2016年 08月 25日
万葉集その五百九十五 (萩の恋歌)

( シロハギ )

( ダルマハギ )

( 牡鹿 雌鹿 奈良公園 )

その昔、大和に都があった頃、野にも山にも萩が溢れるほど咲き乱れ、
鹿がその間を胸でかき分けながら歩いていたそうです。
そのような様子を万葉人は「萩は鹿の花妻」「鹿の妻恋」と、
自らの妻や恋人と重ねて詠いました。
「 わが岡に さ雄鹿来鳴く 初萩の
花妻とひに 来鳴く さ雄鹿 」
巻8-1541 大伴旅人(既出)
( 我家近くの丘に雄鹿が来て鳴いているなぁ。
萩の初花を自分の花妻だと慕って鳴いているのだろうよ。)
「花妻」!
なんと美しい言葉でしょうか。
この旅人の感性豊かな造語は1300年を経て、今なお使い続けられているのです。
一説によると「さ雄鹿」の「さ」は神聖を意味し、
「萩を聖処女、鹿を神と見たてたもの」とする解釈もあります。
国文学者、森朝男氏は、
「 萩に神の依代、花妻は巫女的なものを想定。
つまり初萩は訪れる神を待ち迎える聖処女、
訪なう鹿は神に擬せられる」と述べておられます。
然しながら、果たして旅人にそこまでの意図があったかどうか。
この時期、作者は最愛の妻を亡くしたばかりでした。
咲き誇る萩を眺めながら瞼を閉じると美しくも懐かしい面影が目に浮かぶ。
折から妻を求めて泣く鹿の悲しげな声。
それは己自身の叫びでもある。
「おーい、お前、今どこにいるのだ!」
やがて鹿は花の中に埋没して消えてゆく。
もう追ってもどうにもならない。
そんな心情を詠ったように思えてならないのです。
「 秋萩の 散りゆく見れば おほほしみ
妻恋(つまごひ)すらし さを鹿鳴くも 」
巻10-2150 作者未詳
( 秋萩が散ってゆくのを見て雄鹿がしきりに鳴いている。
妻を恋しがって気がふさいでいるのだろうよ。)
この歌も萩を鹿の妻とみて「妻恋」と詠っています。
萩が散るので鹿が意気消沈し、恋しがってしきりに鳴いている。
作者は萩の落花を見ているとき、鹿の鳴き声が聞こえてきたので
自分自身も妻が恋しくなったのでしょうか。
しみじみとした感傷が感じられる一首です。
おほほしみ:心中晴れやらず、ぼんやりしたさまをいう形容詞
「 秋萩の 上に置きたる 白露の
消(け)かも しなまし 恋ひつつあらずは 」
巻10-2254 作者未詳
( 秋萩の上に置いている白露がやがて消えるように
私なんか消えうせてしまった方がましなのではないかしら。
こんなに恋焦がれ続けてなんかいないで )
現代風にいえば
「もう死にたいくらいあの方が好き
でも、相手は一向に靡いてくれない。
いっそのこと,露のように消えてしまいたい 」
といったところでしょうか。
万葉集で詠われている萩は142首。
そのうち「露」と取り合わせたものが34首もあります。
萩の花や枝葉に置かれた宝石のように美しく光る白露に美を見出した
万葉人の繊細な観察眼と日本的な美意識です。
なお、露を 「置く」と詠まれたものは花の最盛期、
「競ふ」は花芽か咲きかけの直前。
( 開花を促す露、いやよいやよと恥じらう萩。
その様子を「競う」と表現。)
「負ふ」は露の重みを背負う意で晩秋の萩を散らすもの。
と使い分けられており、細やかな神経にも感心させられます。
「 わがやどに 咲きし秋萩 散りすぎて
実になるまでに 君に逢はぬかも 」
10-2286 作者未詳
( 我が家の庭に咲いた秋萩、その萩が散り果てて実を結ぶようになってしまった。
そんなにも長い間、私はあの方にお逢いしていないのですよ。
一体私のことをどう思っているのでしょうか。 )
萩は実を結んだのに私たちの仲は結ばれないと嘆く女。
今まで頻繁に通ってくれていたのに、心変わりして他の女に情を移したのか。
ただただ待ち続ける純情な乙女です。
万葉集で詠われている萩は植物中でトップ。(142首)
貴族に人気があった梅の119首を大きく引き離しています。
万葉人はなぜかくも萩を好んだのか?
切っても切ってもすぐに芽生えるその強い生命力にあやかり長寿、繁栄祈る。
紫の高貴、白の清純な色。
更に実用。
というのは、
萩の葉は乾燥させて茶葉に、実は食用、根は婦人薬(めまい、のぼせ)、
樹皮は縄、小枝は垣根、屋根葺き、箒、筆(手に持つ部分)、
さらに馬牛などの家畜の飼料など、多岐にわたって利用され、
万葉人の生活に密着した有用の植物だったのです。
「 ほろほろと 秋風こぼす 萩がもと 」 召波(しょうは:江戸中期)
万葉集595(萩の恋歌)完
次回の更新は9月2日です。
▲ by uqrx74fd | 2016-08-25 19:30 | 心象