カテゴリ:生活( 150 )

万葉集その六百六十五 (新年の歌:戌)

( 謹賀新年 本年もどうぞよろしくお願いいたします。 吾妻山公園 神奈川から)
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( 本年は戌年  国立新美術館で )
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( 招福干支  東京人形町 )
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(   同上 )
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( おかげ犬 主人の名前を書いた袋を首に下げ伊勢詣でをしたそうな 伊勢おかげ横丁で)
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( 一刀彫  奈良 )
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( 土鈴の犬:神楽坂  起き上がり小法師(会津)  自宅で)
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( ポスター  図書カードPR用 )
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万葉集その六百六十五 (新年の歌:戌 )

「 新(あらた)しき 年の初めの 初春の
    今日(けふ)降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)」 
                         巻20-4516  大伴家持

( 新しい年の初め、この初春の今日降る雪のように
  めでたいことも次々と積み重なれ。 )

「いやしけ」: あとからあとから絶えることなく。

759年、因幡国庁(鳥取県)での賀宴で詠われたもので
万葉集掉尾(ちょうび)を飾る一首。
当時、正月の大雪は豊年の瑞兆と考えられており、さらに、
この年は暦の上で元旦と立春が重なるという吉日。
幾重にもめでたい新年の歌です。 

「 春立つや 新年ふるき 米五升 」  芭蕉

「ふるき米」は旧年中に人が瓢箪にいれてくれた米。
「さぁ、我家のひさごは米五升も入って心豊かな新年がやってきた。」と寿ぐ作者。

 「 犬ころが 越後獅子より あざやかに
        舞ふとて二人 手のひらを打つ 」 与謝野晶子
                                   犬ころ:子犬

本年の十二干支は戌、動物は犬が当てられています。
「戌」は「一」と「伐(ほこ)」を組み合わせた会意文字で、もともと
「刃物で作物を刈ってひとまとめに締めくくり、収穫する」意であったそうですが
干支名となったので原義が忘れられ「犬」と同義語になっています。

また「犬」は「いぬ」を描いた象形文字。
犬と戌がなぜ組み合わされたのかは定かではありません。

犬はあらゆる動物の中で最も古い家畜の一つとされ、今から2万年も前から
先祖である狼かそれに似た動物を長年にわたって飼い馴らし、交配を重ねて
生み出されたものと考えられています。

我国では縄文時代の遺跡から出土した骨などから、人々の良き伴侶して
生活をしていたことが窺われ、その祖先は今日の秋田犬と推定。
大和朝廷では「犬養部」という専門部署を設けて狩猟、警備、労役、軍用、
愛玩用に飼育させる重要な動物でした。

万葉集では3首(うち長歌2)。
次の歌は番犬として詠われたもので、まずは訳文から。

「 赤駒を 馬屋に立たせ 黒駒を馬屋に立たせ
  そいつを大事に世話して 私が乗って行くように
  可愛いい妻が おれの心に乗りかかってきてさ。(男の思い) 」

 「 そうそう、高い山の峰のくぼみに
   射目を設けて鹿猪(しし)を 待ち伏せるように
   寝床を敷いて 私がお越しを待っている方なのだから
   犬よ、やたらに吠えないでおくれ。 (女の思い)  」 
                           巻13-3278 作者未詳

訓みくだし文

「 赤駒を 馬屋に立て 黒駒を 馬屋に立てて
  そを飼ひ  我が行くごとく
  思ひ妻 心に乗りて

  高山の 峰のたをりに
  射目(いめ)立てて  鹿猪(しし)待つごとく
  床敷きて 我が待つ君を
  犬な吠えそね 」
                  巻13-3278  作者未詳

 赤駒: 栗毛の雄馬
          赤駒、黒駒の対句によって勢ぞろいして馬に乗り
          狩りに出かける様子を述べる

     そを飼い: 赤駒、黒駒を大切に飼育し

     心に乗りて: 我が心に乗っかって離れない

     峰のたをりに: 「たをり」峰続きの山の低くなった部分、鞍部で動物の通路

     射目:鳥獣を射るために身を隠す場所

     床敷きて: 共寝するために予め自分の着物を敷くこと
 
 狩猟における収穫の宴の場で身振り,所作を交えながら
 寸劇を演じたものと思われ

「 我家の守りについているワン公よ、私の恋の邪魔立てをするんじゃないよ」と
おどけたユーモラスな一首。

伊藤博氏は
「 健康に満ちた、古代の狩場の高笑いがじかに聞こえてくるような歌で
  興趣が尽きない。
  生産に直結する男女のかような関係を、身をもって興じることは
  幸の寿ぎにつながり、人々の歓楽をこよなく誘ったのであろう 」
  と評されています。

 「 かろやかに 駈けぬけゆきて ふりかへり
            われに見入る 犬のひとみよ 」   若山牧水

犬は古くから作物の獣害を追い払う霊性をもつ神の使いとされていました。
大和朝廷では薩摩隼人(狗人:くびと ともいう)を宮廷の警護や儀式役に任命し、
隼人は見廻りにあたって吠声(はいせい)を発していたそうです。

「吠声」とは犬の吠える声をまねたものですが、邪神、悪鬼を追い払い
あたりを祓い清める呪術とされ、日常の警護のほか天皇の行幸の際にも
大声を出しながら先頭を歩き、さらに幕末に孝明天皇の大嘗祭でも
隼人発声がなされたといわれています。

現在いたるところの神社にみられる狛犬はこのような犬の霊性が
具象化されたものでしょうか。

  「 犬吠(ほえ)て 里遠からず 冬木立 」 正岡子規


   ご参考: 戌年生まれの一代運勢

正直で義理堅く、自尊心が強い。
おおむね他力本願で成功する天運。
したがって謙虚にして、目上に従えば中年になって抜群の出世をする。
但し、強情さを謹んで謙虚にしないと、悔いの多い人生を送る憂いがあるので要注意。

               ( 十二干支の話題辞典 加藤迪男 東京堂出版より )


     
       万葉集665 (新年の歌 戌) 完


     次回の更新は1月5日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2018-01-01 00:00 | 生活

万葉集その六百六十四 (刀剣乱舞)

( 古代の飾り太刀復元品  藤の木古墳出土 奈良橿原考古学研究所 )
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( 水龍剣 刀身は聖武天皇の佩刀と伝えられ明治天皇が拵えを製作させ佩刀された。東京国立美術館)
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( 伯耆安綱   平安時代  東京国立博物館 )
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( 粟田口久国  鎌倉時代   同上 )
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( 相州正宗    同上 )
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( アイヌ太刀   東京国立博物館 )
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(  刀剣乱舞展   秋葉原 )
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(   同上  )
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    万葉集その六百六十四 (刀剣乱舞)   

桶谷繁雄著 「金属と日本人の歴史」(講談社学術文庫)によると

『 古代の刀剣は正倉院に多数保存されており(刀剣55 小刀短刀72)、
  そのほとんどは直刀である。
  さらに、平安時代の800~900年に伯耆国(鳥取県)に安綱という名工が出現し
  我国の造刀技術が完成したと伝えられ、現在見られる日本刀の形へと変わった。
  鎌倉時代になると、実用的な鋭利な刀が多数製造され、粟田口国吉、
  来国俊、正宗、定宗、一文字吉房、青江助次、波平行安など名工といわれる人々が
  全国に輩出した。』(要約)そうです。

これらの名刀は国立東京博物館に常時陳列されており、何時でも鑑賞することが
出来ますが、今やゲーム「刀剣乱舞」やコミックマーケットの影響で
「刀剣女子」の博物館巡りが大流行。
かたや、秋葉原で「刀剣乱舞展」が開催されており、若い女性で超満員です。

万葉集には剣太刀、焼太刀、枕太刀と表現されたものが34首。
枕詞や恋歌に多く見られる中で、次の歌は太刀そのものを詠った数少ない例です。

「 焼太刀の かど打ち放ち ますらをの
    壽(ほ)く豊御酒(とよみき)に 我れ酔(ゑ)ひにけり」 
                                    巻6-989 湯原王

( 焼き鍛えた太刀の切っ先で酒を打ち 大丈夫(ますらを)が祝う美味い酒に
  私はすっかりと酔ってしまいましたよ )

  「焼太刀」:何度も焼いて鍛えた太刀 

  「かど打ち」:太刀の切っ先で酒を御祓いして悪霊を追い払うという呪法。

  「豊神酒 」: 祝い酒

万葉人は刀鍛冶が赤く熱した鋼を何度も力強くたたいて見事な刀に仕上げていくのを
目の当たりにし、その様子を「焼太刀」という3文字で表現しました。

  「かど打ち」の「かど」は「稜(かど)」で太刀の切っ先。

  「門出」の「かど」を掛けているとしたら誰かの旅の出立を祝っての
  酒盛りであったのかもしれません。

作者は天智天皇の孫。
「 あぁ、美味い酒だ、酔った酔った」という声が聞こえてきそうな
調子がよく、力強い歌です。

「 焼太刀を 砺波(となみ)の関に 明日よりは
    守部(もりへ)遣(や)り添へ 君を留(とど)めむ 」 
                              巻18-4085 大伴家持

( 焼いて鍛えた太刀、 その太刀を磨ぐという砺波の関に、明日からは
 番人をもっとふやして あなた様をお引き留めいたしましょう。)

ここでの焼太刀は「砥石で磨ぐ」の意で砺波(となみ)に掛かる枕詞。

749年 東大寺の僧、平栄(びょうえう)他数人が寺所属の開墾田の状況を
確かめるため越中を訪れました。
当時の世相は元正上皇が他界され、聖武天皇が即位されたり、
大仏建立のための黄金が陸奥国から献上されるなど大きな出来事があった時期。

越中国司、家持は都の状況を聞きたいという事もあり、平栄を歓待し
「 1日でも長く御滞在下さい。砺波の関を固めてお通しいたしませんよ」と
おどけながら、引きとめたもの。

都の大きな動きを耳にしなが、心を弾ませている作者の顔が
目に浮かぶような1首です。

「 枕太刀(まくらたし) 腰にとり佩(は)き ま愛(かな)しき
        背(せ)ろが 罷(ま)き来(こ)む 月の知らなく 」 
                     巻20-4413 大伴部 真足女(おほともべの またりべ)


( 枕太刀を腰にとり帯びていて凛々しく 愛しくてならないあなた。
 元気でお帰りになる日が何時のことかわからないのね。
 あぁ、寂しい! 早く帰ってきて!)

  「枕太刀」:「夜寝る時も手放さず枕元に置く愛刀」のちの脇差か。

  「罷(ま)き来(こ)む」:「罷(ま)かる」(退出する)と同義語。
                ここでは役目を終えて帰るの意

作者は武蔵国の防人の妻。
いよいよ大宰府へ出発、太刀を佩いた雄々しい夫。
同じ姿で無事帰ってくるのは何時の日かと案じています。

防人の任期は3年、任地まで徒歩に野宿、熊などに襲われる危険があり
生還が確実視出来ない当時の長旅でした。
しかも、旅費は往路難波まで自費、帰りは全額自己負担という過酷なもの。
食糧が尽きて行き倒れになった人も大勢おり、愛する人たちにとっては
今生の別れにも等しい旅立ちであったことでしょう。

「 剣太刀 身に佩(は)き添ふる ますらをや
     恋といふものを 忍びかねてむ 」 
                     巻11-2635  作者未詳

( 剣太刀 この立派な太刀を身に帯びている丈夫(ますらを)たるものが、
 恋と云うものの苦しみに耐えきれないものなのだろうか )

恋は剣より強し。
自嘲しながらも嬉々としている男ですが、今や幻想の舞台に酔いしれる
刀剣女子の時代です。

       「 刀剣を 帯びた美女たち 空を舞う 」 筆者



               万葉集664(刀剣乱舞) 完

             次回の更新は新年1月2日( 火)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-12-21 15:14 | 生活

万葉集その六百六十三 (有馬皇子)

( 有馬皇子系図 中大兄皇子:のち天智天皇は有馬皇子の伯父にあたる)
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( 結びの松の碑  和歌山県日高郡南部町西岩代 )
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( 有馬皇子   上村松篁 )
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( いはしろ  岸野圭作  末尾の作者の言葉ご参照 )
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( 六義園案内板  東京 )
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( 六義園の藤代峠 )
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(  同上 )
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(  同上  頂上から )
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万葉集その六百六十三(有馬皇子)

645年、中大兄皇子と藤原鎌足は専横を極める蘇我一族を亡ぼし、
天皇中心の政権に回帰させました。
世にいう大化の改新です。
当時の天皇は皇極女帝、外交儀式の最中に実子、中大兄皇子が
宮殿内で宰相を誅殺したのですから、ショックは相当なものであったことでしょう。

事件後、女帝は周囲を憚り、弟、軽皇子(かるのみこ)に譲位され、孝徳天皇が誕生します。
新帝は有馬皇子の父君で、皇子は有力な皇位継承者になりましたが、
同時に中大兄皇子にとっては目障りなライバルとなり、後の悲劇の火種が蒔かれたのです。

孝徳天皇は即位と同時に都を飛鳥から難波に遷されましたが、ほとぼりが冷めた9年後、
中大兄皇子は再び飛鳥にもどすことを天皇に進言します。
ところが天皇は頑として応じられません。
説得を諦めた中大兄皇子は強引にも皇極上皇、弟の大海人皇子、
間人皇后 (はしひとこうごう 中大兄皇子の妹) をはじめ、公卿大夫、
百官に至るまですべてを引きつれ、なんと天皇一人置き去りにして飛鳥へ遷ったのです。

特に最愛の皇后まで同行したことは天皇にとりショックだったことでしょう。
なにしろ中大兄皇子は妹である皇后に恋愛感情を抱いていたと噂されていたのですから。

愕然とした天皇は憔悴し、翌年(654)、孤独のまま崩御。
有馬皇子(当時16歳)にとって中大兄皇子が父を殺したと
恨めしく思ったとしてもおかしくありません。

飛鳥に戻った皇極上皇は重祚(ちょうそ)され、斉明天皇の誕生。
( 重祚:一度退位して再度即位すること )

政治の実権を握った中大兄皇子は権力を誇るかのように大和多武峰の山上に
双槻宮(なみつきのみや)造営の大土木事業をはじめます。
それは、香久山の西側に船200隻通行可能な運河を作るという 
とてつもない大工事で、全国から人民を徴発し、過酷な労働を課した為、
怨嗟の声が湧き起ります。
宮殿への放火が続き、豪族の間で次第に皇位継承者に有馬皇子待望論が
台頭し始めました。
父親の処遇を目の前で見ていた皇子は身の危険を感じたのでしょう、
遂に狂人を装い、身をくらまそうとします。
まさにハムレットばりの演技。

そして18歳の時、牟婁の湯(むろのゆ 和歌山県)に療養に出かけ、
しばらく滞在したのち帰京した皇子は中大兄皇子に
「 牟婁の湯は大変効果があり、お蔭で体調も回復しました。」と報告します。

翌657年、悲劇の幕開けです。
斉明天皇は孫の建皇子(たけるのみこ)を病気で亡くし悲嘆にくれておられ、
傷心を慰めるため牟婁の湯に行幸されることになります。
中大兄皇子も同行し留守を蘇我赤兄(あかえ)に託します。

それからしばらくしてから生駒に住んでいた有馬皇子が赤兄を訪問。
疎遠であった二人の久しぶりの歓談がひとしきり終わった頃合いを見て、
赤兄は皇子に

「 さて、近頃の時世は騒然としてきましたね。
  皇子殿はどう思われますか?」

と問いかけます。
皇子は用心しながら

「 中大兄皇子の政治は結構だと思います。」
  と当たり障りのない回答。

すると、赤兄は

「 本当にそう思っているのですか?
  私は中大兄皇子には3つの大きな失政があると思っている。
  一つ、大きな倉を建て、民の財を取り立てている。
  二つ、運河を掘り公の宝を無駄遣いしている。
  三つ、巨大な双槻宮(なみつきのみや)を造営。」

貴殿は如何に?

若い有馬皇子はまんまと誘導に乗り、
「 あなたがそう思うなら私も同じ考えだ。」
さらに勢いに乗り
「 いまこそ 兵を用いるべきだ」と踏みこんでしまいました。

赤兄は腹の中でにんまりしながら、
「 それでは私も考えるところがあるから2日後にもう一度
  お出で下さい。
  作戦計画を練りましょう」 と答える。

そして2日後、二人の作戦計画です。

 「 まず飛鳥に放火、兵500人を紀伊に向けて派遣、
   行幸の一行を淡路島で迎え撃つ 」
など、具体的な話をしていたら突然、有馬皇子の脇息(肘掛) が折れました。
予め赤兄が細工していたのかもしれません。

赤兄曰く、「 これは不吉だ。 
また今度にして今日の話は、なかったことに。」
と云い、有馬皇子を帰します。

そして皇子が帰宅した頃を見計らい、
配下の物部 朴井 連鮪( もののべの えのいの むらじ しび)という人物に命じ
謀反の現行犯として逮捕させた後、中大兄皇子に急報し牟婁の湯まで連れていったのです。

恐らく、両者は予め示し合わせていたのでしょう。
次の歌は、有馬皇子が飛鳥から牟婁の湯に護送される途中、
和歌山の岩代いうところで詠まれたものです。
  
「 岩代の 浜松が枝を 引き結び
    ま幸(さき)くあれば また帰り見む 」
                     巻2-141 有馬皇子

( あぁ 私は今 岩代の浜松の枝と枝とを引き結んで行く。
もし万が一願いが叶って無事でいられたら、 またここに立ち帰って
この松を見ることであろう。)
古代の人は異郷を旅するとき、その地の地霊に安全を祈念しました。

特に岩石には強力な神が宿るとされ「岩代」という地にねんごろな
祈りを奉げたものと思われます。
この場所は、熊野神社の入口にあたるだけになおさらのことだったのでしょう。
引き結んだのは幣帛か枝と枝とを結んだのか分かりませんが、
ともに神聖な儀式です。
再び戻ることがないと覚悟しつつ、一心不乱に神のご加護を祈る皇子。
その心情察するにあまりあります。

「 家なれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕
       旅にしあれば 椎(しひ)の葉に盛る 」 
                           巻2-142 有馬皇子

( 家にいる時は立派な器物に盛ってお供えする飯なのに
 今は旅の身ゆえに椎の葉に盛らせていただきます。神様。)

近くに祠か石仏があったのでしょうか。
木の葉に飯を盛って神に供える習慣は今でも続いているそうです。

この歌は従来、皇子が囚われの身ゆえ
「 自身の食事は立派な器ではなく貧しい木の葉で摂ることよ。
  侘びしさがつのる。」と解釈されていましたが

国学院大学教授、高崎正秀氏が「これは神に奉げる飯のことである」と
発表されて以来、神饌であることが通説になっています。

さて、中大兄皇子の前に引き立てられた有馬皇子。
「 お前はなんで謀反を起こそうとしたのだ 」と尋問を受けます。

皇子は既に計られたと悟り、死を覚悟していたのでしょう。

「 天と赤兄が知る。われは知らず。」と答えました。

お前さんの胸によく聞いてみるがよい。
あなたと赤兄の奸計だと暗に云ったのです。

中大兄は「 よし、もう帰れ。」と命じたものの、もとより許すはずがありません。
そして、多治比 小沢連熊襲(たじひの おざわむらじ くにそ) に後を追わせ
熊野街道、藤代坂で自ら首をくくらせました。
弱冠19歳。
毛並みよく有能だっただけに中大兄皇子にとって自身の存在を脅かす邪魔者。
ライバルは早めに消せとの思惑が働いたものと思われます。

有馬皇子が残した歌は2首のみ。
死を覚悟した若者とは思えない静謐、毅然とした調べの名歌です。

それから43年後の大宝元年(701)、文武天皇と祖母、持統太政天皇が
牟婁の湯に行幸されたとき、随行していた人麻呂?がその心情を慮って詠います。

「 のち見むと 君が結べる 岩代の
      小松がうれを またも見むかも 」 
                       巻2-146 柿本人麻呂歌集

( のちに見ようと皇子が痛ましくも結んでおかれた松の梢よ。
  この梢を私は再び見ることが出来ようか。 )

「何度でも見に来て皇子を偲びたいが、おそらく無理であろう。
 とうか魂よ、安穏におさまり給え。」
と有馬皇子を偲び、さらに

「 岩代の  野中に立てる 結び松
     心も解けず いにしへ思ほゆ 」 
                  巻2-144   長忌寸 意吉麻呂 (ながのいみき おきまろ)

( 岩代の 野中に立っている結び松よ
 お前の結び目のように、私の心はふさぎ結ぼれて
 昔のことがしきりに思われる )

「 天翔(かけ)り あり通(がよ)ひつつ 見らめども
    人こそ知らね 松は知るらむ 」 
                          巻2-145 山上憶良

( 皇子の御魂は天空を飛びかいながら常にご覧になっておりましょうが、
     人にはそれが見えません。
     しかし松はちゃんと知っているのでしょう。)

と続々追悼の歌が奉げられました。

668年、中大兄皇子は近江大津宮で即位。天智天皇誕生。
ほどなく病床に就いたとき、皇太弟、大海人皇子に譲位を持ちかけますが、
有馬皇子の事件を熟知している大海人は奸計と直感して直ちに辞退し、
天智の子、大友皇子に皇位をと申し出て剃髪して恭順を示し、
天皇が油断している間に僅かな人数で吉野に逃れたのです。

672年、大海人皇子は壬申の乱で勝利して天武天皇に即位。
ようやく凄まじい骨肉の争いに幕を閉じたかと思われましたが
天武死後、持統女帝の時代、再び大津皇子の悲劇が起こりました。

有馬皇子、大津皇子の波乱万丈の運命は後の人々の心をうち、
色々な小説になって伝えられています。

   「 藤代の 落花を敷きて 皇子の墓 」  山口超心鬼


ご参考:

1、掲載画 「いはしろ」 岸野圭作画伯のことば 

「 紀伊半島の中ほど岩代の地に、ともすると国道を往来する車の影に
  かき消されそうになりながら、有馬皇子の碑は建っている。
  ここから海を眺めていると夕日が見える。
  1300年余の昔、この夕日が明日の朝日へ続くように、夕照の中、
  皇子は、再びこの地へ帰ること願い、習によって松を結び、
  歌を残したのではないかと思う。
  しかし願いは叶えられる事なく、同じ紀伊藤白において、
  その短い生涯を閉じる。
  皇子の心も時代のことも私には知る由も無いが、今はただ粛々として
  松が枝を揺らし吹く風と、悠久の時を刻む海を見たささやかな出来事を
  聞いたような気がした 」 

 2、大津皇子については

     万葉集遊楽 その530 「大津皇子1」
           その531 「大津皇子2」
   をご参照下さい


           万葉集663 (有馬皇子) 完


            次回の更新は12月22日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-12-14 16:15 | 生活

万葉集その六百六十一 (楽しみは)

( 大伴旅人の最大の楽しみは酒   奈良万葉列車 )
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( 梅の下で宴会   奈良万葉植物園レリーフ )
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( 屋内での宴       同上 )
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( 打毬、双六、 蹴鞠    奈良万葉文化館)
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( 貴族の歌会     同上   画面をクリックすると拡大できます )
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(  琴         同上)
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(  伎楽面で踊る   同上 )
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   万葉集その六百六十一 (楽しみは)
  
「 たのしみは 意(こころ)に かなふ  山水の
      あたりしずかに 見てありく時 」      橘 曙覧


江戸時代の歌人、橘 曙覧 (たちばな あけみ)は「独楽吟」という歌集を編み、
「たのしみは」で始まる52首の歌を残しました。
いずれも身近でささやかなことに生きる楽しみを感じているものばかりで、
上記の歌もそのうちの1首です。
曙覧は名誉栄達を望まず、生涯日々の小さな楽しみを重ねることにより、
心の平穏と大きな幸せを得たといえましょう。

万葉人が「楽しみ」を詠ったものは15首.
勿論、他に恋など楽しいことは多くあったでしょうが、本稿は「楽しみ」という
言葉を使われたものに限定してピックアップしてみました。

「 生ける者(ひと) 遂にも死ぬる ものにあれば
     この世にある間(ま)は 楽しくあらな 」 
                         巻3-349 大伴旅人

( 生ある者はいずれ死ぬもの。
せめてこの世にいる間は、楽しく過ごしたいものだ )

では何をもって楽しみとするか?
この歌は酒賛歌の中の1首で、酒好きな作者の人生の最大の楽しみは酒、
できることなら酒壺にでもなりたいと詠うほど徹底していました。
そして
「 この世にし 楽しくあらば 来む世には
        虫に鳥にも 我(わ)れはなりなむ 」 
                         巻3-348  大伴旅人

(  この世で酒を飲んで楽しく暮らせるなら、
来世は虫にでも鳥にでもなってしまってもかまわないよ。)

と詠うのです。


「 矢釣山(やつりやま) 木立も見えず 降りまがひ
     雪の騒(さわ)ける 朝(あした)楽しも 」 
                            巻3-262 柿本人麻呂

( 矢釣山の木立も見えないほどに粉々と降り乱れて
      雪のさわさわと降り積もるこの朝。
      何と楽しいことでしょうか。)

天武天皇の子、新田部皇子の何かの祝いの席で詠ったもの。
雪が降り積もると豊作、国が豊かになり幸先が良いものとされていました。
矢釣山は奈良県明日香村八釣の東北にある山。


「 かくしつつ あらくをよみぞ たまきはる
      短き命を 長く欲(ほ)りする 」  
                        巻6-975 安倍広庭 

( こうして過ごすのが楽しいからこそ 人は短い命であるのに
 長かれと皆が願うのですね )

「あらくをよみぞ」: 「ありよしぞ」(有り好しぞ)の変形で 「楽しいからこそ」
「たまきはる」:    命の枕詞 たま(命)の極限までの意 

作者は中納言(大納言の補佐役) 
親しい人たちの宴席でのもの。  
歌の通り、当時としては長命74歳まで人生を楽しんだようです。

毎日毎日が楽しければ長生きしたくなりますね。

「たのしみは 心をおかぬ友どちと
            笑ひかたりて 腹をよるとき 」           橘 曙覧


       万葉集661 (楽しみは) 完


   次回の更新は11月10日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-11-30 10:58 | 生活

万葉集その六百五十九 (黄葉の宴)

( 正暦寺    奈良 )
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( 大仏池    同上 )
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( 大湯屋  二月堂参道の途中で  同上 )
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( 吉城園      同上 )
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( 談山神社    同上 )
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( 室生寺     同上 )
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( 長谷寺    同上 )
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( 奈良公園 浮御堂前   同上 )
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万葉集その六百五十九 (黄葉の宴)

秋の野山を美しく彩る「もみぢ」(黄葉:紅葉)。
それは、多くの草木の葉が紅や黄に変わることを意味する言葉であり、
特定の植物をさしているわけではありません。
古くは清音で「モミチ」とよばれ、その語源は秋が深まりゆくと共に、
木々の葉が揉(も)み出されるように染まってゆく、つまり「揉出(モミチ)」の
意とされております。

万葉集で「モミチ」は135余首も詠まれていますが、大半は「黄葉」や
「色づく」「もみつ」などと表記され「紅」「赤」の字が見られるのは
ごく僅かです。
その理由は大和付近の山々は雑木が多く楓類が少なかった、あるいは
黄も赤もすべて「黄」と表記したとも言われていますが定かではなく、
紅葉と表記されるようになったのは赤に対する憧れが強かった平安時代からです。

「 わが衣(ころも) 色どり染めむ   味酒(うまさけ)
     三室(みむろ)の山は  黄葉(もみち)しにけり 」
                      巻7-1094 柿本人麻呂歌集

( あぁ- 素晴らしい! 神様を祭る三輪山はすっかり黄葉しました。 
  私の着物も色とりどり鮮やかに染めたいものです。 )

味酒: 神酒(みわ)として神に供えることから三輪山(三室の山)に掛かる掛詞。
    三輪山(奈良)の神は「酒の神」ともいわれている。

紅葉狩には酒がつきもの。
738年11月中旬、秋も深まりゆく頃のことです。
右大臣、橘諸兄の御曹司、奈良麻呂(17~18歳)は日頃親しくしている女性二人を含む
友人達10名を招き、酒宴を催しました。

「 本日はお忙しい中 お集まりいただき有難うございます。
  色づいてきた山々を愛でながら歌を詠み、久しぶりに
  酒を酌み交わそうでは、ありませんか」と

まずは主人の歓迎の挨拶歌を披露します。

「 手折(たを)らずて 散りなば惜しと 我(あ)が思(も)ひし
    秋の黄葉(もみち)を  かざしつるかも 」 
                               巻8-1581 橘奈良麻呂

( 手折って賞(め)でる前に 散ってしまったら惜しいと私が思っていた黄葉。
 この黄葉をようやくこのようにして、かざすことが出来ました。 )

当時美しい木や花に強い生命力を備えた精霊が宿り、手折って頭や身に付けると
その力を受け継ぐことが出来ると信じられていました。
きらびやかな衣装に黄葉。
さぞ、美しく映えたことでしょう。

「 黄葉(もみちば)を 散らす時雨に濡れてきて
      君が黄葉を かざしつるかも 」 
                   巻8-1583  久米女王(くめのおほきみ)

( 黄葉を散らす時雨の雨に濡れながらやってまいりましたが
 その甲斐あってあなたさまが手折ってきて下さった美しいもみじを
 かざすことが出来ましたわ。)

作者は本日の主賓。
家系は未詳ですが「天智、天武天皇 いずれかの皇子の子孫」と推定され、
奈良麻呂がひそかに好意を抱いていたようです。

「 奈良山の 嶺の黄葉(もみじば) 取れば散る
       時雨の雨し  間なく降るらし 」
                     巻8-1585 犬養吉雄(よしお)

( 奈良山の嶺で手折ってきた黄葉を手に取ればはらはらと散ります。
 これは時雨の雨に濡れたからだが、山では今でも時雨が絶え間なく
 降っているらしい。) 

当時、時雨は黄葉を散らすものと考えられていました。
いずれ散り果ててしまう黄葉。
それなら目前の美しい姿を大いに楽しもうではありませんか。
と行く秋を惜しみ、いとしんでいます。
酒席は大いに盛り上がり、夜になりました。
月の光が木々を美しく照らしています。
やおら大伴家持の弟が立ち上がり、声高らかに詠います。

「 あしひきの 山の黄葉(もみちば) 今夜(こよひ)もか
      浮かび行(ゆ)くらむ 山川の瀬に 」 
                          巻8-1587 大伴書持(ふみもち)

( あしひきの山の黄葉、この黄葉の葉は今夜もはらはらと散って
 山あいの瀬の上を流れていることであろう )

昼間見た見事な奥山の黄葉が、はらはらと散り川に浮かび流れている
様子を想像しています。
一枚また一枚、表を見せ、裏を返しながら散り落ちた色とりどりの葉が
小舟のように流れてゆく。
月の光を浴びてきらきら光りながら静かに、滑るように。
風情があり、感性豊かな一首です。

「 黄葉(もみちば)の 過ぎまく惜しみ 思ふどち
     遊ぶ今夜(こよひ)は 明けずもあらぬか 」 
                            巻8-1591 大伴家持

( 紅葉が散ってゆくのを惜しみながら 気の合うもの同士で飲む酒の美味さよ。
  実に楽しい夜だ。時よ止まれ!)

当時家持は21歳、最年長だったらしく、宴を楽しく盛り上げて
歌会を締めました。

主人を含め11名全員黄葉という言葉を入れて1首づつ。(主人は2首)
若い仲間同士の楽しい歌会。
古代貴族の雅な生活が彷彿される情景です。

    「 彼一語 我一語 秋深みかも 」   高濱虚子



        万葉集659(黄葉の宴 )完



       次回の更新は11月24日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-11-16 11:03 | 生活

万葉集その六百四十二 (祭と市)

( 飛騨高山祭 )
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(  同上 )
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( 同上 子供たちも楽しげ )
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( ねぶた祭  青森 )
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(  立佞武多 津軽 )
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(  古代庶民の祭 歌垣 奈良万葉文化館 )
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( 古代の市  陶器、焼き物  同上 )
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( 野菜売り   同上 )
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( 朝顔市  東京 入谷 )
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( ほおずき市  東京 浅草 )
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万葉集その六百四十二 (祭と市)

夏から秋にかけて全国各地は祭や市の季節到来です。
賀茂、祇園、ねぶた、立佞武多、飛騨高山、花笠、仙台七夕、郡上おどり、風の盆、
朝顔市、ほおずき市、風鈴市、草市等々、数え上げればきりがありません。

夏祭がこの時期に多いのは災害や疫病が多く発生し、それを祓おうとする
ところから起きたとされていますが、神輿や山車、祭り太鼓といった賑やかで
勇壮なものが多く、想像するだけでも浮き立つような気分になってまいります。

「祭る」は「祀る」「奉る」とも書かれるように神を崇め安置して
儀式を行うことをいいますが、中西進氏はその語源について非常に
ユニークな見解をされているので一部引用させて戴きます。

『  神は人間にとって怖く恐ろしい存在ですが、それゆえにその畏怖すべき
   力を借りたい場合もあります。
   その時に出てきてもらわなければならない。
   一所懸命に笛を吹いたり、囃したりして、さぁ来てください、
   さぁ来てくださいといって、神を待つ。
   つまり「まつる」とはそういうふうに神を待つ「まつ」に「る」が付いた言葉で、
   「まつり」とは「まつる」の名詞形です。
      (中略)
   神様は、それぞれに支配のおよぶ範囲が決まっていて、その圏内を
   ほうぼう旅して回ります。
   祭礼の時、社を出た神輿が仮に鎮座する場所を御旅所(おたびしょ)といいますが、
   これは神様が立ち寄るところであると同時に、そのテリトリーを示すものでも
   あります。
   神様は「おまつり」されることで、そこへ降りて人々に恩恵を与えるのです。 』

           (  「 日本語のふしぎ 」 小学館所収 )

なるほど、なるほど、お祭りとは神様が来ていただけるように、踊りや
神楽で囃しながらお迎えする、天の岩戸の天照大神以来の伝統であったのだ。

古代の人達にとって神とは太陽や月、海山や川、風や雷など
命の糧や安全にかかわる自然神や各地の地霊神でした。
人々は身近なところにある山々や海川の近くに社を作って祀り、
旅する人は自国と他国の境界を異境と感じ、その地の社や道祖神に
幣を手向けて道中の安全を祈ったのです。
幣とは白い布や紙を榊などの神木の枝に付けたもので、今でも
その名残をとどめています。

 「 国々の 社の神に幣(ぬさ)奉(まつ)り 
                 あがこひすなむ 妹が愛(かな)しさ 」

       巻20-4391  結城郡 忍海部五百麻呂( おしぬみべのいほまろ)

( あちらこちらの社の神様に幣を祀って無事を
  祈ってくれているだろうあの子。
  おれに恋焦がれて、なんともいじらしいことよ。)

作者は結城国(茨城)出身の防人。
故郷を離れ集合地の難波に向かう途中で詠ったものです。

徒歩、野宿の長い長い旅。
山々を越えながら思い出すのは可愛い妻。
泣く泣く別れたあの日の朝。
「今ごろは、あちらこちらの社で旅の安全を祈ってくれているだろう。」と、
故郷の方角を振り返り、振り返りしながら歩いてゆく若者です。

万葉時代の祭は、新年の宴、若菜摘、曲水の宴、花見、端午の節句、
薬狩り、七夕、初穂の祭り(新嘗祭)、紅葉狩など宮廷行事に多く見られ、
次の歌は新嘗祭の寿ぎ歌です。

「 天地と 久しきまでに 万代(よろづよ)に
    仕へ奉らむ 黒酒(くろき)白酒(しろき)を 」 
                巻19-4275  文室智努真人( ふみやの ちのの まひと)

( 天地と共に遠い遠い先々まで、万代にわたってお仕えいたしましょう。
      このめでたい黒酒や白酒を奉げて。)


752年11月25日 孝謙女帝のもとで新穀を神に供える儀式、新嘗祭が
催されたのちの宴でのもの。
新米で作られた酒は、クサギという木の灰を加えたものが黒酒、
加えないものを白酒といい(延喜式)、新嘗の酒を捧げ、治世の長久を賀した一首です。

  「 雑踏の 中に草市 立つらしき 」  高濱虚子

          草市: 盆の時期に供え物の蓮の葉などの植物や食物、用具を売る市

市の歴史は古く西暦280年頃に立った軽の市(奈良県橿原市)が
我が国最古のものとされています。
当時の市は露天であったので、木陰を確保するために色々な樹木を植え、
海石榴市(つばいち:椿)、桑市(桑)、餌香市(えがいち:橘)、軽市(槻:けやき)
などと呼ばれました。

平城京の時代になると物資の交換の場として東西の官営市が設けられましたが、
掘割などの水運をともなう大規模なもので、東市は51店舗、西市は33店舗あり、
取扱い品は各地から運ばれた衣食住に関連するもののほか武器なども扱っていたとか。

朝廷が官営の市を運営したのは、全国各地から税として納められる物産や
現物支給の役人の給与を金銭や必要な物資に交換するためです。

一方、海石榴市、軽の市、阿倍の市(駿河)など市井のものは自由な雰囲気で、
時には歌垣なども行われており、男女の出会いの場となっていました。

「 紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 
    八十(やそ)の衢(ちまた)に  逢える子や誰(た)れ 」
                                巻12-3101 作者未詳
( 紫染めには椿の灰を加えるものです。
      海石榴市の分かれ道で出会ったお嬢さん! 
      あなたは何処のどなたですか?
      お名前を教えてくれませんか?)

            八十の衢:諸方へ四通八達に道が分かれる要衢の辻

  紫染めの触媒に椿の灰汁(あく)を使います。
 この歌では紫を女性、椿の灰を男性の意を含めて、“混わる”すなわち結婚の
 誘いかけをしています。
 当時は女性の親だけが知っている「本名」と「通り名」があり本名を男に告げることは
 求婚の承諾につながりました。
 さて女性はどのように返事をしたのでしょうか?

「 たらちねの 母が呼ぶ名を申(まお)さめど
     道行く人を 誰(た)れと知りてか 」 
                        巻12-3102 作者未詳

    ( 母が呼ぶ名前を申さないわけではありませんが、でもどこのどなたか分らない
      行きずりの方にそう簡単にお教えすることなど出来るものでしょうか?)

海石榴市は歌垣が行われるところとしても有名で、性の解放も行われていました。
男にとってラブハントは当然の事と声をかけたところ
女性は「教えないわけではないが」と思わせぶりに気を引いておいて、
やんわりと断ったのです。

なかなかしっかりした女性ですなぁ。

 「 西の市に ただ一人出(い)でて 目並べず 
        買ひてし絹の 商(あき)じこりかも 」 
                      巻7-1264 作者未詳 

 ( 西の市にただ一人出かけ、自分の目だけで判断して買ってきた絹は
  とんでもない品だったよ。
  あぁ安物買いの銭失いだ。)

官営市は厳格な管理がなされていましたが、それでも盗品や偽物を持ち込む
怪しからぬ輩もいたらしく、騙されて悔しがっている男です。


  (目並べず) 自分だけの判断で他のものと比較もせず  
  (商じこり) 商いの仕損じ

 「 朝顔の 模様の法被(はっぴ)  市の者」  高濱年尾

朝顔は奈良時代に中国から渡来して、「牽牛花(けんぎゅうか)」とよばれ、
七夕伝説の彦星に擬されていました。
それに因んだのは東京入谷の鬼子母神で開かれる朝顔まつり。(7月6,7,8日)
早朝5時から色とりどりの朝顔が売られ、浴衣姿の人々で賑わいます。

「 みくじ手に 鬼灯市(ほおずきいち)を 覗きけり 」    阿久津 渓音子

こちらは、ほぼ同じ日に浅草寺の縁日に立つ酸漿(鬼灯)市(ほおずきいち)
この日にお参りすると1日で4万6千日分のご利益があるといいます。

どちらもお江戸の伝統の市。
万葉時代から続く市は形を変え、いまだに健在です。

「 鬼灯市 夕風のたつ ところかな 」 岸田 稚魚

        暑かった一日にも夕風が吹きわたってきた。
        店先に吊るされた風鈴の涼しげな響きの心地よさ。



          万葉集641(祭と市)完

          次回の更新は 7月28日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-07-20 17:07 | 生活

万葉集その六百四十 ( 七夕・相撲・ナデシコ)

( 護国神社の七夕  仙台 )
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( 優雅な仙台七夕 )
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( 同上 )
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( 平塚七夕 )
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(  同上 )
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( 笹に願いを  同上 )
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( 相撲  国立歴史民俗博物館  佐倉市 )
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( 大相撲凧  海外向け観光案内所  東京京橋)
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( カワラナデシコ  古くは七夕の花とされ生花の源流となった )
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( 庄司信州作  撫子  万葉の茶花 講談社より )
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万葉集その六百四十 (七夕・相撲・なでしこ)

今回は何やら三題噺めいたお題ですが、それぞれ密接な関係があり、
すべて日本文化の源流をなしているというお話です。

まずは「七夕」。
何故この漢字を「たなばた」と訓むのでしょうか?

遥か遠い古の時代、我国では夏秋の行き会いの時期に遠来のまれびとである神を
迎えるために水辺に棚を掛けて乙女が機織りする風習があり、
精進潔斎して待ち受ける聖女を「棚(たな)機(ばた)女(つめ)」(たなばたつめ)と
よんでいました。

一方、中国では7月7日の夜、織姫星が天の川を渡って牽牛星に逢うという
空想豊かな恋物語があり、遣唐使(山上憶良?)が帰国後伝えたところ、
このロマンティクな伝説は、たちまち人々の心をとらえ、かつ魅了しました。

物語のヒロインは片や織姫、こなたは「たなばたつめ」。
二人共、織物にかかわる女性とはなんという偶然の一致。
そこで、万葉人は中国で「七夕」と表記されていた漢字に
「たなばた」という訓みを当てたのです。

次は相撲。
734年、聖武天皇の時代、7月7日に相撲を奉納し、その夕方、文人に
七夕の歌を詠ませる行事が定着していました。
相撲と七夕の節会を同じ日に行ない、五穀豊穣、国土繁栄を祈ったのです。

天覧相撲の起源は4世紀前半(推定)、垂仁天皇ご臨席の下で
野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が力と技を競ったのが
始まりとされ(日本書紀)、以降、宮中で行われた相撲節会(すまいせちえ)は
源平争乱で廃絶になる1174年まで続けられました。
( ただし824年、平城天皇が7月7日に崩御されたため以後7月下旬に変更)
今日の天覧相撲もこのような長い歴史を踏まえたものでありましょう。

万葉集には「相撲をとる歌」はありませんが相撲使の役人が諸国から
力士を選別して都に上る途中18歳の若い従者大伴熊凝(くまごり)が急病で
亡くなり、それを悼んで本人になり代わって詠った歌が伝えられています。
長い説明文の序と6首の歌があり、相撲史を知る上での貴重な記録です。

「 出(い)でて行(ゆ)きし 日を数へつつ 今日(けふ)今日と
     我(あ)を 待たすらむ 父母らはも 」  
                                巻5-890 山上憶良

( 私が出発した日を、もう何日経ったかと数えながら今日こそはと私の帰りを
  待っておられるであろう父母よ-- あぁ・・・)

最後に生花。
我国の7月7日の七夕節会の記録は持統天皇の691年が最も古いとされており
公卿以下に宴を賜り、朝服を下される宮廷儀礼でした。

平安時代になると「花合わせ」といわれる「ナデシコ(撫子)」の花の
優劣を競い合う行事も七夕の日に行われるようになり、
櫻井満氏によると
『 この「ナデシコ合わせ」が後に「秋の七草合わせになり」五節会に
結びついてハレの花になり、生花への道に進むことになった。』のだそうです。
                    ( 節会の古典要約 雄山閣) 
        筆者注: 五節会 
                 1月1日(正月)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、
                 7月7日(七夕)、9月9日(重陽)

何故ナデシコなのか定かではありませんが。その可憐で美しく凛とした姿が
織姫を想像させ「七夕の花」として特別視されたのでしょうか。
日本が誇るべき生花文化の源流は七夕節会にありと考えられているのです。

「 天の川 相向き立ちて 我(あ)が恋ひし 
     君来ますなり 紐解き設(ま)けな 」 
                           巻8-1518 山上憶良

( 天の川、この川に向かい立って 私が恋焦がれているあの方がこちらの方へ
 いよいよお出でになるらしい。
 さぁさぁ、私も衣の紐を解いてお待ちいたしましょう。)

724年、作者が東宮(のちの聖武天皇)に命じられ詠った12首のうちの一.
教育掛(侍講)として唐の文化の説明も交えながら織姫の立場で詠ったものと
思われます。

憶良の歌は天空の世界の物語ではなく、人間界の現実のものとして詠っており
後の人々に多大な影響を与えました。
人々は自身が牽牛、織姫の立場になって思いのたけを詠う。
七夕はいわば愛を告白する日、共寝する日だったのです。
だからこそ135首もの多くの歌が詠われたのでしょう。

「 天の川 楫(かじ)の音聞こゆ 彦星と
    織女(たなばたつめ)と 今夜(こよひ)逢ふらしも 」
                            巻10-2029  柿本人麻呂歌集

( 天の川に櫓を漕ぐ音が聞こえる。
 彦星と織姫が 今宵いよいよ逢って共寝するのであるらしい )

人麻呂歌集には38首の七夕歌があり、憶良にはじまった現世表現様式を
確立させた感があります。
作者が銀河を眺めながら織姫、牽牛の逢瀬を想像し、
「俺もそろそろ行かなくては」と呟いているのかもしれません。

「 一年(ひととせ)に 七日(なぬか)の夜のみ 逢ふ人の
    恋も過ぎねば 夜は更けゆくも 」
                         巻10-2031  柿本人麻呂歌集

( 1年のうちこの7日の1夜だけ逢う人の、恋の苦しさもまだ晴れないうちに
 夜はいたずらに更けてゆく )

ようやく二人は逢うことが出来たが、時はあっという間に過ぎて行く。
1年に1度の逢瀬は、この上もない幸せ。
だが、のちに長い長い苦しみが待っている。
あぁ、時は止まらないのか。

「 明日よりは 我が玉床を うち掃(はら)ひ
    君と寐寝(いね)ずて ひとりかも寝む 」
                      巻10-2050 作者未詳

( 私たちの寝床を払い清めたとしても、明日からあなたと共寝することができずに 
ただ、ひとり寂しく寝ることになるのだろうか。)

七夕、相撲、撫子。
日本文化の源流には山上憶良がすべてかかわっています。
秋の七草の歌を初めて詠んだのも憶良でした。

 「 秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)
      かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 」 
                          巻8-1537 山上憶良

 「 萩の花 尾花葛花(くずはな) なでしこの花
     おみなえし また 藤袴(ふじばかま) 朝顔の花 」 
                             巻8-1538  山上憶良

ナデシコが七夕の花とされたのは、この歌とかかわりがあった
からなのでしょうか。

   「 木曽山に 流れ入りけり 天の川 」 一茶

貴族の行事であった「七夕節会」は、さらに中国古来の行事である、
「乞巧奠(きこうでん)」(女子が機織り等の手芸巧みになる事を祈る行事)と
結び付けられ、機織、裁縫、手芸、歌道、書道の上達を祈る行事として
定着してゆきました。
そして、次第に拡大解釈されて様々な願い事を星に祈る行事に変わってゆき、
江戸時代、庶民の間にも手習いが広まると、色とりどりの短冊に願い事を書いて
笹竹に飾るようになり現在に至っています。

七夕行事は夏の7月7日に行う地方も多いですが、本来は陰暦7月7日。
初秋の行事です。
太陽暦の7月7日より約1ヵ月後のこの時期になると、夜空が澄みはじめ
星もさやかに見えるのです。

           「 荒海や 佐渡に橫たふ 天の川 」  芭蕉




万葉集640 (七夕・相撲・ナデシコ) 完


次回の更新は 7月14日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-07-06 17:26 | 生活

万葉集その六百三十六 (田植は神事)

( 春日大社本殿から御田植神事の会場へ   奈良 )
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( 巫女が勢ぞろいする中神主がゆっくり歩む  同上 )
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( 笛と打ちものの楽奏に合わせて舞を奉納   同上 )
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( 巫女の舞   同上 )
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( 春日山からの湧水に向かって祈る  同上 )
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(  苗やり  同上 )
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(  御田植祭のイラスト  月刊 ならら )
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(  住吉大社の御田植祭  大阪 )
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(  大神神社:おおみわじんじゃ の御田植祭  奈良 )
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(  菅原天満宮の御田植祭    奈良  )
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( 田植が終わったあと  安達太良山麓 )
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万葉集その六百三十六 (田植は神事) 

日本列島の田植は3月末頃から始まり、6月中旬まで続きます。
沖縄、九州は同じ畑で年2回栽培、収穫する2期作や、麦、小麦など2種類の
作物を収穫する2毛作を行うところがある関係で早い時期から始まり、
中には8月まで続くところもあるようです。

北海道、東北は5月、関東は6月が多いようですが、必ずしも南から北へと
順次移るわけではなく、気温や品種により各地域毎にその都度判断されており、
ばらつきがあります。

古代の田植は、先ず田の神を迎えて豊作を祈願する儀式を行うのが習いでした。
早乙女(田植する女性)が巫女になり、屋根の上に菖蒲や蓬(よもぎ)を葺(ふ)いて
邪気を払い、家の中には香り高い草を積んでその上に座り、
一夜お籠りをして身を清める。
やがて夜が明けると、乙女たちは早々と紺の着物に紺の手甲脚絆、菅笠に
赤いたすきという出で立ちで田植に向かったのです。

「 青柳の 枝(えだ)伐(き)り下ろし 齊種(ゆたね)蒔き
   ゆゆしき君に 恋ひわたるかも 」  
                           巻15-3603 作者未詳

( そろそろ田植の時期です。
  青柳の枝を伐り取って田に挿し、ゆ種を蒔いて神様に豊作をお祈りいたします。
  そのような神様のように恐れ多く、近づきがたい身分違いのあなた様に
  恋をしてしまって- - 、毎日々々焦がれ続けている私。 )

奈良時代の水稲耕作は、直接籾種を蒔く直播式から苗代で育てた苗を移植する田植式へ
移行する過渡期にあたり、二通りの方法が行われていました。

「ゆ種」とは「神が宿る神聖な種籾」という意味で、ここでは直播式と思われ、
苗代の中央や水口(田の水の取り入れ口)に生命力の強い青柳やツツジの枝を挿して
苗の順調な発育を祈ります。

この風習は現在でも続けられており、ウツギの枝、地竹の細いものなども
用いられているそうです。

「 人の植うる 田は植ゑまさず 今さらに
     国別れして 我(あ)れは  いかにせむ 」 
                    巻15-3746  狭野弟上娘子(さの おとかみの をとめ)

( 世間の人はみな二人一緒に田植をなさるというのに
 新婚早々、あなたは別の国へ旅立ってしまわれたのですね。
 別居することになってしまった今、私はこれから一体どのようにして
 生きて行けばよいのでしょうか。 )

当時の官人は、都で暮しつつ農耕の状況に応じて郊外にある庄(たどころ)で
農作に従事していました。
農繁期の5月、8月には田仮(でんけ)という15日の休暇が与えられ
夫は妻の労働を助ける習慣がありましたが、作者の夫、中臣宅守は新婚早々、
罪を得て配流の身になってしまったのです。(740年)、

罪は何によるものかは定かではなく、一説に政争に巻き込まれた讒言によるもの
ともいわれていますが、二人の悲しみは如何ばかりであったことでしょう。

本来なら一緒に田植え作業が出来たはずなのに!
一人寂しく作業を営むにつけても別離の悲しみが込みあげてくる新妻。

なお、ここでの田植は苗代で育てた苗を移植したようです。

「 我妹子(わぎもこ)が 赤裳(あかも)ひづちて 植えし田を
     刈りて収めむ 倉無(くらなし)の浜 」
                         巻9-1710  伝 柿本人麻呂

( 可愛いあの子が 赤裳を泥まみれにして植えた田であるのに
 その収穫を刈りとって収めようにも 収めきれる倉がないという
 この倉無の浜よ )

「倉無の浜」という珍しい地名に興を覚えての歌。
収めようにも収めきれる倉がないの意で、それほど稲の豊かに稔る地だと
機知を込めた、土地褒めの通過儀礼。
古代、異郷を旅する時、その土地の神様に敬意を表して祟(たた)りなきよう
歌を奉納して祈ったのです。

人麻呂は九州まで旅をしたのでしょうか。
「万葉集地名歌総覧」(樋口和也著 近代文芸社)によると

「 倉無の浜は大分県中津市竜王町の浜。
  現在、闇無浜(くらなしのはま)神社とよばれる社ある」 そうです。

   「 雨乞に 曇る国司の なみだ哉 」   蕪村

古代、水不足による旱魃は人々の生死に関わる重大事であり、
雨乞いは国司(国守)の大切な仕事の一つとされていました。

749年越中の国で6月(陰暦)下旬から1ヶ月近く雨が降らず
秋の収穫が心配されはじめます。
7月もまもなく終わろうとする頃、空の彼方に雨雲の気配が見られたので
国守、大伴家持は雨乞いの歌を詠って天に祈りました。

「 -  雨降らず 日の重なれば 
  植ゑし田も 蒔きし畑も 
  朝ごとに凋(しぼ)み 枯れゆく 
  そを見れば 心を痛み 
  みどり子の 乳乞ふごとく 
  天つ水  仰(あふ)ぎてぞ 待つ - 
  との曇りあひて 雨も賜はね 」 
                      巻18-4122 大伴家持 (長歌の一部)

「との曇りあひて」: 四方から雲が広がって一面の曇り空になる
          との:一面に
(訳文)

( 雨が降らない日が重なり、
 苗を植えた田も、種を蒔いた畑も
 朝ごとに萎んで枯れてゆく。
 それを見ると、心が痛んで
 幼子が乳を求めるように
 天を振り仰いで恵みの雨を待っている。- -
 どうか一面にかき曇って 雨をお与え下さい )

幸運にも祈祷三日後、家持は雨に恵まれ面目を果たしました。
祈祷には天文学や気象学の知識も必要とされ、国守の仕事も楽ではありません。

もし雨が降らなければ、この人は神に見放されたのだと、部下や領民から
冷たい眼で見られるだけに、必死の思いだったことと思われます。

 「早乙女の 重なり下りし 植田かな」     高濱虚子

田植や雨乞いにかかわる神事は現在もなお各地で継承され、神社の
重要な祭事となっています。
中でも春日大社(奈良)の田植神事は、田の中ではなく、神社の境内の一角で
宮司や巫女たちが笛や打ちものに合わせて舞を奉納する優雅な催しです。

「 早乙女に 早苗さみどり やさしけれ 」    池内友次郎



           万葉集636(田植は神事)完

           次回の更新は6月16日(金)の予定です
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by uqrx74fd | 2017-06-08 16:26 | 生活

万葉集その六百三十三 (泊瀬の皇子たち)

( 長谷寺本坊大玄関   奈良 )
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( 白牡丹   長谷寺 )
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( 赤牡丹   同上 )
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( 黄牡丹   同上 )
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( 緋牡丹   同上 )
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( 美しき新緑  同上 )
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( 本堂から  同上 )
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( 五重塔遠景   同上 )
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( 本堂遠景    同上 )
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( 日本一美しいといわれる登廊  同上 )
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( 仁王門:山門   同上 )
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万葉集その六百三十三 (泊瀬の皇子たち)

昔々ある日、皇族の子弟達が泊瀬(はつせ)に集まり宴会を催しました。
場所は都人憧れの地、長谷寺(奈良)近辺。
山々に囲まれ、清流が爽やかな音を響かせている風光明媚な川べりで、
獲れたての鮎や新鮮な山菜を肴に、飲めや歌えやの賑やかな宴。
久しぶりの親しい仲間同士の酒席なので話も大いに弾みます。
「あぁ、酒も肴も美味い!」

席も盛り上がってきた頃合いを見計らって、侍(はべ)っていた一人が立ち上がり
「さぁ、さぁ、余興ですよ」と弓削皇子(天智天皇の子)に歌を1首
献上しました。

皇子が恋に悩んでいるという設定です

「 神(かむ)なびの 神依(よ)せ板に する杉の
     思ひも過ぎず 恋の繁きに 」 
                       巻9-1773 柿本人麻呂歌集

 ( 神なびの 神依せの板に用いる杉。
  その「すぎ」の名のように、私は貴女と何としても結ばれたいという想いを
  断ち切る(過ぎる)ことが出来ないのです。
  あぁ、この恋の苦しみよ )

神が宿るとされる「杉(すぎ)」と「思い過(すぎ)る」とを掛けた言葉遊び。

「(思ひ)過ぎる」は即ち「忘れる」、「諦める」。
「二人の間に越えることが出来ない障害があり、あれこれ思い悩んでいます」
と詠っています。

「神なび」: 神の辺(べ)で神のこもるところ、ここでは神聖な三輪山か。
「神よせ板」:神の降臨を仰ぐために叩いて音を立てる板。

それを受けて別の陪席人が舎人皇子(とねりみこ:天武天皇の皇子)に
2首奉ります。
1首目は女性の返事、2首目は恋の結末。
弓削皇子が悩んでいる様子を見て、愛する女が返事を返す。
そしてその結果は? という寸劇風に仕立てあげたのです。

「 たらちねの 母の命(みこと)の 言(こと)にあらば
    年の緒(を)長く  頼め過ぎむや 」 
                          巻9-1774 柿本人麻呂歌集

( 「恋の成就を妨げている」というあなたのお言葉が、
  もし、私のお母様ことであったなら、そのまま何年もずるずると
  結婚を当てにさせたまま放っておくことなどありえましょうか。
  決してそのようなことはいたしません )

「 愛しているのは私も同じ。
二人の仲を隔てているのは母親の反対。
でも、許しさえ得られれば、すぐにでも結婚出来ましょう。
私が必ず母親を説得致してみせます 」 と

固く誓う清純な乙女。

「母の命(みこと)」: 子の結婚に強い発言力を持つ母親を恐れ
畏(かしこ)んで敬称「命(みこと)」をつけたもの

「言にあれば」: 母の許しさえ得られたならば
「頼め過ぎむや」: 気を持たせたままにしておく

そして、懸命の説得が功を奏して、二人の仲がめでたく認められ、
男が喜び勇んで女性の許に通って行きます。

「 泊瀬川 夕渡り来て 我妹子(わぎもこ)が
    家のかな門(と)に 近づきにけり 」 
                      巻9-1775 柿本人麻呂歌集

( 泊瀬川を夕方に渡ってきて、愛しい人の家に近づいてきた
  あぁ、ついに、彼女に逢えるのか。 )


「 かな門(と)」: 道の曲がり角に面している戸口
           「かな」は曲がっているさま。
           扉や柱を金具で止めたり飾ったりしている立派な門。
           女性が上流階級であることを暗示。

この歌について伊藤博氏は次のように解説されています。(万葉集釋注5)

『 人麻呂の歌に多い、訳文を与えることを強く拒否するような歌である。
  一夕の感動は、本文を何度も朗誦して味わうにしくはない。
  そして、一首を孤立して味わっても、男の心の高鳴りは
  充分聞こえて来るけれども、三首一連の物語的構成の中に置いて味わえば、
  なおさら光彩を放つことが知られよう。
  「家のかな門に近づけり」― その向こうに何があるか。
  すべて万人の理解のうちにある。
  歌は余情を限りなく残して、終わるべきところで終わっている。』

この歌が評価されているのは、宴会での即興歌にもかかわらず二人の作者が
ピタリと息を合わせて物語風に仕立てたこと。
1首目で何故悩んでいるのかと周囲に疑問をもたせ、2首目で相思相愛であること
母親の反対が障害となっていること、そして、3首目で
めでたし、めでたしと結ぶ。
特に、結末に余韻を持たせて読者の想像の世界に誘ったことなどでしょうか。

さらに深読みすれば、最初に歌を奉られた弓削皇子は天武系全盛のにあって
唯一の天智系で壬申の乱で敗れた側。
何かにつけて肩身が狭い思いをしていました。

それを承知している心優しい天武系の皇子たちは
「やがて貴方もきっと日の目を見る時が参りますよ」と励まし、
思いやったようにも感じます。

  「 此の寺の ぼたんや 旅の拾い物 」  几董(きとう:江戸時代中期)

五月の長谷寺は全山牡丹で埋め尽くされています。
山門から上を見上げると、そこには日本一美しいといわれている
三百九十九段の登廊(のぼりろう)。
低い石段の左右に約7千株を越すと云われる色とりどりの牡丹が真っ盛り。
赤、黄、ピンク、紫、白、この豪華絢爛にして雄大な牡丹園は
もと薬草園だったらしく、移植されたのは元禄時代からと伝えられています。

余談ながら長谷寺の参道に沿って民家の裏側に流れているのが初瀬川。
今は川幅が狭く見栄えしませんが、昔は滔々と流れる大川であったようです。

人々は川床で洗濯物や野菜を洗い、上流に堰(せき)を作って清流を
生活用水として引き込み、田畑を潤しました。
初瀬川は人々の生活にとって不可欠な存在だったのです。

その川は山々の間の長い谷を縫って流れていたので、やがて
「長谷川」という名前が生まれ、次第に人の苗字になって
全国に広がっていたそうな。

生活に不可欠な水の恵みに対する感謝の念から生まれた「長谷川」。
その苗字のルーツは「泊瀬川にあり」です。

「 凛として 牡丹動かず 真昼中 」 正岡子規



万葉集633 (泊瀬の皇子たち) 完

次回の更新は5月26日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-05-18 18:15 | 生活

万葉集その六百三十 (曲水の宴)

( 城南宮 平安時代 都の守護神 曲水の宴が今でも開催されている 京都伏見区 )
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( 曲水の宴  城南宮 )
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( 同上 )
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( 曲水の宴図  吉田元陳作  城南宮収蔵 )
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(  羽觴:うしょう 鴛鴦の形をした酒杯の受皿  作歌が終わった人が取り上げ盃を戴く) 
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( 曲水の宴図  京都御所 )
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(  東院庭園  平城宮跡隣り  奈良 )
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( 同上 )
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( 桃と鯉のぼり  万葉ゆかりの古河 茨城県 )
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(  桃の花  同上 )
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万葉集その六百三十 (曲水の宴)

「曲水の宴」とは宮中で催された中国伝来の行事で、庭園の曲がりくねった小川の両側に
貴族たちが座り、上流から流れてくる酒杯が自分の前を通り過ぎないうちに
詩歌を詠んだのち、おもむろに酒杯を取り上げて飲むという優雅な宴です。

時期は旧暦の3月初旬、現在の4月の中頃でしょうか。
桜や桃、椿の花が咲く華やかな季節です。

「 今日(けふ)のため と思ひて標(しめ)し あしひきの
      峰の上の桜 かく咲きにけり 」 
                       巻19-4151 大伴家持

( 今日の宴のためにと思って私が特に押さえておいた山の峰の桜、
 その桜はこんなに見事に咲きました。)

「 奥山の 八つ峰(を)の椿 つばらかに
    今日(けふ)は暮さね ますらをの伴(とも) 」 
                          巻19-4152 大伴家持

( 奥山のあちらこちらの峰に咲く椿、
 その名のように、つばらかに心ゆくまで
 今日1日、ゆっくりお過ごしください。
 お集まりの ますらおの皆様たち。)

      「つばらかに」: ゆったりとした気持ちで

「 漢人(からひと)も 筏(いかだ)浮かべて 遊ぶといふ
      今日(けふ)ぞ 我が背子  花かづらせな 」 
                            巻19-4153 大伴家持

( 唐の国の人も、筏を浮かべて遊ぶという今日のこの日。
 さぁ、皆さん、花蘰(はなかずら)をかざして、
 楽しく遊ぼうではありませんか )

   「花蘰」: 花で編んだ髪飾り

古代中國では陰暦3月最初の巳の日を上巳(じょうし)といい
格別な吉日とされて曲水の宴が行われていました。
この行事が後に、3月3日に固定されて我国に伝えられたと云われています。

我国文献での記録は古く、日本書記 顕宗(けんぞう)天皇元年(485)
「 3月の上巳に後苑にて曲水の宴をきこしめす 」とあります。

ただ、家持が詠った3首の歌は、いわゆる正式な曲水の宴ではなく、
越中国守の館で山桜、椿を眺めながら官吏と共にした宴会でのもの。
というのは、曲水の宴を催すには広大かつ凝った造りの庭園が必要なので、
場所は宮中か大貴族の庭園にかぎられ、一介の地方国守ではなしえない
行事だったからです。

風流貴族の家持は3月3日に歌を詠むという習慣だけを採りいれたようですが、
他に例がなく、上記3首は和歌史上初の記念すべき歌群とされています。

また、747年、大伴家持の歌友、大伴池主も同じく「晩春3日遊覧」と題する
漢詩を作り3月3日の佳き日に、桃の花の紅と柳の緑が美しいことと、
水辺に出て酒を酌み交わす光景を述べています。

以下は訳文です。(漢詩は省略)

「 春の終わりの佳き日は 賞美するによく
  3月3日のさわやかな風景は、遊覧するに値する。
  川に沿って柳の道が続き、人々の色とりどりの晴れ着が美しい。
  桃咲く里は流れが海に通じており、仙人が舟を浮かべている。

  雲雷模様の酒樽で香り高い佳酒を酌めば
  澄酒がなみなみと湛えられ、
  鳥形の盃は人々に詩詠をうながして,幾曲りもしている水に流れる。

  私はほしいままに気持ち良く酔い 陶然としてすべてを忘れ、
  酩酊してところ構わず 座り込むばかりである。」
    
さて、宮中で行われた曲水の宴の歌は、我国最初の漢詩集「懐風藻」に
3編残されており、下記はそのうちの1つです。

三月三日 曲水の宴 

「 錦巌(きんがん) 飛瀑(ひばく)激し
  春岫(しゆんしゅう) 曄桃(えふとう)開く
  流水の急なるを 憚(はばか)らず
  ただ盞(さん)の 遅く来ることを 恨む 」   山田 三方 懐風藻より

                    (春)岫(しゅう) :(春の)峰 
                    曄桃(えふとう): 輝き照っている桃
                    盞(さん):盃

( 錦の彩りをした巌から 滝が激しく流れ落ち
  春にかすむ峰には  桃があでやかに咲いている
  曲水の流れの急なことは 別にいとわないが
  盃の廻ってくるのが 遅いのが残念だ )

我国では民間で古くから流し雛といって木片などで作った人形(ひとがた)に
穢れや災いを託して水辺に流すという禊ぎの風習があり、のち宮中で
6月,12月の末、大祓(おおはらえ)といわれる大規模な行事になります。

このような下地があったので、酒杯を川に浮かべて流すという行事が
中国からもたらされてもごく自然に我国でも受け入れられたのでしょう。

現在、平城京宮跡の近くに当時の庭園(東院庭園)が再現されています。
春日山、御蓋山を借景にし、古代王侯貴族の優雅な生活を彷彿させるような
たたずまいです。
また、京都の城南宮、上賀茂神社、福岡の太宰府天満宮でも毎年、
古式豊かな曲水の宴が催されており、多くの観光客を楽しませてくれています。

※ 京都城南宮の曲水の宴 4月29日、11月3日 年2回開催

  「 曲水の 流れゆるやか 花筏 」       川戸狐舟


            万葉集630 (曲水の宴) 完



           次回の更新は5月5日(金) の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-04-27 15:18 | 生活