カテゴリ:生活( 155 )

万葉集その八十九(商売のはじまり:「市」)

市の歴史は古く西暦280年頃に立った軽の市(奈良県橿原市)が
我が国最古のものとされています。

当時の市は露天で、木陰を確保するために樹木を植えて並木通りにしました。
色々な種類の木が植えられて市のシンボルとなり、海石榴市(つばいち:椿)、
桑市(桑)、餌香市(えがいち:橘)、軽市(槻:けやき)、東の市(杏)などと
呼ばれていました。

 「 紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 
    八十(やそ)の衢(ちまた)に逢える子や誰(た)れ 」
           巻12-3101 作者未詳


( 紫染めには椿の灰を加えるものです。
 海石榴市の分かれ道で出会ったお嬢さん! 
 あなたは何処のどなたですか?
 お名前を教えてくれませんか?)

  八十の衢:諸方へ四通八達に道が分かれる要衢の辻

紫染めの触媒に椿の灰汁(あく)を使います。
この歌では紫を女性、椿の灰を男性の意を含めて、
“混わる”すなわち結婚の誘いかけをしています。

当時は女性の親だけが知っている「本名」と「通り名」があり
本名を男に告げることは求婚の承諾につながりました。

さて女性はどのように返事をしたでしょうか?

 「 たらちねの 母が呼ぶ名を申(まお)さめど
     道行く人を 誰(た)れと知りてか 」 
        巻12-3102 作者未詳


( 母が呼ぶ名前を申さないわけではありませんが、
 でもどこのどなたか分らない行きずりの方に
 そう簡単にお教えすることなど出来るものでしょうか?)

海石榴市は歌垣が行われるところとしても有名で、
性の解放も行われていました。

男にとってはラブハントは当然の事と声をかけたところ
女性は「教えないわけではないが」と思わせぶりに気を引いておいて、
やんわりと断ったところにこの歌の面白みがあります。

ただ当時は求婚に対して一度は断るのが女性の嗜みでしたから
男は何回もトライしたことでしょう。

年の暮れになると注連飾りや正月に用いる品を売る
「年の市」が立ちます。
東京では古くから六大市と称して浅草観音、深川八幡、神田明神、
芝明神、芝愛宕、麹町平河明神が賑わいました。

「 勢ひや ひしめく江戸の 年の市 」 夏目漱石
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by uqrx74fd | 2009-03-08 11:08 | 生活

万葉集その八十二(一夜妻:ひとよづま)

 「一夜妻」とは元々祭りの折に神と聖なる結婚をする舞姫すなわち
 「巫女」をいう言葉でした。


時代と共に「ただ一夜だけ契った女」「七夕の織姫星」「遊女」などを
意味するようになります。

万葉時代の「一夜妻」は男にもこの言葉が使われ「一夜夫」の字が
あてられることもあります。共に「ひとよづま」と読みます。

 「 我が門(かど)に 千鳥しばなく 起きよ 起きよ
       わが一夜妻 人に知らゆな 」 
              巻16の3873 作者未詳


( あらっ もう夜が明けて家の門口近くで沢山の鳥がしきりに
  「オキヨ オキヨ」と鳴いているわ。 
  あなた あなたっ もう起きてちょうだい。 ねぇ起きて。
  そして人に気付かれないよう様にそうっと帰ってちょうだいね )

一時の浮気心から男を引き入れた女が明け方の鳥の声に目を覚まし、
あわてて男をゆり起こしている様子が目に浮かびます。

「当時の生活状態を思わせる傑作」(折口信夫)です。

「 君さらば 巫山(ふざん)の春の ひと夜妻
     またの夜までは 忘れいたまへ」 
                     与謝野晶子


( さようなら あなた 
 巫山の春の故事のように 私は夢の中でのはかない一夜妻でした。
 またの逢瀬は来世ですね。お逢いできるまで さようなら。)
 
「巫山の春」とは楚の襄王が夢の中で巫山の神女と契った
という故事をふまえたもの。

相手は既婚の与謝野鉄幹、所詮かなわぬ恋と思われましたが、
ついに家を出て鉄幹のもとに奔った昌子は「ひと夜妻」ならぬ
正式の妻となりました。

 「 別(わかれ)はの 思ひや 胸の火の車 」 
                   在色(ざいしき)

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by uqrx74fd | 2009-03-08 11:01 | 生活

万葉集その七十六(天覧相撲)

天覧相撲の起源は4世紀前半(推定)、垂仁天皇ご臨席の下で
野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹶速(たいまのけはや)と
取った相撲とされています。(日本書紀)

734年7月7日、聖武天皇の時代に豊作を祈る公式行事として
相撲節会(すまいせちえ)が宮中で行われ、源平争乱で廃絶になる
1174年まで続けられました。

今日の天覧相撲もこのような長い歴史を踏まえたものでありましょう。

万葉集には「相撲を取る歌」はありませんが相撲使の役人が
諸国から力士を選別して都に上る途中18歳の若い従者
大伴熊凝(くまごり)が急病で亡くなりそれを悼んで
本人になり代わって詠った歌が伝えられています。

相撲史を知るうえでの貴重な記録です。

「出(い)でて行(ゆ)きし日を数へつつ今日(けふ)今日と
    我(あ)を 待たすらむ 父母らはも 」  
            巻5の890 山上憶良


( 私が出発した日を、もう何日経ったかと数えながら
  今日こそはと私の帰りを待っておられるであろう父母よ--
  あぁ・・・)

以下は万葉集番外、相撲特集です。

トトン トトン トントトトン 
櫓(やぐら)太鼓の音が風に乗って聞こえてきます。

大相撲秋場所は今やたけなわ。
まずは華やかな「まわし」をつけた力士の勢ぞろいです。

「 相撲取り 並ぶや 秋の 唐錦 」 嵐雪

引き続いて三番勝負

「 舞の海が 三所攻(みところぜめ)で勝つさまを
     眼前に見き 今年のさいはひ 」   
                     高野公彦


 三所攻め: 相撲の手の一つ。
         相手に内股をかけ、他方の足をすくうように投げ抱え
         体を浴びせるようにして倒す

「 土俵際 身を撓(たわ)ませて 堪(こら)へたる
    一途のちから 見るに 圧(お)さるる 」 吉井 勇

いよいよ結びの一番

「 横綱の 敗れたるのち 弓取りに
     出でくる力士 寂しかるらん 」   島田修二


勝った力士は見物客がひしめき合う通路を大歓声に送られながら
謙虚にしかも堂々と引き揚げていきます。

 「 やはらかに 人分け行くや 勝相撲 」 
                      几董(きとう)

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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:55 | 生活

万葉集その六十一(時の記念日)

671年、我国最初の公式時刻を告げる太鼓の音が
都中に響き渡りました。

天智天皇が漏刻(ろうこく)という水時計を設置して、
役人の時間管理を徹底されたのです。

日本書紀によると4月25日のことで今の暦では
6月10日にあたることから大正9年、この日が「時の記念日」
と定められました。

時刻を司る役所は陰陽寮といい、二人の漏刻博士が二十人の
時守を率いて二十四時間体制で水時計の管理をしていたそうです。

当時は一日を十二等分して一単位を時とし(今の二時間)、
さらに時を四等分して刻と呼び、時間の経過と共にそれぞれ
定められた数の太鼓や鐘を打ち鳴らしたのです。

「 時守が 打ち鳴(な)す鼓(つづみ) 数(よ)みみれば
        時にはなりぬ 逢はなくもあやし 」 
                  巻11の2641 (作者未詳)


( 時守が打ち鳴らす太鼓の音を数えてみると、あの方が見えるという
  時間がとっくに過ぎてしまっています。
  もうあの方はいらっしゃらないのでしょうか。
  おかしいですね。一体どうなさったのでしょう )

当時はお寺でも「時香盤」という用具を用いて香の燃え具合で
時刻を測り、役所とは 異なる音色の鐘を撞いていました。

「 皆人(みなひと)は 寝よとの鐘を打つなれど
    君おし思へば 寝(い)ねかてぬかも 」 
                   巻4の607 笠郎女 


( もう亥の刻(午後十時)。
 「お休みの時間ですよ」と鐘の打つ音が聞こえます。
 でも、あなたのことを想うと眠ろうにも益々目が冴えてとても眠れませんわ)

それにしても二十四時中、三十分ごとに太鼓や鐘の音が鳴り響き、
さらに寺の鐘まで加わるのですから、都の人達はさぞかし大変だったことでしょう。

まして「大伴家持との恋に悩む笠郎女は」と人ごとながらも同情いたしたくなります。

  「 時の記念日 知らずに咲いて 時計草 」 轡田 進

註:「漏刻」
     階段状の箱の最上段に水を貯め、その箱の小穴から序々に
     下の箱に水を漏らして最後の箱の水が一定の量に到達した時、
     目盛りが持ち上がって時刻を知らせる仕組み
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:40 | 生活

万葉集その四十一(バックギャモン)

シルクロードの面影を残すサマルカンド。
この地域は古くはソグデイアナと言いソグド人と呼ばれる人たちが住んでいました。
彼らはタクラマカン砂漠、天山山脈、パミール高原という厳しい道を辿り
4,000㎞も離れた唐にササン朝ペルシャの文物を運んで商売に励んでいました。

そして「匂ふがごとき今盛りなり」と詠われた天平時代の頃、これらの文物は
唐を経由して海を渡り奈良の都へ入ってきたのです。
奈良朝の人達はソグド人からもたらされたバックギャモンをすぐろく(双六)と
呼んでいました。

古代の双六は将棋や囲碁に似た盤上で二個のダイスを用いて
白黒十五の駒を敵陣に早く送り込んだ方が勝ちというゲームです。

「 一二(いちに)の目 のみにはあらず 五六三(ごろくさむ) 
       四(し)さえありけり 双六(すぐろく)の頭(さえ) 」

           長意吉麻呂(ながのおきまろ)  巻16の3827


この歌は意吉麻呂が宴席でまわりの人達から目の前にあるサイコロを
歌に詠めと囃されて作った即興歌です。

「サイコロの目は人間の目と違って一から六まであるぞ」と詠んだものですが

一二の後に何故三四五六と詠まないで順序を逆にしたのか未だに定説を得ません。

三四は赤目となっておりこれを強調するため(伊藤博)など色々な説がありますが

三重大学の広岡義隆教授が以下のようなユニークかつ楽しいお話をされておられます。

まずは歌の意訳です。
( 人間には一二と二つの眼があるがサイコロはそれだけではなく五六三とあり
 四(死)まであるよ。 こんな小さな双六のサイコロに。)

< 六面に彫られている目の数を詠んだだけではなく掛詞によって「死」まであるよと
驚いているのです。
あるいはゲーム上でも死(一回休み等の罰ゲーム)があったのかもしれません。
さらに第二句「のみにはあらず」の「ず」と第三句「五六三」の「五六」に
すごろく(ず五六)と題を詠みこんでいます。
歌学では隠題(かくしだい)と呼ぶ題を与えて歌に詠みこませる技法が万葉時代に
あったのです。
さらに この「すごろく」が詠みこまれていることを指摘したのは三重大学の女子大生で
これは大発見でした。>    

                     「万葉のこみち」より要約抜粋

この解釈ならば一二と続き五六三と順序を逆転させたのも必然だったと納得できます。

聖武天皇も双六を好み自らもダイスを振りました。

さらに曲水の宴(邸内の小川に酒盃を浮かべ詩歌が出来ると盃を取り上げて
飲む遊び)の席上、「歌を作らない者は別席で双六をおやりなさい」と
賭金銭三千貫を下賜されたという記録が残っています。

銭三千貫とは現在の金額にすると二億円以上になり、唖然とするばかりです。

バックギャモンのルールは易しく面白い上、二人で短時間でやれるので、
上は貴族から下は庶民まで爆発的な人気を呼びました。

中には借金してまで打ち込み、遂には土地、建物、妻さえも賭け、挙句の果てに
殺人、自殺、一家離散に枚挙暇なしの一大社会問題になり、とうとう689年朝廷は
双六禁止令を出します。

然しながらブームは収まらず再び754年厳罰を科す禁止令を出し、ようやく熱が冷め、
騒ぎがおさまったのです。

その後このゲームが復活するのは明治時代に再度海外から伝わってからになります。
奈良、正倉院には聖武天皇愛用の象牙製のダイス、琥珀や水晶で作られた碁石形の駒、
紫檀製木象眼や螺鈿の双六盤が残されており正倉院展で往時を偲ばせてくれています。

これらの宝物を拝観するたびに天皇が「エイヤァ-」とサイコロを振っている姿が
目に浮かび笑いがこみ上げてまいります。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:20 | 生活

万葉集その三十七(駅伝)

今年も駅伝の季節がやってきました。

駅伝のルーツは古く「大化の改新」にまで遡ります。

646年大化の改新の詔が公布され律令制度が発足しました。

律は刑法、令は行政法で律令を統治の基本にしようというわけです。

それ以前の氏族制社会では各郡がそれぞれ独自の経済システムや

法律で版図を支配していました。

このような政治の仕組みを中国の制度も参考にしながら

中央集権社会、即ちすべてを中央の秩序、価値観に

統一しようと試みたのです。

この制度を円滑に運営するためには、中央や地方の情報を

速やかに行き来させることが必須となります。

即ち古代情報化社会への移行です。
そこで、まず幅6~12mの7つの幹線道路を整備し、

関所を設けました。

更に幹線道路には16kmごとに駅(駅家=うまや)を置き、

馬を常時5~20匹用意して官用に供し(駅馬)、宿泊、給食、

給水設備も完備しました。

又これとは別に伝馬という逓送用の馬も各郡に置き公用の

役人に使わせたのです。

駅馬には鈴を付け(駅鈴)、官の通行証とサイレンの役割を果たし、

リィーン・リンと鈴を響かせながら馬を走らせていました。

次の歌は都の役人が早馬を走らせ、駅家で休息しょうとした時に

うら若く美しい乙女を見かけて声をかけたものです。

「 鈴が音(ね)の 
     早馬(はゆま)駅家(うまや)の 堤井(つつみい)の
     水を給(たま)へな 妹が直手(ただて)よ 」 

                   巻14の3439 作者未詳



「堤井」周りを堰で囲み湧き水などを溜めた水汲み場 

「直手」 手から直接に

( 鈴が響き渡る駅、その宿場で一休みしましょう。

 お嬢さん水を頂けませんか?いえいえコップなんか結構です。
 貴女の綺麗な手に水を汲んでそのまま飲ませて頂戴ね。)

この駅家制度は戦国時代から更に江戸時代へと引き継がれ幕府、

領主の公用に供し、民間の輸送にも用いられました。

それと共に手紙、金銭、小荷物をリレー式に運ぶ飛脚制度が考案され

足の速い韋駄天が日本全国を走り廻るるようにになります。

かくして駅馬、伝馬、飛脚からヒントを得て競技としての

駅伝競走が誕生し、1917年(大正6年)世界最初の駅伝が開催されました。

この大会名は「東海道五十三次駅伝徒歩競争」といい関西、関東2チームが

参加し、4月27日午前11時に京都三条大橋を出発、23区508kmを走り抜き、

翌々日の29日午前11時34分にようやく上野不忍池に到着しました。

今もなお、この競技のスタートの地、京都三条大橋とゴール上野不忍池界隈に

「駅伝発祥記念碑」が立っています。

更に3年後の1920年、長距離選手の育成を目的として「箱根駅伝」

(正式名 東京箱根間往復大学駅伝競走) が誕生しました。

82回目を迎えるこの行事は毎年テレビでも放映され、

新年に彩りを添えてくれています。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:16 | 生活

万葉集その三十六(歌垣)


古代に歌垣という行事があり、東国地方では「かがい」と

よばれていました。

「かがい」とは歌を掛け合い、踊るといった意味です。

本来は豊作を祈ったり、豊年であったことを感謝する行事でありましたが

次第に歌を仲立ちとした男女の求愛の場となり、

性の解放も許されていたようです。

とりわけ筑波山の歌垣は全国的に有名で春秋2回の行事には都から役人が

視察に来たという記録も残っています。

伝説歌人といわれる高橋虫麿呂は当時の様子を次のように語っています

「鷲が住むという筑波の山奥に裳羽服津(もはきつ)というところがある。

その場所にお互い声を掛け合って誘い合わせた男女が多数集まり、

大いに歌い、且つ踊り実に楽しそうだ。

このような晩には俺も人妻に交わろう。俺の女房には他人も言い寄るがよい。

これはこの山を支配する神様が遠い昔からお許し下さった行事なのだ。

何をしても咎めだてしてくれるなよ 」    (巻9の1759の長歌を抄訳)



「男神(ひこかみ)に 雲立ち上(のぼ)り 時雨降り

   濡れ通るとも 我れ帰らめや」 巻9の1760(高橋虫麿呂歌集)


 「男神」 は筑波山西側の男体山

( 男神の嶺に雲が湧き上がり 時雨が降ってびしょ濡れになろうとも

 楽しみ半ばで帰ったりするものか。今夜はとことん交わるぞぉ )

この歌垣という行事は筑波山のみならず日本各地で行われており、

摂津の国(兵庫)の鄙人(田舎者)夫婦にまつわる面白い話が残っています。

摂津の国住吉というところで行われた歌垣に

「人妻におれも交わろう 他人も俺の女房に言い寄るがよい」と

心を弾ませて出かけた夫婦がいました。

当時は夫婦別居の習慣(男の通い婚)でお互い現地待ち合わせです。

鄙人の妻は毎日家業に明け暮れ、汗にまみれた真っ黒な山妻でした。

彼女は今日は歌垣ということで日頃の身なりとは打って変わり、

めかせるだけめかし、顔に厚化粧をし、年に似合わぬ派手な装いに

着飾っていきました。

ところが現地で妻を見た夫は彼女のあまりの変貌とその美しさに

息をのみ且つ驚嘆し

「他人の妻に我は交じらはむ」の勢いはどこへやら。

衆人の前で「どうだ、俺の女房は美人だろう。凄いだろう」と

大いにのろけたということです。

「住吉(すみのえ)の 小集楽(をづめ)に出(い)でて うつつにも

    おの妻(づま)すらを 鏡と見つも」 

            巻16の3808 (作者未詳)

 「小集楽」は歌垣の集い

( 住吉の歌垣の集まりに出かけてきたが、夢ではないか。いや現実だ。

  ピカピカと鏡のように光り輝く女。我が妻ながら大いに見直したぞ。

  どうだ諸君。美人だろう、わが女房殿は!)

ところがどうやらこの鏡のごとく光り輝く妻の姿はあくまで鄙人の夫だけに

映った美しさだったらしく、不必要な厚化粧、ど派手に着飾った妻の姿は

他人から見れば随分と滑稽な姿だったようです。

ところが夫はそのようなことに気が付かずただただ美しいと見て

のぼせ上ってしまいました。

だからこそこの夫婦は「鄙人の夫婦」だったのです。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:15 | 生活

万葉集その二十四(漱石の草枕)


 「山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ、
 情に棹させば流される--」の名文で始まる夏目漱石の草枕。
 

峠の茶屋で主人公と老婆が次のような会話を交わします。

「昔しこの村に長良の乙女という美しい長者の娘がござりましたそうな」
「へえ」
「ところがその娘に二人の男が一度に懸想(けそう)して、あなた」
「なるほど」
「ささだ男に靡こうか、ささべ男に靡こうかと女はあけくれ思い煩ったが、
どちらへも靡きかねてとうとう

 ーあきづけば おばなが上に置く露の けぬべくもわは おもほゆるかもー

 という歌を詠んで淵川へ身を投げて果てました」

余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、
こんな古雅な話を聞こうとは思いがけなかった。(草枕第二章)

今回は万葉歌ー漱石ーシェイクスピアの三題噺です。

 「 秋づけば尾花が上に置く露の 
    消ぬべくも我(あ)れは思ほゆるかも 」 巻8の1564


作者の日置長枝娘子(へきながえをとめ)は 大伴家持が青春時代に交友が
あった女性の一人で、この歌は家持と掛け合いをして「楽しんでいる」ものです。

(秋めいてくると尾花の上に露がおきます。
 その露のように今にも消え果ててしまいそうに
 私はあなたのことが、この上もなく切なく思われます)

話は変わって古代から摂津の葦屋(兵庫県芦屋市)に伝わる妻争いの説話。

「摂津の葦屋に莵原処女 (うないおとめ) という美しい娘がいました。

数多くの男が言い寄りましたが、最後まで望みを捨てずに争った男が二人。
一人は同郷の莵原壮士(うないおとこ) 
一人は隣国和泉の信太壮士(しのだおとこ)

娘は信太に心を傾けていましたが、信太がよそ者なので同村の若者達の
妨害を受け 遂に思い余って入水して果ててしまいました。

すると二人の男も負けじと娘の後を追って果てたのです。
後世の人は哀れに思い、娘の墓を真ん中にして左右に男の墓を建てて
弔ったそうです」

これは万葉時代に有名な説話だったようで、万葉集にも多くの長歌と短歌が残され
ています。
その中からの短歌一首、

 「 いにしえの信太壮士(しのだをとこ)妻問し 
    莵原処女(うないおとめ)の 奥津城(おくつき)ぞこれ」

              田辺福麻呂巻9の1802

 ( はるか遠くの時代の信太壮士がはるばる妻問いにやってきた菟原処女の
   お墓がここなのだよ )

漱石は「尾花が上に置く露の消ぬべくも我」という歌を、日置長枝娘子より深刻に
「命が消える我」という意味に置き換え、更に、この歌とは直接関係がない
万葉集に伝わる説話を、場所と名前を変えた上で
 (草枕の場所は熊本県小天「おあま」) 
新しい悲恋物語として茶屋の老婆に語らせました。

最後に話は大きく三転します。

ロンドンのテイト・ギャラリーに ジョン・E・ミレー作の「オフイーリャの面影」
という絵があります。
シエイクスピァ作 「ハムレット」の女主人公の入水の場面です。

漱石は、ロンドン留学中に見たこの絵に強烈な印象を受けました。

その結果「草枕」で、峠の茶屋の老婆の悲恋物語に、万葉集・シェイクスピア
を想い、 万葉説話の菟原処女とオフイーリヤの入水場面とを重ね合わせて、
主人公に春の夜の夢を見せるという幻想的な場面を登場させたのです。
(草枕第三章)

ここに万葉集の伝説の美少女は、漱石の「草枕」によってはるか彼方の
ハムレットのオフイーリャと結びついたのであります。

余談ですが、アメリカで発生した第2のハリケーンの名前はオフイーリャ。
余程ハムレットの好きな人が名付けたのかしらん。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:03 | 生活

万葉集その十七(良寛の歌の手本は万葉集)

良寛さんといえば子供達とひねもす手鞠つき。

歌もその春風駘蕩とした人柄を反映したものが多く、漢詩、和歌あわせて
2000もの作品、さらに素晴らしい「書」を残しています。

「今ここに生きる」「無欲」という道元の「正法眼蔵」の教えを忠実に実践した
清貧の人でもありました。

本が買えない良寛は人から借り、要点を書きとめ、その恐るべき記憶力で
心にかなった歌や表現をたちまち暗記し自由自在に使ったといわれています。

万葉集については「良寛禅師奇話」で
「歌を学ぶには万葉がよろしい。古今はまだ良いが新古今以下は読むに堪えず」
と明治の正岡子規を彷彿させるような歌論を述べています。

今回は良寛が如何に万葉集を駆使して歌を作ったか、所謂「本歌取り」のお話です。

(注): 本歌取りとは和歌、連歌などを意識的に先人の作の用語などを
     取り入れて作る事。
     背後にある古歌(本歌)と二重写しになって余情を高める効果がある。


まずは有名な手鞠歌と万葉の歌をご覧下さい「上段:良寛、下段:万葉集」


 「霞たつながき春日を 子供らと 手まりつきつつ この日暮らしつ」 良寛

    「霞たつながき春日を かざせれど いやなつかしき梅の花かも」

      巻5の846 小野氏淡理(おのうじのたもり)


 (霞立ち込める長い1日。ずっと髪に梅の花をかざしているが益々心が惹かれる事よ)

 更に、良寛歌最後の部分「この日暮らしつ」 も

  「春の雨に ありけるものを 立ち隠(かく)り 

      妹が家路に この日暮しつ」   
                巻10の1877 作者未詳
 

  から取っています。

 つまり、初めと終わりは万葉集からの引用で、良寛のオリジナルは
 「子供らと手まり つきつつ」だけながら全く新しい歌に生まれ変わっています。

 後の歌の意

 (濡れてもどうという雨でもないのに、木陰で雨宿りして、
  いとしいあの子のところへ行くのが遅くなってしまった。
  「春雨だ、濡れて参ろう」とやれば良かったなぁ。)

 次は風雅の友でもあり、有力な後援者でもあった阿部定珍(さだよし)が訪ねてきたが
 話し込んでいるうちに日が暮れてしまい慌てて帰ろうとする定珍を引きとめ、又帰路
 を気遣かった歌。

 冒頭の「月読み」とは月を数えるという意味で月の形で日数を数える事に
 基づくもの。転じて月のこと。

 「 月(つく)読みの 光を待ちて帰りませ 山路は栗のいがの多きに 」 良寛

     「月(つく)読みの 光に来ませ あしひきの 山きへなりて遠からなくに」

      巻4の670 湯原王(宴席で湯原王が女の立場で詠ったもの) 
 

  山きへなりて=(山経隔て) 山がへだてて
 
 (月の光をたよりにおいで下さい。山が隔てて遠いというわけではありませんのに)

 他に数多くの本歌取りがありますが、このようにTPOに応じて即座に自分の歌に取り
 込めるという事は万葉歌を完全に自家薬籠中のものにしていたと思われます。

 最後に、良寛晩年の恋について少し触れてみたいと思います。

 相手は美貌の貞心尼。長岡藩士の娘。18歳で医師に嫁ぎ離婚した後23歳で出家。
 良寛70歳、貞心尼30歳の時に出会い良寛74歳で没するまで歌物語を続けました。
 初めての出会いに、

「君にかく あい見ることの嬉しさも まださめやらぬ夢かとぞ思ふ」 (貞心尼)

「白妙の衣手寒し 秋の夜の 月中空(なかぞら)に澄み渡るかも」 (良寛)
 

なんとも初々しい歌、

 袖のあたりが肌寒いので驚いて外を見れば、秋の夜の月が早や天心に輝いており
 とうとう二人は明け方まで話し合っていたというのです。

 この時から4年の間、良寛は生涯最良の日々を過ごしたのであります。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 09:56 | 生活

万葉集その十六(鰻召しませ)

7月28日は「土用丑の日」

土用は土の気が強まる時で本来は春夏秋冬の四季それぞれの終盤
18日間を言います。
冬なら厳寒、夏なら猛暑が続き、春秋は季節の変わり目で
健康上用心が必要な時期とされていました。

丑というのがこれまた危ない。

方角で云うと東北にあたり丑寅といえば「鬼門」「丑三つ時」と言えば
お化けや幽霊がさまよう時間です。

災害や悪霊は全部鬼門から入ってくるといわれており,丑の日には
災害が起こる可能性が高いとされていました。

特に夏の土用は酷暑が続くと体力が消耗しやすく、
古代人にとってこの期間を無事に過ごすのは大変なことでした。

夏の土用をどのようにして乗り切るか?

丑の方角の守護神は玄武という黒い神様です。
そこで「黒いものを食べるという事におすがりしょう」となりました。
鰻、鯉、泥鰌、鮒、茄子、などを食べる習慣はこのようにして起こったのです。

今回は鰻にまつわる古代から近代までのお話です。

 「 石麻呂(いわまろ)に我もの申す 夏痩せに

      よしというものぞ 鰻(むなぎ)とり食(め)せ 」

         巻16の3853 大伴家持


石麻呂は本名を吉田連老(むらじのおゆ)といい家持の親友で
痩せの大食い老人でした。

痩男に頑丈な男を連想させる石麻呂というニックネームをつけたところにも
この歌の面白みがあります。

( 石麻呂さんよ どうしてあんたはこんなにガリガリに痩せているの?
  夏痩せには鰻がいいというから、鰻でも捕って食べなさいよ )

当時は鰻を丸ごと火にあぶって切り、酒や醤 (ひしお 現在の醤油の原型)で
味付けしたものに,山椒や味噌などを付けて食べていました。
現在のような蒲焼となるのは江戸時代の中期からであります。

時代は下って江戸時代。

俗説によると有名な蘭学者である平賀源内があまり流行らない鰻屋に
「お知恵拝借」と依頼され「今日は土用丑の日」と看板に大書して
店頭に掲げたところ,大評判になり江戸中に広まったと伝えられています。

それでは、お江戸のお笑を一席。( 小泉武夫著 食べ飲み養生訓 より)

『 鰻が買えない男が匂いだけでも効くのだと言って握り飯だけ
 鰻屋の前に持っていき、蒲焼の匂いを嗅いで鰻を食ったつもりで
 握り飯をがっついていました。

 それを見つけた鰻屋が頭にきて「匂いの嗅ぎ代 30文いただこう」と
 請求書を突きつける。

 しかし役者が何枚も上のケチな男は堂々と小銭で30文、
 ジヤラジャラと財布から取り出し、思い切り地面に叩きつけて 
 「鰻を食わせたつもりで金を取るなら金をもらったつもりで
 銭の音を聞いて戻らっしゃい」
 といって鰻屋を追い返したそうであります。』

 さて近代の歌人齊藤茂吉は極め付きの鰻好きでありました。

 彼は会食する時にすばやく他人の鰻と自分の鰻の大小を見比べて、
 時には「取り替えてくれないか」と相手にねだる事もあったと
 齊藤茂太さんなどが書いています。

 「 ゆうぐれし 机の前に ひとり居(お)りて

           鰻を食ふは 楽しかりけり 」 

               齊藤茂吉 (ともしび)より

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by uqrx74fd | 2009-03-08 09:55 | 生活