめ 立つ年のはに 」
                19-4267 大伴家持


( 天皇の御代万代(みよ よろずよ) そのままに いつまでも
  このように豊の宴を催して、お心をお晴らしになられますよう。
  新しく立つ年毎に。)

明治、大正、昭和の前半は戦争の時代。
いまだにその傷が完全に癒えたとは言えません。
しかしながら、平成はその名のごとく一度も戦いがなく、
平和のまま「令和」にバトンタッチされようとしています。

来る新時代が希望と繁栄に満ちた良き御代でありますように。

  「 吉日の つづいて嬉し 初暦 」  村上鬼城


         万葉集734 (奉祝)完

     次回の更新は5月3日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-04-25 11:06 | 生活

万葉集その七百三十一 (令和)

(橿原神宮 神武天皇を祀る  奈良 )
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( 同上  巫女の神祀り )
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(伊勢神宮  天照大神を祀る )
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( 京都御所  紫宸殿 )
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(  同上 )
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( 高御座 :たかみくら 即位の礼で用いられる  平城京跡大極殿 奈良 )
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万葉集その七百三十一 (令和)

2019年4月1日 新元号「令和」が公表されました。
出典は万葉集巻5 梅花の歌32首の序文。
漢籍ではなく我国の古典文学に拠る初めての快挙です。
この序は次の文から始まります。

「 天平2年(730年)の正月の13日に 帥老(そちろう:大宰府長官大伴旅人)が宅(いへ)に
  集まりて宴会(うたげ)を申(の)ぶ。

  時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぐ。

  梅は鏡前(きょうぜん)の紛(ふん)を披(ひら)く、
  蘭は珮後(はいご)の香を薫(くゆ)らす。― ― 以下略 )

 ( 天平2年正月13日、大宰府長官(帥老)大伴旅人の邸宅に集まって
   宴会をくりひろげた。

   おりしも、初春の佳き月で、気は清く澄みわたり
   風はやわらかにそよいでいる。

   梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いており、
   蘭は貴人の香り袋のように匂っている。)

この一節「時に初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぐ。」の
中の文字「令和」から採られた新元号。

「令」は「清らかで美しい」、あるいは神のお告げ、さらに「令室」「令息」など
相手の人の「妻、兄弟姉妹」を尊ぶ言葉としても用いられています。

また、「和」は「平和」「調和」さらに大和(日本国)を表わす素晴らしい組み合わせです。

この序文は作者名が明記されていませんが歌会の主催者大伴旅人とする説が有力。
天皇を尊敬してやまぬ旅人さんも感激、感涙の極みでありましょう。

「日本暦日原典」(内田正男著)によると天平2年1月13日は陽暦の2月4日、
つまり、この日は立春であったそうです。

旅人は、この春立つ日を期して宴を開きましたが、主客合わせて総勢32名、
一人一首づつ詠み合うという、後の歌合せや俳諧連歌の先駆をなす我国文藝史上
画期的な歌会とされ、さらに都で流行の漢詩に対し「やまと言葉」で
詠われたことも特筆されます。

なお、序文に「蘭:らん」という漢語が出ていますが わが国では「らに」とよばれ、
現在の「春蘭:シュンラン」。奈良時代に蘭が存在していることを裏付ける
貴重な資料でもあります。

それでは32首のうちの3首を。

「 正月(むつき)立ち 春の来(きた)らば かくしこそ
      梅を招(を)きつつ 楽しき終(を)へめ 」
                巻5-815 紀卿(きのまへつきみ)

( 正月になり春がやってきたなら、毎年このように梅の花を迎えて
  楽しみのかぎりを尽くそうではないか )

冒頭の挨拶歌で立春をふまえてのもの。

「我が園に 梅の花散る ひさかたの
       天(あめ)より 雪の流れ来るかも 」  
                    巻5-822 大伴旅人

( 我らの園に梅の花がしきりに散る。
     これは遥かな天から雪が流れてくるのであろうか )

当時、雪は瑞祥、五穀豊穣のしるしとされていました。
幻想の世界を文学にした名歌です。

「万代(よろづよ)に 年は来経(きふ)とも  梅の花
      絶ゆることなく 咲きわたるべし  」 
                  巻5-830 佐氏子 首(さじのこ おびと)

( 万代ののちまで 春の往来(ゆきき)があろうとも
     この園の梅の花は絶えることなく咲き続けることであろう。)

新元号は天皇陛下の退位に伴い5月1日午前0時から切り替わり、
平成は1989年1月8日からの30年4か月で幕を閉じます。

来る年も「清らかで美しく、人々が暖かく心を寄せ合う国」でありますよう。

「 一つ松 幾代か経(へ)ぬる 吹く風の
      音の清きは 年深みかも 」 
                       巻6-1042 市原王 

( 一本松よ おまえは幾代もの長い歳月を経てきたのだろうなぁ。
      風が爽やかに吹き、こんなにも清らかな音を響かせているのは
      お前が逞しく生き抜いてきたことを寿いでいるようだ。)


      万葉集731(令和) 完



  次回の更新は4月12日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-04-01 19:38 | 生活

万葉集その七百二十九 (若返り)

( 養老の滝  岐阜県 )
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( 養老渓谷  千葉県 )
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( 薬井戸のご神水  狭井神社:三輪山登山口があり大神神社の摂社 奈良)
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( お水取りはお松明とも。元々は修行僧を先導するためのものだった。 奈良二月堂
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万葉集その七百二十九(若返り)

年を経ると共に老いを感じる日々。
目じりにしわが目立ち、皮膚はたるみ運動神経は衰え、呆けはじめる。
「あぁ!若返りたい」と思うのは今も昔も同じ。
万葉人は「若返り」のことを「変若(をつ)」と云っていました。

そして満ちては欠け、欠けては満つる月を見てその命が永遠のものであり、
そこには若返りの水、すなわち変若水(をちみず)が存在すると信じていたのです。
然しながら、月は余りにも遠くそれを得ることは不可能。
そこで、身近に手に入れることができる場所を各地に求め、
その結果「養老の滝」や「お水取り」など数々の聖水伝説が生まれました。

「 我妹子(わぎもこ)は 常世の国に 住みけらし
      昔見しより 若変(をち)ましにけり 」
                                巻4-650 大伴三依(みより)

( あなたは不老不死の理想郷である仙人の世界に住んでおられたのでしょうね。
  昔お目にかかった時よりずっと若返られましたよ )

大宰府勤務の作者が都に転任となり、旧知の大伴坂上郎女に
挨拶に出かけた時の歌。
天平を代表する美女、郎女も大げさな褒め言葉とは感じながら,
悪い気はしなかったことでしょう。
今でも「いつもお若いですね」と挨拶されると嬉しいことです。

次の歌は宴席での掛け合い。
ある男が心憎からず思っている娘子を口説いたところ、娘は

「 我がたもと まかむと思はむ ますらをは
       をち水求め 白髪(しらか)生ひにたり 」 
                         巻4-627 娘子(をとめ)

〈  私の腕(かいな)を枕に寝たいと思っておられる丈夫(ますらお)さま。
   若返りの水でもお探しにいかれたらいかが?
   御髪(おみぐし)が白くなっておりますよ 。〉

すかさず男が応える。


「 白髪生ふる ことは思わず をち水は
      かにもかくにも 求めて行(ゆ)かむ 」 
                       巻4-628 佐伯赤麻呂

〈 丈夫(ますらお)たるもの、白髪が生えていることなど何とも思っていませんが
  折角のお奨めですから、若返りの水を探しに行ってまいりましょう。
  でも、首尾よく見付けたら、そのときはあなたの腕(腕)を枕にして
  寝てもよいでしょうなぁ。〉

「をとめ」という言葉は「をつ(変若)」と「女(め)」からなる語で
「をつめ」が訛ったものとされています。
また、「をとめ」の漢字表記は「未通女」が多く、未婚のうら若い処女をいう
そうですが、万葉人もなかなか乙なことをやりますなぁ。

「 朝露の 消やすき我(あ)が身 老いぬとも
        またをちかへり 君をし待たむ 」 
                      巻11-2689 作者未詳

( 朝露のように 今にも消え入りそうな我が身。
そんな私の命ですが、どんなに老いさらばえようとも
また若返ってあなたをお待ちいたしましょう。)

男が急に心変わりして別れたいと云い出した。
いくら引きとめても良い返事がない。
ついに諦め、別れ際に泣く泣く詠う健気な女性です。

「 いにしへゆ 人の言ひける 老人(おいひと)の
        若変(をつ)といふ水ぞ  名に負ふ瀧の瀬 」  
                         巻6-1034 大伴東人(あづまひと)

( これが遠い昔から「老いた人を若返えらせる」と言い伝えられている聖水ですぞ。
 さすがに名にそむかぬ清々しい滝の瀬であることよ!)

740年、聖武天皇が美濃の国(現岐阜県)に行幸された時、お供した作者が
この地に伝わる美泉と養老の滝にまつわる故事を踏まえて詠ったものです。

その昔、この地に住む木こりが山奥で酒の匂いがする水を見つけた。
早速、家に持ち帰って老いた父親に飲ませたところ、
なんと! 白かった頭髪が黒くなり、顔つやも若々しくなった。
その話を聞いた元正天皇は、早速当地を訪れて水を浴びたところ、伝説通り
肌が滑らかになり、痛むところも直ったので大いに喜ばれ、勅を発して
元号を「養老」と改めたそうな。(717年)

若水を汲むのは元々立春の行事でした。
平安時代、霊水を管理する主水司(いもとりのつかさ)が前もって封じておいた
井戸から水を汲んで天皇の朝餉(あさげ)に奉っていましたが、次第に朝儀が廃れ、
元旦に汲む習慣に変わって民間に浸透していったようです。

「若水」という言葉には、邪気を払うと同時に、不老長寿への期待も
込められているのでしょう。

奈良のお水取りも3月14日に終わり、いよいよ春到来です。

「 如月(きさらぎ)を 奈良いにしへの 御ほとけに
          浄(きよ)き閼伽井(あかい)を  汲む夜にぞあふ 」 中村憲吉

           閼伽井:聖なる井戸に湧く聖水
ご参考

「 お水取り 」について

「 お水取りは東大寺二月堂で行われる仏教行事で、正式には修二会(しゅにえ)といい、
  目的は、仏の前で罪過を懺悔すること(悔過:けか)。
  心身を清めた僧11人(練行衆:れんぎょうしゅう)が十一面観音の前で宝号を唱え、
  荒行によって懺悔し、あわせて天下安穏などを祈願する。

  天平勝宝4年(752)に始まり今年(2019)で1268回、天災や戦火に見舞われたにも
  かかわらず1度も中断されたことがないので、「不退の行法」とよばれる。

  現在3月1日から14日間にわたっておこなわれ、
  3月13日の午前2時を期して、二月堂のほとりの良弁杉の下にある
  閼伽井屋(あかいや)のお香水を汲み取り、本堂に運ぶ儀式が行われる。

  この夜、井戸の中には遠く若狭の国から地下水道を抜けて送られた聖水が
  湛えられていると信じられており、この水を1年間の仏事に供するため
  壺に汲み取っておくのである。

  籠りの僧が大松明を振りかざしつつ石段を駆けのぼり、二月堂の回廊に
  これを打ち据える行は壮観で、庇(ひさし)を焦がさんばかりの炎から堂下の
  群衆に火の粉が舞い散り、浴びると無病息災で過ごせると信じられている。

  なお、若狭国から聖水が送られる由来は、昔、遠敷(おこう)という
  若狭の神様が魚を採っていて、二月堂の参集に遅れたお詫びとして、
  二月堂のほとりに清水を湧き出させ、観音様に奉ったとの言い伝えによる。 

  お水取りが済むと、奈良の春が本格的に到来すると云われている。 」

    「 飛ぶ如き 走りの行も お水取 」  粟津松彩子


           万葉集729(若返り) 完


        次回の更新は3月29日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-03-21 17:46 | 生活

万葉集その七百二十七 (家持栄転)

( 大伴家持  万葉列車 JR奈良駅にて )
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( ダンディな大伴家持をイメージして描かれた  大山忠作  奈良県立万葉文化館収蔵 )
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(絵本: はじめての越中万葉 高岡市が子供の万葉普及のために企画
     文:高岡市万葉歴史館  絵:佐作美保  岩崎書店刊 )  画面クリック拡大できます
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( 藤代清二  群竹の風の音 家持  )
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万葉集その七百二十七 (家持栄転)

751年越中国司、大伴家持は少納言に昇進し都に転勤することになりました。
待ちに待った帰京、飛び上らんばかりの嬉しさ。
しかも、少納言といえば政権中枢に位置する要職です。
早速、離任入京の準備に取り掛かりますが、心残りは公私ともに
親しくしていた友、久米広縄が公用で都に赴いており不在だったことです。

彼に別れの挨拶をしないまま赴任せざるを得なり、やむなく留守宅に
手紙と歌2首を届けることにしました。

手紙に曰く
「 すでに6年の任期が満ち、はやくも転任の巡り合わせに
  遭うことになりました。
  ここに旧知に別れる悲しみは心の中に重くふさがり、
  涙を拭うこの袖は乾かすすべもありません。
  そこで悲しみの歌を2首作って、忘れはしないという我が胸の内を
  書き残しておきます。
  その歌は次の通りです。 」

「 あらたまの 年の緒長く 相見てし
    その心引き 忘れえめやも 」 
                            巻19-4248 大伴家持

( 長い年月の間 親しくお付き合い戴いた、そのお心寄せは
  忘れようにも忘れられません。)

「石瀬野(いはせの)に 秋萩しのぎ 馬並(な)めて
                 初鳥猟(はつとがり)だに せずや別れむ 」 
                             巻19-4249 大伴家持

    (石瀬野で 秋萩を踏みしだき、馬を勢揃いして、せめて初鳥猟だけでもと
     思っていたのに それすら出来ずにお別れしなければならないのか。
     まことに残念でなりません。)

         鳥猟(とがり): その年初めて行われる鷹狩
         石瀬野:富山県射水郡 (現、高岡市庄川石瀬一帯)

歌を託し、気持ちの整理が終わった出立の前日、越中官人による送別の宴が
伊美吉綱麻呂(いみき つなまろ)邸で催されます。

 「 しなざかる 越に五年(いつとせ) 住み住みて
     立ち別れまく 惜しき宵かも 」 
                      巻19-4250 大伴家持

( 都を離れて山野層々たる越の国に、5年もの間住み続けて
 今宵かぎりお別れしなければならないと思うと、
 実に名残惜しいことです。)

どういうわけか他の官人の歌が残されていませんが、思い出深い国に
惜別の情が深く滲み出ている1首です。

     しなざかる: 家持の造語で越の枕詞。 山野層々深くして美しく佳き国の意

翌日早朝の4時出立、彼を慕っていた官人たちが射水郡のはずれまで
見送り、林の中で宴の用意をしてくれました。

当時、親しい人が旅するとき、国境まで同行しそこで道中の無事を祈って
酒杯を交わすのが習い。

家持は謝辞を述べます。

 「 玉鉾の(たまほこの) 道に出で立ち 行く我は
       君が事跡(ことと)を 負ひてし行かむ 」 
                         巻19-4251 大伴家持

      ( たまほこのこの道に出で立ち、いよいよ旅行く私は
        あなたがたの数々の功績を、しつかりと背負ってまいりましょう。)

     玉鉾:道の枕詞 「玉」は「霊魂」
         「鉾」は三叉路や集落の入口に立てた鉾状の石の魔除け。
         道祖神や庚申塚などと関連するといわれる。

そして足取りも軽く、越前に向かます。
越前には家持の歌友、大伴池主が国司として赴任しています。
かっては越中で共に働き、頻繁に歌のやり取りをしていた親しき友です。

ところが、なんという僥倖。
都にいるとばかり思い、留守宅に手紙を託してきた久米広縄が
滞在しているではないか。
通信手段が飛脚便しかない時代、お互いに連絡が取れないままの偶然の出会い。
家持、広縄の驚きと喜びは如何ばかりだったことでしょう。

「 君が家に 植ゑたる萩の 初花を
    折りてかざさな  旅別るどち 」 
                   巻19-4252 久米広縄

    ( あなたの家の庭で育てている萩が季節に先駆けて咲きました。
      その初々しい花を手折って、挿頭(かざし)にしましょう。
      ここで散り散りになる旅人われらは 。)

ここでの君は大伴池主。
館の主人の風流、丹精に賛辞を呈し、三人共に喜び合う気持ちが
生き生きと詠われています。

 「 立ちて居て 待てど待ちかね 出でて来(こ)し
      君にここに逢ひ かざしつる萩 」 
                  巻19-4253 大伴家持

( 立ったり座ったりして、待っても待っても待ちきれずに旅立ってきました。
      そのあなたにここで逢い、ともにかざしている萩の花よ。)

三人の絆の固さを確かめ、友情よ永遠なれと声高らかに詠っている
姿が想像される一首。
三人心おきなく歓飲し、翌朝家持は都へ、広縄は越中へと旅立って
行ったのです。

  「 冬ぬくく 友愛を わが心の灯 」 飯田蛇笏



         万葉集727 (家持栄転)完

           次回の更新は3月17日(日)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-03-07 17:01 | 生活

万葉集その七百二十六 (あぁ、転勤!)

( 梅花粧  鎌倉秀雄 奈良万葉文化館所収 )
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( 木簡に記録する官人 奈良万葉文化館 )
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( 西への道、生駒山は今でも石ころが多く険しい)
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( 生駒山 奈良から )
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  万葉集その七百二十六 (あぁ、転勤!)

672年の壬申の乱後、都が近江から奈良に遷(うつ)り律令制度が確立された結果、
朝廷の権威が急速に高まり、その支配圏は東北から九州,対馬へと、
北海道を除く全国一円に及びました。
都に勤務する役人は約1万人。
さらに、中央から各地に国司や役人が派遣され、地方採用したものも含め
現地勤務はその数約6000人に膨らんだと云われています。

大宰府や東北に防衛基地を設けて守りを固め、急ある時、中央との連絡を
迅速にする為、各地に駅馬を置き、狼煙(のろし)台などの通信網も整えるなど
人手はいくらあっても足りません。
貴族の官僚はのんびりと優雅な生活を送っていましたが、
ペイペイはいつの時代でも同じ、大忙しです。

次の物語は、駅馬を管理するために地方に派遣された役人、それも
新婚ホヤホヤなのに遠国勤務(摂津か)を命じられた若者の宮仕えの嘆きです。

「 昔、一人の男がいた。
  結婚式を挙げてから、いくばくも日が経っていないのに
  思いがけず駅馬(はやうま)を管理する役目(駅使)を命じられ、遠い国に
  派遣されることになった。
  宮仕えには ままならぬ規定があり、単身赴任で勤務期間およそ3年。
  可愛い妻とはいつ逢えるかも分からないまま出立した。

  残された妻は嘆き悲しみ、とうとう病に臥す身になってしまったが
  男は知る由もなかった。
  それから、数年を経た後、男はやっと帰還が叶い、お上への
  報告を無事に終えた後、すぐさま妻の許にやってきて
  顔を見たところ、あの美しかった顔は、げっそり痩せ、
  他人かと見間違えそうになっていた。
  男は悲しみ極まって涙を流し、歌を作って口ずさんだ。」

「 かくのみに ありけるものを 猪名川(ゐながわ)の
    奥を深めて 我(あ)が思へりける 」 
                           巻16-3804 作者未詳

   ( こんなにもやつれ果てて臥せっていなものを、私はこれと知らず
    猪名川の深い水底のように、心の底深く若く美しいそなたのことを
   思い続けていたのだった。あぁ!)

        「かくのみに」: 死別、変心など予想もしない事が起きたことを
                  知った時の失意を表す慣用句。
            ここではやつれ果てた妻の姿をさす。

        「猪名川」:  摂津(伊丹市)あたりを流れる川

        「奥を深めて」: 心の奥へ奥へと深めて思う心

  妻は、床に臥せりながら、夫の歌を耳にし、枕から頭を上げ、
  直ちに応じた。

「 ぬばたまの 黒髪濡れて 淡雪の
      降るにや来ます ここだ恋ふれば 」 
                       巻16-3805 作者未詳

      ( 黒髪も、しとどに濡れて、粉雪が降りしきる中をお帰り下さったのですか。
        私がこんなにもお慕いしていたので。)

 その日は雪が降る日であったようですが、夫の白髪を寓しています。

 さて、この歌は1首目の「かくのみに」 2首目の「淡雪」の意味を
  深く吟味すると味わいが がらりと変わります。

  まず1首目。 
  夫は新婚早々の美しい妻の顔を想像しながら一目散に家に着いた。
  ガラッと戸を開けて見ると、そこには似ても似つかぬ妻の姿。
  一瞬、がっかりしたという気持ちが生まれたのでしょう。
  その表現が「かくのみに」なのです。

  そして、気を取り直し、
 「あぁ、心労をかけて申し訳なかった。
  一瞬でもそのような気持ちを持ったのはすまなかった」
  と素直に反省した。

  その空気を察した妻は、自由にならない体を無理に動かし、
  居ずまいを正して枕から頭を上げ

 「 おかえりなさいませ。 長のお勤めご苦労様でした。
   あなた様も苦労なさったのですね。こんなにも白髪が増えて。」

   と応じたのです。

  伊藤博氏は次のような解説をされています。

  「 妻の歌に裏の意味を読み取ることが許されるならば、
   それはうれしさのあまり拗ねてみせた女の甘えである。
   やつれ果てた姿の妻であっても、妻の媚態を美しく表出したわけである。
   ことさら「枕より頭を上げて」一定の姿勢を作って応じたのであり、
   重病でありながら,寝ながら天井を仰いで応じたのではないのである。
   人々は遠く離れていかに変わり果てようと、夫婦はかくあらねばならぬと
   いうことを思いつつ、この話を伝えていったのではなかろうか。」
                                        (万葉集釋注8)

  「かくのみに」の言葉の裏にある、妻の姿に一瞬落胆した気持ち
  「淡雪」に見える夫に対する妻のいたわり

  2首に込められた男女の心理。
  歌の世界はなかなか奥深い。
  それにしても古の名も定かではない下級官人夫妻が
  このような歌のやり取りをしていたとは驚くべき教養の高さです。

  「 夢路には 足もやすめず 通(かよ)へども
          現(うつつ)に一目 見しごとはあらず 」
                          小野小町   古今和歌集

   ( 夢の中の通い路では、足を休めることなく、あなたの許に通って行きますが、
    現実にあなたを一目見た嬉しさほどではありません。 )

                 万葉集726 (あぁ、転勤)完


               次回の更新は3月8日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-03-01 00:00 | 生活

万葉集その七百十七 ( 新年の歌:亥)

( 謹賀新年 本年もよろしくお願いします。  富士の夜明け 精進湖 )
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 ご来光 南アルプス連峰 )
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( 新年能  翁  春日大社 奈良 )
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( 平城京跡大極殿 壁画  奈良 )
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( 鳥獣戯画  高山寺  京都 )
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( 新しき年の初めの初春の 今日降る雪のいや重け吉事 大伴家持  亥 谷中で) 
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万葉集その七百十七 (新年の歌 亥)

「 正月(むつき)立つ 春の初めに かくしつつ 
                   相(あひ)し笑みてば 時じけめやも  
                           巻18-4137 大伴家持
( 正月、めでたい春の初めに 
      このようにお互いに笑みを交わしているのは
      まことに時宜をえた結構なことでありますなぁ。)

           時じけめやも: 時宜を得た

越中、久米広縄の館で催された新年賀宴での一首。
当時正月に笑うことは邪気を払い、繁栄、幸いをもたらすものと
考えられていました。
まさに「笑う門には福来る」です。

ここでの笑いは大口を開けてではなく微笑み。
一同、にこやかに笑みを交わしながら酒杯を傾け、楽しく語らいあっています。

 「あたらしき 年のはじめは 楽しかり
           わがたましひを 養ひゆかむ 」  斎藤茂吉

本年の干支は亥。
「加藤迪男著 干支の話題辞典」によると 

『 「亥」という字はイノシシまたは豚の骨格をたてに書いた象形文字で
  骨組みが出来上がっている意味を持ち、動物では猪があてられている。

  この年生まれの人の一代運勢は忍耐強く、向上心に富み若年期に
  成功する人が多いが、頑固一徹で融通がきかず柔軟性に欠けるため
  折角の成功も保てないことがあるので、晩年の良運を逃がさぬよう
  心がけることが肝要。』なのだそうです。   (東京堂出版より要約)

万葉集での猪は15首、「鹿猪」「鹿」などと表記されており、
すべて「しし」と訓みます。
そのうちの1首、恋歌です。

「 安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも
     我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね 」 
                          巻14-3428 作者未詳

( 安達太良山の鹿や猪はいつも決まった寝床に帰って休むという。
 俺もお前のところへ通い続けるから、いつでも共寝できるように
 待っていてくれよな。)

佐々木幸綱著 万葉集東歌によると
「 二人の間に何かトラブルでもあって、女が“もう通ってこないで!”
  などとすねてしまった。
  そんな場面を思い浮かべればこの歌の意味が理解しやすい」(東京新聞出版局)とのこと。

原始性豊かな山麓の中で鹿や猪と一体になって生活している人々の様子が窺われ、
もともとは山野で働く人達が歌った民謡であったようです。

なお、猪は「猪突猛進」「猪武者」などの諺で知られていますが、実際には
どんなに早く走っていても前方に障害物を見つけたり、身辺に危険を感じると
実に見事に停止し、くるりと向きを変える運動神経敏捷で賢い動物です。

雑食性で小動物から木の根、木の実などの植物を広範囲に食するため、
生命力繁殖力が強く、太古の時代から狩猟、家畜の対象として
人と共に生きてきました。

    「 猪の ねに行(ゆく)かたや 明けの月 」 去来

  本年は新天皇即位の年、希望に満ちた明るい時代となりますように。

「 年のはじめの 例(ためし)とて
  終(おわ)りなき世の めでたさを
  松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに
  祝う今日こそ たのしけれ 」 
                小学唱歌 (一月一日:いちげつ いちじつ
                        作曲 上 眞行:うえ さねみち
                        作詞  千家 尊富: せんげ たかとみ)

                          例(ためし)とて: 決まりごとの風習


             万葉集717(新年の歌:亥) 完

             次回の更新は1月4日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2019-01-01 00:00 | 生活

万葉集その七百十五 (島崎藤村の万葉詩)

( 雷丘:いかづちのおか 左のこんもりした森  右は畝傍山  奈良飛鳥)
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( 天の香久山:右 耳成山:左 甘樫の丘より  同上 )
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( 志賀の海と詠われた琵琶湖 )
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( 豊旗雲と詠われた茜雲 )
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万葉集その七百十五 (島崎藤村の万葉詩) 

島崎藤村に「懐古」と題される万葉集をモチーフにした詩があります。
今回はその詩が「どの万葉歌をイメージされたものなのか」の謎解きです。
まずは藤村の詩の中で万葉に関係ある部分をすべてピックアップしてみます。

「懐古」     島崎藤村

「 天の河原に やほよろづ
  ちよろづ神の かんつどひ
  つどひ いませし あめつちの
  始めのときを 誰か知る
 
( この導入部は古事記、日本書紀の世界、
  以下から万葉の世界に入ります)

 大和の国の 高市の
 雷山(いかづちやま)に 御幸(みゆき)して
 天雲のへに いほりせる
 御輦(くるま)のひびき 今いずこ

 目をめぐらせば さざ波や
 志賀の都は 荒れにしと
 むかしを思ふ 歌人の
 澄(す)める 怨(うらみ)を なにかせん
  
 春は霞(かす)める 高臺(たかどの)に
 のぼりてみれば けふり立つ
 民のかまどの ながめさへ
 消えてあとなき 雲に入る

むかしは遠き 船いくさ
 人の血潮の 流るとも
 今はむなしき わだつみの
 まんまんとして きはみなし

それでは各パートと該当する万葉歌のコラボです。

( 島崎藤村)

「 大和の国の 高市の
  雷山(いかづちやま)に 御幸(みゆき)して
  天雲のへに いほりせる
  御輦(くるま)のひびき 今いずこ 」

この詩に該当する万葉歌

「 大君は 神にしませば 天雲の
               雷の上に 廬(いほ)らせるかも 」 
                          巻3-235 柿本人麻呂

( 天皇は神様でいらっしゃるから、天雲を支配する雷の上に仮宮を
 お作りになっておられることよ )

天皇は持統の他、天武または文武説もあります。
廬(いおり)は身を清めたり休息するための仮屋。
雷の丘に立たれる天皇を誇張し
「 雷神をも支配する偉大な大君は絶対的な存在である」と讃えています。

雷丘は飛鳥甘樫の丘から北に向かって約1㎞の場所にある標高わずか10mの高台。
住宅と田畑に囲まれた一見何の変哲もない丘は人麻呂のお蔭で一躍不滅のものに
なりました。
もし、この歌が残されていなかったら宅地や田畑に転用されて消滅する運命を
辿ったことでしょう。

そもそも天皇が神であると詠われるのは壬申の乱以降です。
兄、天智天皇の子 大友皇子を倒して天武天皇に即位した大海人皇子は
見方によっては反逆、その正統性を疑問視されてもおかしくありません。

そこで、天武天皇は「古事記」「日本書紀」の編纂を開始して天孫降臨と
天照大神のお告げ、
「 神の血統である我が子孫が日本の国の王となるべきものである」といういわゆる
「天壌無窮の神勅」を創作し皇位継承の正当性の裏付けとしたのです。

「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」とは「永遠に変わらぬ」の意。

(島崎藤村)

「 目をめぐらせば さざ波や
  志賀の都は 荒れにしと
  むかしを思ふ 歌人の
  澄(す)める 怨(うらみ)を なにかせん 」  

(万葉歌)

「 楽浪(ささなみ)の 志賀(しが)の唐崎 幸(さき)くあれど
        大宮人の 舟待ちかねつ 」
                  巻1-30 柿本人麻呂
( 楽浪の志賀の唐崎よ
     おまえは昔のままに たゆとうているが、ここで遊んだ大宮人の舟
     その舟はいくら待っても もう再び現れないよ )

         楽浪(ささなみ) 琵琶湖西南岸地方一帯の古名
         志賀の唐崎   大津市下阪本町唐崎

 「 楽浪(ささなみ)の 国つ御神(みかみ) うらさびて
      荒れたる都  みれば悲しも 」 
                   巻1-32  高市古人(たけちの ふるひと)

(楽浪の地を支配したまう国つ神の 御魂(みたま)も衰えすさんで
荒れて廃れている都 この都をみると悲しみがこみあげてくる )

壬申の乱によって廃墟となった近江の都。
この地を訪れた人麻呂や高市古人の同胞も多く亡くなったことでしょう。

そして万葉屈指の名歌が生まれました。

「 近江(あふみ)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば
    心もしのに いにしへ 思ほゆ 」   
                       巻3-266 柿本人麻呂

( 近江の海の夕波千鳥よ、お前たちが哀しそうに鳴くのを聞いていると
 心もうつろに萎えて、ひたすら昔のことが思われてならないよ )

心も萎えてしまうほどに昔が思われるのは天智天皇の近江朝。
あの華やかなりし都は壬申の乱で滅亡し今や荒れ果てた廃墟となっています。

万葉人は「鳥」は「英霊を運ぶ使い」と考えていました。
「ちどり」の「ち」は 「いかずち(雷)」「おろち(蛇)」「みずち(鮫龍)」
「ちはやぶる」の「ち」と同じく「霊力」を意味する語であるといわれています。

人麻呂はその千鳥に滅亡した近江朝の人たちの霊魂を見、その鎮魂も含めて
「夕波千鳥よ」と呼びかけたのです。

(島崎藤村)
「 春は霞(かす)める 高臺(たかどの)に
  のぼりてみれば けふり立つ
  民のかまどの ながめさへ
  消えてあとなき 雲に入る  」   
 
(万葉歌)

「 大和には 群山(むらやま)あれど 
  とりよろふ 天(あめ)の香具山
  登り立ち 国見をすれば 
  国原は けぶり立ち立つ 
  海原(うなはら)は かまめ立ち立つ
  うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづ しま) 大和の国は 」 
                             巻1-2 舒明天皇

(意訳)
( 大和には多くの山々があるけれども、その中でも
  木々も豊かに生い茂り、美しく装っている香具山。
  また、神話の時代に天から舞い降りたと伝えられる天の香具山。

  その頂に登り立って国見をすると、
  国土には盛んに炊煙の煙が立っている。
  民の竈(かまど)は豊かなようだ。

  海原(広い池)には、かもめ(ゆりかもめ)が盛んに飛んでいる。
  海の幸も豊かなのであろう。

  この上もなく美しい国よ。
  豊穣をもたらすという蜻蛉が盛んに飛び交う わが日本の国よ  ) 

「国見」とは春の初めに天皇が聖なる山に登り、国土を俯瞰(ふかん)しながら、
そのにぎわいを褒めることにより豊かな秋の実りを予祝する農耕儀礼で、
元々は民間の気楽な行事であったものが次第に儀礼化され、
国の儀式になったものとされています。

以下は伊藤博氏の解説です。

「国原はけぶり立ち立つ 海原はかまめ立ちたつ」の対句は
その土と水とがとも生気に満ちて躍っていることを述べた表現で、
このように、国土の原核であり農耕に必須の媒材である「土」と「水」とが
充実しているということは、国土の繁栄、一年(ひととせ)の
五穀豊穣が確約されたことを意味する。
だから一首はただちに「うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」と
高らかな賛美のもとに結ばれる。

この歌の冒頭の大和は天皇が立つ大和(奈良)であるが、
後の大和は映像を大きく広げて
国全体を意味するヤマト(日本)に変貌している。」(万葉集釋注)

さらに「国原」「海原」の対句は、自然の情景をそのままに詠っており、
叙景歌の萌芽が既に芽生えていることをも示しています。
かくして、この歌は国土の美しさを褒め称えたものであると同時に、
我国文学の幕開けの歌でもあったのです。

(島崎藤村)

「むかしは遠き 船いくさ
 人の血潮の 流るとも
 今はむなしき わだつみの
 まんまんとして きはみなし 」 島崎藤村
  
(万葉歌)

「 海神(わたつみ)の 豊旗雲に 入日さし
      今夜(こよひ)の 月夜(つくよ) さやけくありこそ 」
 
             巻1-15 中大兄皇子(のちの天智天皇)

( 空を見上げると海神が棚引かせたまう豊旗雲、何と素晴らしい光景だろう。
  おぉ、夕陽が射しこんできて空はすっかり茜色に染まってきたぞ。
 今宵の月夜はきっと清々しいことであろうなぁ。 )

万葉屈指の美しい造語「豊旗雲」。
「豊」はその立派さ、壮麗さを讃えた言葉、「旗雲」は幡(ばん)のような
横に靡いている吹流しのような雲。

661年、斉明天皇が征新羅のために九州行幸された途中、播磨灘海岸辺りで
詠まれたもので、額田王が天皇になり替って作ったとも推定されている秀歌。

天には茜色の巨大な豊旗雲、海上には軍船、陸上には軍団の無数の旌旗が靡き、
実に雄大、荘厳な光景が想像されます。
作者は豊旗雲を神の旗と感じ、この船旅が海神に祝福されているとも受取った
ことでありましょう。
さらに美しい夕焼け雲をみて「今夜は月夜も素晴らしそうだ。我々の未来もこのような
バラ色であって欲しい」という祈りと期待をこめて詠ったものと思われます。


齊藤茂吉は「壮麗ともいうべき大きな自然と、それに参入した作者の
気迫と相融合して読者に迫ってくるのであるが、
是の如き壮大雄厳の歌詞というものは遂に後代には跡を絶った。
後代の歌人等は渾身をもって自然に参入して、その写生をするだけの
意力に乏しかった」と絶賛されています。
                           ( 万葉秀歌より : 岩波新書 )

そして藤村の詩の最終章

「 われ今 秋の野にいでて
  奥山高く のぼり行き
  都のかたを 眺むれば
  あぁあぁ熱き なみだかな 


と閉じます。
万葉屈指の名歌を網羅した見事な藤村の世界です。


万葉集715 (島崎藤村の万葉詩)  完


次回の更新は12月21日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2018-12-13 17:32 | 生活

万葉集その七百 (帝王聖武)

( 聖武天皇  小泉 淳作 画  東大寺蔵 )
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( 東大寺大仏殿 )
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( 東大寺南大門 )
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( 正倉院 )
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( 大仏池 )
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( 鋳造中の大仏  奈良万葉文化館 )
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( 二月堂 お水取り )
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( 聖武天皇佐保山陵 )
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万葉集その七百 (帝王聖武)

聖武天皇といえば、まず頭に浮かぶのは国家の財を湯水のごとく使い、
東大寺と大仏、さらに全国に国分寺と国分尼寺を建立した専制的な天皇。
5年の間に都を平城京、恭仁京、紫香楽宮、難波宮とめまぐるしく造営し、
最後に平城京に戻る、という常人では考えられないような彷徨の人。
そして、生前愛用した絢爛たる日用品や宝物を正倉院に遺し、
現在なお多くの人を魅了してくれている帝。
といったところでしょうか。

732年8月、聖武天皇は節度使を各地に派遣することにしました。
節度使とは地方の軍備の充実をはかるために置かれた監察官、いわば
駐屯部隊の隊長です。
派遣されるメンバーは、東海、東山二道に藤原房前、山陰道に 多治比真人、
西海道は藤原宇合。

(  東海道:常陸から伊勢まで  東山道:陸奥から近江 
   山陰道:丹波から壱岐    西海道:九州から対馬 )

さらに加うるに、道ごとに判官4人、主典4人、医師1人、陰陽師1名という
錚々たる陣容です。

次の歌は出発にあたり壮行会で天皇が下された長短歌。
宣命のような調べになっています。

まずは長歌の訳文から

( 朕が治める国の 遠く離れた政庁に
  そなたたちが こうして出向いたならば
  私は心安らかに 遊んでいられよう。
  腕を組んでいられよう。
  天皇たる我は その尊い手で そなたたちの髪をなでねぎらい給うぞ。
  そなたたちの頭(こうべ)をなでて ねぎらい給うぞ。
  そなたたちが帰ってくる日、その日に相ともにまた飲む酒であるぞ
  この尊い酒は )     6-973 聖武天皇

 原文

「 食(を)す国の 遠(とほ)の朝廷(みかど)に 
  汝(いまし)らが  かく罷(まかり)なば
  平(たひら)けく 我は遊ばむ
  手抱(てむだ)きて 我はいまさむ

  天皇(すめら)我れ うづの御手(みて)もち かき撫でぞ 
  ねぎたまふ うち撫でぞ
  ねぎたまふ 帰り来(こ)む日  相飲(あひの)む酒(き)ぞ
  この豊神酒(とよみき)は 」
                              巻6-973 聖武天皇

語句解釈

     食(を)す国: 天皇の統治する国 「食(を)す」は「食う」の敬語。
                   統治するものは諸国献上の五穀を食べることで国々の支配を
                   果たすという考えから「治める」の意となった。

     遠の朝廷(きかど」: 天皇支配下の各国庁
     罷(まかり)なば: 退出したら

     平けく我は遊ばむ: 帝王自ら手を下さずして天下治まるの意

     うづの御手 ;「うづ」は高貴の意 祝詞などに使われ
              「宇豆は貴なり」の記述もみえる。
              天皇という立場から自らの敬語を使っている

      かき撫でぞ: 頭を指で撫で無事成功を祈る呪的行為

      ねぎたまふ:優しくいたわる

      豊神酒 : 霊力ある酒

 反歌

「 ますらをの 行(ゆ)くとふ道ぞ  おほろかに
      思ひて行(ゆ)くな  ますらをの伴(とも) 」
                      巻6-974 聖武天皇

( これからの道は ますらお たるものが行くという道。
通りいっぺんな気持ちで行くのではないぞ。
ますらおのこ たちよ )

 おほろかに: 通り一辺な気持ちで

「 雄渾な調べの中に王者の貫録がみなぎっている。
  汝らの労ゆえに みずから手を下さなくても天下がよく治まる。
  その労を賞(め)で、その功が発揮されるよう天皇たるもの
  この手で汝らの頭を撫でるのだ、の部分は無事成功を祈る呪術。」
                                     ( 伊藤博 万葉集釋注3)

以下は私的な場で詠われたもので声調が がらっと変わります。

「 秋の田の 穂田(ほだ)を雁がね 暗けくに
      夜のほどろにも 鳴き渡るかも 」 
                      巻8-1539 聖武天皇

( 秋の田の穂田を刈るという名をもつ雁が、まだ暗いのに
      夜の明けきらないうちから、鳴き渡ってゆく)

    夜のほどろ: 「ほどろ」は密なる物が拡散して粗になるさまを言う語で
             ここでは夜の闇が白みはじめる頃

「 今朝(けさ)の朝明(あさけ) 雁が音寒く 聞きしなへ
        野辺(のへ)の浅茅ぞ 色づきにける 」 
                         巻8-1540 聖武天皇

( 今朝の明け方に雁の声を寒々と耳にした。
  折しも周りを見渡すと、野辺一帯の浅茅がすっかり色づいているぞ。 )

自然の情景を感じたまま述べ、公の場で見せる威厳とは違う穏かな
性格が滲みでている2首です。

 また、狩場での次のような女性との戯れ歌も残されています。

「 赤駒の 越ゆる馬柵(うませ)の 標(しめ)結ひし
     妹が心は 疑ひもなし 」  
                         巻4-530  聖武天皇

( 元気な赤駒がうっかりすると飛び越えて逃げる柵を
     しっかり結び固めるように、お前も私のものであると標を結っておいた。
     汝の俺を想う心に何の疑いもないよな。)

  海上女王(うなかみの おほきみ 天智天皇皇子 志貴皇子の娘) に贈った歌。

「 しっかりと標(しめ:目印) を結んで固めたからには、
  馬が柵を越えて放れ馬になるように、お前が勝手に俺から離れていくことは
  ありえない」

の意を込めた、狩場の宴席での戯れ。
それに対して女王は

「 梓弓 爪引(つまび)く夜音の  遠音(とほと)にも
      君が御幸(みゆき)を 聞かくし よしも 」 
                             巻4-531 海上女王

( 魔除けに梓弓を爪引く夜の弦打ちの音が遠くに聞こえますが
  その音のように遠くから聞こえてくる噂、
  我が君の行幸があると伺うことが出来るのは嬉しいことでございます)

女王は帝の行幸に参加しているので目の前の席にいます。
しかし天皇から詠みかけられた歌は狩の御幸の場なので、
自分が今いるところにお出まし戴けるのはうれしいことですと
機転を利かしたもの。

狩の開始直前に大猟を予祝して弓の爪引きを行なうのが当時の慣例でした。

   「 父母よ 今は何処と 首(おびと)泣く 」  筆者

              首(おびと):聖武天皇の幼名


聖武天皇は701年文武天皇を父(天武孫) 藤原宮子(不比等娘)を母とする
第1皇子に生れましたが、わずか7歳の時に文武死没。
母、宮子も出産後、心的障害に陥り長年隔離生活を送ったので
何と37歳になるまで対面することが出来なかっという寂しい幼年時代を
過ごしました。

母方の祖父藤原不比等邸で育てられたといわれていますが、
自ら決めたことはどんなことがあってもやり通すという強靭な意思は
その不幸な生い立ちから培われたのでしょうか。
 
    「 三代の女帝 首(おびと)を  守り抜く 」  筆者

天武天皇亡きあと天武第一皇子草壁皇子が若くして亡くなったため(27才)、
持統皇后が皇位を引継ぎ、その後元明(文武の母)、元正(文武の姉)と
3代の女帝が聖武の成長を待つために中継ぎとして皇位を継承し、
聖武24歳でようやく即位します。

当時の世相は天然痘が流行し、権勢を誇った藤原4兄弟をはじめ朝廷高官の相次ぐ死亡。
さらに、飢饉、戦乱、度重なる遷都による労力負担、民の疲弊による逃亡、
など社会のあらゆる面で律令国家の存立が危ぶまれる状態でした。

聖武はこの難局を打開するため、世にも稀なる巨大な大仏を建立することにより
あらゆるエネルギーを吸収し鎮護国家を作り上げることを目指したのです。

彷徨の5年と云われる地方行幸も天武天皇の壬申の乱の折の足跡を辿り、
建国の精神に立ち戻って国家再建の決意を新たにし、相次ぐ遷都も
大仏建立のための物流基地、工事現場の確保などの目的もあったようです。

しかしながら、紫香楽の宮で大仏の像体骨柱が出来上がったころで
地震水害が発生したうえ、民の不満が頂点に達して放火が相次ぎ、
遂に都を平城京に戻さざるをえなくなりました。

それでも、聖武は不撓不屈の精神を傾け、金鐘寺(こんしゅじ:のちの東大寺)で
大仏の造立を続け、完成間近の749年、幸運にも陸奥の国から金産出。
遂に752年、9年を費やして大仏開眼を果たしたのです。

 「 あをによし 奈良の都は 咲く花の 
       にほふがごとく 今盛りなり 」  
                      巻3-328 小野 老(おゆ) 

その後海外からの渡来人も多くなり平城京は、さながら国際都市となり
  天平文化の華が開きます。
  国を傾けるような大事業。
  帝王聖武は未来永劫の遺産を我々に遺してくれたのです。

  「 おほらかに もろてのゆびを ひらかせて
        おほきほとけは  あまたらしたり 」  会津八一

( 大仏は 大きく豊かな両手の指を お開きになって
     その慈徳は 宇宙に広く満ち広がっているのです 。)

749年、天皇は第1皇女阿倍皇太子に譲位、孝謙天皇誕生。
756年 聖武太上天皇56歳の波乱の人生に幕を閉じ、佐保山陵に葬られました。

 隣陵には終生の伴侶 光明皇后。
天皇の遺品を東大寺に遺贈し正倉院宝物とされた方です。

「 我が背子と ふたり見ませば いくばくか
             この降る雪の 嬉しくあらまし 」  
                   巻8-1658 光明皇后
( この降り積もる雪の見事なこと。
      わが背の君と一緒に見ることができましたら、
      どんなに嬉しく思われることでしょう )

夫、聖武天皇が東国巡幸の旅にでた折に贈った歌。
一人の女性として詠い、可憐。 

正倉院に通じる道の小高い丘に建てられているこの歌碑は
正面に正倉院、右側は大仏殿に隣接しており、
いつまでも優しく聖武帝を見守っているようです。

   「 大仏殿 鴟尾(しび)の上なる 秋の雲 」  秋山花笠

      
     万葉集700  (帝王聖武) 完



   次回の更新は9月7日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2018-08-30 10:49 | 生活

万葉集その六百九十六 (立秋の七夕)

( 仙台七夕は8月に開催される )
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( 古式豊かな模様  同上 )
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(  斬新な模様も  同上 )
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( 月の船  上田勝也  奈良万葉文化館蔵 我が国では牽牛が織姫のもとへ)
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( 月の船 藤代清二 中国伝説では織姫が牽牛のもとへ )
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   万葉集その六百九十六 (立秋の七夕)

我国の7月7日、七夕節会の記録は持統天皇の691年が最古とされています。
現在の8月上旬、立秋の頃、天皇列席のもと公卿以下が参列して宴を賜り、
朝服を下される宮廷儀礼でした。

さらに734年、聖武天皇の時代になると、7月7日に相撲を奉納し、
その夕方、文人に七夕の歌を詠ませる行事が定着し、相撲と七夕の節会を
同じ日に行ない、五穀豊穣、国土繁栄を祈ったのです。

一方、民間では古くから夏秋の行き会いの時期に水辺に掛け作りにした棚の上で
遠来のまれびと神の訪れを待って機(ハタ)を織るタナバタツメの習俗がありました。
「タナバタツメ」とはタナ(横板)を付けたハタ(機)で布を織る女(ツメ)の意です。

偶然にも中国には女子が機織り等の手芸で巧みになる事を祈る
乞巧奠(きこうでん)という古来の行事がありました。
さらに7月7日の夜、織姫星が天の川を渡って牽牛星に逢うという
空想豊かな恋物語を遣唐使(山上憶良?)が帰国後、伝えたところ、
このロマンティクな伝説は、たちまち人々の心をとらえ、かつ魅了しました。

そして我国古来の「タナバタツメ」に中国伝来の七夕という字を当て
「タナバタ」とよんだのです。

万葉集で「天の川」を詠ったものは130首余もありますが、
中國の物語と違うところは2つ。

我国では通い婚の風習があったため、牽牛が織姫のもとに通う。
( 中国では織姫が牽牛のもとに通う )

いま一つは、空想の物語を現実の自分の身に置き換えて詠う、
そう、柿本人麻呂、山上憶良らが天上の物語を一気に庶民のものとしたのです。

「 天地(あめつち)と 別れし時ゆ 己(おの)が妻
          しかぞ離(か)れてあり  秋待つ我は  」 
                        巻10-2005 柿本人麻呂歌集

( 天と地と別れたはるか遠い時代からずっと
 わが妻とこのように別れ別れに暮らしていながら
 ひたすら秋が来るのを待っているのだ。この私は。)

 当時は男性が女性のもとに通うのが習い。
 しかも、月が出ている間に訪れ、夜が明けぬ間に帰る。
 そう頻繁に通えるものではありません

「 渡り守  舟早(はや)渡せ 一年(ひととせ)に
         ふたたび通ふ 君にあらなくに 」
                  巻10-2077  作者未詳

( 渡し守よ 舟を早く岸に着けて下さいな。
 1年のうちに2度も通ってこられる方ではないのですから。)

今か今かと待ち続ける織姫は現実の私。
祈るような気持ちで詠っています。

「 天の川 相向き立ちて 我(あ)が恋ひし
        君来ますなり  紐解き設(ま)けな 」 
                           巻8-1518 山上憶良

( 天の川、この川に向かい立ってお待ちしていました。
いよいよ、愛しいあの方がお出でになるらしい。
さぁ、衣の紐を解いてお待ちしましょう。 )

万葉集で年代がはっきりしている最初の七夕歌とされています。
この「紐解き設(ま)けな」で、天上の物語が一気に現実のものになりました。
7月7日は男が女を訪ね、相睦む日になったのです。

 「 恋ふる日は 日(け)長きものを 今夜(こよひ)だに
            ともしむべしや  逢ふべきものを 」
                巻10-2079  作者未詳

( 恋焦がれた日が随分長かったんだもの、せめて今宵だけは
 飽き足りない思いをさせないで。
 今夜は誰にも遠慮なく逢うことが出来る日なのだから 。)

        ともしむべし や: 「物足りなく思わせる」の意 「や」は反語

「 ただ今夜(こよひ)  逢ひたる子らに 言(こと)どひも
          いまだ せずして さ夜ぞ明けにける 」
                       巻10-2060  作者未詳 

( 年にたった一夜の今宵。
 やっと逢うことができた愛しい子と、まだ満足な言葉も
 交わさないうちに夜が明けてしまった。)

久しぶりにお互い心ゆくまで抱き合い話をする間もなかった。
無常にも夜明けが近づいてくる。
そして別れの時間です。                 

 「天(あめ)の海に 雲の波立ち 月の船
          星の林に  漕ぎ隠る見ゆ 」  
                    巻 7-1068  柿本人麻呂歌集

舟に乗って帰ってゆく愛しい人。
空を見上げると、煌々と輝く三日月。
あたかもあの人を乗せて行く舟のよう。
雲の波、きらめく星の林。

あぁ、次第に遠ざかって行く。
さようなら、また会う日まで。

 「 七夕や 逢えばくちびる のみとなる」  水原秋桜子

七夕行事は夏の7月7日に行う地方も多いですが、本来は初秋のもの。
季語も秋に分類されております。
立秋、この時期になると夜空が澄みはじめ星もさやかに見えるのです。
 
  「 星合(ほしあひ)の 夕べすずしき 天の川
              紅葉の橋を  わたる秋風 」 
                       藤原公経  新古今和歌集

( 七夕の夕べは涼しく、 天の川に架けられた もみじの橋を
    秋風が涼やかに吹きわたるよ )

古代、機織りの上達を願って行われた七夕行事は、次第に拡大解釈されて
様々な願い事を星に祈る行事に変わり、江戸時代、庶民の間に
手習いが広まると、色とりどりの短冊に願い事を書いて笹竹に飾るようになり
現在に至っています。

  「 七夕や 秋を定(さだむ)る 夜の初(はじめ)」 芭蕉

 今年の立秋は8月7日。
 間もなく朝夕涼しい風が吹きはじめることでしょう。


         万葉集696(立秋の七夕)  完


         

       次回の更新は8月10日(金)の予定です。
 

by uqrx74fd | 2018-08-02 11:09 | 生活